台湾と沖縄、反戦平和とは何か?

https://www.youtube.com/watch?v=SsCUoEH1sR8
 自主講座「認識台湾」第2回:シンポジウム 台湾と沖縄 黒潮により連結される島々の自己決定権―東アジア地域世界の「平和」を準備するために、という長い題のシンポジウムをzoomで聞きました。京大の駒込武先生が中心になって行われているシンポジウム(自主講座「認識台湾」立ち上げ企画とされている)で、台湾人の呉叡人という学者(ひまわり運動にも関わった人)がメインのスピーカーなようだ。

 私は台湾のことはよく知らない。ただ2019年の香港民主化運動が弾圧されその参加者が亡命のように移住している国といったイメージがあるだけだ。最近、石垣島、与那国島に旅行した。与那国では特に台湾まで111kmと台湾への近さが強調されていた。近いとは、日常に必要な物資などもそちらから輸入する方が早いということだ。しかし入管、検疫などいろいろな問題があり、交流を急拡大するのは難しいとのことだった。そして与那国では島論を二分する住民投票で反自衛隊派が敗北し、自衛隊基地が建設されていた。私は大阪の近くの住民なので沖縄のことも台湾のことも身近には感じていない。ただ与那国の最西端に立って台湾が見えるかもしれないと目を凝らしたが見えなかった(雲は見えた)体験をしたので、このようなテーマにも興味を持った。

 この企画は今はyoutubeにもあるので誰でも視聴可能です。
https://www.youtube.com/watch?v=SsCUoEH1sR8&t=9s
54ページもある充実したブックレットなど資料のダウンロードも可能です。 https://drive.google.com/drive/folders/1MPvzjGzDJw-VCl195zd8VxS67cShgQtB

 ブックレットを見ながら、簡単に感想を書いてみます。
 台湾人にとって、戦前はもちろん日本人が支配者であり自分たちは被支配者だった。しかし戦後は国民党がやってきて彼らが支配者になった。従属的人民であり続けることへの拒否を示した人々が1947年228事件を起こしたがそれは苛烈な弾圧にあい、1987年まで独裁体制が続いた。その後ようやく台湾人も参加できる国家(ネーション)形成が開始された。呉叡人は『想像の共同体』の翻訳者として知られている人のようだが、彼のこの本の読み方は日本人のそれと違って、市民が主体的にネーションを作っていくとポジティブな方向で読むようだ(おそらく)。
 台湾は戦後ずっと大陸の中国共産党によって軍事的な圧迫、威圧を受けてきた。最近では去年8月の、台湾を取り囲む六つの海域での大規模な演習があった。このような軍事的圧力に対抗できるものはやはり米国の軍事力しかない、と呉叡人は考える。

 私たち日本人の戦後は、米軍の占領下で始まり、朝鮮戦争開始、自衛隊創出と続き、日米安保条約は現在まで維持され続けている。米軍の勢力範囲内であり続けたわけで、中国の軍事的脅威は直接的なものではなかった。米国軍の存在による、レイプや犯罪の危険といった(本来あってはならない)脅威があり、そういった問題に対して日本政府は住民の側に立たず、米国援護的であるという矛盾があった。日本は民主主義国であるはずなのに、米軍基地問題については住民がいくら意志を示そうが拒否されることが続いた。特に沖縄は辺境の島であり、植民地主義的抑圧とさえ言えるものを受けている。それが米軍の圧力を甘受しつづけなければならないことに結果している。
 
 一方、台湾は冷戦構造のなかで、中国が2つに分断され、より小さな部分が1972以降、中国を代表する権利すら失い、国家としての権利を国際社会から認められないまま、何十年も生き延びてきた。そのとき、中国からの軍事的、政治的、経済的な圧迫は大きくその力はますます大きくなっている。米軍の強大な力は彼らにとって、中国に対抗するために必要な頼もしいものである。
 このように、米軍の存在に対する評価が沖縄と台湾では正反対になる。

 しかし、それは反基地闘争する沖縄県民と中国の侵略に怯えている台湾市民が、対立関係になるということだろうか?そうでもない、と考えることはできないか?このような問いを抱いてこのシンポジウムを視聴することができる。
 
 
(2) 
 「台湾有事は日本有事であり、日米同盟の有事でもある。この点の認識を習近平主席は断じて見誤るべきではない。」2021年の暮に安倍晋三はこう言った。(cfブックレットp40)
 台湾市民はこの発言を歓迎しただろう。台湾を国家承認している国はとても少ない、日本もしていない。だのに突然安倍元首相がこう言ったわけだ。(香港市民は香港には何も言わなかったのに、と思ったかもしれないが。)中国が軍事的に侵攻する時に台湾市民の側に立つという表明として受け取るなら、同意してもよいかもしれない。(どうだろう)
 
 中国政府は平和的手段による「台湾統一」を望んでいるのであり、台湾を標的とした軍事演習も米国による挑発へのやむをえぬ対応である、と理解する人が日本の左翼・リベラルには多い。中国と米国と日本の三者で台湾問題を平和的に解決すべきだ、という考え方すらある。大国の首脳の利害、得失の判断で世界に線を引く合意をすれば、弱小勢力はそれに逆らえない。それを維持することが平和だ、という考え方だ。それはほとんどウクライナ人が戦わず降伏しておれば平和だった論と同じで、平和という言葉を誤解していると思われる。(ただそういう人は多い。)国家単位でしかものごとを考えないならそういう結論になる場合もあろう。
 
 2019年、沖縄での県民投票(辺野古新基地をめぐる)と香港での民主化運動(大デモ)が同時に起こった。反米/反中という冷戦的二項に還元して理解するのではなく、自己決定を求める闘いとして捉えるならば、共通の地平で理解することができるかもしれない。
 政治というものを、冷戦構造的二項対立や国家や政党間のつなひき、勝敗と捉える浅薄な味方をまず退けなければならない。「台湾は、強権によってもてあそばれる客体から、自己決定・自治を担う政治主体に転化しました。(ブックレットp25)」と呉叡人は力強く書く。のいちご学生運動(2008)からひまわり学生運動を、成熟した市民社会が危機を効果的に阻止した体験、と評価しているのだ。国家(ネーション)というものは制度や国会での議決結果だけで計るべきものではない。ダイナミックな市民社会との交流の結果成立、変動するものである。活動家でもある呉叡人がそう言う。日本ではマスコミの報道が抑制的すぎるせいもありそうした認識は根付いていない。投票結果だけが民主主義であるかのようなプロパガンダが浸透している。しかし実際には日本でも市民運動、いろいろな位相に存在する世論、などと国会などは交流し、その結果として政治は生み出されているのだ。
 
 ところで、日本は中華民国に対しても、中華人民協和国に対しても結果的に賠償責任を一切果たしていない。(請求させなかった)日本は台湾に対して加害の歴史がある。加害者は破壊したものを修復しなければならない。中華民国政府と取引することでそれを免れようとしてはならない。

 日本は民主的で平和な東アジアをつくる責務を、世界に対して負っている、と呉叡人は言っている。これは別の文脈でも是認できる。
 敗戦後再度国際社会に承認して貰うにあたり、憲法が諸国家ではなく、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と述べたことを思い出す必要がある。このように考えれば、どのような視野で台湾/中国を見るべきかは明らかであるはずだ。自国の利益あるいは日米同盟の世界戦略からみての問題点だけを優先することはできない。

 抽象的理想主義の文脈でこう書いているのではない。二項対立的価値の争いのはるか手前に、現実の市民の努力と絶望に近い希望があるのだ。

(3)
 最後に、張彩薇(ちょうあやみ)のコメントも興味深いので、簡単に触れたい。

 「軍事的(防衛の整備)にも、政治的(自主の維持)にも、価値観(民主の堅持)という点でも、台湾が中国による侵略に有効に対処するには、米国主導の中国包囲網に加盟するほかはありません。」(呉叡人 ブックレットp20)

 呉は明確に述べているが、日本の左翼にとっては認めたくない文章だろう。どう考えればよいだろうか?
 まだ今は台湾は、ウクライナのように軍事侵攻されていない。「米国主導の中国包囲網に加盟する」かどうか?
 ウクライナ戦争を考えるとき、被害者であるウクライナ市民とその戦う意志にまず焦点をあて考えるべきだろう。同じように台湾市民とその戦う意志のことをまず考えるべきであり、「米国主導の中国包囲網」の問題は次の課題だ。しかし、香港のように自由を奪われることはどうしても嫌だとするならば、「米国主導の中国包囲網」についてもとりあえずYESいうことはありうる(日本人は口を挟むべきではないだろうが)

 ある国家は、Aと敵対するためBと同盟することができる。その場合Bが気に入らなければAに再度接近することができる。このように国家は小国であっても一定の自立性を保持し続けることができる。ただ台湾は中国から自立した十全の国家であるとは認められていない。それが辛いところだ。(ところで日本は、立派な国家なのに、中国を始めとするアジア諸国との友好関係を全否定することで、米国一国への従属体制が続いている。それは愚かなやり方だ。)

 香港も台湾も十全な国家ではなかった。しかしそこには民主主義的と言いうる多様な言説と行動があった。独立主権国家になろうとするのは分かるが、そうでなければダメというわけでもない。
 台湾が十全な国家になること、独立を中国が認めることは当分できそうもない。しかしそれを求めるべきだというのが呉叡人であり、まあそうかなと。
 ただ、主権国家を前提とする国際社会のあり方を絶対視することはするべきではない、張さんが言うとおり。
日本国憲法前文もそのように読める可能性がある、。

 台湾人は沖縄の基地強化を望んでいるか?という問いがある。自分を守るためには本音ではそうだ、と呉叡人はいうかもしれない。それは自他の間に利害の対立があることを、認めているということだ。自分に不利な現実を無視して、自分の思想にほころびを生じさせないないようにするよりマシであろう。

 沖縄人は米軍基地に反対する。米軍基地が台湾国家に対してどういう意味を持つかをそのとき第一義的に考える必要はない。ただし、軍隊というのはどんな場合でも反人民的存在だというドグマは正しくない可能性があると考えるべきだろう。
 つまり、「反戦平和」が、自立を求めるひとを沈黙させるための言葉になる可能性もあるのだ。「反戦平和」は第一義的には既成国家(武力)間の勢力均衡を破らず現状を尊重するという意味だろう。そうであるとすれば、必ず正義と一致するわけではない。
 
