存在革命の可能性について

図書館で、岩波書店の雑誌『思想』2023年2月号を手に取った。大黒弘慈「「あいだ」のフェティシズム」という奇妙な題の論文、ふと読み始めると、難しいがとても大切なことを言おうとしているようだと分かった。

フェティシズムという言葉は難しい。ギニア人が価値のなさそうなビーズに価値を見言い出したり、粗末な神像を拝んだり、というのがフェティシズム。ととりあえず理解する。
A  :そのもの。例:木や紙で無造作に作った人形
〈A〉:フェティッシュ。おおきな神の予感。(信じてない人=近代的理性によって虚偽とされる)、という図式である。
フェティッシュ(物神)を否定しなければならないという常識をグレーバーは批判する。対象Aと主体Bとの安定した限定的関係がいつでも可能だしそれにたどり着けるという考え方に対する批判である。

われわれが創造的に生きようとするとき 物神は必ずしも悪いものではない。ただ危険な場合もある。p90 というふうに言っている。つまり、対象Aの本質、性質、質量などを私たちは客観的に捉え理解できるという前提に立つ時、それに対する例外としてフェティッシュがあるわけだ。
しかし私たちが生きているとき、ものAは慣れ親しんだものとか彼女が口にしていたものとか、そういうふうになんらかの情緒とともに存在している。であればそれは決して悪いものではないだろう。逆に、「ある種のフェティシズムをよすがにしてよりよい社会を築いていく」ことも可能なのではないか?それは「われわれがフェティシズムを作り出す行程について、理解しえない余地をあえて残すことによって可能になる」とグレーバーは言っている。p91
まあ、より正しい主体を求めていくことで、未来を獲得できるという考えを彼が取らないことは分かる。超越性への匂い(誘い)、ベクトルといったものを見出していくということだろうか。

でこの論文は、価値と権力の基礎とは何かを問い、その中で、新しい社会的現実を創造するためにフェティッシュが果たしうる可能性を探ろうとするものだ。

(第1章は「廣松渉、真木悠介、宇野弘蔵が、それぞれマルクスの「物神性論」を原理的なレベルでどのように読み替えていったのか」を追う章。ここではこの章に一切触れずに、残りの部分だけでの理解を書きます。)

第2章は「物神の消失/主体の埋没」となっている。

資本主義の現在は、対象Aの確実性が揺らいでいる時代である。例えば、サービス労働のような非物質的労働が優勢となっている。また、フェティッシュ崇拝は盛んになっている。「推し」消費の増大などに見られるように。
今日経済は非物質化している。貨幣の非物質化、ネットワーク上のbit列化が著しくすすんでいる。そしてまた、負債経済の下では、金融権力がわれわれに負債感情を植え付け、返済のために行動を画一化し、「正しい」生活規範へ順応させ、評価に縛られた空虚な活動に駆り立てられる。p108 

疎外とは「人間の本質をモノに外化し、それによって逆に支配される事態」のことだった。であれば、ひとと人が対等に関わり感情を含めて交流する介護、保育などの仕事は「疎外されていない労働」という面も持つ。実際そこにやりがいを感じると語る人も多い。しかし実際にはそこには困窮(moneyの欠如)がある。
またひととひととの関係においては、〈対等性〉が重要である。サービスの受益者と供給者という格差の一方で、人対人としての〈対等性〉をどのように確保するか?その問いに開かれた関係を作っていくべきだろう。

ここで紹介されている今井里恵氏の論文は、今日の労働疎外の核心をこう語る。
「物を製作することにより他者との新たな関係を築き自己の物語を紡ぐような仕事の機会」が奪われていることだと。p108
彼女は仕事を「演技ゲーム」として、「他者とともに共同社会を能動的に構築していく作業は本来、根源的喜びである」と定義する。p109 個々人が自分の判断で不確実性への跳躍をして、自分の物語をつむぐことが「自由」である。
しかし、1970年代以降は、管理強化され、自由の感覚が奪われた「演技労働」に堕落した、と彼女は考えた。現在、わたしたちの労働は、不確実性への跳躍が一切奪われてしまっている。

マルクスは生産物があふれる豊かな社会になれば(さらに革命後)、人間の主体性や人と人との直接的関係が回復されるはずだと考えた。それは実現できていない。
ここで、「むしろフェティシズムを回復することによって、自由な主体は可能になり対称的な人間関係が可能になるのではないか?」と考えた人がいる。ラゥトールである。p110
物神を一掃し、事実の集積だけの世界を真実だと批判家は考える。しかしそれは結局同じことなのだとして、ラトゥールは「物神事実」 ということばを使う。

第3章は「理論と実践」と題されている。

実際はギニア人とポルトガル人のいずれも「超越性の像を作る」。そこには、構成された実在と内在的な超越、中途半端な物神事実どうしの対立があるだけであり、階層差はなく、いずれも物神崇拝者であるといえる。p112
物神が行為者を支配しているようにみえるが、実際は行為者が自分の力をその物に投影しているだけだ、と批判する。
そして、そのさらに背後には、多数の作用者、社会的群衆、諸関係、伝統というものがあり、力をあたえている。

