「宮廷女官チャングムの誓い」について

 宮廷女官チャングムの誓い、54話もある長いドラマ。見ました。2003年の作品、脚本:キム・ヨンヒョン 演出:イ・ビョンフン。

 中宗(チュンジョン 1506年 – 1544年)時代ごろの朝鮮の王宮を舞台にしている。
 この時代に限らず朝鮮王朝時代は、支配階級のあいだに儒教が浸透し、女性のさまざまな活動が非常に制限されていた時代である。
 そのなかで、唯一王の主治医となり「大長今(偉大なるチャングム)」として歴史書に名前が残っている女性がチャングムなのだ。https://kankoku-drama.com/historia_topic/id=12001

 といっても、名前以外ほとんど資料がない。ありえたかもしれない一人の女性の闘いの一生を、作家は美しく描き出す事に成功した。(もっとのびのびと活躍したかったという500年間の女性の夢を、この一人の人物に集約させるように作られたキャラクターだとも言える。)

王宮には多くの女性たちがいた。王宮に入る女性は賤民や早くに両親を亡くしたものが多かったとされる。
https://zero-kihiroblog.com/trivia/nyokan/#index_id3
 重要な仕事をさせられることもある一方、都合が悪くなればいつでも殺すことができるそうした存在だったのだろう。男と違い最初から権利を持たない存在だと位置づけておけば、とても使いやすい。
 彼女たちは、幼くして王宮に連れてこられて以来、王宮の外に出ることも許されず、男性と付き合うことも許されず、子を持つこともできず寂しく死くしかない。王宮という人工的な世界でしか生きられない、死ぬとき以外王宮を出ることができない女性たち。

 ただ、ドラマでは女性たちが色鮮やかな料理を作っている日常が続き、基調はおだやかなので安心して見続けることができる。

このドラマのテーマは、ハン尚宮とチャングムとの世代を越えたシスターフッドだろう。その背後には、パク・ミョンイ(チャングムの母)とハン尚宮との友情が、ミョンイの水剌間(スラッカン、宮中の台所)からの追放、毒殺(未遂)により壊されるという関係がある。ミョンイを追放したのはチェ尚宮の一族。彼らがこの長いドラマで権力側としてずっと悪役をつとめる。チャングムを育て見守ってくれたハン尚宮も途中で追放され、その途上で死んでいく。

ドラマの最後では、チェ尚宮一派の罪は暴かれ裁かれることになる。ところが、チェ尚宮一人だけは逃げ出し、宮中の外にまで出ていく。どこに行くのかと思えば、なんと(自分が殺した)ミョンイの墓である。チェ尚宮とミョンイは、幼い頃から水剌間の見習いとして育った親友だったのだ。チェ尚宮は家と権力を守るために手を汚すことを厭わず生きてきた自分を、否定し反省するだけの力も持てず、幼年期に退行する。そして松の木の枝にかかったリボンを取ろうとして(あるいはそういう幻影を見て)崖から落ちて死んでしまう。

 クミョンはチェ尚宮の姪であり、水剌間の最高尚宮としての地位を引き継いだ。しかし幼いころはやはりチャングムとの友情があったのだ。
 女官たちは幼少期から世間から隔絶した閉鎖空間、理不尽な権力関係に振り回される奇妙な空間に生き続けなければならず、しかも出口はない。このような長く続く世界で営まれた、回帰するシスターフッドというものが、このドラマのテーマである。

チャングムは最初后と、次に王からも信頼を得ることが出来、それによって復讐を遂げることができた。后も王も最高権力という立場にありながら、誰にもこころを許すことができずひどく孤独である。それがチャングムを急に評価するようになった原因でもある。后はチャングムにこころを許すあまり、対立する王子(中宮)の命を縮めることを命じる。后との関係を断たない限り、悪に手を染めるしかない立場に置かれる。(宮中の権力関係というのは苛酷であり、ほとんど殺さなければ殺されるといった関係なのだ。)この直後、チャングムは一時的に水剌間の最高尚宮にもなる。この二つのエピソードが示しているのは、母を殺したチェ尚宮、このドラマの敵役とチャングムとの同一性である。存在様式としての同一性と言いたい。最高尚宮としてのチャングムの姿はそのことをビジュアル的にも明らかにしている。

 王宮という閉ざされた空間で繰り返されるのは、自己が生き延びるために他者を排除する悪に加担せざるをえないというつまらない反復である。
 それに対して、チャングムが貫いているのは、どんな場合にもその人を害することになる食事(あるいは医療)は出さないという倫理である。罪なくして死に追いやられた母とハン尚宮の復讐をするためにチャングムは王宮に帰ってきた、そして自ら悪行をすることなくして復讐を果たすという、不可能だと思われていたことをやり遂げた。

しかし、振り返ってみれば、幼い頃宮中に来てから死に至るまでチェ尚宮の生はミョンイの生の反復であり、同じようにチャングムの生を反復しているのがクミョンである。女官として同じような外見と人生から外れることができない彼女たちには、差異よりは反復が大きく感じられる。
 朝鮮王朝で何の積極性も主体性もなく抑圧されたばかりで数百年過ごした女性たち。そんなことはないと証したのがチャングムであり、そしてすべての女たちも、また少しづつはチャングムであったのだ。

 なお、「シスターフッドとは、男性優位の社会を変えるため、階級や人種、性的嗜好を超えて女性同士が連帯すること」とされる。https://www.tjapan.jp/entertainment/17528215 
 しかし、全く同じ空間、権力関係のなかで何十年もすごした女どうしの友情/憎悪、に対してもシスターフッドという言葉を使うことも許されるのではないか。

 朝鮮王朝期には男性優位の社会を変えるといった問題意識はまったくなかった。王宮という閉じられた世界では、どのように新しいことをやろうとしてもそれは挫折し出発点に戻るしかない。王宮の女性たちはすべて同じ立場に置かれており、そのことを良く知っている。その必然性を裏切る〈一瞬の夢〉としてチャングムは現れた。チャングムを見つめる女官たちの視線には、反復するシスターフッドが、逆説的に表れている。

困難女性支援法コメント

https://public-comment.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=495220328&Mode=0 こちらで、困難な問題を抱える女性への支援のための施策に関する基本的な方針、についてパブリック・コメントを求めていたので、書いてみました。

次のとおり、意見を書きます。

1・「時代が下るにつれ、社会経済状況の急激な変化とともに、女性の高学歴化が進み、就業率が上昇した。p1」
「にもかかわらず、女性の低賃金、雇用の不安定といった傾向は改善されず、パワハラ・セクハラ・解雇などの被害にあいやすい傾向が続いている。」ということを強調しておきたい。
なぜなら、
女性に対する支援だけのための法律を作るのは男性差別だという趣旨のパブコメが、大量に来ることが予想される。したがって、現状が顕著に女性差別的であるので対策が必要なのだ、という因果関係を明示する必要がある。

2・社会の変化に見合った婦人保護事業の見直しについて(p2)
ここで言う「社会の変化」とは何なのか?「女性の低賃金、雇用の不安定」の事実に変化がないという認識の上に、行政を行うべきだろう。

3・婦人補導院の廃止には賛成する。p3
「女性を婦人補導院に強制的に収容して矯正する補導処分」という思想が、「売春婦差別」の色合いが濃い。

4・「婦人保護事業は困難な問題を抱える女性への支援が重要な課題となっているにもかかわらず十分に活用されてこなかった状況」これが問題である。
「困難な問題を抱える女性」は特に、「本人が支援を求めない傾向が強い」。これは本人の自己肯定力が弱く、また行政による「上から」の支援に対する不信感が原因である。これを解きほぐしていくためには、相談員などによる持続的・粘り強い相談が必要である。

5・約84%は非常勤職員である(p7)。
婦人相談員手当等の増額は図られているようである。さらに、単年度雇用では相談の継続性も保証されない。会計年度任用職員制度の抜本改正が必要である。
常勤・正規化するのも一つの方法である。ただ、週4日など短時間職員のままで常勤化(雇用保障)する途を確立すべきである。

6・「市の女性相談支援員(旧婦人相談員)の相談実人数は1.3倍、延べ件数から見ると1.6倍となっている」p8
市役所・区役所の方が相談しやすいので、このような相談所を増加させる方が良いだろう。

