兵士になること(ヴォランティア)

「ロシアには屈しない ウクライナ 市民ボランティアの戦い」
https://www.nhk.jp/p/wdoc/ts/88Z7X45XZY/episode/te/3644Q6GXL3/
というNHKの番組を見た(元はBBC)。

 ヘルソンの隣町ムィコラーイウ で闘う市民ボランティアたち(今まで従軍したことがないし、訓練もほとんど受けていない)。ヴォランティアといっても実際に戦闘行為をしている。主にインターネットやドローンで敵の位置確認をしている人たちが居る。ドローンで敵めがけてまっすぐに爆弾投下すれば人が死ぬ(かなりの確実で)。もっと大きな爆弾を撃っている人たちはどこから見ても軍事行動だ。

 敵の数人もいっぺんに吹っ飛ぶような爆弾を上手く落として、敵が死ぬことを喜ぶのは、普段の倫理感からは大きく離れている。しかし、戦争とは敵の死を喜ぶことであろう。
 ウクライナは格別悪いことはしていない。だのにある日自分の住んでいる町が占領され自由が奪われる。その町に住んでいる人にとって悪いのは、一方的に相手(プーチン)側である。そのとき敵を倒し、敵を殺すことは善となる。

日本人はこの価値転換を是認しない人が多い。戦争は悪だ、という思想である。しかし、現実に侵略されたウクライナ人やかって侵略された中国人にとって、祖国(郷土)を守るために戦うのは、大きな決意をもってある〈善〉に投企することだ。
 日本人はこのような侵略に対する抵抗としての善なる市民戦争を体験したことがない。元寇は確かに侵略に対する抵抗ではあったが、戦ったのは武士であり市民ではない。
 臆病な普通の市民が銃を取るとき、そこにはパトリオティズムが微小だけれども立ち上がると考えうる。太古の昔から日本という国家が存在し、自分はそれに内包された存在だという日本人的存在感覚がわたしたちの間には深く根付いているが、それは信仰であり、普遍性はない。大きな敵がやってくることはあり、自分が去就を問われることもあるだろう。

私は一切の暴力を否定する、一切の戦争を否定する、戦争が起これば逃げる、あるいは降伏する、それはそれで一つの思想だろう。それに自分を賭けられるだけの深みが、あるのであれば。
 しかし日本人は戦後ずっと、兵火にさらされることなく生きてこれた。戦争中も本土の人は一方的に空襲とか受けるばかりで、自分が銃を取るか取らないかという決断をした人はほとんどいない。
 強大な軍隊に守られているとされる立場でぬくぬくと半生を過ごしながら、自分が厳しく問い詰められる可能性がないからそう言いうるだけである可能性もあるのに、倫理的に立派な平和主義を得意そうに口にするのは、(たいていの場合)非常に罪深い行為であるのではないか、と私は思ってしまう。

あなたが自分自身の命を掛けて、すべてを賭けて戦ったとしても、それは「戦争」である。つまり市民が行うゲームなのではなく、プーチンという巨大な帝国とゼレンスキーとそれを支援する欧米諸国という国際政治学的なゲームなのだ。
 参加しているひとりの市民の思い、憎しみや悲しみ、郷土への愛情は直接はカウントされない。あなたたち数人の必死の行動はどちらにしても「微細な戦果」に結果するだけだ。戦果の積み重ねが勝敗(この場合はプーチンの撤退)に影響するかどうかは分からない。それは無駄な抵抗であり、結果的に人名の損傷を増やしただけだと評価されるかもしれない。しかし他人の評価とは別に、自分の評価を信じるしかない。自分の命を掛けているのだから。

 ボランティアと兵士というのは日本では全く逆の意味と捉えられるが、ヨーロッパではそうではない。自分が自分の命を賭けることの、その決意という目に見えないものの集積が、共和国であり、ネーションであるのだ。

 ネーションというものは成立した途端に、私たちを抑圧するものという姿を見せる。であるとしても、敵を倒すために殺すことをさえ選んだヴォランティアたちを私は尊敬する。思想の差異があるかもしれないとしても。

もし私がウクライナに居て若くて元気だったとしても、銃を持つかどうかは分からない。実践的にはともかく、思想的に「持たないこと」が正しいのか。正しいと今の私は言い切れない。
 ただ正しくないと言う人が、「安全圏から偉そうに言っている」だけではないか、と思ったのでそう書いてみた。

