台湾と沖縄、反戦平和とは何か?

https://www.youtube.com/watch?v=SsCUoEH1sR8
 自主講座「認識台湾」第2回:シンポジウム 台湾と沖縄 黒潮により連結される島々の自己決定権―東アジア地域世界の「平和」を準備するために、という長い題のシンポジウムをzoomで聞きました。京大の駒込武先生が中心になって行われているシンポジウム(自主講座「認識台湾」立ち上げ企画とされている)で、台湾人の呉叡人という学者(ひまわり運動にも関わった人)がメインのスピーカーなようだ。

 私は台湾のことはよく知らない。ただ2019年の香港民主化運動が弾圧されその参加者が亡命のように移住している国といったイメージがあるだけだ。最近、石垣島、与那国島に旅行した。与那国では特に台湾まで111kmと台湾への近さが強調されていた。近いとは、日常に必要な物資などもそちらから輸入する方が早いということだ。しかし入管、検疫などいろいろな問題があり、交流を急拡大するのは難しいとのことだった。そして与那国では島論を二分する住民投票で反自衛隊派が敗北し、自衛隊基地が建設されていた。私は大阪の近くの住民なので沖縄のことも台湾のことも身近には感じていない。ただ与那国の最西端に立って台湾が見えるかもしれないと目を凝らしたが見えなかった(雲は見えた)体験をしたので、このようなテーマにも興味を持った。

 この企画は今はyoutubeにもあるので誰でも視聴可能です。
https://www.youtube.com/watch?v=SsCUoEH1sR8&t=9s
54ページもある充実したブックレットなど資料のダウンロードも可能です。 https://drive.google.com/drive/folders/1MPvzjGzDJw-VCl195zd8VxS67cShgQtB

 ブックレットを見ながら、簡単に感想を書いてみます。
 台湾人にとって、戦前はもちろん日本人が支配者であり自分たちは被支配者だった。しかし戦後は国民党がやってきて彼らが支配者になった。従属的人民であり続けることへの拒否を示した人々が1947年228事件を起こしたがそれは苛烈な弾圧にあい、1987年まで独裁体制が続いた。その後ようやく台湾人も参加できる国家(ネーション)形成が開始された。呉叡人は『想像の共同体』の翻訳者として知られている人のようだが、彼のこの本の読み方は日本人のそれと違って、市民が主体的にネーションを作っていくとポジティブな方向で読むようだ(おそらく)。
 台湾は戦後ずっと大陸の中国共産党によって軍事的な圧迫、威圧を受けてきた。最近では去年8月の、台湾を取り囲む六つの海域での大規模な演習があった。このような軍事的圧力に対抗できるものはやはり米国の軍事力しかない、と呉叡人は考える。

 私たち日本人の戦後は、米軍の占領下で始まり、朝鮮戦争開始、自衛隊創出と続き、日米安保条約は現在まで維持され続けている。米軍の勢力範囲内であり続けたわけで、中国の軍事的脅威は直接的なものではなかった。米国軍の存在による、レイプや犯罪の危険といった(本来あってはならない)脅威があり、そういった問題に対して日本政府は住民の側に立たず、米国援護的であるという矛盾があった。日本は民主主義国であるはずなのに、米軍基地問題については住民がいくら意志を示そうが拒否されることが続いた。特に沖縄は辺境の島であり、植民地主義的抑圧とさえ言えるものを受けている。それが米軍の圧力を甘受しつづけなければならないことに結果している。
 
 一方、台湾は冷戦構造のなかで、中国が2つに分断され、より小さな部分が1972以降、中国を代表する権利すら失い、国家としての権利を国際社会から認められないまま、何十年も生き延びてきた。そのとき、中国からの軍事的、政治的、経済的な圧迫は大きくその力はますます大きくなっている。米軍の強大な力は彼らにとって、中国に対抗するために必要な頼もしいものである。
 このように、米軍の存在に対する評価が沖縄と台湾では正反対になる。

 しかし、それは反基地闘争する沖縄県民と中国の侵略に怯えている台湾市民が、対立関係になるということだろうか?そうでもない、と考えることはできないか?このような問いを抱いてこのシンポジウムを視聴することができる。
 
 
(2) 
 「台湾有事は日本有事であり、日米同盟の有事でもある。この点の認識を習近平主席は断じて見誤るべきではない。」2021年の暮に安倍晋三はこう言った。(cfブックレットp40)
 台湾市民はこの発言を歓迎しただろう。台湾を国家承認している国はとても少ない、日本もしていない。だのに突然安倍元首相がこう言ったわけだ。(香港市民は香港には何も言わなかったのに、と思ったかもしれないが。)中国が軍事的に侵攻する時に台湾市民の側に立つという表明として受け取るなら、同意してもよいかもしれない。(どうだろう)
 
 中国政府は平和的手段による「台湾統一」を望んでいるのであり、台湾を標的とした軍事演習も米国による挑発へのやむをえぬ対応である、と理解する人が日本の左翼・リベラルには多い。中国と米国と日本の三者で台湾問題を平和的に解決すべきだ、という考え方すらある。大国の首脳の利害、得失の判断で世界に線を引く合意をすれば、弱小勢力はそれに逆らえない。それを維持することが平和だ、という考え方だ。それはほとんどウクライナ人が戦わず降伏しておれば平和だった論と同じで、平和という言葉を誤解していると思われる。(ただそういう人は多い。)国家単位でしかものごとを考えないならそういう結論になる場合もあろう。
 
 2019年、沖縄での県民投票(辺野古新基地をめぐる)と香港での民主化運動(大デモ)が同時に起こった。反米/反中という冷戦的二項に還元して理解するのではなく、自己決定を求める闘いとして捉えるならば、共通の地平で理解することができるかもしれない。
 政治というものを、冷戦構造的二項対立や国家や政党間のつなひき、勝敗と捉える浅薄な味方をまず退けなければならない。「台湾は、強権によってもてあそばれる客体から、自己決定・自治を担う政治主体に転化しました。(ブックレットp25)」と呉叡人は力強く書く。のいちご学生運動(2008)からひまわり学生運動を、成熟した市民社会が危機を効果的に阻止した体験、と評価しているのだ。国家(ネーション)というものは制度や国会での議決結果だけで計るべきものではない。ダイナミックな市民社会との交流の結果成立、変動するものである。活動家でもある呉叡人がそう言う。日本ではマスコミの報道が抑制的すぎるせいもありそうした認識は根付いていない。投票結果だけが民主主義であるかのようなプロパガンダが浸透している。しかし実際には日本でも市民運動、いろいろな位相に存在する世論、などと国会などは交流し、その結果として政治は生み出されているのだ。
 
 ところで、日本は中華民国に対しても、中華人民協和国に対しても結果的に賠償責任を一切果たしていない。(請求させなかった)日本は台湾に対して加害の歴史がある。加害者は破壊したものを修復しなければならない。中華民国政府と取引することでそれを免れようとしてはならない。

 日本は民主的で平和な東アジアをつくる責務を、世界に対して負っている、と呉叡人は言っている。これは別の文脈でも是認できる。
 敗戦後再度国際社会に承認して貰うにあたり、憲法が諸国家ではなく、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と述べたことを思い出す必要がある。このように考えれば、どのような視野で台湾/中国を見るべきかは明らかであるはずだ。自国の利益あるいは日米同盟の世界戦略からみての問題点だけを優先することはできない。