7・「民間団体が独自にソーシャルネットワーキングサービス等も活用しつつアウトリーチや相談支援、居場所やシェルター、ステップハウスの提供や医療機関・行政機関等への同行支援等、生活再建に向けた支援の様々な支援策を展開している」p9
4に書いた理由によりこうした支援は、行政がやるより有効である場合がある。
ところで、現在暇空と名乗る人物がインタ―ネットで活躍し、良くわからない理由で、この種の活動の細部にケチを付ける活動が非常な盛り上がりを見せている。これは合理的理由がない理解しがたいものである。したがって、市民の意見ではあるがこれに類する意見については、厚労省は見識を持って無視していただきたい。

8・「性自認が女性であるトランスジェンダーの者」p9 についても、生きる上で大きな困難に出会う場合が多いので、この法の範囲で支援するようにしてほしい。

9・「とりわけ、性売買等の性的搾取・性的虐待・性暴力の被害により、尊厳を著しく傷つけられた女性には、これらの搾取等の構造から離れ、安心できる安定的な生活を確立し、心身の回復を時間をかけて図っていくことが必要である。」賛成する。

10・「また、性的搾取による被害が「性非行」として捉えられやすい若年女性(児童である場合や妊産婦を含む)については、その背後にある虐待、暴力、貧困、家族問題、孤立、障害などの問
題を十分に踏まえつつ」対応をお願いしたい。
また性的搾取でなくても、性交渉、妊娠などの場合学校当局が退学など苛酷な処分をする場合がある。性交渉や妊娠は罪ではないという基本認識を徹底し、本人(と場合によっては胎児)の立場に立った処遇を指導すべきである。

11・「相談に至っていないが支援が必要な女性に対し、民間団体等による気軽に立ち寄れる場や一時滞在場所において支援対象者に寄り添い、つながり続ける支援を行うことは、女性たちとの信頼関係の構築にとって重要であり、公的支援を必要とする女性への支援の提供に向けても有効であると考えられる。なお、相談に至っていないが支援が必要な女性には、女性自身が困難に気付いているが他者に言えない場合や、女性自身が気付いていない又は気付きを避けている場合、厳しい精神状態にある場合など様々な状態があり、女性自身の状態に配慮しつつ適切に対応していくことが重要である。」賛成。
(以上)

私は相談業務の仕事をしたこともないし、勉強不足で、内容は自信がない。
できれば批判してください。

イスラム映画祭2022感想

イスラム映画祭、終わっちゃったが、今年は特に女性映画の傑作が多かったと思う。本当に感動した!
『ヌーラは光を追う』ヒンド・サブリー主演。『ある歌い女の思い出』でやせっぽちの少女だったサブリーが、たくましく美しくなっている。すごく魅惑されてしまった。
テンポの良いストーリー展開。一般公開してほしい。

『ソフィアの願い』モロッコでは婚前交渉を行った者は1年以内の懲役。未婚の女性が突然破水、どうなるのかなと思ったら、これはちょっとびっくりする映画!
(映画には関係ないが日本では婚前交渉は当たり前だが、妊娠すればほぼ自動的に堕胎される。それも実はおかしいと思う。)

辻上奈美江さんによれば、この映画はルッキズムへの異議申し立てを見事に表現しているという。主人公ソフィアは「絶望的な表情を貫き、服装、立ち居振る舞いなど多くの人が美しいとは思えないだろう所作を意識的に演出しています。」そういわれるとなるほどと納得してしまう。完璧なフランス語を話す美貌の姉(しかも完璧に優しい)との対比が常に強調されている。
ルッキズム批判とかさかしらに口にしている人もいるみたいだがあまりピンとこなかった。このマーナーな映画は大きな達成を成し遂げていると評価できるのではないか。
ビンムバーラタ監督になぜそれが可能だったか。欧州とアフリカの境界の街では、美と不美人との落差はあからさまである。フランス的なものは美しくアフリカ的なものはそうではない。この構造を最初から突き付けられるのがモロッコの映画作家だからこそ、このような映画が作れたのだ。

『天国と大地の間で』ナジュワー・ナッジール監督。
若い男ターメルはパレスチナ難民だが1993年のオスロ合意で西岸ラーマッラーの高級住宅地に住んでいる。妻サルマはイスラエルのパレスチナ人でイスラエル市民権を持っている。二人は5年間の新婚生活に倦み、離婚を決意する。ただ映画では二人はそれほど仲悪そうにも見えず違和感がある。この夫婦はオスロ合意あるいはパレスチナ自治政府の暗喩なのだ。「譲歩して譲歩して疲れてしまった」みたいなセリフがあった。
離婚届を出しに夫婦はイスラエル領内に入る。パレスチナ問題というとユダヤ/パレスチナの問題だけかと思うがそうではなく、かってユダヤ人でも反体制派(共産主義者)が存在し、ナクバにおいて新支配者たちに必死の抵抗をしていた。サルマの父もそうでありターメルの父はその中で殺されていた。ターメルの父ガッサンに戸籍の空白があると指摘され二人は調査の旅に出る。彼は若い頃ハジャルというユダヤ人女性と暮らしていたらしいが。云々。パレスチナ人と並ぶユダヤ国家の犠牲者である「ミズラヒーム(=東方系ユダヤ人)」については省略。https://www.motoei.com/eventreport/islam7_0503event/
岡真理さんの解説を読むと、世界から多様性を消し去り、「ユダヤ」対「アラブ」という二項対立的価値観に押し込めること、そのことなしにはシオニズム国家イスラエルは成立しない、というふうなことなのかと思った。
夫婦は離婚したのか?たぶんしなかったのかも。パレスチナ自治政府は存在し、パレスチナ国もたぶん存在するから。絶望とともに。

去年のイスラム映画祭でやった『シェヘラザードの日記』はレバノンの女子刑務所におけるドラマセラピーを扱った映画だった。https://twitter.com/noharra/status/1389948467649286150
ボスニア・ヘルツェゴビナでは1992-1995、セルビア人、ムスリム人、クロアチア人が混住している地域だったが、独立の機運が高まり、3年半に渡り全土で紛争が続いた。
今年の『泣けない男たち』はその戦争で心に深い傷を負った(被害者として加害者として)、男たちにドラマセラピーを施そうとする話である。男たちはどうしても触れることができない心の傷を20年以上も隠し続けている。それを語り演じてみようとすること。それによって初めて凍結させていたタブーを溶くことができるはずだが。男たちは次第にふざけあったりもできるようになる。プールで水を掛け合う場面は印象的。しかし解放は難しく、激しい自傷や加害が起こってしまう。20年前の傷を癒やすために歩まなければならない具体的道行きは長い。
戦争は多くの人に長い長い苦しみを与えるものなのだ。いままであまり語られて来なかったが。

http://islamicff.com/movies.html イスラーム映画祭2022

待ってくれているお母さんからオープンレターまで

荒木優太氏の 文学+WEB版の文芸時評(第九回)
https://note.com/bungakuplus/n/n92fe85d1f32f を読んで、twitterに
オープンレター署名者が「オープンレター騒動で〈呉座勇一は悪い奴で解職されるのも当然だ〉とする立場」だとするのはいかがなものか。https://twitter.com/noharra/status/1494961188186505228

と書き込んだところ、荒木氏からそうは書いてないと反論があった。

(なお、「このオープンレターは、この問題(呉座氏女性差別発言問題)について背景にある仕組みをより深く考え、同様の問題が繰り返されぬよう行動することを、広く研究・教育・言論・メディアにかかわる人びとに呼びかけるものです。」が、このレターの趣旨である。2.22追記)
そこで、荒木氏の文章を改めて読んでみた。

荒木氏はコンビニの「お母さん食堂」に対する批判を取り上げているのだが、オープンレターの中心人物である北村氏が、2015年に行った「ご飯をつくるおかあさん」批判は取り上げていない。これがきになったので探すと、北村氏の批判とその対象の本文が両方ともでてきた。そこにさかのぼって、ゆっくり考えてみよう。

北村発言。:「https://saebou.hatenablog.com/entry/20150725/p1
 私が一番「これは全然ダメだ…」と思ったのは、「帰ったらご飯をつくって待ってくれているお母さん」がいることを平和な世界の象徴として訴えていたところである。これは自分の経験に基づいているのだろうが、全体的にものすごく家庭を守る母(「両親」ではない)とその子どもというイメージに依拠しており、はっきり言ってこのスピーチで提示されている「平和な家族像」というのはむしろ首相とその一派が推し進めているものに近い、母親が家にいて子どもを育て、家事や炊事をするという保守的・伝統的な性役割に基づいた家族モデルへのノスタルジーだと思った。」

