スピノザ書簡32 オルデンブルグ宛

「部分と全体」 書簡32。オルデンブルグ宛 畠山尚志訳 岩波文庫 p171

 それから私は諸部分の連結ということを、単に或る一つの部分の法則や本性が他の部分の法則や本性と適合していてそれができるだけ相互に反発しないことになっている、ということとのみ解しています。また全体と部分の関係について申せば、諸物の本性が相互に和合していてそれらが出来るだけ互いに一致する限り、私はその諸物を或る全体の部分と見なし、これに反して、諸物が相互に調和しない限り、その各々はそれぞれ異なる観念を我々の精神の中に形成し、従ってそれは部分ではなく全体と見なされるのです。例えば、淋巴や乳糜の子粒(パルティクラ)の運動がその大いさや形状に関して相互に適合して、それらの粒子が相互に全く調和し、すべてが一緒に血液という一の流体を組成する限り、その限りにおいてのみ淋巴や乳糜は血液の部分として考察されます。しかし淋巴の粒子がその形状や運動に関して乳糜の粒子と調和せぬと考えられる限り、我々はこれらを部分としてではなく全体として考察するのです。

 今我々は、血液の中に一つの微細な虫が住んでいると想像しましょう。そしてこの虫は淋巴や乳糜の粒子を見分ける視力を持ち、また各々の粒子が他の粒子との衝突によって或いは反発したりあるいはこれに自己の運動の一部を伝えたりすることを観察し得る分別力をもっているとしましょう。この虫は、ちょうど我々が宇宙のこの部分に住んでいるようにこの血液の中に住んでいるでしょう。そして血液の各粒子を部分としてではなく全体として考察するでしょう。そしてこの虫は、すべての部分が血液の一般的本性によって規定されることや、すべての部分が血液の一般的本性が要求する通りに相互に適合しあうように強制されて一定の仕方でたがいに調和するようになっていることを知り得ないでしょう。ところでもし、我々が、血液の外部には血液に新しい運動を伝えるどんな原因も存在せずまた血液の外部には血液の粒子が自己の運動を伝え得る何らの空間、何ら他の物体が存在しないと想像するならば、血液は常に同じ状態に止まることになり、その粒子は血液の本性だけから、換言すれば、淋巴や乳糜の運動の一定割合から考え得られる以外のどんな変化をも受けないことが確かであり、そしてこのようにして血液は常に部分としてでなく全体として考察されねばならなくなるでしょう。しかし実際には、血液の本性の諸法則を一定の仕方で規定する極めて多くの他の原因が存在するのであり、またそれらは逆に血液によって規定されるのでありますから、この結果として、血液の諸部分の運動の相互的関係から結果される運動や変化だけでなく、血液の運動と外部の諸原因との相互関係から結果される他の運動・他の変化も血液の中に生じることになります。この点からすれば、血液は全体としての意味を失い、部分としての意味を持つのです。以上私は部分と全体について述べました。

 (略)即ち、すべての物体は他の諸物体によって取り囲まれ、かつ相互に一定の様式で存在し作用するように決定されます。しかもこの際、その全体においては、換言すれば全宇宙においては常に運動と静止の同じ割合が保持されているのです。この帰結として、すべての物体はそれが一定の仕方で規定されて存在する限り、全宇宙の一部であって、それはその全体と調和し、また残余の諸物体と連結するものと見られねばなりません。そして、宇宙の本姓は血液の本性と異なり、有限ではなく絶対に無限でありますから、宇宙の諸部分は、この無限な力の本性によって無限の仕方で規定され、かつ無限の変化を受けなければなりません。

長くなったが、血液という具体的例を上げているので、スピノザの思考の特徴がよく分かる文章だ。

1,諸物の本性が相互に和合していて互いの一致に至っている限り、それを「全体A」の一部でしかないと見なし、Aについてだけ考察していれば足りる。

2,これに反して、諸物が相互に調和していない場合、その各々に対する、それぞれ異なる観念を我々の精神の中に形成し、観察し、考察しなければならない。淋巴や乳糜の子粒について。

3,血液の外部には血液に新しい運動を伝えるどんな原因も存在せず、何らの空間、何ら他の物体も存在しないならば、全体Aについてだけ考察していれば足りる。

4,全体が結果として調和に至ろうと、それが各粒子の協力だけでなく抗争の合力である場合もある。スピノザは明示していないが「血液の本性の諸法則を一定の仕方で規定する極めて多くの他の原因が存在するのであり、またそれらは逆に血液によって規定されるのでありますから、」からはそれに近いことに気づいていたようだ。

5,「全体との調和」を強く強調しながら、それにも関わらず、それぞれの粒子に対する、それぞれ異なる観念を我々の精神の中に形成し、観察し、考察することに非常に熱心なのがスピノザだ。

すべての運動と静止は間接無限様態(自然全体)においてはひとつに組み合わさるかもしれない。が

エチカ レジュメ5

第5部 永遠

強さ: 不愉快なことも恨んだり気に病んだりしない:そういう力を最大に持っているのは障害者!

