立花孝志を逮捕しろ(2)

立花孝志を逮捕しろ  という思いを、ハッシュタグで共有したいという方が(日本中で)増えている。

それに関連した行動を、先日(1/20)少しだけしたので、報告したい。

 1/20月曜日朝から、竹内県議死去のニュースがショックで、なんとかしたいと思い、県警前スタンディングを思いつく。12時からの昼休みが人通りが多いだろうと考えたが、ぐずぐずしていて出発が遅れ、実際に立ったのは午後1時からになった。
 去年から、A4の紙を薄いクリアケースに入れ胸の前と背中に垂らすことを考え、今まで数回に実行した。A4だと印象は薄いが、楽でよい。
 県警前の人通り、少しはある。1時間立ち、共感してくださる方が一人居てはった。その方の友人も、県庁周辺ぐるぐるデモというのを一人で(不定期に)やっているとのこと。陽が当たるところに立ったので、暖かかった。
 スタンディングを終えてその後、県警に行き、広報課の人と話した。

 上に書いたように、12/25に県警に告発状を出そうとしましたが、受け取ってもらえなかった。
 今日は2回目の県警なので、前と同じことをしてもしかたないため、広報課の方と会いたいと言った。
 「立花逮捕せよ」が希望と言った。担当者が要望は何ですか、と聞いたので。しかし彼は、「そういう要望があったと聞いておきます」とのこと。これは斎藤氏の定番のフレーズである「しっかりと受け止める」という同じであり、内容は受け止める意志はなく、その場逃れの応答をしているだけだ、という印象。
 捜査・逮捕などが進んでいるのかを聞いても、捜査の状況についてはお答えできない、の一点張り。
 
 立花が政見放送において、渡瀬氏への誹謗中傷を含めた発言をして、選挙の公正性を歪めた。それは常識はずれのことなので選挙機関中に中止させるべきだったと主張。私も、選挙の公正性を歪められた被害者だと言った。県警は立花氏の活動を放置し続けたが、選挙の公正性を歪める活動を抑制すべきだという問題意識はなかったのですね?というのが私の質問。しかし回答はなかった。
 また、竹内氏などへの執拗な攻撃を立花たちが行ったこと、それを県警が抑制していれば、竹内氏が死ななかったかもしれないと言っておいた。担当者は、県民広報課警察相談係 古味さん。
「捜査にかんすることは一切答えられない」を強調し、立花が取調べを受けた事実がある、とも言いません。ある時ここらへん(県警1階)に居てたことは事実だが、とのこと。

具体的事実が法律のこの条文に該当する、と法的に明確化された訴えでなければ、それに応じることはできなのだという態度でした。
しかし思うに、市民は法的知識はあまりないのだから、こういうことを訴えたいとだけ言えばよいのだと思う。警察はそれを受け止め、例えば条文のどれにも当てはまりませんから残念ですね、という回答になる場合もある。条文との整合性は警察の側が判断することだと、私は思う。

刑事訴訟法を確認してみると、「第239条第1項:何人でも、犯罪があると疑う場合は告発を行うことができる」とある。
私の告発状を再確認すると、根拠をあげて犯罪があると疑っており、告発できる場合に該当するように思われる。
(https://x.com/Adepteater029/status/1882005972903952473
で教えてもらったが、「犯罪捜査規範第63条により、司法警察職員は告訴/告発があった場合には受理する義務を負う」とのことである。)
「犯罪があると疑う場合は告発を行うことができる」のであり、その後実際には、犯罪が発生していないと捜査機関が判断すれば、捜査に至らないことができる。つまり、書類の受付後、受理/不受理の回答がなされなければならない。書類を突っ返すというのはあってはならないことである。

しかし、実際には、私は2度のチャレンジで、兵庫県警という巨大な建物の入口から10mほど離れたロビーのソファまでしか侵入できず、敗退した。県警は自分たちは法的ルールに則って行動しているだけだと主張するが、現実には市民の大きな怒りなどにも応答する場合がある。
後で分かったが、この日の午前中、兵庫県警村井本部長は20日、政治団体「NHKから国民を守る党」党首、立花孝志氏が、死亡した竹内英明・元兵庫県議(50)が県警の捜査対象だった-などとSNS上で発信している内容について、「全くの事実無根」と否定した。彼が「通常では行わない」このような発表をしたのは、市民の大きな怒りが原因だろう。

他者への人権侵害にあたる場合、表現の自由は制限されるべきです。誹謗中傷に該当する場合などです。その家族などに対して中傷を加え、恐怖を与えることにより、議員を辞職させ、さらには自殺に追い込むことは犯罪であり、直ちにそのような活動の継続は中止させるべきです。
実際には、強制力を持っているのは警察・検察しかありません。彼らが動かないとどうしようもないわけです。法の精神に基づき公正な取締、逮捕等がなされているわけではなく、警察のきまぐれ(に見えるもの)をコントロールする方法はありません。私が行った行為は影響力をほぼ及ぼさないものではあるが、市民の直接の意志を警察に対して表現した点で意味があるものだと思う。
(2024.1.20-23)

立花孝志を逮捕しろ(1)

立花氏に対する告発状、受け取ってもらえず

とりあえず、事実だけ書いておきます。

12/25に100条委員会があり、傍聴30人のところ百人以上が詰めかけた。抽選。私は当然のように外れた。

私は前日用意していた、告発状を県警本部に提出しようとした。

ロビーで待たされると女性事務員(警察官?)が応答し、丁寧に文章を読んでくれた。個人では判断出来ないため、上に持って上がって、返事するとのことで、上に上がる。
帰ってきて、これは記載した条文に該当しないので、文書を受け取れないといって、文書返される。押し問答するが受け取らず。諦めて帰る。
帰りに「お見送り」とか言うので、そんなものは必要ない。そもそも公務員がそんなことのために時間を使うのが不適切だ。
さらに、ロジという言葉を知っているか、と少し発言した。終わり


告発状
2024年12月25日
兵庫県警本部 御中

告発人
住所 兵庫県○○
氏名 ○○

被告発人
氏名 立花孝志
住所 (貴警察において取調べ中)
職業 NHKから国民を守る党党首

告発の趣旨
立花孝志氏は下記(1)(2)(3)のとおり、公職選挙法違反を犯している。
「その選挙が選挙人の自由に表明せる意思によつて公明且つ適正に行われること」(公職選挙法第一条)を立花氏は阻害した。本来選挙管理委員会は選挙期間中に立花氏の発言を抑制すべきだったのに、それはなされなかった。
早急に処罰していただきたく、告発する。

告発事実 および罰条
(1)
立花孝志氏は10月25日に下記の発言をしている。

https://x.com/tachibanat/status/1849607559046627523
自分が嫌いな知事を、虐めるために、ウソの事実を内部告発という方法で拡散した人間は、たとえ自殺しても私は許さない!」