イスラム映画祭2022感想

イスラム映画祭、終わっちゃったが、今年は特に女性映画の傑作が多かったと思う。本当に感動した!
『ヌーラは光を追う』ヒンド・サブリー主演。『ある歌い女の思い出』でやせっぽちの少女だったサブリーが、たくましく美しくなっている。すごく魅惑されてしまった。
テンポの良いストーリー展開。一般公開してほしい。

『ソフィアの願い』モロッコでは婚前交渉を行った者は1年以内の懲役。未婚の女性が突然破水、どうなるのかなと思ったら、これはちょっとびっくりする映画!
(映画には関係ないが日本では婚前交渉は当たり前だが、妊娠すればほぼ自動的に堕胎される。それも実はおかしいと思う。)

辻上奈美江さんによれば、この映画はルッキズムへの異議申し立てを見事に表現しているという。主人公ソフィアは「絶望的な表情を貫き、服装、立ち居振る舞いなど多くの人が美しいとは思えないだろう所作を意識的に演出しています。」そういわれるとなるほどと納得してしまう。完璧なフランス語を話す美貌の姉(しかも完璧に優しい)との対比が常に強調されている。
ルッキズム批判とかさかしらに口にしている人もいるみたいだがあまりピンとこなかった。このマーナーな映画は大きな達成を成し遂げていると評価できるのではないか。
ビンムバーラタ監督になぜそれが可能だったか。欧州とアフリカの境界の街では、美と不美人との落差はあからさまである。フランス的なものは美しくアフリカ的なものはそうではない。この構造を最初から突き付けられるのがモロッコの映画作家だからこそ、このような映画が作れたのだ。

『天国と大地の間で』ナジュワー・ナッジール監督。
若い男ターメルはパレスチナ難民だが1993年のオスロ合意で西岸ラーマッラーの高級住宅地に住んでいる。妻サルマはイスラエルのパレスチナ人でイスラエル市民権を持っている。二人は5年間の新婚生活に倦み、離婚を決意する。ただ映画では二人はそれほど仲悪そうにも見えず違和感がある。この夫婦はオスロ合意あるいはパレスチナ自治政府の暗喩なのだ。「譲歩して譲歩して疲れてしまった」みたいなセリフがあった。
離婚届を出しに夫婦はイスラエル領内に入る。パレスチナ問題というとユダヤ/パレスチナの問題だけかと思うがそうではなく、かってユダヤ人でも反体制派(共産主義者)が存在し、ナクバにおいて新支配者たちに必死の抵抗をしていた。サルマの父もそうでありターメルの父はその中で殺されていた。ターメルの父ガッサンに戸籍の空白があると指摘され二人は調査の旅に出る。彼は若い頃ハジャルというユダヤ人女性と暮らしていたらしいが。云々。パレスチナ人と並ぶユダヤ国家の犠牲者である「ミズラヒーム(=東方系ユダヤ人)」については省略。https://www.motoei.com/eventreport/islam7_0503event/
岡真理さんの解説を読むと、世界から多様性を消し去り、「ユダヤ」対「アラブ」という二項対立的価値観に押し込めること、そのことなしにはシオニズム国家イスラエルは成立しない、というふうなことなのかと思った。
夫婦は離婚したのか?たぶんしなかったのかも。パレスチナ自治政府は存在し、パレスチナ国もたぶん存在するから。絶望とともに。

去年のイスラム映画祭でやった『シェヘラザードの日記』はレバノンの女子刑務所におけるドラマセラピーを扱った映画だった。https://twitter.com/noharra/status/1389948467649286150
ボスニア・ヘルツェゴビナでは1992-1995、セルビア人、ムスリム人、クロアチア人が混住している地域だったが、独立の機運が高まり、3年半に渡り全土で紛争が続いた。
今年の『泣けない男たち』はその戦争で心に深い傷を負った(被害者として加害者として)、男たちにドラマセラピーを施そうとする話である。男たちはどうしても触れることができない心の傷を20年以上も隠し続けている。それを語り演じてみようとすること。それによって初めて凍結させていたタブーを溶くことができるはずだが。男たちは次第にふざけあったりもできるようになる。プールで水を掛け合う場面は印象的。しかし解放は難しく、激しい自傷や加害が起こってしまう。20年前の傷を癒やすために歩まなければならない具体的道行きは長い。
戦争は多くの人に長い長い苦しみを与えるものなのだ。いままであまり語られて来なかったが。