鈍感力 映画「さとにきたらええやん」 過剰に清潔化された「マイホーム」! 育児に対する期待水準が上がる 良い子でなければならない 空気を読む)に対するただ生きること(コナトゥス)

自由人は、自己以外のなんぴとにも従わず、自分が最も大事で最も欲することのみをよしとし、あれこれ非難する前に、直接よいことに赴く。 167

神への愛 人間のように喜んだり悲しんだりせず、無感動で、われわれを見守るまなざしすら持たない、そんな神をいったいどうやって愛せるというのか? 168

すべての事物が必然的である→感情に振り回されることが減少→受動から能動へ少し移行

5 定理一五 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己ならびに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。 170

定理21〜42 異様な緊張 永遠

「これはそうであって、それ以外ではありえない」という真なる観念:神の永遠なる本性の必然性そのもの 172

1定義八 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。

説明 なぜなら、このような存在は、ものの本質と同様に永遠の真理と考えられ、そしてそのゆえに持続や時間によっては説明されないからである。「始めも終わりもないもの持続」と、われわれは混同しがちだが注意すべき。

必然的にかく存在することと考えられる限り、事物の現実がいまこんなふうにあるそのことが「永遠」である。 175

のべたらに続く時間軸のうえのある点で、という把握をすべきでない

アインシュタインもそう確信していたであろう。自然法則の存在を確信する理性は、それとは知らず、神の永遠に出会っている。 176

第一種の認識 意見もしくは表象的認識 あやふやな認識

第二種の認識 理性的認識 ratio

共通認識を洗練させた 自然法則の永遠

第三種の認識 直感知   個物の認識

わたしという個物 この私に即して神が唯一であることと別のことではないと直感する 178

未来永劫誰も私に変わることはできない。それは自分がそれであるところのその永遠真理を、いわば内側からじかに生きている。猫Aも同じ。 p179

5定理二二 神の中には、このまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する。

5定理二三 人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。  死後の魂の存続と混同してはならない。 180

我々は我々の永遠であることを感じかつ経験する。なぜなら精神は、知性によって理解する事柄を、想起する事柄と同等に感ずるからである。つまり物を視、かつ観察する精神の眼がとりもなおさず我々が永遠であることの証明なのである。:同備考

第三種の認識 自分自身を永遠の相のもとに考える

自己の内なる永遠性と 神の永遠性 の一義性 181

精神はその身体の本質を永遠の相のもとに考える限りにおいてのみ物を永遠の相のもとに考える。したがって精神は(前定理により)永遠である限り神の認識を有する。:定理31証明

 定理三二 我々は第三種の認識において認識するすべてのことを楽しみ、しかもこの楽しみはその原因としての神の観念を伴っている。

定理三八 精神はより多くの物を第二種および第三種の認識において認識するに従ってそれだけ悪しき感情から働きを受けることが少なく、またそれだけ死を恐れることが少ない。

人間の根源的不安が「自分を認めてほしい、いや認めさせてやる」という欲望(名誉心)からやってくることを、スピノザはよく知っていた。しかしそれもおしまい。P190

絶対的な安心を人間が必要とするかぎり、神はそれを与えてくれる。

というのが、スピノザ・エチカの結論であるようだ。ところで安心は必要だろうか。宮沢賢治のように「おろおろ歩く」だけで終える人生もまた素晴らしい(辛いけど)。

どのようにしても与えて貰わなければならないものは、何人かの人間との信頼関係、あるいはそれの基礎と成るべき真理であろう。野原

エチカ レジュメ3・4

第3・4部 倫理

自由意志

余談:消費者主権(主流派経済学の根柢にある、消費者は自分の効用(満足度)が最も大きくなるように行動するという仮説)。ガルブレイスは企業が宣伝や広告などを通じて消費者の欲求を作り出す現象を「依存効果」と呼び、消費者主権に疑いの目を向けた。(日経新聞0925)

神にも人間にも自由な意志は存在しない 132 意志の主体をスピノザは認めない。

2定理四九 精神の中には観念が観念である限りにおいて含む以外のいかなる意志作用も、すなわちいかなる肯定ないし否定も存しない。

1,この説は、安らぎと最高の幸福を教え、正しい生き方がおのずとできるようになる効果をもたらす。

4,この説は、共同社会のために寄与する。

まとめると、自分を許す、社会を許す である。 134

4 定理二五 何びとも他の物のために自己の有を維持しようと努めはしない。

AであることはAであり続けようとすることだ、コナトゥス

4 定理一八備考:理性は各人が自己自身を愛すること、自己の利益・自己の真の利益を求めること、を要求する。 136

人間は与えられた間違った価値観により、名誉、金銭、性的対象を求めるものではないか?それに抗うためには、禁欲は有効なのでは? 野原

3定義二 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす〔能動〕と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こり私は我々が働きを受ける〔受動〕と言う。

