柴原浦子と近代日本

藤目ゆき氏の『性の歴史学』と題されてた本を読んだので、感想を書きたい。1997年出版。不二出版。

性愛、出産、家族といったものは、プライベートにして自然な領域とされ語られず思考の対象にならなかった。しかし実際はそれ自体が、近代によってあたらしく生み出されたといっていいほどの大きな変容を受けているものなのだ。

近代とは何か?近代というものが耐え難いほどの大きな痛み〜裂け目(slits)に向き合うことであるなら、それを端的に示すのは次のようなエピソードだろう。

「洋の東西を問わず、(性病)診断は、これを強制される女性にとって甚だしい恥辱だった。」
「英国植民地のインドでは、1880年代に性病検診の屈辱に耐えかねた女性たちが何千人も逃亡し、逃げ延びる先もなく餓死に瀕したといわれる。
しかし、性病検診の強制を性病予防という「文明」の顕現とみなす人々は、これを歓迎し日本に導入した。」
「「衆妓たとえ如何様ありても、この治療は受けがたしとて或いは声を揚げて泣き、あるいは遁れんとして狂走せしが、一室に鎖したれば、一人残らず改められ、大蛇の口を遁れたるものなかりしとぞ」という暴力的な実施が始まる。
官憲が立会い、衆人監視のもとで下半身をさらされ、またなれない医師が怪我をさせたり、実験材料にされたりすることもあった。逃亡する者、検査日だけ姿を隠す者、さらには自殺する女性もいた。」(p91)

わたしたちは約150年ほど前から近代化を受け入れた。幼い頃から小学校に通い、先生の言うことを聞き理解し覚えていくように自分の身体を変えていく。
公娼制度の導入においては、近代と身体はもっと劇的に出会う。女性のプライバシーの核心とされる性器に、近代の光をあて、注視する行為は、近代というものにはじめて出会う無学な女性たちにとって非常に暴力的なものであっただろう。

そういうふうに、近代公娼制度は日本に導入されていく。
公娼制度はナポレオン時代にパリで始まったもの、軍隊の慰安と性病の管理を基軸とする国家管理売春の体系である。(p409)
日本軍慰安婦制度との対比において、公娼制度は合法的な自然な市民に開かれた制度であるかにイメージされることが多い。しかしそれはまったく違っており、公娼制度もまた基本的に国軍のための制度である。
「日本の公娼制度は明治新政権の下で近代的に再編され、人民収奪体系として機能し、日本の下層階級の女性と植民地の女性たちを組み入れて発展していく。遊郭は地域に巨額な金をおとし商業者を潤し、国家とその地方庁は娼婦からの直接的間接的徴税で莫大な財政収入を獲得でき、軍隊は買春によって性病にかかる心配なく「慰安」される。」(p410)これが近代国家における公娼制の重要性である。

1880年群馬県のクリスチャン民権家によって始まった廃娼運動は91年「廃娼令」を勝ち取る。全国には波及しなかったものの日本キリスト教婦人矯風会などを中心とする廃娼運動は粘り強く続いていく。
しかし、藤目は村上信彦らの先行者と異なりこうした運動への評価は低い。
一つは、「群馬廃娼後の娼妓たちの多くは、他府県で娼妓を続けるか、県内で類似の接客業に転業している」(p101)
もう一つ藤目の強調するのは矯風会婦人活動家たちが持っていた「醜業婦」観である。日本では本来、「売春に従事した女性が「消すことのできぬ烙印をおされるようなこともなく、したがって結婚もできるし、そしてまた実際に婚姻」した。婚姻外の性関係を罪悪視し、「純潔」でない女性に汚名をきせ排除するというのは西欧的価値観」である。しかるに日本の廃娼運動家はこの価値観をしっかり受容した。娼婦はその存在自体が悪であるという窮極の差別に繋がりうるものであり、娼婦たちの救済には役立たない。

このような状況のなかで、柴原浦子というひとりの女性を、藤目は肯定的に大きく取り上げている。

柴原浦子 1887年生 広島県の田舎で生まれ、看護婦の資格を取る。医師と結婚するが間もなく離婚。看護婦に比べ生活の安定を得られる職業である産婆の資格を取る。1910年頃から、出産時の死亡率の改善のため「新産婆」の普及が国策となっていた。
広島県の産婆なき村で開業し、極貧の家庭のためにも献身的に仕事をした。また衛生思想の普及にも努めた。
1920年頃から、「婦人の徳の涵養」、婦人選挙権、産児制限運動などにとりくむ各種婦人運動が盛んになった。
当時の貧しい母親の多くは子沢山に悩んでいた。彼女たちに寄り添おうとして柴原は産児制限運動に邁進する。
1930年、そうした運動の中心地の一つ大阪(天王寺の南方、釜ヶ崎、飛田の近く)に、産児制限の相談所を彼女は開設、相談者が殺到する。貧困による産児調節を求めて為政者とも対立する。
1931年満州事変勃発以降、「産めよ殖やせよ」がスローガンになり、産児制限運動への弾圧も厳しくなる。困難に陥った女性を助けようとする柴原は、非公然の中絶を助けることもあった。お上品な正義感や時代の流れなど気にせず自分が取り組むべき事象にたちむかった柴原は、1933年堕胎罪で起訴され有罪となる。執行猶予中もなお彼女は行為を改めず、1935年再び検挙、1年5ヶ月の実刑判決を受ける。
戦時期は奈良県大和小泉の被差別部落に入り、助産、避妊指導、妊娠中絶を引き受けた。
しかし彼女は「天皇様のためにやっている」と語っていた。どんなに貧しくてもみな「天皇様の赤子」であり平等なのだ、という信念である。

私は彼女の生き方を知って感心した。一方で産児制限や階級闘争についての数限りない難しい論争がある。そのような理論や論争に生涯を傾ける値打ちがあるのか。正しい理論は正しい生き方を保証しない。権力の弾圧に負け何らかの転向を余儀なくされるだけだろう。一方で左翼でなかった柴原は、敗戦までの時期、貧者の生殖の困難という問題を救うという目的を弾圧にもめげず貫いた。
正しい生き方をしたいとは私は実はあまり思っていない。しかし何が正しいのか。正しい思想を獲得することより大事なことがある、という結論にもなる。柴原の生き方を素直に考えると。
柴原浦子は藤目氏以外に取り上げる人もおらずほぼ忘れられているようだが、偉大な人物としてもっと知られるべきではないかと思う。

さてもうひとつ、藤目が肯定的にとりあげているのは、次の運動だ。
戦後1956年、売春防止法が成立の直前、赤線で働く女性たちは法案が通ると、今よりひどい違法なヤクザなどに支配される(青線、白線)に移行せざるを得ないことをおそれ、法案に反対していた。東京都女子従業員連合会を作り4500人が加入した。生業を一挙に違法化し奪う以上、更生資金を要求しようとしたのだ。しかしその要求は相手にされなかった。その国家の態度の背後には、売春婦は醜業婦であるとする廃娼運動女性たち自身の偏見もあったと藤目は指摘する。

1991年金学順のカムアウトからいわゆる慰安婦問題は始まった。日本のフェミニストたちが慰安婦問題を知らなかったはずはない。(同じような名前である従軍看護婦体験者たちが一番良く知っていたはずだ。でも語っているのは見たことがない。)
かって廃娼運動家たちは「大日本帝国の海外膨張を疑わず「醜業婦」を取り締り軍隊を保護せんとする志向と娼婦に心を寄せるよりも妻・母として夫・息子を「誘惑する」娼婦に反感をいだく心性」をもっていた(p323)。戦後国会議員などになっていった彼女たちの後輩たちの心根もそれほどは、変化していなかったのではないか。それが「慰安婦」に対する46年間の沈黙につながったのではないか。まあそのような推測も少しはあたっているであろう。

『性の歴史学』分厚く地味な本だが、いまだ「慰安婦問題」から抜け出せない日本を根底から考える上でも読んでおきたい本である。

「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」

河村発言などによって「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれて、以降いろんな考察がでています。
小田原のどか氏による長い文章を読んでみます。「私たちは何を学べるのか?「表現の不自由展・その後」

問題の核心を、「中止に至った問題の諸相を単純に腑分けすれば、政府高官からの介入、市民による抗議、そして脅迫があると考えられる。」
「文化芸術基本法の理念に反する行為である。脅迫や、政治家による公金を理由にした介入などの暴力を決して許してはならない。しかし、河村たかし名古屋市長の来歴を見れば、《平和の少女像》を批判する発言が出てくることはごく「当然」なのである(*1)」
ととらえる。

☆ 河村名古屋市長は、政府高官ではない。
なぜそういう誤記をするのか。タブー意識が働いているのではないか?