しかし、元西播磨県民局長渡瀬康英の「告発」は、
1,知事を虐めるためのものではない。
2,渡瀬氏3月12日付け7項目の文章のほとんどは、事実または真実相当性がある。ごく一部の勘違いがあるだけである。ウソの事実ではない。
3,この文章は、内部告発に必要な小部数のみ配布されたものであり、拡散されていない。

以上により、この文章は虚偽(又は事実をゆがめて公にする行為)である。

「公職選挙法235条2 当選を得させない目的をもつて公職の候補者又は公職の候補者となろうとする者に関し虚偽の事項を公にし、又は事実をゆがめて公にした者は、四年以下の懲役若しくは禁錮こ又は百万円以下の罰金に処する。」に該当する。

((1)は、10/27にsenkyo_tsuho@police.pref.hyogo.lg.jp宛メールしました。)

(2)選挙公報には  
「ウワサ話を集めてウソ話を拡散した元県民局長はなぜ自殺を選んだのでしょうか?」という文章があります。
元県民局長がウワサ話を集めてウソ話を拡散した、は虚偽です。

上と同じく、公職選挙法235条2違反に該当する。

(3)公職選挙法は「その選挙が選挙人の自由に表明せる意思によつて公明且つ適正に行われることを確保」するためのものです。
第一条において、被選挙人ではなく選挙人の自由意思、公明且つ適正を特に強調していることは注目すべきです。つまり、選挙人が「虚偽」や「ゆがめられた事実」によって、適正でない判断をしてしまってはならないということは非常に重要です。

第百四十二条の七にいう「表現の自由を濫用して選挙の公正を害する」行為は許してはいけません。

立花氏は立候補者として、選挙公報によって自己の表現を自治体によって拡散してもらっています。その表現が、選挙の行方に影響を及ぼすような「虚偽」に満ちていることは、あってはならないことです。

((2)(3)は、11/5にsenkyo_tsuho@police.pref.hyogo.lg.jp宛メールしました。)

追記:
不十分点については、追って補充します。

(以上)

兵庫県職員のみなさん

11/17の選挙によって斎藤氏が、再度知事になりました。
彼は「これまで説明しているとおり、県としての対応は適切かつ法的にも問題なかったというのが私の見解」と言いました。
https://news.ntv.co.jp/n/ytv/category/society/yt3bf8cc29c7494b6aaddbea3e43da6fcf
しかし、W氏文書に対する県の対応は公益通報者保護法に反したものというのが、事実であり、それを覆すことはできなはずです。それだけでなく、斎藤氏の言動についてはすでに百条委で膨大な質疑が繰り返されており、彼の主張は否定されています。

しかし彼は「民意を得たので、職員の皆さんは知事部局として一緒にやっていくのが地方公務員の責務」と話した、というのことのようです。
一緒にやっていくのは当然である。しかし、知事のパワハラは存在したのだし、それと同じことを今後もされても困る。
どうすればよいだろうか?

臥薪嘗胆である。この7ヶ月の間、斎藤氏は周囲の皆から何を言われようとも「県としての対応は適切かつ法的にも問題なかったというのが私の見解だ」という姿勢を守り抜きました。W氏はすべて正しかったが(不倫があったかどうかなど彼の告発の成否とは何の関係もない)、死を選んだのはマチガイだと思う。わたしたちは斎藤氏の厚顔無恥さに学ばなければいけない。
彼は何度も謝罪の言葉は口にしている。しかしそれは口先だけの謝罪だった。彼にはどんなことをしても守らなければならない「真実」があり、それ以外のことではすべて譲歩・謝罪しても良いと考えたのです。弁護士と相談しどこまでは謝罪しそれ以上は1mmもはみ出さないように慎重に言動をコントロールしました。


あなたは、何を守るか?
「県としての対応は適切でなく公益通報個人情報保護法違反だ」については守り切れはずだ。そして、それ以外の点についてはへらへらしておればよい。
四年間の臥薪嘗胆である。斎藤氏にできたことはあなたにもできるのだ。くじける必要はまったくないので、元気に出勤してほしい。
あなたは仕事をする。仕事とは県民(市民)のための仕事だ。法律に目的が書いてある、その目的に資するものだ。それ以外の県庁内部的な仕事と称するものはできるだけサボっても、まあなんとかなる。(無責任で申し訳ないが)
へらへらして、4年間をやり過ごすこと。斎藤氏の厚顔無恥さに学ぶこと。
生き延びるためではない。斎藤氏を心の底から馬鹿にしている「私」がそこに存在することは、すでに勝利だ。
元気でにこにこ、生きていってください!
(1975年入庁 野原)

関連:3月の告発者はまだ死なない

玄基栄『順伊(スニ)おばさん』について

2000年に「済州四・三事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」が出来るまで、口にすることもできないほどの強いタブーの下に置かれていた済州島四・三事件。
1978年という早い段階で書かれたこの本は画期的なものであったが、光州事件を起こした全斗煥政権に許されるはずもなく発禁となった。

あまりにも残虐・悲惨だったその事件の全体像を垣間見るためには、この200頁足らずの本はとても有益である。四・三事件に関心を持ったすべての人に勧めたい。
と同時にこれら4つの短編は文学としてもとても優れている(また読みやすい)。

甚だしい残虐行為は被害者にも加害者にも、PTSDなどその存在に大きな傷を与える。(済州島の人々はその後も生活苦が数年続いたが)平穏な生活が何十年続こうがその見えない傷は癒えず、晩年に健康が衰えるとその過去は思わぬ力を振るいはじめる。このような問題は普遍的テーマとして何度も語られているが、順伊(スニ)おばさんはその最も成功した例だろう。

順伊おばさんは済州島からソウルに来た56歳の女性だ。お手伝いさんとして。
「近所の人たちが、わたしの陰口を叩いているだよ。こんど来たミンギとこの食母(女中)は大飯食いの済州島婆だと噂が出てるだよ」
「そりゃあ、ふるさとで畑仕事をしながら、麦飯を鉢に山盛りで食べていた癖があるもんだから、(略)茶碗でご飯をいただいているおまえさんたちよりたくさん食べているのはほんとだよ」つまり、大飯食いというのは「事実に反する中傷」ではない、しかし差別というものはそれが事実であればあるほど効果的である。
都会人は農民に比べると驚くほどちょっとしか米(この小説では麦、粟、芋どころかそれ以下のものを食べて生き延びたことが記されているが)を食べない。しかも都会人はそのことをまったく忘れている。そのような私たち自身の無意識というものが、大災厄をたまたま免れた幸福や、大災厄を通り過ぎそれをむりやり忘れようとしてきた自分に作られたものに過ぎないということ。ふつうの人間が持っている存在の「罪深さ」とまで言うと、違ってしまう。そのような問題を正確に描き出しているのだ。

