スピノザ・メモ 1

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目を閉じなさい。
何もないと考えなさい。
でも、何もないとは考えられないですよね。
何かあると考えてもよろしい。
それは、「それ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るか?(公理1)」
前者にしましょう。実体と名づけましょう。
後者であれば、様態と名づけましょう。
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「エチカ」は、実体と「様態」という二つの言葉からはじまる。
この実体ー様態間の存在論的な関係が本質ー特質間の認識論的、原因ー結果間の自然的・物質的な関係と同一視される、エチカでは。これがスピノザ哲学の最も重要なポイントだ。とドゥルーズは述べる。
p200 実践の哲学

「こうして、およそあるかぎりのものは、そのありようそのものはまったくちがっていても、(属性において)一義的に〈ある〉と言われるのである。存在の一犠牲が貫かれる。」p201実践の哲学

直接無限様態:思惟のそれは無現知性。延長のそれは運動と静止。
間接無限様態:延長のそれは、無限に多様に変化しながら全体としてはひとつの恒常性を保つ全宇宙の相。思惟のそれは「真理空間」?

エチカ レジュメ 1

今日やった、スピノザのエチカ レジュメ。

エチカ  上野修「スピノザの世界」p72以降 を主に参照する。

第一部 神あるいは自然

エチカは定義が8つ公理が7つ、その後まず定理が11個 並んでいる。
序文も方法論も定義規則もない!(著者名すら) 国分功一郎 p297

何から始めるか? 何から始めるにしてもその言葉をさらに説明する必要がある。無限遡行が避けられない。そうした問題にとことん悩んだスピノザは、何もなしに書き始めた。

定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
四 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。
一 自己原因
二 有限 何か他のものによって限界つけられる
六 神 無限の本質を表現する属性からなる実体
七 自由
八 永遠性 時間と関係なく真理 ならそれは永遠

定義3 実体= それ自身において存在する、それ自身によって考えられる 81
リンゴ
定義5 様態= 実体の変状(変様)、他のものの内にあり、他のものによって考えられるもの
「公理一 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。二 他のものによって考えられないものはそれ自身によって考えられなければならぬ。」により、ものは、実体か、様態かのどちらかだ。 82
リンゴのいろつや
定義4 属性= 知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの
リンゴ性 (知性、愛 がスコラ哲学では神の属性だったが、スピノザの場合、思惟と延長)
そういうものだとわかる表示 おのおのが神の永遠無限の本質を表現している p90

名目上の定義 (私は・・・と解する→読者はその前提を飲み込むしかない)

公理
三 原因がなければ結果はない
六 真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。 真理の定義ではない
定義を提示したならそれを有意味にするルールが自動的に要請されるそのルールが公理 国分303

定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じなければならぬ。:それまではどうするのか?
すべての基礎であるはずの神の起源・原理・基礎を語ろうとすることは、無限遡行のアポリアに向き合うことだ。304

実体/属性/本質 三つ組 ドゥルーズ 316
実体は 属性によって自らの本質を表現する 316
実体:表現する側 属性:表現 本質:表現される側
属性は実体の本質を表現している/構成している 320

「神」 定義六 神は、おのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、だ 怪人二十面相 91

ある実体 他のものからは生み出されえない
実体Aは他の物から生み出されることはない 自己原因 →存在する

神の存在論的証明
・・もし実体があるとすればそれは必然的に存在するとしか考えられない
・・だから必然的にそれは存在する 93
何かはある  何かを 神とするとすべては腑に落ちる 95

1 定理一四 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえない。
1 定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。
1 定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。

個物は神の属性の変状、あるいは神の属性が一帯の仕方で表現される様態、だ 97
猫、台風、戦争、あなた、 すべて神が 属性ごとに 変状したもの( 様態)だ 97

神は製作者ではない。神の本性には知性も意志も属さない 99
自由:自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるもの定義七