批判的思想は、物神を一掃し、事実(A=Aである対象の群れ)だけが現実だとみなそうとする。
それに対し、ラゥトールの見方はもっとダイナミックであり、「自らの行為によって幾分か超過される」行為者を考えてみようと言う。
関係を、主体と客体、本質と本質としてスタティックに捉えるのではなく、行為と行為の関係として動的に捉えるべきだと言う。まあ、生きている上では客体自体をそのまま捉えることは困難であり、行為の中にしか現れないのはむしろありふれた体験になる。

ここで、パリ郊外の民族精神医学の治療現場という現場が出てくる。
精神医学なのに、個人の内面に注意を払い分析の中心にするということがない。そうではなく、彼らの崇拝物、祖国の祖父母、叔父、(サッカー)、そうしたものが複数の言語で語られる。患者は心理学的主体ではなく行為体になる。患者だけでなくその他多くの参加者たちがその過程で少しずつ変貌する。そのようにして、患者は治っていく。その人は患者としてではなく参加者のひとりとして、崇拝物を回復し主体となる。物神から解放された主体ではなく、「崇拝物をもつ準主体」である。p113

自由とは、完全な自由ではない。いくぶんか支配されることはむしろ不可欠なのだ。絶対的な自由などないといって諦めるのではなく、悪いつながりを良いつながりへと置き換える不断の営みが肝要だろう。p114

ラトゥールは客体としての客体というものを否定する。
例えばパストゥールは「しかるべき実験室を自分の手で注意深く設定したからこそ乳酸酵母は実在する」。パストゥールは超越性を作った、と言う。
考えてみれば、超越を製作することは、それほどめずらしいことではない。「自分の書いた文章を読むことで自分の考えていることが初めて分かる書き手」というものはよく居る。p115

人と物との注意深い共同作業によって構築された「物神事実」こそが実在である。
自由とは物神事実のかたわらで生きるということである。それは物神に支配されることではない。制御不可能な領域(撹乱的要素)を残すことである。〈 〉に注ぎ込まれるべき力の可能性を信じることである。

絶対王権を革命したとしても、「良い支配者」「固定された主体」による支配という構図が変わらないが、それでは意味がないのだ。p116
自由とは、他者の影響を遮断することではない。恐怖を騙して魅力に変え、風通しをよくしていく。諸々の繋がりを剥奪されないようにする。魅力によって人々を繋いでいけるのだ。p117

フェティッシュは排除されなければならないという思い込みは強い。真理や客観性や聖性に到達するには媒介物を完全に駆除するのが不可欠だと考えられているのだ。
しかし、我々が神自体に触ることができない以上、像的媒介物には超越へ達する手段を超えた聖性がすでにあると考えるべきではないか。

物神事実という認識から始める必要がある。「物神と事実、疎外と解放、非合理と合理などの階層的二元性に基づいて、双方の差異を絶対化するのではなく、モノもコトもヒトも諸々の結びつきによって相対的に異なるにすぎないのだとまずは認識すべきである。」とラトゥールは言う。(この文章は日本では危険である、と指摘しておいた方がよいだろう。日本では味噌もクソも一緒くたにして、結局権力側つまり日本的包括者が勝利するシステムが強く働くから)

「価値の階層化から注意深く距離を取りながら、価値の恣意性のなかから、いかにして新しい同一性をつくり直し、良い結びつきを通じて新たな社会関係を創造していくか」、「理論」をヒントにすることによってそれができるとラトゥールは言う。(マンガ、アニメなどで、女子どものたあいのない思いからかなり高度なドラマを作り続けてきた、日本人の膨大な諸作品は参考になるかもしれない。)

「いまここで新しい社会的現実を創造しようと思うのなら、そこには必ず「詐欺」の要素がなくてはならないということだ。」
「詐欺」というと誤解されるであろうが、なんらかのフェティッシュ「人知が及び難い領域があると思わせること」なしには、「一定の理念を巨大な現実に変えることができる集団的力を引き出すよすがにはなりえない」のだ。
未開社会の藁人形、アナキストの巨大人形、そしてホッブスのリバイアサンというのがその例だ。

「新しい社会形態や制度を創造するためには聖なるものが必要です。」「しかし、聖なるものの力と神秘は、同時に危険なものもあります」そして実践的にこの矛盾を解く方法はある、とグレーバーは言う。

わたしたちの社会で最も力をふるっているのは商品フェティシズムである。それは金融権力に識らず知らず服従するといったかたちでも、ひそかにどんどん進行している。
しかし、そのようなフェティシズムのなかで、それを拒否するのではなく、それを魅力ある結び目に変えていくということはできるのだ、と大黒氏は最後に言う。

近代の〈物神事実〉崇拝について ―ならびに「聖像衝突」 –2017
ブリュノ・ラトゥール (Bruno Latour 著), 荒金直人 (翻訳)

資本主義後の世界のために (新しいアナーキズムの視座) – 2009
デヴィッド グレーバー (著), 高祖 岩三郎 (翻訳)

