『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』

1.
朴婉緒の自伝3部作の第二、『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』読んだ。あとがきに自伝ではなく自伝的小説だとある。

朝鮮戦争時、ソウルは二度にわたり北朝鮮軍に支配される。
一度目は、1950年6月28日から9月末まで。
二度目は、51年1月4日から3月14日まで。
この小説はちょうどこの二度めの時期を扱っている。二度めは一度目と違い、ほとんどのソウル市民がソウルを脱出し南へ逃げた。しかし婉緒の兄は脚に傷を負っており動けなかったので、彼女の家族はそれができなかった。たった二ヶ月とはいえ、この奇妙な権力は婉緒たちに触れずにその上を通過してはくれなかった。
婉緒は元の家から、ソウル西北の知人宅に避難していた。(避難しないことは、アカに染まったとして旧体制復帰後迫害されるので、偽装でも「避難」しないといけない。)
1.4後退からしばらくしてから、婉緒の地区にも人民委員会ができる。嫌々ながら婉緒も人民委員会で事務的な仕事をやらされることになる。北朝鮮軍は退却することになる。婉緒と義姉とその幼児だけは北に送られることになる。義姉のとっさの気転でイムジン河だけは渡らずに、そちらの方向にとぼとぼ歩いて行き、途中で東に道を逸れる。ソウルの東北近郊坡州(パジュ) の近くの山中にまで来ると、幼児が咳き込みひどく熱を出し始めた。「ヒョンは一日中、義姉の背中で咳き込んでいた。咳がひどくてなんどか背中にもどした。吐いたものを拭こうと思ってねんねこの上にかぶせた綿布団をはがすと、体が火鉢のように暑かった。」幼児を連れた避難民たち。数年前満州の北から南へ、あるいは朝鮮へ向かってとぼとぼ歩き続けた日本人母子たち、を思い出す。今も世界のいくつかの場所では同じように歩き続けている国内避難民たちがいる。

村で一番大きな家に助けを求めると、女主人が迎えてくれる。胡桃の油を絞って飲ませると熱が引くだろうと言って、飲ませてくれる。無愛想な老女に見えた女主人はしだいに妖精国の女王めいた風格を見せ始める。

2.
「全焼した村から少し離れた一軒家で退屈な昼を過ごしたあと、その村に漂う静けさに魅せられて美しい灰の中を歩いた。ちょうどそのとき、甕(かめ)のそばの痩せこけた木の枝につぼみが膨らんでいるのを見た。木蓮の木だった。よく見ると外側の固い花びらがようやくほころびかけていた。木蓮は一度春の気配を感じ取ると、あっという間に花を咲かせる。その狂気じみた開花が目に浮かび、思わず私は、まあこの子ったら狂っちゃったんだわ、と悲鳴を漏らした。木を擬人化したのではなく、私自身が木になっていたのだ。私が木になって、長い長い冬眠から目を覚ましたときに見た、人間の犯したあまりに残酷で、気違いじみたことに対して驚愕の声を上げたのだった。(p94)」

これは不思議な文章だが美しい。木蓮は咲きほこる花々を惜しみなくすべて捨て、毎年新たにまた狂ったように花を咲かせる。しかし人間はもっと恒常的なものであり、いったん建った家はずっと建ちつづけている。普通は。ところが村の建物がすべて焼けてしまうことがあるのだ。そしてそのような村がつづきそれが異常ではないように感じられてしまう。人間としての恒常性失って、しかもそのとき陽が照っていればそれだけで喜びを感じる。そのような存在感覚を「私が木になった」と書いている。そして滅びの姿のなかに在る自己に肯定感を感じている。

3.
エピローグに、朴婉緒の家系の自慢と、彼女の母親がするその自慢への婉緒の嫌悪が書かれている。一族から王の婿を三人も出した、というのだ。(朴趾源(パク・チウォン 1737-1805、私が最近興味を持った丁若鏞と並ぶ朝鮮最大の実学派儒学者)も一族らしい。)親日派の巨頭もいたが、両班の家名を支える価値観においては、彼らを恥さらしとする価値観はなかった。「国が滅びようが滅ぶまいが、当代の政権が正当だろうが不当だろうが、そんなことはどうでもよかった。何があっても商売や労働などの卑しい仕事は避け、官職につきたい一心で、平気で破廉恥なことをするのが両班の正体だ。」

このような両班(やんばん)のどうしようもなさに対して、叔父さん(婉緒の家の事実上の当主)の取った態度は立派だった。毎日「ゴハン叔父は納屋から取り出した背負子(しょいこ)を負い(略)、敦岩市場の近くで物を売り」家族12人の生活を支え続けた。背負子ほど両班に似合わないものはない。しかし彼は言う。「背負子のどこが悪い。行商すらできなかったから、うちのミョンソが死んでしまったんだ」

両班根性を嫌悪していた婉緒。彼女が実際にやったことはどうだったか。
1950年彼女はソウル大学に入学したが、すぐ朝鮮戦争が始まり一切授業を受けることができなくなった。それにしても、当時女性のソウル大学生などありえないほどの過剰な学歴になる。
最初に、北朝鮮軍支配下ではそもそも普通の若者自体いなかった。男性は連れ去られ兵士にさせられる。だからむりやり事務(ガリ切り)の仕事をさせられる。
次に、米軍支配の世になってからは、郷土防衛隊というところに連れて行かれる。警察官と口論の末だがなんと「気性は荒いが名門大学の学生だ、うまくやってみるように」と紹介してくれたのだ。(p141)まだ行政庁が帰還していない時期だった。
イムジン江を挟んでの一進一退が続き、再び漢江の南に避難しろという後退令がでる。彼女の仕事は急に忙しくなる。「冬に人民委員会で働いていたときと状況があまりに似ていたので、ふと、今どっちの世にいるのだろう、と思うのだった」

三度目は行政関係ではない、米軍PX(進駐軍専用の商業施設)だ。物も何もない当時のソウルでは、唯一光輝いていた場所だった。
「私には永遠に絵に描いた餅にすぎないと思っていた、アメリカのチョコレート、ビスケット、キャンディーなどが、いつの間にか我が家の日常的なおやつになった。
(略)アメリカ製品には驚くべき力があった。体はガリガリなのに頭だけが大きく、首が細く、口の端がただれ、そのまわりに白く疥(はたけ)が出来ていた子供たちが(婉緒の甥たち)、あっという間にぽっちゃりして肌につやがでてきたのだった。(p251)」

一番目と二番目は権力がまだひよこ状態での権力機構といえるだろう。三番目は商業施設にすぎないのに、その最新西洋日用品のもっている非常な輝きとそれを普通の朝鮮人は買えないという特権性でやはり、権力的落差を存在させていた。

数百年続いた極度に集権的な王・国家・官職への両班の崇敬と、この3つの権力性を同一視することはもちろんできない。生きるためにいくらかの金を入手するためだけの職の入手において、思いもよらない権力関係と交渉しなければならないことになるとは、大学に入ったばかりの女の子には思いもよらないことだった。

 [1]10/25投稿だが、自伝3部作の第一「新女性を生きよ」と並べるため、「記事公開日時変更:9/14に」

References

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1 10/25投稿だが、自伝3部作の第一「新女性を生きよ」と並べるため、「記事公開日時変更:9/14に」

『新女性を生きよ』朴婉緒を読んで

『新女性を生きよ』朴婉緒の自伝3部作の最初。大ベストセラーになった。やっと読み始めたが、とてもおもしろい。[1]「どこにでもあったあのスイバは誰が食べつくしたのか」が原題。『新女性を生きよ―日本の植民地と朝鮮戦争を生きた二代の女の物語 … Continue reading

彼女は1931年生まれ、開城(松都)近くの片田舎の両班の家に生まれる。その田舎の小村は両班が2軒、非両班が16軒ほどで、農地は村人が所有する格差の少ない村だった。

「厠の角から裏山に通じる道には露草がびっしり生えていた。きよらかな朝の露を含んだ藍色の露草を無残に踏みしだくと足は自ずと洗われ、爽快な歓喜が樹液のように地面から体に立ちのぼってくる。衝動的な喜びをどうしてよいかわからず、露草で笛をつくると細くふるえるような音がした。p65」
自然がたんなる自然ではなく、実存と直接交流するかのようなダイナミックな記述。ほぼ同世代の作家である森崎和江、石牟礼道子(ふたりとも1927生)に通じるものがある。

しかし彼女はそのような小ユートピアから離れ小学校に入学するためにむりやりソウルにいくことになる。これは、彼女の母親が〈新女性〉というものにやみくもな憧れを持ち、自分が叶えられなかった望みを娘に託そうとしたからだ。
「お前もソウルで学校に通わなくちゃ p33」
試験がある。「“お前は何だってちゃんとやれるはずだ”と言いながらも母は、一日に何度も予想問題を出してわたしを疲れさせた。p45」合格。
「入学すると同時に朝鮮語は一言も使えなくなり、目に見えるものと行動を日本語で反復して注入された。p63」
「先生は美しく、匂うようだった。母がいう新女性がこの先生だ、とのぴったりの見本を目にしたようだった。子どもはみんな先生を慕う。(略)きれいな先生は心もやさしくて、親鳥にピョコピョコついてまわるひよこのような子どもたちに、注意と愛情を平等に分配しようととても神経を使っていた。」
一人ひとりの子どもに配慮するゆきとどいた教育、しかしそれは「日本語の強制」というトゲとともにしか与えられないものだった。というかそれは多くの人が望んでも得られないものだったのだから「強制」とも少し違う。植民地に生きるとは、すべての希望が結局のところ日本、日本文化に集中していく、そのような構造のなかで生きることと、それへの反発の体験である。

「新女性を生きよ」というのは、朴婉緒の母親から朴婉緒が受けた命令、祈りのような命令だ。朴婉緒の母親は「新女性」にあこがれ、朴婉緒をそのように育てようとした。
「母の実家も似たりよったりの田舎だが、外祖母(母の母)がソウルのかなりの家で、朴積谷に来る前の娘時代のひと頃をソウルの叔母たちと過ごしたことがあったらしい。いとこたちが真明とか淑明とかの女学校に通っていて、それがこの上なく素敵に思え、うらやましかったらしい。母は肩つりのチマを着て革靴をはき、新式の教育を受ける女性たちをひとからげに新女性と呼びならわし、わたしもそのように育てるのが願いだった。p17」

21世紀のわたしたちはすべての欲望を体験した後なおも、女子高生たちの素朴な明るさを愛している。まして百年近く前のソウルの女子高生たちはどんなに輝いていたことだろう。
「母」は、近代や自由というものつまりはまるごとの世界への熱い希求を「新女性」ということばに賭けた。そして思い込みが強い性格である彼女は、その希求をまるごと朴婉緒に投入する。
それが「お前もソウルで学校に通わなくちゃ p33」である。

韓国の歴史を語るときに、親日/反日という価値基準は外せない。しかし、1945年8月までは日帝が韓国を全面的に植民地支配していたのであり、何をやるにしても日帝の権力にすり寄っていくことはほとんど必須のことであった。民衆はいつも日々のささいな利益のために権力にすり寄るものである。そうしたふるまいをあとになってすべて、「親日行為」とイデオロギー的に断罪するのは乱暴であろう。
しかし、そうしたことを無条件に許してしまえば、「誇り」が崩壊するのであり、虐げられた民にとっては「誇り」もまた必須のものであるのだ。

「日本が負けたことをわたしたちが知ったのは、一群の青年たちが、突然棍棒を持って家に押し入ってきたからだった。彼らは仲間うちで嬉々として戯れるかと思うと肩をそびやかし、ガチャンガチャンと家財道具や扉をたたき壊し始めた。」p150