☆ 河村市長が、慰安婦像を「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」として批判し、この発言を日本人の少なくない部分が肯定的に受け入れた。これが今回の事態の核心だと思われる。
保障されなければならない「表現の自由」なるものが侵された、と捉えるのは浅いのではないか?
行政の長に過ぎない河村氏が、「日本人の、国民の心」というのものに介入発言をしそれにかなり成功していること、これに対して、アートの人も「心」というフィールドにおいて、真正面から敵対していくことが必要だと思われる。

☆ 「《平和の少女像》に反感を抱く人々のなかには、像の建立と、政府間の慰安婦問題には直接的関係がないということを知らない人も多いのではないかと想像する。この構図を周知させることが、像への悪感情を和らげることにもつながるだろう。」
反感を抱く人は存在する。で反感に権利を認めるべきか。
私は権利はないと考える。そもそも「少女像への反感」は2015年安倍首相側からは「大きな汚点」と考えられた「謝罪」に対して、その謝罪の意味をごまかすために「大使館前少女像」に怒ってみせた、という政治的策動に端を発したものである。今回、河村市長が強い口調で断言的に怒ってみせた効果として、《平和の少女像》への反感が事後的に生まれたのである。
それに対して、「反感」というものを自然化し、あるいは「現状の展示場を見る限り、表現の問題ではなく政治の問題としてのみ焦点化されている印象が非常に強い」として作家〜展示者側の問題が気になってしまうのは、「少女像」をめぐる感受性の政治学の激動を完全にとらえそこなっていると思う。
そもそも、「少女像」が作られたのはソウル水曜デモが何十年も継続していることへの驚きからである。水曜デモは70年以上前の日本軍の暴虐に抗議しているのではない。河村発言を受け入れるような現代日本人の半端な被害者意識によって、自分たちの告発が聞き届けられないことへの抗議である。

☆「たとえ歴史認識のすりあわせが難しくとも、」:慰安婦問題については安倍氏も「当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している。」と認めている。この認識からは、少女像が「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」である、はでてこない。少なくとも私にはその理路が分からない。だから私はなん人もの人にそれを聞いて回ったが誰からも答えはなかった。
河村氏がいったいどのような歴史認識に立脚しているのか?それは小田原氏は確認している。「2007年、自民、民主両党の靖国派国会議員らが中心となり、米紙ワシントン・ポストへの意見広告「THE FACTS」を出した」それを読んだようだ。
河村氏はこうした認識に基づき、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」という感受性領域に対する傲慢な介入をした。

☆ 「そしてまた、より普遍的に考えれば、女性の人権が踏みにじられた過去を真摯に省みて、二度と繰り返さないという点では対立を超えることができるはずだ。」
ここにあるのは「政治性」というものに囚われることは、対立の激化につながる。「政治性」というものを脱却していけば「対立を超えることができるはずだ」といった構図、であろう。
現在の問題ではなく過去の問題だと捉えれば、「対立を超えることができるはずだ」と考えたい。
しかし、水曜デモが27年間、ある意味で無駄に積み重ねられざるをえなかったのは、つまりキム・ソギョン/キム・ウンソンが連帯を捧げようとしたものは、過去の問題ではない。「THE FACTS」のような歴史修正主義言説を生み出してしまう心の弱さという現在性に対する戦いである、と私は理解する。
河村氏たちというものは現在、日本において膨大な存在感として存在している。したがって、「愚か者」「テロリスト予備軍」と断じるだけでは終わらせることはできない。
河村氏たちすらも包括しうるような広大な慈悲といった立場に、究極的には到達すべきなのかもしれない。しかし、アートの立場は宗教の立場ではない。あえていうならば、27年間の河村発言に到る「歴史修正主義」発言の総体に憎悪でもって肉薄することこそが、想像力の戦いとしてなされるべきことであろう。

☆ 「憎悪」「対立」「正義」といったものは、アートとは別の領域にあるべきものだ、という思い込みはアートの弱体化にしか繋がらない。

☆ 小田原氏は、広島、長崎の資料館での加害/被害展示のあり方についてなども、持続的に考えておられる。2つの原爆資料館、その「展示」が伝えるもの

☆ 小田原氏は、天皇が「一度おばあさん[元慰安婦]の手を握り云々」という、文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長発言については、こう書いている。

これに対し日本政府は「不適切な部分がある」として謝罪と撤回を求めている。しかし政府は「不適切な部分」について、それが昭和天皇を戦争犯罪の主犯と呼んだことにあるのか、それとも上皇の謝罪を望んだことなのか、具体的には明らかにしていない。平成から令和に変わり「新しい時代」などとかまびすしいが、いったいどこに新しさなどあろうか。日韓のあいだには、変わらず深い溝が横たわっている。(北緯38度線の分断から見えるものとは何か?

静かだが、言うべきことは言い切っている。
今回の文章の河村発言については、明らかにトーンが変わっている。

日韓の請求権協定の解釈について

去年10月に韓国大法院は、強制動員被害者に対する賠償を新日鉄住金に命ずる判決を出した。以後、日本政府によるそれへの反発とその影響は、むちゃくちゃ大きなものになっている。
ところが、この日韓請求権についての問題は、法的にとても煩瑣な議論でありとても難解である。
弁護士山本晴太氏の文章二つを参考に、下記にまとめてみた。不出来ではあるがよかったら読んで下さい。
・・ 日韓請求権協定解釈の変遷と大法院判決
・・ 日韓両国の日韓請求権協定解釈の変遷

日韓請求権協定第2条では、「両締約国およびその国民の財産、権利および利益ならびに請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたこととなる」となっています。

1、この問題がトラブルになっている原因は、それとはまったく違う解釈を日本政府が繰り返していたことにあります。
「当事者個人がその本国政府を通じないでこれとは独立して直接に賠償を求める権利は、条約によって直接影響は及ばない」
と1965年の以前から日本政府は主張していた。
広島原爆被爆者、シベリア抑留被害者の日本政府への補償請求において。

2,広島の被爆者は、アメリカ合衆国ないしトルーマン大統領に対して損害賠償請求権を持っていたのに、これをサンフランシスコ平和条約で日本政府が消滅させてしまったとして、アメリカからの賠償にかわる補償を日本国に求めたのです。
これを回避するために、「サンフランシスコ平和条約に書いてある『放棄する』とは個人の権利を消滅させるものではなく国の権利である外交保護権を放棄しただけだ」という説が日本政府によってとなえられた。

3、1965年の日韓請求権協定についても、朝鮮半島に財産を残してきた日本国民から訴えられると困るので、「個人の請求権の消滅ではない」と説明した。

4、ところが1990年代から、韓国、中国の被害者が日本の裁判所で続々と裁判を起こし始めた。
2000年頃になると、「消滅時効を援用すると、「いや、国側が資料を隠しておいて、今さら時効というのは信義則に反する」。それから国家無答責といって、明治憲法のもとでは国家は不法行為責任を負わないと考えられていたのですが、「それは旧憲法下の解釈であって、現憲法下で適用できる解釈ではない」などというように、論点ごとに国に不利な判断が次々に出始めて、ついに国が敗訴する」ことにまでなってきた。

