『愛の労働 あるいは 依存とケアの正義論』について

エヴァ・フェダー・キテイの『愛の労働 あるいは 依存とケアの正義論』を読んだ。
これは大事な本だと思うので、紹介したい。丁度、その訳者である岡野八代、牟田和恵さんがキテイを日本に呼んでそのとき作られた本がある(下記J 同じ図書館にあったので借りてきた)。こちらを読みながら、抜き書きしてみたい。

この本は、「重度の障碍を抱える娘セーシャと共に歩んできたキテイの人生と、そのなかで哲学者としてのキテイが経験した葛藤から紡ぎだされた思想の書だ」、と岡野氏はこの本を語りだす。(p14 J) 

キテイは障碍者を育てる親であり一方、倫理や哲学を学ぶ学者だった。「人間の本性とは何か、善き生とは何かについて長きにわたって論じてきた哲学の伝統のなかで、セーシャのような存在は(略)社会的な存在として認められてもいない、という事実」に気がつく。人間の平等を深く考察しながら、障碍者のことは思考の対象にすらしていない、と。(p14 J)
自己にとっての二つの真実が矛盾していること、それを解消するために、キテイは、ロールズに至る西欧思想史の根幹である人権思想を組み替えるという作業を必要とした。

キテイは自らの論を、「依存批判」と名づけている。これを江原由美子氏の紹介の引用によって簡単に紹介する。

「キテイ氏は、フェミニスト理論において議論されてきたジェンダー平等のための批判の論理を、差異批判・支配批判・多様性批判・「依存批判」という四つの批判の仕方によって、把握する。差異批判とは、男女の差異を批判の焦点とし、差異と平等との関連性を問う論じ方を、支配批判とは差異ではなくヒエラルヒーと権力を批判の焦点とし、支配が差異に先行しているがゆえにジェンダー平等実現のためには支配と従属の関係の廃棄こそが求められるべきだ等の批判の仕方をいう。また多様性批判とは、女性同士や男性同士の差異を批判の焦点とし、ジェンダー平等の実現にはすべての多様性についての配慮が必要であるという批判をいう。」(p124 J)

キテイは、これまでのフェミニズム理論を3つに分けて押さえる。次に「依存」とは何か?
「ここにおける「依存」とは、「誰かがケアしなければ生命を維持することが難しい状態」にあることをいう。人間は誰もがすべて、その生涯において一定期間は「依存」の状態にある。また長期間あるいは一生にわたってその状態にある人もいる。」
赤ん坊は生まれたての時は24時間保護を必要とするし、その後も20年近く「育て」なければならない。また、高齢になれば介護を要する状態になったり、痴呆(認知症)になったりしやはり自立生活はできない。キテイの娘、セーシャのような場合はずっと保護を必要とする。

社会秩序の基本をなす人々の契約は平等に位置づけられ平等に権利をもつ諸個人の自発的な結びつきに由来する、というのが17,18世紀に確立した社会契約論であった。現在の西欧社会はその思想を継承している。キテイが具体的に批判するのはロールズであるが、ほかの人も同じである。
「不平等な状態が現にある」ことは否定できないが、そうした「不平等な状態は、「平等化施策」によって解消可能であり、それ以外の能力の差異も、社会的条件や偶然的な条件によって生じる「一時的なもの」とみなしうるとされていた。」(江原・p125 J) というのが彼らの論理だった。しかし、そうだろうか。

「それに対し、「依存批判」は、まず「依存」を、基本的な人間の条件としてみなすべきであると主張する。(略)その意味において「依存」とは、「たまたま生じたまれな状態」、「それゆえに無視してもかまわないような状態」なのではなく、私たち人間の基本的条件なのだと、「依存批判」は主張する。「依存」を人間の基本的な条件とみなすことは、「依存者」をケアする活動を行なうことをも、人間の基本的条件とみなすことを意味する。「依存者」は、その生命の維持を他者に依存している。すなわち、「依存者」はその生命維持のために、「被保護者の安寧の責任を負う活動」を行なう「依存労働者」の労働を不可欠とする。ゆえに、「依存」を人間の条件として認めることは、社会を「平等者の集団」とみなすのではなく、「依存者」「依存労働者」をも含む人々の集団としてみなすべきことを意味する。そうだとすれば、「平等」とは、能力において対等な「平等者の集団」の間で構想されればよいことなのではなく、他者のケアなしには生存できない「依存者」や、「依存者の生存の責任を負っている依存労働者」との間において、構想されなければならないことになる。」(江原・p125f J)