1945年8月15日、日本が負けて、今までの権威日本の権威はゼロになる。それぞれの地域で「親日派」として権勢を奮っていた人の家は襲われる。ただ、朴婉緒の(祖父の)家は地元でさほど恨みは買っていなかったようだ。
「この日、我が家が受けた暴力は深い怨恨に色どられた組織的なものではなく、急に抑圧が解けて抑えつけられていた力がそんなふうに噴出した一種の祝祭行為だったといえる。青年の暴力はいくつもの村をめぐっていくうちに自然に鎮静していき、(略)」p152
数年後の朝鮮戦争時には「青年団とか自衛隊とか左翼とか右翼とかいう政治的なもの」が人の心を入れ替えてしまい、信じられないような暴力が横行することにもなったのだが。

朝鮮戦争時朴婉緒一家はソウルに住んでいた。避難が遅れているうちに前線が家を通り過ぎて行き、“一晩で世の中がひっくりかえった”。兄は(北側の)「義勇軍に持っていかれた」。
三ヶ月後、「世の中がまた、ひっくり返った。」p215 米軍がソウルを制圧したのだ。そのような中で、義姉は男の子を出産する。

「青年団とか自衛隊」とかいう愛国団体がたくさん出来、アカ狩りにせいを出す。告発と密告が荒れ狂う。理解はできるが悲惨なできごとである。

そして大きな問題は、右か左かという分断は若者個人個人の実存の内部にも走っていたことである。
兄は共産主義関係のパンフレットなども持っており、朴婉緒も影響を受ける。(p170)女学校にも民青の組織があり、南山でのメーデーの集会に誘われ出席する。彼女はそれ以上は目立った活動はしていないが、それでもアカとして調べられ、アカメスと呼ばれる。(p218)

右か左かという分断が首都、大きな町の上を砲弾とともに通り過ぎていく。それとは別に、右か左かという分断をはんらかの形で自分自身の内部にも(あるいは家族のなかに)抱えている人は少なくないのだ。

苦しく巨大すぎる問題が首都と自己の核心を捉えて全身を塗り替えていく、ありえない体験。多くの韓国・朝鮮人はこうした体験をした。

ただこの小説はそれを書こうとしたものではない。まだ少女だった自分と家族が世の中の流れに流されるなかで体験した(せざるをえなかった)事実を記したもの、に過ぎない。ただ庶民といえど、ただ受動的に流されたばかりではない、希望を持ち決断し挫折する、そのような時として滑稽なせいいっぱいの生き方が描かれる。
両班の長男の嫁という立場にも支えられた「母」の自然で強力な誇り(自恃)も印象的である。かって私たちの間にも少しはあったそれを、わたしたちは思い出すべきだろう。

References

References
1 「どこにでもあったあのスイバは誰が食べつくしたのか」が原題。『新女性を生きよ―日本の植民地と朝鮮戦争を生きた二代の女の物語 教科書に書かれなかった戦争・らいぶ』梨の木舎1999年刊 「日本の植民地と朝鮮戦争を生きた二代の女の物語 教科書に書かれなかった戦争・らいぶ」という副題は、この小説から歴史を学ぼうという問題意識だけが強調されすぎ不適切と思う。

テロリストに非暴力を求めるな!

アーノルド・ミンデルの『紛争の心理学』講談社現代新書、はとても興味深い本だった。ちょっと引用、紹介したい。(この本は現在入手不可能に近いが、図書館にはある。)
「テロリズムの特徴は、平等や自由を目的に、権力を持たないグループが主流派に対して攻撃することである。
主流派に対する手当たり次第で道理に合わないと思われている暴力は、実際には、自由のために闘う人々が苦しんできた傷を埋め合わせる試みである。その目的は、権力を持つ人々に社会変革の必要性を気づかせることだ。テロリストの観点からすれば、自分たちが傷つけたり殺したりする主流派の人々はすべて、無辜の犠牲者ではない。主流派の人々はすべて、たとえ消極的なだけだとしてもテロリストが闘っている抑圧に関与している。」(p157)

21世紀は「米国同時多発テロ事件」から始まったとされ、特に日本ではテロリズム=絶対悪という用語法しか許されない、人々の思考もその枠内で動いている気がする。しかし本来、ミンデルの言うとおり「政治的な目的を達成するために暴力および暴力による脅迫を用いる」という意味である。独立運動などもテロリズムから始まることが多い。1970年代アメリカ西海岸で発達したニューエイジ心理学といったもののなかから、ミンデルさんは出て来た方なのだろう。主流派の人々が支配するこの社会、ひととひとが対等に向き合っているように見えてもすでにさまざまな権力関係が埋め込まれていることを、に批判的に分析していく。
歴史とは大なり小なり動乱なのであって、自由のために闘う人々がテロリズムという手段を行使することはありうる。「テロリズムは文化変容の必要性がありながら、それが妨げられているときの時代精神である。」p154とミンデルは書いている。

「私のテロリズムの定義は、心理的な苦痛の原因となるグループ・プロセスにおける復讐を含む。過去の暴露や暴力的な脅かしは、この範疇に入る。
わたしたちはこのようなテロリズムをしばしば体験する。たとえば、ある異性愛の女性が、パートナーに「私の要求に答えてくれなければ、出ていくわ」といったとしよう。彼はこれをテロリズムとして体験する。彼女は、今にも関係を終わらせるような勢いで迫る。彼女は、相手が自分の欲求を大切にしてくれないと感じ、関係を破壊することだけが満足のいく目覚めをもたらすと考える。」

話が急に家庭内の関係、たぶん日本人でもよく体験するような、に移る。新聞のニュースになるような大きな政治的テロリズムと、小さな夫婦喧嘩が同質だと、ミンデルは真面目に考えている。
主流派男性が少数派の不満に耳をかさず、黙ったまま抑圧関係を持続させられると思っていたら、少数派は我慢ができなくなってテロリズムに訴えた、という話である点で同質性があるわけだ。

「意図的あるいは無意識的なランクの乱用」というものによって、「若者や女性、貧しい人や有色人種、高齢者、ゲイやレズビアン、「犯罪者」、虐待被害者」たちは、耐え難い抑圧の持続にさらされながら、それを虐待であると告発することができない。反応を禁じられて最後に暴力という形で表現することしかできなかった。したがってこのような場合、暴力的な反応に恐怖し、過剰防衛したり、法的に処罰を求めたり、スキャンダルとして社会の笑いものにしようとしたりするのは、まったく不適切な対応となる。

(さてここで「ランク」という言葉がでてくる。これはプロセスワーク理論にとって最も重要な概念。自分で気づいていないさまざまな特権やパワーを私たちはすでに持っているという考え方。社会的/構造的/文脈的/心理的/精神的など。)

個人が公正に闘うには、大きすぎ、強力で圧倒的な人々や集団によって、抑圧的な状況が作り上げられているのだ。そういったばあい、「テロリストは私たちみんなの中に現れる。」
主流派を乱し、脅かす、いわゆる「病理的、境界例的、精神病的」な人々は、実は、世界を変革する可能性を持っている、と考えるべきなのだ。

特に日本では調和が重んじられ、集団内部に対立を顕在化させることは極端に嫌われる。会議でさえ議論のない会議の方が良いとされる。まそれは、森喜朗氏の件で分かったように、既成の大ボスの権威を少しでも傷つけないという、ただの権力維持である。自由な意見交換を抑圧したことは、日本の経済発展にさえマイナスになったかもしれない。

民主国家はみなが平等であるという建前に立つ。異論があればそれぞれ発言すれば公正な議論によって公正な結論を得ることができることになっている。しかし実際は、少数派は自身の〈ランクの低さ〉によって自由に発言できない。絶望や抑うつ、憤怒といった問題に囚われている。それに対して、権力を持つ人々は、実は暗黙のうちに「おまえたちには耳を傾けたくない。おまえたちやおまえたちの問題は重要ではない。その問題と一緒に私からは離れていてくれ」という雰囲気を漂わせている。シグナルやジェスチャーや座る場所などで。
このようなちょっとした雰囲気の悪さといったものを、ミンデルは、〈ゴースト間の闘い〉として描写する。主流派のゴーストは「座れ、静かにしろ。誰がここに招いてやったんだ。云々」という。マイノリティのゴーストは「目覚めろ!お前は試されているんだ!おまえたちの家を爆撃するぞ。云々」と言う。

北アイルランド紛争の対立する当事者の集まりに招かれたミンデルは、最初やはりテロリストの側がたんに無作法であるかのように見えてしまっていた。
しかしそうではない。テロリストと呼ばれる彼らの怒りや傷つき、変容への欲求を理解しなければならなかったのだ。
ベルファストのある男性は、子供の頃、英国秘密諜報部員に父親が頭を撃たれるのを見た。彼は許すことができず大人になってテロリストになった。ある時牧師に話をすると牧師は彼の復讐心を理解した。心から同情的になったするとテロリストも変化した。

マイノリティに必要なものは、パン(経済的サポート)、自由、そして尊敬だ。しかし、主流派が彼らの悩みを推測し与えてやるということでは問題は解決しないだろう。そうではなく彼らに彼ら自身の問題を語ることを促すのだ。聞き手は、彼らの問題をオープンに取り扱うため、彼らを発見し支えようとし、そうであることを彼らの理解させなければならない。そうすれば解決は近づく。しかしその場で和解が達成されたとしても問題は解決したわけではない。不平等、不公正でない社会の達成は困難だ。

主流派も苦しんでいる。テロリストはある種の霊的ランクを有しているのだ。正義において、また死を恐れないという点で。
それをはっきり認識するのも大事なことであろう。しかし話し合いの現場ではたいてい、主流派がもっと包容力を示すことが、相互に変容していくことを促すことになっていく。

アーノルド・ミンデルの『紛争の心理学』という本の第6章を、書き写し的に紹介してみた。わたしにとって新しくまた貴重な考え方であると思ったからだ。
社会的・政治的な問題はそれ自身として解決すべきであり、心理的に解決すべきではない、というのは真実だと思う。しかし紛争/紛争解決は心理的問題でもあり、その時に、平和、安全、非暴力などを少数派に強要するだけでは問題解決にはならない。そのことを学ぶのは価値あることだと思った。(7.28一部修正)

『光州 五月の記憶』尹祥源(ユンサンウォン)評伝について

 『光州 五月の記憶』は、1980年の光州事件を、若くしてこの闘いに倒れた尹祥源(ユンサンウォン)の評伝という形で書ききったもの。この大きな事件に近付こうとするとき、比較的理解しやすい一つの方法だと思える。

 現在の全羅南道光州広域市光山区に 尹祥源(ユンサンウォン) は1950年に生まれた。二浪し1971年に大学入学。半端な気持ちを持て余し演劇部に入部。彼は新人でありながら「オイディプス王」の預言者テイレシアスの役になった。
 ところで、私(野原)もたまたま同じ年に大学入学し、演劇サークルに入った。わたしはその続編にあたる「アンティゴネー」で盲目の預言者テイレシアス(同じ人)のいざり車を引く童子の役になった。違った国、違った大学であっても同時期に同じようなことをしていたので、私は尹祥源をまんざら他人とは思えない気がした。どちらの芝居でもテイレシアスは台詞の多い難役であるが、童子は役というほどでもない端役。尹サンウォンは歴史に名を残すことになるが、私は(あえて言えば幸いにも)どんな劇的ドラマにも参加せず、「幸せな老後」を迎えようとしている。