5,この状況下で国は裁判での主張を急に変えてきた。「実は1965年日韓請求権協定で解決済みだ」と。しかし最初それは裁判所も採用しなかった。しかし、2007年4月27日の最高裁判決(西松建設事件)、国の新解釈を受け入れた。「サンフランシスコ平和条約の枠組み」というものがあり、それが平和条約に参加していない中国にも適用されるとする、理解不能の論理によって。

『サンフランシスコ平和条約の枠組み』論とは、平和条約締結後に混乱を生じさせる恐れがあり、条約の目的達成の妨げとなるので、『個人の請求権』について民事裁判上の権利を行使できないとするという。日中共同声明や日韓請求権協定も『枠組み』に入るものとして、『個人の請求権』を裁判で行使できないものとする、というもの。

6,「ここでいう請求権の『放棄』とは,請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく,当該請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるにとどまるものと解するのが相当である。」と述べました。つまり、日中共同声明によって被害者個人の請求権が消滅することはないが、その請求権を裁判で行使することができなくなったという。
非常に難解である。

7,「個別具体的請求権について、その内容などにかんがみ、債務者側において任意の自発的な対応をすることは、妨げられない」だけが、唯一の希望として残った。この考えにとって、原告たちは西松建設と和解を成立させた。

8,したがって、同様に強制動員問題当事者たちと、企業また日本政府とが和解を成立させることは、日本政府にその意志があれば容易なことだ、ということになる。

9、90年代から慰安婦問題が大きく取り上げられるようになり、河野談話、アジア女性基金ができたが、日本政府は元「慰安婦」たちとの和解を達成することができなかった。

10.2005年盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権が「韓日会談文書公開官民共同委員会」を設置。
「韓日請求権協定は日本の植民支配の賠償を請求するためのものでなく、韓日両国間の財政的、民事的債権・債務関係を解決するためのものであり、したがって日本軍慰安婦問題など日本政府や軍など国家権力が関与した反人道的不法行為に対しては請求権協定によって解決されたと見ることはできず、日本政府の法的責任が残っている。サハリン同胞問題と原爆被害者問題も請求権協定に含まれていない」と明らかにした。
日本軍慰安婦・サハリン同胞・原爆被害に対する賠償請求権は未解決という点を明確にした。参考

しかし強制動員被害者については、請求権協定資金の5億ドルの計算の中には、強制動員被害者に対するものが総合的に勘案されている、とした。
ただし、山本晴太氏によれば、これは個人の請求権が消滅したという意味ではない、とのこと。

11,2012年5月24日の大法院判決は画期的な判断を示した。
「日韓請求権協定はサンフランシスコ条約を受けた財政的問題を精算するための条約であって、日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や植民地支配と直結した不法行為による損害賠償請求権は請求権協定の対象外だというのです。これまでは外交保護権放棄なのか、個人の請求権なのかという話をしていたら、ここで「いや、そもそもこの協定は関係ないんだ」という判断を打ち出したということです。この協定の締結過程で日本は植民地支配の不法性を一切認めなかった。不法性を全く認めず、植民地支配の性格について合意がないまま結んだ協定で、どうして不法行為による損害賠償請求権が解決されるのかという理由です。」

12,この判決は画期的だったが、日本ではほとんど報道されなかった。
この間、日本では河野談話の約束は果たされず、2014年朝日新聞が不必要な「謝罪」をし、日本国民の意識は嫌韓に傾いていた。

13,2018年11月の大法院判決も2012年のものを踏襲したもの。
安倍晋三首相は「国際法に照らしてあり得ない判断」だと批判した。そして、本来被害者と民間企業の間の問題であるにも関わらず、1965年の協定で解決済みを振りかざして韓国政府に圧力を掛けようとした。
そして2019.8.28、輸出手続きで優遇対象とする「ホワイト国」から韓国を除外した。大きな国際紛争になってしまったわけだ。

14,この間日本政府は「1965年の協定で解決済み」が、絶対的な真実であるかのように大宣伝しており、マスコミに出てくる評論家もそれに従っているようだが、そこまでは言えないことは確かだろう。

真如とは

6世紀前半に中国で作られたらしい『大乗起信論』
これについてちょっとメモしておきたい、と思いながらできずにいた。なお、原文と書き下し文は下記にある。
大乗起信論

石井公成氏の『東アジア仏教史』によれば、インド仏教では、「心」は、揺れ動くものであり制御すべきものとされていた。(p96)

ところが、大乗起信論では、大乗とは「衆生心」(人々の心)にほかならないと断言してしまう。(岩波文庫p177)
(摩訶衍(大乗)とは) 所言(いわゆる)法とは、謂わく衆生心なり。

「本書では、「大乗」(摩訶衍)について「衆生の心がそのまま大乗である」と述べ、「一般平凡な衆生の心に仏性がある」という「如来蔵」思想を説き、「大乗起信」とは、これへの信仰を起こさせるという意味である。

本書は、いわゆる般若経などに説かれる自性清浄心と、いわばその発展思想である「如来蔵説」を述べ、これを「本覚」と呼んでいる。」ウィキペディアからごく一部引用してみた。

さて、大竹晋氏の『大乗起信論成立問題の研究―『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』という分厚い本を読んでみた(一部)。図書館から借りて。

「真如」というのが、この本の中心概念、ほとんど万能的に振り回される概念である。
ところが、この概念の中身にかなり問題があるというのが大竹の指摘。(p448以下)

 インド仏教(唯識説)においては、それそれの諸法(もの)にそれぞれの(言語表現どおりの)自性があるわけではない。

あらゆる諸法が、さまざまな言語表現によって形容されるにせよ、言語表現は「仮設」である。つまり、言語表現どおりの自性(svabhava)はない。
むしろ、「あらゆる諸法には言語表現されえないこと、という自性があること」 そのことが、「真如」と呼ばれる。原語では、真如:tathata、そのとおりのまこと、である。
つまり、真如とは、あらゆる諸法に共通の属性である。

ところが、起信論では、「真如」は、神秘化、超強力化、実体化されてしまう。

起信論では、次のようになる。
 是の故に、一切の法は本より已来、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして、変異あることなく、破壊すべからず、唯だ是れ一心なり。故に真如と名づく。
「あらゆる諸法は、もともと、言語表現を特徴とするものをかけ離れており、
音素を特徴とするものをかけ離れており、心の所縁を特徴とするものをかけ離れている。絶対に一定であり、無変異であり、破壊できないものであり、ただ一つの心であるにすぎない。ゆえに真如とよばれる。」p449 岩波文庫p180
つまり「言語表現されえないから真如である」と説かれている。

 此の真如の体は、遣るべきものあることなし。一切の法は悉く皆真なるを以っての故なり。
 亦た立つべきものなし、一切の法は皆同じく如なるを以っての故なり。当に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如となす。

「この真如という体は排除されるべきものを有しない。あらゆる諸法はいずれも真だからである。
さらに追加されるべきものを有しない。あらゆる諸法はいずれも如だからである。あらゆる諸法は説かれうるものでもないし、念ぜられうるものでもないがゆえに、真如と呼ばれると知るべきである。」p450
あらゆる諸法は、ダイレクトに真如となる。

まとめると、インド仏教では、あらゆる諸法に共通の属性が真如。
しかし、起信論では、あらゆる諸法が真如になってしまう。450

「あらゆる諸法の区別は「念」によってあるにすぎず、念を取り払ったならば、あらゆる諸法は一なる真如である。」

これを大竹は、次のようなたとえ話で語る。
身近な例で言うと
「インド仏教の唯識: 心という映画館において、心というスクリーンに、心という映写機が諸法という映画を映し出している。
その映画について、さまざまな言語表現を浴びせて騒ぐのが、念という愚かな観客。念をなくせば、安らかに鑑賞できるが、諸法という映画は終わらない。それが仏の心の状態である。