 抽象的理想主義の文脈でこう書いているのではない。二項対立的価値の争いのはるか手前に、現実の市民の努力と絶望に近い希望があるのだ。

(3)
 最後に、張彩薇(ちょうあやみ)のコメントも興味深いので、簡単に触れたい。

 「軍事的(防衛の整備)にも、政治的(自主の維持)にも、価値観(民主の堅持)という点でも、台湾が中国による侵略に有効に対処するには、米国主導の中国包囲網に加盟するほかはありません。」(呉叡人 ブックレットp20)

 呉は明確に述べているが、日本の左翼にとっては認めたくない文章だろう。どう考えればよいだろうか?
 まだ今は台湾は、ウクライナのように軍事侵攻されていない。「米国主導の中国包囲網に加盟する」かどうか?
 ウクライナ戦争を考えるとき、被害者であるウクライナ市民とその戦う意志にまず焦点をあて考えるべきだろう。同じように台湾市民とその戦う意志のことをまず考えるべきであり、「米国主導の中国包囲網」の問題は次の課題だ。しかし、香港のように自由を奪われることはどうしても嫌だとするならば、「米国主導の中国包囲網」についてもとりあえずYESいうことはありうる(日本人は口を挟むべきではないだろうが)

 ある国家は、Aと敵対するためBと同盟することができる。その場合Bが気に入らなければAに再度接近することができる。このように国家は小国であっても一定の自立性を保持し続けることができる。ただ台湾は中国から自立した十全の国家であるとは認められていない。それが辛いところだ。(ところで日本は、立派な国家なのに、中国を始めとするアジア諸国との友好関係を全否定することで、米国一国への従属体制が続いている。それは愚かなやり方だ。)

 香港も台湾も十全な国家ではなかった。しかしそこには民主主義的と言いうる多様な言説と行動があった。独立主権国家になろうとするのは分かるが、そうでなければダメというわけでもない。
 台湾が十全な国家になること、独立を中国が認めることは当分できそうもない。しかしそれを求めるべきだというのが呉叡人であり、まあそうかなと。
 ただ、主権国家を前提とする国際社会のあり方を絶対視することはするべきではない、張さんが言うとおり。
日本国憲法前文もそのように読める可能性がある、。

 台湾人は沖縄の基地強化を望んでいるか?という問いがある。自分を守るためには本音ではそうだ、と呉叡人はいうかもしれない。それは自他の間に利害の対立があることを、認めているということだ。自分に不利な現実を無視して、自分の思想にほころびを生じさせないないようにするよりマシであろう。

 沖縄人は米軍基地に反対する。米軍基地が台湾国家に対してどういう意味を持つかをそのとき第一義的に考える必要はない。ただし、軍隊というのはどんな場合でも反人民的存在だというドグマは正しくない可能性があると考えるべきだろう。
 つまり、「反戦平和」が、自立を求めるひとを沈黙させるための言葉になる可能性もあるのだ。「反戦平和」は第一義的には既成国家(武力)間の勢力均衡を破らず現状を尊重するという意味だろう。そうであるとすれば、必ず正義と一致するわけではない。
 
 彼女の「台湾は中国ばかりではなく、アメリカと日本をも批判しなくてはならない」という発言は印象的だ。
 ただ、批判に関していえば、日本人でも台湾人でも、イスラエル人やミャンマー人(ミンアウンフライン)やウイグル人を弾圧する中国人、人権派弁護士を弾圧する中国政府など、気がついたらどんどん批判すれば良いと思う。「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」を基準にすることは日本人には許されている。どう認識するか、と実際に何ができるか、は分けて考えてもよいと私は思っている。
(文中、敬称略)

存在革命の可能性について

図書館で、岩波書店の雑誌『思想』2023年2月号を手に取った。大黒弘慈「「あいだ」のフェティシズム」という奇妙な題の論文、ふと読み始めると、難しいがとても大切なことを言おうとしているようだと分かった。

フェティシズムという言葉は難しい。ギニア人が価値のなさそうなビーズに価値を見言い出したり、粗末な神像を拝んだり、というのがフェティシズム。ととりあえず理解する。
A  :そのもの。例:木や紙で無造作に作った人形
〈A〉:フェティッシュ。おおきな神の予感。(信じてない人=近代的理性によって虚偽とされる)、という図式である。
フェティッシュ(物神)を否定しなければならないという常識をグレーバーは批判する。対象Aと主体Bとの安定した限定的関係がいつでも可能だしそれにたどり着けるという考え方に対する批判である。

われわれが創造的に生きようとするとき 物神は必ずしも悪いものではない。ただ危険な場合もある。p90 というふうに言っている。つまり、対象Aの本質、性質、質量などを私たちは客観的に捉え理解できるという前提に立つ時、それに対する例外としてフェティッシュがあるわけだ。
しかし私たちが生きているとき、ものAは慣れ親しんだものとか彼女が口にしていたものとか、そういうふうになんらかの情緒とともに存在している。であればそれは決して悪いものではないだろう。逆に、「ある種のフェティシズムをよすがにしてよりよい社会を築いていく」ことも可能なのではないか?それは「われわれがフェティシズムを作り出す行程について、理解しえない余地をあえて残すことによって可能になる」とグレーバーは言っている。p91
まあ、より正しい主体を求めていくことで、未来を獲得できるという考えを彼が取らないことは分かる。超越性への匂い(誘い)、ベクトルといったものを見出していくということだろうか。

でこの論文は、価値と権力の基礎とは何かを問い、その中で、新しい社会的現実を創造するためにフェティッシュが果たしうる可能性を探ろうとするものだ。

(第1章は「廣松渉、真木悠介、宇野弘蔵が、それぞれマルクスの「物神性論」を原理的なレベルでどのように読み替えていったのか」を追う章。ここではこの章に一切触れずに、残りの部分だけでの理解を書きます。)

第2章は「物神の消失/主体の埋没」となっている。

資本主義の現在は、対象Aの確実性が揺らいでいる時代である。例えば、サービス労働のような非物質的労働が優勢となっている。また、フェティッシュ崇拝は盛んになっている。「推し」消費の増大などに見られるように。
今日経済は非物質化している。貨幣の非物質化、ネットワーク上のbit列化が著しくすすんでいる。そしてまた、負債経済の下では、金融権力がわれわれに負債感情を植え付け、返済のために行動を画一化し、「正しい」生活規範へ順応させ、評価に縛られた空虚な活動に駆り立てられる。p108 

疎外とは「人間の本質をモノに外化し、それによって逆に支配される事態」のことだった。であれば、ひとと人が対等に関わり感情を含めて交流する介護、保育などの仕事は「疎外されていない労働」という面も持つ。実際そこにやりがいを感じると語る人も多い。しかし実際にはそこには困窮(moneyの欠如)がある。
またひととひととの関係においては、〈対等性〉が重要である。サービスの受益者と供給者という格差の一方で、人対人としての〈対等性〉をどのように確保するか?その問いに開かれた関係を作っていくべきだろう。

ここで紹介されている今井里恵氏の論文は、今日の労働疎外の核心をこう語る。
「物を製作することにより他者との新たな関係を築き自己の物語を紡ぐような仕事の機会」が奪われていることだと。p108
彼女は仕事を「演技ゲーム」として、「他者とともに共同社会を能動的に構築していく作業は本来、根源的喜びである」と定義する。p109 個々人が自分の判断で不確実性への跳躍をして、自分の物語をつむぐことが「自由」である。
しかし、1970年代以降は、管理強化され、自由の感覚が奪われた「演技労働」に堕落した、と彼女は考えた。現在、わたしたちの労働は、不確実性への跳躍が一切奪われてしまっている。