 彼女の「台湾は中国ばかりではなく、アメリカと日本をも批判しなくてはならない」という発言は印象的だ。
 ただ、批判に関していえば、日本人でも台湾人でも、イスラエル人やミャンマー人(ミンアウンフライン)やウイグル人を弾圧する中国人、人権派弁護士を弾圧する中国政府など、気がついたらどんどん批判すれば良いと思う。「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」を基準にすることは日本人には許されている。どう認識するか、と実際に何ができるか、は分けて考えてもよいと私は思っている。
(文中、敬称略)

兵士になること(ヴォランティア)

「ロシアには屈しない ウクライナ 市民ボランティアの戦い」
https://www.nhk.jp/p/wdoc/ts/88Z7X45XZY/episode/te/3644Q6GXL3/
というNHKの番組を見た(元はBBC)。

 ヘルソンの隣町ムィコラーイウ で闘う市民ボランティアたち(今まで従軍したことがないし、訓練もほとんど受けていない)。ヴォランティアといっても実際に戦闘行為をしている。主にインターネットやドローンで敵の位置確認をしている人たちが居る。ドローンで敵めがけてまっすぐに爆弾投下すれば人が死ぬ(かなりの確実で)。もっと大きな爆弾を撃っている人たちはどこから見ても軍事行動だ。

 敵の数人もいっぺんに吹っ飛ぶような爆弾を上手く落として、敵が死ぬことを喜ぶのは、普段の倫理感からは大きく離れている。しかし、戦争とは敵の死を喜ぶことであろう。
 ウクライナは格別悪いことはしていない。だのにある日自分の住んでいる町が占領され自由が奪われる。その町に住んでいる人にとって悪いのは、一方的に相手(プーチン)側である。そのとき敵を倒し、敵を殺すことは善となる。

日本人はこの価値転換を是認しない人が多い。戦争は悪だ、という思想である。しかし、現実に侵略されたウクライナ人やかって侵略された中国人にとって、祖国(郷土)を守るために戦うのは、大きな決意をもってある〈善〉に投企することだ。
 日本人はこのような侵略に対する抵抗としての善なる市民戦争を体験したことがない。元寇は確かに侵略に対する抵抗ではあったが、戦ったのは武士であり市民ではない。
 臆病な普通の市民が銃を取るとき、そこにはパトリオティズムが微小だけれども立ち上がると考えうる。太古の昔から日本という国家が存在し、自分はそれに内包された存在だという日本人的存在感覚がわたしたちの間には深く根付いているが、それは信仰であり、普遍性はない。大きな敵がやってくることはあり、自分が去就を問われることもあるだろう。

私は一切の暴力を否定する、一切の戦争を否定する、戦争が起これば逃げる、あるいは降伏する、それはそれで一つの思想だろう。それに自分を賭けられるだけの深みが、あるのであれば。
 しかし日本人は戦後ずっと、兵火にさらされることなく生きてこれた。戦争中も本土の人は一方的に空襲とか受けるばかりで、自分が銃を取るか取らないかという決断をした人はほとんどいない。
 強大な軍隊に守られているとされる立場でぬくぬくと半生を過ごしながら、自分が厳しく問い詰められる可能性がないからそう言いうるだけである可能性もあるのに、倫理的に立派な平和主義を得意そうに口にするのは、(たいていの場合)非常に罪深い行為であるのではないか、と私は思ってしまう。

あなたが自分自身の命を掛けて、すべてを賭けて戦ったとしても、それは「戦争」である。つまり市民が行うゲームなのではなく、プーチンという巨大な帝国とゼレンスキーとそれを支援する欧米諸国という国際政治学的なゲームなのだ。
 参加しているひとりの市民の思い、憎しみや悲しみ、郷土への愛情は直接はカウントされない。あなたたち数人の必死の行動はどちらにしても「微細な戦果」に結果するだけだ。戦果の積み重ねが勝敗(この場合はプーチンの撤退)に影響するかどうかは分からない。それは無駄な抵抗であり、結果的に人名の損傷を増やしただけだと評価されるかもしれない。しかし他人の評価とは別に、自分の評価を信じるしかない。自分の命を掛けているのだから。

 ボランティアと兵士というのは日本では全く逆の意味と捉えられるが、ヨーロッパではそうではない。自分が自分の命を賭けることの、その決意という目に見えないものの集積が、共和国であり、ネーションであるのだ。

 ネーションというものは成立した途端に、私たちを抑圧するものという姿を見せる。であるとしても、敵を倒すために殺すことをさえ選んだヴォランティアたちを私は尊敬する。思想の差異があるかもしれないとしても。

もし私がウクライナに居て若くて元気だったとしても、銃を持つかどうかは分からない。実践的にはともかく、思想的に「持たないこと」が正しいのか。正しいと今の私は言い切れない。
 ただ正しくないと言う人が、「安全圏から偉そうに言っている」だけではないか、と思ったのでそう書いてみた。

図書館にネトウヨ本が多すぎ、申し入れした

□□市教育委員会 様
□□図書館長 様

いつも図書館を利用させていただいております。
優れた本をたくさん購入してくださってありがとうございます。

ただ、先日□□市図書館○○分館の開架図書をずっとみていたところ、一群の本が気になりました。
歴史修正主義的な本です。
これらの本は、主にアジア太平洋戦争に触れています。終戦(敗戦)までは「大東亜戦争」と言っていました。

日本と中国の対立と、それによる満洲をめぐる国境紛争により発生した日中戦争(支那事変)は予想外の総力戦となり泥沼化しました。そのため日本は南進を行い、中国国民党への物資の補給路を断ち、石油などの戦略物資を入手することで日中戦争の解決を図ることになる。そしてそれを認めない英米と戦争するに至ったわけです。それを欧米に植民地化されたアジアを開放する戦争だとして美化し、東南アジア、インドなどの人びとに支持してもらおうとしたプロパガンダが「大東亜共栄圏」建設です。

歴史の見方は歴史家によって異なりますが、自民族(日本)だけを正しいとして、日本に不利な証言などはできるだけ採用しないようにして本を書けば、かなり偏向した「歴史」本が生まれます。しかしこの20年ほど特にそのような戦争中の歴史観に先祖返りしたような観念に基づく本や雑誌が多く書かれ、それを支持する政治家や市民なども増えてきていました。書店ではそのような本を買う人も少なくないようです。図書館に希望する人も多いのでしょうか。かなりの冊数の本があります。すべてリクエストに応じて購入したものでしょうか?

図書館ではどのような本を所蔵すべきなのでしょうか。
社会教育法では「実際生活に即する文化的教養を高め」るといった言葉があります。
また総務省は「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」を推進する「多文化共生」を進めようとしています。
そのような観点から見た場合、下記の本たちはかなり問題があるのではないかと考えます。

去年京都市宇治市のウトロというところで放火事件が起こりました。
犯人は当時22歳の男性で、特定の出自(朝鮮)を持つ人々への偏見や嫌悪感といった動機をもって、放火を犯してしまったのは民主主義社会では許容されないと、判決に記されました。
またその後、「日本を滅亡に追い込む組織」であるとしてと立憲民主党の辻元氏事務所やコリア国際学園、創価学会を連続襲撃した事件も起こっています。
上に書いたように、日本が朝鮮を植民地化し中国・アジアを侵略したことは事実です。ところがそれを日本の1945年までの歴史と努力を全否定するものととらえて、反発する思想によって書かれた低劣な本は多いです。これらの犯人はおそらく、そのような本やネット記事を読み、日本人は朝鮮人などより優れているなどの誤った思想をもってしまい、そのことが犯行の原因のひとつにもなったのではないでしょうか。

そうだとすると、そのような思想を展開している本を一般市民に対し積極的に公開していくことは良くないのではないか、と考えられます。

わたしが貴市の図書館から抜き出した下記の本は、おおむね上に書いた大東亜戦争肯定論的な構えに立ち、日本軍の残虐行為をできるだけ小さく描写し、朝鮮・中国人の欠点をことさらに強調するといった特徴を持っています。しかも学者の書いた本に比べ、扇情的で読みやすい文体で書いてあります。

以上書いたことについて、次のとおり質問します。

1,これらの本についてレイシズム的思想を拡散する本だと評価できるのではないでしょうか?
多数の本の中から限られた本を購入するに当たっての「選書基準」はどのようなものなのでしょうか?

2,そうである場合、これらの本をとりあえず、開架から閉架に移すことはできますか?
3,廃棄する場合は、市民への無料配布ではなく、直接廃棄する方が良いと思われますが、いかがでしょうか?

以上のとおり質問します。


歴史修正主義的な本の一覧
別添のとおり   2022.12.18


☆ 私がいいかげんにセレクトしただけで、124冊にもなったことに驚きました。いままでずっとそれが当たり前だったのなら、わたしの主張が通ることはないかもしれない。

私の書いた理屈は左翼・リベラルなら普通のものだと思われるのに、いままでこういう活動をした人がいない(みたいな)のはなぜだろうか? 検閲禁止みたいに思う人がいるのかもだが、そもそも図書館は無数の本の中で特定のその本を選んで買っているのであり、なんらかの価値があると判断しているわけだ。歴史修正主義的(民族差別的なものを含む)かつ扇情的な本をこんなにたくさん所蔵する必要はない。

☆ また、むしろ左派的な本が今後追放されていくきっかけを作るのではないか?という危惧を言う人も多いと思います。世の中の右傾化は止んでいないので、そうした可能性も全否定はできないかな、とも思います。でも正しさを素直にいろいろなところでふつうに主張していくのが大事なのではないか。

ご意見いただければありがたいです。

歴史修正主義的な本の一覧

香川照之〜水木しげる〜従軍慰安婦のこと

 https://nhkbook-hiraku.com/n/n2e8e11f7d8fd
柚木麻子さんという方のこの文章はとてもすばらしい!

香川照之=「「彼」自身がどうして自分が加害に至ったか、どんな心情だったか、そして今、何を考えているのか、自分の言葉で語るべきなんじゃないのか。」を強く支持したい!
 