この小説は、済州市の近くの田舎町の女子供の視点から書かれている。つまり被害者である。政治的情況が襲いかかってきたときよくわからないながら、「山暴徒」の側に参加していくことを選んだ青年たちの意志といったものは書かれていない。しかし、被害者というものがその混乱のなかで、いくつもの決断を強いられること、それは当然被害者だから無罪といった説明で納得できるものではないこと、被害者はアクティブな契機をいくつも持つがゆえにどこまでも自分を責めざるをえないものだということ、それを執拗に書きとめている。
ひとつの事件を最も深く描いているがゆえに、時代を超えた傑作になったのだ。

訳者である金石範氏による解説より、この事件の背景情報を参考までに補充しておきます。

スニおばさん 背景情報
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3月の告発者はまだ死なない

 今年の3月に、その月末で退職予定の兵庫県の西播磨県民局長が内部告発文書を配布した。県民局長は兵庫県という組織では幹部になる。渡瀬康英さんと言われる。

 内容は①五百旗頭真先生ご逝去に至る経緯 ②知事選挙に際しての違法行為 ③選挙投票依頼行脚 ④贈答品の山 「斎藤知事のおねだり体質は県庁内でも有名。」とある。 ⑤政治資金パーティ関係 ⑥優勝パレードの陰で ⑦パワーハラスメント と列挙されていた。https://news-hunter.org/?p=21743 にその文書あり。

 しかし、斎藤知事はそれを認めず、最初は「職員の信用失墜、名誉棄損、法的課題がある。被害届、告訴も考えている。内容はウソ八百だ。ありもしない内容だ。」と激怒し、県民局長から降格させる処分を決定、退職を認めなかった。その後、停職3か月の処分とされた。

 当初マスコミなどの動きが鈍く、このまま握りつぶされるかと危惧されたが、丸尾県議と自発的に立ち上がった市民によって職員へのアンケートも行われ、その後おおむね事実であることが確認されつつあった。県庁内部の調査では真実にたどり着くのが困難であるため、県議会によって調査権限が強い百条委員会が設置された。ところが彼は7月7日に死去されたらしい。いたましいことだ。

 兵庫県のような大きな組織で知事の行動を真正面から批判することは部下はしないものだ、と思われている。ところが今回渡瀬氏は、知事の言行が自分の常識からみて到底許せないものであったため、告発に踏み切った。3月末で退職すれば、その時点で県との一切の権力関係は切れる。自分に大きなダメージはないだろう、と判断したのだろう。また4月になってから告発したならそれはあくまで元職員からの告発に過ぎず衝撃力が弱いと判断したのだろう。つまり3月の告発というのはベストのタイミングである。

 私がこのことを強調するのは、私自身それを実行したからだ。

「NOを言うこと」は必要だ 、という私のサイトがある。http://666999.info/AYGX/

2016年2月5日に、私(当時再任用中)は兵庫県を訴えた。

「NOを言うことができる最後のチャンス(例えば64歳のとき)にNOを言うべきだ。」と私は書いている。訴えの概要は、こちらにもあるが、再任用=週3日だった制度が、週4日しか認めないと制度変更されたことに異議申し立てしたものだ。http://666999.info/AYGX/sitai.pdf

 内容よりも私が反逆したかったのは、「(知事or)兵庫県としての決定を真正面から批判することは部下はしないものだ」という常識である。もちろん自分の主張に自信があれば、3月までとか64歳までとか待たずに、そのときに直ちに行動すべきであろう。しかし実際には職場で何十年も村八分に耐え続けるだろう行為に踏み出すだけの勇気は私にはなかった。結果的にはこの裁判は勝利的和解を勝ち取ったので、別に待つ必要はなかったわけだが。ただ私は、1970年に神戸大学から懲戒免職になった松下昇の思想的影響を受けていたので、自分の行動が世間に受け入れられる可能性を信じていなかった。敗北だろうがそれでも反乱するという選択肢として〈3月の反乱(告発)〉というスタイルを編み出したのだ。

 渡瀬氏は2015年に人事課長だったらしい。私の訴状を彼が受け取った可能性は強い。しかも彼は京大法学部卒で私と同じらしい。ごく少数の人しか読まなかった訴状とHPを彼は読んだ可能性が高い。彼の行動に私が影響を与えた可能性はゼロではない。ということは私は彼の死にも責任があるわけだ。

  私は3月から渡瀬氏のニュースを知りながら、自分のこととしては捉えず、スタンティングなどに誘われても行かなかった。しかし、彼が死んだ今後悔している。自分ができることはなるべくやっていきたい。 (西宮市 野原燐 noharra@666999.info:メール)

全てが討論に参加しそして決議し行動する

   「X団」顛末記 を読んで

(1)

 『ゲバルトの杜』という映画を見た。この映画がよい映画だったのかどうか、良くわからない。なのでこの感想は書かない。当事者(登場人物)の一人、野崎泰志さんが書いた長い回想が、インターネットにある。「「X団」顛末記―樋田毅著『彼は早稲田で死んだ』に寄せてー 「正しく公正で確かな力(村上春樹)」は私達の言葉にあったかー」https://ynozaki2024.hatenablog.com/entry/2024/05/09/231009 。
https://ynozaki2024.hatenablog.com には他の記事も精力的に追加されている。)

 広義の全共闘の時代の青春と正義を描いたドキュメントとして(かならずしも読みやすくはないが)稀有のものだと思う。以下に感想を書いてみたい。

「1972年11月8日の夜、早稲田大学文学部キャンパスの学生自治会室で、当時二年生の川口大三郎君(20歳)が学生自治会の革マル派によってリンチ殺害された。」
 それに怒った早稲田数万の学生は立ち上がった。学生たちの目的を二つに整理することができる。革マルによる暴力支配を終わらせることと「自治会再建運動」である。
 川口くんの属した「第一文学部の学生は先頭を切って学生大会を開催し、その自治会(革マル系)をリコールして臨時執行部を樹立した。その委員長が『彼は早稲田で死んだ』を上梓した樋田毅氏、副委員長が私(野崎)だった。」

 学生たちは、革マル派の暴力支配に抗しつつ運動を続けて行こうとする。ただし、学生たちのあいだにも思想傾向の違いがあった。当時の膨大な資料を再構成することにより野崎氏は、自分たちの思想(行動と不可分な)を、他の二つの潮流から区別していく。

「行動委員会とは、個々人の主体的な決意を基本とし“自立・創意・連合”の原則で進んでいく」そうしたもののようだ。わたしはその心意気に、50年前に出会っていたら同感しただろう。

 そのとき、野崎氏たちの前にあった課題は明白だった。友人だった川口くんが殺された。それをなんとかしないといけない。復讐の情念に似ている。しかし革マル派への憎悪だけに収束してはいけない。また革マルを否定する党派(例えば中核)を志向してもいけない。(セクトを志向することは、自分だけで考えるという態度を捨てること、思想をセクト中央に委ねることを意味する。)自分が自分として生きることを模索するという青臭さを引き受けること、そのように野崎氏たちは出発した。