マルクスは生産物があふれる豊かな社会になれば(さらに革命後)、人間の主体性や人と人との直接的関係が回復されるはずだと考えた。それは実現できていない。
ここで、「むしろフェティシズムを回復することによって、自由な主体は可能になり対称的な人間関係が可能になるのではないか?」と考えた人がいる。ラゥトールである。p110
物神を一掃し、事実の集積だけの世界を真実だと批判家は考える。しかしそれは結局同じことなのだとして、ラトゥールは「物神事実」 ということばを使う。

第3章は「理論と実践」と題されている。

実際はギニア人とポルトガル人のいずれも「超越性の像を作る」。そこには、構成された実在と内在的な超越、中途半端な物神事実どうしの対立があるだけであり、階層差はなく、いずれも物神崇拝者であるといえる。p112
物神が行為者を支配しているようにみえるが、実際は行為者が自分の力をその物に投影しているだけだ、と批判する。
そして、そのさらに背後には、多数の作用者、社会的群衆、諸関係、伝統というものがあり、力をあたえている。

批判的思想は、物神を一掃し、事実(A=Aである対象の群れ)だけが現実だとみなそうとする。
それに対し、ラゥトールの見方はもっとダイナミックであり、「自らの行為によって幾分か超過される」行為者を考えてみようと言う。
関係を、主体と客体、本質と本質としてスタティックに捉えるのではなく、行為と行為の関係として動的に捉えるべきだと言う。まあ、生きている上では客体自体をそのまま捉えることは困難であり、行為の中にしか現れないのはむしろありふれた体験になる。

ここで、パリ郊外の民族精神医学の治療現場という現場が出てくる。
精神医学なのに、個人の内面に注意を払い分析の中心にするということがない。そうではなく、彼らの崇拝物、祖国の祖父母、叔父、(サッカー)、そうしたものが複数の言語で語られる。患者は心理学的主体ではなく行為体になる。患者だけでなくその他多くの参加者たちがその過程で少しずつ変貌する。そのようにして、患者は治っていく。その人は患者としてではなく参加者のひとりとして、崇拝物を回復し主体となる。物神から解放された主体ではなく、「崇拝物をもつ準主体」である。p113

自由とは、完全な自由ではない。いくぶんか支配されることはむしろ不可欠なのだ。絶対的な自由などないといって諦めるのではなく、悪いつながりを良いつながりへと置き換える不断の営みが肝要だろう。p114

ラトゥールは客体としての客体というものを否定する。
例えばパストゥールは「しかるべき実験室を自分の手で注意深く設定したからこそ乳酸酵母は実在する」。パストゥールは超越性を作った、と言う。
考えてみれば、超越を製作することは、それほどめずらしいことではない。「自分の書いた文章を読むことで自分の考えていることが初めて分かる書き手」というものはよく居る。p115

人と物との注意深い共同作業によって構築された「物神事実」こそが実在である。
自由とは物神事実のかたわらで生きるということである。それは物神に支配されることではない。制御不可能な領域(撹乱的要素)を残すことである。〈 〉に注ぎ込まれるべき力の可能性を信じることである。

絶対王権を革命したとしても、「良い支配者」「固定された主体」による支配という構図が変わらないが、それでは意味がないのだ。p116
自由とは、他者の影響を遮断することではない。恐怖を騙して魅力に変え、風通しをよくしていく。諸々の繋がりを剥奪されないようにする。魅力によって人々を繋いでいけるのだ。p117

フェティッシュは排除されなければならないという思い込みは強い。真理や客観性や聖性に到達するには媒介物を完全に駆除するのが不可欠だと考えられているのだ。
しかし、我々が神自体に触ることができない以上、像的媒介物には超越へ達する手段を超えた聖性がすでにあると考えるべきではないか。

物神事実という認識から始める必要がある。「物神と事実、疎外と解放、非合理と合理などの階層的二元性に基づいて、双方の差異を絶対化するのではなく、モノもコトもヒトも諸々の結びつきによって相対的に異なるにすぎないのだとまずは認識すべきである。」とラトゥールは言う。(この文章は日本では危険である、と指摘しておいた方がよいだろう。日本では味噌もクソも一緒くたにして、結局権力側つまり日本的包括者が勝利するシステムが強く働くから)

「価値の階層化から注意深く距離を取りながら、価値の恣意性のなかから、いかにして新しい同一性をつくり直し、良い結びつきを通じて新たな社会関係を創造していくか」、「理論」をヒントにすることによってそれができるとラトゥールは言う。(マンガ、アニメなどで、女子どものたあいのない思いからかなり高度なドラマを作り続けてきた、日本人の膨大な諸作品は参考になるかもしれない。)

「いまここで新しい社会的現実を創造しようと思うのなら、そこには必ず「詐欺」の要素がなくてはならないということだ。」
「詐欺」というと誤解されるであろうが、なんらかのフェティッシュ「人知が及び難い領域があると思わせること」なしには、「一定の理念を巨大な現実に変えることができる集団的力を引き出すよすがにはなりえない」のだ。
未開社会の藁人形、アナキストの巨大人形、そしてホッブスのリバイアサンというのがその例だ。

「新しい社会形態や制度を創造するためには聖なるものが必要です。」「しかし、聖なるものの力と神秘は、同時に危険なものもあります」そして実践的にこの矛盾を解く方法はある、とグレーバーは言う。

わたしたちの社会で最も力をふるっているのは商品フェティシズムである。それは金融権力に識らず知らず服従するといったかたちでも、ひそかにどんどん進行している。
しかし、そのようなフェティシズムのなかで、それを拒否するのではなく、それを魅力ある結び目に変えていくということはできるのだ、と大黒氏は最後に言う。

近代の〈物神事実〉崇拝について ―ならびに「聖像衝突」 –2017
ブリュノ・ラトゥール (Bruno Latour 著), 荒金直人 (翻訳)

資本主義後の世界のために (新しいアナーキズムの視座) – 2009
デヴィッド グレーバー (著), 高祖 岩三郎 (翻訳)

(私はまだ読んでない)

反スターリニズムとは何か?

さて、吉本隆明『重層的な非決定へ』という1985年の本を手に取ってみた。

「貴方は世界にさきがけて、戦争の責任とまったく同等の重さと規模でレーニン-スターリン主義責任というものがありうること、そしてその責任を問う場所がありうることを身をもって示したのでした」、と吉本は埴谷を評する。p24 そこから20ページほど、吉本のレーニン批判が展開される。マルクス・レーニン主義というものが存在することを前提にしてその周辺でそれを批判しているにすぎないと、埴谷も批判される。

いわゆる新左翼は1960年ごろ以降、反スターリン主義を標榜していたが、それを思想的にきちんと展開できていたか、よく分からない。全共闘運動が反スターリン主義的な情動、思想とともにあったことは確かだろうが。

91年ソ連は崩壊し、マルクス主義自体が検討に値しないものみたいな風潮のなかで、このような問題も忘れられていったのだろうか。
北朝鮮と中国は存在し続け、それらの国家の自由の欠如、人権弾圧(あるいは飢餓など)という問題、そうした権力を支えるスターリン主義としての中国共産党や金日成主義をどう考えるか、という問題は大きな問題として残り続けた。しかし市民の連帯運動としても、思想的にも、それとまともに格闘しようとした動きは少なかった。