このような存在〜関係を、非本来的なものとして理論的考察の根本からは排除してもよい、とするのがいままでの学問だった。国家を「理性的存在」の結合として説明しなければ、国家は至上権を持てない、とする発想。
治者と被治者の同一性というのは確かに、強い魅力を持った形而上学ではある。しかし、社会の諸関係を素直に考えてみると、理性的主体間の契約のような合理的関係はごく少なく、社会はそのつど身近な人どうしの互酬的関係で成り立っている。家族内部の互酬的関係とされるものが抑圧的関係ではないか、と告発したのがフェミニズムである。しかしフェミニズムは、反フェミが攻撃するように互酬的関係を解体し日常を利害の損得計算に還元せよと主張しているわけではない。家族内部というだけで、すべて「互酬的」とされ、結果的に母親・主婦役割の女性に過重な負担が押し付けられている現実を糾弾しているだけである。

伝統的大家族においてはなんとかメンバー内で負担を分担してゆうずうしあっていた。(幼い子がさらに幼い子の子守をするなど)しかし「自立」を看板にする近代的核家族においては、皮肉なことに、これは(建前はともかく実質はすべて)主婦の負担になってしまった。それと同時に女性の社会進出も進み、「主婦」は過重な負担にあえぐことになる。にもかかわらず、それは、選択の自由、あなたには子供を産まない自由もあった、という論理で自己責任とされてきた。フェミニズムの論理の一部が悪用されたといった側面もあったわけだ。理不尽な話だ。しかしこれが現実であり、現在も出口はない。

個々人はそれぞれ別々に生きているわけではなく、つながりのなかで生きている。平等というものもそのなかで考えなければならない。
つまり第一にケアを必要とする者がそれを得ることができなければならない。次にケア提供者は自分の時間と配慮の大きな部分をケアのために使わざるを得ないので、報酬を得る仕事をしたり自分自身をケアすることにおおきな不都合を持つ。したがってそれについては第三の家族メンバーからさらに配慮とケアを受ける必要がある。
「依存者」をケアする必要を中心に(拡大される)家族、さらにはその外側の社会のなかである互酬関係が作られければならない。それによってケア労働者はドゥーリアの権利を得るだろう。

「人として生きるために私たちがケアを必要としたように、私たちは、他者ーーケアの労働を担うものを含めてーーも生きるために必要なケアを受け取るような条件を提供する必要があるのだ。これがドゥーリアの概念である。(p293 L)

しかし、依存ーケア労働者の関係を、単にケア労働者の負担、労働過重といった面でだけ語るのは一面的に過ぎない。それは存在と存在の最も深い関係である。

キテイの娘であるセーシャは話すことができない。外にも多くのことができない。

「セーシャの愛くるしさは表面的なものではない。なんと表現したらよいのだろうか。喜び。喜びの才能だ。おかしな音楽を聞くときのくすくす笑い。(略)キスをしてお返しに抱擁を受ける喜び。セーシャの喜びの表現はさまざまな種類・程度にわたる。」(P335 L)

ひとが生きることの原初の輝きがそこにはあるのだ。
 
ただ、それほど美しい話ばかりではない。わたしの知人Y氏も重度の障碍者の父親だった。娘さんの名前は天音という。

・・・彼女とて哺乳瓶で食事をとらないと生きていけない。天音が意思を伝える手段は大声で泣きわめく以外にない。こちらの都合など関係ない。呼吸困難で唇が白くなるまで泣き続ける。抱いてやるとぴたりと止むが、欲求が激しいと駄目である。して欲しいことを、泣くことで表現する。欲求といったところで、あとは眠たいから抱いてほしいとか、お腹の調子が悪いからなんとかしてくれとか、そして単に抱っこしてほしいとか程度の、実にささやかなものである。
泣き声に負けて抱いてばかりいると、家事も仕事もなんにも進まない。苛々がつのる。その親の焦りが伝わるのか、天音は抱かれているのに口を大きく開ける不満行動を頻繁に引き起こす。(p42 Y)・・・