http://islamicff.com/movies.html イスラーム映画祭2022

読んでみてね。Baghdad Burning

http://www.geocities.jp/riverbendblog/index.html 

リバーベンドさんのブログについては、id:noharra:20040409 id:noharra:20040504でも引用した。2003年8月から始まり、11/29分まで翻訳されている。7月には400頁以上もある本が東京で出版されている。isbn:4901006754 C0031 図書館にあったので借りてみた。

  1. アメリカ人は(日本人も)イラクをアフガニスタンと同じような途上国だと思っており、インターネット利用者やブロガーがいるとは思っていない。
  2. アメリカの侵攻前、イラクは(アラブでは)女性の社会進出が最も進んだ国であり、現にリバーベンドも男性と同じ給料で楽しく働いていた。
  3. アメリカの侵攻前、イラクではイスラム原理主義者は全く影響力を持っていなかった。

などなどはイラク人にとっていまさら確認するまでもない当たり前のことである。イラク人の生活に関わる情勢は、ブログが始まった去年8月から考えても悪化するばかりである。それを是正できない原因の一つは、「イラクは遅れた国であり、それを是正するためには悪を摘出し排除しなければならない」というアメリカが持つオリエンタリズムにある。リバーベンドが1年半努力してもその簡単なことが日本の大衆にはなかなか伝わらない。日本人は名誉白人だと思いたいのだろう。その地位がおびやかされているからこそ中国人差別が必要になる。

 で、同じ問題がどう表れるかだが、強調したいことがもう一つある。

2003年8月28日の記事による。

バグダード東南端の新ディアール橋の再建費用の見積もりの要求があるイラク人技術者(リバーベンドのいとこ)にきた。「いとこは、部下を集め、その橋の破壊状況を調査し、被害はそれほど大規模ではないものの費用がかかると結論を出した。いとこたちは、必要なテストと分析を行い(土壌構造と水深、伸縮継ぎ目と桁といったことがら)、金額を算出して、概算見積として提出した___30万ドルだった。これには、企画設計費用、原材料(イラクでは実に安い)、人件費、下請け費用、旅費などが含まれていた。」彼の会社は優秀で、17年以上も橋建設に関わっており、第一次湾岸戦争で破壊された133の橋のうち20を再建した。

「1週間後、新ディアール橋の契約は、あるアメリカの会社にいった。よく聞いて!この当の会社は、橋再建費用を約5千万ドル(!!)と見積もったのである。」

 イラクの復興を目的に掲げながら、イラク人に仕事を与えようとしない。Halliburton(勝手に変換されたがこれであっているのか)に類する企業に過大な利益を与えることには寛容である。このような経済運営もイラクの復興にマイナスの影響を与え続けているだろう。1年半も前のことを取り上げるのは、同質の問題が現在も継続しているだろうと思えるからだ。

(タイトルを、あるおとなり日記よりお借りしました。ありがとう。)

イラクの被拘束者

 ところで、「テロ関与の疑いでグアンタナモ米海軍基地に収容している660人」はどうなった。彼らにも公開裁判を受ける権利を認めろ。公開裁判ができないのなら直ちに釈放せよ!

旧聞ですが1月8日毎日新聞に下記のニュースがありました。

http://www12.mainichi.co.jp/news/search-news/894919/83C838983N-20-28.html

【28】イラク:

拘束の約500人釈放 幹部情報に懸賞金 占領当局 

2004.01.08

 【バグダッド成沢健一】米英占領当局(CPA)のブレマー行政官とイラク統治評議会のパチャチ議長は7日記者会見し、駐留米軍が拘束した1万2800人のうち約500人を8日から釈放すると明らかにした。また、武装勢力幹部とみられる約30人に懸賞金をかけて手配する方針を表した。融和策拡大により、旧政権や武装勢力幹部の拘束に向け、イラク国民に協力を促す狙いがあるとみられる。