 尹サンウォンは大学1年の時演劇部で活躍したが、二年に成らずに休学し令状を受け取り軍に入隊した。そして75年に復学した。彼は社会運動に目覚め、当局の厳しい監視を受けながら、狭い自室を開放しつつ熱心に学習会に参加した。彼は迷った末、卒業し銀行に就職する。収入など急に改善されたが、困窮のうちに生きる下層労働者や闘って弾圧される後輩たちと違った生き方を選択することができず、銀行を辞めてしまう。そして光州に戻り、工場労働者になったり、野火夜学という夜学に出会い、熱心に参加していくことになる。

1979.10.26、独裁者朴正煕は殺される。翌年春から民主化を求める民衆・学生の活動は各地で活発になった。5月14日から3日間、光州では全南大学生を先頭に大きな大衆集会が続いた。

5月17日、深夜までに金大中、高銀など民主化運動指導者と金鍾泌ら旧軍勢力を含めた多くの人が逮捕され、戒厳令が強化された。全斗煥のクーデターである。
18日朝、空輸部隊はいち早く全南大学を制圧していた。学生たちは二、三百人が正門前で抗議しようとしたが、兵士たちは棍棒を激しく振り下ろし流血の惨事となった。今までの警察のやり方とはレベルの違う残虐さだった。しかし、市中心部(錦南路)など場所を変えながら、学生たちは抵抗を続け市民もそれを支援した。
 
 空輸部隊の暴力はあまりに凄惨だった。「罪もない学生を銃剣で裂き殺し、棍棒で殴りつけてトラックで運び去り、婦女子を白昼、裸にして銃剣で刺した奴らは、一体、何者だというのでしょうか?」光州市民民主闘争回報。このビラを作ったのが尹サンウォンと彼の仲間の夜学グループだった。空輸部隊などの圧倒的暴力を見て、恐怖に震えながらも、市民たちは戦い続けた。

5月22日、驚くべきことに市全域から戒厳軍が完全に撤退した。
「粘り強い市民の武装闘争で勝ち取った自由光州解放区……、あれほど恐ろしく強大だった軍部の権力を、民衆の力で打ち砕いた解放光州……。この感激的な勝利をどう守っていくのか。」[1]p180
重傷者への輸血のための献血者も殺到した。身元不明の遺体は道庁向かいの建物に整然と並べられ、家族たちが確認に訪れる(ハンガンの『少年が来る』に描かれた情景)。

しかし圧倒的強力な武力、国軍に包囲されているという絶望的情況は変わらない。この情況において、地元有力者らが「収拾方策」派として登場した。武器を回収し戒厳司令部に引き渡すしかない、というのだ。この主張を代表していたのが学生の金チャンギルであり、一時道庁のヘゲモニーは彼に握られる。

収拾派は言う「政治的、理念的話はしない。人道的、平和的に事態を収拾する。」しかし、ここでそれを了承すれば、死んだ者たちには「政治的、理念的」意味はなかったことになる。すぐに秩序は平穏に戻り、国軍の権威は100%保持されままになる。無垢の市民が殺されたことなどなかったことになってしまう。

5月26日午後、尹サンウォンは外国人特派員の前で会見を行う。
「光州市民と全南道民は、このような殺人軍部の蛮行に対して、蜂起したのです。空輸部隊を追い出すために、われわれは自ら武装したのです。誰かが強要したのではありません。市民が自分の命を守り、さらに隣人の命を守るために武装したのです。軍部のクーデターによる権力奪取の陰謀を粉砕し、この国の民主主義を守るために蜂起したのです。」
「私たち市民は、この事態が平和的に収拾されることを望んでいます。そのためには戒厳解除、殺人軍部クーデターの主役、全斗煥の退陣、拘束者の釈放、市民への謝罪、被害の実態究明、過渡的民主政府の樹立などの措置が必ずとられなければなりません。そうでなければ、私たちは最後の一人まで闘うつもりです。」[2]p211

27日「今夜十二時までに武器を返納しなければ、市民の安全は保証できない」という戒厳司令部の最後通牒が発せられた。
28日午前2時ごろ、尹サンウォンらは最後の戦いのための体制を整えようと、武器庫で武器を配った。尹サンウォンはまず言った。「高校生は外に出ろ。われわれが闘うから、君らは家に帰れ。君らは歴史の証人にならなければならない」

「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。この国の民主主義のために、最後まで団結して闘いましょう。そして全員が不義に抗して最後まで闘ったという、誇るべき記録を残しましょう。」

日本の戦後民主主義は、ここまでの緊張関係を生み出すことはなかった。したがって「命を掛けて」という修辞はどうしても多少浮ついたもののようにわたしたちに感じられてしまう。
日本人は戦後新しい国家と憲法を手に入れ、それが保証している民主主義は大きなところでは揺るぎないものだとわたしたちは信じていた。しかし安倍・菅政権は少し様子が違う。コロナ対策でも合理的とは言えないgotoトラベル政策とかを強行し、支持されているわけでもないオリンピックを強行しようとしている。このまま憲法「改正」にならないとも限らない。わたしたちと国家の関係が破綻すれば、悪である国家を倒すために命を投げ出すという尹青年のような生き方をも、身近に想像することができるようにならなければならないのかもしれない。

尹サンウォン、鋭敏な彼は何らかの形で韓国も、十年二十年後は日本のようになる可能性も感じていたかもしれない。「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。」かれは文字通りそれを信じようとしただろう。だが自分より若い青年たちの前でそう言い、死に駆り立ててしまうこと、それは大きな痛みなしにはできないことだった。

戒厳軍が道庁内部に入ってきたとき、彼は道庁民願室二階の会議室で旧式カービン銃を持っていた。彼は腹部を撃たれ倒れ、絶命した。

これが10日間の光州事件(光州蜂起)と尹サンウォンの物語である。
暴力や革命について論じたい人は、我々に近い国、近い時代のこのような例も確認しておいた方がよい。

追記:『ニムのための行進曲」の作曲者(キム・ジョンニュル)による歌唱  光州事件の犠牲者で市民軍の指導者ユン・サンウォンと1978年に不慮の事故で亡くなった労働活動家パク・ギスンの追悼(霊魂結婚式)のために制作された、とwikipediaにある。

References

References
1 p180
2 p211

〈現状態に対する本源的拒否〉の思想

 黄晳暎(ファンソギョン)の小説を何冊か読んでかなり好きになったので、黄晳暎論でも読もうかと思って図書館を探すと、金明仁(キムミョンイン)という人の『闘争の詩学』副題が「民主化闘争の中の韓国文学」という本があったので借りて見た。第7章が黄晳暎論である。つまり軽い気持ちで借りたのだが意外と真剣に読み込まなければという気になってきた。

 この本の後ろには14ページにも渡る「韓国民主化関連年表」が添付されている。批評家の本としては異例のことだという気がする。日本でも全共闘運動のころまでは、新日文、近代文学などなど、左派運動(政治)と関わりのあった文学運動はあったが、それ以後はむしろ政治的なものの一切をタブーとするかのような文学観に支配されているようだ。
 それに対して、明仁は、こう語る。「私にとって文学は世の中を変える方法や道具の一つですが、1980年代の韓国文学はまさにそのようなものでした。[1]同書p8

 「私にとって文学は世の中を変える方法や道具の一つ」という言い方は反発を呼びそうだが、ゆるやかな意味ではそれほどおかしな意見ではない。 民族=国家が成立していないために、まずもってそれを追求することが、文学にとっても課題にならなければならない。そういうことは理解できることだ。1945年の光復以後は、まずネーションが模索された。それ以後も独裁の否定、民主化の達成は文学の課題でもあった。
 「世の中と対抗することの美しさを示し、今とは異なる世の中をみちびく熱い啓示でぎっしり埋まった文学」こそが、もっとも美しい文学であり追求されるべき価値であるという、初心を明仁は数十年経っても捨てていないようだ。
それは時代遅れの文学観に感じられる。ただそれだけでは批判にはならない。

 韓国では〈学生を中心とした激しい反政府活動(デモなど)による独裁の崩壊→(束の間の春)→軍事クーデター〉という波が、戦後史において三度起こった。
A 60.4.19→5.16 朴正煕独裁へ
B 79.10.26→80.8.27 全斗煥大統領へ
C 87.6.10→12.16 盧泰愚が大統領に選出される
(D 2016-2017.3月 ろうそく革命は勝利に終わった例外 )

 C 87.6.29民主化宣言で長年の軍事独裁体制は崩壊した。しかし、明仁は「重要なのは労働者階級の動向だ」と考えていた。7,8月から切望された労働者大闘争が始まった。毎日のように民主労総結成闘争のニュースが聞こえてきた。しかしその本質は結局単に労働現場におけるもう一つの民主抗争にすぎず、労働法改正などで一定の権利を獲得するや、その生命力を減じていった。[2] p41

 そして、三度目は軍事クーデターではなく、大統領直接選挙による民主主義的な選出(平和的政権交代)で終わった。「1987年を契機に韓国社会は、軍部クーデターという後進国型政治変動との断絶に成功した[3]p25」という点では画期的だった。

しかし、全斗煥の協力者であった盧泰愚の勝利に終わったという結果は、明仁にとって限りなく苦いものであった。
70年代後半以降の民主化運動の長い歴史、光州以後のそれでもつむがれた夢、「労働者階級が主人となる近代的国家」への夢、それは〈統一〉も含むものであり、全的な解放をなんらかの形で実現すべきものだった。その夢は裏切られた。選挙という民主的方法によって裏切られたことは、彼らにとって自分の思想を一部変更せざるをえないほどショックなことだった。
 明仁たちは観念的過激化し、北朝鮮の主体革命理論か、速戦即決的なボルシェヴィズムに傾いた。死への傾斜をも孕んだものだったと言えるだろう。同時に、東欧社会主義国の崩壊があった。

 韓国におけるB79年からC87年の経過は、日本の60年安保から68_9年大学紛争の経過に類似するようにも思う。そうすると、明仁たちは「観念的過激化」は、70年代始めの赤軍派〜東アジア反日武装戦線の空気に似ている(だろう)。

「わたしたち」はすでに内的解体の危機をかかえていたので、運動は急速にしぼんでいった。明仁は「民衆的民族文学」という批評的準拠を持ち、基層民衆の文学的・文化的解放のための実践を模索していた。しかし常に観念が先んじて現実と交差しえなかった。[4]p45
 明仁にとって、文学・思想は政治的活動と一体のものであったから、挫折は全身的なものであっただろう。明仁は「運動」と関係を断ち、大学院にいわば亡命した。それぞれが生きる道を探しに出た。そして、共同体的な連帯や規律などを捨て、個人になることで、90年代の新しい社会へ入っていった。

 このような「いわば亡命」の過程は、(全共闘体験からの)高橋源一郎、加藤典洋、笠井潔といった人々も経ているものだろう。明仁の場合が、今までの左翼性・全体への夢を捨てないという点で、またまずそのプロセスを明らかにしようとする誠実さという点で、もっとも分かりやすいかもしれない。

 1980年代には金明仁のような左派的文学が主流だったのだが、90年代には個人主義的文学の時代になった。「わたしたちは近代を生産するはつらつとしたブルジョア的個人を持つ機会[5]p47」がなかった、と明仁は述べる。だから「1990年代以降の個人の発見、あるいは発現は、このような点から見れば「抑圧されたものの回帰[6] p47」としての切迫性があると思う」と続く。
 「個人」とは何らかの抑圧的集団性からの脱出を意味するだろう。それは「抑圧的な軍事独裁体制と国家独占資本体制が作り出した「国民」という全体主義的集団性と、その全体主義に対して戦う過程で形成された「民衆」という集団性、その異質な二つからの脱出という契機をもったものであるはずだ。[7] p47
 「しかし、国民であることは十分に克服されず、民衆であることは十分に実現されえなかったから」、「目覚めた主体としての個人」は成立しなかった。新自由主義的市場体制と言う支配のなかでの、孤立した労働者かつ消費者としての「単子」的存在となったにすぎなかった。 [8]p48 孤立した労働者かつ消費者としての孤立した存在というのは日本でも同じですね。