起信論: 心という映画館において、真如というスクリーンに、念という映写機が諸法という映画を映し出している。念をなくせば、諸法という映画は終わって、真如という純白のスクリーンだけになる。それが仏の心の状態である。(p451)

まとめると、インド仏教では、「あらゆる諸法には言語表現されえないこと、という自性があること」 そのことが、「真如」と呼ばれる。
『大乗起信論』では、あらゆるものは「言語表現されえないから真如である」となる。
これをもって、大竹はインド人作の原典が存在せず、中国人が撰述したものだろう、と結論する。

結局、真如なんてものをわたしがかみ砕いて理解できるはずもなく、大竹氏の本の(まずい)転写を行なうだけになってしまった。

2.大竹氏のもう一冊の本『宗祖に聞け』から、
後の時代の人が、「真如」をどんな風に使っていたか、ちらっと確認しておこう。
中国浄土宗・善導(ぜんどう、613-681)曰く。

真如(そのとおりのまこと)のありかたは満々としており、その性質上(むしけらのような)うごめく者どもの心を出たりせぬ。(略)
真如は、煩悩の垢に覆われている時も、煩悩の垢に覆われていない時も、含識(ごんしき・生きもの)のうちにあまねく行きわたっておる。ガンジス河の砂の数ほどの功徳は、はたらきを潜めたまま、含識(ごんしき)のうちにじっとしておる。ただ煩悩の垢という障(さまたげ)の覆いが深いから、清らかな本体(である真如)は輝きでるすべがないのじゃ。

大竹が口をはさむ、「真如はいずれも、あらゆる法(枠組み)の空性(からっぽさ)の別名です。あらゆる衆生に仏性があるにせよ、この娑婆世界において仏性を現わすことは難しいというお話ですね。」(p170)

親鸞もだいたい同じような感じ。真如は輝かしいものだが実際には閉ざされているという感じのようだ。上の問題意識からいうと、インド哲学の範囲内か。

真如について、雰囲気だけ味わってみた。

ハン・ガンの『少年が来る』について

 『少年が来る』という小説は傑作だと思う。光州事件を題材にしている。
 書いたのは、ハン・ガンという1970年光州生まれの女性作家だ。彼女は10歳の時に光州事件に遭遇した勘定になるが、彼女の一家はその直前にソウルに引っ越している。

 光州事件のことをよく知らないので復習する。
1979.10.26 朴大統領暗殺、キム・ジェギュ(金載圭)による。(『KCIA 南山の部長たち』に描かれている。)
79.12.12 全斗煥が軍の実権を握る。
80年春、ソウルの春 三金が政治の主役に。(光州は金大中氏の根拠地)
80.5.17 非常戒厳令全国に。
80.5.18 光州で無差別発砲事件が起こる
80.5.27 戒厳軍は武力鎮圧を強行。道庁内に留まっていた多数の市民の決死隊員を殺害した。

 この市民決死隊のなかには、多くの若者、大学生、高校生、あるいは中学生までいた。この小説は少年、一人の中学生を中心に語られる。トンホ。

 死体置き場になった尚武館。混乱のなかでここに迷い混んだ少年は、病院からどんどん運びこまれる棺を整理する係りになってしまう。死者の名前と棺の番号をノートに記入する係りだ。

チンス兄さんが50本入りのろうそく五箱とマッチ箱を置いていった朝、君は道庁の本館と別館を隅から隅まで回りながら、ろうそく台にする飲料の瓶を集めてきた。入り口の机の前に立って、一本ずつろうそくに火をつけてガラス瓶に挿しておくと、それを遺族が持っていって柩の前に置いた。
ろうそくの数にはゆとりがあり、遺族が寄り添っていない柩と身元が未確認の遺体の枕元にも漏れなくともすことができた。P25

 静かで美しい文章だ。実際には惨たらしく悪臭のする死体の山を、なんとかそれを並べてあげて、「悼む」形を整えた主人公の少年と二人の「姉さん」。かれらが並べたろうそくについて、それが悪臭を消すかのように美しく描写している。

 彼がひとつ、不思議に思ったのは、短い追悼式で、遺族が愛国歌を歌うことだった。軍人が殺した人々にどうして愛国歌を歌ってあげるのだろうか?
君がそう訊くと、姉さんはかえって驚く。軍人が反乱を起こしたのだ、と。「君も見たじゃないの。真っ昼間に人々を殴って、突き刺して、それでも足りないみたいに銃で撃ったじゃないの。そうしろって彼らが命令したのよ。そんな彼らを私たちの祖国の人たちだと、どうして呼べるのよ。」(P22)

少年はいままで教えられていたとおり、愛国歌は国家とその軍を褒めたたえるものだと思っていた。軍人の独裁が終わり民主主義の時代がやってきたのに、それを逆転し、銃口で人をどんどん殺して権力を奪おうとしているのは、軍だ、彼らは何の誇りも持てない反乱者にすぎない。本来の国、ネーションは私たちの側にある、と姉さんは説明する。しかし、少年は容易にはその説明が理解できない。

これはこの小説にとってはトリビアルな部分に過ぎないかもしれない。しかし一方で、日本人はまだこの国歌=国家の問題を解決できていないという気が強くする。
(天皇の歌である君が代を戦後日本の国歌にしたのは少しまずかった。
でもそれ以上にまずかったのは、解決したはずの「慰安婦問題」をいつまでも問題にし続け、「徴用工」にまで問題を広げ、自由貿易の原則まで破って見せて、まだ落とし所を見出し得ない安倍政権のやりくちだろう。)

「恐怖のために集会の規模が急速に小さくなっていると彼は真剣な顔で言った。」
「あまりにも多くの血が流れたではないですか。その血を見なかったふりなどできるはずがありません。先に逝った方たちの魂が、目を見開いて私たちを見守っています。」

「魂には体がないのに、どうやって目を開けて僕たちを見守るんだろう。」(P28)

少年はまだ幼いので、ぼんやりと考える。しかし少年は間違ってはいない。死者は死んでしまっており、彼らはどのようなベクトルも指示しはしない。すべては生きているこの私が決めることしかできない。


「軍人が圧倒的に強いということを知らないわけではありませんでした。ただ妙なことには、彼らの力と同じくらいに強烈な何かが私を圧倒していたということなのです。
良心。
そうです、良心。
この世で最も恐るべきものがそれです。
軍人が撃ち殺した人たちの遺体をリヤカーに載せ、先頭に押し立てて数十万の人々とともに銃口の前に立った日、不意に発見した自分の内にある清らかな何かに私は驚きました。もう何も怖くないという感じ、今死んでも構わないという感じ、数十万の人々の血が集まって巨大な血管をつくったようだった新鮮な感じを覚えています。その血管に流れ込んでドクドクと脈打つこの世で最も巨大で崇高な心臓の脈拍を私は感じました。大胆にも私がその一部になったのだと感じました。(p140-142)」

このような〈良心〉は最も大事なものであるのに、めったに語られることはない。言うまでもなく、代わりに語られるのは〈愛国〉であり、ある場合には〈革命〉だ。愛国は現在の体制・秩序・軍事組織への愛情・従順と区別するのが難しい。革命は運動の指導部あるいは前衛党への忠誠と区別するのが難しい。

「しかし今では何も確信することができません。(p142)」

といっても、この発言者四章「鉄と血」の主人公の「確信」が崩壊した原因は、明確に存在する。「モナミの黒のボールペン。それで指の間を縫うように挟み込みました。(p129)」以後10ページくらい詳細に語られる拷問の連続がそれだ。

敗北に続く拷問。
それが終わっても、日常生活がふつうに返ってくることはないのだ。生きることは存在の根っことともにしか営めないが、幸存者たちはみなそこに大きな欠損をうけてしまった。

271頁の小さな本だが、一つの軍事的弾圧の一面をクリアーに描いている。
(2023.8.11 ver.2)

梅原猛についての走り書き

『ユリイカ 梅原猛』というのを買った。最近日本古代を(簡単に)理解したいと思っているので。
梅原猛(うめはらたけし、1925年-2019年1月12日))(吉本の1年下)