ところで、「NHKスペシャル 鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争~」を見た。

国民的漫画家として顕彰される水木しげるを香川照之が演じている。冒頭で水木が料亭で女性と遊んでおりそれが女房にばれて怒られるシーンがある。ここで水木はそれは私ではなく別の「水木さん」がやったことだと下手な嘘をつく。そしてこの嘘をずっと展開していく。
水木はラバウルに旅行し戦後28年経ってから、何かに突き動かされるように「総員玉砕せよ!」を書く。つまり総員玉砕命令を受け自分だけ生き残った水木に対し、戦友たちはかなえられない欲望、食欲(バナナを食べたい)と性欲(慰安婦を抱きたい)を抱いたまま無残な死をとげた。熱帯の蝶の幻とともにその〈欲望〉が水木に取り付き、「もうひとりの水木さん」としてバナナを注文したり女遊びをしたりするというのだ!そして水木を動かし自分たちをむりやり「玉砕」させた旧軍を糾弾するマンガを書かせる。
香川照之の酒場の女への乱暴なセクハラが糾弾されている時期にぴったりなドラマでびっくりしたが、これは2007年放送のドラマ(脚本:西岡琢也)。

〈というようなことでピー屋の前に行ったがなんとゾロゾロと大勢並んでいる。日本のピー屋の前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。
これを一人の女性で処理するのだ。略
とてもこの世の事とは思えなかった。 引用元
 
慰安婦問題についてはこれ以後も膨大な表現が生まれたが、右派のそれはすべてこの一節で粉砕されていると言いうる。

このドラマは、二度目の玉砕命令をうけた水木と戦友たちが命令した参謀の前で、「私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ」と「女郎の唄」を歌うシーンの直後に終わる。
これは慰安婦問題論争のなかで取り上げられることが少ないテーマなので、ここに書いておきたい。つまりここでは上官の(ある意味できまぐれな)命令によって死に追いやられる兵士たちが自らを、(兵士たちによって身体をなぶりものにされる)慰安婦たちに完全に同化させているわけである。
死に近い者同士の純愛を謳い上げるような小説は他にもあるが、この場面ではそのような愛や美の要素は一切なく、ただ死に追いやられる無残さだけが強調されている。
いわゆる慰安婦問題とは、「従軍慰安婦」の被害に対して旧日本軍の加害責任がどの程度あったのかをめぐっての論争である。この場合、水木のような下級兵士は加害者の側に置かれる。
しかしこのドラマはどこまでも下級兵士の被害を明らかにさせたいという被害者(死者)の側に立ちきることにより、むしろ旧日本軍幹部を加害者とよび、自分たちは慰安婦たちと同じだ、と語っている。
「従軍慰安婦」をググると「日本政府はアジア女性基金と協力し、慰安婦問題に関連して各国毎の実情に応じた施策を行ってきた。」という日本の外務省の文章が一行目に現れる。
日本政府が責任を果たしたのかという問いは、外交的な問いであるかのようであり、そこから出発すると「慰安婦たちの現実はそれほどひどくなかった」のではという疑問を追求することが真実に近づくことだという錯覚も生まれる。
慰安婦問題の本質は、そうした女性たちが膨大に存在した事実を謙虚に認めることが第一歩である。
多様な慰安婦女性たちがおり、もっともひどかった事例、異国についてその晩に自殺してしまったとかの場合は、説得力のある証言は残し得ないことに留意すべきである。兵士の側も水木や武漢兵站の山田清吉氏のような例外的にかなり良心・善意を持っていた人が記録を残していることに注意しなければいけない。

日本の下級兵士たちは被害者だったからといって、慰安婦たちにとって加害者でなかったかといえば、そうも言い切れないだろう。
敵兵だけでなく上官からもつねに脅かされ加害されていた、自分たちに(偽りの)愛情と生身の肌を提供してくれる菩薩のような存在だった、生き残った水木たちにとって、彼女たちはむしろそういう存在でなければならなかった。

それを大きく裏切ったのが1991年の金学順らによる日本軍への告発だった。そうであるにしても、下級兵士は日本軍幹部の側ではなく下級慰安婦の側に感情移入する存在だったという真実は変わらない。
慰安婦問題を、韓国国家が日本に文句を付けてくる問題だと捉えるネトウヨたちは、地獄へ行くべきだ。

『夜は歌う』と革命の原理

キム・ヨンスの「夜は歌う」はなぜ、甘やかな恋愛の話から始まるのか?陰惨な話が続く後半、最後まで、その強い記憶は消えない。

主人公キム・ヘヨンは1910年朝鮮併合の年に生まれた朝鮮人である。彼は工業高校出で満鉄に就職するというチャンスをつかんだ。独立や共産主義に興味はない(ないふりをしている)。

ヘヨンはジョンヒに出会いジョンヒを愛した。そしていくぶんかは彼女も自分を愛しるはずと信じた。しかし、ジョンヒは実は、間島の反日帝パルチザンの中心的活動家であり多くの人にその正体を知らせずに活発に活動してたのだ。ヘヨンに近づいたのも利用しようという考えからだったろう。それを知らされ、自分の信じていた世界はまったく空虚なものだった、とヘヨンは愕然とする。

しかし、そこには幾分かの真実はあったのだ、ということは最後の頁で明らかになる。李ジョンヒは11歳の時、ウラジオストクで祖父を日本軍の襲撃で失う。そのとき「悪魔のように強くなろうと決めた」という。彼女はヘヨンに「私を愛さないで」と言う。しかし、ジョンヒを誤解し、彼女が切り捨てた自分の半身いわばお嬢さんとしての半身を、強く愛してくれるヘヨンをジョンヒは嫌えなかった。

「愛も憎しみも感情だけでは存在しない。行動で見せてこそ存在するんだ(p81)」と中島は言う。

行動というより人間存在の全体性をかけて、ジョンヒを愛したのかと中島は挑発的に問いかける。ヘヨンはこの挑発に答えるように、革命に近づいていく。

物語の最初で中島が朗読するハイネの詩は、この小説全体の骨組みを明かしているようにも読める。

それはある限りない怒りについての詩だ。ある男は死してなお限りない怒りに包まれている、その力でもって男は死を越え、恋人を自分の墓に連れ込む、という詩だ。

この詩の男をジョンヒに、女をヘヨンに入れ替える、するとこの複雑で残虐な物語のシンプルな構造が見えてくる。ジョンヒは死を超えるほどの力で世界と革命を希求した。そしてそれが中断したため、死を越えてヘヨンを召喚したのだ。ヘヨンはそれに応え、革命とは何かを知る。

関東軍は1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変(柳条湖事件)を起こす、そしてまたたく間に満洲全土を制圧した。しかし北間島地区では、朝鮮人たちの抵抗が激しい弾圧にも関わらず執拗に続いていた。

1933年4月のある晴れた日、北間島の山間の小さな村での婚礼は、突然日本軍に襲われ、参加者は全て殺される。いわば紛れ込んだにすぎない主人公キム・ヘヨンだけは生き残る。「遊撃隊」に助けられ、その後中国共産党地方幹部に尋問される。意外な経過により、彼は助かり漁浪村での政治学習が命じられる。

「僕は草葺きの家で赤衛隊の青年たちとともに団体生活を送りながら、思想・軍事教育を受け、労働した。」

「議会主権が来たぞ。赤い主権が来たぞ。無産大衆の血と引き換えに議会主権が来たぞ。」

「その歌声を聞きながら野原で働いていると、心が温かくなる。ここの人々はみな、白区で共産主義青年団員として、あるいは赤衛隊員として活動していたときに、討伐で家族や家を失って遊撃区にやって来た人たちなので、お互いを心の支えとしていた。心を固く閉ざしているかと思えば、たったひと言で心を開くこともあった。」

「草葺きの家での生活を始めて二か月あまり経った頃、僕は少し違う人間になっていた。日は暗闇に慣れ、細かい光にも反応し、鼻はどこに食べ物があるのかをすぐに嗅ぎつけ、口は休みなく革命歌を歌った」(p154-157より)

「草葺きの家で」と語られるこの数ヶ月の生活は美しいものだった。

著者は「革命の原理」についてこう書く。

北間島で生まれた朝鮮の娘はふつう男の所有物に過ぎない。アヘンと引き換えに売られたりする。しかし、ある若い女性(ヨオク)はある夜学教師に出会うことができた。彼が世界のことを教えてくれた。彼はヨオクの言葉に耳を傾け、ヨオクの顔や体をじっと見つめた。「そうやって見つめられ、話を聞いてもらううちに、ヨオクは初めて自分もひとりの人間だということに気づいた。革命の原理を悟ったのだ。(p101)」

私は自由な人間だ、「人間は畜生ではない、それぞれが高貴な存在なのだ、と」。それはひととひととの魂のふれあいによって初めて気付ける真理なのだ。教師は階級支配について語ったりもしたが、そうした思想注入が人を革命的にするのではない。おまえは人間だ、と感じさせてくれることにより人は革命に目覚める。

この小説は、500人を超える朝鮮人革命家(あるいは難民)が敵ではなく仲間の手によって殺された悲惨際まりない事件、「民生団事件」を描いた初めての小説である。それについて解説すべきだが、字数制限により省略する。

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黄晳暎『客人』を読んで

1, キリスト教徒青年たちによる殺戮


黄晳暎(ファンソギョン)の『客人』という小説、2003年に出版され翌年すぐ翻訳された本(岩波書店)、すこし古びた本を図書館でなんとなく手に取った。(訳者鄭敬謨、チョンギョンモ)

この小説はすごい。非常に残虐な出来事を直視し、書いているがエグくならず押し付けがましくもなく読むことができる。非常に大きなテーマを見事に描ききった傑作だと思う。

柳ヨセフ牧師がその兄柳ヨハネ長老に会いに行こうとする。38度線のすぐ上黄海道の、ソウルの西北方向にある小さな村、信川(シンチョン)、彼らはここで生まれ育った。朝鮮戦争時、この村でおおきな事件が起こりその当事者だった彼らは故郷を離れ、米国東海岸まで流れてきて40年経ち老年を迎えた。
ところでこの二人が主人公格なのだが、ヨハネ/ヨセフは似ていて紛らわしい。(ググるとヨハネには「神の国が近づいたことを人びとに伝え、悔い改めるよう迫った」洗礼者ヨハネのイメージがあることを知った。これは含意されていると思ってよい。)

キリスト教徒の多い地域であり二人の父も牧師だった。ここで、40年前(朝鮮戦争時)に惨劇があった。彼らはその目撃者ないし当事者だった。何十年も米国で暮らした後、ヨセフは北への旅行の機会を得るが、そのとき、自身と兄の当時の悪夢あるいは記憶がどんどん襲ってくる。重苦しい話ではあるが、事件の真相が少しづつ明かされるというミステリのようにも書かれているため、読みやすくもなっている。