1定理一八 神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない。 汎神論

現実のすべては必然的にこのようであり、別のふうではありえなかった 定理33
必然主義 103

isbn:4-06-149783-9

マルタとマリア

イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 ルカ10-38

つまり「主はマルタに「無くてはならぬものは唯一つのみ」と言い給うた。マルタよ、思い煩いなく純粋であろうと欲する者は唯一つのもの、すなわち離脱をもたなければならない、と。」
エックハルトは、被造物から離れるべきことを性急に説く。利益であれ報酬であれ内面性の深みであれ自分のものとして求めるすべてのものから直ちに離れるべきである、という。
つまり、日常の雑事に追われてせわしく立ち働いていたマルタという生き方を否定し、一途にイエスの足元に近づきそこに浸りきったマリアの生き方を良しとする、かのようである。ところがここで、エックハルトは大きな逆説を説き始める。

イエスはマルタを叱責したのではない、と。マルタは確かに雑事に追われ、「思い煩っている」。しかしそうしたすべての活動において、マルタは少しの惑乱もしていない。ただ事物のすぐ近くに立ち、それぞれの物事を手早く的確に処理し続けるだけである。そのような生き方は、「事物がお前の中にまで入り込んでいる」状態ではない。手段であるべき事物に魂を奪われてはおらず、マルタの魂は天に直ちに通じている、と。

エックハルトは、仕事について次のように言う。
秩序正しく、合理的に、そして意識的に働くようにつとめなかればならない。秩序正しくとは、いずれのところにおいてもまずもっとも身近なことに応答していくことである。合理的とは、その時その時の事に没頭してより善きものを考えないことである。意識的とは、つねに甲斐甲斐しく活動してその中に活発発地の真理が喜ばしく現前するのを覚知することである。
p286神の慰めの書

いささか乱暴に言えば、仕事とか生計とか将来とかいうものを私たちは、物神化、イデオロギー化している。そのようなあり方からは直ちに離脱しなければならない、というのが、エックハルトの考え方。
一方、わたしたちは、衣食住をはじめその時々の必要を満たしていかなければならない。そのためにいそがしく甲斐甲斐しく働くことは、神の前に神とは別の自己(思想)、自己満足を立ててしまうこととは全く違う。かえって神の前におのれを空しくしている状態であるのだ、ということのようだ。

それより偉大なものが何も考えられない何か

Yさん、毎日暑いですが、だいじょうぶですか?

「それより偉大なものが何も考えられない何か」について、何か書きたいと思います。しかし、難しいので返信が遅れました。

「神はその卓越性のゆえに、いみじくも「無」と呼ばれる。」というエリウゲナの言葉があります。つまり、それはむしろ「語りえないもの」の近くにある。そして、「ある、esse」という言葉も微妙なところがあるようなんですね、じつは。

トマスも神を定義してはいけない、と言っています。

「神はその本質を通してこの世のわれわれには知りえず、ただ被造物を通してのみ認識されるから、従って被造物を通してのみ名付けられる。決してその名が神の本質を表現するような仕方では名付けられない。」

それゆえ、主よ、あなたはそれより偉大なものは考えられないものであるばかりでなく、考えられうるよりも偉大なあるものです。このたぐいの何ものかが存在することは考えられうることですから、もしあなたがこのものでないならば、あなたよりも偉大な何ものかが考えられうることになります。
しかし、これはありえないことです。アンセルムス プロスロギオン15章

あるものBは「考えられうる」よりも大きなあるものだ。このようなものが存在するのは充分あり得る。世界は人間の知より大きいのだから。しかしその場合、B>A(神)とするなら、それはありえない。
したがってBは神であるか、それとも存在しないかだ。(しかし後者についてアンセルムスは言及していない。)
私たちに問われているのはまず、「考えられうるよりも偉大な」と名指される領域に対する感受性です。私たちは「考えられえない」領域について考えないという習慣を持っている。「考えられえない」領域について考えても、意味のある文章はでてこないからだ。しかしその場合の「意味のある」という定義はまた近代的前提に立っているので、アンセルムスを読んだり批判したりするには訳に立たない。
それより大事なことは、「考えられえない」領域について考えないという習慣に無自覚になることで、「考えられえない」領域についてあたかもないかのような錯覚に陥っている危険性が高いということだ。