(私はまだ読んでない)

ゴーダ綱領批判を読んでみた

マルクスのゴーダ綱領批判は、ちょっと意外な文章から始まる。
「労働はすべての富の源泉ではない。」価値は労働力から生まれると資本論には書いてあるのではないのか。(ちょっとよく分からない)
自然もまた労働と同じ程度に、使用価値の源泉である。とマルクスは言う。なるほど。
「そして、労働そのものも一つの自然力すなわち人間労働力の発現にすぎない。」
労働がそれに必要な対象と手段をもって行われる、とするならば「労働は富の源泉だ」は正しい。土地とクワがないときに耕す労働をする人はいないので、たいていの場合それは正しいことになる。
しかし「土地とクワがないとき」どうしたらよいか、つまり失業したらという困惑とすれすれのところに労働者は生きているのであり、その言葉を意味あるものとする条件を、当たり前のこととして語らないブルジョア的言い方を許してはいけない。

人間が自然に対して、それに働きかける権利を有する者として、それに働きかけるとき、富が生まれる。使用価値(価値)が生まれる。p15
労働者は「労働に必要な対象と手段(対象的労働条件)」を普通持っていない。だから、それを持っているブルジョアの奴隷にならないといけない。
「労働はすべての富の源泉だ」とポジティブに言い切ってしまうと、労働者の従属関係とともにしか労働は成立しえない、という事情が見えなくなってしまう。と、なるほどと思う。
「労働はすべての富の源泉だ。労働者がこの社会を作り上げている」というのは元気が出るスローガンだし、まったく間違っているわけでもないが、厳密に考え発言していく方がよいのだ。

「有益な労働は、ただ社会のなかで、また社会をつうじてはじめて可能である」
マルクスが「労働に必要な対象と手段とをもって行われる場合」と明確に語っている」ところを、「社会のなかで、また社会をつうじて」とあいまいに表現している。

でそれによって、「労働の全収益は、平等な権利にしたがって、社会の全員に帰属する。」
現在の社会では格差が問題になっている。社長が労働者の100倍の報酬を貰ったりしている。それに対して、例えば「Twitterの全収益は、平等な権利にしたがって、Twitterの全員に帰属する。」と考えてみることは、思考実験としては行うべきことのように思われる。

全収益を分けるとすれば、まず「社会を維持するために必要なもの」を控除しなければならない。
ただし「社会を維持するために必要なもの」はマスクスによれば、直ちにかぎりなく拡張解釈されてしまうものだ。政府とその付属物の要求、およびブルジョアたちの私有物が円滑に働くことができるための要求、として。
空虚な文句は、口当たり良く見えるけれども、どんなふうにもこじつけられる。つまり支配者(ブルジョア)の解釈がまず適用されるとかんがえておかなければいけない。

「労働はただ社会的労働としてはじめて、富と文化の源泉となる。」この命題は正しいとマルクスは言う。しかし、
「労働が社会的に発展し、またそのことによって富と文化の源泉となるにつれて、働く側の貧困と見捨てられた状態、働かない者の側の富と文化が発展する。」こちらの正しさも忘れてはいけない。
そして、現在の労働者に、このような災禍を打破せざるをえないような物質的その他の諸条件を現在の資本主義社会はつくりだした、論じきるべきだった。

「公正な分配」をゴーダ綱領は求める。
しかし「公正な分配」とはなにか?現在の生産様式の基礎の上では今行われている分配が公正なものだと主張されるだろう。

労働の全収益を社会の全員に配分する!と語ると、皆の人気をえることができるかもしれない。しかし実際に分配できるのは、各種控除すべきものを控除した後の額である。また「社会の全員の平等な権利」をことばのあや以上のものとして確定するのはひどく難しいだろう。

以上のように、マルクスは、ポピュリズム的語り口が労働運動のスローガンに入ってくることを厳しく排除しようとした。資本主義がその冷徹な法則を貫徹させ、合理的であるがゆえに、労働者を苦しめるのだ、ということが、マルクスが資本論で発見したことだった。

以上が、「ゴーダ綱領批判」の(わかり易く歪めた)概要である。

労働というものが、それに必要な手段をもって自然(あるいは人工的な自然)に働きかけすべての富を作っていくのだ、という基本思想は貫かれている。21世紀の現在、労働という言葉はかって持っていた力強い価値を失っているように感じられる。インターネットで伝達される情報や巧みに組み合わされ人を惑わすイメージの乱舞といったものが、大きな価値を生んでいるかに見える。
ただ、現在も一日8時間労働のサラリーマンといった雇用形態は大きな比重を失っていない。むしろそうでない雇用形態が限りない搾取に陥り易いことが問題になっている。
労働というテーマを私たちが処理できていない限り、マルクス・エンゲルス全集の一部を読んで見るということも、意味のあることである。

困難女性支援法コメント

https://public-comment.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=495220328&Mode=0 こちらで、困難な問題を抱える女性への支援のための施策に関する基本的な方針、についてパブリック・コメントを求めていたので、書いてみました。