出雲について

出雲は戦後長い間、古代の実在的勢力としては重視されていなかった。
「大和と出雲を結ぶものは実は宇宙軸であり、つまり大和から見て出雲が西の果にあって日の没する方位を代表していたことが出雲をして神話的に重からしめるゆえんであった。p99」と西郷信綱も書いていた。

「1984年に荒神谷遺跡から358本の銅剣が見つかり、翌年には6個の銅鐸と16本の銅矛が出土した。1996年には加茂岩倉遺跡から銅鐸39個が掘り出された。そして2000年、出雲大社の地下から巨大な柱が出土して」
「20年足らずの間に、直線で20キロも離れていない狭い地域で相次いだ3つの大発見によって、古代日本列島における出雲に対する認識はすっかり変わる」p103(べきであった)

梅原は「出雲を舞台にした「天の下造らしし大神」の話は、全くの虚構ではないかのか」と書いていた。p98
上記の発見から10年以上遅れて、2010年『葬られた王朝 古代出雲の謎を解く』で梅原は旧説を撤回した。p102
(研究者でも、出雲の実態的勢力はなかった説を墨守する人もまだいるらしい。)

鎌倉新仏教中心主義

戦後日本思想史では親鸞が重視される。「自己の罪悪を反省し、阿弥陀如来の絶対他力を確信し、その信仰のもと安心を享受するという内面のドラマ」p224(参照:子安)に注目する。要はプロテスタント的宗教に近づけた理解ということのようだ。
(鎌倉新仏教だけを強調する理解:「鎌倉時代以降を「封建制」と理解し、日本は東アジア諸国と違って「封建制」に到達したから近代化の道に進むことができたという「脱亜論」の変形である。p56)

それに対して、「自然は人間のように、生き、物言う世界」と信じる日本の神道と最も密接に結びつき定着した真言密教(p222)、そして天台(本覚論)を強調したのが初期梅原。
「密教が生み出した信仰である観音崇拝や不動崇拝は広く民衆の間に広がった。」p56

日本文化論

鈴木大拙や和辻哲郎、彼らの作り上げた日本文化論を 戦後継承することはできない。p55 として激しく批判するところから梅原の評論活動は始まった。
「現在では、鈴木も和辻もなかば忘れられているが」と保立はあっさり書く。
しかし、アカデミズムの側のそのむとんちゃくな忘却が、大衆に対して何重にも劣化した「日本主義」、日本会議系の、蔓延を許ししてしまったのではないのか?

和辻:国民精神文化研究所 戦後はそれについて口をぬぐった
和辻『尊王思想とその伝統』
1,祀る神としての天皇
2,その背後にいる 祀って祀られる皇祖神
3,風雨の神のような 祀られるだけの神
4,祀られるだけの 祟り神 p58

世界全部につながっちゃう

これまでの日本人が国粋的な意味で日本のオリジナルだと思っていたものが、実はもっと広い「古代世界」とつながっていて、聖徳太子をズルズルたどっていくとキリスト教につながり、世界全部につながっちゃうというように、日本というものが大きく底のほうで「世界」に開かれている p251

という普遍性を語るのが、梅原の仕事だった。

梅原は〈辺境〉に共感を持った。
〈辺境〉を糾合して普遍化し、人類思想のメインラインに位置づけようとした。p254
そして、それを大衆にわかり易い物語として語りきった。

歴史に血と肉が与えられて

山岸:ああ、すごいですねえ。本当に先生のお話を伺っていると、歴史に血と肉が与えられて生命が吹きこまれるという感じですね。(略)歴史の先生はというと、どうしても年号を並べて二言目には「かもしれません」ばかりおっしゃるでしょう。私、これが残念でしかたないんです。梅原先生のように、とても明快で歴史が生身で立ち上がってくるようにお話してくださると…。
梅原:それを言いすぎるから、ぼくは嫌われるんだ(笑)。
山岸:いえいえ。でも、それだけに影響力がすごくて、私は本当に怖くて(笑)。
『日出処の天子 3』白泉社文庫 解説・対談より

甘耀明(カンヤオミン)『鬼殺し』上・下を推す

甘耀明(カンヤオミン)の『鬼殺し』上・下、図書館で何気なく手に取った本。大傑作だ。莫言に絶賛されたが、将来のノーベル賞級の才能だと思う。白水紀子訳 白水社 2016年翻訳刊行。

甘耀明は1972年(戦後27年)生の客家系台湾人だ。苗栗県出身。地図で見ると、台北と台中の間は北から桃園市、新竹市、苗栗県となる。苗栗県には雪覇国家公園という広大な国立公園があり、東側の太魯閣国家公園とほぼ隣り合っている。甘は苗栗(ミャオリ)県獅潭(シータン)郷の、先住民族(タイヤル族など)の部落に近接する縦谷の客家の山村で6歳まで過ごした。タイヤル族や彼らの神話・伝説は作中でおおきな比重を占める。

「人殺しの鉄の怪物が蕃界(原住民が住む場所)の関牛窩(グアンニュボー)にやってきた。」という文章からこの小説は始まる。小学生だが荒唐無稽なまでに強い客家の少年帕(Pa)はその前に立ちはだかろうとする。「汽車は実に壮観で、先頭には黒檀に描かれた花輪がかかり、花輪の中に「八紘一宇」の四文字が書かれていた」
帕(Pa)は車体に貼ってあった「皇軍は米国を奇襲、真珠湾を轟沈した」という新聞記事を見て、おもわず雄叫びをあげてしまう。
日本軍鬼中佐は、汽車から降り立ち、「銀色に光る軍刀を抜き、集まった村人に向かって言う。「新しい時代が、本日からはじまる。お前たちは手足を動かして天皇陛下にお仕えせねばならぬ。どんな犠牲も惜しまず、あの山を平らにせよ。」
鬼中佐は公学校の校舎を練兵場に変える。公学校は恩主公廟に移される。今までの村人の精神的中心恩主公(関帝、つまり関羽)の神像は燃やされることになる。
柴を加え油をまいて火をつけても、恩主公像は真っ黒になりながらも生きのこる。神像に宿る魂を汽車に轢きつぶさせようとするが、「恩主公はオウと声を上げ、歯をぐっと食いしばって、踏みつけられても死なない、おさえつけられてもぺしゃんこにならない、何度踏まれてもつぶれない」不滅さを見せる。

日本軍の帝国主義的暴虐を、民衆の神話・伝説にまみれた精神世界にズラシて物語っていくのが、甘耀明のマジック・リアリズムである。

鬼中佐は帕に目を付ける。
「鬼中佐は汽車を停車させ、恩主公の前まで歩いて行くと、大声で怒鳴った。「帕、出てこい」。帕は背が高いので、頭が人の群れから浮き出てきて、間もなく全身をあらわした。鬼中佐は彼に名前を名乗らせた。
「帕であります」。帕は両手を腰にあて、目を大きく見開いていたが険しくはなかった。
「それは『蕃名』だ、漢名は?」
「劉興帕です」。帕はまた付け足して言った、「名前の中には『蕃』の字が入っております」
「お前は両親から捨てられた子だ、俺がお前を養子にしてやる。今後は、お前の名は鹿野千抜だ」。
鬼中佐は言い終わると、帕に何度も「鹿野千抜」と、早くも遅くもないちょうどよい速さで復唱させた。帕はまず拳を握りしめて反抗し、それから耳をふさいだが、もう手遅れだった。その名前は頭の中でずんずん大きくなり、雷のように流れこみ、海のように浸食してきて、追い払うよりも受け入れるほうがましだった。そこで帕は口を開けて心の声を追い払い、言った。「鹿野千抜」
「鹿野千抜、来い。刀を枚いて、支那の神を斬れ」。鬼中佐は腰に帯びた刀をたたいた。帕は数歩前に進み出て、刀の柄をつかみ、鞘から枚いた。刀をさっとひと振りした瞬間、空気が裂けて傷口が見えたかと思うと、大声をあげて神像を真っ二つにたたき斬った。」