 抑圧的な軍事独裁体制からの抑圧を考えるとき、日本では次のような例がある。1933年の小林多喜二の死。それから十年以上後の、1945年8月9日の戸坂潤と一ヶ月後9月26日の三木清の死。45.8.15は彼らを抑圧した軍国主義の終わりであることは明らかだった。三木は影響力のある作家だった。だのに誰もの彼を奪還しに来なかった。彼らと民衆との連絡はすでに途絶えていたのだ。三木たちは敗戦は予感できただろうから混乱後の日本に希望が持てたなら、なんとしても生き延びようとしたのではないか。彼らが死んだのはすでに絶望しか持っていなかったから、民主化後の日本に対しても、ということが言えるだろうか。そうは思いたくないが、戦後70年の民主化の敗北後の日本においては、そういう思いもある。

 70年代から87年までの独裁政権から民主派青年たちに対する弾圧は、日本の上記のような弾圧以上に激しいものであった。最大の虐殺は2万人近く(?)殺された1980年光州事件だった。これは限りなく痛ましい事件だ。しかしそれは民主化運動が学生やその周辺のインテリだけでなく多くの民衆を巻き込んだ巨大な運動になったからこそ可能になったのだとも言える。日本の60年安保もデモに参加した人数などでは負けてはいない、しかし死の危険性ある抵抗運動に果敢に立ち上がるといった点で、つまりその思想的深さにおいてかなり及ばないものだった。
 過激な運動ができるから偉いとかそういうことではないが、権力の暴力に向き合う腹の座り方については、やはり日本はまだまだと言うしかなかろう。2011年以降、反核など市民運動はそれなりに盛り上がったがやはり2,3年で下火になった。そこにも同じ弱さがあったと言えるだろう。
 「私は元気でない国の一知識人として、それよりもはるかに元気でなくなってしまった隣国のみなさんに、言葉にならない憐憫と連帯感を感じるようになりました。[9]p7」金明仁は、日本人が怒るだろう「憐憫」ということばをあえて使って、連帯感を表明している。

 さてもう一つの問題、その全体主義に対して戦う過程で形成された「民衆」という集団性からの脱出という契機とは何だろう。
そこには一つには、大衆の反政府闘争の主体が、依然として学生や知識人、在野勢力中心の人々でしかなかったという問題がある。「労働者階級を含めた基層の民衆が、自らの利害関係を越える政治的覚醒[10]p38」をなしうるかどうか、それが問題だと金明仁には思われた。AもBも労働者階級の組織的闘争につながらなかった、だから失敗した、と明仁はマルクス主義者らしく考えていた。
 7,8月から切望された労働者大闘争が始まった。毎日のように民主労総結成闘争のニュースが聞こえてきた。しかしその本質は結局単に労働現場におけるもう一つの民主抗争にすぎず、労働法改正などで一定の権利を獲得するや、その生命力を減じていった。[11]p41 資本家階級は労働者階級が革命的に転換することをギリギリ抑制させる程度の何かを労働者に与えることはできる。したがってほんとうの意識変化にはたどり着かない、これが金明仁の判断だった。

 「抵抗する集団性」をどう克服するか考えるときに避けられないもう一つの問題は、南北問題である。光復から朝鮮戦争の時期、民族を回復しようとする運動に参加していった人の圧倒的多数は左派系の人々だったので、彼らの多くは越北した。であるにも関わらず北の共和国はその人びとの思想と努力を活かすことができず、逆に国家首領独裁体制に対する異分子として抑圧され続けた。にも関わらず、南の絶対的反共国家のなかの抵抗者である民主派の人びとは北の実像を知ることもできず、心のどこかで本来の共和国の栄光という幻を保存し続けた。金明仁のこの本はそのような事情は良かれ悪しかれ全く書かれていない。[12]p228に、黄晳暎の『客人』について「分断克服という顕在的課題に対する一つの、歴史的であると同時に美学的回答」と書かれてあるだけだ。

 新しい「市民運動」。「人権、女性、環境、教育、消費者、多様な形態の政府監視など、いわゆる非政府機構の運動や多様な形の市民キャンペーン運動」が生まれ、過去の「民族民主運動」に取って替わっていった。
 「この運動は1990年代序盤の「呪われた転換期」を過ごす間、私たちが陥っていた虚無と冷笑、無気力と精算主義を身軽に越えて、支配ブロックの一方的な独走に対する牽制体制を構築した」意義ある運動形態だったと評価しうる。

 これは、日本では2011以降のたとえば、シールズ(自由と民主主義のための学生緊急行動・SEALDs)などと同質なものであると理解できる。限定された主題に対する明確な獲得目標、優れたデザイン感覚によって大衆の支持を獲得する、自己組織内の意思決定過程の透明化など、民主主義的で平明な感覚は人気を呼んだ。本書などによれば、韓国では20年以上前から着実に育ってきているものだったようだ。
 しかし、それは資本家階級の究極的支配とヘゲモニーに挑戦するという問題意識がない。階級運動ではない市民社会運動だ。革命運動ではなく改良運動だ。権力の獲得を目的としないという点で政治運動でもない、と金明仁は指摘する。

 ところで、80年代の運動が「権力獲得を目的にした革命的階級運動」だったか、というと実はそうも言い切れない。それは情緒的・観念的には過激だったが、本質上民主化運動に過ぎなかった。だから民主化を果たした後に、より「クール」な市民運動へと転換していくのは自然なことだった。[13]p50しかし、その夢想のなかには強力な力があった。それは現状態に対する本源的拒否の力である。人間が人間を搾取して疎外する世の中の土台と上部構造全体を総体的に変革すべきだという、非妥協的な精神の力がその核心にはあった。1990年代以降の市民運動にはこのような力が欠けている。[14] p50その場合市民運動と労働運動は、永遠にブルジョア支配社会の周辺部的な付属物であるにすぎない。

 新自由主義とは、「資本の運動を阻むすべての障害や境界を撤廃し、人間と地球に属するすべてのものを商品化し植民化し搾取[15]p51」するシステムである。そして「無限開発と無限競争」という考え方だけが唯一の真実であると強力に宣伝することを伴う。日本では服従原理主義を内面化しないと、おおむねどんな仕事にもつけない。そのように、このようなすべてのことはほとんどまるで「世の中の法則」であるかのように受け入れられてしまっている。

 半分疑いながらもそうした宣伝を少しは受け入れざるをえないわたしたちにとっては、〈現状態に対する本源的拒否〉という思想はまったくありえないものとしてある。現代日本においてはもはやそれを見つけることすら難しい思想として、それはある。であるので、この文章を読んだ時、わたしはタブーを破ったような罪悪感とともに、びっくりしたのだ。

 それにしても、〈現状態に対する本源的拒否〉という思想を肯定しても良いものだろうか。わたしたちは現体制なかで生まれ育ち教育をされ、雇ってもらっているのであれば、そのような全体に対するNONというものは論理的にありえないのではないか。「人間が人間を搾取して疎外する世の中」自体を根底から変革することができるとマルクスは言った。それが正しいかどうかは私は分からない。それでも社会の分かりやすい不正や矛盾すら現体制は是正してくれない。そうだとすると現体制で通用する理屈を越えて正義をそこに要求していくことは正しいことだと思う。
 要求をすることは正しい。しかし、〈本源的拒否〉とはなにか。

 全世界に目を向けると、「反グローバリゼーション、下からのグローバリゼーション、反米運動、エコフェミニズム、マイノリティ運動、再解釈されるアナーキズムやトロツキズムなど、「現状態」を越えるための世界的レベルの理論的・実践的努力」がさまざまに存在している。
 わたしたちはともすれば勘違いしてしまっているが〈現状態〉は決して一枚板の変えがたいものとして世界に君臨しているわけでない。学校、職場、知識その他さまざまな諸力のがまず、「私」自身を作りた、そうした多くの個人が動かしがたいかの秩序として現象する。さまざまな方角からそれを揺るがそうとすることはできる。

 この世の中は構造的に絶対多数の不幸と絶対少数の幸福を生産する世界だ。それが確かなら、私は世の中に同意できない。こんな世の中のために、あのように長年獄中で苦労してきたわけではない。と明仁は言う。
 そうではなく、覚醒した個人の主体性を堅持しながら、人と人の間、人とすべての生命の間の共同体的な連帯意識をふたたび回復することはできる。「人間も他の生きとし生ける物も、自らの生と他者の生の自由と解放を獲得するまで戦わなければならない。[16]p54」と明仁は言う。

 この世界の外部はない。なぜならわたしたちは事実上、この犯罪的世界の共謀者だからである。と明仁は一旦言い切る。そして次に「しかしこの世界の外部はある。わたしたちは常に懐疑し省察して、他の世界を夢見る存在だからである[17]p55」と彼はそちらの方を強調する。
「はてしなくこの世界の外部を思惟し、他の世界に思いを致さないかぎり、またこの世界を自分自身の内部から拒否しないかぎり、この世界は絶対によくならないからである。[18] p55」と、明仁は最後に言い切る。

 私たちは「はてしなくこの世界の外部を思惟する」ことができる、これは認めることができる。それでは世間に通用しないよ、と言われるだろうか?反抗の根拠は別にどこかの条文とかそういうところに存在する必要はないのだ。〈幻のコミューン〉といったもののリアリティがそこにあるだけでもよい。自己身体の叫びといったものでも良い。
 〈現状態に対する本源的拒否〉は存在する。ただ、そこからすべてのものが流出する〈幻の党本部〉のごときものであってはならないだけだ。
(以上)

References

References
1 同書p8
2 p41
3 p25
4 p45
5 p47
6 p47
7 p47
8 p48
9 p7
10 p38
11 p41
12 p228に、黄晳暎の『客人』について「分断克服という顕在的課題に対する一つの、歴史的であると同時に美学的回答」と書かれてあるだけだ。
13 p50
14 p50
15 p51
16 p54
17 p55
18 p55

黄晳暎『客人』を読んで

1, キリスト教徒青年たちによる殺戮


黄晳暎(ファンソギョン)の『客人』という小説、2003年に出版され翌年すぐ翻訳された本(岩波書店)、すこし古びた本を図書館でなんとなく手に取った。(訳者鄭敬謨、チョンギョンモ)

この小説はすごい。非常に残虐な出来事を直視し、書いているがエグくならず押し付けがましくもなく読むことができる。非常に大きなテーマを見事に描ききった傑作だと思う。

柳ヨセフ牧師がその兄柳ヨハネ長老に会いに行こうとする。38度線のすぐ上黄海道の、ソウルの西北方向にある小さな村、信川(シンチョン)、彼らはここで生まれ育った。朝鮮戦争時、この村でおおきな事件が起こりその当事者だった彼らは故郷を離れ、米国東海岸まで流れてきて40年経ち老年を迎えた。
ところでこの二人が主人公格なのだが、ヨハネ/ヨセフは似ていて紛らわしい。(ググるとヨハネには「神の国が近づいたことを人びとに伝え、悔い改めるよう迫った」洗礼者ヨハネのイメージがあることを知った。これは含意されていると思ってよい。)