Y氏の奥さんのH氏は「天音の知り合いに近況を知らせる手紙のような」ミニコミをずっと出しておられた。(わたしはその読者にもならなかったのだが。)天音ちゃんの介護という限りなく閉ざされた労働(苦役)を、社会の関係性の方に向かって開くこと、それを要求する権利が自分たちにはある、(キテイの文脈に添って言うならそう言えるわけだが)、そのような思いもあっただろうと思う。

L:エヴァ・フェダー・キテイ 『愛の労働 あるいは 依存とケアの正義論』 岡野八代,牟田和恵訳 白澤社(原著 1999年)
J:エヴァ・フェダー・キテイ 『ケアの倫理からはじめる正義論─支えあう平等』 岡野八代、牟田和恵編著・訳 白澤社
Y:山口明 『昼も夜も人の匂いに満ちて』 湯川書房
H氏とY氏のブログ http://amanedo.exblog.jp/19335267/

王力雄『黄禍』はすごい

王力雄さんの『黄禍』 横澤泰夫訳 集広舎 読んだ。これは大傑作だ。
半分までは、重く大きなテーマに真正面から取り組んだ未来ポリティカル・フィクションの傑作だ、と思った。しかし最後まで読むと、それをはるかに越えた、人類の権力と暴力、生と性、溢れることと滅びること、すべてを描いたすごい作品だと言える。

王力雄さんの『黄禍』はやたら分厚くて(値段は2700円と安いが)、はじまり「東京 新宿歓楽街」というところにたどり着くまで18頁も重苦しい文章を読まされる。私は飛ばして、後から読むが。「東京 新宿歓楽街」のとこもなんか通俗的な感じだ。そもそも、黄禍という言葉自体が重苦しく嫌な感じなのだ。元の小説は1991年に出た、つまりアクチュアルな近未来小説としては古くなっている。(「主な登場人物」はありがたいが、紹介にネタバレが含まれる。変えたほうが良いのでは。)
それでも私が読もうと思ったのは、王力雄さんが5年前日本に来た時お目にかかることができ、その時の彼の佇まいに強い印象を受けていたからだ。小柄だが強い意志を感じさせる、宗教的なオーラさえ感じた。
期待は裏切られなかった。読了して感動している。

「『黄禍』の登場人物はみなできうる限り理性的な選択を行おうとするのだが、最後には理性的な結末を完全に取り逃がす。p12」と著者は言う。
閉鎖的権力関係の内部でそれに埋もれることをよしとしなければ、極端に優秀であり、自分の真の目的を固く持ち続け、かつ自分の真の目的を隠す能力が必要だ。本書の登場人物たちはみなそうした性格であり、その意味で魅力的である。この小説のすぐれたところは、ストーリー上必要なだけの悪役がでてこないところ。権力欲の塊のような超人はでてくるが、そうした人物は中国ではもっともありふれた存在だろう。
初版では「物語を書くという企図はなく、…中国の情勢に関する議論、中国の前途に関する考察が多く語られていた」という。そうした議論小説としての骨格は残っている。(初版は翻訳されたヴァージョンの2倍ほどあり、縮めないと日本に翻訳できないといわれたせいもあり縮めたという。この是非については分からないが読みやすくななったのだろう。)

最初に出てくるのは、黄河の氾濫だ。「水害によって元来の社会組織が瓦解し、無一文になった中で、人々は新たな絆を作り、暫定的な分配制度、労働組織、秩序、さらには法律まで作って」いる例があるというエピソードが語られる。中国のグリーンムーブメントの指導者という著者を思わせる履歴を持つ登場人物によって。
より大きな危機がやってきた時、この理想は完膚なきまでに破られる、というのがこの小説の筋である。