 ただ〈行動委員会〉的なものは、野崎氏たちにとって次第に違和として現れる。この野崎氏たち(後にグレーヘルメットのx団として表れたもの)と〈行動委員会〉的なものとの差異は微妙なので、抽象的なものである言葉で捉えるのは難しい。1971年に大学に入学した、同世代である私には分かる気もするが。

 ある種の大人たちからはそこに思想の根拠を置いてはいけないと嘲笑される即自的なものに、野崎氏たちは依拠する。クラスがそれだ。
「私は徹夜でクラス決議案を書いた。
 11月10日金曜日は大学が休講措置をとった。それを知らず級友がいつも通り20数人集まった。クラス決議案を討議し一字一句修正した。私は後に引かない覚悟で、賛同の者の氏名を列挙すると言った。」
 正確には、〈クラス討論〉という開かれた討論空間であるが、それは友情(なかま)という即自性の強い共同性でもあった。開かれた討論空間であるとは、世界を包括しうるということである。この楽しみと喜びにとらわれた野崎氏たちは、稀有なことだろうが膨大な暴力がうずまく大学のなかで、それらとは別の次元の〈クラス討論〉空間をかなり長いあいだ維持することができた。クラスとは大学の制度内の集団という平板な意味ではない。ひとつの世界に開かれた共同性であるのだ。そのとき交わされた討論が意味あるものであれば、それは数十年後にもためらうことなく再開することができる。出版〜映画化〜いくつかのブログ〜SNSと討論は再開されつつある!

『行動委員会とは、個々人の主体的な決意を基*とし“自立・創意・連合”の原則によって各人の、各クラスの闘いとエネルギーを能動的に機動的に結合してゆく連動体である。全てのクラス・サークルで行動委員会を創出し臨執を守り、臨執の闘いを実体的に保*し、共に闘いを進めてゆかねばならない。
何度でも云う。我々の闘いは生み出されたばかりである』x2-2

 ここで定義された〈行動委員会〉は“自立・創意・連合”の原則(つまり開かれた討論空間)であり、またクラス・サークルというたまたまであった友人たちの即自性に依拠するという点で、野崎氏たちと同じである。

 しかし、野崎氏は第1章すべてを費やして〈行動委員会〉的なものと自分たちの差異を確認しようとする。
〈行動委員会〉の原理は、「やりたい者がやりたい事をやる」という全共闘方式で、学生自治会の基盤としての民主的クラス活動とは異なる。」と野崎氏はいう。自分たちは自治会再建運動をやっているのだであり、全共闘方式とは違うというのである。

 第一文学部学生自治会の9原則(野崎氏が書いた)というものがある。

  1. セクトの存在は認めるが、セクト主義的ひき回しは一切認めない
  2. 革マル派のセクト主義に対して、我々は大衆的な運動・団結をもって彼らの論理と組織を糾弾していくのであり又、そうでしかあり得ない
  3. 我々はセクトに所属している人間というだけで、その人の主張を無視してはならない。我々は具体的な事実、主張の下に初めて批判を行なっていくべきである
  4. 意見の違いは大衆的な討論の場で克服していく努力をする
  5. 我々の運動の質・形態・思想は常に運動の中から生み出され大衆的に確認していかねばならない(以下略)  

 革マル派糾弾を掲げつつ、(そこに属していたとしても)その人の主張を無視してはならない、と主張しており、討論空間の権威を誇っていると読める。


 このように討論を大きく重視する場合、現在考えてみると問題点を指摘することもできるだろう。

発言できないもの、障害者、幼児、病者などなどサバルタンの存在をどう見るかという問題。

また、運動、大衆的という言葉の圏域に立つなら、村上春樹や文学、孤立、死といった問題を包括できないのではという問いもある。

現実的問題としては、全共闘体験者(66〜70年入学者?)がすでに直面していた卒業/就職問題にまったく触れることができていないという問題がある。(松下昇の祝福としての0点は、たしかに一つの回答ではあった。東アジア反日武装戦線の反日も。)(なお、反日といってもテロとは限らない、単に肉体労働者としてその日ぐらしをする、桐島聡のように、もりっぱな反日だろう。)

 〈行動委員会〉的なものと野崎氏たちの分岐は、具体的には、一文行動委連合(準)略称LACなどと臨時執行委員会との分岐である。つまり「行動委員会とは第二次早大闘争の生き残りの世代の3・4年生中心に立ち上がった活動家の集合であり、同時に革マル派と敵対していた政治党派の活動家(手書きビラの書体と語彙で当時は分かった)の寄り合い世帯で」あり、臨時執行委員会とは1,2年生だった。
「3・4年生で行動委に結集した学生はクラス活動の基盤をほぼ持っていないという背景があった。語学クラス単位で行動した1・2年生はクラス討論を基礎に自治会再建に取り組み自治委員をほとんど選出した。この自治委員選出率、一年73%、二年75%、三年39%、四年0%と云う数字にも、行動委員会が自治会再建に淡白で直接行動に傾き、1・2年生が自治会再建運動に重点を置いていた当初からの関係のねじれが見て取れる。」
 自治委員選出率の極端な落差は、大学というもの(それをどう捉えるにしろ)への親和感を3,4年生はほとんど失っていたという問題があったのではないか?1,2年生はクラスの即自性に夢を託する余地があった。
 実際、3年U氏と4年K氏はクラス自治委員として選出されなかったので、執行部からはずされた。

 規約改正委員会(野崎氏たち?)の次のことばは美しい。
「各個人の自発性に根拠を置き、自由で豊富な人間関係を確かに、また持続的に組み上げていく努力を通じて、問題意識が(それは心のなかに不安として、痛みとしてある。)交流し、真実の共同的努力のうちに、自立的な人間へと相互に高めあっていくことが、自治の内実ではないだろうか。

〈行動委員会〉的なものと野崎氏たちの分岐を、表現された文言のうちに伺うことは困難だ、とも言える。それはむしろ彼らの存在様式(1,2年生はモラトリアムを許されていた)から来ていた。

 民青系の学生が立候補してもよいか?という問題があった。9原則の「3. 我々はセクトに所属している人間というだけで、その人の主張を無視してはならない。」からは、許容するという考えになる。自治会再建という目的のためには、民青も受け入れるとする。
この50年の経過を見ると、9原則派の方が正しかっただろうと感じる。血みどろで対立してしまえば、人間的にはその後の和解は難しい。しかし、ある具体的局面で敵に対峙するとき第三勢力として日本共産党や中核が居れば、共闘の可能性に開かれているべきだろう。自分の思想を守るためにそこで孤立を選ぶというのは間違いだろう。大事なことは自分の思想ではない。開かれてあることである。巻き込まれて自分をなくしてしまうなら、それはその思想が弱かったのでありしかたがない。(しかし、逆に相手にも同化を求めるなという態度は必要。)