東欧・ソ連の崩壊の数年前、ソルジェニーツィンの告発やポルポトの惨劇がありまたポーランドの連帯の運動が盛り上がっていた。一連の現在の社会主義「国」が抱懐する理念と現実の挙動の根柢的な欠陥、を真正面から受け止めて「苦しげな理念批判と自己批判」を展開したのは酒巻さんという無名人だけだったと、吉本は言う。p25

埴谷は「クロンシュタットの労働者や兵士のソヴィエトと、国家権力を掌握したレーニンの党派とのあいだの対立と、レーニンの党派が加えた無態な弾圧の経緯について、詳しく述べ」ている(と吉本は言っている)。p26
それは大事な問題だ。ロシア革命は、レーニンが指導するボルシェヴィキだけが成し遂げたものではなく、「クロンシュタットにおける労働者・兵士ソヴィエトの、権力はあくまでもコンミューンにあるべきだとする非中央集権的な理念」と行動が成し遂げた部分がかなり大きいことは、事実であるし大きな示唆をあたえてくれる。(これについては、『忘れられた革命 ーー1917年』という本を参照して欲しい。)

しかし吉本は、それはちょっと違った問題だと把握すべきだと言う。
クロンシュタットの問題は「一地域的な政治体験での、中央集権派と非中央集権派の抗争」の問題と考えられる。
しかしそれとは違い、スターリニズムは、過渡期における資本制的な過剰国家管理体制の一変態、国家社会主義のヴァリエーションとして理解すべきだ、というのです。p27

「レーニンらの党派の中央集権的な理念と、クロンシュタットの労働者・兵士のソヴィエト・コンミューンの非中央集権的な理念との対立・抗争。弾圧」この対立がロシア革命最大の問題であることを誰も疑わない。しかし、吉本は「対立にすぎない」と軽く扱う。人類の社会制度史が革命されて「広範な物言わぬ大衆と市民の貌」がせりあがってきた、と言いうるために、欠けているものがある、と判断する。

どういうことか。
消費としての賃労働者(階級)の大衆的理念が、いかにして生産労働としての自己階級と自己階級の理念を超えていくか、という課題に革命の問題があるのだ、と吉本は言うのだ。生産者としての存在様式の団結により階級形成、理念形成、革命闘争をおこなっていくプロレタリア革命の理論とはまったく違うものを、作りださないといけないと吉本は言うのだが、暗示的な形でしか表現できていない。

「国家と革命」の国家観について吉本は全否定はしない。「精いっぱいの理想主義」と評価できるところもあるとする。しかし、大事なことは下記だろう。この文章は1985年つまりソ連崩壊前のもの。つまり左翼の間ではレーニンの権威がまだ残ってた時代だ。この頃、レーニンのテキストに遡り、否定すべきところは否定するという作業を果たそうとした人が世界中にいたはずだ。しかし、今ではただ読まなれなくなった。それではただの流行にしたがっているだけになる。

「監獄その他を自由にすることができる武装した人間の特殊な部隊」を国家とよぶという部分もたしかにエンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』の文中にあることはある。しかしそれは極小のものに過ぎず、現実の「国家」や「権力」の精緻な動きの記述には耐えられないものだ。p34
「すべての市民が、武装した労働者である国家にやとわれる勤務員に転化する。」とかいうのは、レーニンによって短絡と狭窄を受けた「権力」の規定がうみだした歪んだ国家像だ。それは「どうかんがえても強制収容所群島にゆきつくほかないものです」と、吉本は断言する。p37

「「国家」とか「権力」とか「法」とかいう共同の幻想が、どんな実体と具体的な現実機関と、表裏となって存在するのか」といった問題を把握していかなければならないのだ。現時点で言えば、プーチンの大ロシア主義や愛国主義というものが復活してくる危険性を吉本は予見したわけではない。ただ、「共同の幻想」が大事だという点では当たっていたとも言える。

さらに吉本は、レーニン『哲学ノート』を読み、ヘーゲルに言及する
「ヘーゲルの論理学の美点は、(力運動)・移行・分極・対立・同一性・差異などの概念を論理学に登場させて、動く世界の内在的な必然的な連関を導いているところにありましょう。だがその論理学の欠陥は、世界を閉じられた枠組(輪郭)をもったまま規定可能だとみた点にあると思います。」
この吉本の批判は見事なものだと思う。そしてそれは、直接レーニン批判につながるものだ。
ヘーゲルの概念のうち「絶対者、神、天、純粋理念」などをレーニンは否定する。だが吉本は「人間が自然を喪失してしまった後の、自然と等身大の真理概念で、すべての概念の「終焉」として意義深いものだ」と書く。
西欧近代哲学とは「神」概念の解体の歴史だったのだから、21世紀近くなって吉本が「神」を捨てるなと説くのは奇妙に思える。
「世界を閉じられた枠組(輪郭)をもったまま規定可能だとみる」こと、それは世界を一つのシステムとしてみることに近いと思うが、それをなんといっても避けなければならないと、吉本は考えたわけだ。
これは、現在価値を見出すべき思想だと思う。

ゴーダ綱領批判を読んでみた

マルクスのゴーダ綱領批判は、ちょっと意外な文章から始まる。
「労働はすべての富の源泉ではない。」価値は労働力から生まれると資本論には書いてあるのではないのか。(ちょっとよく分からない)
自然もまた労働と同じ程度に、使用価値の源泉である。とマルクスは言う。なるほど。
「そして、労働そのものも一つの自然力すなわち人間労働力の発現にすぎない。」
労働がそれに必要な対象と手段をもって行われる、とするならば「労働は富の源泉だ」は正しい。土地とクワがないときに耕す労働をする人はいないので、たいていの場合それは正しいことになる。
しかし「土地とクワがないとき」どうしたらよいか、つまり失業したらという困惑とすれすれのところに労働者は生きているのであり、その言葉を意味あるものとする条件を、当たり前のこととして語らないブルジョア的言い方を許してはいけない。

人間が自然に対して、それに働きかける権利を有する者として、それに働きかけるとき、富が生まれる。使用価値(価値)が生まれる。p15
労働者は「労働に必要な対象と手段(対象的労働条件)」を普通持っていない。だから、それを持っているブルジョアの奴隷にならないといけない。
「労働はすべての富の源泉だ」とポジティブに言い切ってしまうと、労働者の従属関係とともにしか労働は成立しえない、という事情が見えなくなってしまう。と、なるほどと思う。
「労働はすべての富の源泉だ。労働者がこの社会を作り上げている」というのは元気が出るスローガンだし、まったく間違っているわけでもないが、厳密に考え発言していく方がよいのだ。

「有益な労働は、ただ社会のなかで、また社会をつうじてはじめて可能である」
マルクスが「労働に必要な対象と手段とをもって行われる場合」と明確に語っている」ところを、「社会のなかで、また社会をつうじて」とあいまいに表現している。

でそれによって、「労働の全収益は、平等な権利にしたがって、社会の全員に帰属する。」
現在の社会では格差が問題になっている。社長が労働者の100倍の報酬を貰ったりしている。それに対して、例えば「Twitterの全収益は、平等な権利にしたがって、Twitterの全員に帰属する。」と考えてみることは、思考実験としては行うべきことのように思われる。

