待ってくれているお母さんからオープンレターまで

荒木優太氏の 文学+WEB版の文芸時評(第九回)
https://note.com/bungakuplus/n/n92fe85d1f32f を読んで、twitterに
オープンレター署名者が「オープンレター騒動で〈呉座勇一は悪い奴で解職されるのも当然だ〉とする立場」だとするのはいかがなものか。https://twitter.com/noharra/status/1494961188186505228

と書き込んだところ、荒木氏からそうは書いてないと反論があった。

(なお、「このオープンレターは、この問題(呉座氏女性差別発言問題)について背景にある仕組みをより深く考え、同様の問題が繰り返されぬよう行動することを、広く研究・教育・言論・メディアにかかわる人びとに呼びかけるものです。」が、このレターの趣旨である。2.22追記)
そこで、荒木氏の文章を改めて読んでみた。

荒木氏はコンビニの「お母さん食堂」に対する批判を取り上げているのだが、オープンレターの中心人物である北村氏が、2015年に行った「ご飯をつくるおかあさん」批判は取り上げていない。これがきになったので探すと、北村氏の批判とその対象の本文が両方ともでてきた。そこにさかのぼって、ゆっくり考えてみよう。

北村発言。:「https://saebou.hatenablog.com/entry/20150725/p1
 私が一番「これは全然ダメだ…」と思ったのは、「帰ったらご飯をつくって待ってくれているお母さん」がいることを平和な世界の象徴として訴えていたところである。これは自分の経験に基づいているのだろうが、全体的にものすごく家庭を守る母(「両親」ではない)とその子どもというイメージに依拠しており、はっきり言ってこのスピーチで提示されている「平和な家族像」というのはむしろ首相とその一派が推し進めているものに近い、母親が家にいて子どもを育て、家事や炊事をするという保守的・伝統的な性役割に基づいた家族モデルへのノスタルジーだと思った。」

これにはちょっと難しい問題があるかもしれない。

「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せを、ベビーカーに乗っている赤ちゃんが、私を見て、まだ歯の生えない口を開いて笑ってくれる幸せを、仕送りしてくれたお祖母ちゃんに『ありがとう』と電話して伝える幸せを、好きな人に教えてもらった音楽を帰りの電車の中で聞く幸せを、私はこういう小さな幸せを『平和』と呼ぶし、こういう毎日を守りたいんです。
 https://iwj.co.jp/wj/open/archives/254835」
 その女性は芝田さんという方で全文は公開されている。

小さな公園で幼児がよちよち歩いているのを見ると微笑ましい気分になる。数年前シリア情勢のニュースよく見ていた頃に、そのような情景を通りすぎると、公園全体が爆弾で破壊された情景を幻視することがあったほどだ。最近も午前10時ごろ公園で10分ほど過ごし、そうした幼児とお母さんの情景を十分に堪能した。ただウィークデイの日中でありかっての私の子どものような子は、ずっと保育所に居るはずだ。「幼児とお母さんの情景」自体をまつりあげると、確かに北村氏の言うような危惧は生まれる。
保育士は一度に多くの子どもを見なければいけない条件があるだけで、よちよち歩きの幼児の可愛らしさ自体を感じる情景を切り取ることはできるだろう。ただ私が見た公園では保育園児は見なかっただけだ。

思ったより整った文章だね。ただコピーライター風の達者さがあるので、北村氏の批判に根拠をあたえてしまった。言葉を超えた自分の常識である平和を描写したかったのだと思うが、CM映像のような情景を重ねてしまった。「母親が家にいて子どもを育て、家事や炊事をするという保守的・伝統的な性役割に基づいた家族モデルへのノスタルジー」とは直ちには思わないのだが。雄弁であろうとした時に、自分の実感をポピューラーなイメージに引きつけて表現したのだろう。

「帰ったらご飯をつくって待ってくれているお母さん」をうたい上げることが、「保守的・伝統的な性役割に基づいた家族モデル」の強化という政治的効果を持つ、と北村氏は言っているだろうか。
そう言っていないわけではないが、彼女の力点は、そこにはなく、「安倍を倒せ」をスローガンとする運動において「保守的・伝統的な性役割に基づいた家族モデル」にのっとったプロパガンダをすることは矛盾している、そのような問題意識を持って欲しいということだろう。