「スコップで粟を放り上げる旅に、石戈(せきか)は自分が粟粒と同じように、すがすがしい風の中に飛び上がり、むらなく散開し、風に草の屑や糠そしてほこりを吹き払ってもらい、さっぱりした姿で、陽光の下きらきら光る収穫したばかりの粟の山に落ちていく感じがした。」主人公の一人石戈の存在の底にある宇宙的エロス感覚。
それぞれの主人公はそれぞれ強いられた目的の為に死にものぐるいで奮闘するが、その底にはたいてい中国的な(荘子的な?)〈無〉への何らかのかたちの志向があるようだ。この小説は表面的には美女と超人が入り乱れるスパイ小説もどきの終末論的SFでもあるのだが、それだけに終わらない一つの要素はこうした〈無〉への志向を孕んだ人物造形である。

さらに、小説の丁度真ん中で、わたしたちの知っている世界はあっけなく崩壊する。しかし小説は続く。暗澹とした話ばかりが続くわけではない。中国人はすべて飢餓線上にさまようはめになり主人公たちも例外ではないのだが、主人公たちは意外にも理不尽な世界を受け入れ、その中でなお、いままでどおり目的を遂行するために全力を尽くす。
「陳ハンと同列の石段に座っている数人の受講生は、今長城の煉瓦の上で干からびたアリの死骸を集め、少量の塩とまぜ、その味を味わいながら、別種の昆虫の味と栄養価値との比較をしているところだ。」近代小説はブルジョアないしプチブルのもので、飢餓線上の人を主体の問題として取り上げてる人は少ないように思う。甘やかされた現在日本人は特に、生活感覚の幅が非常に狭くなっているのではないか。

飢餓線上の難民の巨大なマス(大群)が国境を越える、近年ヨーロッパではこのような事態が発生しており、それのことの受け入れがたさに、いまだ困惑している。この小説はまさにそのテーマを現実にはるかに先駆けて提起していた。著者が言うのはまず、国境、主権の概念は人為的なフィクションのに過ぎないということ。それに対して国防上の理由があっても、大量の難民を虐殺するなどということは「現代の文明が許さない。」
地球の資源が豊富で、至る所に未開発の土地があった時代植民地主義者たちはほしいままに植民地を広げた。「地球上に人が充満し憂えるべき状況になり、資源が枯渇すると、逆方向の植民が始まりました。このような逆方向の植民は貧窮によるもので、往時の被植民者が今度は列強に謝金を取り立てたのです!」すでにトルコ国境近くまで来ている2億人の難民という圧倒的な存在の量を背景に、中国の新米の外交官は強弁する。

大量の核兵器を持ちその効果を振回すことができるのが現代文明の価値と能力なのか?それとも燃料がなくなったので権力機構がなくなった今無意味になった膨大な書類を燃やしながら暖を取り、それでも絶望せずに辛うじて生き延びあるいは死んでいくのか?
「各国に移動した中国人難民は明らかに安らかで平和な日々を送っていた。彼らは死ぬことを意に介しない、すでに一再ならず死んだとすら言ってもよかった。(略)飢餓は呼吸と同じように日常的体験となり、まるで先天的生理の構成部分になってしまったかのようだ。」p488
人類は辛うじて維持され再生してくだろうか、かすかな希望を暗示しながらも、この小説の最後は、どこにも救いの余地のないエピソードで終わる。

「歴史上、大文明の壊滅ということが何度か起こっており、中国の滅亡が絶対にあり得ないと信じる理由はない。」p13
それは確かなことだ、と読者は嫌でも納得するべきなのだと思う。(少なくとも自分の快適な生活と無邪気な対中国優越感を維持したままで「中国崩壊論」を楽しむなどということはありえないのだ。)