喜び:喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。 3定理一一備考

よいものを求める欲望は、こんなふうに求めるべきものの認識がしっかりするほど強度を増し、コンスタントになる。140

4 定理二一 何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在すること、を欲することなしには幸福に生存し善く行動しかつ善く生活することを欲することができない。

幸福にあるいは善く生活し・行動しなどなどの欲望は人間の本質そのもの、言いかえれば各人が自己の有を維持しようと努める努力そのものだからである。> 世捨て人願望はダメ  140

強盗に出会う 起こることは私がどう想像しようが必然的に起こる。

そう腹をくくるとき、期待と恐れに振り回されることは止む。144

余計な恐れを持たない自由人は、自由に闘うあるいは逃げる 恐れは無駄。

憎しみとは、外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない 146

 例えば人間が自らを自由であると思っているのは、(すなわち彼らか自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、)誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。:2定理三五備考

3定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。

自由意志の幻想と感情の模倣、この二つが組み合わさって許せないでいる。

無理に許すのではない、自分の感情を自然現象として説明し理解してやる 147

理解は十全な観念による理性の能動。

悲しむべきとには正確に悲しんだ方がよいのではないか?野原

3定理51備考 その上憎む者に害悪を加え・愛する者に親切をなそうとする彼の欲望が私の躊躇するのを常とする害悪への恐れによって抑制されぬことを眼中に置くなら、私は彼を大胆と呼ぶであろう。次に私の軽視するのを常とする害悪を恐れる者は私には臆病に見えるであろう、その上もし彼の欲望が私のあえて躊躇しない害悪への恐れによって抑制されるということを眼中に置くなら、私は彼を小心と言うであろう。そして何びともこのようにして判断するであろう。

4定理五〇系備考 一切が神の本性の必然性から起こり、自然の永遠なる諸法則、諸規則に従って生ずることを正しく知る人は、たしかに、憎しみ、笑いあるいは軽蔑に価する何ものも見いださないであろうし、また何びとをも憐れむことがないであろう。むしろ彼は人間の徳が及ぶ限り、いわゆる正しく行ないて自ら楽しむことに努めるであろう。

無力のしるしでしかない否定的な感情から自分自身を救い出し、喜びと欲望だけからなる大いなる自己肯定へ向かうための、ゆるし。 149 (「謝罪」であっても、よい?)

エチカ は人間の感情と行動を説明するだけ、「〜すべし」とは言わない

説明そのものに ゆるしの効果がある (少なくとも事態は少しマシになる) 150

彼は自己ならびに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。5定理一五証明

スピノザは、強さと自己肯定を原理とする

系二 おのおのの人間が自己に有益なるものを最も多く求める時に、人間は相互に最も有益である。

人は他者とともに生きる

4 定理七一 自由の人々のみが相互に最も多く感謝しあう。

人間を結びつけてきたものは理性ではなく、感情だ。孤立への恐れは万人のうちにある。

ここから、人間たちはその本性からして国家状態を欲求する。 (国家論・岩波文庫)155

国家は、すべての人が、自発的にせよ力あるいは必要に強いられてにせよ、とにかく理性の指図に従って生活するように、制度化されなければならない。 156 国家の肯定

国家は本性上、服従を生産する巧妙な「術策」でしかありえないし、それで良い。157

恐怖によってではなく、「自分は導かれているのではなく自分の意向・自分の自由決定に従って生きているのであると思いうるようなふうに導かれなければならない」。国家論 157

政治を 倫理的な堕落として嘲笑・呪詛する憂鬱な思想 と手を切るべき! >現代的問題!

批判はすべきだが、嘲笑・呪詛は、ありもしない自己の倫理的高みを空想しているだけでありダメ。野原

4定理七三 理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に従って生活する国家においていっそう自由である。

そんなのは結局、現状是認にすぎない? いや違う。 158

欲望は実現してほしい事態を目的として思い浮かべる

哲学は、この目的を、完全な理想像としてはっきりさせることをすべき

最善の国家を造る 不完全だと批判するのはOK

不完全とは事物そのものに宿る性質ではない 比較する「思考の様態」にすぎない 159

AさんよりBさんの方が走るのが遅い しかしBさんの速度には必然性において生じているものであり(原因がある)、それに不完全・欠如と名付けるのは間違い 160

ところで、スピノザは早いほうが望ましいとは、言っていない(たぶん) 美しい方がよいとは言うが  内在的に最良であるために、ありったけの知恵は絞る。

だが、それ自身で見られれば、存在するどんなものも、そのつど完全である。161

エチカ レジュメ2

第二部 人間

人間:神あるいは自然の属性が、一定の仕方で表現される様態である スピノザ

デカルトの残した問題 107

1,観念と対象事物の一致が真 しかしデカルトにとっては主観的観念しかない

では真は どこに?