これにはちょっと難しい問題があるかもしれない。

「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せを、ベビーカーに乗っている赤ちゃんが、私を見て、まだ歯の生えない口を開いて笑ってくれる幸せを、仕送りしてくれたお祖母ちゃんに『ありがとう』と電話して伝える幸せを、好きな人に教えてもらった音楽を帰りの電車の中で聞く幸せを、私はこういう小さな幸せを『平和』と呼ぶし、こういう毎日を守りたいんです。
 https://iwj.co.jp/wj/open/archives/254835」
 その女性は芝田さんという方で全文は公開されている。

小さな公園で幼児がよちよち歩いているのを見ると微笑ましい気分になる。数年前シリア情勢のニュースよく見ていた頃に、そのような情景を通りすぎると、公園全体が爆弾で破壊された情景を幻視することがあったほどだ。最近も午前10時ごろ公園で10分ほど過ごし、そうした幼児とお母さんの情景を十分に堪能した。ただウィークデイの日中でありかっての私の子どものような子は、ずっと保育所に居るはずだ。「幼児とお母さんの情景」自体をまつりあげると、確かに北村氏の言うような危惧は生まれる。
保育士は一度に多くの子どもを見なければいけない条件があるだけで、よちよち歩きの幼児の可愛らしさ自体を感じる情景を切り取ることはできるだろう。ただ私が見た公園では保育園児は見なかっただけだ。

思ったより整った文章だね。ただコピーライター風の達者さがあるので、北村氏の批判に根拠をあたえてしまった。言葉を超えた自分の常識である平和を描写したかったのだと思うが、CM映像のような情景を重ねてしまった。「母親が家にいて子どもを育て、家事や炊事をするという保守的・伝統的な性役割に基づいた家族モデルへのノスタルジー」とは直ちには思わないのだが。雄弁であろうとした時に、自分の実感をポピューラーなイメージに引きつけて表現したのだろう。

「帰ったらご飯をつくって待ってくれているお母さん」をうたい上げることが、「保守的・伝統的な性役割に基づいた家族モデル」の強化という政治的効果を持つ、と北村氏は言っているだろうか。
そう言っていないわけではないが、彼女の力点は、そこにはなく、「安倍を倒せ」をスローガンとする運動において「保守的・伝統的な性役割に基づいた家族モデル」にのっとったプロパガンダをすることは矛盾している、そのような問題意識を持って欲しいということだろう。

荒木氏は「おかあさん食堂」「ナチっぽい衣装」「ブラック企業」の例を上げ、「文言やイメージの流通それ自体が、差別的結果に結ばれる可能性がある――と見做される」論理のあり方を問題にしている。
これは行為の動機ではなく結果に照準するべきだとする責任観(北田暁大の言う「「強い」責任理論」)に立っていることだ、というのだ。
ナチとブラックについては、反ナチやBLMがその思想を広げる為に、それを許容している社会常識に挑戦しているのだ。おかあさん食堂も同様だろう。
つまり「この社会にはユダヤ人差別が、黒人差別が、家父長制的家族観がしみついている」という前提に立ち、それを強化するような、あるいは確信的にそう唱える言説に反発しているわけだ。そのときその言説が求めている結果とは何だろう。もちろん、ユダヤ人差別、黒人差別、家父長制の終焉である。しかしそれはあまりに巨大な目標でありすぐに達成できるといったものではない。私が詳細に検討した2015年の北村氏の批判も同じである。

荒木氏の文章は私にとって分かりくい。その原因は、この「結果」というものについて荒木氏が私とはまったく違うものをイメージしているみたいだ、という点にある。

志賀直哉『城の崎にて』での、川向うで休んでいたイモリをちょっと驚かせたいがために石を投げた行為が取り上げられる。この行為に対して、主人公の投石行為が(その前段にある鼠に石を投げる行為への)遅れてきた模倣欲の発露なのではないか、という解釈が書かれる。
「「マイクロアグレッション」でもいいし、最近の新語だと「トーンポリシング」でもいいのだが、人が用いているのを見ると自分もまた使ってみたくなるものだ。」そして最近のフェミニズム界隈の事例に戻る。

「結果」は何かと言うと、『城の崎にて』ではそのつもりではなかったのにイモリを殺してしまったこと。そしてここでは取り上げなかったが、「オープンター騒動」では、「呉座氏が解職されたこと」である。
オープンレターは解職を後押しするため書かれたものではない。したがって、オープンレター署名者が何らかの責任を感じる必要は一切ないのは自明だ。しかし荒木氏のこの文章は、非常に巧妙にそれを暗示しようとして、かなりの成功を収めている。ちょっと問題が在ると感じる。

「おかあさん食堂」「ナチっぽい衣装」「ブラック企業」そして荒木がなぜか取り上げなかった「ご飯をつくるお母さん」批判が、獲得しようとした「結果」はすべて、そのような(それぞれ違った差別の)不公正の是正である。それはオープンレターの文面にも繰り返し書かれていることだ。
ところが、荒木氏は何の関係もない志賀直哉『城の崎にて』を突然取り上げ、獲得しようとした「結果」が普遍的なものではなく、「解職」であったかのように文章を書いている。
文章はいつも普遍的な思想や美をテーマにするが、俗人はそれをなにかの具体的事件と結びつけて邪推する。文章の効果(結果)についてこのような詭弁を書いていると、いつかは文章家である自分自身がつまらない因縁を付けられる危険性がある。そういう可能性は十分あると思うけどね。

追記:
「オープンレター」でgoogle検索すると、一番上に、古谷経衡氏の文章が来て、2、「アゴラ編集部」の記事、3、78件のtogetterのまとめ 4、小山晃弘(狂)氏の文章、5、「オープンレター差出人・賛同人から離脱・撤回した人らまとめ」 6、でようやく「女性差別的な文化を脱するために」という「オープンレター」の本文がある。
卑小な論争(ケチつけ)の地平に足をとられたくないので、私は1から5までは読んでいない。とにかく、現在「オープンレター」はバックラッシュの大波に飲み込まれたかのような状況である。わたしはオープンレターそのものよりも、オープンレター批判を否定することに興味がある。従軍慰問題そのものよりも、従軍慰問題を避妊しようとする言説を否定することに興味があることの連続性で。
新進の批評家としての荒木さんには今までも学ばせていただいたし、嫌われたくはないのだが。(2.22追記)

柴原浦子と近代日本

藤目ゆき氏の『性の歴史学』と題されてた本を読んだので、感想を書きたい。1997年出版。不二出版。

性愛、出産、家族といったものは、プライベートにして自然な領域とされ語られず思考の対象にならなかった。しかし実際はそれ自体が、近代によってあたらしく生み出されたといっていいほどの大きな変容を受けているものなのだ。

近代とは何か?近代というものが耐え難いほどの大きな痛み〜裂け目(slits)に向き合うことであるなら、それを端的に示すのは次のようなエピソードだろう。

「洋の東西を問わず、(性病)診断は、これを強制される女性にとって甚だしい恥辱だった。」
「英国植民地のインドでは、1880年代に性病検診の屈辱に耐えかねた女性たちが何千人も逃亡し、逃げ延びる先もなく餓死に瀕したといわれる。
しかし、性病検診の強制を性病予防という「文明」の顕現とみなす人々は、これを歓迎し日本に導入した。」
「「衆妓たとえ如何様ありても、この治療は受けがたしとて或いは声を揚げて泣き、あるいは遁れんとして狂走せしが、一室に鎖したれば、一人残らず改められ、大蛇の口を遁れたるものなかりしとぞ」という暴力的な実施が始まる。
官憲が立会い、衆人監視のもとで下半身をさらされ、またなれない医師が怪我をさせたり、実験材料にされたりすることもあった。逃亡する者、検査日だけ姿を隠す者、さらには自殺する女性もいた。」(p91)

わたしたちは約150年ほど前から近代化を受け入れた。幼い頃から小学校に通い、先生の言うことを聞き理解し覚えていくように自分の身体を変えていく。
公娼制度の導入においては、近代と身体はもっと劇的に出会う。女性のプライバシーの核心とされる性器に、近代の光をあて、注視する行為は、近代というものにはじめて出会う無学な女性たちにとって非常に暴力的なものであっただろう。