「団交実行委員会は行動委員会系の学生が次に形成した運動体で、各学部にも作られ最後に全学団交実行委員会となる。これが後の1973年5月8日の総長拉致・団交を実行し」た。

行動委員会派は「自己否定・自己変革を通した主体性の確立を闘争の主眼とする」ということのようだ。

「地道なクラス討論を積み上げて、自治会の在り方や試験への対応や新規約など、ゼロから大衆的論議を尽くして自治会を創設していく」というクラスのニーズに、自治会再建派は立脚する。しかしそれは学費の支払いによるブルジョア的権利のなかでの友情(関係性)に、それを越えようとする不可能な夢をむりやり乗せようとしたものに過ぎないともいえる。そういう意味で、論理的・倫理的には「自己否定・自己変革」という立場の方が正しいようにも思える。

 しかし考えてみればたった2年間とはいえ、1年2年制は「クラス」という実存を生きることができるのであり、そうした学生による自治組織を希求するのは当然である。そして大学側との度重なる交渉の結果「各学部の自治会承認はその一歩手前まで行っていたのである。」

 したがって、5月8日の総長拉致・団交、つまり「旧世代の全共闘の好きなことを勝手にやると云う惰性」による運動(団交実行委=行動委員会派)が、「自治会再建と云う地道な作業を積み上げていた圧倒的多数の学生の望みを断ち切る事になる」。
これこそが、行動委員会派と野崎氏たち自治会再建派との決定的分岐となってしまった。

(2)

 次の分岐は、「武装」をめぐってのものだ。
この映画の原作とも言える本を書いた樋田毅氏は一貫して非武装派である。それに対し、野崎氏たちx団派は、最終的に鉄パイプによる武装を選択し、武闘訓練まで行った。

 これについて、野崎氏は次のように書く。73.6.17日。
「 個体としての己の生を誰も代行的に他人に生きてもらうことがありえないように、個体としての己の意思・思想・感性の表現を己のこととして貫き、決して疎外させ代行させることなく、自らの言葉を以って語っていく、——これが最低限の原則ではないのか。とすれば、己の表現を物理力をもって奪われている時に、己のゲヴァルト空間を確保し抵抗すること以外にどんな道があろうか。

 己のことばを表現を己から疎外させ誰かに代行させてはならない。同じ意味で、己の自衛権をゲヴァルトを己の肉体から疎外させ誰かに代行させてはならない。セクト主義的引き廻しを許さないと言う観点から言っても、種々のセクトやWACなどのゲヴァルト代行は、運動の自立をさまたげるだけに留まらず、思想的にも運動の敗北を決定的にするであろう。」

 この文章は魅力的である。自分で考えて言葉を発するのではなくセクトの思想・表現を(疑うことがなくなるまでに)自分のものとして語ってしまうこと、そのようなあり方を批判することこそがセクト批判であろう。であるとすれば、己の自衛権についてもそれを他人(他のセクトやWACなど)に任せてお願いするのではなく、自己のゲヴァルト行使として自己の行為とするべきだ、という主張。
革マルによる暴力的妨害をはねのけないと大学構内に入ることすらできないという事態において、防衛を他のセクトやWACにお願いするということがいままで成されていた。それを代行主義として批判し、自ら防衛すると言っている。
 ただ、ヘルメット・竹竿までは身につけることができても、鉄パイプという凶器を持つことについては覚悟がいったであろう。

「川口君の虐殺事件を機に、『反暴力』を掲げてこれまで一緒に闘ってきた同じ二年生の仲間たちが、防衛のためとはいえ、『武装』することを決めたのだ。療養中だった私は、その経緯を後になって知り、激しいショックを受けた。」(樋田毅『彼は早稲田で死んだ』、p148、166)(療養の原因は革マルの暴行。)

 革マルの暴力に対抗するために、対抗暴力としての武装は許されるか?「テロ・リンチはせず大衆の目前での公然たる暴力であること、目的が確認された暴力であること等」議論がなされた。大学に入り、学内で集会するために、防衛のための武装が必要となったのだ。

 わたしたちが非暴力で生きていますとのほほんと信じているとすれば、それは自らを覆っている国家権力の暴力を無自覚に肯定しそれに気づいていないということであろう。それが通用しない例外的状況(この早稲田の状況がそうだが)においては新しい基準が必要になるだろう。
 非暴力を貫くという樋田氏の思想は正しいだろうか。「人権として正当な抵抗権としての自衛行為」を認めることができない思想だ、と野崎氏は批判する。
 口先だけの非暴力主義が日本では蔓延している。そのような非暴力主義の蔓延はバリケードやストライキにも反対する空気を作っていって、社会運動の衰弱につながると言えるだろう。
 刑法的にも正当防衛の可能性はある。(ただし事前に鉄パイプを用意していた場合は、とっさにそこにあった何かを手にした場合より認められる可能性は低い)。防衛の意志をもって鉄パイプを持つことはあってもよいと私は考える。

 武装に反対する理由としてよく言われるのは、暴力は必ず相互エスカレートするということだ。早稲田の72年11.8から、73年9月までの経過はまさに暴力のエスカレーションであった。但し、革マルやそれに対抗した中核、青解などセクト(政治党派)の暴力と、個人の身体を基盤にしたx団の暴力はやはり違うものだろう。x団の暴力は防衛というレベルを逸脱しなかった。

 もうひとつ別の暴力については、引用だけしておく。
「ただし、X団の別動女性部隊「ウンコ軍団」はスロープを突撃して上がってくる革マル精鋭部隊約50名に対して、用意していたビニール袋のウンコ爆弾を2階の窓から雨霰と投げつけた。命中したのであろう、彼女らは女子トイレまで追われてそのドアーを鉄パイプでボロボロにされる恐怖を味わった。」

「一文学生自治会憲章「九原則」では、一言で言えば自律しか書いてない。非暴力とは書いてない。自律が侵されそうな局面で自衛的実力行使を一文学生は幾度も行った。更に必要に迫られれば自衛武装的実力行使に及ぶのは自然であろう。自分の人権は自分で守るしかない。一人一人がそう思えば大きな力になる。」が野崎氏の結論である。

「しかし、新自治会の防衛を自衛武装で試みたX団と二連協の”ICHIBUN 80”も、確かに無知で無力であったが、確かな敗北の痛みだけは手元に残った。」と最後に誇らしげに書きつける。
52年前に何があったか以上に、仲間との関係を回復し歴史を復活させるHPを作り上げるなどを仲間とともに行ってきた最近の営為によってもこの誇りは支えられているであろう。(19721108の頁