次のとおり、意見を書きます。

1・「時代が下るにつれ、社会経済状況の急激な変化とともに、女性の高学歴化が進み、就業率が上昇した。p1」
「にもかかわらず、女性の低賃金、雇用の不安定といった傾向は改善されず、パワハラ・セクハラ・解雇などの被害にあいやすい傾向が続いている。」ということを強調しておきたい。
なぜなら、
女性に対する支援だけのための法律を作るのは男性差別だという趣旨のパブコメが、大量に来ることが予想される。したがって、現状が顕著に女性差別的であるので対策が必要なのだ、という因果関係を明示する必要がある。

2・社会の変化に見合った婦人保護事業の見直しについて(p2)
ここで言う「社会の変化」とは何なのか?「女性の低賃金、雇用の不安定」の事実に変化がないという認識の上に、行政を行うべきだろう。

3・婦人補導院の廃止には賛成する。p3
「女性を婦人補導院に強制的に収容して矯正する補導処分」という思想が、「売春婦差別」の色合いが濃い。

4・「婦人保護事業は困難な問題を抱える女性への支援が重要な課題となっているにもかかわらず十分に活用されてこなかった状況」これが問題である。
「困難な問題を抱える女性」は特に、「本人が支援を求めない傾向が強い」。これは本人の自己肯定力が弱く、また行政による「上から」の支援に対する不信感が原因である。これを解きほぐしていくためには、相談員などによる持続的・粘り強い相談が必要である。

5・約84%は非常勤職員である(p7)。
婦人相談員手当等の増額は図られているようである。さらに、単年度雇用では相談の継続性も保証されない。会計年度任用職員制度の抜本改正が必要である。
常勤・正規化するのも一つの方法である。ただ、週4日など短時間職員のままで常勤化(雇用保障)する途を確立すべきである。

6・「市の女性相談支援員(旧婦人相談員)の相談実人数は1.3倍、延べ件数から見ると1.6倍となっている」p8
市役所・区役所の方が相談しやすいので、このような相談所を増加させる方が良いだろう。

7・「民間団体が独自にソーシャルネットワーキングサービス等も活用しつつアウトリーチや相談支援、居場所やシェルター、ステップハウスの提供や医療機関・行政機関等への同行支援等、生活再建に向けた支援の様々な支援策を展開している」p9
4に書いた理由によりこうした支援は、行政がやるより有効である場合がある。
ところで、現在暇空と名乗る人物がインタ―ネットで活躍し、良くわからない理由で、この種の活動の細部にケチを付ける活動が非常な盛り上がりを見せている。これは合理的理由がない理解しがたいものである。したがって、市民の意見ではあるがこれに類する意見については、厚労省は見識を持って無視していただきたい。

8・「性自認が女性であるトランスジェンダーの者」p9 についても、生きる上で大きな困難に出会う場合が多いので、この法の範囲で支援するようにしてほしい。

9・「とりわけ、性売買等の性的搾取・性的虐待・性暴力の被害により、尊厳を著しく傷つけられた女性には、これらの搾取等の構造から離れ、安心できる安定的な生活を確立し、心身の回復を時間をかけて図っていくことが必要である。」賛成する。

10・「また、性的搾取による被害が「性非行」として捉えられやすい若年女性(児童である場合や妊産婦を含む)については、その背後にある虐待、暴力、貧困、家族問題、孤立、障害などの問
題を十分に踏まえつつ」対応をお願いしたい。
また性的搾取でなくても、性交渉、妊娠などの場合学校当局が退学など苛酷な処分をする場合がある。性交渉や妊娠は罪ではないという基本認識を徹底し、本人(と場合によっては胎児)の立場に立った処遇を指導すべきである。

11・「相談に至っていないが支援が必要な女性に対し、民間団体等による気軽に立ち寄れる場や一時滞在場所において支援対象者に寄り添い、つながり続ける支援を行うことは、女性たちとの信頼関係の構築にとって重要であり、公的支援を必要とする女性への支援の提供に向けても有効であると考えられる。なお、相談に至っていないが支援が必要な女性には、女性自身が困難に気付いているが他者に言えない場合や、女性自身が気付いていない又は気付きを避けている場合、厳しい精神状態にある場合など様々な状態があり、女性自身の状態に配慮しつつ適切に対応していくことが重要である。」賛成。
(以上)

私は相談業務の仕事をしたこともないし、勉強不足で、内容は自信がない。
できれば批判してください。

図書館にネトウヨ本が多すぎ、申し入れした

□□市教育委員会 様
□□図書館長 様

いつも図書館を利用させていただいております。
優れた本をたくさん購入してくださってありがとうございます。

ただ、先日□□市図書館○○分館の開架図書をずっとみていたところ、一群の本が気になりました。
歴史修正主義的な本です。
これらの本は、主にアジア太平洋戦争に触れています。終戦(敗戦)までは「大東亜戦争」と言っていました。