 占領当局幹部によると、釈放予定のイラク人は506人。第一弾として8日、バグダッド郊外のアブグレイブ刑務所に収容されている約100人を釈放。その後、数週間かけて各地の刑務所にいる拘束者を釈放していく。対象は旧政権への間接的な協力者に限られ、連合軍を攻撃した実行犯などは除外される。今後攻撃は行わないとの誓約書署名や、地元有力者が身元引き受け人になることが釈放の条件となる。

[毎日新聞1月8日] ( 2004-01-08-01:06 )

 この記事を見て気分が悪くなったのは、イスラエル当局がやってきたこととそっくりだ、ということ。数万人のパレスチナ人を何年も拘束しそれほど多数でない人々を「釈放する」と大きな声で報道する。上記にあるようにこれは「融和策」であり、それに応じて相手は譲歩を示すべきだとされる。だいたい平和な村にやってきて攻撃の前科があるわけでもないのに手当たり次第に引っ張っていく。それで数年後に返すときは感謝しろ!冗談も休み休み言え、というようなものなのだと思います。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20031125 にも書いたが、ここでも言いたいことは、(こうした政策は間違っていて直ちに止めるべきだとわたしは思うが、まあーそれとは別に)イスラエルでは当局は長い歴史の中でそういう政策を採らざるを得ない立場に追い込まれているとも理解できる。しかしイラクにおいては違う。イスラエルにおいて長い年月を掛け相手を鎮圧するという効果を生まないことが完全に実証された政策を採るのは百%馬鹿げたことだ。頼まれたかなんか知らないがそんなとこに行く自衛隊員もどうかと思う。

 自衛隊員の責任を問うのは如何なものか、という反論があろう。でも前にも言ったが公務員は命令を聞くだけではなく、その命令が正義に反しないかどうか判断する義務がある、と私は思っています。

続報http://www12.mainichi.co.jp/news/search-news/894919/83C838983N-0-18.html上の記事が当局発表そのままだったのでさすがに気がとがめたのか、続報では、約100人の釈放に対し「刑務所前には釈放を待つ家族ら約1000人が集まった。しかし、多くの人の家族は釈放者の中に含まれず、人々は駐留米軍への強い不満を口にした。」など、釈放を待つ人々の側に立とうとする姿勢があった。

http://www12.mainichi.co.jp/news/search-news/894921/83C838983N-0-17.html

ついでに上記から、

 サマワ署のサアド・ムハンマド副署長は「サマワ市民の多くは仕事がなく、空腹の状態が続いている。自衛隊派遣が雇用創出につながらない場合、市民の落胆は大きく、派遣は失敗するだろう」と話している。

イラクはレバノン化するのか?(悲鳴)

 自衛隊がイラクへ行くといっても何しにいくのかが今ひとつはっきりしないのが問題です。子供の使いじゃあるまいし行きますといって、運悪く死傷者が出るとなんのこっちゃではすまないですよね。ところで、相手の攻撃のことを「テロ」というのはもう止めるべきである。ナルシスティクな言葉使いはナルシスティクな認識を生み、結果はより悪くなる。

 さて、話題のイラク人女性によるブログ(日本語訳)

「2003年12月22日 (月) 疑問と恐怖」から、引用します。

http://www.geocities.jp/riverbendblog/

 イラクでは、スンニ派とシーア派は、ずーっと協調してやってきた。いまでもそうだ。いまのところは。私の出身は、半分がシーア派、半分がスンニ派であるような一族である。なんにも問題はなかったし、教育ある人々の大半は、この二派の違いをうんぬんしない。八方に敵意を煽り対立を引き起こしている元凶と思えるのは、連合軍暫定当局(CPA )と統治評議会(GC)が養成している対内乱民兵組織だ。これには、チャラビの殺し屋たち、SCIRI過激派とクルド Bayshmargamsの一部が参加することになっている。

 

 わかりやすいが、だが誤った見方は、クルド人やシーア派にとって、これはプラスだというものである。とんでもない。穏健なクルド人とシーア派の大部分は、スンニ派とまったく同じに、この新たな兵/スパイ集団に怒りを募らせている。国民に向けて放たれ、国民をほしいままにすることを意図していると。イラクのいたるところで、敵意と猜疑が増悪するだけのことだ。また、このイラク新軍が占領軍と同様に見境なく拘束と襲撃を行うというなら、さらに多くの血が流されるであろう。

 

 私は、まえにこう言ったことがある。イラク人は、内戦という惨事を引き起こしたり無実の人々を虐殺するような人間ではないと願うし、信じてもいると。そして、私はいま、このところの極度の絶望にもかかわらず、この思いにしがみついている。戦闘の間、レバノンに住んでいた人々から、レバノンの話を聞いたことを思い出す。彼らが取り返しのつかない惨事のことを話すのを聞いていて、いつも同じ疑問がわいてくるのだった__何が下地になったのか? 兆候は何だった? どのようにして起こったのか? そして一番大きな疑問・・・誰かそれを予見したのか?