そういうふうに、近代公娼制度は日本に導入されていく。
公娼制度はナポレオン時代にパリで始まったもの、軍隊の慰安と性病の管理を基軸とする国家管理売春の体系である。(p409)
日本軍慰安婦制度との対比において、公娼制度は合法的な自然な市民に開かれた制度であるかにイメージされることが多い。しかしそれはまったく違っており、公娼制度もまた基本的に国軍のための制度である。
「日本の公娼制度は明治新政権の下で近代的に再編され、人民収奪体系として機能し、日本の下層階級の女性と植民地の女性たちを組み入れて発展していく。遊郭は地域に巨額な金をおとし商業者を潤し、国家とその地方庁は娼婦からの直接的間接的徴税で莫大な財政収入を獲得でき、軍隊は買春によって性病にかかる心配なく「慰安」される。」(p410)これが近代国家における公娼制の重要性である。

1880年群馬県のクリスチャン民権家によって始まった廃娼運動は91年「廃娼令」を勝ち取る。全国には波及しなかったものの日本キリスト教婦人矯風会などを中心とする廃娼運動は粘り強く続いていく。
しかし、藤目は村上信彦らの先行者と異なりこうした運動への評価は低い。
一つは、「群馬廃娼後の娼妓たちの多くは、他府県で娼妓を続けるか、県内で類似の接客業に転業している」(p101)
もう一つ藤目の強調するのは矯風会婦人活動家たちが持っていた「醜業婦」観である。日本では本来、「売春に従事した女性が「消すことのできぬ烙印をおされるようなこともなく、したがって結婚もできるし、そしてまた実際に婚姻」した。婚姻外の性関係を罪悪視し、「純潔」でない女性に汚名をきせ排除するというのは西欧的価値観」である。しかるに日本の廃娼運動家はこの価値観をしっかり受容した。娼婦はその存在自体が悪であるという窮極の差別に繋がりうるものであり、娼婦たちの救済には役立たない。

このような状況のなかで、柴原浦子というひとりの女性を、藤目は肯定的に大きく取り上げている。

柴原浦子 1887年生 広島県の田舎で生まれ、看護婦の資格を取る。医師と結婚するが間もなく離婚。看護婦に比べ生活の安定を得られる職業である産婆の資格を取る。1910年頃から、出産時の死亡率の改善のため「新産婆」の普及が国策となっていた。
広島県の産婆なき村で開業し、極貧の家庭のためにも献身的に仕事をした。また衛生思想の普及にも努めた。
1920年頃から、「婦人の徳の涵養」、婦人選挙権、産児制限運動などにとりくむ各種婦人運動が盛んになった。
当時の貧しい母親の多くは子沢山に悩んでいた。彼女たちに寄り添おうとして柴原は産児制限運動に邁進する。
1930年、そうした運動の中心地の一つ大阪(天王寺の南方、釜ヶ崎、飛田の近く)に、産児制限の相談所を彼女は開設、相談者が殺到する。貧困による産児調節を求めて為政者とも対立する。
1931年満州事変勃発以降、「産めよ殖やせよ」がスローガンになり、産児制限運動への弾圧も厳しくなる。困難に陥った女性を助けようとする柴原は、非公然の中絶を助けることもあった。お上品な正義感や時代の流れなど気にせず自分が取り組むべき事象にたちむかった柴原は、1933年堕胎罪で起訴され有罪となる。執行猶予中もなお彼女は行為を改めず、1935年再び検挙、1年5ヶ月の実刑判決を受ける。
戦時期は奈良県大和小泉の被差別部落に入り、助産、避妊指導、妊娠中絶を引き受けた。
しかし彼女は「天皇様のためにやっている」と語っていた。どんなに貧しくてもみな「天皇様の赤子」であり平等なのだ、という信念である。

私は彼女の生き方を知って感心した。一方で産児制限や階級闘争についての数限りない難しい論争がある。そのような理論や論争に生涯を傾ける値打ちがあるのか。正しい理論は正しい生き方を保証しない。権力の弾圧に負け何らかの転向を余儀なくされるだけだろう。一方で左翼でなかった柴原は、敗戦までの時期、貧者の生殖の困難という問題を救うという目的を弾圧にもめげず貫いた。
正しい生き方をしたいとは私は実はあまり思っていない。しかし何が正しいのか。正しい思想を獲得することより大事なことがある、という結論にもなる。柴原の生き方を素直に考えると。
柴原浦子は藤目氏以外に取り上げる人もおらずほぼ忘れられているようだが、偉大な人物としてもっと知られるべきではないかと思う。

さてもうひとつ、藤目が肯定的にとりあげているのは、次の運動だ。
戦後1956年、売春防止法が成立の直前、赤線で働く女性たちは法案が通ると、今よりひどい違法なヤクザなどに支配される(青線、白線)に移行せざるを得ないことをおそれ、法案に反対していた。東京都女子従業員連合会を作り4500人が加入した。生業を一挙に違法化し奪う以上、更生資金を要求しようとしたのだ。しかしその要求は相手にされなかった。その国家の態度の背後には、売春婦は醜業婦であるとする廃娼運動女性たち自身の偏見もあったと藤目は指摘する。

1991年金学順のカムアウトからいわゆる慰安婦問題は始まった。日本のフェミニストたちが慰安婦問題を知らなかったはずはない。(同じような名前である従軍看護婦体験者たちが一番良く知っていたはずだ。でも語っているのは見たことがない。)
かって廃娼運動家たちは「大日本帝国の海外膨張を疑わず「醜業婦」を取り締り軍隊を保護せんとする志向と娼婦に心を寄せるよりも妻・母として夫・息子を「誘惑する」娼婦に反感をいだく心性」をもっていた(p323)。戦後国会議員などになっていった彼女たちの後輩たちの心根もそれほどは、変化していなかったのではないか。それが「慰安婦」に対する46年間の沈黙につながったのではないか。まあそのような推測も少しはあたっているであろう。

『性の歴史学』分厚く地味な本だが、いまだ「慰安婦問題」から抜け出せない日本を根底から考える上でも読んでおきたい本である。

戦時・性暴力連続体と女性のエイジェンシー

上野千鶴子・蘭信三・平井和子編集の『戦争と性暴力の比較史に向けて』という論文集を読んだ。研究者12人による論文集である。
以下、ランダムなメモ。

戦争は物理的だけでなく構造的暴力である。人間を従属下に置きコントロールすることである。「強姦から売買春、恋愛まで、さらには妊娠、中絶、出産から結婚までの多様性を含んでいる。」このような連続性を語るのは「事実このあいだに連続性があって、境界を引くことが難しいからである。」

「女性の異性間性行為の経験は……圧力による選択から力による強制までの、連続体上に存在する(リズ・ケリー)」
まあとにかく、「性暴力連続体」、上野が提起するそれを受け入れて話を続けよう。
強姦と犯罪化されないものはすべて無罪でありOKと考えるしかないという、ネトウヨ的基準をどのようにしても覆す必要は常にあるわけだ。

性暴力には連続性があるのに、そこにはさまざまな形で分割線が引かれる。

A.性暴力連続体に対して、加害者性の認定を最低限にしたいと考えるネトウヨや政府関係者は、法的に有罪であるものだけが有罪であり、それ以外は「道徳的に可哀想なだけだ」という分割線を、強く主張する。

B.しかし、日本軍の責任において慰安所が設置・運営されており、そこでの生活が離職の自由がないなど強制下のものであった場合は、日本国家に責任が生じるのは当然である。有責とされる範囲はA.の場合より広くなる。

C.さらに、兵士個人の犯罪とみなさざるをえないもの、軍から独立した民営施設における売春などでは国家の責任は直ちには問いにくい。しかしその場合でも、軍、占領、戦争といった圧倒的な暴力を背景にそれぞれの行為が起こっている以上、任意の自由な男女の関係とみなすことも適切ではない。

個人は十全の自由意志を持ち自己身体を自由にコントロールできる、というのが近代法を支える人間観である。しかし戦時性暴力を考察する時には、そうした「強い主体」を前提にすると、うまく分析できないことがある。

「エイジェンシー」という用語はこのような時便利である。
「エイジェンシーとは構築主義パラダイムが、構造と主体の隘路を突破するために創りだした概念である。それは近代の主客二元論を克服するために、完全に自由な「負荷なき主体」でもなく、完全に受動的な客体でもない、制約された条件のもとでも行使される能動性を指す。(略)
女性は制約のない完全に自由な主体でもないが、だからといって歴史にただ受動的に翻弄されるだけの客体でもない。
p11 上野千鶴子『戦争と性暴力の比較史に向けて』」