日本敗北後朝鮮半島北部はソ連軍によって占領され、土地改革が実行される。大地主と企業家は先に南へ逃げ、中農と自作農が地域の上位階級になっていた。かれらはたいていキリスト教徒だった。村の作男や働き手だった小作農が、平壌に行って短い教育を受け村に帰ってきて、土地改革を実行した。差別されていた下層農民が先頭に立って暴力的に村の有力者の土地を没収する。激しい軋轢と憎悪が生まれた。南に逃げた中上層階層の子弟は極右団体を結成し、朝鮮戦争時、故郷に帰り旧秩序を回復しようとした。
「(朝鮮)戦争直前、北朝鮮全域のプロテスタント教徒は、三一節の行事と選挙不参加事件などによって、北朝鮮当局と関係が悪化している状態にあった。そのようななかで米軍が北進するや、信川、載寧(チェリョン)などのキリスト教徒の青年と右翼青年が蜂起した。最初は載寧で北朝鮮軍と党員がキリスト教徒を処刑して後退していったが、米軍が進駐する前に治安の空白地帯だった信川で立ち上がった右翼青年たちは、まだ後退できていない共産主義者とその家族に対して、報復的殺戮を加え始めた。」(黄晳暎『囚人』上p241)

私もそうだが日本人はだいたい朝鮮歴史の概要を知らないので、背景説明を少ししてみた。

2. 犬を吊り下げる

「エホバよ、主の大敵はみなこのように滅亡させ給え、彼らには哀れみを与えることなく全滅させよと言われましたが、イエス様は愛と平和を教えられました。繰り返して言いますと、我が故郷の土地を奪い、そこに住みついている彼らにも私たちと同じように霊魂があります。p9」
愛と平和という言葉に反し、「敵に哀れみを与えることなく全滅させよ」という命令にしたがったかのように、敵とみなした人々を次々と殺害していったそうした熱狂がかってあった。なにより「愛と平和」をめざしていたはずの信心深い若者たちが、殺人狂になっていくという地獄。遠くから垣間見ることさえ辛いそうした惨劇に、この小説は近づいていく。

柳ヨセフが見た夢の、どんよりした暗い夢のイメージが3つ最初に提示される。最初は意味がわからないのだが、最後まで読むとこの小説の重要なシーンであることがわかる。

最初のイメージ。
α「どんより曇った日であった。(略)
赤ん坊はシーツにくるまれておりシーツの端がひざ下まで垂れ、ひらひら舞っていた。(略)大人は赤ん坊を抱き上げ、木の一番下の枝に布でしばりつけた。p1」
残虐という以上になにやらひどく不吉なイメージである。この不吉なイメージは、この後も反復される。

β「むごたらしくもあり、血が騒ぎだすような興奮の中で私は犬が屠られる光景を初めて目撃した。犬の首に幾重にも縄を回し、ほどよい高さの木の枝にひっかけて吊り下げ、縄を引っ張る。ピンと張った縄をさらに引くと、犬は目を白黒させながら四つの足をジタバタさせる。p22」

γ「あのときオレはおじさんを電信柱に吊り下げたんだよな。p23」

αのイメージの意味は直ちには理解できない。ひと又は犬が木のようなものにくくりつけられるイメージがp22〜23に二つ出てくるのでβ、γとして、引用し考えてみよう。

βは、他人の飼い犬を吊るして食べてしまうシーンの一部。今では残虐無比と非難されるだろうが、この当時は悪ガキのいたずらとしてしかられる程度で澄んだのだろう。「血が騒ぎだすような興奮の中で」ひとは狂う、犬を屠るくらいならたいしたことはない。しかし人ならどうか。

γ、これは殺人のようだ。しかしこの頁では、幼い時にさまざまな楽しみを教えてくれたスンナムおじの亡霊との短い対話の断片として記されているだけなので、いったいどういうことなのか意味は分からない。

いったいどういうわけで、この小説はこんなふうにわかりにくい始まり方をしているのだろうか。この小説は、庶民がふとしてきっかけで大量虐殺を犯してしまうその謎を描こうとしたものだ。日本では関東大震災後に朝鮮人大量虐殺があったが、それを犯した人もちょっと前まで平穏な市民だったはずだ。
謎を謎のままで提示しなければならない。一方、読者の興味をつなぐよう、語り方に工夫が必要だ。そのためにこの小説は過去に殺されたたくさんの人物が亡霊となり、自由に現在にやってきて主人公たちと対話する、という形を取っている。主人公は過去に自分がやったことを記憶している。だがそれは思い出したくないことなので抑圧している。亡霊がやってきてひとことだけつぶやく。読者にはこの頁ではその意味が分からない。異様な感触だけを残して小説は進んでいく。

αについては、p41に説明がある。「大おばあ」つまりヨセフの祖母はこんなふうに言う。客人が流行り始めても田舎の村には医者もいない。巫祭(クッ)をしたくても金もない。(表題になっている「客人(ソンニム)」とは危険な伝染病だった天然痘のこと)何もできない。

「我が子が病に冒されるとただ胸に抱きしめていて、もう助けようがないとわかると草わらか雨具にぐるぐる巻いて夜更けに山に行くのさ。山に行って背の高い木を選んでその枝にしっかりくくりつけて降りてくる。カラスはまたなんであんなに多いのか、まだ死んでもいない体に集まってきて目ん玉を突っついて食べるんだね。子どもの父母が夜通し見守ってカラスを追っ払うのよ。そうやっているうちに助かった前例もあるので、みなで幾夜も木の下で見守りながら夜を明かしたらしいね。41」
子捨てと究極の祈りが合体しているような、ひどく奇妙な風習だ。生と死の距離が近く、まれに反転することもある幽冥の世界。

3,虐殺


信川だけでも三万五千人以上が死んだと言われているらしい。残虐行為の一角をこの小説から見てみよう。

「数十名の青年が畔に伏せていた。彼らはそれぞれ手に鎌や鍬や棍棒を握っていた。(略)彼らは駐在所の前まで来ると、うわーっと大声で叫びながらなだれ込み、建物の中でうとうと座って居眠りをしていた二人の署員を棍棒と鍬で滅多打ちにして殺し、奥の部屋で寝ていた署員も撲殺した。p218」
始めての殺害。駐在所員の殺害は蜂起としての合理性はある。しかし撲殺する必要はないわけで、そこには貧民による土地改革をどうしても許せないサタンの仕業と位置づける強い反動的情動があったと思われる。

また、直近に載寧(チェリョン)で党員と北朝鮮軍による殺害があった。それらに対する激しい報復感情が噴出したともいえる。
「彼らは、以前から反動だとにらんでいた家はもちろん、疑わしいキリスト教徒の家々を捜索し、相手がしたように家の中で家族らを残らず処刑した。(略)載寧(チェリョン)での三昼夜は、九月山(クゥオルサン)一体でそれから始まる血の惨劇の導火線となったのだ。p222」

「私たちがこの戦いの勝利を占める唯一の方法は、神の力に頼り正義のために悪を覆さなくてはならないという信念を堅持することだと信じております。いま自由のための十字軍は私たちを解き放つべく近くまで来てはおりますが、サタンの軍勢はいまだに私たちに脅威を加えております。(略)主イエス・キリストの御名においてお祈りします。アーメン」とヨハネは唱える。
仁川に上陸した米国軍という朝鮮戦争のヒトコマは、そのまま直接「自由のための十字軍」というキリスト教神学上の概念として受け取られる。であればそれへの加担は神の命令への服従に等しい。

そんなふうに彼らは、制圧済みの郡の党庁舎に集まる。
そこを拠点に「口ではとうてい言えないほど身の毛のようだつような残酷な」所業が繰り返される。(p229)

合理的な理由があってはじめられた残虐行為は、集団的熱狂のなかでどんどん凶暴さを加えていく。加害者たちはみずからの残虐さに慣れてしまい、反省することもなくなる。

「うるせえな。一人の男が赤ん坊をまるでサッカーボールを蹴るように蹴飛ばすと、赤ん坊は一瞬宙に浮いて二、三歩離れたところに転がり落ちた。p235」

ヨハネは幼い頃、近所のガキ大将株だったスンナムおじさんを捕らえる。最初にでてきた、犬を吊るして食べてしまうという乱暴な子どもの遊びを教えてくれたものスンナムだ。ただそんな思い出は今は関係ない。保安隊として村のリーダー格だった彼を許すわけにはいかない。
ただヨハネは彼を本部に連行するのは止める。連れて行けば、殺される前にひどい虐待や辱めを受けるだけだから。
「土手の上に電柱が見えた。 あれに吊り下げろ!(略)
仲間たちは電柱の足場に電話線を引っ掛けると容赦なく下に引き寄せた。クワッと異常な声を上げ足をばたつかせながらスンナムの体は宙に浮いた。p241」
スンナムは吊るされる。これが冒頭にちらっと出てきた γ である。

黄晳暎が、α、β、γと、ひと又は犬が木のようなものにくくりつけられるイメージを反復するのはなぜだろうか?
γは弁護の余地ない大虐殺の一部である。ここでの被害者はアカと呼ばれる人びとであり、加害者はキリスト教徒の青年団である。

三万人以上が死んだという大虐殺。その過半はキリスト教勢力から「アカ」に対する殺害だった。
その中の一つを黄晳暎は「男を電柱に吊り下げる」というイメージで描写する。そのγのイメージを説明するために、βがある。つまり虐殺はむごたらしいばかりではなく、「血が騒ぎだすような興奮」を誘い出す集団心理を誘発するものなのだ。昨日まで平和だった農民たちが、虐殺者集団に変貌する一つの契機を描いたものだろう。
αは虐殺を描いたものではない。民族文化の底辺にある「生と死の距離が近くまれに反転することもある幽冥の世界」を引き合いにだしたのは、βとは逆の要素、何らかの赦しへのきっかけを得たいという発想があるのであろう。
「恨みも怒りも解けてしまった」とこの小説は語りたがるが、それがとても困難なことだということも作家は知っている。なにより、事実を隠蔽したり、虚偽を展示することによってはそれは実現しないだろう。(ここでは詳述しないが、この大虐殺について北朝鮮当局は博物館まで作って展示しているが、虐殺者は米軍であるとしている。この本が語ることとおおきな違いがある。)

「男を電柱に吊り下げる」というイメージはまた、人間の罪を引き受け赦しを与えるイエスのイメージに近いともいえる。だが、糾弾、謝罪を求めるといったことを中止し、恨みと怒りの消失を求めるが、作家はキリスト教のような絶対的な赦しを約束しているわけではない。ほんやりとした方向性における一致以上のものはそこにはないと考える。