全収益を分けるとすれば、まず「社会を維持するために必要なもの」を控除しなければならない。
ただし「社会を維持するために必要なもの」はマスクスによれば、直ちにかぎりなく拡張解釈されてしまうものだ。政府とその付属物の要求、およびブルジョアたちの私有物が円滑に働くことができるための要求、として。
空虚な文句は、口当たり良く見えるけれども、どんなふうにもこじつけられる。つまり支配者(ブルジョア)の解釈がまず適用されるとかんがえておかなければいけない。

「労働はただ社会的労働としてはじめて、富と文化の源泉となる。」この命題は正しいとマルクスは言う。しかし、
「労働が社会的に発展し、またそのことによって富と文化の源泉となるにつれて、働く側の貧困と見捨てられた状態、働かない者の側の富と文化が発展する。」こちらの正しさも忘れてはいけない。
そして、現在の労働者に、このような災禍を打破せざるをえないような物質的その他の諸条件を現在の資本主義社会はつくりだした、論じきるべきだった。

「公正な分配」をゴーダ綱領は求める。
しかし「公正な分配」とはなにか?現在の生産様式の基礎の上では今行われている分配が公正なものだと主張されるだろう。

労働の全収益を社会の全員に配分する!と語ると、皆の人気をえることができるかもしれない。しかし実際に分配できるのは、各種控除すべきものを控除した後の額である。また「社会の全員の平等な権利」をことばのあや以上のものとして確定するのはひどく難しいだろう。

以上のように、マルクスは、ポピュリズム的語り口が労働運動のスローガンに入ってくることを厳しく排除しようとした。資本主義がその冷徹な法則を貫徹させ、合理的であるがゆえに、労働者を苦しめるのだ、ということが、マルクスが資本論で発見したことだった。

以上が、「ゴーダ綱領批判」の(わかり易く歪めた)概要である。

労働というものが、それに必要な手段をもって自然(あるいは人工的な自然)に働きかけすべての富を作っていくのだ、という基本思想は貫かれている。21世紀の現在、労働という言葉はかって持っていた力強い価値を失っているように感じられる。インターネットで伝達される情報や巧みに組み合わされ人を惑わすイメージの乱舞といったものが、大きな価値を生んでいるかに見える。
ただ、現在も一日8時間労働のサラリーマンといった雇用形態は大きな比重を失っていない。むしろそうでない雇用形態が限りない搾取に陥り易いことが問題になっている。
労働というテーマを私たちが処理できていない限り、マルクス・エンゲルス全集の一部を読んで見るということも、意味のあることである。

「現代中国のリベラリズム思潮」を読んで

現代中国のリベラリズム思潮」という本を読み始めた。

最初の論文が徐友漁という人の「90年代の社会思潮」というもの。
これが思いのほか面白かったので、紹介したい。徐友漁(1947年-、四川成都人)

70年代の終わりに文革が終わり、80年代インテリたちは開放的空気に包まれた。
改革開放、いままで禁じられていた西欧的、資本主義的なもの、サルトル、フロイト、ニーチェなどまで入ってきた。近代的、合理的、普遍的なものが目指された。
89年に六四天安門事件が起こり(そう書いてないのだが明らかに分かる)、時代の空気が変わる。
一つは「国学」ブームなどの文化ナショナリズムである。全般的西欧化が否定され、愛国主義、伝統文化が称揚される。
現在の西側文明は抜け出すことができない危機に陥っており、東洋的文化だけがそれを救うことができる。西欧文明は自然を一方的に収奪してきたが、道教の無為自然思想にもあるように、東洋には人間だけを高いとするのではなく自然と共存していく思想と知恵がある。集団主義、無制限な自由・権利を認めないこと、官僚制度、競争の抑制、などはアジア的近代化を支える価値とされる。
徐氏はこれを文化ナショナリズムとよび、インドや日本の思想家がアジア的文化が世界を救うといった時と同じ言葉使いだが、中身はそれぞれ違うと指摘する。ドイツやロシアの知識人もしばしばそのような「精神文化の優位」といった言説を雄弁に語ったと指摘する。
まさに、日本では30-40年代に、〈近代の超克〉として語られたことであり、それ以後もたびたび繰り返されたものだ。しかし思想はある社会のなかで有機的に切り離しえないものとして切実に存在しており、そう簡単には客観的評価できない。中国である切実さにおいて文化ナショナリズムが存在していたことを知るのは、日本のそれを理解するためにも参考になる。
日本と中国のどちらが東アジアの文化を代表しうるのかといった問いは、異一見愚かに見えるがそうでもなく、言説を支える土俵に影響している。

次に、ポストモダニズム。ポストモダニズムは近代という価値基準を放棄する。
科学、民主、理性といった価値を真正面から取り組むべき価値として追及してきた知識人たちの営為は全否定される。それらは資本主義的概念として否定される。
しかし、と徐は言う。五四新文化運動は確かに西欧啓蒙思想の借用ではあるが、そのままの輸入ではない。五四運動は儒家の礼教、三綱五常という悪しき慣習と闘ったのだ。伝統を切り捨てたのではなく、顧炎武から章炳麟に至る「破壊と継承の闘い」がその根にはある。同じように八十年代の新啓蒙運動も当時の中国の状況、矛盾(文革の暴虐など)に向き合い解決しようとしたものだ。

次に、「新左派」理論というものがある。
冷戦終了後、先進国での資本主義批判はポストモダン思想とも交流しつつ、活発化した。フランクフルト学派などの批判者たち。彼らは、前に進むようなふりをしつつ、古いものを懐かしみ、精神を崇め立て、物質を否定し、大衆を蔑みつつ、大衆の導師として振る舞い、エリート的である、と徐は批判する。(まあ、フランクフルト学派が古いものを懐かしんでるだけと言われると違う気はするが。)
リベラリズムは結局は巨大な集権的国家建設を支持するものだといったマルクーゼの言葉を、かなり強引に引用し、さらに胡適の例を引き、リベラリズムは専制を支持するものだと結論つける(王彬彬氏)。

90年代、市場経済を発展させていくという目的のために人々は経済的リベラリズムを学んだ。
中国ではずっと、個人主義は極端なけなし言葉だった。しかし、多くの西欧の思想家たちを、上記のような様々な論争のなかで受け入れることで、中国人もリベラリズムへの理解を深めていく。
1997年から中国でも法治国家という原則が確立される。「法は人よりも大きく、法はその他のいかなる権力よりも大きい」ということを中国人も徐々に理解していく。それは党が国家に変わって直接権力を行使するという形を変えていくことである。
人が自由に生きていくためにもリベラリズムは必要であろう。
「こうした一つの連合体においては、各人の自由の発展が万人の自由の自由な発展の条件となる。」というマルクスの言葉でこの文章は締められる。

日本の思想史の百年近くを中国では20年で過ごしたみたいな感じもあって、忙しい。しかし中国の方が、ストレートに深く思想を問うているところがある。日本を考える上でも中国を知ろうとするのは必須であろう。

さて、1980年代は文革の反省としての西欧に学べとリベラリズムの時代だったが、その空気は89年六四天安門事件で終わった。90年代は、文化ナショナリズム/ポストモダニズム/「新左派」/リベラリズムと論争ははなやかだった。
2008年、〇八憲章。劉暁波拘束。2010年、劉暁波にノーベル賞。2012年、反日デモ。(2014年、台湾ひまわり運動、香港雨傘運動)。
2017年、劉暁波死去。2022年、習近平3期目総書記、独裁強化。
この間は、言論の自由は逆に狭まっている。

「現代中国のリベラリズム思潮」は2015年に出た本である。その後8年間中国の言論の状況はどう変わったのか。先日、この本の著者の一人秦暉氏の講演が神戸大学であったので聞きに行った。現在の政治などについての意見を言う自由がほとんどないことが彼の雰囲気から分かった。8年前に比べても中国の言論の自由は大幅に狭まっているようだ。
ただし、五四運動以降、あるいはもっと長く三千年前からの思想の流れを考えても、リベラリズムは中国思想と無縁の外来思想ではないので、いつか復活するしかないだろう、とこの分厚い本を読んで思った。

戦後朝鮮という悔恨!