 暴力学生として唾棄されるだけの存在だという評価に、抗しうる自己史を書き留めることができた人は少ない。反革マルの闘いには真実があったし、それは表現されるべきだった。
野崎さんたちの苦闘と勇気にこころからの敬意を表したい。

(なお、早稲田大学と何の関わりもない私がなぜこの文章を自分に引きつけて読めたか。私は川口くん、野崎くんと同時である1971年4月に京大法学部に入学した。入学当初のクラス討論の空気を久しぶりに思い出してみると、そこには早稲田と同質のものがあったように思えたからだ。わたしたちは平和的に4年間を過ごすことができ卒業していった。「ブント系(赤ヘル)の全学支配のなか」と言えるだろう。悲惨な事件も時折あったようだが、あまりよく知らないままとおり過ぎていった。(民青とは勢力拮抗していた。)当時、竹本処分粉砕闘争や三里塚闘争などあったが参加せず、もっぱら本を読んでいただけだった。ただこの社会を否定・変革しなければならないという気分だけは100%持っており、従って卒業後どう生きればよいか分からなかった。)

参考:膨大な資料をまとめたサイトが二つある。わたしはまだ見れていません。
☆ (19721108の頁
川口大三郎リンチ殺害事件の全貌 というサイト。野崎さんや旧クラスメートなどが作った時系列重視の詳細なもの。

☆ https://www.asahi-net.or.jp/~ir8h-st/kawaguchitsuitou.htm
川口大三郎君追悼資料室 瀬戸宏作成・管理

追記:
 野崎さんのブログは最近旺盛に更新されているが、そのなかでどうしても引用したい部分が下記だ。
https://ynozaki2024.hatenablog.com/entry/2024/05/17/214016
パレスチナに連帯して5月1日に本部キャンパス・大隈銅像前で約200人を集めてスタンディングデモ・集会をやった現役学生に言及し、激励し、過去の歴史に学んで欲しいと締め括ったのは、私だけだった。多分、それをやった諸君の中の20人ほどが見に来ていたと思ったので。歴史はバトンタッチされた。

 その「スイカ同盟」の集会は、早稲田大学において、おそらく私達が1973年7月に最後の学生集会をやって以来の51年ぶりの、党派によらない、学生による自発的な政治集会だと思う。見事な演説であった。」
 私たちが必死で形成してきたはずの平和のための国際秩序(国際法)のなかでその最も有力な暴力である米軍の支援の下で、ジェノサイドが行われている。私たちは抗議の声を上げることができるが、大きな不可能性の下にいる。

矢内原忠雄はシオニストか?

(5/25)twitterを見ていると、青山学院大学立て看同好会さんが、
現在、短期大学の中庭でパレスチナ連帯のためのテントを設置しているとして、写真が投稿されていた。
https://x.com/agutatekan/status/1793864524812148916
「虐げらるるものの解放 沈めるものの向上 自主独立なるものの 平和的結合」(矢内原忠雄)という文章を書いたダンボールが手前に掲示されていた。

さてこれに対して、彩サフィーヤさんが、「矢内原忠雄はちょっと。(略 注1)青山学院大学はキリスト教の大学なのですからキリスト教シオニズムにここまで無頓着であってほしくありません。」とコメントされた。https://x.com/Agiasaphia/status/1794299123115729099

わたしは最初見逃していたので矢内原忠雄って何だろうと写真をよく見ると、ダンボールに書いてあった。
矢内原忠雄とシオニズムあるいは植民地主義との間には大変「微妙な」関係がある! 長くなって恐縮だが、ちょっと書きます。
(として、直接twitterにコメントした)

1.1922年に矢内原はパレスチナを訪問している。
「誰も勇ましく愉快げに石を取り除き苗を植え乳をしぼり道を築いて居ります。パレスチナは(略)その現状は禿山と石地ばかりの仕方ない土地なのです。モハメット教徒特にトルコ人がパレスチナの主人となりてよりこんなに土地を荒蕪にしてしまいました。しかしユダヤ人は言っています「イスラエル人がイスラエルの地に帰る時この荒地より何が出てくるか見て居れ」と。そして本当に荒地より緑野が出つつあるのです。(略)私は聖書の預言より見てもイスラエルの恢復の必然なるを信じます。」p214
「パレスチナに帰来せんとしつつあるシオン運動」を創世記からの宗教的伝統として、終末論的に希求してしまう思想。

2.「資本と労働とが人口希薄なる地域に投ぜられ、人類の努力を以て土地の自然的条件を改良し、地球表面に荒野なきに至らしむるのが植民活動の終局理想である。シオン運動は反動的にあらず却って歴史進展の必然性を帯ぶ。そはまた不法的にあらず却って国際正義の是認する処である。人類的見地より観れば「六七十万のアラビア人がパレスチナの所有権を主張する権利はない」のである。p218
土地の生産力という観点から入植活動を是認。実質的植民論(理想主義的植民)。

3,ロシア革命や米騒動など国内外の革命的情勢の中に神の声を聞こうとする「預言者的ナショナリズム」ともいうべき社会正義実現への志向において、「再臨信仰」を抱いた内村鑑三。その強い影響下で矢内原もまた「再臨信仰」を持つ。戦後、キリストの幕屋を開いた手島郁郎の先輩に当たることになる。参考p214

4,以上、役重善洋さんの『近代日本の植民地主義とジェンタイル・シオニズム』から3箇所不正確に引用した。

最後に、役重さんの結論部分も引用しておく。
「信仰と愛国心の調和を強く信じた内村の再臨信仰を受け継ぎつつも、その実現に向けた信者個々人の倫理的実践に重きを置いた矢内原の姿勢は、1920年代においては「実質的植民」概念に基づく植民政策論を生み出し、1930年代以降には「預言者的ナショナリズム」に基づく軍国主義批判を可能とした。しかし、その宗教ナショナリズム的な民族観においては、植民地支配下における宗教的・民族的「他者」である民衆の生活意識に寄り添おうとする意識は後退せざるを得ず、シオニズム運動や満州移民政策において動員されていた宗教的・精神主義的レトリックを客観的に批判する視点を持ち得なかったと言える。」p239

よく知らないのだが、矢内原をリベラリストとして持ち上げることをもっぱらにしてきた甘さの存在は、キリスト教関係者と一部の左翼がパレスチナ問題に沈黙しがちだという事実とつながっているだろう。
ただし、現在の論点は、ジェノサイドの糾弾であり、シオニスト左派の矢内原であっても行うしかないものであるのは自明である。

(注1)彩サフィーヤさん発言の略した部分は、「「ろくに知りもしない人がノリだけでなんかイイことしてるつもりで運動やってる」というような非難にはふだんは同調しませんが(それはそれでいいだろうと思う)、」であり、この部分にもわたしは同意したい!