4 罪人と神

ヨハネが現地に残した妻の問いかけが哀切である。
「どうしてこんなにまでお互いを憎み合うようになったのか、それが不思議でね。植民地時代の日本人でもあれほど憎んではいなかったはずよ。
私一人がここに居残り、悪事を犯した罪人のように暮らしながら……いたいけな娘二人にろくなものも食べさせることができないままなくし、残ったあの子一人を何とか育て上げながら、いつも考えましたよ。神にも罪があるのではあるまいかと……p168」

殺人者の妻は差別されるべきか?殺されたものはいなくなり、殺したものも南へ逃げた。残されたものは殺されたものの遺族である。数少ない殺した者の家族は怨嗟、恨みのまとにならざるをえない。彼女自身が罪を犯したわけではないのに。
彼女自身が罪を犯していない以上罰や差別は与えるべきではないという理屈は、小さなコミュニティでは通らない。
「寒井里では、私たちは誰にも顔向けができなくて、長い歳月を罪人のように暮らしたんです p167」

「あの生地獄のような惨劇を、上からだまって眺めていた神さまにも罪があるのではあるまいかと、ずっと思ってきたけれど p168」

ヨハネの日々の殺害・暴行を知りながらそれを許していたのがヨハネの妻の罪である。それを彼女は40年間隣人から問われ続け、罪を認めざるをえなかった。では神は、唯一絶対にして褒むべき神は「あのような惨劇を上からだまって眺めていた」、それは罪ではないのか?
ここには、善である神が悪を許容するのはなぜか、という神学的問題には直ちには帰着させえない切迫がある。神が人格的存在であるなら、罪は否定できないのではないか?

「不治の病に犯されたとき、ヨブは神を怨んだけれども、敬虔なるヨブはこの苦しみでさえ神の恩寵だと悟」る。なぜ苦しみが恩寵なのだろう。
見ていて許容したことが神の罪であるなら、それは恩寵であるとはいえない。ヨハネの妻はたぶん耐えられなくなっただけだ。自分の不幸がなんの意味付けもされないままで、いわば生傷のままでさらされ続けることに。
「人間につきまとう苦難といえどもそれはある目論見をもった神から与えられたものでしょう。(略)私はいまヨブのように神を怨む心を捨て、人間が犯した怖ろしい罪を神のせいにすることはすまいとこころに決めているのです p169」
神を怨むならば彼女は今まで以上に何の寄る辺のない孤独に立ち尽くすしかなくなる。彼女は神を怨むのを止めることにした。あのような惨劇を行ったのは誰か?それは神ではなく人間である。人間が我が手でもって行った殺害はその人自身のものであり神のせいにしてはいけない。
ここで、「神に罪があるか?」から問題は転回されている。神を怨むことは実生活上彼女にとって賢い選択ではない。つまりヨハネは罪を犯した。ヨハネの妻も共犯者ではあろう。しかしそれだけであり、何十年も差別される理由にはならない。
「兄さんのヨハネが殺(あや)めた人たちはサタンではなく霊魂をもっている人間であったのです。兄さんのヨハネもサタンではなく信仰が捻じ曲がっていただけなんです。」
人が人を殺すことの罪は、その血痕は数十年経とうと消えずに残り続ける。事実を認めることは苦しい。しかし、避けようとしてもそれは、可能ではない。

「私、望むことなどありませんよ」何かを望むことに意味はない。「この世には人間どもが犯す罪に満ち満ちている」北朝鮮であろうと韓国であろうと統一国家であろうと「人間どもが犯す罪に満ち満ちている p169」以外の生き方は人間にはできない。

おそらく黄晳暎はここでそう言い切っている。これは怖ろしいことだ。なぜならそうなら例えば正義のために命を掛けるといった行為はすべて虚しい愚かな行為になってしまうから。この本には書いてないが、黄晳暎はかの金日成と何度も親しく対話したことがある少数の韓国人の一人である。どこから見ても罪の塊である金日成と会食するなど犯罪であろう、そうした意見には一理どころではない重みがある。ヨハネの日々の殺害・暴行を許していたヨハネの妻に罪があるのと同じである。多くの強制収容所を経営し、収容者に死に瀕した生を強いている金正恩は断罪されるべきだ。しかし、彼をサタンであると信じ、なんとしてもその死を願うことが正しいのか?正しくはない。金日成も金正恩もサタンではなく信仰が捻じ曲がっていただけにすぎない。敵対し粉砕を叫ぶことは政治的行為としてありうるが、その有効性は状況に於いて問われる。つまり絶対的なものではない。

「少しずつでもそれをなくしながら生きていかなくては……」つつましやかな願い。しかしそれを捨ててはならない。しかもそれを貫くのには非常な力量が必要だ。

「お祈りを上げましょう」
「この共和国においても、主の御恵みのもと人びとが健やかにそれぞれの生を営んでいる ことを確かめることができました」そのことを心より感謝いたします。
(このフレーズは、黄晳暎から韓国国家へのメッセージでもある。共和国市民も本来は自分の国家の成員であると主張している韓国は当然、皆が「健やかにそれぞれの生を営んでいる」ことを確認し祝福すべき立場である。しかし北共和国だけでなく韓国も両国の往来を厳しく制限している。(ドイツ人や日本人は両方の国に入れるのに)黄晳暎は1989年北朝鮮を訪問し、帰国すると入獄させられるので海外を放浪し数年後帰国入獄した。わざわざ隣人の生存を見に行った黄晳暎を罰そうとする国国家はオカシイ!)

神に感謝すること、たとえ神を信じていなくとも。そうしないと生きていけないから、作家はそう言っているようだ。

「怨恨ゆえにまだ虚空をさまよっているだろう多くの亡霊たちが安心して旅立つことができるように、シキム(死者を送り出す巫儀)でもしてあげないとね。スンナミおじさん、一郎おじさん、朴明善のうちのチンソン、インソン、ヨンソン、トクソン、チュンソニおじの内儀、小学校の女の先生、そしてあの倉庫のなかでもだえ死んだ多くの人たち……」

亡霊たちは安心して旅立つだろうか?「安心して」なんてことはありそうにない。そうだとしても私たちは祈る。祈らなければ耐えられないから。

5 赦すこと

1950年10月19日、中国人民志願軍参戦、12月6日には平壌奪還。人民軍はどんどん南下してきて、信川のあたりもすでに敵の勢力下になり、ヨハネは逃げるため久しぶりに家に戻る。
「私(妻)は全身汗まみれで、顔からは汗が滴り落ちていた。
「子どもが生まれるわ」「なんで選りによってこんなときに」(略)
夫は周りを見廻すと、乱暴に箪笥を開けた。服がこぼれるようにあふれでた。その衣類の中から肌着を一枚取り出して彼は子どもを取り上げた。赤ん坊の泣き声と彼の歓声が聞こえた。 p182」
しかし、すぐ近くで銃声がし、彼はそそくさと立ち去る。夫はずっと遠くに去っていってしまった。

数十年後、ヨセフは兄嫁を尋ね、このときの肌着を託される。
「寒井里に行ってその骨を埋めるときに、これを燃やしてから一緒に埋めてちょうだい。 p179」

「彼は雑草が生え茂った場所を避け、乾いた土が露(あらわ)になっている所を選んで蹲った。手でそこの土を掻き集め、ほんのりと芳しい匂いを嗅いでみる。」
そこに古枝を集めて火をつけ、兄の肌着を燃やす。
「兄は故郷の地に戻ったのである。p282」
遺体に火をつけ燃やし、故郷に埋葬すること。それはかなわなかったにせよ、彼が一生抱き続けた深い深い罪を追体験し祈ることで、ヨハネは故郷の地に戻る。

「ヨセフは壁伝いに長く列になって立っている亡霊たちを見廻した。およそ十人くらいいるように見えた。
(略)
おれたちはヨハネを連れて行く前に、彼が殺めた人らを解き放してやろうと思って集まったのだ。人は死ねば、犯した罪はみな消えるというが、あったことの真相をありのままに明かしておかなければならないのだ。p215」

ひとはともすれば謝罪や赦しをめぐって大騒ぎしてしまうが、「あったことの真相をありのままに明かしておくこと」を十分に確認せずにそうしたことをしても結局無意味である。(口にしたくないほど愚かしい「慰安婦問題」をめぐる日本側の態度をみてもそのことは明らかだ。)
「あったことの真相をありのままに明かしておくこと」をまず求めなければならない。

「殺した奴も殺された奴も、この世を去れば、みーんな一つのところに集まることになっているんだよ。(略)
やっとのこと故郷に帰って来てなー、昔の友だちにも会い、恨みも怒りも解けてしもうた。 p278」

こう言っているのはヨハネ(亡霊ではあるが)である。ヨハネの殺人者としての所業を知ったわれわれは、こうした言葉だけではなかなか納得しずらい。加害者がそう言ったからと言って、被害者は恨みも怒りも忘れないのではないか。

しかし、この小説では、被害者であるスンナムおじさんや一郎(イルラン)も亡霊としてそこに居る。
「さあ、さあー。もうこれでいい。早よう立たにゃ。 一郎も同意した。 そうだ。みんな一緒に立とう。」
40年亡霊として彷徨った後、加害者ヨハネが亡霊として故郷に帰ってきた。それによってやっと立ち去ることができる。恨みも怒りも解けたというのが本当かどうかは分からない。しかし彼らは実際には既に死んでいるのだから、「去るべき者らは去り、生き残った者らは新しく出発しないと。p279」ということはできる。

最後の章は「締めの歌」である。
民族に自由が戻り/働く者が権利を手にしたとき/人として生まれた幸せが分かった/しかしそれも束の間/自由も権利も/一場の夢と化し/命まで奪われてしまったのだ

恨みはあろう悲しくもあろう/しかし今はもう/怨みも悲しみもすべて忘れ/安らかに心おきなく/あの世の方へ/去られ給え、旅立ち給え

最後に、一転してキリスト教徒と対立した労働者の側、被害者の側の恨みが唄われる。「怨みも悲しみもすべて忘れ」というのが正しいのかどうか私(野原)は分からない。

韓国はシャーマニズムの伝統がある。ムーダン、マンシンとよばれる降神巫。彼らは人びとから依頼を受けて、死者をあの世に送る儀礼を行う。これがクッとよばれる。厄払いである。
死者とその怨念、彼に向けられた怨念その両方を彼方に送るための儀式。その様式を借りてこの小説は書かれた。
「怨みも悲しみもすべて忘れ」は黄晳暎の意志ではなく、クッを必要とした民衆の意志である。