麗羅という在日作家(1924-2001)の『体験的朝鮮戦争』という小説を読んだ。1992年の作品。
1945.8.15に日本が降伏し(光復節)てからの3年、1948.9.9に朝鮮民主主義人民共和国が発足し分断体制ができあがるまでの朝鮮半島は、混乱の時代だった。南半分では独立・革命への強い欲求を米軍がむりやり押し止めていたとも言える。

朝鮮の独立については1945.12月米英ソ三国外相によるモスクワ協定で、朝鮮米ソ合同委員会および臨時朝鮮政府の設立が決まっていた。そして米ソ共同委員会が開かれ、過渡政府樹立のためのプランも発表された(46.3.20)。しかし米ソの意見の違いは大きく共同委員会は休会となる。

1947.10.30国連総会は朝鮮への国連の委員団を派遣することを決定した。(ソ連はこの上呈自体をモスクワ協定違反として反対。)p116
委員団はソウル到着後、3/31までに南北同時に総選挙を実施する、それにより朝鮮国民政府を樹立するための議会をつくる、などと発表した。しかし、ソ連及び左派はこれに賛同せず南北同時選挙は実行できなかった。
75年後(分断されたまま)の今日から振り返る場合、仮に実行していたらどうだっただろうかと考えてみることは、できる。

当時の朝鮮全体の人口は約3000万人、北1000万、南2000万と考えてよい。
ソ連と北の指導者は、勝利する自信がなかったから、総選挙に反対したと麗羅は書いている。p121
しかし南では左翼に対する支持の方がかなり圧倒する可能性があった。であれば合計でも勝てる可能性があった。
しかしその場合も、南での左翼支持勢力が北での左翼支持勢力を上回った場合、左翼(共産主義陣営)の指導権は南の指導者に握られる。また北での左翼を支持しない勢力がかなり多かった場合も面目を失う。ソ連および金日成にとってはいずれにしても避けなければならない、と判断された。
朝鮮民族全員の民意を素直に問えば左派が勝利していた可能性がかなりあったのに、金日成は自己権力の維持を第一目標とする考えであったため、それをやろうとしなかった(と言えるだろうか)
今にして思えば、全国同時選挙をやっておきさえすれば、分断をさけることができたのでは、といった思いを抱く人があるだろう。その場合、金日成体制をさらに覆していくことも必要になる。(日本人でしかない私がとやかく言うことではないが)
歴史に対してこのような感想を付け加えるのは、まあ愚かなことである。しかし朝鮮戦争休戦後69年も経つのに、停戦すらできず、統一の目処も立っていないのは不条理すぎる。自分に引きつけて考えようとすると愚痴にならざるをえない。

なぜこんなことになってしまったのか。そしてそれがこんなにも長く続いているのか。その嘆きは麗羅のものでもあった。
朝鮮共産党の指導者朴憲永たちの振る舞いも、こう振る舞っていれば歴史はこうはならなかったはずだ、といいたくなるところが二つある。
「開放直後は、朴の率いる南の朝鮮共産党(ソウルに本部)が主流で、北(平壌)に本部の党は分局に過ぎなかった。それが北労党と南労党になってからは双方の立場が対等になり、モスクワの指令で南北が合党して朝鮮労働党になってからは、北派が主で南派は従といった力関係になってしまった。
朴憲永は、年齢、学識、理論、共産党員としての組織生活や闘争経歴などすべての点で金日成をはるかに凌駕する。」であるのに、党でも政府でも、金が主で、朴は副というポジションに甘んじさせられた。もちろん、金日成はソ連軍の傀儡としてそのポジションを占めていただけだが後にそのポジションを利用して他の指導者を順次粛清していき独裁を完成していく。

麗羅が朴憲永の第一の間違いとして記すのは、下記だ。
「1946年の大邱人民抗争以来散発的な抵抗運動を展開しながらも、1947年の夏において、全面的な革命戦争の開始を躊躇したことである。その時点では、南における南労党の組織率は60パーセントを越えていた。朴憲永が蜂起を命じたら、アメリカ軍が駐留する二、三の都市を除いて南の大部分は数日のうちに制圧できたことは間違いない。」(P195)
そして、
「第二の間違いは、朴憲永は絶対に北に行くべきではなかったことだ。
彼が北へ行ったのは1947年の春で、左翼陣営にたいするアメリカ軍政庁の弾圧がきびしくなったために一身の安全をはかってのことだといわれているが(略)。
彼の北行きは、軍人でいえば戦線離脱であり、危険水域にさしかかった船の船長が、船と船員を見捨てて逃げ出したに等しい。(略)
彼は南を離れていたから、その夏の一斉蜂起の絶好の機会を逸したのだ。
そして、朴が越北したのちの南労党は司令官を失った軍隊にひとしく、地方幹部たちは局部的に果敢に闘争を展開したが、全体的には頽勢の一途をたどった。
一時は成人男子の6割以上を獲得した南労党(左翼陣営)の地上組織は、1947年8月から翌48年の3月までにほとんど壊滅して地下組織のみが細々と存続する状態に追いこまれ、頼みとするゲリラ闘争も相次ぐ討伐と隊員の脱落によって日を追って弱体化するばかりだった。」
それでも「南北を統一するには南に人民革命を起こして共産党が権力を把握したのちに、北の共産政府と合併する」という発想を捨てなかった、朴憲永は。
それに対して金日成は「北の人民軍を投入して南進統一する」発想を捨てず、朝鮮戦争を起こす。全面武力対立は金日成の目論見に反し米軍の全面反攻をもたらし、結局戦争は勝てなかった。金日成は戦争の責任を取ることもなく、権力を維持し続けた。
(ここからは野原の感想だが)ソ連監視下の平壌という狭い場所での権力闘争というゲームにおいて、朴憲永は金日成よりずっと下手だった。そして70年後も金日成の孫が自己権力を維持し続けていることを私たちは深く気づくべきである。
つまり、朴憲永の共産主義、ソ連、そうした理想への期待が、リアリストであるべき政治家の目を狂わせ敗北に至った。そしてその問題は私たちにおいてもまだ終わっていないのだ。

『淫教のメシア 文鮮明』による統一教会の教義

萩原遼の『淫教のメシア 文鮮明』晩聲社、この本は1980年に出された本でだいぶ古い。
世界基督教統一神霊協会。(2015年世界平和統一家庭連合への改名が文化庁に認められた)「協会側は統一協会とされることを好まず、統一教会とせよとマスコミなど報道機関にねじこんでいる」p8とある。

この教団は「混淫・血分け」系の教義を持つとされる。

統一教会の特徴は集団結婚式である。この式次第の秘密の部分を含む詳細は
鄭鎮弘「宗教祭儀の象徴機能  統一教の祭儀を中心に」(同書p152-154)に書かれている。重要なので、ここに引用する。