被害者としての立場で加害者を告発する、大きな暴力が存在しそれが抑圧され続けている以上社会的にはそれが、第一義的な課題となる。
しかしだからといって、女性は「たんに受動的な犠牲者」であったわけではない。さまざまな体験があった。「ときには強姦と売春、そして合意のうえでの性交を分ける線の幅の細さに、自分自身でとまどって」(同書p162)いながらも、ギリギリの生存戦略を選択していく。

売春という言葉を自由意志による商行為、すなわち管理者・軍の責任の全面免除という意味にしか理解しない自己の偏見を無理やり拡大することで、ネトウヨは世論にさえ影響を与えている。このような状況下では「エイジェンシー」という発想を提示することも、ひとつの困難さはある。しかし、どんな場合もひとはまったき自由の下では生きていない。まして、戦時性暴力という巨大な磁場のなかで生きる女性たちの実存に近づくためには、まずネトウヨ的平板かつ責任回避的問題設定をひていしなければならない。次にそれぞれの情況で女性たちが、どのようなエイジェンシーを行使して生きたのか、微細に見ていく必要もあるのだ。

性暴力被害者は常に、暴力からの被害と同時に、汚れた女〜売春婦差別という別の差別にもさらされ続ける。重層化する差別と抑圧はあるが、「従軍慰安婦」問題については、支援者側の支援・調査研究(試行錯誤からはじまった)の分厚い歴史がある。
ネトウヨ側のミスリードにさえ引っかからなければ、接近は難しくない。

ただまあ、結婚とかだとそれは100%祝福され無罪なものと考えられるので、戦時性暴力といったおぞましいものと関係があるとするのは受け入れ難いと感じる人は多いだろう。
しかし、「第二次世界大戦後、日本の連合国軍占領のために駐留していた米軍兵士と結婚し、米国に渡った日本人戦争花嫁は、戦後すぐから1950年代末までで合計約40,000人に達するといわれている[ウィキペ]。」
しかし彼女たちはパンパンと呼ばれ極端に差別され続けた女たちとかなり重なるカテゴリーである。敗戦国民や戦勝国民の良識派の人々からの差別も含めて考察する必要があるなら、この連続体の意味は明白にあるだろう。

追記:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RA62V3XFWJZRL/ref=cm_cr_arp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4000612433
「上野氏は朴裕河氏の「帝国の慰安婦」に対する、傍目には奇妙としか言いようのない肩入れぶりをめぐって、いろいろと非難されている。」非難する側に立って上野氏をDISってこの本の紹介。面白い。
朴裕河氏の『帝国の慰安婦』がクズ本であるのは言うまでもない。→

朴裕河『帝国の慰安婦』どうなのか?

幽閉された詩人 劉霞

劉霞の詩集『毒薬』が劉燕子・田島安江訳編で、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)という福岡の小出版社からこの3月に、刊行された。
以下、その書評。

ある朝、眠りから醒めると/暗い影が夢から現れたようにゆっくりと動き/さきほどから私の視線をさえぎる/時はながれ、季節はめぐっても/あの、先がみえぬほど長くて残忍な朝が/ずっとつづき終わることがない

一脚の椅子と一本の煙管(パイプ)/記憶の中であなたを待ち続けても徒労だけ/誰も街角を歩くあなたを見たりしない/ひとみの中を小鳥が飛び/葉の落ちた木からオリーブの実が一粒落ちる [1] 同書 p58

劉霞、劉暁波の妻。
中国は共和国である。その民主主義をもう一歩進めようと劉暁波は2008年「零八憲章」を起草した。暁波はテロリストでもなんでもなく教科書的民主主義を要求しただけだが、中国共産党は許さず、囚われた。欧州の民主主義者たちは、彼の自由を求めて彼にノーベル賞を授与した。獄中の暁波は授賞式に出られないので劉霞が代理出席すべきところ、中国当局はそれも許さず、逆に劉霞の発言一切を徹底的に抑圧した。彼女は劉暁波と違い、どんな罪にも問われていないしたがって、共和国公民として海外渡航の自由を含む自由を持っているはずで、そのことは当局も公式に認めている。しかし実際には彼女は自分の友人にも会えず、近所のマーケットにも自由に行くことができず、徹底的に幽閉されている。暁波は去年7月亡くなったが、彼の死後も劉霞に対する事実上の徹底的な幽閉は続いている。

冒頭に引用した詩は、1997年に書かれた「黒い影 ―暁波へ―」。「1996年10月8日、早朝、二人が寝ているとドアがノックされ、警官が押し入り、劉暁波は妻に別れを告げる間もなく連行された(三度目の投獄)」と訳者注が付いている。20年以上、暁波がずっと囚われていたわけではない。またこの詩を書いた時点でそれに近いことが起こるなど予想もしなかったはずだ。にも関わらず、彼女の二十数年はおよそ「長くて残忍な朝が/ずっとつづき終わることがない」と要約できる。
そこにあるのは「ひとみの中」で飛んでいる小鳥である。人は自由であるとき自由を自覚できない。だからといって自由でなければ自由を自覚できるわけでもない。しかし劉霞は、悲しみのなかで、小鳥=自由を獲得し、小鳥とともに生き続けた。

劉霞は大丈夫なのか?彼女は劉暁波のことしか考えていなかった。また幽閉されすべての友人との関係を断たれ、他の事を考える自由を奪われた。であるのに、去年7月劉暁波は死んだ。劉霞はどうなってしまうのだろう。
詩集を読めばその答えは分かる。彼女は大丈夫だ。生きながら琥珀に閉じ込められた美しい小さな蛾のような劉霞は。

彼女の世界は不在と拒否で特徴づけられている。

あちらにもこちらにも空いている椅子/こんなにたくさんの空いている椅子が/世界のあちこちにあるけれど[2] 同書 p94

空いている椅子があれば人が座っている椅子もあるはずだが、彼女は「空いている椅子」だけに魅せられる。ある椅子に座ると「凍えるほどかじかんでしまい/身動きできなくなってしまう」 劉暁波の不在だけが彼女のテーマである以上、それはしかたがないことだ。

うちのドアをノックしないで/もう決してしないで/いや、するな/ /
うちには人がいない/私たちはただの人形/蒼穹の手に引かれる人形/いまはぐっすり眠っている/ / [3] 同書 p102

この詩は1998年11月とあるが、劉暁波は帰って来ているようだ。しかし詩のトーンはほとんど変わらない。劉暁波もまた六四天安門事件の死者を背負った詩人で、そこから発する言葉は他人に届かない、そうである暁波と二人でいる幸せを沈黙に閉じ込めることを劉霞は選んだ。

カーテンの裏側で/数えきれないローソクが/真っ暗で突き刺すような寒風の中/粘り強く灯っている/わたしたちは亡霊とともに/灯火を手に声を押し殺して哭(な)く/ /
お願い、ノックする見知らぬ人よ/ここから立ち去って/私たちはまだ眠らなければならないの/睡眠によって力を蓄えるために/大きなカーテンを開くとき/わたしたちは何も畏れずに対峙する/あなたちといっしょに/拍手喝采なんてごめんだから [4] 同書 p105

劉霞の拒絶は、「いまだけ」のものだ。「真っ暗で突き刺すような寒風の中粘り強く灯っている数えきれないローソク」とともに、劉霞は生きている。余りにも長く続く「幽閉」状況に合わせて、文体を作ってきた劉霞は、いま挫折してはいない。もう少し幽閉状況が続いても、生き延び、表現し続け、私たちに新しい姿を見せてくれるだろう。

追記:劉霞に自由を!!
劉霞は何の法的根拠もなく一切の自由を奪われている(友人と話したり、手紙を書いたり、作品の感想を聞いたりできない)、零八憲章発表後(特にノーベル賞受賞以後)10年近く。これはまったく不当なことであり、中国当局は至急彼女に自由を与えるべきである。鬱状態に加えて心疾患も危惧されている。ところで、2018年4月2日に亡くなったウィニー・マンデラのことを、先日ある集会で出会った若い南アのアクティヴィストは、(わたしたちの)ママと呼び、深く追悼していた。ネルソン・マンデラが28年間獄中にあった時期、ウィニーがいわば代理として政治的に大きな活躍をしたのは広く知られている。劉霞は政治的志向がなくそうした活動をしたいとは思わないだろうが、一切の自由を奪うとは、中国国家は、アベルトヘイト国家を大きく下回る最低国家ということになる。