1895年日本軍が台湾を領有するために上陸した時、台湾民主国の義勇軍総統領として戦ったのが、客家人呉湯興だった。呉湯興は1895年八卦山の戦いで敗北死去するが、作中では鬼の世界の鬼王として死にきれずに存在している。かってその部下だった劉金福は、日本支配に抵抗し山奥で隠遁生活をしている。帕はその劉に育てられた孫だった。だから帕はその抵抗の意思を直系で受け継がなければならない存在だったのだが、残念ながら、皇軍の鬼中佐に、「名前を付けられる」ことで、彼の養子になってしまう。彼は「八紘一宇」の子どもになり、「一生神に呪われて生きることになった。」

少なくない数の、台湾、中国、朝鮮、その他の国の少年、青年たちを皇軍は「八紘一宇」の子どもに育て上げようとした。驚くべきことに、そして痛ましいことにそれは、半ばは成功したのだ。彼らは苦しみながらも戦い、死んでいった。戦後(光復)まで生き延びた者たちも居る。しかし、魂を昭和天皇に譲り渡した彼らには、「光復」は決してやってこない。「一生神に呪われて生きる」ことしかできないのだ。
戦後新しい国家建設のための思想を確立しなければならなかった台湾、中国人にとって、「天皇の子」を日本鬼子(にほんじん)として疎外するしかないのは、しかたないことであった。

「帕は地面にひざまずいて、心の中で自分は日本鬼子(にほんじん)ではない、自分は日本鬼子ではないと繰り返したが、しかし日本鬼子以外に、自分が何者になれるのか思いつかなかった。日本の天皇は自分の赤子をさっさと見捨て、国民政府もまた急いで日帝の遺児を門外に締め出し、彼らには荒野以外に、何一つなかった。」下p251

天皇と皇軍軍人たち、そしてその周辺の人々の変わり身の素早かったこと。一夜にして「大日本」の「大」の字は消し去られ、満州、台湾、朝鮮は日本とは無関係の土地となった。占領していただけだ。日本軍に協力した奴らは、民族の魂を売り渡した、売国奴だ。国民党、共産党の側からそう言われるのは分かるが、天皇の側はどうだったか。台湾50年の歴史は一切なかったものになり、日本は太古の昔からせいぜい沖縄あたりまで、その沖縄さえ米軍様のまえに差し出しましょうということになった。
「日本鬼子以外に、自分が何者になれるのか思いつかなかった」子どもたちのことは、誰からも忘れられた。

それは必ずしも一部の台湾人だけの運命ではない。帕は台湾東部にやってくる敵と戦う為に、中央山脈を越えようとする。しかしそこで聖なる山の「引力」にとらわれ、ぐるぐる回るばかりで山から抜け出せないという呪いに掛かる。ここの描写には、ニューギニア島の山地を数年間さまよった日本兵たちへの哀悼が込められていると読める。「大東亜戦争」の巨大な〈夢〉に囚われ、「戦後」に帰還できなかった日本兵も沢山いた。彼らの魂の底をさらえようとした文学が、日本にあっただろうか。(レイテ戦記は巨大な達成だがクールすぎる。)

戦後左翼の偏向・浅薄さを声高に叫ぶ人たちは、時に「八紘一宇」を口にする。しかし彼らは「八紘一宇」の真実をかけらもしらないのに、安手の愛国言説と戯れているだけだ。わたしたちが乗り越えることができなかった「大東亜戦争」を知るためにも、この小説は日本人に読まれるべきだ。

松島泰勝氏科研費叩きについて

「科研費叩き」の#杉田水脈 氏が、新しいターゲットに火を付けたようだ。

この八重山新報の記事によると、次のとおりである。

松島泰勝は、琉球民族独立総合研究学会を作った。松島は2011-2012「沖縄県の振興開発と内発的発展に関する総合研究」科研費424万円を取っている。

成果物である論文のタイトルを見れば、「自治と基地をめぐる…」「琉球の独立と平和」…など「地域活性化とはほど遠い印象を受けます」とある。
「中には「尋求自己国家独立的琉球2014」といった中国語の論文も見受けられる。
「国連での記者会見の画像を見ると「琉球民族獨立總合研究學會」と中国語で書かれています。」とあるが、独と総と学が旧字体になっているだけである。「いったい誰を対象に会見をしているのでしょうか?思わず「中国では?」と疑いたくなります。」と書いている。杉田がここで示唆しようとしているのはまぎれもなく「中国(北京政府の)」のだが、旧字体を使うのは台湾である。それに旧字体は本来日本のものでもあり、中国語などではない。それを「中国語」とは支離滅裂なのだが、2つならべて「中国」との深い関わりを暗示できればそれで良いのだろう。

「科学技術立国である日本において、「科研費」はとても重要なものです。しかし、我々の税金から捻出されるその貴重な財源を使って「琉球独立」を主張するのはいかがなものか?」
「今後は科研費の審査や決定の過程、その成果の評価がどのようになされているかについてもしっかり調査していきたいと思います」
この2点が結論部分である。
性急な反論に対して言い逃れできるように、非常に巧妙、暗示的な物言いをしていることに注意しなければならない。同時に大衆の偏見を味方に付けるための巧妙なポジショニングにも。

「科学技術立国である日本において、「科研費」はとても重要なものです。」という発言は、科学技術以外の研究・学問は客観的な評価ができなものであり、無駄なのではないか、という大衆の偏見に訴えている。
「税金から捻出されるその貴重な財源」を使っている以上、その成果を我々に分かるように説明すべきだ、とは「民主的なもの言い」ではある。しかしこれは、(net上でネトウヨと対話したことがある人はすぐ分かるのだが)ある主張を無効化するために、「分かるように説明せよ」と限りなく繰り返していく歴史修正主義者・ネトウヨのテンプレ化してものの言い方に過ぎない。しかしそれは「納税者」への説明、というタームとともに使われる場合かなり強い効果を発する。
ここで杉田が提起しているのは「琉球独立」という「偏向したテーマ」「反日的だと結論付けられる(だろう)テーマ」に、税金を支出することの是非?である。
杉田が、「琉球独立」をテーマとして取り上げたのは、それを自分が気に入らないから、ではない。日本と一体であるべき沖縄という地域が、独立という言葉を使うことは日本の版図が減ることであり即ち反日的思想あり許すことができない。このように煽られればその通りだ、と頷く国民が半分以上いるかもしれない。つまり賛同を得られやすいテーマとして選択されている。
ダライ・ラマがどんなに誘われようと絶対に口にしない言葉が「独立」である。政治的に敏感な言葉だからだ。しかし松島はダライ・ラマと違って学者である。学者はどんな思想であろうと、それを深く研究すべきである。そこに「政治的に敏感さ」を持ち込もうとするのは、日本を中国的な思想・学問の自由のない国にしようとすることである。
twitter上では、琉球王国非存在論者たちがグループを作って数年前から活発に活動中である。彼ら(中心人物は琉球歴女を名乗っているが)は琉球王国数百年の歴史についても、歴史修正主義的語りを準備している。https://togetter.com/li/1133220 などで批判した。
そしてまた、杉田はツイッターのフォロワーが10万5千いる。私の百倍、松島氏の二百倍である。(ちなみに山口二郎氏は57000である)この文章を暗示的な表現だけにとどめたのは、彼女が抑えめに書いてもフォロワーたちがいくらでもえげつなく敷衍し拡散していく。彼女はそれを計算に入れて活動し続けている。(おそらく安倍首相に評価され衆議院議員になった。)
このように、彼女は、この問題については核心部から周辺まで、広範かつ強力な支持を期待できる。いわば、万全の準備の下にこの新聞記事は投下されたわけである。

