矢内原忠雄はシオニストか?

(5/25)twitterを見ていると、青山学院大学立て看同好会さんが、
現在、短期大学の中庭でパレスチナ連帯のためのテントを設置しているとして、写真が投稿されていた。
https://x.com/agutatekan/status/1793864524812148916
「虐げらるるものの解放 沈めるものの向上 自主独立なるものの 平和的結合」(矢内原忠雄)という文章を書いたダンボールが手前に掲示されていた。

さてこれに対して、彩サフィーヤさんが、「矢内原忠雄はちょっと。(略 注1)青山学院大学はキリスト教の大学なのですからキリスト教シオニズムにここまで無頓着であってほしくありません。」とコメントされた。https://x.com/Agiasaphia/status/1794299123115729099

わたしは最初見逃していたので矢内原忠雄って何だろうと写真をよく見ると、ダンボールに書いてあった。
矢内原忠雄とシオニズムあるいは植民地主義との間には大変「微妙な」関係がある! 長くなって恐縮だが、ちょっと書きます。
(として、直接twitterにコメントした)

1.1922年に矢内原はパレスチナを訪問している。
「誰も勇ましく愉快げに石を取り除き苗を植え乳をしぼり道を築いて居ります。パレスチナは(略)その現状は禿山と石地ばかりの仕方ない土地なのです。モハメット教徒特にトルコ人がパレスチナの主人となりてよりこんなに土地を荒蕪にしてしまいました。しかしユダヤ人は言っています「イスラエル人がイスラエルの地に帰る時この荒地より何が出てくるか見て居れ」と。そして本当に荒地より緑野が出つつあるのです。(略)私は聖書の預言より見てもイスラエルの恢復の必然なるを信じます。」p214
「パレスチナに帰来せんとしつつあるシオン運動」を創世記からの宗教的伝統として、終末論的に希求してしまう思想。

2.「資本と労働とが人口希薄なる地域に投ぜられ、人類の努力を以て土地の自然的条件を改良し、地球表面に荒野なきに至らしむるのが植民活動の終局理想である。シオン運動は反動的にあらず却って歴史進展の必然性を帯ぶ。そはまた不法的にあらず却って国際正義の是認する処である。人類的見地より観れば「六七十万のアラビア人がパレスチナの所有権を主張する権利はない」のである。p218
土地の生産力という観点から入植活動を是認。実質的植民論(理想主義的植民)。

3,ロシア革命や米騒動など国内外の革命的情勢の中に神の声を聞こうとする「預言者的ナショナリズム」ともいうべき社会正義実現への志向において、「再臨信仰」を抱いた内村鑑三。その強い影響下で矢内原もまた「再臨信仰」を持つ。戦後、キリストの幕屋を開いた手島郁郎の先輩に当たることになる。参考p214

4,以上、役重善洋さんの『近代日本の植民地主義とジェンタイル・シオニズム』から3箇所不正確に引用した。

最後に、役重さんの結論部分も引用しておく。
「信仰と愛国心の調和を強く信じた内村の再臨信仰を受け継ぎつつも、その実現に向けた信者個々人の倫理的実践に重きを置いた矢内原の姿勢は、1920年代においては「実質的植民」概念に基づく植民政策論を生み出し、1930年代以降には「預言者的ナショナリズム」に基づく軍国主義批判を可能とした。しかし、その宗教ナショナリズム的な民族観においては、植民地支配下における宗教的・民族的「他者」である民衆の生活意識に寄り添おうとする意識は後退せざるを得ず、シオニズム運動や満州移民政策において動員されていた宗教的・精神主義的レトリックを客観的に批判する視点を持ち得なかったと言える。」p239

よく知らないのだが、矢内原をリベラリストとして持ち上げることをもっぱらにしてきた甘さの存在は、キリスト教関係者と一部の左翼がパレスチナ問題に沈黙しがちだという事実とつながっているだろう。
ただし、現在の論点は、ジェノサイドの糾弾であり、シオニスト左派の矢内原であっても行うしかないものであるのは自明である。

(注1)彩サフィーヤさん発言の略した部分は、「「ろくに知りもしない人がノリだけでなんかイイことしてるつもりで運動やってる」というような非難にはふだんは同調しませんが(それはそれでいいだろうと思う)、」であり、この部分にもわたしは同意したい!

追加:矢内原忠雄のことをほとんど知らなかったので、少し引用を追加しておきます。
☆「1937(昭和12)年7月に勃発した日中戦争(盧溝橋事件)により、新たな衝撃を受けた矢内原は、8月、「炎熱の中にありて、骨をペンとし血と汗をインクとして」書いた論文「国家の理想」を『中央公論』9月号に寄稿した。
論文の中で矢内原は、国家の理想は正義と平和にあり、戦争という方法によって弱者を虐げることではない、戦争は国家の理想に反する、理想に従って歩まないと国は栄えない、一時栄えるように見えても滅びるものだ、と述べた。
https://www.netekklesia.com/untitled-cj5t
これらにより、矢内原は大学を辞めさせられる。

☆その後、彼は個人誌『嘉信(かしん)』を出し「時局預言と聖書講義を通して真理の戦い」を続ける。
しかし44年遂に廃刊命令。しかし、
「「真理」は国法よりも大なりとの確信から、法律に触れることを恐れず1945年1月新たに『嘉信会報』を刊行し戦いを続けました。1945年8月15日、真理を敵にまわした日本軍は降伏しました。矢内原のように戦争の終りまで平和主義、非戦論を唱え、軍国主義に反対を守り貫いた人はほんのわずかしかいません。歴史学者の家永三郎は矢内原を「日本人の良心」と呼んでいます。
https://ainogakuen.ed.jp/academy/bible/kate/00/yanaihara.life.html

☆以上のように、戦争の最終期までリベラリストとして発言し続けた人はほとんど他にはいない(くらい)。
しかし、それを可能にしたのは、再臨信仰に関わる「預言者的ナショナリズム」であった。そして、(自らは孤立しているとはいえ)「聖書が預言しているイスラエルの恢復」と通う位相のものだと信じ、戦い続けたのだろう。

☆戦後、矢内原は「敢然(かんぜん)と侵略戦争の推進に正面から反対した良心的な日本人」として、栄誉を獲得した。しかし、余りに孤立した栄誉であったため、彼の思想を細部にわたり検証し、戦争と国家に向き合う思想者は何が可能で何が不可能なのかといった問いによって、真実を深めていくといった作業は果たされなかったのではないか。
「平和主義、非戦論、軍国主義反対」に情緒的に合唱していくことが流行る時代だった。
「彼らは心に神を留(と)めることを望まないので、神も彼らを〔その〕為(な)すがままに放任して、殺戮(さつりく)に渡されたのである」シオンの神は時として大殺戮を認めることもある、そのような厳しい信仰なしには、矢内原の抵抗は不可能だった。