『黄禍』

坂口恭平 『現実宿り』読んだ

坂口恭平 『現実宿り』 河出書房新社 2016.10.30 2000円

#現実宿り 読了というか、一応最後の頁までめくって読み終わったことにした(いつも同じだが)。
これは始めての体験だ。こんな小説はほかにはない。
実験的な小説は作者が実験しているのだが、この小説は実験していない。意図に因って構成されている現実というものを忌避しているので、実験などもってのほかだ。では一体何があるのだろう。
砂だ。
砂は書く。わたしたち(砂)はあなたと一緒に見ている風景をそのまま書こうとしている。(表紙より)
「人間はなぜか一人一人の感情にこだわっているように見えた。わたしたちはその理由を理解することができない。」p7
それに対して砂は「いつだって、自分の意思なんてものはそう大した問題ではない。」p8
これが人間と砂との差である。

「わたしたちは黙っていたが、みなそれを楽しんでいた。食欲もあった。しかし、おかわりをするものは誰一人としていなかった。みな慎ましく食べ、食べ終わったものから順に、静かにその場を去った。明日は会えなくなるかもしれないのに、別れの挨拶もしなかった。」p23
これは砂についての描写だが、ふつう、つまり人間についての描写と読んでも違和感はない。つまり砂と人間にはあまり差異はない。大きな差異は上に書いたものだけだ。

つまり人は生まれて去っていくものである、そのように記述することは別に、人間の喜怒哀楽を無視したアンチヒューマニズムというわけではない。人間は喜怒哀楽する。しかし人間のうちには、喜怒哀楽を過剰に喜怒哀楽せず、黙って眺めているだけの存在も同時に隠れている。それが砂だ。

まあそんなふうな感じかな。
ドラマとしての構成はなく、きまった主人公や役割もない。ただとりとめなく文章が流れていくだけだ。それがどうした、と激しく叩きつけても何も返ってこない。
まったく新しい小説、というわけではない。そもそもこれは小説ではないのだ。作者はすでに坂口であるより、砂になりかけているのだから。

哲学を包囲する

ところで話は変わりますが、西欧哲学の読書会をしようと思っています。
下記のように全12回とします。(いかにも平凡なラインアップっぽい?)
西欧哲学を学ぶというのではなく、わたしたちを支配している常識のなかに埋め込まれている西欧哲学から自由になるために、といった趣旨です。

タイトルは「哲学を包囲する」です。
全12回で、西欧哲学の骨格/輪郭の偏差を、各自がそれぞれ自分なりに体感することを目的とします。

最初は12冊 こんな感じで選びました。
1,ソクラテス以前 >プラトン 
2,プラトン >アリストテレス
3,アリストテレス >スコラ哲学
4,キリスト教 >マイスター・エックハルト 
5,デカルト >スピノザ(9/29、10/18)
6,スピノザ >ライプニッツ (11/24)
7,カント >ロック (1/26)
8,ヘーゲル >カント (2/23)
9,マルクス >ヘーゲル (3/23) 
10,ニーチェ
11,キルケゴール
12,ハイデガー
( > の後ろは実際に行ったもの)

続いて、東洋篇
1,論語
2,墨子
3,孟子
4,荀子
5,荘子
6,朱子
7,王陽明
8,藤原惺窩
9,山崎闇斎
10,伊藤仁斎
11,荻生徂徠
12,新儒家

いかにもお勉強しますという感じのリストになっている。ほんとうの趣旨は、私が死んでいくにあたって、知的世界(書物)との自分なりの関係を再確認しておきたい、という極私的なものです。

11月10日のことを9日の欄に書いても良いのか?

5)『NHKラジオ中国語講座11月号』

月曜~木曜通勤の電車内でラジヲを聞くようにしている、この数ヶ月。

6)ワルシャウスキー『イスラエル=パレスチナ民族共生国家への挑戦』つげ書房新社

図書館から借りて10日ほど経つのでそろそろ読まないいけないと思ったが、読もうとすると怒りが湧き進まない。

今日も図書館に行った。

返そうと思ったのに返すのを忘れた本は、

  1. 宮元啓一『仏教誕生』ちくま新書
  2. 宮元啓一・石飛道子『ビックリ!インド人の頭の中』講談社

の2冊です。宮元氏のインド論理学の本を借りようと思ったが、なかった。

借りたのは、下記。

3)ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』平凡社ライブラリー

それを覗いたあと、下記を覗いた。

4)+ヘーゲル『精神現象学』長谷川宏訳作品社