杉田氏のターゲットは明確であり、「琉球独立」を研究する学問の自由を侵害したいのだ。
大学の外にいる一市民が、学問の自由をどう考えるのか?という問題が改めて問われている。
学問の自由(がくもんのじゆう)は、研究・講義などの学問的活動において外部からの介入や干渉を受けない自由である。
ただし「明らかに反人倫的な生体実験や人類の将来に危険を及ぼすおそれのある研究については一定の規制が必要と考えられている」と制限はあるのだとされる。「人類の将来」ではなく「日本国家の将来」と基準をすり替えるならば、琉球独立論を抑圧することにも理はあるとすることはできるかもしれない。
「納税者」という殺し文句がそういう方向を後押しする。しかしそれは間違っている。

学問の自由はドイツ19世紀に強調された概念である。「市民革命が未完成で市民的自由の保障が不十分であったドイツでは、大学教授に対する学問研究の自由を保障することが不可欠だったためである。ウィキペディア」
沖縄の名護市辺野古において国論を二分する反対運動が起こっている。それは沖縄県と国との対立にさえなってるが、国は強行姿勢を緩めない。かえってtwitter上でのフェイク混じりの反対派攻撃なども支援している。
したがって、今回の松島氏への攻撃も、その一環と捉えうる。ということは「学問の自由」の本旨でもって、松島氏を守るべきだ、ということになる。

国民、その代表(代理)としての国会議員は科研費の「成果の評価」に口を出す権利があるだろうか?私はない、と思う。なぜなら、一つの論文を評価するためには、その学問及びその周辺分野でいままで何がなされてきたか、どのよなう方法でどのように書くのが妥当なのかという知識が必要であるからだ。
任意の国民やその代理としての国会議員はその能力を持っていない。したがって、無理筋の抑圧しか行なうことはできない。
これは、南京大虐殺、慰安婦問題などで、歴史学の成果に反する俗悪本が、多数かなりの部数売れているとしても、学問の水準を満たさなければ、大学・アカデミズムには反映されないのと同じことである。
しかし、杉田氏は隠れもない歴史修正主義者であり、確信犯として攻撃をかけてきている。お前が悪だというだけでは話にならない。
琉球独立論を考えることは、それを支持しないとしても、例えばスコットランド独立や英国のEU離脱を考察するのと同様、ぜひとも必要なことである。これは当たり前のことであるが、熱意を込めて大衆に説かなければならない、情況になってきているのだ。

以上、長々しく書いてきた。
科研費を取ったら説明責任が生じる、は一見正しい理屈だが、責められて説明を始めるべきではない。
1) 経理的説明責任については、「不法行為の立証責任は訴える側にある」言えばよい。けいと @kuzunobankai さん、Dr.t-BuLi (阿修羅降臨) @h_ttt_h さんに教えていただきました。
https://togetter.com/li/1228186 にまとめました。
2)成果についての説明責任は、最低限のものはnet上に公開されている。これについて、思想の自由の範囲で各自が自分の批判を提出する自由がある。それは納税者の権利とは別の問題である。なお、批判は現在までの学問の達成を踏まえていなければ、無視されるだろう。

1)と2)をごっちゃにして、数の力で気に入らない教授をやっつけようとする策動は、感心しない。

次に、(できれば)松島氏の研究概要を読んでみたい。興味深そうだ。

余傑『劉暁波伝』を読む

1,

80年代中期「文革」の大災厄を経た中国では万物がよみがえる兆しが現れ、各種の文学・文化思潮が次々に起こった。哲学ブーム、美学ブーム、主体性討論、国民性批判、『今天』を中心とする朦朧詩、白洋淀派、「黄色い大地」や「赤い高粱」など第五世代の映画、西部の風、尋根(ルーツ)文学、実験小説、星星画展に誕生を促された現代芸術、崔健のロック「一無所有」・・・

 余傑はこう書いている。p99
私はほとんど知らないが、想像することはできる。人々は自らの自由を自ら確認し展開してことができることを知り、喜び、世界が変わっていくことを信じた。おそらくどのような人にでもそうした高揚期というものはあるはずだ。そのとき人は自由であり恐れを知らない。後になって振り返れば(かんちがい)だったかもしれないが、自由という名のかんちがいが人間の本質に属することもまた確かなのだ。

このようないわばシュトゥルム・ウント・ドラング中に、劉暁波ははなばなしく登場した。しかし彼は新時期文学に冷水を浴びせるような形で、登場したのだ。
「中国の作家は相変わらず個性の意識に乏しい。この無個性の深層にあるのは生命力の萎縮、生命力の理性化、教条化であり、中国文化の発展は一貫して理性により感性の生命を束縛し、道徳的規範で個性の意識の自由発展に枠をはめてきた」と彼は語った。

彼は後に20世紀末の中国政府のあり方に異議申し立てをすることになるが、彼の思想は決して権力の批判にとどまるものではない。中国数千年の歴史が真に権力や社会の矛盾に真正面から向き合う思想、思想家を生み出し得なかったことへの深い反省が常に彼にはあった。

2,
1988年8月から三ヶ月間、劉暁波はオスロ大学に招聘された。次いでハワイ大学、コロンビア大学で海外の学者との交流を楽しんだ。89年4月15日胡耀邦が死去し、民主化の動きが高まった。劉暁波は最初海外からこの動きに参加しようと、「改革建言」「全中国の大学生に宛てた公開書簡」などを公表した。4月26日、彼は危険に身を晒すことになるから今は帰国するな、という友人たちの忠告に逆らって帰国した。権力との関係において敗北しながらその敗北を直視せず自己を偽りそれを言葉で飾り立ててしまう、中国インテリの伝統を、自分で断ち切らなければならないという思いが、劉暁波には強かった。
それまで劉は「個人主義と超人哲学を尊び、群衆を見下し、社会は烏合の衆だ(p141)」とみなしているきらいがあった。
天安門広場の学生たちの運動に、まさに情況の核心に劉はつっこんで行き、そのなかでそうした個人主義も訂正されていく。

5月13日、学生たちはハンストを初めた。
5月19日、戒厳令を敷くことに反対だった趙紫陽総書記は、広場に現われ、学生たちとの対話しようとした。しかしその時点でもはや、趙は権力を失っていたようだ。5月20日戒厳令が下される。
追い詰められた劉暁波たちは、ハンスト宣言を出し、ハンストに入る。「李鵬政府が非理性的で専制的な軍事管制を以て学生の愛国民主運動を鎮圧することに抗議する。また、一中国知識人として、この行動を以て、ただ口先を動かすだけで、手を動かさないという軟弱性に終止符を打とうとする。」ここでも劉は、知識人としての自己否定(変革)に大きな比重を置いていたことが分かる。

6月3日、戒厳部隊は、西、南、東三方から広場に向かって進軍し、バリケードや投石で阻止しようとする市民たちと衝突し、流血の惨事が起こる。
緊張が高まる広場で、一部銃で武装しようとしていた労働者クループがいたが、劉らは説得し武装解除に応じさせ、武器を叩き潰した。そして次に、劉らは広場を死守しようとする学生らを説得し、ついに学生らは撤退することになった。広場での流血の惨事は避けられたが、周辺ではすでに多量の血が流されてしまっていた。6月4日朝になっていた。
ここで、彼の人生の前半は終わる。

3,
流血のさなかよろよろと広場を出た劉暁波は、数日後捕らえられ、秦城監獄に入れられる。
劉暁波は反省文を書き、91年1月獄を出る。知識人や学生リーダーに対する罰は比較的軽かったが、一般市民の「暴徒」は死刑や重罪になるものも多かった。反省文について、「ぼくは個人の尊厳を売り渡したと同時に、六・四で冤罪を被った死者の霊魂と流血を売り渡した。」と劉は書いた。
多くの血が流され、それを証し立てなければならない立場に劉は置かれたようだった。