日本と中国の対立と、それによる満洲をめぐる国境紛争により発生した日中戦争(支那事変)は予想外の総力戦となり泥沼化しました。そのため日本は南進を行い、中国国民党への物資の補給路を断ち、石油などの戦略物資を入手することで日中戦争の解決を図ることになる。そしてそれを認めない英米と戦争するに至ったわけです。それを欧米に植民地化されたアジアを開放する戦争だとして美化し、東南アジア、インドなどの人びとに支持してもらおうとしたプロパガンダが「大東亜共栄圏」建設です。

歴史の見方は歴史家によって異なりますが、自民族(日本)だけを正しいとして、日本に不利な証言などはできるだけ採用しないようにして本を書けば、かなり偏向した「歴史」本が生まれます。しかしこの20年ほど特にそのような戦争中の歴史観に先祖返りしたような観念に基づく本や雑誌が多く書かれ、それを支持する政治家や市民なども増えてきていました。書店ではそのような本を買う人も少なくないようです。図書館に希望する人も多いのでしょうか。かなりの冊数の本があります。すべてリクエストに応じて購入したものでしょうか?

図書館ではどのような本を所蔵すべきなのでしょうか。
社会教育法では「実際生活に即する文化的教養を高め」るといった言葉があります。
また総務省は「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」を推進する「多文化共生」を進めようとしています。
そのような観点から見た場合、下記の本たちはかなり問題があるのではないかと考えます。

去年京都市宇治市のウトロというところで放火事件が起こりました。
犯人は当時22歳の男性で、特定の出自(朝鮮)を持つ人々への偏見や嫌悪感といった動機をもって、放火を犯してしまったのは民主主義社会では許容されないと、判決に記されました。
またその後、「日本を滅亡に追い込む組織」であるとしてと立憲民主党の辻元氏事務所やコリア国際学園、創価学会を連続襲撃した事件も起こっています。
上に書いたように、日本が朝鮮を植民地化し中国・アジアを侵略したことは事実です。ところがそれを日本の1945年までの歴史と努力を全否定するものととらえて、反発する思想によって書かれた低劣な本は多いです。これらの犯人はおそらく、そのような本やネット記事を読み、日本人は朝鮮人などより優れているなどの誤った思想をもってしまい、そのことが犯行の原因のひとつにもなったのではないでしょうか。

そうだとすると、そのような思想を展開している本を一般市民に対し積極的に公開していくことは良くないのではないか、と考えられます。

わたしが貴市の図書館から抜き出した下記の本は、おおむね上に書いた大東亜戦争肯定論的な構えに立ち、日本軍の残虐行為をできるだけ小さく描写し、朝鮮・中国人の欠点をことさらに強調するといった特徴を持っています。しかも学者の書いた本に比べ、扇情的で読みやすい文体で書いてあります。

以上書いたことについて、次のとおり質問します。

1,これらの本についてレイシズム的思想を拡散する本だと評価できるのではないでしょうか?
多数の本の中から限られた本を購入するに当たっての「選書基準」はどのようなものなのでしょうか?

2,そうである場合、これらの本をとりあえず、開架から閉架に移すことはできますか?
3,廃棄する場合は、市民への無料配布ではなく、直接廃棄する方が良いと思われますが、いかがでしょうか?

以上のとおり質問します。


歴史修正主義的な本の一覧
別添のとおり   2022.12.18


☆ 私がいいかげんにセレクトしただけで、124冊にもなったことに驚きました。いままでずっとそれが当たり前だったのなら、わたしの主張が通ることはないかもしれない。

私の書いた理屈は左翼・リベラルなら普通のものだと思われるのに、いままでこういう活動をした人がいない(みたいな)のはなぜだろうか? 検閲禁止みたいに思う人がいるのかもだが、そもそも図書館は無数の本の中で特定のその本を選んで買っているのであり、なんらかの価値があると判断しているわけだ。歴史修正主義的(民族差別的なものを含む)かつ扇情的な本をこんなにたくさん所蔵する必要はない。

☆ また、むしろ左派的な本が今後追放されていくきっかけを作るのではないか?という危惧を言う人も多いと思います。世の中の右傾化は止んでいないので、そうした可能性も全否定はできないかな、とも思います。でも正しさを素直にいろいろなところでふつうに主張していくのが大事なのではないか。

ご意見いただければありがたいです。

歴史修正主義的な本の一覧

戦後朝鮮という悔恨!

麗羅という在日作家(1924-2001)の『体験的朝鮮戦争』という小説を読んだ。1992年の作品。
1945.8.15に日本が降伏し(光復節)てからの3年、1948.9.9に朝鮮民主主義人民共和国が発足し分断体制ができあがるまでの朝鮮半島は、混乱の時代だった。南半分では独立・革命への強い欲求を米軍がむりやり押し止めていたとも言える。

朝鮮の独立については1945.12月米英ソ三国外相によるモスクワ協定で、朝鮮米ソ合同委員会および臨時朝鮮政府の設立が決まっていた。そして米ソ共同委員会が開かれ、過渡政府樹立のためのプランも発表された(46.3.20)。しかし米ソの意見の違いは大きく共同委員会は休会となる。