キリスト教徒の多い地域であり二人の父も牧師だった。ここで、40年前(朝鮮戦争時)に惨劇があった。彼らはその目撃者ないし当事者だった。何十年も米国で暮らした後、ヨセフは北への旅行の機会を得るが、そのとき、自身と兄の当時の悪夢あるいは記憶がどんどん襲ってくる。重苦しい話ではあるが、事件の真相が少しづつ明かされるというミステリのようにも書かれているため、読みやすくもなっている。

日本敗北後朝鮮半島北部はソ連軍によって占領され、土地改革が実行される。大地主と企業家は先に南へ逃げ、中農と自作農が地域の上位階級になっていた。かれらはたいていキリスト教徒だった。村の作男や働き手だった小作農が、平壌に行って短い教育を受け村に帰ってきて、土地改革を実行した。差別されていた下層農民が先頭に立って暴力的に村の有力者の土地を没収する。激しい軋轢と憎悪が生まれた。南に逃げた中上層階層の子弟は極右団体を結成し、朝鮮戦争時、故郷に帰り旧秩序を回復しようとした。
「(朝鮮)戦争直前、北朝鮮全域のプロテスタント教徒は、三一節の行事と選挙不参加事件などによって、北朝鮮当局と関係が悪化している状態にあった。そのようななかで米軍が北進するや、信川、載寧(チェリョン)などのキリスト教徒の青年と右翼青年が蜂起した。最初は載寧で北朝鮮軍と党員がキリスト教徒を処刑して後退していったが、米軍が進駐する前に治安の空白地帯だった信川で立ち上がった右翼青年たちは、まだ後退できていない共産主義者とその家族に対して、報復的殺戮を加え始めた。」(黄晳暎『囚人』上p241)

私もそうだが日本人はだいたい朝鮮歴史の概要を知らないので、背景説明を少ししてみた。

2. 犬を吊り下げる

「エホバよ、主の大敵はみなこのように滅亡させ給え、彼らには哀れみを与えることなく全滅させよと言われましたが、イエス様は愛と平和を教えられました。繰り返して言いますと、我が故郷の土地を奪い、そこに住みついている彼らにも私たちと同じように霊魂があります。p9」
愛と平和という言葉に反し、「敵に哀れみを与えることなく全滅させよ」という命令にしたがったかのように、敵とみなした人々を次々と殺害していったそうした熱狂がかってあった。なにより「愛と平和」をめざしていたはずの信心深い若者たちが、殺人狂になっていくという地獄。遠くから垣間見ることさえ辛いそうした惨劇に、この小説は近づいていく。

柳ヨセフが見た夢の、どんよりした暗い夢のイメージが3つ最初に提示される。最初は意味がわからないのだが、最後まで読むとこの小説の重要なシーンであることがわかる。

最初のイメージ。
α「どんより曇った日であった。(略)
赤ん坊はシーツにくるまれておりシーツの端がひざ下まで垂れ、ひらひら舞っていた。(略)大人は赤ん坊を抱き上げ、木の一番下の枝に布でしばりつけた。p1」
残虐という以上になにやらひどく不吉なイメージである。この不吉なイメージは、この後も反復される。

β「むごたらしくもあり、血が騒ぎだすような興奮の中で私は犬が屠られる光景を初めて目撃した。犬の首に幾重にも縄を回し、ほどよい高さの木の枝にひっかけて吊り下げ、縄を引っ張る。ピンと張った縄をさらに引くと、犬は目を白黒させながら四つの足をジタバタさせる。p22」

γ「あのときオレはおじさんを電信柱に吊り下げたんだよな。p23」

αのイメージの意味は直ちには理解できない。ひと又は犬が木のようなものにくくりつけられるイメージがp22〜23に二つ出てくるのでβ、γとして、引用し考えてみよう。

βは、他人の飼い犬を吊るして食べてしまうシーンの一部。今では残虐無比と非難されるだろうが、この当時は悪ガキのいたずらとしてしかられる程度で澄んだのだろう。「血が騒ぎだすような興奮の中で」ひとは狂う、犬を屠るくらいならたいしたことはない。しかし人ならどうか。

γ、これは殺人のようだ。しかしこの頁では、幼い時にさまざまな楽しみを教えてくれたスンナムおじの亡霊との短い対話の断片として記されているだけなので、いったいどういうことなのか意味は分からない。

いったいどういうわけで、この小説はこんなふうにわかりにくい始まり方をしているのだろうか。この小説は、庶民がふとしてきっかけで大量虐殺を犯してしまうその謎を描こうとしたものだ。日本では関東大震災後に朝鮮人大量虐殺があったが、それを犯した人もちょっと前まで平穏な市民だったはずだ。
謎を謎のままで提示しなければならない。一方、読者の興味をつなぐよう、語り方に工夫が必要だ。そのためにこの小説は過去に殺されたたくさんの人物が亡霊となり、自由に現在にやってきて主人公たちと対話する、という形を取っている。主人公は過去に自分がやったことを記憶している。だがそれは思い出したくないことなので抑圧している。亡霊がやってきてひとことだけつぶやく。読者にはこの頁ではその意味が分からない。異様な感触だけを残して小説は進んでいく。

αについては、p41に説明がある。「大おばあ」つまりヨセフの祖母はこんなふうに言う。客人が流行り始めても田舎の村には医者もいない。巫祭(クッ)をしたくても金もない。(表題になっている「客人(ソンニム)」とは危険な伝染病だった天然痘のこと)何もできない。

「我が子が病に冒されるとただ胸に抱きしめていて、もう助けようがないとわかると草わらか雨具にぐるぐる巻いて夜更けに山に行くのさ。山に行って背の高い木を選んでその枝にしっかりくくりつけて降りてくる。カラスはまたなんであんなに多いのか、まだ死んでもいない体に集まってきて目ん玉を突っついて食べるんだね。子どもの父母が夜通し見守ってカラスを追っ払うのよ。そうやっているうちに助かった前例もあるので、みなで幾夜も木の下で見守りながら夜を明かしたらしいね。41」
子捨てと究極の祈りが合体しているような、ひどく奇妙な風習だ。生と死の距離が近く、まれに反転することもある幽冥の世界。

3,虐殺


信川だけでも三万五千人以上が死んだと言われているらしい。残虐行為の一角をこの小説から見てみよう。

「数十名の青年が畔に伏せていた。彼らはそれぞれ手に鎌や鍬や棍棒を握っていた。(略)彼らは駐在所の前まで来ると、うわーっと大声で叫びながらなだれ込み、建物の中でうとうと座って居眠りをしていた二人の署員を棍棒と鍬で滅多打ちにして殺し、奥の部屋で寝ていた署員も撲殺した。p218」
始めての殺害。駐在所員の殺害は蜂起としての合理性はある。しかし撲殺する必要はないわけで、そこには貧民による土地改革をどうしても許せないサタンの仕業と位置づける強い反動的情動があったと思われる。

また、直近に載寧(チェリョン)で党員と北朝鮮軍による殺害があった。それらに対する激しい報復感情が噴出したともいえる。
「彼らは、以前から反動だとにらんでいた家はもちろん、疑わしいキリスト教徒の家々を捜索し、相手がしたように家の中で家族らを残らず処刑した。(略)載寧(チェリョン)での三昼夜は、九月山(クゥオルサン)一体でそれから始まる血の惨劇の導火線となったのだ。p222」

「私たちがこの戦いの勝利を占める唯一の方法は、神の力に頼り正義のために悪を覆さなくてはならないという信念を堅持することだと信じております。いま自由のための十字軍は私たちを解き放つべく近くまで来てはおりますが、サタンの軍勢はいまだに私たちに脅威を加えております。(略)主イエス・キリストの御名においてお祈りします。アーメン」とヨハネは唱える。
仁川に上陸した米国軍という朝鮮戦争のヒトコマは、そのまま直接「自由のための十字軍」というキリスト教神学上の概念として受け取られる。であればそれへの加担は神の命令への服従に等しい。

そんなふうに彼らは、制圧済みの郡の党庁舎に集まる。
そこを拠点に「口ではとうてい言えないほど身の毛のようだつような残酷な」所業が繰り返される。(p229)

合理的な理由があってはじめられた残虐行為は、集団的熱狂のなかでどんどん凶暴さを加えていく。加害者たちはみずからの残虐さに慣れてしまい、反省することもなくなる。

「うるせえな。一人の男が赤ん坊をまるでサッカーボールを蹴るように蹴飛ばすと、赤ん坊は一瞬宙に浮いて二、三歩離れたところに転がり落ちた。p235」

ヨハネは幼い頃、近所のガキ大将株だったスンナムおじさんを捕らえる。最初にでてきた、犬を吊るして食べてしまうという乱暴な子どもの遊びを教えてくれたものスンナムだ。ただそんな思い出は今は関係ない。保安隊として村のリーダー格だった彼を許すわけにはいかない。
ただヨハネは彼を本部に連行するのは止める。連れて行けば、殺される前にひどい虐待や辱めを受けるだけだから。
「土手の上に電柱が見えた。 あれに吊り下げろ!(略)
仲間たちは電柱の足場に電話線を引っ掛けると容赦なく下に引き寄せた。クワッと異常な声を上げ足をばたつかせながらスンナムの体は宙に浮いた。p241」
スンナムは吊るされる。これが冒頭にちらっと出てきた γ である。

黄晳暎が、α、β、γと、ひと又は犬が木のようなものにくくりつけられるイメージを反復するのはなぜだろうか?
γは弁護の余地ない大虐殺の一部である。ここでの被害者はアカと呼ばれる人びとであり、加害者はキリスト教徒の青年団である。

三万人以上が死んだという大虐殺。その過半はキリスト教勢力から「アカ」に対する殺害だった。
その中の一つを黄晳暎は「男を電柱に吊り下げる」というイメージで描写する。そのγのイメージを説明するために、βがある。つまり虐殺はむごたらしいばかりではなく、「血が騒ぎだすような興奮」を誘い出す集団心理を誘発するものなのだ。昨日まで平和だった農民たちが、虐殺者集団に変貌する一つの契機を描いたものだろう。
αは虐殺を描いたものではない。民族文化の底辺にある「生と死の距離が近くまれに反転することもある幽冥の世界」を引き合いにだしたのは、βとは逆の要素、何らかの赦しへのきっかけを得たいという発想があるのであろう。
「恨みも怒りも解けてしまった」とこの小説は語りたがるが、それがとても困難なことだということも作家は知っている。なにより、事実を隠蔽したり、虚偽を展示することによってはそれは実現しないだろう。(ここでは詳述しないが、この大虐殺について北朝鮮当局は博物館まで作って展示しているが、虐殺者は米軍であるとしている。この本が語ることとおおきな違いがある。)

「男を電柱に吊り下げる」というイメージはまた、人間の罪を引き受け赦しを与えるイエスのイメージに近いともいえる。だが、糾弾、謝罪を求めるといったことを中止し、恨みと怒りの消失を求めるが、作家はキリスト教のような絶対的な赦しを約束しているわけではない。ほんやりとした方向性における一致以上のものはそこにはないと考える。

4 罪人と神

ヨハネが現地に残した妻の問いかけが哀切である。
「どうしてこんなにまでお互いを憎み合うようになったのか、それが不思議でね。植民地時代の日本人でもあれほど憎んではいなかったはずよ。
私一人がここに居残り、悪事を犯した罪人のように暮らしながら……いたいけな娘二人にろくなものも食べさせることができないままなくし、残ったあの子一人を何とか育て上げながら、いつも考えましたよ。神にも罪があるのではあるまいかと……p168」

殺人者の妻は差別されるべきか?殺されたものはいなくなり、殺したものも南へ逃げた。残されたものは殺されたものの遺族である。数少ない殺した者の家族は怨嗟、恨みのまとにならざるをえない。彼女自身が罪を犯したわけではないのに。
彼女自身が罪を犯していない以上罰や差別は与えるべきではないという理屈は、小さなコミュニティでは通らない。
「寒井里では、私たちは誰にも顔向けができなくて、長い歳月を罪人のように暮らしたんです p167」

「あの生地獄のような惨劇を、上からだまって眺めていた神さまにも罪があるのではあるまいかと、ずっと思ってきたけれど p168」

ヨハネの日々の殺害・暴行を知りながらそれを許していたのがヨハネの妻の罪である。それを彼女は40年間隣人から問われ続け、罪を認めざるをえなかった。では神は、唯一絶対にして褒むべき神は「あのような惨劇を上からだまって眺めていた」、それは罪ではないのか?
ここには、善である神が悪を許容するのはなぜか、という神学的問題には直ちには帰着させえない切迫がある。神が人格的存在であるなら、罪は否定できないのではないか?

