朝鮮に渡った「日本人妻」たち

林典子『朝鮮に渡った「日本人妻」』2019刊 岩波新書を読んだ。島田陽磨監督の映画 『ちょっと朝鮮まで行ってくるけん』に続いて。ほぼ同じテーマ、題材を扱った作品と言える。

異郷、北朝鮮は世界地図では日本の隣だが政治的理由で往来が非常に困難、で何十年も暮らし老境を迎えた元日本人女性たち。彼らにとってふるさととは何だろう。

これを読んで北朝鮮に生きる人についてのイメージが少し変わった。脱北者救済とかという運動サイドの関心を持っているとドキュメンターでもそうした傾向のものを見てしまう。北朝鮮という国家、システムの中でどうしようもない抑圧を受け外に出てきた例外的な人々の目を通して、北朝鮮を理解することになる。
一方、北朝鮮の庶民(人民)はこれですと当局が教えてくれる人々もいるのだが、それは当局によって準備され美化されたものである。「行ってくるけん」にも海水浴で遊んでいる人たちが写り、いい感じなのだが、こんな良い海岸ならもっと人が多くても良いはずではと考えてしまう。人々の実像を知るのは難しい。
北朝鮮には強制収容所があり、言論の自由はない。この映画でも歌を歌うというと首領さまが出てくる歌を歌ったりする。日本の歌は自由に歌っていたようだが、どんな歌でも歌って良いという自由はない。
ただそれにしても、人々はその中でせいいっぱい努力し日々を楽しみ子供を育ていているのだ。一緒に行った日本人男性が40近くなっても結婚していないのを聞いて北朝鮮の人は驚く。日本では自由という主義の下で、子供を作ることすら出来ない人々を大量に生み出してしまった。(これは難しい問題なのでこの表現が正しいかどうか迷うところだが)どんな社会でも人は、別の社会の人には不条理と思われるような常識を受け入れて生き続けていくものだろう。

ひとは生きて老いて死んでいく、はるかな海を渡り違った国で生きるという決断、なんという過ちを犯してしまったのか後悔した人もいるだろう。ただこの本に出てくるのは、後悔せず強く生き続けた女性たちだ。後悔いくらしてもしきれないといった気持ちに沈んでうつうつとした人生を送ったひともいたろう。それぞれどの人生も貴重である。

1959年から1984年まで、在日朝鮮人の北朝鮮への「帰国」運動が行われた。約93000人が「帰国」した(その8割は最初の2年間に帰国)。そのうちに約1830人の日本人妻と言われる人がいる。林典子さんは2013年から18年まで11回訪朝し、9人の日本人妻と残留日本人女性1人を訪問し話を聞いてきた。
3年で里帰りできるという約束は果たされず、60年にも及ぶ年月で一度でも里帰りできた人は極わずかである。
両国家の都合にも合致したため帰国することになったが、両国家の都合により一時帰国も禁じる状態が60年も続く。当事者にとっては不条理かつ過酷な状態である。また日本人妻にとっては、朝鮮人との結婚と「帰国」に対して親から激しく反対された人が殆どである。他の方以上の激しい孤独・孤立感にうちかって60年近く過ごしてきたわけだ。
にも関わらず、林さんの伝える日本人妻たちは、北朝鮮当局や日本に対する恨みつらみを持っていないようだ、それらを強く抑圧し、消化していかないと生きてこれなかったのだろう。

「「だから早く「クッキョチョンサンファ」してね、行ったり来たりできるようになればいいのに、これ何ていうの日本語で?」(同書p64)
「国交正常化……」。私は答えた。」と林さんは答える。
「国交正常化」なるものが両国間の政治、そして日本国民の北朝鮮感情などにももみくちゃにされ、当事者の思いとは遠いところに存在していることを林さんは「……」に込めているのだろう。

『夜は歌う』と革命の原理

キム・ヨンスの「夜は歌う」はなぜ、甘やかな恋愛の話から始まるのか?陰惨な話が続く後半、最後まで、その強い記憶は消えない。

主人公キム・ヘヨンは1910年朝鮮併合の年に生まれた朝鮮人である。彼は工業高校出で満鉄に就職するというチャンスをつかんだ。独立や共産主義に興味はない(ないふりをしている)。