2,思考と延長は 共通点がない

精神と身体が一つになっている状態を考える ことができない 心脳問題

猫A身体 : 「猫A身体」の観念

並行論 同じものが 二つの形を もっている

(私が観念を持つ と考えると 私が猫Aを知らない場合、この等値はなりたたない)

延長属性のなかでは  因果連鎖・・・台風A

思考属性のなかでは  理由の連鎖・・・台風Aの観念 (われわれに分からなくても) 111

(このような発想のもとで、近代科学は進んできたのか)

2定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。 並行論

厳密に同等で並行しており、一方が他方に先立つということがない 創造説の否定 112

無限知性 思考属性の無限様態 すべての事物についての真なる考え

2定理三二 すべての観念は神に関係する限り真である。 真理空間

人間:人間精神は人間身体の観念あるいは認識にほかならない。:2定理19証明

2定義七 個物とは有限で定まった存在を有する物のことと解する。もし多数の個体(あるいは個物)がすべて同時に一結果の原因であるようなふうに一つの活動において協同するならば、私はその限りにおいてそのすべてを一つの個物と見なす。

人間精神は神の無限な知性の一部である。「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかならない。ここで読者は疑いもなく蹟(つまず)くであろう。:2定理一一系

下位レベルで物質諸部分が協同してある種の自律的パターンを局所に実現しているとき、その上に上位の個物ないし個体特性が併発している。 116

無数の階層

P→Q ものの真なる観念Qを理解・結論しているのは、近接原因のPである 118

思考の無限連鎖が自ら継起しながら思考している 116

無限知性は無限に多くの観念の連鎖からできており、そのどの部分をとっても前提→結論のようなつながり方をしている。

スピノザは考える主体を消去している、思考の無限連鎖が自ら継起しながら思考している 119

2 定理九 現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状(アフェクトゥス)した〔発現した〕と見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。

いわば無限平面をびっしり這いまわる連鎖状の知性だけだ 121

ものBとの接触によって 身体Aに変状aが起こる

私の精神:身体Aの観念が自分の身体に生じている状態aを知る、非十全ながら 122

万有霊魂論

定理16〜47  コントラストがはっきりしている。

16〜19 人間精神は身体が受ける刺激

24〜31 は、非妥当 黒っぽい

32〜34 は、真である、白い

37〜40 「共通概念」が登場し、 真理に近づいていく

41〜47 「第一種の認識:虚偽〔誤謬〕に対して、反して第二種および第三種の認識は必然的に真」が確認され、真理に近づいていく

身体刺激を通じてわれわれが物体的事物をリアルに知覚する 2定理16系1 124

「外部の物体の妥当な認識ならびに人間身体を組織する部分の妥当な認識は、神が人間精神に変状したと見られる限りにおいては神の中になく、神が他の多くの観念に変状したと見られる限りにおいて神の中に在る。この認識は神が人間精神の本性を構成する限りにおいては神の中にない。ゆえにこの変状の観念は、単に人間精神に関連している限りは、いわば前提のない結論のようなものである。

言いかえればそれは混乱した観念である。 定理28証明 125

無限平面をびっしり這いまわる連鎖状の真理>真理しかないのになぜ誤謬が生じるか? 人間は局所だけ切り取っているから 126

表象(イマギナチオ):主観的認識モード

共通概念:

2定理三八 すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にも在るものは、妥当にしか考えられることができない。

この帰結として、すべての人間に共通のいくつかの観念あるいは概念が存することになる。

われわれの身体と椅子は「座り」とでも言うべき中間項を共通なc として共有する 128

>だからといって神の思考になるのか? 共有、能動の度合いを少しずつ高めていく

感覚を通して知る、あるいは言葉から知る:第一種の認識。

共通概念から:第二種の認識(理性)

神のいくつかの属性の形相的本質の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進む:第三種の認識 定理40備考2 >5定理二五以降(最終部)で展開される

2定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。

われわれの知性には自分勝手に虚構できない真なる観念がいくつか与えられている。

知性はそのことを知っている、という前提があるのだそうだ。 72

現にいくつかの真理に到達しているわれわれの精神のようなものが、この世に存在するには、世界はどうなっていなければならないか、と問うのがスピノザ。

「生得的な道具としてわれわれの中に真の観念が存在しなければならない」知性改善論39節