「不治の病に犯されたとき、ヨブは神を怨んだけれども、敬虔なるヨブはこの苦しみでさえ神の恩寵だと悟」る。なぜ苦しみが恩寵なのだろう。
見ていて許容したことが神の罪であるなら、それは恩寵であるとはいえない。ヨハネの妻はたぶん耐えられなくなっただけだ。自分の不幸がなんの意味付けもされないままで、いわば生傷のままでさらされ続けることに。
「人間につきまとう苦難といえどもそれはある目論見をもった神から与えられたものでしょう。(略)私はいまヨブのように神を怨む心を捨て、人間が犯した怖ろしい罪を神のせいにすることはすまいとこころに決めているのです p169」
神を怨むならば彼女は今まで以上に何の寄る辺のない孤独に立ち尽くすしかなくなる。彼女は神を怨むのを止めることにした。あのような惨劇を行ったのは誰か?それは神ではなく人間である。人間が我が手でもって行った殺害はその人自身のものであり神のせいにしてはいけない。
ここで、「神に罪があるか?」から問題は転回されている。神を怨むことは実生活上彼女にとって賢い選択ではない。つまりヨハネは罪を犯した。ヨハネの妻も共犯者ではあろう。しかしそれだけであり、何十年も差別される理由にはならない。
「兄さんのヨハネが殺(あや)めた人たちはサタンではなく霊魂をもっている人間であったのです。兄さんのヨハネもサタンではなく信仰が捻じ曲がっていただけなんです。」
人が人を殺すことの罪は、その血痕は数十年経とうと消えずに残り続ける。事実を認めることは苦しい。しかし、避けようとしてもそれは、可能ではない。

「私、望むことなどありませんよ」何かを望むことに意味はない。「この世には人間どもが犯す罪に満ち満ちている」北朝鮮であろうと韓国であろうと統一国家であろうと「人間どもが犯す罪に満ち満ちている p169」以外の生き方は人間にはできない。

おそらく黄晳暎はここでそう言い切っている。これは怖ろしいことだ。なぜならそうなら例えば正義のために命を掛けるといった行為はすべて虚しい愚かな行為になってしまうから。この本には書いてないが、黄晳暎はかの金日成と何度も親しく対話したことがある少数の韓国人の一人である。どこから見ても罪の塊である金日成と会食するなど犯罪であろう、そうした意見には一理どころではない重みがある。ヨハネの日々の殺害・暴行を許していたヨハネの妻に罪があるのと同じである。多くの強制収容所を経営し、収容者に死に瀕した生を強いている金正恩は断罪されるべきだ。しかし、彼をサタンであると信じ、なんとしてもその死を願うことが正しいのか?正しくはない。金日成も金正恩もサタンではなく信仰が捻じ曲がっていただけにすぎない。敵対し粉砕を叫ぶことは政治的行為としてありうるが、その有効性は状況に於いて問われる。つまり絶対的なものではない。

「少しずつでもそれをなくしながら生きていかなくては……」つつましやかな願い。しかしそれを捨ててはならない。しかもそれを貫くのには非常な力量が必要だ。

「お祈りを上げましょう」
「この共和国においても、主の御恵みのもと人びとが健やかにそれぞれの生を営んでいる ことを確かめることができました」そのことを心より感謝いたします。
(このフレーズは、黄晳暎から韓国国家へのメッセージでもある。共和国市民も本来は自分の国家の成員であると主張している韓国は当然、皆が「健やかにそれぞれの生を営んでいる」ことを確認し祝福すべき立場である。しかし北共和国だけでなく韓国も両国の往来を厳しく制限している。(ドイツ人や日本人は両方の国に入れるのに)黄晳暎は1989年北朝鮮を訪問し、帰国すると入獄させられるので海外を放浪し数年後帰国入獄した。わざわざ隣人の生存を見に行った黄晳暎を罰そうとする国国家はオカシイ!)

神に感謝すること、たとえ神を信じていなくとも。そうしないと生きていけないから、作家はそう言っているようだ。

「怨恨ゆえにまだ虚空をさまよっているだろう多くの亡霊たちが安心して旅立つことができるように、シキム(死者を送り出す巫儀)でもしてあげないとね。スンナミおじさん、一郎おじさん、朴明善のうちのチンソン、インソン、ヨンソン、トクソン、チュンソニおじの内儀、小学校の女の先生、そしてあの倉庫のなかでもだえ死んだ多くの人たち……」

亡霊たちは安心して旅立つだろうか?「安心して」なんてことはありそうにない。そうだとしても私たちは祈る。祈らなければ耐えられないから。

5 赦すこと

1950年10月19日、中国人民志願軍参戦、12月6日には平壌奪還。人民軍はどんどん南下してきて、信川のあたりもすでに敵の勢力下になり、ヨハネは逃げるため久しぶりに家に戻る。
「私(妻)は全身汗まみれで、顔からは汗が滴り落ちていた。
「子どもが生まれるわ」「なんで選りによってこんなときに」(略)
夫は周りを見廻すと、乱暴に箪笥を開けた。服がこぼれるようにあふれでた。その衣類の中から肌着を一枚取り出して彼は子どもを取り上げた。赤ん坊の泣き声と彼の歓声が聞こえた。 p182」
しかし、すぐ近くで銃声がし、彼はそそくさと立ち去る。夫はずっと遠くに去っていってしまった。

数十年後、ヨセフは兄嫁を尋ね、このときの肌着を託される。
「寒井里に行ってその骨を埋めるときに、これを燃やしてから一緒に埋めてちょうだい。 p179」

「彼は雑草が生え茂った場所を避け、乾いた土が露(あらわ)になっている所を選んで蹲った。手でそこの土を掻き集め、ほんのりと芳しい匂いを嗅いでみる。」
そこに古枝を集めて火をつけ、兄の肌着を燃やす。
「兄は故郷の地に戻ったのである。p282」
遺体に火をつけ燃やし、故郷に埋葬すること。それはかなわなかったにせよ、彼が一生抱き続けた深い深い罪を追体験し祈ることで、ヨハネは故郷の地に戻る。

「ヨセフは壁伝いに長く列になって立っている亡霊たちを見廻した。およそ十人くらいいるように見えた。
(略)
おれたちはヨハネを連れて行く前に、彼が殺めた人らを解き放してやろうと思って集まったのだ。人は死ねば、犯した罪はみな消えるというが、あったことの真相をありのままに明かしておかなければならないのだ。p215」

ひとはともすれば謝罪や赦しをめぐって大騒ぎしてしまうが、「あったことの真相をありのままに明かしておくこと」を十分に確認せずにそうしたことをしても結局無意味である。(口にしたくないほど愚かしい「慰安婦問題」をめぐる日本側の態度をみてもそのことは明らかだ。)
「あったことの真相をありのままに明かしておくこと」をまず求めなければならない。

「殺した奴も殺された奴も、この世を去れば、みーんな一つのところに集まることになっているんだよ。(略)
やっとのこと故郷に帰って来てなー、昔の友だちにも会い、恨みも怒りも解けてしもうた。 p278」

こう言っているのはヨハネ(亡霊ではあるが)である。ヨハネの殺人者としての所業を知ったわれわれは、こうした言葉だけではなかなか納得しずらい。加害者がそう言ったからと言って、被害者は恨みも怒りも忘れないのではないか。

しかし、この小説では、被害者であるスンナムおじさんや一郎(イルラン)も亡霊としてそこに居る。
「さあ、さあー。もうこれでいい。早よう立たにゃ。 一郎も同意した。 そうだ。みんな一緒に立とう。」
40年亡霊として彷徨った後、加害者ヨハネが亡霊として故郷に帰ってきた。それによってやっと立ち去ることができる。恨みも怒りも解けたというのが本当かどうかは分からない。しかし彼らは実際には既に死んでいるのだから、「去るべき者らは去り、生き残った者らは新しく出発しないと。p279」ということはできる。

最後の章は「締めの歌」である。
民族に自由が戻り/働く者が権利を手にしたとき/人として生まれた幸せが分かった/しかしそれも束の間/自由も権利も/一場の夢と化し/命まで奪われてしまったのだ

恨みはあろう悲しくもあろう/しかし今はもう/怨みも悲しみもすべて忘れ/安らかに心おきなく/あの世の方へ/去られ給え、旅立ち給え

最後に、一転してキリスト教徒と対立した労働者の側、被害者の側の恨みが唄われる。「怨みも悲しみもすべて忘れ」というのが正しいのかどうか私(野原)は分からない。

韓国はシャーマニズムの伝統がある。ムーダン、マンシンとよばれる降神巫。彼らは人びとから依頼を受けて、死者をあの世に送る儀礼を行う。これがクッとよばれる。厄払いである。
死者とその怨念、彼に向けられた怨念その両方を彼方に送るための儀式。その様式を借りてこの小説は書かれた。
「怨みも悲しみもすべて忘れ」は黄晳暎の意志ではなく、クッを必要とした民衆の意志である。

6 怨みも悲しみもすべて忘れ

この小説のなかでは、40年前に死んだ死者たちと先日死んだ死者がともに亡霊となり、生き残った人々と対話する。死者たちに語らせる。それは40年間彼らの声が抑圧されなかったものとされてきたからだ。
殺害された者はもはやいないので発言できない。殺害したものも逃げてしまい故郷との繋がりが失われる。また殺害したものは真実を語るのは自分にとってつらすぎるとして抑圧してしまう。
しかし実は小説家はどのような人のどのような行為であろうと小説に書くことができる。40年前の世界も現在の世界も。しかし黄晳暎はそのどちらも選ばず、現在に浸透してくる過去を描いた。
40年前を描いた小説であってもそれが読まれるとしたら、現在にしか生きていない読者がそれを求めるからだ。ふと思い出される過去の記憶といったものは現在の少なくない部分を占めている。40年前の過去であっても、トラウマと呼ばれる抑圧された記憶はふとしたきっかけで鮮明に思い出されることがある。40年前の事件のドキュメントが求められているのではない。事件のドキュメントの意味が求められているのだ。殺す者と殺される者の距離、40年間という距離、国家と民衆の距離、そのような隔たりを超えるために、亡霊による語りというスタイルを黄晳暎は採用した。
最も抑圧しようとしたものは何十年経っても残る。小説家としてそれを書こうと思ったのは当然だろう。
しかも重要な出来事でありながらその真相が隠蔽されているのであるから、政治的、社会思想的にも是正されるべきである。しかしそれは、北朝鮮国家と韓国市民の多くの両方に正面からケンカを売るに等しい行為であり、大きな問題を引き起こす可能性があった。半亡命の身分にあった黄晳暎にとっては、なおさらである。しかし実際にはそのような真相を明確に突き出す作品を彼は書いてしまった。半亡命→帰国・入獄から1998年出獄、その5年後にやっと書き上げたのではあるが。