1947.10.30国連総会は朝鮮への国連の委員団を派遣することを決定した。(ソ連はこの上呈自体をモスクワ協定違反として反対。)p116
委員団はソウル到着後、3/31までに南北同時に総選挙を実施する、それにより朝鮮国民政府を樹立するための議会をつくる、などと発表した。しかし、ソ連及び左派はこれに賛同せず南北同時選挙は実行できなかった。
75年後(分断されたまま)の今日から振り返る場合、仮に実行していたらどうだっただろうかと考えてみることは、できる。

当時の朝鮮全体の人口は約3000万人、北1000万、南2000万と考えてよい。
ソ連と北の指導者は、勝利する自信がなかったから、総選挙に反対したと麗羅は書いている。p121
しかし南では左翼に対する支持の方がかなり圧倒する可能性があった。であれば合計でも勝てる可能性があった。
しかしその場合も、南での左翼支持勢力が北での左翼支持勢力を上回った場合、左翼(共産主義陣営)の指導権は南の指導者に握られる。また北での左翼を支持しない勢力がかなり多かった場合も面目を失う。ソ連および金日成にとってはいずれにしても避けなければならない、と判断された。
朝鮮民族全員の民意を素直に問えば左派が勝利していた可能性がかなりあったのに、金日成は自己権力の維持を第一目標とする考えであったため、それをやろうとしなかった(と言えるだろうか)
今にして思えば、全国同時選挙をやっておきさえすれば、分断をさけることができたのでは、といった思いを抱く人があるだろう。その場合、金日成体制をさらに覆していくことも必要になる。(日本人でしかない私がとやかく言うことではないが)
歴史に対してこのような感想を付け加えるのは、まあ愚かなことである。しかし朝鮮戦争休戦後69年も経つのに、停戦すらできず、統一の目処も立っていないのは不条理すぎる。自分に引きつけて考えようとすると愚痴にならざるをえない。

なぜこんなことになってしまったのか。そしてそれがこんなにも長く続いているのか。その嘆きは麗羅のものでもあった。
朝鮮共産党の指導者朴憲永たちの振る舞いも、こう振る舞っていれば歴史はこうはならなかったはずだ、といいたくなるところが二つある。
「開放直後は、朴の率いる南の朝鮮共産党(ソウルに本部)が主流で、北(平壌)に本部の党は分局に過ぎなかった。それが北労党と南労党になってからは双方の立場が対等になり、モスクワの指令で南北が合党して朝鮮労働党になってからは、北派が主で南派は従といった力関係になってしまった。
朴憲永は、年齢、学識、理論、共産党員としての組織生活や闘争経歴などすべての点で金日成をはるかに凌駕する。」であるのに、党でも政府でも、金が主で、朴は副というポジションに甘んじさせられた。もちろん、金日成はソ連軍の傀儡としてそのポジションを占めていただけだが後にそのポジションを利用して他の指導者を順次粛清していき独裁を完成していく。

麗羅が朴憲永の第一の間違いとして記すのは、下記だ。
「1946年の大邱人民抗争以来散発的な抵抗運動を展開しながらも、1947年の夏において、全面的な革命戦争の開始を躊躇したことである。その時点では、南における南労党の組織率は60パーセントを越えていた。朴憲永が蜂起を命じたら、アメリカ軍が駐留する二、三の都市を除いて南の大部分は数日のうちに制圧できたことは間違いない。」(P195)
そして、
「第二の間違いは、朴憲永は絶対に北に行くべきではなかったことだ。
彼が北へ行ったのは1947年の春で、左翼陣営にたいするアメリカ軍政庁の弾圧がきびしくなったために一身の安全をはかってのことだといわれているが(略)。
彼の北行きは、軍人でいえば戦線離脱であり、危険水域にさしかかった船の船長が、船と船員を見捨てて逃げ出したに等しい。(略)
彼は南を離れていたから、その夏の一斉蜂起の絶好の機会を逸したのだ。
そして、朴が越北したのちの南労党は司令官を失った軍隊にひとしく、地方幹部たちは局部的に果敢に闘争を展開したが、全体的には頽勢の一途をたどった。
一時は成人男子の6割以上を獲得した南労党(左翼陣営)の地上組織は、1947年8月から翌48年の3月までにほとんど壊滅して地下組織のみが細々と存続する状態に追いこまれ、頼みとするゲリラ闘争も相次ぐ討伐と隊員の脱落によって日を追って弱体化するばかりだった。」
それでも「南北を統一するには南に人民革命を起こして共産党が権力を把握したのちに、北の共産政府と合併する」という発想を捨てなかった、朴憲永は。
それに対して金日成は「北の人民軍を投入して南進統一する」発想を捨てず、朝鮮戦争を起こす。全面武力対立は金日成の目論見に反し米軍の全面反攻をもたらし、結局戦争は勝てなかった。金日成は戦争の責任を取ることもなく、権力を維持し続けた。
(ここからは野原の感想だが)ソ連監視下の平壌という狭い場所での権力闘争というゲームにおいて、朴憲永は金日成よりずっと下手だった。そして70年後も金日成の孫が自己権力を維持し続けていることを私たちは深く気づくべきである。
つまり、朴憲永の共産主義、ソ連、そうした理想への期待が、リアリストであるべき政治家の目を狂わせ敗北に至った。そしてその問題は私たちにおいてもまだ終わっていないのだ。