6 怨みも悲しみもすべて忘れ

この小説のなかでは、40年前に死んだ死者たちと先日死んだ死者がともに亡霊となり、生き残った人々と対話する。死者たちに語らせる。それは40年間彼らの声が抑圧されなかったものとされてきたからだ。
殺害された者はもはやいないので発言できない。殺害したものも逃げてしまい故郷との繋がりが失われる。また殺害したものは真実を語るのは自分にとってつらすぎるとして抑圧してしまう。
しかし実は小説家はどのような人のどのような行為であろうと小説に書くことができる。40年前の世界も現在の世界も。しかし黄晳暎はそのどちらも選ばず、現在に浸透してくる過去を描いた。
40年前を描いた小説であってもそれが読まれるとしたら、現在にしか生きていない読者がそれを求めるからだ。ふと思い出される過去の記憶といったものは現在の少なくない部分を占めている。40年前の過去であっても、トラウマと呼ばれる抑圧された記憶はふとしたきっかけで鮮明に思い出されることがある。40年前の事件のドキュメントが求められているのではない。事件のドキュメントの意味が求められているのだ。殺す者と殺される者の距離、40年間という距離、国家と民衆の距離、そのような隔たりを超えるために、亡霊による語りというスタイルを黄晳暎は採用した。
最も抑圧しようとしたものは何十年経っても残る。小説家としてそれを書こうと思ったのは当然だろう。
しかも重要な出来事でありながらその真相が隠蔽されているのであるから、政治的、社会思想的にも是正されるべきである。しかしそれは、北朝鮮国家と韓国市民の多くの両方に正面からケンカを売るに等しい行為であり、大きな問題を引き起こす可能性があった。半亡命の身分にあった黄晳暎にとっては、なおさらである。しかし実際にはそのような真相を明確に突き出す作品を彼は書いてしまった。半亡命→帰国・入獄から1998年出獄、その5年後にやっと書き上げたのではあるが。

「この作品に描かれた惨劇は民族内部で演じられたものであるだけに、北側の公式的な主張を立場とする人たちからも、また惨劇のあと北の地を離れ南に移ったクリスチャンを中心とする人たちからも、否定され指弾されるということはありうるだろう。(p291)」
そうした自己保身的あるいは政治的配慮よりも、作品を完成させることだけを目的に黄晳暎は書き上げたのだ。

「キリスト教とマルクス主義は、この民族が植民地時代と分断の時代を経てくる間に、自律的な近代の達成に失敗し、他律的なものとして受け入れた、近代化への二つの異なった途であったということができよう。」
最近翻訳がでた自伝『囚人』に詳しいが、1985年から1993年まで黄晳暎はドイツや米国などに滞在し、途中何度か北朝鮮も訪問した。1980年代の西欧から見た場合40年前の北朝鮮のキリスト教とマルクス主義はほとんど双生児のように似ていると見えたことだろう。「キリスト教とマルクス主義は考えてみれば一つの根から生えた二つの枝であったのだ。」日本の場合では大学に行ったりするインテリが明治時代にはキリスト教に、それ以後はマルクス主義にかぶれるといったふうに現象した。急成長する資本主義の大きな矛盾とまだ封建的な伝統社会の抑圧、その双方を批判する武器として使われたのだ。おおざっぱに言えば、同じ社会集団に時期をずらして受容されたためお互いの大きな争いは起きなかった。
朝鮮では、光復後に何もない所から国家を作らなければいけないという機運が高まり、その要請に答えるイデオロギーとしてキリスト教とマルクス主義が、それぞれ別々の階層に選ばれた。そして不幸なことに二つのグループは激しく対立し、ついにこの本に書かれたような巨大な惨劇を産んだ。

AがBを撲殺する。その意味ははっきりしている。ごまかしようがない。しかしキリスト教とマルクス主義が関与すると少し違う。同じ殺害でも神のため、あるいは党のためであれば許される場合もあるのだ。この小説ではもっぱらキリスト教徒が扱われる。彼らが天国に通じる道と信じて殺害を行ったがその道はわずか数ヶ月で消えた。彼らは故郷から逃げざるを得なかった。神のためという言い訳が通用しなくなり、殺害という苦い記憶を抱えてAは40年生き続ける。しかし黄晳暎は悔恨や反省を一切書こうとしない。

AがBを撲殺した。Aはそのことを忘れない。不快なもやもやとして、強い苦さとしてそれはときどきやってくる。それを悔恨や反省としてすこし意味を変え昇華していくことが、人間の文化だろう。それを最も洗練させたものがキリスト教とマルクス主義(そして近代文学)だろう。反省、神への帰依によって救われること、それは「神の名によって殺すこと」とそれほど大きく違うだろうか?黄晳暎はそこまで書いていない。しかし、彼が悔恨や反省を書こうとしないとはそういう意味でもありうるだろうか。

BはAに撲殺された。Aのようなそれ以後の40年はBには存在しない。亡霊として漂い続けただけだ。BはAを激しく怨んでいるはずだろう。しかし厳密に考えるならばその怨みも、生きているB以外の人がなければならないと強く考えているだけなのではないか。Bはただ死んでしまい何を考えているのか分からない。

「強い風が吹きまくっている。」
「一群の人びとが上半身を屈め、同じ方向に進んでいる。何か重たいものを引く網でも肩にかけているような姿勢なのだ。前進している人の長い列は前の方も、後ろの方も終わりが見えない。曲がりくねった道は野原を横切り、遥か彼方に見える大きな山並みに接しているが、人びとは一切無言である。屈められた彼らの背中が見えるだけである。」283

彼らはただ歩いているだけなのか。彼らのうち少なくない人は、自らその手に凶器を担い他者の肉体にそれを振り下ろした。見えはしないが、人びとはその罪とともに歩き続けるのか?

一方「自分はそこに現れた一幅の画面の上を、鳥のように飛翔していた。」
鳥のようなのはおそらくヨセフではなく、作家黄晳暎であろう。殺された者も殺した者も、決してエリートでもインテリでもなかった。広大な歴史の原野をただ歩き続けるしかない庶民である。しかし作家はそうではない。そう望まなくとも作家はすべてを見通し設計しうる。語られる限りでは歴史すら、改変し各自の感情、倫理的色合いすら左右できる。読者も巻き込んで。
殺害者にもっと真摯な反省を求めるという感情を読者は持つだろう。大きな虐殺事件でありその事実を明らかにし、悼むことは必要だ。
それに、加害者を加害者と名指すことは必要だ。つまり、反省と謝罪を求めることは。それは一方の側に加担することになり、政治に巻き込まれることになる。
ただ、文学の役割はそれとは違う。「遠くの方から牛の鳴き声と、首につけられた鈴の音が聞こえてくる。めんどりが卵を産み落として出す姦しい啼き声も聞こえてきた。田園がひろがる野原では、人びとが田植えの歌を歌っており、それにまじって、鉦(ケンガリ)や長鼓(チャング)を叩く農楽(ノンアク)の音も聞こえてくる。」
数多くの殺害を飲み込んでなお、庶民(常民)の世界は延々と続いていく。無理やりであろうと「怨みも悲しみもすべて忘れ」という言葉とともに、作家は彼らに別れを告げる。

(2010.2.5)

1894年7月23日の朝鮮王宮占拠

7月ソウルへ、4日ほど行った。帰ってきて、徴用工問題からホワイト国除外問題、韓国側の反応や韓国からの旅行者が激減してしまったこと、あいちトリエンナーレでの「慰安婦像」に対する河村名古屋市長発言など、日本人の韓国認識の根幹に関わる問題が起こり、日韓関係は最悪となっています。この間わたしも少しだけ韓国について勉強しました。今まで不勉強だったことに今更ながら気づいた、わけですね。

1895年日清戦争において日本は短期間の戦いで、3億円以上の賠償金を獲得しました。これは、日本の大国化の途中の最も輝かしいできごとでした。主人公は外相陸奥宗光。「力ある者が何でもできるのは、帝国主義時代のならいである」、それを「冷静、現実的」にやりとげた「陸奥外交」こそ帝国主義の真髄である、と岡崎久彦は書いています。(1)

1894年東学の乱がおこると、「清国は朝鮮政府の要請を受けて出兵するとともに、天津条約に従ってこれを日本に通知し、日本もこれに対抗して出兵した。農民軍はこれをみて急ぎ朝鮮政府と和解したが、日清両国は朝鮮の内政改革をめぐって対立を深め、交戦状態に入った。」と山川出版社の『詳説日本史』には書いてあります。

戦争を始めるためには大義名分が要ります。「この上戦争の〈名〉はいかが相い成り候や、日本より無理に差し迫り、〈無名〉の戦争と相い成らざるよう祈る」と明治天皇側近も心配していました。(2)
「1876年江華条約一条に「朝鮮国は自主の邦にして」とある。現在朝鮮に清朝の軍隊が居るのは条約違反。撤兵要求しそれに応じないときは日本が代わって戦う。」というのが陸奥が考えた戦争の大義でした。

しかしその為には朝鮮政府から日本政府が「清軍駆逐」の依頼をもらう必要があります。しかし朝鮮王はださない。ではどうするか?