「この作品に描かれた惨劇は民族内部で演じられたものであるだけに、北側の公式的な主張を立場とする人たちからも、また惨劇のあと北の地を離れ南に移ったクリスチャンを中心とする人たちからも、否定され指弾されるということはありうるだろう。(p291)」
そうした自己保身的あるいは政治的配慮よりも、作品を完成させることだけを目的に黄晳暎は書き上げたのだ。

「キリスト教とマルクス主義は、この民族が植民地時代と分断の時代を経てくる間に、自律的な近代の達成に失敗し、他律的なものとして受け入れた、近代化への二つの異なった途であったということができよう。」
最近翻訳がでた自伝『囚人』に詳しいが、1985年から1993年まで黄晳暎はドイツや米国などに滞在し、途中何度か北朝鮮も訪問した。1980年代の西欧から見た場合40年前の北朝鮮のキリスト教とマルクス主義はほとんど双生児のように似ていると見えたことだろう。「キリスト教とマルクス主義は考えてみれば一つの根から生えた二つの枝であったのだ。」日本の場合では大学に行ったりするインテリが明治時代にはキリスト教に、それ以後はマルクス主義にかぶれるといったふうに現象した。急成長する資本主義の大きな矛盾とまだ封建的な伝統社会の抑圧、その双方を批判する武器として使われたのだ。おおざっぱに言えば、同じ社会集団に時期をずらして受容されたためお互いの大きな争いは起きなかった。
朝鮮では、光復後に何もない所から国家を作らなければいけないという機運が高まり、その要請に答えるイデオロギーとしてキリスト教とマルクス主義が、それぞれ別々の階層に選ばれた。そして不幸なことに二つのグループは激しく対立し、ついにこの本に書かれたような巨大な惨劇を産んだ。

AがBを撲殺する。その意味ははっきりしている。ごまかしようがない。しかしキリスト教とマルクス主義が関与すると少し違う。同じ殺害でも神のため、あるいは党のためであれば許される場合もあるのだ。この小説ではもっぱらキリスト教徒が扱われる。彼らが天国に通じる道と信じて殺害を行ったがその道はわずか数ヶ月で消えた。彼らは故郷から逃げざるを得なかった。神のためという言い訳が通用しなくなり、殺害という苦い記憶を抱えてAは40年生き続ける。しかし黄晳暎は悔恨や反省を一切書こうとしない。

AがBを撲殺した。Aはそのことを忘れない。不快なもやもやとして、強い苦さとしてそれはときどきやってくる。それを悔恨や反省としてすこし意味を変え昇華していくことが、人間の文化だろう。それを最も洗練させたものがキリスト教とマルクス主義(そして近代文学)だろう。反省、神への帰依によって救われること、それは「神の名によって殺すこと」とそれほど大きく違うだろうか?黄晳暎はそこまで書いていない。しかし、彼が悔恨や反省を書こうとしないとはそういう意味でもありうるだろうか。

BはAに撲殺された。Aのようなそれ以後の40年はBには存在しない。亡霊として漂い続けただけだ。BはAを激しく怨んでいるはずだろう。しかし厳密に考えるならばその怨みも、生きているB以外の人がなければならないと強く考えているだけなのではないか。Bはただ死んでしまい何を考えているのか分からない。

「強い風が吹きまくっている。」
「一群の人びとが上半身を屈め、同じ方向に進んでいる。何か重たいものを引く網でも肩にかけているような姿勢なのだ。前進している人の長い列は前の方も、後ろの方も終わりが見えない。曲がりくねった道は野原を横切り、遥か彼方に見える大きな山並みに接しているが、人びとは一切無言である。屈められた彼らの背中が見えるだけである。」283

彼らはただ歩いているだけなのか。彼らのうち少なくない人は、自らその手に凶器を担い他者の肉体にそれを振り下ろした。見えはしないが、人びとはその罪とともに歩き続けるのか?

一方「自分はそこに現れた一幅の画面の上を、鳥のように飛翔していた。」
鳥のようなのはおそらくヨセフではなく、作家黄晳暎であろう。殺された者も殺した者も、決してエリートでもインテリでもなかった。広大な歴史の原野をただ歩き続けるしかない庶民である。しかし作家はそうではない。そう望まなくとも作家はすべてを見通し設計しうる。語られる限りでは歴史すら、改変し各自の感情、倫理的色合いすら左右できる。読者も巻き込んで。
殺害者にもっと真摯な反省を求めるという感情を読者は持つだろう。大きな虐殺事件でありその事実を明らかにし、悼むことは必要だ。
それに、加害者を加害者と名指すことは必要だ。つまり、反省と謝罪を求めることは。それは一方の側に加担することになり、政治に巻き込まれることになる。
ただ、文学の役割はそれとは違う。「遠くの方から牛の鳴き声と、首につけられた鈴の音が聞こえてくる。めんどりが卵を産み落として出す姦しい啼き声も聞こえてきた。田園がひろがる野原では、人びとが田植えの歌を歌っており、それにまじって、鉦(ケンガリ)や長鼓(チャング)を叩く農楽(ノンアク)の音も聞こえてくる。」
数多くの殺害を飲み込んでなお、庶民(常民)の世界は延々と続いていく。無理やりであろうと「怨みも悲しみもすべて忘れ」という言葉とともに、作家は彼らに別れを告げる。

(2010.2.5)

一国二制度から天下主義へ

 許紀霖という人の『普遍的価値を求める』という本が非常に興味深かった。
 かってわれわれは、キリスト教(神を中心とした外在的超越性)や儒教(内面と天理が合一する内在的超越性)あるいは他の宗教が与える究極的な価値とともに、生きることができた。(p164)しかし今や、先進国は自由、自由主義の下に生きている。自由、平等、公正といった個人の自己選択を保証する制度的条件が整えられ、人はすべてを決定する理性を持って生きていくことになった。自由主義は、社会の不正義によって生み出された苦難に対しては有効な救済の方策を持つのだが、日常生活や存在意義に関わる苦難や死に対しては、基本的には白紙の答案しか出せない。
 自由主義は価値の多元性を認める。自由・平等・公正という正しさは強調されるが、精神的秩序の「よさ」や「善」の問題については、答えない。絶対的な善と悪の間で選択を行うには、道徳的理性というよりも、信仰(あるいは内在的良知)に由来する意志や決断の方を必要とする。キリスト教や儒教など、「枢軸文明」と著者は言うのだが、その豊かな「善」の資源を再吸収していくことが必要だ。
 人が人として生きていくことの困難、日本ではそれはかって想像されなかったさまざまな形で現れているが、自由主義によって救いえないものだ。「枢軸文明」からより多くのものを汲み取る必要はあるだろう。

 さて、すべてのものから独立した〈近代的主体〉の自由な権能といったもの、それを至上化したものが〈近代的国家の主権〉であるかもしれない。近代的主体を前提にする哲学はポスト構造主義によって批判されたが、政治的領域においては近代国家の至上性(主権)は疑われないままだ。それどころか、一部の学者の世界ではなぜか今頃「シュミット主義の亡霊」がもてはやされる。SNSなど最新のメディアでは排外主義的言説がポピュリズム的に繁茂する。
 いま私たちは、苦しくとも、西欧と東アジアを古代から深く掘りなおし読み直すことなしに、再出発できないのではないか。

 この本は難解な面も多いが、誰でも分かるようなモチーフが二つある。
 いま世界中の人が認識するしかないことは、中国の巨大化である。世界の覇権国家である米国と対等な国力をつけつつある。
 そこで思い出すことができるのは、清朝に至る過去の大帝国である。帝国は、強大な権力を範囲内の人民に直接押し付けるといった形態を取るものではない。「漢民族が住む地域は中心にある十八省で、清朝は歴代の儒家の礼楽制度を継承し、中華文明によって中華を統治した。それに対して、満州族、モンゴル族、チベット族が住む辺境地域では、ラマ教を共通の精神的な絆とし、統治方法はより多元的で、弾力的で、柔軟であり、歴史的な持続性を維持した。」(p69)
 それに対して現在の中国は、自分たちの統治意識への同化をチベット、ウイグルに押し付け、彼らの宗教を破壊しようとし、全面的な反発を力で抑え込もうとしている。ウイグルには百万人もの収容施設があると、西側諸国にも知られ糾弾されそうになっている。なぜ清朝のようにうまくやれなかったのか?

 もう一つは、韓国、ベトナム、日本などとの関係である。
 「伝統的な中華帝国には万国来朝の盛況があった。重要なことは、それは周辺国家が帝国の武力制服を恐れたからではなく、先進的な文明と制度に引きつけられたからで、そうした文明の吸引力こそが国家のソフト・パワーにほかならない。」(p76)
 これができなくなったのは、中国が限定された領土、領民に対する独占的排他的支配を自らうたう近代国家としてアイデンティフィしているからだ。近代国家であるには、中国は大きく成りすぎた。大きくなりすぎた米国が、人権の普遍性を振りかざす姿勢を持ち続けることしかできないように、中国もなんらかの「普遍性」を強く打ち出すしかないだろう。

 許紀霖が依拠しようとするのは、儒家、道家、仏教など古代からの中国の伝統である。キリスト教、ギリシャ思想などと合わせて、ヤスパースに習い「枢軸文明」と著者は言うのだが、その豊かな「善」の資源を再吸収していくことが必要だとする。
儒教は、一人称の小我を越えて、天下、人類の大我を目指していた。ひとつの地域に限定されることを自ら欲する近代国家と違い、「天下は天下のひとびとのための天下である」(p60)中国人は常に「天下」において考えていた。そして、天下の価値は普遍的でありヒューマニズムだ、と言いうる。

 中国は近代国家であり、少数民族であろうとその一人ひとりはそれぞれ国民として完全に平等に尊重されることになっている。しかしその現実は求心的すぎる国民国家の基準をマイノリティに押し付け、民族文化を破壊するかに至っている。
 「伝統的な帝国の多元的な宗教と統治の制度を参考にして、儒家を漢民族の文化アイデンティティに記号とし、また同時に、少数民族の宗教、言語、文化の独自性を保護して、少数のエスニックグループとしてのかれらの権利を認め、制度的な保証を与えるという考えもある。それによれば、「一国二制度」は、香港、マカオ、台湾において運用される国策であるだけでなく、辺境の自治区に対しても拡大すべき統治方針であるということになる。」(p74)
(2020年8月にこの日本語訳は日本で出版されたが、丁度そのころ香港における「一国二制度」の持続を求める運動は、完全に潰されたようだ。しかし、許紀霖は百年単位で思考しているわけだから、何らかの逆転はありうるかもしれない。)

 また、大きな国際問題になっているのは、東シナ海、南シナ海のたくさんの島嶼についてである。それぞれの島に対して、それがどの国家の領域であるかを厳密に確定すべきだという思想は東アジアにはなかった。島は共同で使用されるものだったのだ。海に近代の主権という境界を存在させるべきでないだろう。(p80)鄧小平「擱置争議、共同開発」は古代の天下主義の智慧を発揮したものだった、と考えうる。日本の田中、大平もそれを了承した。それを覆したのは、(おそらく米国の意志を受けた)一部の日本の外務官僚である。