References

References
1 同書 p58
2 同書 p94
3 同書 p102
4 同書 p105

在米「歴史戦」敗北の総括について

(1)
『海を渡る「慰安婦」問題 ー右派の「歴史戦」を問うー』は、岩波書店から2016年に出た本だ。著者は山口智美、能川元一、テッサ・モーリス-スズキ、小山エミと、テッサさんを除けばツイッターでおなじみの論客。
そのわりに、きちんと紹介されていないかもしれない。今回、ある特定の意図をもって、第2章アメリカ「慰安婦」碑設置への攻撃(小山エミ)の部分を読んでみたい。

2010年アメリカのニュージャージー州パリセイズパークに「慰安婦」碑が建てられた。次にカリフォルニア州グレンデール市でも「慰安婦」碑が計画されたが、これには一部の日系人による反対運動が起こった。ロサンゼルスでのこの反対運動の中心にいたのは目良浩一という人。この運動に集まった人の多くは1990年前後以降に渡米した新一世と呼ばれる人びと。それに対して、大戦中の日系人収容政策についてアメリカ政府から謝罪と補償を求めて以前から運動をしていた日系人のグループは、「慰安婦」碑設置に賛成する立場を取るに至った。

日系人収容所問題と「慰安婦」問題はいくつかの共通点がある。ひとつは1980年から1990年始めという、戦後処理としては少し遅れて始まっている点。また、アメリカで当時日系人が大日本帝国の手先かもしれないと危険視された背景には人種的偏見があった。「慰安婦」問題の背景にも、韓国人、中国人その他への(非日本人への)人種的偏見があった。などだ。「あとからやってきた保守系日本人たちが、(略)日系人代表のようなふりをして大日本帝国を援護する運動を始めたことに日系人が反発するのは当然だった。(p45)」

2013年7月慰安婦像設立。2014年5月、青山繁晴は関西放送で「日本人のこどもたちが毎日毎日、ひどいいじめにあっていて」と発言した。そしてこれは週刊新潮、週間SPA!などでも取り上げられ広く流布した。しかしこの「イジメ」が実在するのかどうか?検証しても証拠は出てきていない。

「こうした「日本人いじめ」について現地の日系人団体に聞いてみたところ、そのような噂をきいたことすらない、との回答が得られた。」さらに「日系人団体の人たちと協力して、現地の警察・学校・教育委員会、その他さまざまな機関や民間団体に問い合わせたが、やはり何の相談も通報も報告されていなかった。」現地の地方紙や全国紙、さらに日本の全国紙の記者も何も発見できず。東京新聞が外務省に問い合わせた結果も同じ。
「「日本人いじめ」の実態は、その実在を主張する保守派の側ですらつかめていない。たとえば、日本から杉田水脈をはじめとする次世代の党(当時)の現職国会議員三名画グレンデール市を訪れ、いじめ被害を受けた児童の保護者との面談を希望したが、結局見つからずに面談することができなかった。」(p48)

青山繁晴及び週刊新潮、週間SPA!などが取り上げた「慰安婦像に起因する日本人児童いじめ」の存在は疑わしい。ほぼまちがいなくデマである。この点について、杉田水脈さんの現時点での判断をお聞きしたいものだ。

(2)
目良ら「歴史の真実を求める世界連合会」(GAHT)がロサンゼルスの連邦地方裁判所でグレンデール「慰安婦」碑の撤去を求める裁判を起こした。藤岡信勝、山本優美子、加瀬英明らがメンバーだ。その主張の第一は、一自治体が「慰安婦」問題を取り上げるのは連邦政府だけが持っている外交権限を侵害するというもの。慰安婦についての歴史的事実については主張していない。また「日本人いじめ」などの具体的な被害の訴えもない。訴えは却下。次に州裁判所に訴えたが、「原告の訴えは「連邦主義と民主主義の根本的な原理に反するもの」だ」として、なんの正当性もないばかりか、自由な言論を封殺するものだ」として、なんの正当性もないばかりか、自由な言論を封殺する恫喝訴訟だと認定」された。

一方で連邦控訴裁判所に控訴したと、小山本に書いてあったので、GAHTのサイトを見ると次の文章を発見。
「結果は残念ながら、米国最高裁判所への申請が採択されずに、控訴裁判所の判決が最終判決となったために、目的を達成することが出来ませんでした。しかし、最高裁に申請書を提出した直後に、それまで冷淡であった日本政府が、我々を支援するアミカス・キュリエと称する「意見書」を提出して、我々の申請を熱情をもって支援しました。 gahtjp.org/?p=1846 」
負けたのは当然だが、なんと日本政府が支援の意見書を出したという。日本政府に抗議したい。

(3)サンフランシスコ市で「慰安婦」碑公聴会
反「慰安婦」碑勢力は、アメリカ内で盛んにイベントを開催している。しかし、米国人などに訴えかけるために英語で行われたものは、大きな抗議活動に迎えられるのが常で、成果を上げていない。(同書p52-56)

2015年から今度は、サンフランシスコ市で「慰安婦」碑設置の動きが出た。
GAHTの目良、幸福の科学の田口、セントラルワシントン大学の岡田ら、多くの在米日本人が市議会に押しかけ反対意見を述べた。他の町でなかったのは、ジャパンタウンの有力者のうち数人が反対にまわったこと。それは在サンフランシスコ日本領事館からの働きかけによる。また大阪市も姉妹都市としてさまざまな反対運動をした。公聴会が開かれ、多くの人が証言をした。賛成派は元「慰安婦」・李容洙、日系人その他のアジア系アメリカ人など。
反対派は、目良、水島一郎、ロサンゼルスの日本人団体「真実の日本ネットワーク」の今村照美ら。
「目良は「二〇万人の被害者、強制、性奴隷など、慰安婦問題について言われていることはすべて嘘だ」と言ったのち、サラ・ソー教授の著書を振りかざし、目の前にいる元慰安婦の李を名指しして「この人の証言は信用できない」と批判した。」
しかし「ソーの著書では、元「慰安婦」の証言の一部に誇張や間違いが含まれることは、日本の保守派が言うような「日本は事実と異なることでいわれのない非難を受けている」ということを意味しない、とはっきり指摘している。」(p61)

このような老婦人に対する目良の侮辱は、議員に激しい反発を受けた。建設は全員一致の賛成を得た。

(4)2016年3月国連本部で
「同年三月には、国連本部近くの会場で、目良、藤木、杉田、藤井(論破プロジェクト)、山本(なでしこアクション)、細谷(日本近現代史研究会)、鈴木(ニューヨーク正論の会)、マラーノ(「テキサス親父」)が四回に及ぶイベントを開催し、日本語と英語で「慰安婦」問題は虚構であると訴えた。もっとも英語で開催したイベントでは、「日本人は弱者をいたわるが、韓国人はドブに落ちた犬を叩く文化だ」(細谷)、「あなたたちが信じているのは捏造だ」(目良)、「元慰安婦を自称する人には、政治的プロパガンダに利用されて、支援団体からこう話しなさい、ああ話しなさいというトレーニングを受けている人がいる」(杉田)などの発言で、聴衆から猛反発を受けていた。特に紛糾したイベントの後、杉田は「観客は全員韓国、中国に洗脳された桜ばかり」「挺対協や世界抗日連合が後ろにいて、国連の職員を始め、韓国人、中国人、日本人以外の人達を動員していた」とブログに書いたが、日本国内でしか通用しないような自分たちの発言が聴衆を完全に敵に回したという認識ができないのだろうか。」(p67)

以上が、小山エミ「アメリカ「慰安婦」碑設置への攻撃」という文章のつたない概要となる。
わたしの言いたいことは、反対派は反対の根拠を提出することがまったくできていない、ということだ。慰安婦は存在した。少なくともほとんどの慰安婦に離職の自由はなかった。つまり「強制的な状況の下での痛ましい労働・生活」を彼女たちに与えたことは事実であり、それが事実であるがゆえに、日本は河野談話と2015年と少なくとも2回謝罪しているのだ。
したがってわたしたちは「(被害者)すべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ち」を持ち続けている。したがって、慰安婦像を不快に感じることもない。杉田氏ら反対派のひとが何を言っているのか、何が言いたいのか、まったく理解できない。したがって当然、米国人や韓国人、フィリピン人なども理解できないだろう。

杉田水脈議員にお願いする。あなたがいままでやってきたこのような行動は馬鹿げているだけであり、米国人の理解をまったく得られず、日本の名誉をかえって傷つけるものであるので、直ちに中止してください。

朴裕河『帝国の慰安婦』どうなのか?

