香川照之〜水木しげる〜従軍慰安婦のこと

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柚木麻子さんという方のこの文章はとてもすばらしい!

香川照之=「「彼」自身がどうして自分が加害に至ったか、どんな心情だったか、そして今、何を考えているのか、自分の言葉で語るべきなんじゃないのか。」を強く支持したい!
 
ところで、「NHKスペシャル 鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争~」を見た。

国民的漫画家として顕彰される水木しげるを香川照之が演じている。冒頭で水木が料亭で女性と遊んでおりそれが女房にばれて怒られるシーンがある。ここで水木はそれは私ではなく別の「水木さん」がやったことだと下手な嘘をつく。そしてこの嘘をずっと展開していく。
水木はラバウルに旅行し戦後28年経ってから、何かに突き動かされるように「総員玉砕せよ!」を書く。つまり総員玉砕命令を受け自分だけ生き残った水木に対し、戦友たちはかなえられない欲望、食欲(バナナを食べたい)と性欲(慰安婦を抱きたい)を抱いたまま無残な死をとげた。熱帯の蝶の幻とともにその〈欲望〉が水木に取り付き、「もうひとりの水木さん」としてバナナを注文したり女遊びをしたりするというのだ!そして水木を動かし自分たちをむりやり「玉砕」させた旧軍を糾弾するマンガを書かせる。
香川照之の酒場の女への乱暴なセクハラが糾弾されている時期にぴったりなドラマでびっくりしたが、これは2007年放送のドラマ(脚本:西岡琢也)。

〈というようなことでピー屋の前に行ったがなんとゾロゾロと大勢並んでいる。日本のピー屋の前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。
これを一人の女性で処理するのだ。略
とてもこの世の事とは思えなかった。 引用元
 
慰安婦問題についてはこれ以後も膨大な表現が生まれたが、右派のそれはすべてこの一節で粉砕されていると言いうる。

このドラマは、二度目の玉砕命令をうけた水木と戦友たちが命令した参謀の前で、「私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ」と「女郎の唄」を歌うシーンの直後に終わる。
これは慰安婦問題論争のなかで取り上げられることが少ないテーマなので、ここに書いておきたい。つまりここでは上官の(ある意味できまぐれな)命令によって死に追いやられる兵士たちが自らを、(兵士たちによって身体をなぶりものにされる)慰安婦たちに完全に同化させているわけである。
死に近い者同士の純愛を謳い上げるような小説は他にもあるが、この場面ではそのような愛や美の要素は一切なく、ただ死に追いやられる無残さだけが強調されている。
いわゆる慰安婦問題とは、「従軍慰安婦」の被害に対して旧日本軍の加害責任がどの程度あったのかをめぐっての論争である。この場合、水木のような下級兵士は加害者の側に置かれる。
しかしこのドラマはどこまでも下級兵士の被害を明らかにさせたいという被害者(死者)の側に立ちきることにより、むしろ旧日本軍幹部を加害者とよび、自分たちは慰安婦たちと同じだ、と語っている。
「従軍慰安婦」をググると「日本政府はアジア女性基金と協力し、慰安婦問題に関連して各国毎の実情に応じた施策を行ってきた。」という日本の外務省の文章が一行目に現れる。
日本政府が責任を果たしたのかという問いは、外交的な問いであるかのようであり、そこから出発すると「慰安婦たちの現実はそれほどひどくなかった」のではという疑問を追求することが真実に近づくことだという錯覚も生まれる。
慰安婦問題の本質は、そうした女性たちが膨大に存在した事実を謙虚に認めることが第一歩である。
多様な慰安婦女性たちがおり、もっともひどかった事例、異国についてその晩に自殺してしまったとかの場合は、説得力のある証言は残し得ないことに留意すべきである。兵士の側も水木や武漢兵站の山田清吉氏のような例外的にかなり良心・善意を持っていた人が記録を残していることに注意しなければいけない。

日本の下級兵士たちは被害者だったからといって、慰安婦たちにとって加害者でなかったかといえば、そうも言い切れないだろう。
敵兵だけでなく上官からもつねに脅かされ加害されていた、自分たちに(偽りの)愛情と生身の肌を提供してくれる菩薩のような存在だった、生き残った水木たちにとって、彼女たちはむしろそういう存在でなければならなかった。

それを大きく裏切ったのが1991年の金学順らによる日本軍への告発だった。そうであるにしても、下級兵士は日本軍幹部の側ではなく下級慰安婦の側に感情移入する存在だったという真実は変わらない。
慰安婦問題を、韓国国家が日本に文句を付けてくる問題だと捉えるネトウヨたちは、地獄へ行くべきだ。