すでに1894.6.2日本軍は仁川に上陸していました。陸奥外相以下日本の総力をあげて、ソウルの朝鮮軍を一掃する計画が作られ、実行されました。
その核心部分は、王宮占拠、国王の捕獲、大院君を担ぎ出し日本の傀儡とすることです。

1894.7.23の王宮占拠の詳細を、金重明「物語朝鮮王朝の滅亡」という本から転記してみます。

 漢城の日本軍は、周到な準備の末七月二十三日深夜、朝鮮の王宮、景福宮を取り囲み、一隊を王宮内に突入させた。
 まず工兵隊が迎秋門の爆破を試みるが、爆薬が不足してうまくいかない。斧で打ち破ろうとするがこれも失敗する。最後は何人かの兵に塀を乗り越えさせ、内外よりのこぎりでかんぬきを裁断して、門を破った。この作業に手間取ったため、迎秋門突入は午前五時頃となってしまった。
 王宮内に突入した日本軍は国王を擒(とりこ)とするため、ただちに捜索を開始する。
 当時王宮侍衛隊は精兵といわれていた平壌の兵五百から編制されていた。王宮侍衛隊は四倍以上の日本軍に対し果敢に抵抗した。銃撃戦は数時間続き、双方に死傷者が出た。しかし衆寡敵せず、次第に侍衛隊は北方へ追い詰められていく。その間、日本軍の一隊が雍和門(ようわもん)内にいた国王を擒にしてしまう。
 そしてついに、王から侍衛隊に、それ以上の抵抗はやめるようにとの命令が下るのである。王命に逆らうわけにはいかない。兵たちは悲憤律慨しながら、北方へ逃亡する。
 日本軍はただちに、王宮と漢城内の朝鮮軍の武装解除にのりだす。分捕った武器は、大砲三十門、機関砲八門、小銃三千挺、雑武器無数であった。
 さらに王宮に入った大鳥圭介は、兵を動員して王宮に所蔵されていた貴重な文化財をことごとく略奪し、仁川港から運び出してしまった。
 国王を檎にした日本軍は、閔氏政権を打倒して、開化派を中心とした親日派政権を打ち立てるのである。(p149)

1894.8.20「日韓暫定合同条款」を日本は朝鮮に結ばせる。第4項が「本年7月23日王宮近傍において起こりたる両国兵員偶爾衝突事件は彼此共に之を追究せざるべし」です。真相を朝鮮側が口にしてはいけないと固く口止めしたのです。
日本政府は、事件当初からこの事件を、偶発的発砲が韓国側からあったので応戦した、という虚偽のストーリーにして、それだけを語り続けました。百年後の1994年に中塚が福島県立図書館で新資料を発掘するまでそのウソはくつがえされませんでした。普通の日本人は教えられていません。

しかし、日韓関係の原点とも言うべきこの暴虐な事件を知っておく必要はあるでしょう。日本国家の汚点であるからこそ。(2019.9.27)
(1)中塚明『現代日本の歴史認識』p215 から孫引。
(2)中塚明『現代日本の歴史認識』p199。

「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」

河村発言などによって「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれて、以降いろんな考察がでています。
小田原のどか氏による長い文章を読んでみます。「私たちは何を学べるのか?「表現の不自由展・その後」

問題の核心を、「中止に至った問題の諸相を単純に腑分けすれば、政府高官からの介入、市民による抗議、そして脅迫があると考えられる。」
「文化芸術基本法の理念に反する行為である。脅迫や、政治家による公金を理由にした介入などの暴力を決して許してはならない。しかし、河村たかし名古屋市長の来歴を見れば、《平和の少女像》を批判する発言が出てくることはごく「当然」なのである(*1)」
ととらえる。

☆ 河村名古屋市長は、政府高官ではない。
なぜそういう誤記をするのか。タブー意識が働いているのではないか?

☆ 河村市長が、慰安婦像を「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」として批判し、この発言を日本人の少なくない部分が肯定的に受け入れた。これが今回の事態の核心だと思われる。
保障されなければならない「表現の自由」なるものが侵された、と捉えるのは浅いのではないか?
行政の長に過ぎない河村氏が、「日本人の、国民の心」というのものに介入発言をしそれにかなり成功していること、これに対して、アートの人も「心」というフィールドにおいて、真正面から敵対していくことが必要だと思われる。

☆ 「《平和の少女像》に反感を抱く人々のなかには、像の建立と、政府間の慰安婦問題には直接的関係がないということを知らない人も多いのではないかと想像する。この構図を周知させることが、像への悪感情を和らげることにもつながるだろう。」
反感を抱く人は存在する。で反感に権利を認めるべきか。
私は権利はないと考える。そもそも「少女像への反感」は2015年安倍首相側からは「大きな汚点」と考えられた「謝罪」に対して、その謝罪の意味をごまかすために「大使館前少女像」に怒ってみせた、という政治的策動に端を発したものである。今回、河村市長が強い口調で断言的に怒ってみせた効果として、《平和の少女像》への反感が事後的に生まれたのである。
それに対して、「反感」というものを自然化し、あるいは「現状の展示場を見る限り、表現の問題ではなく政治の問題としてのみ焦点化されている印象が非常に強い」として作家〜展示者側の問題が気になってしまうのは、「少女像」をめぐる感受性の政治学の激動を完全にとらえそこなっていると思う。
そもそも、「少女像」が作られたのはソウル水曜デモが何十年も継続していることへの驚きからである。水曜デモは70年以上前の日本軍の暴虐に抗議しているのではない。河村発言を受け入れるような現代日本人の半端な被害者意識によって、自分たちの告発が聞き届けられないことへの抗議である。

☆「たとえ歴史認識のすりあわせが難しくとも、」:慰安婦問題については安倍氏も「当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している。」と認めている。この認識からは、少女像が「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」である、はでてこない。少なくとも私にはその理路が分からない。だから私はなん人もの人にそれを聞いて回ったが誰からも答えはなかった。
河村氏がいったいどのような歴史認識に立脚しているのか?それは小田原氏は確認している。「2007年、自民、民主両党の靖国派国会議員らが中心となり、米紙ワシントン・ポストへの意見広告「THE FACTS」を出した」それを読んだようだ。
河村氏はこうした認識に基づき、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」という感受性領域に対する傲慢な介入をした。

☆ 「そしてまた、より普遍的に考えれば、女性の人権が踏みにじられた過去を真摯に省みて、二度と繰り返さないという点では対立を超えることができるはずだ。」
ここにあるのは「政治性」というものに囚われることは、対立の激化につながる。「政治性」というものを脱却していけば「対立を超えることができるはずだ」といった構図、であろう。
現在の問題ではなく過去の問題だと捉えれば、「対立を超えることができるはずだ」と考えたい。
しかし、水曜デモが27年間、ある意味で無駄に積み重ねられざるをえなかったのは、つまりキム・ソギョン/キム・ウンソンが連帯を捧げようとしたものは、過去の問題ではない。「THE FACTS」のような歴史修正主義言説を生み出してしまう心の弱さという現在性に対する戦いである、と私は理解する。
河村氏たちというものは現在、日本において膨大な存在感として存在している。したがって、「愚か者」「テロリスト予備軍」と断じるだけでは終わらせることはできない。
河村氏たちすらも包括しうるような広大な慈悲といった立場に、究極的には到達すべきなのかもしれない。しかし、アートの立場は宗教の立場ではない。あえていうならば、27年間の河村発言に到る「歴史修正主義」発言の総体に憎悪でもって肉薄することこそが、想像力の戦いとしてなされるべきことであろう。

☆ 「憎悪」「対立」「正義」といったものは、アートとは別の領域にあるべきものだ、という思い込みはアートの弱体化にしか繋がらない。

☆ 小田原氏は、広島、長崎の資料館での加害/被害展示のあり方についてなども、持続的に考えておられる。2つの原爆資料館、その「展示」が伝えるもの

☆ 小田原氏は、天皇が「一度おばあさん[元慰安婦]の手を握り云々」という、文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長発言については、こう書いている。

これに対し日本政府は「不適切な部分がある」として謝罪と撤回を求めている。しかし政府は「不適切な部分」について、それが昭和天皇を戦争犯罪の主犯と呼んだことにあるのか、それとも上皇の謝罪を望んだことなのか、具体的には明らかにしていない。平成から令和に変わり「新しい時代」などとかまびすしいが、いったいどこに新しさなどあろうか。日韓のあいだには、変わらず深い溝が横たわっている。(北緯38度線の分断から見えるものとは何か?

静かだが、言うべきことは言い切っている。
今回の文章の河村発言については、明らかにトーンが変わっている。

日韓の請求権協定の解釈について

去年10月に韓国大法院は、強制動員被害者に対する賠償を新日鉄住金に命ずる判決を出した。以後、日本政府によるそれへの反発とその影響は、むちゃくちゃ大きなものになっている。
ところが、この日韓請求権についての問題は、法的にとても煩瑣な議論でありとても難解である。
弁護士山本晴太氏の文章二つを参考に、下記にまとめてみた。不出来ではあるがよかったら読んで下さい。
・・ 日韓請求権協定解釈の変遷と大法院判決
・・ 日韓両国の日韓請求権協定解釈の変遷

日韓請求権協定第2条では、「両締約国およびその国民の財産、権利および利益ならびに請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたこととなる」となっています。

1、この問題がトラブルになっている原因は、それとはまったく違う解釈を日本政府が繰り返していたことにあります。
「当事者個人がその本国政府を通じないでこれとは独立して直接に賠償を求める権利は、条約によって直接影響は及ばない」
と1965年の以前から日本政府は主張していた。
広島原爆被爆者、シベリア抑留被害者の日本政府への補償請求において。

2,広島の被爆者は、アメリカ合衆国ないしトルーマン大統領に対して損害賠償請求権を持っていたのに、これをサンフランシスコ平和条約で日本政府が消滅させてしまったとして、アメリカからの賠償にかわる補償を日本国に求めたのです。
これを回避するために、「サンフランシスコ平和条約に書いてある『放棄する』とは個人の権利を消滅させるものではなく国の権利である外交保護権を放棄しただけだ」という説が日本政府によってとなえられた。

3、1965年の日韓請求権協定についても、朝鮮半島に財産を残してきた日本国民から訴えられると困るので、「個人の請求権の消滅ではない」と説明した。

4、ところが1990年代から、韓国、中国の被害者が日本の裁判所で続々と裁判を起こし始めた。
2000年頃になると、「消滅時効を援用すると、「いや、国側が資料を隠しておいて、今さら時効というのは信義則に反する」。それから国家無答責といって、明治憲法のもとでは国家は不法行為責任を負わないと考えられていたのですが、「それは旧憲法下の解釈であって、現憲法下で適用できる解釈ではない」などというように、論点ごとに国に不利な判断が次々に出始めて、ついに国が敗訴する」ことにまでなってきた。

5,この状況下で国は裁判での主張を急に変えてきた。「実は1965年日韓請求権協定で解決済みだ」と。しかし最初それは裁判所も採用しなかった。しかし、2007年4月27日の最高裁判決(西松建設事件)、国の新解釈を受け入れた。「サンフランシスコ平和条約の枠組み」というものがあり、それが平和条約に参加していない中国にも適用されるとする、理解不能の論理によって。

『サンフランシスコ平和条約の枠組み』論とは、平和条約締結後に混乱を生じさせる恐れがあり、条約の目的達成の妨げとなるので、『個人の請求権』について民事裁判上の権利を行使できないとするという。日中共同声明や日韓請求権協定も『枠組み』に入るものとして、『個人の請求権』を裁判で行使できないものとする、というもの。

6,「ここでいう請求権の『放棄』とは,請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく,当該請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるにとどまるものと解するのが相当である。」と述べました。つまり、日中共同声明によって被害者個人の請求権が消滅することはないが、その請求権を裁判で行使することができなくなったという。
非常に難解である。