荒木氏は「おかあさん食堂」「ナチっぽい衣装」「ブラック企業」の例を上げ、「文言やイメージの流通それ自体が、差別的結果に結ばれる可能性がある――と見做される」論理のあり方を問題にしている。
これは行為の動機ではなく結果に照準するべきだとする責任観(北田暁大の言う「「強い」責任理論」)に立っていることだ、というのだ。
ナチとブラックについては、反ナチやBLMがその思想を広げる為に、それを許容している社会常識に挑戦しているのだ。おかあさん食堂も同様だろう。
つまり「この社会にはユダヤ人差別が、黒人差別が、家父長制的家族観がしみついている」という前提に立ち、それを強化するような、あるいは確信的にそう唱える言説に反発しているわけだ。そのときその言説が求めている結果とは何だろう。もちろん、ユダヤ人差別、黒人差別、家父長制の終焉である。しかしそれはあまりに巨大な目標でありすぐに達成できるといったものではない。私が詳細に検討した2015年の北村氏の批判も同じである。

荒木氏の文章は私にとって分かりくい。その原因は、この「結果」というものについて荒木氏が私とはまったく違うものをイメージしているみたいだ、という点にある。

志賀直哉『城の崎にて』での、川向うで休んでいたイモリをちょっと驚かせたいがために石を投げた行為が取り上げられる。この行為に対して、主人公の投石行為が(その前段にある鼠に石を投げる行為への)遅れてきた模倣欲の発露なのではないか、という解釈が書かれる。
「「マイクロアグレッション」でもいいし、最近の新語だと「トーンポリシング」でもいいのだが、人が用いているのを見ると自分もまた使ってみたくなるものだ。」そして最近のフェミニズム界隈の事例に戻る。

「結果」は何かと言うと、『城の崎にて』ではそのつもりではなかったのにイモリを殺してしまったこと。そしてここでは取り上げなかったが、「オープンター騒動」では、「呉座氏が解職されたこと」である。
オープンレターは解職を後押しするため書かれたものではない。したがって、オープンレター署名者が何らかの責任を感じる必要は一切ないのは自明だ。しかし荒木氏のこの文章は、非常に巧妙にそれを暗示しようとして、かなりの成功を収めている。ちょっと問題が在ると感じる。

「おかあさん食堂」「ナチっぽい衣装」「ブラック企業」そして荒木がなぜか取り上げなかった「ご飯をつくるお母さん」批判が、獲得しようとした「結果」はすべて、そのような(それぞれ違った差別の)不公正の是正である。それはオープンレターの文面にも繰り返し書かれていることだ。
ところが、荒木氏は何の関係もない志賀直哉『城の崎にて』を突然取り上げ、獲得しようとした「結果」が普遍的なものではなく、「解職」であったかのように文章を書いている。
文章はいつも普遍的な思想や美をテーマにするが、俗人はそれをなにかの具体的事件と結びつけて邪推する。文章の効果(結果)についてこのような詭弁を書いていると、いつかは文章家である自分自身がつまらない因縁を付けられる危険性がある。そういう可能性は十分あると思うけどね。

追記:
「オープンレター」でgoogle検索すると、一番上に、古谷経衡氏の文章が来て、2、「アゴラ編集部」の記事、3、78件のtogetterのまとめ 4、小山晃弘(狂)氏の文章、5、「オープンレター差出人・賛同人から離脱・撤回した人らまとめ」 6、でようやく「女性差別的な文化を脱するために」という「オープンレター」の本文がある。
卑小な論争(ケチつけ)の地平に足をとられたくないので、私は1から5までは読んでいない。とにかく、現在「オープンレター」はバックラッシュの大波に飲み込まれたかのような状況である。わたしはオープンレターそのものよりも、オープンレター批判を否定することに興味がある。従軍慰問題そのものよりも、従軍慰問題を避妊しようとする言説を否定することに興味があることの連続性で。
新進の批評家としての荒木さんには今までも学ばせていただいたし、嫌われたくはないのだが。(2.22追記)