ヘヨンはジョンヒに出会いジョンヒを愛した。そしていくぶんかは彼女も自分を愛しるはずと信じた。しかし、ジョンヒは実は、間島の反日帝パルチザンの中心的活動家であり多くの人にその正体を知らせずに活発に活動してたのだ。ヘヨンに近づいたのも利用しようという考えからだったろう。それを知らされ、自分の信じていた世界はまったく空虚なものだった、とヘヨンは愕然とする。

しかし、そこには幾分かの真実はあったのだ、ということは最後の頁で明らかになる。李ジョンヒは11歳の時、ウラジオストクで祖父を日本軍の襲撃で失う。そのとき「悪魔のように強くなろうと決めた」という。彼女はヘヨンに「私を愛さないで」と言う。しかし、ジョンヒを誤解し、彼女が切り捨てた自分の半身いわばお嬢さんとしての半身を、強く愛してくれるヘヨンをジョンヒは嫌えなかった。

「愛も憎しみも感情だけでは存在しない。行動で見せてこそ存在するんだ(p81)」と中島は言う。

行動というより人間存在の全体性をかけて、ジョンヒを愛したのかと中島は挑発的に問いかける。ヘヨンはこの挑発に答えるように、革命に近づいていく。

物語の最初で中島が朗読するハイネの詩は、この小説全体の骨組みを明かしているようにも読める。

それはある限りない怒りについての詩だ。ある男は死してなお限りない怒りに包まれている、その力でもって男は死を越え、恋人を自分の墓に連れ込む、という詩だ。

この詩の男をジョンヒに、女をヘヨンに入れ替える、するとこの複雑で残虐な物語のシンプルな構造が見えてくる。ジョンヒは死を超えるほどの力で世界と革命を希求した。そしてそれが中断したため、死を越えてヘヨンを召喚したのだ。ヘヨンはそれに応え、革命とは何かを知る。

関東軍は1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変(柳条湖事件)を起こす、そしてまたたく間に満洲全土を制圧した。しかし北間島地区では、朝鮮人たちの抵抗が激しい弾圧にも関わらず執拗に続いていた。

1933年4月のある晴れた日、北間島の山間の小さな村での婚礼は、突然日本軍に襲われ、参加者は全て殺される。いわば紛れ込んだにすぎない主人公キム・ヘヨンだけは生き残る。「遊撃隊」に助けられ、その後中国共産党地方幹部に尋問される。意外な経過により、彼は助かり漁浪村での政治学習が命じられる。

「僕は草葺きの家で赤衛隊の青年たちとともに団体生活を送りながら、思想・軍事教育を受け、労働した。」

「議会主権が来たぞ。赤い主権が来たぞ。無産大衆の血と引き換えに議会主権が来たぞ。」

「その歌声を聞きながら野原で働いていると、心が温かくなる。ここの人々はみな、白区で共産主義青年団員として、あるいは赤衛隊員として活動していたときに、討伐で家族や家を失って遊撃区にやって来た人たちなので、お互いを心の支えとしていた。心を固く閉ざしているかと思えば、たったひと言で心を開くこともあった。」

「草葺きの家での生活を始めて二か月あまり経った頃、僕は少し違う人間になっていた。日は暗闇に慣れ、細かい光にも反応し、鼻はどこに食べ物があるのかをすぐに嗅ぎつけ、口は休みなく革命歌を歌った」(p154-157より)

「草葺きの家で」と語られるこの数ヶ月の生活は美しいものだった。

著者は「革命の原理」についてこう書く。

北間島で生まれた朝鮮の娘はふつう男の所有物に過ぎない。アヘンと引き換えに売られたりする。しかし、ある若い女性(ヨオク)はある夜学教師に出会うことができた。彼が世界のことを教えてくれた。彼はヨオクの言葉に耳を傾け、ヨオクの顔や体をじっと見つめた。「そうやって見つめられ、話を聞いてもらううちに、ヨオクは初めて自分もひとりの人間だということに気づいた。革命の原理を悟ったのだ。(p101)」

私は自由な人間だ、「人間は畜生ではない、それぞれが高貴な存在なのだ、と」。それはひととひととの魂のふれあいによって初めて気付ける真理なのだ。教師は階級支配について語ったりもしたが、そうした思想注入が人を革命的にするのではない。おまえは人間だ、と感じさせてくれることにより人は革命に目覚める。

この小説は、500人を超える朝鮮人革命家(あるいは難民)が敵ではなく仲間の手によって殺された悲惨際まりない事件、「民生団事件」を描いた初めての小説である。それについて解説すべきだが、字数制限により省略する。

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