追加:矢内原忠雄のことをほとんど知らなかったので、少し引用を追加しておきます。
☆「1937(昭和12)年7月に勃発した日中戦争(盧溝橋事件)により、新たな衝撃を受けた矢内原は、8月、「炎熱の中にありて、骨をペンとし血と汗をインクとして」書いた論文「国家の理想」を『中央公論』9月号に寄稿した。
論文の中で矢内原は、国家の理想は正義と平和にあり、戦争という方法によって弱者を虐げることではない、戦争は国家の理想に反する、理想に従って歩まないと国は栄えない、一時栄えるように見えても滅びるものだ、と述べた。
https://www.netekklesia.com/untitled-cj5t
これらにより、矢内原は大学を辞めさせられる。

☆その後、彼は個人誌『嘉信(かしん)』を出し「時局預言と聖書講義を通して真理の戦い」を続ける。
しかし44年遂に廃刊命令。しかし、
「「真理」は国法よりも大なりとの確信から、法律に触れることを恐れず1945年1月新たに『嘉信会報』を刊行し戦いを続けました。1945年8月15日、真理を敵にまわした日本軍は降伏しました。矢内原のように戦争の終りまで平和主義、非戦論を唱え、軍国主義に反対を守り貫いた人はほんのわずかしかいません。歴史学者の家永三郎は矢内原を「日本人の良心」と呼んでいます。
https://ainogakuen.ed.jp/academy/bible/kate/00/yanaihara.life.html

☆以上のように、戦争の最終期までリベラリストとして発言し続けた人はほとんど他にはいない(くらい)。
しかし、それを可能にしたのは、再臨信仰に関わる「預言者的ナショナリズム」であった。そして、(自らは孤立しているとはいえ)「聖書が預言しているイスラエルの恢復」と通う位相のものだと信じ、戦い続けたのだろう。

☆戦後、矢内原は「敢然(かんぜん)と侵略戦争の推進に正面から反対した良心的な日本人」として、栄誉を獲得した。しかし、余りに孤立した栄誉であったため、彼の思想を細部にわたり検証し、戦争と国家に向き合う思想者は何が可能で何が不可能なのかといった問いによって、真実を深めていくといった作業は果たされなかったのではないか。
「平和主義、非戦論、軍国主義反対」に情緒的に合唱していくことが流行る時代だった。
「彼らは心に神を留(と)めることを望まないので、神も彼らを〔その〕為(な)すがままに放任して、殺戮(さつりく)に渡されたのである」シオンの神は時として大殺戮を認めることもある、そのような厳しい信仰なしには、矢内原の抵抗は不可能だった。

赤ヘルになれなかったわたし

今日は、シリーズ「グローバル・ジャスティス」第72回「新たなモラル・コンパスを求めて-『自壊する欧米―ガザ危機が問うダブルスタンダード』刊行記念セミナー というのをzoomで聞いた。
同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科という大学の公式の企画かな。https://www.doshisha.ac.jp/event/detail/001-pxPDtH.html

最初、三牧聖子さん(初めて知った方だが)の米国の大学での学生たちの反ジェノサイド抵抗運動の話。内藤正典さんはドイツが「イスラエルは、ドイツのRaison d’etre(レゾンデートル)ならぬRaison d’etat とかわけの分からないことを言って」、ガザの子どもを殺すなとか言うとすぐに弾圧されると言っておられた。また、本来反ユダヤ主義の本家のはずのヨーロッパの極右は今は、どこも反イスラムという目的のためにイスラエルに全面賛同している、これは非常に危険だと言っておられた。
司会は、先日『ケアの倫理』の合評会を聞いたばかりの岡野八代さん。最後に、同志社大学でも学生の政治活動は禁じられていて云々という質問を彼女はあえて読み上げた。(先生だけズルイ、という趣旨の書き込み?)

私の学生時代は、京大と同志社は赤ヘル(ブント系ノンセクト)にあらずんばひとにあらずくらいの勢いだったので、時代は変われば変わるものだ。(注1)
気になったのでちょっと調べると、「ロッド空港乱射事件を起こした奥平剛士は、京大パルチザンの活動家」。「パルチ」でも赤軍でも、パレスチナに行こうとした人は同志社にも居たかもだが名前は上がってない。同志社ではよど号グループの若林盛亮が有名。

私が大学2年の5月にロッド空港乱射事件があり、それを記念したオリオンの三ツ星が京大西部講堂には大きく輝いていた。
テロという方法は良くないという意見の人はいたが、反イスラエルにはアラブの大義があるという認識は当時は広く共有されていたと思う。
以来52年経ち、今回のガザの事態を受け、私も人並みに本を読んだり勉強したりも少ししたが、少し白けているところもある。核心部分は50年前から分かっていた。そう言っても少しもおかしくはないのだ。
わたしは50年間特に何もしなかった。もっと何ができただろうしした方が良かったのか。世界のあるエリアで圧倒的な不条理・悲惨があり、それを知っていても何の力にもならない。だからといって声をあげることが無力だとか、絶望におちいる必要はない。真剣に考えれば心身をすり減らすことになる。世界の矛盾を倫理的に受取り、何かしなければとあせる、そういうのも違うとわたしは、思っていた。
そのようにぼーっと時間が経ってしまった。イスラエル/パレスチナの状況は基本50年間変わらないし、どんどんひどくなっている。それはただの事実だ。

現在、欧米・イスラエル側からの情報だけにより、偏った世界認識をもっている人は多いだろう。
70歳以上のひとといっても「オリオンの三ツ星」を身近に感じるという機会がなかった人が大部分ではあるだろう。しかしわたしの友人間ではわたしのような感じ方は普通だったと思う。
オスロ合意までは、アラブの大義は中東諸国で圧倒的に支持されていた。日本国内でも、そのような世界認識(常識)は(少数でも)存在していたのだ、と言って置きたいのだ。もちろん当時も、それは政治思想やイデオロギーの問題でもあっただろう。政治思想やイデオロギーを持っても当然であった時代、ということだろうか。

平和と民主主義を説く欧米のエリート(のうちの多数派)が、問題をむりやりややこしくして、ジェノサイドの糾弾すらできないようなていたらくに落ち込んでしまったように見える。この点ではある意味、無学な日本人である方が有利だと思ってしまう。まさに『自壊する欧米の倫理』だろう。
素人がエリートの膨大な言説に抗うのは困難だ。しかし、50年間を素直に振り返ると、私の方が正しいと思える。

(注1)大学1年の最後の3月に、連赤事件で死体が山の中からどんどん出てきて、世間の空気も学生の空気も変わった、ただし、京大学生の赤ヘル比率はそんなに減ってなかったと思う。
2024.5.18〜 