 イラクのことを何も知らず、しかも偏見だけは持っていて、スンニ派とシーア派というカテゴライズぐらいしかしらない馬鹿なアメリカ人が権力に関与した結果として、もし本当にイラクが内戦状態に陥ったら限りなく不幸なことだ、と思う。上に書いたように、日本人も「テロ」という言葉の使用を止めるべきだ。

シオニズム

シオニズム運動は世紀の変わり目テオドール・ヘルツルによって作られた。

東ヨーロッパにおける反ユダヤ主義の厳しさに抗したものだ。一方、ユダヤ人の労働者の党ブントは、文化的自治の形での民族的解決を要求した。p76

シオニズムは一つの民族=一つの国家という理想を目指す。パレスチナ、ウガンダ、アルゼンチンの一部のどこかに領土を獲得することが目指された。シオニズムは30年間まったく傍流であり、ユダヤの宗教界からは異端として非難された。(p78)

(1930年代後半ドイツ・オーストリアからユダヤ人移民がやってきた後ですら)パレスチナにおいて、ユダヤ人は土地の5パーセント以下を持ち、30パーセント以下の人口を持つマイノリティだった。p83

で、もっともっとユダヤ人移民を、と叫ばれた。だがパレスチナ全体にユダヤ人国家の建設を主張する、ジャボチンスキー一派は必ずしも多数派ではなかった。マルチン・ブーバー周辺のグループは民族共生国家を唱えた。p84 だが、シオニストは1947年の国連パレスチナ分割案に合意する。分割という考えを受け入れたのではない。取れるところは取る、だが将来その領土を拡大できるよう扉は開け放っておく、という考え方だ。p86

6)ワルシャウスキー『イスラエル=パレスチナ民族共生国家への挑戦』つげ書房新社

を返さないといけない、のでとりあえず、要約してメモ。

トム・ハンドールさんの長い死

2003/04/12 07:46に「Tom Hundallさんがイスラエル自衛隊に撃たれた。」として書いた

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=188&range=1

Hundallさんですが、長い植物人間状態の後、1月13日とうとう亡くなられたそうです。「トムはイスラエル軍の銃撃から子供たちを助け出そうとしていた時に撃たれました。」

参考url(日本語)

  1. http://www.onweb.to/palestine/siryo/sophie17may03.html(トムのお姉さんのスピーチ)
  2. http://www.onweb.to/palestine/siryo/notagain.html(目撃したIMSメンバーの証言)

1)によれば、(5月の時点で)「IDF(イスラエル国防軍)は、トムが武装し、軍用の迷彩服を着ていて、兵士たちに向かって発砲したという報告を出しています。また、トムが銃撃戦に加わっていたという報告も出しています。」と言っているとのこと。明らかな嘘。

 ところで、2003年12月、トムを狙撃した兵士がイスラエル軍によって逮捕されていることが明らかになりました。おそらくトムの家族と友人たちの不屈の意志がイスラエル当局を追い込んだ効果なのでしょう。

戦争よりも悪いこと

下記の森岡氏の掲示板に今日書き込みました。以下の通り。

http://6113.teacup.com/lifestudies2/bbs

戦争よりも悪いこと 投稿者:野原燐  投稿日:11月25日(火)20時03分35秒

「田中宇の国際ニュース解説」によれば次のような事件があったようです。

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http://tanakanews.com/d1125iraq.htm

9月下旬、バグダッドから北に70キロほどいったイラク中部の町ドルアヤの近郊で、米軍のブルドーザーが果樹園の

木々をすべて根こそぎにする作業が行われた。付近は旧フセイン政権の支持者が多いスンニ派の地域で、米軍に対す

るゲリラ攻撃が頻発していた。米軍は、付近の村人たちを尋問したが、誰もゲリラの居場所を教えなかったため、その「懲罰」として、村人たちが所有するナツメヤシやオレンジ、レモンなどの果樹を、根こそぎ切り倒した。(関連記事)