7,「個別具体的請求権について、その内容などにかんがみ、債務者側において任意の自発的な対応をすることは、妨げられない」だけが、唯一の希望として残った。この考えにとって、原告たちは西松建設と和解を成立させた。

8,したがって、同様に強制動員問題当事者たちと、企業また日本政府とが和解を成立させることは、日本政府にその意志があれば容易なことだ、ということになる。

9、90年代から慰安婦問題が大きく取り上げられるようになり、河野談話、アジア女性基金ができたが、日本政府は元「慰安婦」たちとの和解を達成することができなかった。

10.2005年盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権が「韓日会談文書公開官民共同委員会」を設置。
「韓日請求権協定は日本の植民支配の賠償を請求するためのものでなく、韓日両国間の財政的、民事的債権・債務関係を解決するためのものであり、したがって日本軍慰安婦問題など日本政府や軍など国家権力が関与した反人道的不法行為に対しては請求権協定によって解決されたと見ることはできず、日本政府の法的責任が残っている。サハリン同胞問題と原爆被害者問題も請求権協定に含まれていない」と明らかにした。
日本軍慰安婦・サハリン同胞・原爆被害に対する賠償請求権は未解決という点を明確にした。参考

しかし強制動員被害者については、請求権協定資金の5億ドルの計算の中には、強制動員被害者に対するものが総合的に勘案されている、とした。
ただし、山本晴太氏によれば、これは個人の請求権が消滅したという意味ではない、とのこと。

11,2012年5月24日の大法院判決は画期的な判断を示した。
「日韓請求権協定はサンフランシスコ条約を受けた財政的問題を精算するための条約であって、日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や植民地支配と直結した不法行為による損害賠償請求権は請求権協定の対象外だというのです。これまでは外交保護権放棄なのか、個人の請求権なのかという話をしていたら、ここで「いや、そもそもこの協定は関係ないんだ」という判断を打ち出したということです。この協定の締結過程で日本は植民地支配の不法性を一切認めなかった。不法性を全く認めず、植民地支配の性格について合意がないまま結んだ協定で、どうして不法行為による損害賠償請求権が解決されるのかという理由です。」

12,この判決は画期的だったが、日本ではほとんど報道されなかった。
この間、日本では河野談話の約束は果たされず、2014年朝日新聞が不必要な「謝罪」をし、日本国民の意識は嫌韓に傾いていた。

13,2018年11月の大法院判決も2012年のものを踏襲したもの。
安倍晋三首相は「国際法に照らしてあり得ない判断」だと批判した。そして、本来被害者と民間企業の間の問題であるにも関わらず、1965年の協定で解決済みを振りかざして韓国政府に圧力を掛けようとした。
そして2019.8.28、輸出手続きで優遇対象とする「ホワイト国」から韓国を除外した。大きな国際紛争になってしまったわけだ。

14,この間日本政府は「1965年の協定で解決済み」が、絶対的な真実であるかのように大宣伝しており、マスコミに出てくる評論家もそれに従っているようだが、そこまでは言えないことは確かだろう。

甘耀明(カンヤオミン)『鬼殺し』上・下を推す

甘耀明(カンヤオミン)の『鬼殺し』上・下、図書館で何気なく手に取った本。大傑作だ。莫言に絶賛されたが、将来のノーベル賞級の才能だと思う。白水紀子訳 白水社 2016年翻訳刊行。

甘耀明は1972年(戦後27年)生の客家系台湾人だ。苗栗県出身。地図で見ると、台北と台中の間は北から桃園市、新竹市、苗栗県となる。苗栗県には雪覇国家公園という広大な国立公園があり、東側の太魯閣国家公園とほぼ隣り合っている。甘は苗栗(ミャオリ)県獅潭(シータン)郷の、先住民族(タイヤル族など)の部落に近接する縦谷の客家の山村で6歳まで過ごした。タイヤル族や彼らの神話・伝説は作中でおおきな比重を占める。

「人殺しの鉄の怪物が蕃界(原住民が住む場所)の関牛窩(グアンニュボー)にやってきた。」という文章からこの小説は始まる。小学生だが荒唐無稽なまでに強い客家の少年帕(Pa)はその前に立ちはだかろうとする。「汽車は実に壮観で、先頭には黒檀に描かれた花輪がかかり、花輪の中に「八紘一宇」の四文字が書かれていた」
帕(Pa)は車体に貼ってあった「皇軍は米国を奇襲、真珠湾を轟沈した」という新聞記事を見て、おもわず雄叫びをあげてしまう。
日本軍鬼中佐は、汽車から降り立ち、「銀色に光る軍刀を抜き、集まった村人に向かって言う。「新しい時代が、本日からはじまる。お前たちは手足を動かして天皇陛下にお仕えせねばならぬ。どんな犠牲も惜しまず、あの山を平らにせよ。」
鬼中佐は公学校の校舎を練兵場に変える。公学校は恩主公廟に移される。今までの村人の精神的中心恩主公(関帝、つまり関羽)の神像は燃やされることになる。
柴を加え油をまいて火をつけても、恩主公像は真っ黒になりながらも生きのこる。神像に宿る魂を汽車に轢きつぶさせようとするが、「恩主公はオウと声を上げ、歯をぐっと食いしばって、踏みつけられても死なない、おさえつけられてもぺしゃんこにならない、何度踏まれてもつぶれない」不滅さを見せる。

日本軍の帝国主義的暴虐を、民衆の神話・伝説にまみれた精神世界にズラシて物語っていくのが、甘耀明のマジック・リアリズムである。

鬼中佐は帕に目を付ける。
「鬼中佐は汽車を停車させ、恩主公の前まで歩いて行くと、大声で怒鳴った。「帕、出てこい」。帕は背が高いので、頭が人の群れから浮き出てきて、間もなく全身をあらわした。鬼中佐は彼に名前を名乗らせた。
「帕であります」。帕は両手を腰にあて、目を大きく見開いていたが険しくはなかった。
「それは『蕃名』だ、漢名は?」
「劉興帕です」。帕はまた付け足して言った、「名前の中には『蕃』の字が入っております」
「お前は両親から捨てられた子だ、俺がお前を養子にしてやる。今後は、お前の名は鹿野千抜だ」。
鬼中佐は言い終わると、帕に何度も「鹿野千抜」と、早くも遅くもないちょうどよい速さで復唱させた。帕はまず拳を握りしめて反抗し、それから耳をふさいだが、もう手遅れだった。その名前は頭の中でずんずん大きくなり、雷のように流れこみ、海のように浸食してきて、追い払うよりも受け入れるほうがましだった。そこで帕は口を開けて心の声を追い払い、言った。「鹿野千抜」
「鹿野千抜、来い。刀を枚いて、支那の神を斬れ」。鬼中佐は腰に帯びた刀をたたいた。帕は数歩前に進み出て、刀の柄をつかみ、鞘から枚いた。刀をさっとひと振りした瞬間、空気が裂けて傷口が見えたかと思うと、大声をあげて神像を真っ二つにたたき斬った。」

1895年日本軍が台湾を領有するために上陸した時、台湾民主国の義勇軍総統領として戦ったのが、客家人呉湯興だった。呉湯興は1895年八卦山の戦いで敗北死去するが、作中では鬼の世界の鬼王として死にきれずに存在している。かってその部下だった劉金福は、日本支配に抵抗し山奥で隠遁生活をしている。帕はその劉に育てられた孫だった。だから帕はその抵抗の意思を直系で受け継がなければならない存在だったのだが、残念ながら、皇軍の鬼中佐に、「名前を付けられる」ことで、彼の養子になってしまう。彼は「八紘一宇」の子どもになり、「一生神に呪われて生きることになった。」

少なくない数の、台湾、中国、朝鮮、その他の国の少年、青年たちを皇軍は「八紘一宇」の子どもに育て上げようとした。驚くべきことに、そして痛ましいことにそれは、半ばは成功したのだ。彼らは苦しみながらも戦い、死んでいった。戦後(光復)まで生き延びた者たちも居る。しかし、魂を昭和天皇に譲り渡した彼らには、「光復」は決してやってこない。「一生神に呪われて生きる」ことしかできないのだ。
戦後新しい国家建設のための思想を確立しなければならなかった台湾、中国人にとって、「天皇の子」を日本鬼子(にほんじん)として疎外するしかないのは、しかたないことであった。

「帕は地面にひざまずいて、心の中で自分は日本鬼子(にほんじん)ではない、自分は日本鬼子ではないと繰り返したが、しかし日本鬼子以外に、自分が何者になれるのか思いつかなかった。日本の天皇は自分の赤子をさっさと見捨て、国民政府もまた急いで日帝の遺児を門外に締め出し、彼らには荒野以外に、何一つなかった。」下p251

天皇と皇軍軍人たち、そしてその周辺の人々の変わり身の素早かったこと。一夜にして「大日本」の「大」の字は消し去られ、満州、台湾、朝鮮は日本とは無関係の土地となった。占領していただけだ。日本軍に協力した奴らは、民族の魂を売り渡した、売国奴だ。国民党、共産党の側からそう言われるのは分かるが、天皇の側はどうだったか。台湾50年の歴史は一切なかったものになり、日本は太古の昔からせいぜい沖縄あたりまで、その沖縄さえ米軍様のまえに差し出しましょうということになった。
「日本鬼子以外に、自分が何者になれるのか思いつかなかった」子どもたちのことは、誰からも忘れられた。

それは必ずしも一部の台湾人だけの運命ではない。帕は台湾東部にやってくる敵と戦う為に、中央山脈を越えようとする。しかしそこで聖なる山の「引力」にとらわれ、ぐるぐる回るばかりで山から抜け出せないという呪いに掛かる。ここの描写には、ニューギニア島の山地を数年間さまよった日本兵たちへの哀悼が込められていると読める。「大東亜戦争」の巨大な〈夢〉に囚われ、「戦後」に帰還できなかった日本兵も沢山いた。彼らの魂の底をさらえようとした文学が、日本にあっただろうか。(レイテ戦記は巨大な達成だがクールすぎる。)

戦後左翼の偏向・浅薄さを声高に叫ぶ人たちは、時に「八紘一宇」を口にする。しかし彼らは「八紘一宇」の真実をかけらもしらないのに、安手の愛国言説と戯れているだけだ。わたしたちが乗り越えることができなかった「大東亜戦争」を知るためにも、この小説は日本人に読まれるべきだ。