ケアの倫理、とは

岡野八代氏の『ケアの倫理』を読みました。
岩波新書なのに、専門書なみにむずかしい。
ケアというありふれたものは、この社会ではなぜか(というか他の国でもだが)価値がないものとされている。(介護ヘルパーなどは有償ではあるが、他の業種より低賃金である。)
岡野はケアをケア自身としてとらえようとする。つまり「自己へのケア、自己理解、自他の関係、そしてあるディレンマに立たされた文脈への注視や社会構造に対する関心や批判」といった多様な関係性のなかにあるものとして、ケアをとらえようとする。これはなかなか難しい。

この問題をどう考えたらよいのか、それは学者やフェミニストだけの問題ではない(だからみんなに読んで欲しい)、という岡野さんの熱意は伝わってくる。

ごく一部、メモを取ったので公開してみます。

ケアワークの重要性が広く認識されたきっかけは、コロナ禍だった。
内閣府男女共同参画局では、2021.4.28に詳細な報告書を出している。

コロナ下ではなぜか、女性の被害の増大が報告された。(P311)
・DV相談件数の増大
・女性・非正規雇用労働者の大量失業
女性労働者は非正規が多い、宿泊・飲食業などパンデミックの影響が強い業種が多い
・自殺者増大
A・小中校の一斉休校→ 小学校の子を持つ女性の失業率大幅増大!

なぜそうなるか?
女性の育児時間は極めて長い。小学生が在校することは女性に自由時間を与えていたが、休校になるとケアに費やさないといけない。
「経済活動とケア活動が連動しており、とくに女性にとっては、ケアの社会的分担なしには経済活動がままならないといった事実」が明らかになった。p312

・経済学者ナンシー・フォーブレ:ケア労働は、狭い市場経済をむしろ支える、広範囲で多くの人びとによって担われている経済活動である。p313
経済が潤滑に働く基盤として、保育や介護などのケアを社会的、政治的に支える必要がある。
つまり、保育や介護等も、電力などの社会インフラと同等に整備されるべき。

・経済学が外部性と呼んできた、家族やコミュニティその他の経済活動こそが、多くの財やサービスを生み出している。
人間が生きるうえで他者と相互依存したり、自分たちの心身が必要とする欲求充足のために相互行為すること、金銭を媒介しないとしても、そうした総体を経済活動とみなすべきであり、市場経済はそのごく一部。p315

・トロント:ケア責任の配分について、すべての者に平等な発言権が与えられ、自由に意見が表明でき、搾取や抑圧さらには暴力にさらされないようなつまり正義にかなったケアが行われるよう、整備していかなければならない。315
思うに、子育てを考えるなら一日労働時間8時間は長すぎ、6〜7時間にすべきではないか。

・本田由紀:仕事・家族・教育という3つの異なる領域が、市場労働の中心と成る正規労働者を生み出すために、つながり、ひとや資源を回している。
それぞれの領域:根腐れ:教育のための家庭→就活のための教育→家庭維持のための仕事
:なぜ働くのか?なぜ愛し合うひとが生活を共にするのか?何故学ぶのか?の根本が見失われてる p317

困窮は資源の枯渇から来るのか? そうではなく、社会的不正義の問題と捉えるべきでは?
ふつうに幸せに生きること、つまりケアに満ちた生活、それをできる限り目的とする政治:現状を検証し、新しい政治を展望することはできる。318

マーガレット・ウォーカー:表出的協働モデルの道徳:誰かのニーズに気づく→コミュニケーションを通じてようやく→誰が、何をいかになすか(試行錯誤):ケア実践がわたしたちを構成 
→その先に、政治的共同体が存在している(はず)p321

・(第5局面)共にケアすること:ケアのニーズがしっかり応えられているかの検証(正義、平等、自由などの理念にてらして)→新しいケアのニーズの発見→ケア実践の再編(呼応の関係)p321

・日本:男性の有償労働時間とても長い、女性の育児時間際立って長い。男女とも、有償+無償労働時間長い。コミュニティ・社会活動の時間なし。
・ケアには時間がかかる。ケアする相手への注視やニーズへの対応をめぐる思索や気遣いなど、ある意味での余裕が必要。p323(訪問介護は1時間、30分単位なのは残酷)

・日本の現状は、ケアがあまりに偏って配分されており、不正義。
・ギリガン:声と関係性に基礎を持つケアの倫理を、不正義と自分の沈黙の双方に対する抵抗の倫理と考えることができる。つまり、家父長制から民主主義を解き放つ歴史的闘争を導く倫理である。p324

以上、メモだけ。

金南柱詩集『農夫の夜』を読んだ

金南柱詩集『農夫の夜』凱風社 という本買った。

次の詩が分かりやすかったので、紹介。

日射しをしのぶ監獄の窓辺

ぼくが手をさし出すと
ぼくの手に来るなめらかな日射し
ぼくが頬をさしだすと
ぼくの頬に来るあたたかな日射し
深まりゆく秋とともに
しだいにしだいに伸びひろがり
リスの尻尾ほどに伸びひろがり
ぼくの首に来てからまれば
姉さんが編んでくれたマフラーとなり
ぼくの唇に来て触れると
そのむかし 母さんが咬み砕いてくれたりした
さくさくと刻んで食べたくなる
真っ赤な赤大根になるのだ
(以上)

解放のための闘争で
多くの人が死んでいった
多くの人が 実に多くの人が死んでいった
数千人が死んでいった
数万人が死んでいった
いや 数百万人が死んでいくかもしれない

みたいなストレートで闘争的な詩が多いのだが、監獄の窓辺は獄中生活の一面を描写した優しい作品。
平易で良い詩だと思った。

「民主化運動の高揚の中で、10年間に及ぶ獄中生活の後、1988年末に釈放された詩人・金南柱。光州郊外での農業実践に裏付けられた熱情あふれる詩作は、韓国の学生・市民の熱い共感を呼んだ。南柱拘留の理由となった南民戦の資料も付した。なお金南柱は94年2月に亡くなった。
 」と解説にある。

1979年春光州の民衆文化研究所から官憲に追われソウルに出る。
同年10月4日、南朝鮮民族解放戦線事件に連座し逮捕され、長く獄中にあった。(ちなみに同年8月9日YH貿易女子労働者籠城事件、10月26日朴正煕暗殺。)

黄晳暎の『囚人Ⅱ』p332には「(ソウルで)相変わらず真っ黒でまったく知識人らしくない金南柱に数か月ぶりに会った。」とある。
その後しばしば会うことになる。彼は反体制の前衛組織に加わり、急進的思想と活動にのめりこもうとしていた。そういった事情がざっと書かれてある。
この運動が金日成の指示下にあるものだというのは嘘だったが、社会主義体制を目指すものであったのは事実であり、弾圧は厳しかった。

彼はフランツ・ファノンの『地に呪われたる者』の翻訳もしている。
この翻訳(「農夫の夜」刊行会編訳)は1987年4月に刊行されており、彼はまだ獄中にあった。
以上、メモとして。