 とにかく、中国が自らを近代国家としてアイデンティファイするのは、愚かなことだと許紀霖は言っている。
 「これは中国の内政で、外国人がとやかく言うのは許さない」「これは中国の核心的利益であり、他国の干渉を許すことはできない」(p76)といった言説は、たとえ国際法上は正しくとも周辺国の反発しか産まない。そうではなく、友好こそが相互の利益を産むと、それを中国は一貫して追求してきたことを思い出すべきだ。

 近代国家主義の原則を相互に大幅に緩めた例として、数百年の憎悪と流血の果に手に入れたEUの体験を参考にすべきだろう。

 2001年9月のいわゆるイスラム原理主義によるテロ事件に対して、面子を失った米国はアフガン・イラク戦争を開始したが、結局中東地域に平和と安定をもたらすことに完全に失敗した。人権を大事にするはずの先進国も、シリアやイスラエルによる国民に対する広範な人権侵害を見逃さざるをえない状況になっている。「西洋と異なる中国的な近代化モデルが台頭し、右翼ナショナリズム及びポピュリズムの嵐が世界的規模で吹き荒れました。pⅳ」
 つまり、「今日の世界は普遍性を失った時代になっている。」このような時代に、何を基準にものごとを考えていけばよいのか、許紀霖は冷静に問い尋ね続ける。

(備考)
許紀霖氏は、1957年上海生まれ。20世紀中国思想史研究。
『普遍的価値を求める  中国現代思想の新潮流』
許紀霖:著, 中島隆博:監訳, 王前:監訳, 及川淳子:訳, 徐行:訳, 藤井嘉章:訳
叢書・ウニベルシタス 1121 2020年翻訳刊。
https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-01121-4.html
参考:中国の「新天下主義」について−許紀霖『普遍的価値を求める』を読む 子安宣邦
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/84281039.html

黄晳暎『パリデギ』、火の海・血の海・砂の海を越えて


『パリデギ』
は黄晳暎(ファン・ソギョン 1943-)という韓国の作家の書いた小説。
副題が「脱北少女の物語」という。2008年に刊行されたこの本は前に図書館で見たのだが、脱北女性の物語は『北朝鮮に嫁いで四十年 ある脱北日本人妻の手記』斉藤博子著
映画マダムBなどいくつか知っているので、すぐに読まなくてもいいかと思ったのだ。

飢餓に至る困窮に対して、道端のクズを拾って売るなど血みどろの労苦の末に生き延びるリアリズムを、そうした本は表現している。それとそのような境遇を強いた国家(金一族)への呪詛と。

一方、この本はそうした本とはかなり違っている。
主人公は夢見る少女である。ただその夢は甘くふわふわしたものではない。困窮のうちに数千年生き延びてきたアジアの低層民が語り伝えてきた奇妙なおとぎ話。
ある春の日。門を開けると、私(5歳)より少し大きな女の子が立っていた。その子は白い木綿のつんつるてんのチマ・チョゴリを着ていた。主人公のパリは霊感の強い少女だった。それはおばあちゃんから受け継いだものだ。「あれはね、伝染病の鬼神なのさ」とおばあちゃんはいう。柳田國男的な話。

パリ一家は豆満江沿いの国境の町に引っ越す。
「前に美姉さんと豆満江に行った時、水に浮かんでゆっくり流れてくる人の姿が見えた。幼な児をおぶったままの母親の死体だった。きっと、母親と子どもが一緒に死んだのだ。美姉さんと私は、以前ならびっくりして悲鳴をあげ、誰かを呼びに走っただろうが、その時は息をこらして見つめていた。死体の後ろには、解けて長く伸びたねんねこの帯が揺らぎながら流れていた。」
数百万人が餓死したとも言われる90年代中期の北朝鮮。その悲劇を黄晳暎はこのように静かに描き出す。死体が流れてくる、それに対して悲鳴も上げずにじっとながめているまだ幼い少女たち。そこには、無残な死が幾分かは自分自身の未来にもあるかもしれないといった予感さえ孕まれていたかもしれない。

飢餓が激しくなるころ事件が起こり、一家は離散する。パリは賢(ヒョン)姉さんとおばあさんとともに川を越え、中国に入る。中国人の家に一時厄介になるが、そこも出なければならなくなり、裏山に穴を掘り住むことにする。
ここで、おばあさんがパリ王女のお話をしてくれる。その話はパリ王女が、両親とみんなを助けるために、生命水を取りに西天の果にまで行く話。ひとりの悲惨な脱北少女の悲惨な話に、このおとぎ話を二重に重ねていくといった構造をこの小説は取っている。死者や死者の世界との媒介をしてくれる愛犬と幻のなかで交流できるという神秘的能力をパリはもっていた。

物語は本の半ばで大きく回転する。パリは運命のいたずらにより、人身売買の犠牲になり、はるかロンドンに運ばれる。そこで彼女はまたゼロから難民としての生を生き直す。
私が冒頭で上げた2つの脱北女性、斉藤さんは日本へ、マダムBは韓国に帰る。詳しい話は省略するが話は東アジア3国で完結している。
しかしパリデギの場合は遠く、ロンドンに行きそこで終わっているのだ。パリはそこでパキスタン系の青年と出会い結婚する。しかしその相手はなんと911後のイスラム青年たちの熱狂に巻き込まれ行方不明になってしまう。

話が錯綜しすぎのような気がするが、そうではない。この小説はダンテの神曲のように、究極的な問いに答えようとしているのだ。問いとは、なぜ彼らは、300万人を越すとも言われる膨大な北朝鮮人は無残にも、死んでいかなければならなかったのか。その惨禍は数年続き、隣国であり繁栄を謳歌していた韓国と日本は、それを知ろうとすれば十分知り得たはずだ。しかし私たちのしたことは徹底的な無視だった。
飢えて死に、病気で死に、苦しんで死に、痛ましく死んだその膨大な人たちは、何も言えずに死んでいった。「すぐ答えておくれ。どんな理由で、わたしたちは苦痛を受けたのか?」
パリは問いを受け止め、試練の旅を続けざるをえない。パリは魔王と戦い、生命水を飲み帰ってくる。「わしらの死の意味を言ってみろ!」この問いに答えるために。
この問いには答えが与えられるが、その答えはあまり成功しているようには私には思えない。

ただ、「脱北」という巨大な悲惨を、どのような問いとして再構成したのか?
東アジアに閉ざされた国家内部の悲劇として描いてしまってはそれは違う、と彼は思った。
古くさいようなおとぎ話(火の海、血の海、砂の海を越えていく話)と二重重ねすることにより、かえって普遍的な膨大な悲惨の只中の生を浮かびあがらせることができると、黄晳暎は考えたのだろう。

1894年7月23日の朝鮮王宮占拠

7月ソウルへ、4日ほど行った。帰ってきて、徴用工問題からホワイト国除外問題、韓国側の反応や韓国からの旅行者が激減してしまったこと、あいちトリエンナーレでの「慰安婦像」に対する河村名古屋市長発言など、日本人の韓国認識の根幹に関わる問題が起こり、日韓関係は最悪となっています。この間わたしも少しだけ韓国について勉強しました。今まで不勉強だったことに今更ながら気づいた、わけですね。

1895年日清戦争において日本は短期間の戦いで、3億円以上の賠償金を獲得しました。これは、日本の大国化の途中の最も輝かしいできごとでした。主人公は外相陸奥宗光。「力ある者が何でもできるのは、帝国主義時代のならいである」、それを「冷静、現実的」にやりとげた「陸奥外交」こそ帝国主義の真髄である、と岡崎久彦は書いています。(1)

1894年東学の乱がおこると、「清国は朝鮮政府の要請を受けて出兵するとともに、天津条約に従ってこれを日本に通知し、日本もこれに対抗して出兵した。農民軍はこれをみて急ぎ朝鮮政府と和解したが、日清両国は朝鮮の内政改革をめぐって対立を深め、交戦状態に入った。」と山川出版社の『詳説日本史』には書いてあります。

戦争を始めるためには大義名分が要ります。「この上戦争の〈名〉はいかが相い成り候や、日本より無理に差し迫り、〈無名〉の戦争と相い成らざるよう祈る」と明治天皇側近も心配していました。(2)
「1876年江華条約一条に「朝鮮国は自主の邦にして」とある。現在朝鮮に清朝の軍隊が居るのは条約違反。撤兵要求しそれに応じないときは日本が代わって戦う。」というのが陸奥が考えた戦争の大義でした。

しかしその為には朝鮮政府から日本政府が「清軍駆逐」の依頼をもらう必要があります。しかし朝鮮王はださない。ではどうするか?

すでに1894.6.2日本軍は仁川に上陸していました。陸奥外相以下日本の総力をあげて、ソウルの朝鮮軍を一掃する計画が作られ、実行されました。
その核心部分は、王宮占拠、国王の捕獲、大院君を担ぎ出し日本の傀儡とすることです。

1894.7.23の王宮占拠の詳細を、金重明「物語朝鮮王朝の滅亡」という本から転記してみます。

 漢城の日本軍は、周到な準備の末七月二十三日深夜、朝鮮の王宮、景福宮を取り囲み、一隊を王宮内に突入させた。
 まず工兵隊が迎秋門の爆破を試みるが、爆薬が不足してうまくいかない。斧で打ち破ろうとするがこれも失敗する。最後は何人かの兵に塀を乗り越えさせ、内外よりのこぎりでかんぬきを裁断して、門を破った。この作業に手間取ったため、迎秋門突入は午前五時頃となってしまった。
 王宮内に突入した日本軍は国王を擒(とりこ)とするため、ただちに捜索を開始する。
 当時王宮侍衛隊は精兵といわれていた平壌の兵五百から編制されていた。王宮侍衛隊は四倍以上の日本軍に対し果敢に抵抗した。銃撃戦は数時間続き、双方に死傷者が出た。しかし衆寡敵せず、次第に侍衛隊は北方へ追い詰められていく。その間、日本軍の一隊が雍和門(ようわもん)内にいた国王を擒にしてしまう。
 そしてついに、王から侍衛隊に、それ以上の抵抗はやめるようにとの命令が下るのである。王命に逆らうわけにはいかない。兵たちは悲憤律慨しながら、北方へ逃亡する。
 日本軍はただちに、王宮と漢城内の朝鮮軍の武装解除にのりだす。分捕った武器は、大砲三十門、機関砲八門、小銃三千挺、雑武器無数であった。
 さらに王宮に入った大鳥圭介は、兵を動員して王宮に所蔵されていた貴重な文化財をことごとく略奪し、仁川港から運び出してしまった。
 国王を檎にした日本軍は、閔氏政権を打倒して、開化派を中心とした親日派政権を打ち立てるのである。(p149)

1894.8.20「日韓暫定合同条款」を日本は朝鮮に結ばせる。第4項が「本年7月23日王宮近傍において起こりたる両国兵員偶爾衝突事件は彼此共に之を追究せざるべし」です。真相を朝鮮側が口にしてはいけないと固く口止めしたのです。
日本政府は、事件当初からこの事件を、偶発的発砲が韓国側からあったので応戦した、という虚偽のストーリーにして、それだけを語り続けました。百年後の1994年に中塚が福島県立図書館で新資料を発掘するまでそのウソはくつがえされませんでした。普通の日本人は教えられていません。

しかし、日韓関係の原点とも言うべきこの暴虐な事件を知っておく必要はあるでしょう。日本国家の汚点であるからこそ。(2019.9.27)
(1)中塚明『現代日本の歴史認識』p215 から孫引。
(2)中塚明『現代日本の歴史認識』p199。