伐採するなと泣いて頼み込む村人たちを振り切り、ブルドーザーを運転する米軍兵士は、なぜかジャズの音楽をボリューム一杯に流しながら伐採作業を続けた。ナツメヤシは樹齢70年のものもあり、村人たちが先祖代々育ててきた果樹園だった。伐採を止めようと、ブルドーザーの前に身を投げ出した女性の村人もいたが、米兵たちに排除された。

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田中氏が指摘するように、これはイスラエルによるパレスチナ人のオリーブ林の破壊に似ている。だが私の思うにはこの方がもっと悪い。イスラエルはパレスチナ人を予め狭い地域に閉じこめた上で彼らの生活手段を奪っており、パレスチナ人はイスラエル社会に依存して生きるか難民としてその地域から逃げるかを迫られる。(うまくいくかどうかはともかく)イスラエルのやり方には(少しは)合理的根拠がある。しかし、上記の米軍のナツメヤシ破壊はどうだろうか? 広大なイラク全土に住むイラク人たちに反米の怒りをかき立てる以外にどんな効果があるのだろうか。

野原燐

イラク直接選挙でいいのでは?

 酒井啓子さんの『イラク 戦争と占領』岩波新書新刊isbn4-00-430871-2を買った。普通の本屋の一番目立つところに沢山積んであった。良い本なので沢山売れるといいなと思います。さて、1/15日にも「イラクでは、スンニ派とシーア派は、ずーっと協調してやってきた。いまでもそうだ。」というイラク人女性の発言を紹介した。この本のp168にも「スンナ派もシーア派もない、イスラームはひとつ」というシーア派宗教行事でのスローガンが紹介されていた。1920年イラク建国前夜、イラク国内の諸勢力は一致団結してイギリスの直接占領を覆していく。そのきっかけになったのは、スンナ派とシーア派が合同で宗教行事を執り行ったことにある。すなわち宗派の別を越えることはナショナリズムの根幹にかかわる一番大事なことである。*1

 統治評議会発足直後シスターニー師は「憲法はイラク国民によって選ばれるべきであり、外国が定めるものではない」とのファトワーを出した*2

 最近(1月)のニュースでは、

(1)【バグダッド12日共同】イラクのイスラム教シーア派最高権威、アリ・シスタニ師は11日、連合国暫定当局(CPA)の主導で決まった間接選挙による暫定政権樹立に反対し、直接選挙を求める声明を発表した。

(2)【ワシントン=近藤豊和】イラクを統治する米英主導の連合軍暫定当局(CPA)のブレマー代表は十六日、ホワイトハウスでブッシュ米大統領と会談後に会見し、イラク暫定国民議会の選出問題で多数派のイスラム教シーア派が求める直接選挙は拒否する意向を表明した。

以上のように「直接選挙を求める」イラク人勢力とそれを承認しない占領当局という構図があります。前者の主張は「しごく真っ当な民主主義手続き」の要求だ、と酒井氏は評する。イスラムでも日本でも西欧でも民主主義とは何かについてイメージが違うわけではないのだ。ところがアメリカは違う。「アメリカは戦後のイスラーム勢力の台頭を見た瞬間に、即座の「民主化」がもたらす「イラクのイスラーム政権化」の危険を察知し、「イラク国民の政治参加」のオプションを閉ざしてしまったのである。」*3イラクに民主主義をもたらしにやってきたはずのアメリカが、である。結局の所、(サイードが強調したように)アメリカはイスラムに対し無知で偏見を持ち、その結果「すべてのイスラーム的なものの台頭に対して過度に敏感な反応をして」、事態を「文明の衝突」化してしまう。

 もう一点この本では詳しく書かれているわけではないが、重要だと思うのは、「市場経済化」至上主義を強く推進しようとしている点だ。「生活インフラの回復すらままならない現状で、アメリカが唯一熱心に行っているのはイラク国営企業の解体と民営化である。」*4理念に凝り固まった頭は失敗を認めることができない。

*1:cf同書p185

*2:同書p204

*3:同書p207 地方における草の根民主主義によって選出された知事をアメリカが排除したことについては、p137

*4:同書p227