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このなかで、神学的に最も重要なのは
②聖酒式の
・文先生(文鮮明)がすべての新婦たちの手に一回ずつ手を重ねて通り過ぎる。
・つぎに聖酒を文先生が先に飲み、それを新婦全員に分け与える。新婦たちは礼をしてそれをもらい飲む。 のところである。
手を重ねる、「それを通じ、先生の身を受けてから相対者と霊的肉的に一体となる。結婚式といいながら、文鮮明と新婦が一体になることが決定的に重要なわけである。それによって「原罪を負った汚れた血統は転換された」とする。p22
これは神学的には宇宙創造的な儀礼的性交である。
1961年5月15日 – 33組聖婚式(ソウル市前本部教会)までは、おそらく実際にセックスが行われただろうとする。p24

聖書ではエデンの園でエバは蛇によって誘惑され堕落することになる。統一教会では蛇とはサタンでありそれとセックスすることによりエバは悪の血統となり、それとセックスしたアダムも悪となる。
普通のキリスト教でも人は堕落状態にあり、十字架のイエスへの信仰をとおしてのみ救済に到れるとする。しかし統一教会では、再臨したメシアである文鮮明とセックスすることにより、人は救済に至りうるとする。これはまあ奇妙ではあるが神学的には筋が通っている(?)

1930-40年代の朝鮮には混淫・血分け派といわれるさまざまな教団が活動していた(また弾圧されていた)。
1930年代の平壌では李龍道や黄国柱という教祖が居た。彼らは神との霊的合一を新郎に対する新婦の性愛に例える。

・文鮮明はすでに10代でソウルの李龍道の「イエス教会」に参加したとの説もある。
同書p57-59に統一教会内部の秘密文書「主の路程」が紹介されている。
「ある時、礼拝で代表祈祷されている時、その祈りの深さに全員が驚き、ある婦人はおもわず泣いて抱きしめ、自分の家に下宿することを勧めた」でまあ文少年はこの婦人とセックスしたわけですね。彼らにとっては「聖血を分け与えることは堕落の血をうけついだあまたの女性救済の聖なる行為であったのだ」p60。彼が教祖になる前からそういう神学があったわけです。
・文鮮明がだれから血分けされたかについては諸説あるが、鄭得恩かもしれない。p64 鄭得恩は黄国柱の弟子らしい。文鮮明が鄭得恩に伝えたという説もある。

・とても「いやらしい」話ではあるが、まずはあくまで神学的な教説であると理解しなければならない。
・なお、1980年に出されたこの本の段階では、「日本はエバ国家」とか「日本の植民地化の贖罪」といった理論はあまり強調されていなかったのではないか。

いかにも下世話な興味を引きそうな極秘文書「主の路程」、参考までに引用してみる。
戦中、戦争直後の文鮮明については資料もすくないなかを萩原遼がまとめたものです。ニュアンスを確認し読み解くために彼の本『淫教のメシア 文鮮明』を読んでください。(図書館にはあるだろうが)
http://666999.info/liu/bunsenmei0.pdf

以上書いたのは主に、40〜50年代の統一教会確立期の教会の教義である。統一教会は、KCIAの介入以後政治的団体としての側面も持つ。そして多くの関連組織を持ち、教義などすらカメレオンと言われるほど変えていっている。しかも徹底的に嘘つきである。
以上書いたことは根本教義なので意外と変わってないのではないかという気がする。

台湾/香港/国家観念

『思想』2021年10月号の「帝国の非物質的遺留――台湾と香港の被占領経験の相違について………鄭鴻生(丸川哲史訳)」を読んだ。
それなりに面白いことを書いているのだが、なんだ結局、親中派、反香港騒動(2019年-2020年香港民主化デモ)にもっていきたいのね!という感じ。#丸川嫌い
思想の言葉で、倉沢愛子氏は、日本人が現地人、アジア系外国人を使う時に、「微妙に隠され、表立って問題視されない発言の背後に、「上から目線」に起因する蔑視や潜在的差別意識が忍んでいる。実は私だって、偉そうなことを言っているが、気づいていないだけで、無意識のうちにそのようなことをしているケースはたくさんあるのだと思う。」と述べている。これは現代日本人として考えなければならない点だ。https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/5290

香港は1842年に、台湾は1895年に植民地になり、住民は近代化に巻き込まれていく。1945年光復と1997年返還時、台湾香港の中上層市民たちは近代の帝国が与えた植民地近代をたっぷり味わっていた。それから見ると母国は遅れて見えた。この意識を端的に表すのは、国民党軍を嘲笑する「蛇口の物語」である。植民地モダニティを持った台湾香港の市民は植民地モダニティを与えられ、母国の遅れに対する差別的心理を持つことになった。(『無意識の優越感は日本人のような「先進国人」だけが持つものではないのだ。)
まあそういうことはあるかもしれないが、巨大な香港民主化デモをそうした差別意識で説明することはできないだろう。民主主義、あるいは「自分たちのネーション」に対するどこまでも熱い思いがそこにあったはずだ。
しかし、鄭鴻生はそのような理解はしない。中国人の民族と国家を獲得するための戦いは抗日戦争でピークを迎える。左派あるいは右派という形で「国家観念を持つ」ことになった。この「国家観念」に基づき鄭鴻生は「民主派」を国家観念の欠如と決めつける。
五四運動以来の新中国を模索する革命的運動を警戒した英領香港政府がかえって漢文書院系の教養を重視したという経過によって、香港の政治文化の土台たる広東語の豊かさが形成される。それ以後も戦後75年さまざまな経過を消化しつつ香港の政治文化は営まれてきたことを自身は的確に語っている。中国共産党(あるいは国民党)に求心するべき「国家観念」だけを基準に裁断することができるものではないことは、この論文を読むだけでも分かるのだ。

香港民主化デモの巨大なうねりは、中国共産党勢力の厳しい弾圧によって現在見えなくなっている。中国や日本といった大きな主語(国家観念)によってだけ歴史を語ろうとすることは、歴史と民衆のダイナミズムを取り逃がしてしまうのではないだろうか。

『夜は歌う』と革命の原理

キム・ヨンスの「夜は歌う」はなぜ、甘やかな恋愛の話から始まるのか?陰惨な話が続く後半、最後まで、その強い記憶は消えない。

主人公キム・ヘヨンは1910年朝鮮併合の年に生まれた朝鮮人である。彼は工業高校出で満鉄に就職するというチャンスをつかんだ。独立や共産主義に興味はない(ないふりをしている)。

ヘヨンはジョンヒに出会いジョンヒを愛した。そしていくぶんかは彼女も自分を愛しるはずと信じた。しかし、ジョンヒは実は、間島の反日帝パルチザンの中心的活動家であり多くの人にその正体を知らせずに活発に活動してたのだ。ヘヨンに近づいたのも利用しようという考えからだったろう。それを知らされ、自分の信じていた世界はまったく空虚なものだった、とヘヨンは愕然とする。

しかし、そこには幾分かの真実はあったのだ、ということは最後の頁で明らかになる。李ジョンヒは11歳の時、ウラジオストクで祖父を日本軍の襲撃で失う。そのとき「悪魔のように強くなろうと決めた」という。彼女はヘヨンに「私を愛さないで」と言う。しかし、ジョンヒを誤解し、彼女が切り捨てた自分の半身いわばお嬢さんとしての半身を、強く愛してくれるヘヨンをジョンヒは嫌えなかった。