1991年劉暁波はオーストラリアから招聘を受け、当局は出国を許可した。当局は劉が亡命してくれたほうが厄介払いができると考えたらしい。しかし、「六・四」流血と民主化の中断の場所に劉は戻ってきた。「四六時中の監視、尾行、嫌がらせ、さらに定期的な「談話(事情聴取)」、召喚、軟禁、家宅捜索(p223)」を覚悟の上で。
彼は毎年、6月には六四の死者を追悼し続けた。詩集『独り大海原に向かって』(書肆侃侃房)には十九もの鎮魂歌が収められている。
二千年代に入ると彼はインターネットを始め、海外の友人と話し合ったり、海外で文章を発表したりすることが比較的容易にできるようになった。
2008年、〇八憲章の起草と署名の中心人物になった。自由・平等・共和・民主・憲政と言った理念に基づき、国家の政治制度、公民の権利、社会的発展についての具体的主張を提起したもの。最初の署名者は三百三人だったが、彼らの思想がすべて一致していたわけではなく、小異を残して大同につき、公民社会を作っていくための基盤として、提起されたものだ。
ところが、当局の警戒と弾圧は劉たちが予想したより厳しかった。2008.12.8警察官が「国家転覆扇動罪の嫌疑」で彼を連れ去った。そして、結局その後、彼は死ぬまで釈放されなかったのだ。なんという非道!!そして隣国にいて、幾分かの関心をこの事件に向けていたものとして、日本国内でこの問題への関心と劉暁波への同情をもり立てることができなかったことを、とても残念に思う。

劉暁波は世界のすべてを思索しようとする大柄な思想家だった。彼は西欧的な自由や制度だけを求めた思想家だったわけではない。彼は若くして荘子や司馬遷、屈原などと深く対話した。そして東洋において真の自由を得るためにはどうしていったらよいかを、素直に実践していった。
現在、六四から約30年、中国では経済的な驚くべき発展に伴い、習近平独裁体制が完成しようとしているかに見える。しかしそれは歴史の一面に過ぎず、劉暁波を引き継ぐ自由と民主主義への模索が、中断されることはないだろう。

六四天安門事件犠牲者への鎮魂歌

劉暁波の詩集『独り大海原に向かって』が劉燕子・田島安江訳編で、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)という福岡の出版社からこの3月に、刊行された。劉霞の詩集『毒薬』と同時出版になる。訳編者二人の愛情と熱意のたまものであろう。なお、書肆侃侃房は先に劉暁波の詩集『牢屋の鼠』も刊行しているので、彼の詩集は2冊目になる。
以下、その書評。

1,1989年6月4日、中国民主化を求める天安門広場を中心とした学生たちに対して戒厳部隊が襲いかかり、多くの死傷者が出た。劉暁波はその弾圧を中心部で体験した。

あんなにうねり逆巻いていた人々の流れが消えていく
ゆっくりと干あがる河のように
両岸の風景が石の塊に変わったとき
一人ひとりの数えきれない喉が恐怖で窒息し
砲煙に震えあがり散り散りになった
殺し屋の鉄かぶとだけがきらきら光る p7

その場に残ったのは、数個の鉄かぶとだけだ。

ぼくはもう旗が見分けられなくなった
旗はいたいけな子どもみたいだ
母親の死体にすがりついて、泣き叫ぶ
「ねえ、おうちに帰ろう よー! p7

散乱する鉄かぶとの近くに、崩れ落ちた旗が小さな膨らみとして見捨てられている。劉暁波はそこに「いたいけな子ども」を幻視してしまう。
子どもは母親にすがりついて泣き叫ぶのだが、応答はない。なぜなら母親はすでに死んでいるのだから。
六四という巨大な群衆運動が死滅したとき、「ぼくはもう旗が見分けられなくなった」「ぼくはもう昼と夜の区別がなくなる」。ぼくは母をなくしたいたいけな子どもに還元されてしまう。「すべてをなくした」。
「いのちは壊れ、深く沈んで/かすかなこだまさえ聞こえない」

「生きている限り、死のことはわからない」
一周年追悼、詩人の自己は「いたいけな子ども」になってしまったのか。そこにはただ「殺し屋の鉄かぶと」があるだけだった。

2,一年後、「ぼくは生きていて/過不足ない悪評もあびせられる」と劉暁波は書く。ぼくは生きているが君は、「十七歳は路で倒れ/その路はそれきり消えてしまった」。

花を一束と詩を一篇ささげるために
十七歳のほほえみの前に行く
ぼくにはわかっている
十七歳は何の怨みも抱いてないと p18

「十七歳は路で倒れ/その路はそれきり消えてしまった/泥土に永眠する十七歳は/書物のように安らかだ/十七歳は生を受けた現世に/何の未練もなかったろう/純白で傷のない年齢の他には」

劉暁波は彼をことさらに「何の怨みも抱いてない」「何の未練もない」と形容する。彼はただ17歳の一人の人間存在であった。そしてそれが中断された。死者に怨みを背負わすことはできない。すべては生者であるわたしたちが引き受けるしかないのだ。
劉暁波ができることが、「花を一束と詩を一篇ささげる」ことだけであったとしても。

3,

夕暮れ、すぐ近くに
血まみれの死体がひとかたまりになって
横たわっていた 撃ち抜かれて
大きな穴の開いた頭は
黒々として血なまぐさい
板の木目に染み込んだ
つぶれた豆腐のような白いもの
あれは何だ p95

十二周年追悼と副題されたこの詩は、奇妙なことに死体のそばにたたまたあった一枚の板の視点から書かれている。

見向きもされない一枚の板だけど
轢き殺そうとする鋼鉄のには歯が立たないけど
君を助けたい
君が気絶して倒れる寸前でも、死体になっても p97

君を助けたいという非望の直接性と不可能性を見事に作品化している。

4,

あの日に起こったことは
一種のいつまでも治らない病だ
祖先が近親相姦をつづけ
代々遺伝して伝わってきたものが
皇帝の精子の中に潜伏し
それが命運となった P58

この詩行は、日本人が読むとちょっと違和感がある。「祖先が近親相姦をつづけ/代々遺伝して伝わってきたものが」と言えば、万世一系の天皇をいただく日本の、アキヒト氏の精子にずっと濃く含まれているはずだ。「この民族の崩れた健康は/五千年かけても治せはしない」とも書く。しかし、中国は日本より大きいし、それが一つの民族であるというのは中国共産党系のデマゴギーでしかない。(中国共産党政権は、「中華民族」を「漢族と55少数民族の総称」と規定している。)

どうして、あの日、腕を
夜半から黎明まで
真紅から青黒くなるまで振り上げたのに
我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか p61

それにしても日本人は、「どうして、我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか?」と問いを立てたことは一度もない。
天皇制を糾弾する声を上げる人は居るが、自分が天皇を全面肯定した憲法1条の下に戦後の繁栄を享受したことを抑えた上で批判するのでなければ無効であろう。
全共闘運動から50年、彼らの(わたしたちの)「自己否定」が嘘だったのでなければ、「どうして、我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか?」という問いを自ら引き受けた上で、別の答えを出していくことが必要である。

「我が民族は/この宿病ゆえにすべてをコントロールしてしまえる」と劉暁波は言う。わが民族が免れ難い欺瞞性、恥知らずをその本質に持つという発想はもちろん、修辞でなければ錯誤にすぎない。
それが本質であるなら脱却することは不可能なわけであり、指摘しても無駄だということになる。劉暁波は既に獄中で死に、つまりそれは殺されたと同じであり、少なくとも彼の死まではこの本質は貫かれた。死後10年後、20年後になれば、アリバイ的な名誉回復が行われるかもしれない。それがアリバイ的なものでしかなければやはり「本質」は生き延びていることになろう。
現実がどうあれこの本質規定は有害無益なものだと私には思える。しかし実践的解決がどんな形であれもたらされることがないなら、わたしの主張もあまり意味はないのかもしれない。

なお、この詩集は、「天安門事件犠牲者への鎮魂歌」、「獄中から霞へ」、長編詩「独り大海原に向かって」の三部から成る。ここでは鎮魂歌にしか言及できなかった。