1、「それより偉大なものが何も考えられない何か」が「もし少なくとも理解のうちにだけでもある」。
2.一般に、何かが人間の理解の内にあるだけではなく、実際に(現実に)存在する方が、より大きいと言える。
3.もしもそのような存在が人間の理解の内にあるだけで、実際に存在しないのであれば、背理法により、おかしなことになる。
3-2だから、「実在としても存在する」ことになる。
4 ところで、「それより偉大なものが何も考えられない何か」とは私たちの神だ。そこで、神は真に存在する。

という感じかな。

2については、「(被造物は)それ自体ではそれ自身の本質を通して存在しているが、私たちの認識のうちでは、それらの本質としてではなく、それらの形似として存在している。それゆえ、創造されたものは、わたしたちの認識のうちに存在するよりもそれ自身のうちにおいてより真に存在する。」、まあこれは被造物についてで、神についてではないですが。
認識のうちのウサギより、実際に生きているウサギの方が、ウサギの本質を、多く持っているみたいな話ですね。

「概念+実在」と言ってしまうと、おかしな感じがするのはもちろんですが、そこらへんを解きほぐすのはなかなか困難です。

まとまりませんが、とりあえずの応答まで。

ちなみに、アンセルムスを勝手に敷衍した文章を添付します。

ここで、それより偉大なものが何も考えられない何か、とは何だろうか? 神という言葉はこの文章で一箇所、愚か者の言葉の中にしか出てこない。したがってここで言われているのは、社会的歴史的にあり続けたキリスト教の神とは別のものだと解釈する。わたしたちが信じ、そして愚か者たちが信じないものとは、例えば〈希望〉である。わたしたちの一年分の人生がたかだか数百〜千万の金銭と等価であるかのような等式を信じるふりをすることでこの社会はなりたっている。アンセルムスが「信じています」とそれだけを語っているのに対し、私たちは「信じないこと」を資本主義から強制されているのだ。であるがゆえにわたしたちは、自らを見失い脱出を夢見ている。そのときわたしたちはアンセルムスが信じていたことを知る。その〈希望〉は理解することができる。理解したことは、たとえそれが存在することを理解したのでないとしても、私の理解の内にある。〈希望〉とはあなたと私の魂の関係の再編に他ならない。そうであるところの〈希望〉は理解することができることにより、徐々に実在としても存在することになる。

『プロスロギオン』はスコラ哲学の父と言われるアンセルムス(1033年-1109年)の著作。西欧哲学とはこの神の存在の形而上学の脱色化の歴史だとも考えられる。野原はここで脱色化ではなく、それを横跳することを考えた。(野原燐 2016.4.8)

哲学を包囲する

ところで話は変わりますが、西欧哲学の読書会をしようと思っています。
下記のように全12回とします。(いかにも平凡なラインアップっぽい?)
西欧哲学を学ぶというのではなく、わたしたちを支配している常識のなかに埋め込まれている西欧哲学から自由になるために、といった趣旨です。

タイトルは「哲学を包囲する」です。
全12回で、西欧哲学の骨格/輪郭の偏差を、各自がそれぞれ自分なりに体感することを目的とします。

最初は12冊 こんな感じで選びました。
1,ソクラテス以前 >プラトン 
2,プラトン >アリストテレス
3,アリストテレス >スコラ哲学
4,キリスト教 >マイスター・エックハルト 
5,デカルト >スピノザ(9/29、10/18)
6,スピノザ >ライプニッツ (11/24)
7,カント >ロック (1/26)
8,ヘーゲル >カント (2/23)
9,マルクス >ヘーゲル (3/23) 
10,ニーチェ
11,キルケゴール
12,ハイデガー
( > の後ろは実際に行ったもの)

続いて、東洋篇
1,論語
2,墨子
3,孟子
4,荀子
5,荘子
6,朱子
7,王陽明
8,藤原惺窩
9,山崎闇斎
10,伊藤仁斎
11,荻生徂徠
12,新儒家

いかにもお勉強しますという感じのリストになっている。ほんとうの趣旨は、私が死んでいくにあたって、知的世界(書物)との自分なりの関係を再確認しておきたい、という極私的なものです。