「愛も憎しみも感情だけでは存在しない。行動で見せてこそ存在するんだ(p81)」と中島は言う。

行動というより人間存在の全体性をかけて、ジョンヒを愛したのかと中島は挑発的に問いかける。ヘヨンはこの挑発に答えるように、革命に近づいていく。

物語の最初で中島が朗読するハイネの詩は、この小説全体の骨組みを明かしているようにも読める。

それはある限りない怒りについての詩だ。ある男は死してなお限りない怒りに包まれている、その力でもって男は死を越え、恋人を自分の墓に連れ込む、という詩だ。

この詩の男をジョンヒに、女をヘヨンに入れ替える、するとこの複雑で残虐な物語のシンプルな構造が見えてくる。ジョンヒは死を超えるほどの力で世界と革命を希求した。そしてそれが中断したため、死を越えてヘヨンを召喚したのだ。ヘヨンはそれに応え、革命とは何かを知る。

関東軍は1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変(柳条湖事件)を起こす、そしてまたたく間に満洲全土を制圧した。しかし北間島地区では、朝鮮人たちの抵抗が激しい弾圧にも関わらず執拗に続いていた。

1933年4月のある晴れた日、北間島の山間の小さな村での婚礼は、突然日本軍に襲われ、参加者は全て殺される。いわば紛れ込んだにすぎない主人公キム・ヘヨンだけは生き残る。「遊撃隊」に助けられ、その後中国共産党地方幹部に尋問される。意外な経過により、彼は助かり漁浪村での政治学習が命じられる。

「僕は草葺きの家で赤衛隊の青年たちとともに団体生活を送りながら、思想・軍事教育を受け、労働した。」

「議会主権が来たぞ。赤い主権が来たぞ。無産大衆の血と引き換えに議会主権が来たぞ。」

「その歌声を聞きながら野原で働いていると、心が温かくなる。ここの人々はみな、白区で共産主義青年団員として、あるいは赤衛隊員として活動していたときに、討伐で家族や家を失って遊撃区にやって来た人たちなので、お互いを心の支えとしていた。心を固く閉ざしているかと思えば、たったひと言で心を開くこともあった。」

「草葺きの家での生活を始めて二か月あまり経った頃、僕は少し違う人間になっていた。日は暗闇に慣れ、細かい光にも反応し、鼻はどこに食べ物があるのかをすぐに嗅ぎつけ、口は休みなく革命歌を歌った」(p154-157より)

「草葺きの家で」と語られるこの数ヶ月の生活は美しいものだった。

著者は「革命の原理」についてこう書く。

北間島で生まれた朝鮮の娘はふつう男の所有物に過ぎない。アヘンと引き換えに売られたりする。しかし、ある若い女性(ヨオク)はある夜学教師に出会うことができた。彼が世界のことを教えてくれた。彼はヨオクの言葉に耳を傾け、ヨオクの顔や体をじっと見つめた。「そうやって見つめられ、話を聞いてもらううちに、ヨオクは初めて自分もひとりの人間だということに気づいた。革命の原理を悟ったのだ。(p101)」

私は自由な人間だ、「人間は畜生ではない、それぞれが高貴な存在なのだ、と」。それはひととひととの魂のふれあいによって初めて気付ける真理なのだ。教師は階級支配について語ったりもしたが、そうした思想注入が人を革命的にするのではない。おまえは人間だ、と感じさせてくれることにより人は革命に目覚める。

この小説は、500人を超える朝鮮人革命家(あるいは難民)が敵ではなく仲間の手によって殺された悲惨際まりない事件、「民生団事件」を描いた初めての小説である。それについて解説すべきだが、字数制限により省略する。

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首都占領は恋愛のチャンス

廉想渉(ヨムサンソプ)の『驟雨』は面白い小説だ。
1952年に書かれたとは思えない、とてもモダンな感じ。
白川豊による翻訳が出たのが、2019年、21世紀に書かれたと言われてもだまされてしまうだろう。

「フロントグラスをザーザーと容赦なく叩きつける大粒の雨を、ルームライトを消した真っ黒な車内にいる皆は(略)」
という車内の描写からはじまる。大金が入ったバッグと美しい女秘書をつれた社長が逃げようとしている。まるで映画のようだ。
しかしこれは、数百万ソウル市民が体験した北朝鮮軍による占領体験を市民の側から詳細に記述した小説なのだ。朝鮮戦争勃発の2日後である、1950.6.27から50.12.13までの時期のソウルを描いたもの。
国民的なあまりに重い主題とそれとうらはらなポップなスタイルの矛盾が、この小説である。

廉想渉(1897-1963)は李光洙(1892-1950)より5歳下なだけ、黄晳暎(1943年生)などよりずっと先輩になる。
経歴を見ると、1918年慶応大学予科入学するも半年で辞め、福井県の小新聞の記者になり3カ月で辞める。後東亜日報ほかのソウルでの新聞雑誌者で活躍とある。金達寿の『玄海灘』の主人公とそっくりだ。
廉想渉は1919年の三一独立運動に際して、大阪でビラ撒きしようとして拘留された。1945年光復後、多くの韓国の文学者たちは愛国に目覚め社会主義化し越北する人も多かった。廉想渉はリアリストとされ、彼らとは一線を画した。多くの絶望を抱え込んでしまったのだろう。
ただ、『玄海灘』の方は未来のネーションを支えるべき二人の青年が主人公だったのに対して、『驟雨』は吹けば飛ぶような一人の女性が主人公である。

「避難民が溢れそうに通り過ぎるのを、食後に出てきたのか孫を連れた老人がぼんやりと眺めており、その前で黄色い子犬が尻尾を振っている。この奇妙な対照!」(同書解説p418の作家の文章より)
全てを捨てて歩き続けなければならない宿命に押しつぶされそうな避難民たちに対して、「この老人は燦々と降り注ぐ日差しの下で座っているようにみえる」
われわれの生活と思考と感情のすべてがその軸を失った以上、そこに与えられたわずかなぬくもりの中で思い存分背伸びしてみることもできるはずだ。首都崩壊のただなかでの災害ユートピアの幻をこの小説は描いている。

姜スンジェははきはきした美しい新女性である。社長の秘書で愛人でもあったが、戦争の混乱の中で自らそうした関係から自由になる。そして間借りすることにもなる元の同僚申永植に急接近しはじめる。「スンジェの愛欲心理と恋人・永植に対する実際の積極的なアプローチが、かなり具体的に書き込まれている」と白川氏に評されている。

朝鮮の首都が共産主義者によって占領され、数カ月後逆転する、それは決して『驟雨』などと軽々しく呼ばれるべきものではないはずだ。しかしそれはその後70年経っても分断を解決できなかったこの世界(南北朝鮮とその周辺国家)の歴史が、そういう重みを背負わせてしまったのだ。
光復によって民族が解放された以上、なんらかの統一は近々なされなけらばならないしなされるだろう、と当時の人々は信じただろう。スンジュの夫は共産主義者になり越北するが、占領軍としてソウルに帰ってきて復縁を迫る。しかしスンジェは「勇気がない」として拒否する。しかし「私は心の中では、あるいは精神的にはあなたの妻です」と書きとめる。
「北」に傾くことなく身を処し続けた廉想渉は、思想的にも「北」にとらわれず、かといって反発もせず、自由に生きつづけた。戦乱のなかでのスンジュの小さな恋愛のたたかいを長編小説に記し、讃えた。