2年前(2015-08-01)に書いたブログを、この本は最近も話題になっているようなので、ここに再掲するつもりだったが、かなり大幅に改稿した。
(参考:初稿

■『帝国の慰安婦』、読んでみた。

朴裕河氏の『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版 2014年)という本が机の上にある。副題を「植民地支配と記憶の闘い」と言う。
この本はその内容よりもその反響の大きさによって、有名になってしまった本である。だが、端的に言って「慰安婦問題」に対する彼女の把握は、非常に歪んだものである。
検索すると、朴 裕河さん本人の書いた文章がでてくる。私の目的はその本を論じることよりも、彼女が描き出している「慰安婦」なるものが、いかにゆがんでいるか?を、読者に示すことである。
したがってまず、本書ではなく上記文章から、短い文章を二つ抜き出してコメントすることにする。

(1)慰安婦のなかにある「愛国的志」の過大評価

日本の場合、最初は日本に入ってきた外国軍人のためにそういう女性たちが提供されていたが、同じ頃から海外へもでかけるようになっていた。いわゆる「からゆきさん」がそれで、彼女たちの殆どは貧しい家庭出身で親に売られたり家のために自分を犠牲にした女性たちだった。

これを強調するのは正しい。からゆきさんたちがどれほど苦労しそして沈黙のうちに死んでいったかを日本人は忘れており思い出す必要があるから。慰安婦たちのすぐ前の時代に。

「からゆきさん」の「娘子軍」化
からゆきさんの中には、たとえ売られてきていわゆる「売春」施設で働いても、拠点を築いた女性たちは「国家のために」来ている「壮士」たちのためにお金や密談のために場所を貸すような立場の女性たちもいた。
一方彼女たちも、間接的に「国家のために」働く男たちを支え、郷愁を満たしてあげることでそれなりの誇りを見いだすこと(もちろんそれは戦争に突き進む国家の帝国主義の言説にだまされたことでもある)もあった。

からゆきさんとは、19世紀の終わり頃から1920年ごろ見られた社会現象。念のためにウィキペディアから引用しておくと、「国際的に人身売買に対する批判が高まり、(略)英領マラヤの日本領事館は1920年に日本人娼婦の追放を宣言し」とある。1920年ごろ海外で娼館を運営することは国際的なスキャンダルになり、日本国家も批判に耐えられず禁止した、といった経緯がある。このようなマージナルな業界は10年単位くらいで社会的位置づけがまったく変わる場合があるので、年代に対する注意深い感覚をもたなければならない。一方、従軍慰安婦制度は1937年の「野戦酒保規程改正」で制度化され拡大していったものだ。このような歴史的経過を意図的に省略し、間違ったイメージを読者に与えようとしている疑いを、朴裕河氏に対し感じざるをえない。

1910年前後?シベリア・満洲などで自立し「壮士」たちを助けたりした愛国的元からゆきさんが複数人いた事は知られている。しかし、彼女たちは国家によってシベリアなどに連れて行かれたわけでもなく、国家に売春を強制されたわけでもない。苦労に苦労を重ね外地で自立しえた日本人が、あとから来た後輩たちを支援する。水商売/壮士という差別、女/男という差別を越えた愛国的情熱がそこにはあった。差別を越えるために過剰に愛国的になった面もあっただろう。

「「からゆきさん」の「娘子軍」化」と題された、この7行において、朴裕河さんは、まったく別のものである「からゆきさん」と「従軍慰安婦」を、類似のものであるかのように印象付けるトリッキーな文章を書いている。
「「国家のために」働く男たちを支え、郷愁を満たしてあげることでそれなりの誇りを見いだすこと」というフレーズが「からゆきさん」と「従軍慰安婦」の両方に適用される、というのだ。
しかし、当の女性からみた実存的意味合いはまったく違う。からゆきさんは意気ばかり盛んで現地の言葉や風習も知らない(金だけは持っているらしいが)みすぼらしい男たちを、現地に根付いた者の優位性において助けてやったのだ。壮士は日本語が通じる女性をありがたがっただろうが、郷愁といったものよりもっと現実的に助けてもらったのだ。一方、「従軍慰安婦」は文字どおりその肌と身体を与えることによって、国家に直属する兵士たちを「慰めた」。慰める、comfort とは、レイプに近い身体提供に対する婉曲な表現、美称にすぎない。「慰安婦たち」はそもそも強制されてそこにいるわけで、自由人である「元からゆきさん」とは訳が違う。「慰安婦たち」は朝鮮人でありながら日本人の「郷愁を満た」したのか?

元従軍慰安婦は「略取(暴行・脅迫を用いて連行すること)・誘拐(騙したり、甘言を用いて連行すること)・人身売買などにより」遠くはビルマ・中国国境地帯にまで連れて行かれた。直接ではなくとも日本国家の需要によってである。さらに軍によって売春を強制された。(日本人以外は)植民地/占領地/戦地のアジア人だった。

「私はここにいるべき人間ではない」「私は売春などする人間ではない」「私は日本人など好きではない」元従軍慰安婦たちがそう思ったとしても何ら不思議はない。しかし、反面ではその矛盾により、「同じ死にゆく哀れな存在」としての兵士へのロマンティックな幻想をむりやりかきたてた人はすくなくなかったかもしれない。
しかし、日本帝国に対する忠誠を自己確認することに意味を見出した人など本当にいたのか。いたとしても、三重の屈折を乗り越えてしか、それはなかったはずで、それほどたくさんではない。

「(もちろんそれは戦争に突き進む国家の帝国主義の言説にだまされたことでもある)」というフレーズも悪質である。シベリアの元からゆきさんたちも「(シベリア出兵)戦争に突き進む国家の帝国主義の言説にだまされた」面もあったかもしれない。しかしそれはあくまで自由人としてである。一方、従軍慰安婦たちは基本的に「強制されている」という位相にある、どうしようもない日々のなかで架空の観念に救いを求めた人もいたかもしれないというだけの話。まったく違った話を同じフレーズで形容することで、同質であるかのように印象づける詐欺的レトリック!

これを強調したことが、韓国人の一部に極度の怒りを生じさせたのであろう。文脈の違う「愛国的からゆきさん」の存在にすぐ続けてこう書くのは、歴史の偽造に近いイメージ操作なので、怒りはもっともだ。

(2)慰安婦の定義がデタラメ

つまり、「慰安婦」とは基本的には<国家の政治的・経済的勢力拡張政策に伴って戦場・占領地・植民地となった地域に「移動」していった女性たち>のことである。商人や軍人が利用した「慰安所」のようなものは早くから存在していた。「慰安所」や「慰安婦」という名前は1930年代に定着したようだが、その機能は近代以降の西洋を含む帝国主義とともに始まったと見るべきである。

完全に間違った定義だ。「いわゆる従軍慰安婦」とは日本軍あるいは日本国家が直接・間接に営んだ戦時売春施設の従事者のことである。その最大のポイントは、国家による強制性にある。
「その機能は近代以降の西洋を含む帝国主義とともに始まったと見るべきである」ある抽象のレベルで言うならば、それはナポレオン戦争以後の国家管理売春の帝国主義的展開の一部分である、と言うことは可能である。ただし、金学順のカムアウト、河野談話以後解決できない「慰安婦問題」とは、日本国家の責任が存在したことによって問題に成り続けているのだ。

日本国家の責任はほとんど存在しないという論を立てたければ、その自由はあるだろう。
しかし、朴裕河さんのやっていることは、「それまでにあったことをシステム化したと見るべきである。」という、「システム」という言葉を使うことにより、問題の本質を曖昧にするという方法である。

したがって、本来の意味でなら、日本が戦争した地域にあった性欲処理施設を全て本来の意味での「慰安所」と呼ぶことはできない。たとえば「現地の女性」がほとんどだった売春施設は本来の意味でなら「慰安所」と呼ぶべきではない。つまり、そのような場所にいた女性たちは単に性的はけ口でしかなく、「自国の軍人を支える」「郷愁を満たす」という意味での「娘子軍」とは言えないのである。

「今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。」というのが日本政府が河野談話で認めた「慰安婦」である。
「自国の軍人を支える」「郷愁を満たす」という意味など、裕河さんが勝手に言っているだけで何の意味もない。このように混乱した文章を平気で書き、現在まで訂正しないのはどういう根性なのか。