『淫教のメシア 文鮮明』による統一教会の教義

萩原遼の『淫教のメシア 文鮮明』晩聲社、この本は1980年に出された本でだいぶ古い。
世界基督教統一神霊協会。(2015年世界平和統一家庭連合への改名が文化庁に認められた)「協会側は統一協会とされることを好まず、統一教会とせよとマスコミなど報道機関にねじこんでいる」p8とある。

この教団は「混淫・血分け」系の教義を持つとされる。

統一教会の特徴は集団結婚式である。この式次第の秘密の部分を含む詳細は
鄭鎮弘「宗教祭儀の象徴機能  統一教の祭儀を中心に」(同書p152-154)に書かれている。重要なので、ここに引用する。

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このなかで、神学的に最も重要なのは
②聖酒式の
・文先生(文鮮明)がすべての新婦たちの手に一回ずつ手を重ねて通り過ぎる。
・つぎに聖酒を文先生が先に飲み、それを新婦全員に分け与える。新婦たちは礼をしてそれをもらい飲む。 のところである。
手を重ねる、「それを通じ、先生の身を受けてから相対者と霊的肉的に一体となる。結婚式といいながら、文鮮明と新婦が一体になることが決定的に重要なわけである。それによって「原罪を負った汚れた血統は転換された」とする。p22
これは神学的には宇宙創造的な儀礼的性交である。
1961年5月15日 – 33組聖婚式(ソウル市前本部教会)までは、おそらく実際にセックスが行われただろうとする。p24

聖書ではエデンの園でエバは蛇によって誘惑され堕落することになる。統一教会では蛇とはサタンでありそれとセックスすることによりエバは悪の血統となり、それとセックスしたアダムも悪となる。
普通のキリスト教でも人は堕落状態にあり、十字架のイエスへの信仰をとおしてのみ救済に到れるとする。しかし統一教会では、再臨したメシアである文鮮明とセックスすることにより、人は救済に至りうるとする。これはまあ奇妙ではあるが神学的には筋が通っている(?)

1930-40年代の朝鮮には混淫・血分け派といわれるさまざまな教団が活動していた(また弾圧されていた)。
1930年代の平壌では李龍道や黄国柱という教祖が居た。彼らは神との霊的合一を新郎に対する新婦の性愛に例える。

・文鮮明はすでに10代でソウルの李龍道の「イエス教会」に参加したとの説もある。
同書p57-59に統一教会内部の秘密文書「主の路程」が紹介されている。
「ある時、礼拝で代表祈祷されている時、その祈りの深さに全員が驚き、ある婦人はおもわず泣いて抱きしめ、自分の家に下宿することを勧めた」でまあ文少年はこの婦人とセックスしたわけですね。彼らにとっては「聖血を分け与えることは堕落の血をうけついだあまたの女性救済の聖なる行為であったのだ」p60。彼が教祖になる前からそういう神学があったわけです。
・文鮮明がだれから血分けされたかについては諸説あるが、鄭得恩かもしれない。p64 鄭得恩は黄国柱の弟子らしい。文鮮明が鄭得恩に伝えたという説もある。

・とても「いやらしい」話ではあるが、まずはあくまで神学的な教説であると理解しなければならない。
・なお、1980年に出されたこの本の段階では、「日本はエバ国家」とか「日本の植民地化の贖罪」といった理論はあまり強調されていなかったのではないか。

いかにも下世話な興味を引きそうな極秘文書「主の路程」、参考までに引用してみる。
戦中、戦争直後の文鮮明については資料もすくないなかを萩原遼がまとめたものです。ニュアンスを確認し読み解くために彼の本『淫教のメシア 文鮮明』を読んでください。(図書館にはあるだろうが)
http://666999.info/liu/bunsenmei0.pdf

以上書いたのは主に、40〜50年代の統一教会確立期の教会の教義である。統一教会は、KCIAの介入以後政治的団体としての側面も持つ。そして多くの関連組織を持ち、教義などすらカメレオンと言われるほど変えていっている。しかも徹底的に嘘つきである。
以上書いたことは根本教義なので意外と変わってないのではないかという気がする。

和解のためのパラヴァー (徹底的話し合い)

謝罪は難しい。自分が正しいと思ってやったことを咎められた場合、相手が自分の正しさを主張すればこちらもこちらの正しさを主張し返すことになり、きりがない。
だからそういうことは止めよう、と考える。しかしそれでは不正は放置されたままになり、社会は良くならない。被害者の気持ちも収まらない。ではどうすればよいか?

https://www.youtube.com/watch?v=ddfboRLj2Ew
京都大学のオンライン授業で、松田素二先生の、「アフリカから学ぶ人文学」という講義を聞いた。