(3)「解決を求める」こと

この問題について考える時もっとも必要と思われるのは次のことである。
1、できるだけ早い解決

と裕河さんは書いているのだが、これは間違った目的であると考える。
「解決」を求めているのは、当事者(元慰安婦のおばあさんたちと挺対協、両国政府)だけである。当事者以外の人に求められているのはまず、過去にあったことのできるだけ正確な理解である。その上で、反省すべきならすればよい。解決は当事者がするべきことで、私たちは関係ない。

3、この問題にかかわることが自分の生活や政治的立場と関係のない識者や市民もこの問題にかかわり、「解決」をもたらす方法を「関係者とともに」考える。

なぜ「解決」について私(野原)が考える必要があるのか、全く分からない。
もちろん元慰安婦のおばあさんたちが求めているのだから解決は獲得されるべきだろう。しかし「慰安婦」問題は彼女たちのものなのか?必ずしもそうではない、と裕河さんは書いていると思う。

日本軍「慰安婦」にされた人は、日本人・朝鮮人・台湾人・中国人・フィリピン人・インドネシア人・ベトナム人・マレー人・タイ人・ビルマ人・インド人・ティモール人・チャモロ人・オランダ人・ユーラシアン(白人とアジア人の混血)などの若い女性たちです。

と日本の「慰安婦支援派」の代表的サイトも書いている。

従軍慰安婦問題は事件が終わって45年も経った1990年ごろから「問題」として、世間に大きく訴えられてきた。それから25年以上経った現在直接の当事者はほとんど世を去っている。すでに死んでしまった人たちが納得しない解決であっても生きている人びとが納得すればそれは「解決」になるのだろう。
私は直接の当事者ではないので、そうした「解決」を求めるよりも、いまでは辿りつけないさまざまな境遇の「慰安婦」たちの当時と戦後の情況をまず知りたいと思うのだ。
知ることができない、確定した情報として記述できないとは思うが、であるからこそ不十分でもそこに接近したいと思うのだ。

挺対協が作り上げてきた〈慰安婦をめぐる公的記憶〉が存在する。それが、慰安婦たちの実際の姿とはかなりズレていることを批判したいというのがこの本の趣旨だ。ズレは当然存在する。まず日本人・台湾人・中国人・フィリピン人などなどの若い女性たちの体験が反映されていない。現在北朝鮮にいる元慰安婦たちの体験もおそらく。

さらに、挺対協とは25年以上も水曜デモなどのけっこう大変な活動を持続してきた運動体であり、韓国人元慰安婦であってもそれとは違った意見を持つ人びとも当然存在する。*1

解決を求める事は、挺対協中心史観といった磁場で「たたかい」を展開することだと思う。つまり、裕河さんのやっていることは挺対協中心史観といった磁場で挺対協中心史観に反対するという奇妙なことをやっているようにも見える。

いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。(略)
これを歴史の教訓として直視していきたい。(略)同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

河野談話はすでに1993年こう語っている。歴史認識としてもう少し細部まで具体的に知ろうとさえすれば、この文面で足りていると、私はむしろ思っている。2015年12月28日、安倍政権もこの談話を継承し謝罪した。
和解のために何が足りないのか。「心からお詫びと反省の気持ち」であろう。国家の責任を少しでも値切ろうとする、(基本的に敗戦を認めることのできない)愚かなネトウヨ的心性かもしれない。

「慰安婦たち」の「愛国的志」なるものを極端に拡大することによって、慰安婦というもののイメージを歪めようとした朴裕河氏はデマゴギッシュな書き手であると、私は判断する。

(4)朴 裕河先生に言いたいこと

韓国人中心史観を訂正したいなら、
☆ 日本軍に棄てられた少女たち―インドネシアの慰安婦悲話  プラムディヤ・アナンタ・トゥール

☆ ある日本軍「慰安婦」の回想―フィリピンの現代史を生きて マリア・ロサ・L.ヘンソン

☆ 映画 ガイサンシーとその姉妹たち および  班忠義

チョンおばさんのクニ 班忠義

など、読む、または見るほうが良いと思う。

挺対協やそれを支持する元慰安婦たちの現在の表現が、うすっぺらな「公的記憶」に見えるとしても、その背後には数十年の多様な体験の幅が存在している。それを見ることができずに、自己の手持ちの才能だけで「ディベート」に走ってしまった、感じ。慰安婦をめぐる30年近い研究と運動の蓄積を踏まえることがまったくできていない。マッチョな植民地主義にどっぷりはまった田村泰次郎の小説などを読み(それはとても興味深いことではあるのだが)、自分に都合が良い面での影響を受けしまった。

また、からゆきさんと慰安婦問題の関連を考えたいなら、倉橋先生の本も読んでおいた方がよい。

☆ 従軍慰安婦問題の歴史的研究―売春婦型と性的奴隷型 倉橋 正直

従軍慰安婦と公娼制度―従軍慰安婦問題再論  倉橋 正直
倉橋氏の本は、慰安婦支援派からふくろだたきにあったようだ。しかし学者の書いた本であり、批判に開かれた文体、形式で書かれている。言葉の一語一語をひねって、印象操作する朴裕河氏とは大違いだ

*1:p13にも書かれているが

追記■リベラルが「慰安婦」を論じた最悪のツイート

「この本は、「慰安婦」を論じたあらゆるものの中で、もっとも優れた、かつ、もっとも深刻な内容のものです。これから、「慰安婦」について書こうとするなら、朴さんのこの本を無視することは不可能でしょう。そして、ぼくの知る限り、この本だけが、絶望的に見える日韓の和解の可能性を示唆しています。」
(高橋源一郎、Twitter,2014年11月27日

追記・2■歴史学者から

パク・ユハさんの軍慰安所に対する認識は、もっぱら秦郁彦氏の慰安所=戦地公娼施設論に依拠しています。しかし、秦氏の説が誤りであることを、私は軍や警察の史料を用いて実証しました。
永井和 2015年12月28日の日韓合意について

秦郁彦氏の慰安所=戦地公娼施設論などで、日本国家の責任を曖昧化しようとした論も存在したが、実証的歴史学の手法でこれらを打ちのめしたのが、永井和氏の「日本軍の慰安所政策について」である。上の文章と併せて、慰安婦問題の、過去と現在を知ることができる。

移民制限論の是非

https://wan.or.jp/article/show/7070 上野千鶴子
https://wan.or.jp/article/show/7074 清水晶子 
読みました。

「「移民一千万人時代」の推進に賛成されるかどうか、お聞きしたいものです」という問いに清水は答えない。
フェミたちや自民党がどう動こうが、移民は少し増え、しかし人口不足をおぎなえる程は増えないのではないか?
上野は「移民制限論」を唱える。その場合、国家はより強力な再分配政策を取る必要があることになるはずだ。
清水が「移民増加論」を取るかどうかを上野は問うている。その場合、社会のあらゆる領域における反レイシズム、移民統合化を成し遂げる必要があるが、フランス・ドイツの例から見てそれは無理だろう。
上野の議論は、国家として責任を取れるのか?、というレベルで問われている。

移民制限論/移民増加論、どちらかをとらねばならない。どちらを取るにしても、国家も市民も手を汚す覚悟は必要だ。
上野が言っているのはこのような図式だ。

それに対して、「共生の責任は誰にあるのか」という文を書いた清水は、何を語っているのか?

「「社会の女性嫌悪の悪化を避けるために女性の〈社会進出〉を制限する政策」を男性が主張し採用する」という例において、「男性」という主体はしばしば普遍を名乗るが普遍であってはならないものとして否定される。
清水が提出するのは、日本社会は誰のものかという問いだ。

それは日本社会に生きている、とりわけ日本社会で日本国籍を保持して生きている人々の問題です。 「わたしたちは移民や外国籍住人の権利を守れないし、その結果社会不安が起きたりしたら困るから、移民や外国籍住人が増えないように彼らの移住の権利を制限しましょう」と言うのは、「わたしたち」の問題を「彼ら」に転嫁することに他なりません。

日本人のマジョリティ(投票に行くような人)に対してマイノリティもいる。マジョリティの利害でマイノリティの利害を制限するのは許されないと。

どうだろうね。男性だけが国民を名乗ることはもはや誰も許さないだろう。しかし「国民」が国民の利害において行動すべきでないというのは、なかなか納得させるのに難しい理屈になる。