アフリカでは何度も大きな紛争が起こっている。そして終結した。
一番有名なものは 南アのアパルトヘイト(1994年廃止)と1994年ルワンダの大虐殺(100人が犠牲になった)。
このような問題に対して、先進国インテリは「加害者の処罰をすべきだ」など言うが、今までうまく行っていない。上手く行かない場合、先進国側はそれをアフリカの未発達、未開のせいにしてしまう。
それに対して松田氏は「アフリカの潜在力」に注目すべきだとする。先進国がアフリカに学ぶべき点があるのだという新しい立場である。
どのように解決すれば良い?
法と法廷によって加害者を裁く、これが私たちの考え方。しかしそれによって、問題解決したと思われる例はなかった。
別の考え方がアフリカ人によって提起された。それはむしろ加害者を受容するという問題解決の仕方だ。加害者も被害者も同じコミュニティのなかで生きていくしかない。
それは乱暴に言えば、真実よりも和解・癒やしを追求するという考え方だ。アフリカ風には「顕微鏡型真実」ではなく、「対話的真実」と言う。
顕微鏡型真実は、物的証拠などを細かく積み重ねていって裁判所が「事実」を認定しそれによって「罰」を決める。
対話的真実とは、加害者と被害者が互いに話し合った中で了解しあえたものを真実とするという考え方。
南アの真実和解委員会(TRC)やルワンダの共同体法廷(ガチャチャ)でも、対話的真実の考え方が採用されている。これに問題がないわけではないが、顕微鏡型真実による解決よりは有効だと考えられる。
罰を与えるシステムには、今後どのようにしてひとびとが「よりよくともに生きることができるか」という問題意識が欠如しているからだ。

このような思想の核心として、コンゴのゲリラの指導者でもあった哲学者・社会学者ワンバ・ディア・ワンバ(去年コロナでなくなった)はパラヴァーものを強調する。

パラヴァーとは、誰もが参加し自由に雄弁に意見を述べ、全員が一致するまで話し合い続け最終的に「違い」を乗り越え合意に到達する会合(あるいはその場)ことである。何日も掛けることもある。
被害者がその思いを大きな悲嘆とともに語る、加害者はそう言ってもと自分の思いを語る。それは当然被害者のより大きな怒りをまねく。そのような巨大なエネルギーの交換が長く続く。(ミンデルが炎と言っているもの)
この場合、お互いの「違い」はあってはならないものとはされず、否定・征服されたりしない。南アにおける白人の立場は確かにある立場からは全否定しうるものかもしれないが、現実には50年以上続いているものである以上、そうすることはできないのだ。
そして、感情を徹底的にぶつけ合うことによって、その場に参加・関与する異質なひとびとのあいだに、それまでなかった共同性(一体感や共通価値)や熱狂、祝祭感覚をつくりだす。そういうことができるのだ、というのだ。
これは別に理想論ではなく、実際に各地で行われていることだ、というのだ。

わたしたちは多数決が民主主義であるかのように教えられているが、日本でもかっては、満場一致を原則とし、それに到達するまで粘り強く話し合い続けるという文化は珍しくなかった。多数決を理解しないのは遅れていると先進国の人は言うのだが、それも一方的だろう。(日本では現在国会できちんとした討論は行われておらず、多数決だけが機能しており、民主主義とは言えない。)

これを読んだとき、全共闘時代の大衆団交の理想に近いものを感じ、非常に興味深く感じた。
大衆団交について、松下昇はこう書いている。
「学生側(特に全共闘派)は大学構成員に関する全ての問題を、直接・対等・公開の原則に基づいて討論し、実行することを目指し、自他の生き方の検証の場としても把握していた。」対立は持続し、解決するまでこの場は終わらないという感覚は共有されていた。
http://666999.info/matu/data0/gainen32.php

パラヴァーは和解を目指すのに対して、大衆団交にはそういう指向はなかったという相違はある。しかし、納得するまで問い続けるという迫力が何かを生み出しうるという共通するものがあると感じた。まあこれは読者には分かりにくい話ではあろう。

「罪と罰」プロセスだと、過去の事実に罰(評価)を与えるだけである。「告発と謝罪」プロセスだと、被害/加害関係が予め決まっていて、加害者側は謝罪をする場合でも強いられた謝罪になり、ほんとうの謝罪には永遠にたどりつけない。
つまり、相手と共に生きるという結果から逆算すれば、パラヴァーのようなプロセスは絶対に必要である、と言えると思う。

また、裁判というものを国家に譲り渡さないというパラヴァーのヴィジョンは、これからのアナキズムを考える上でも必須のものであろう。妥協や復古、長老の価値というわたしたちが今まで否定的に見てきたものに対しても、再考が必要だということになる。

(この文章は、松田先生の下記動画・パワポにあった文章を引用符抜きで引用、あるいは一部改変させていただいております。
https://www.youtube.com/watch?v=ddfboRLj2Ew したがって野原が著作権を主張しうる文章ではありません。ご容赦ください。)

追記:現代日本においては、エビデンスに基づく裁判による有罪でなければ、加害者であっても自らの加害を認めないといった、「顕微鏡型真実」観の悪用さえ起こっている。直接関係ないが付記しておく。