テロリストに非暴力を求めるな!

アーノルド・ミンデルの『紛争の心理学』講談社現代新書、はとても興味深い本だった。ちょっと引用、紹介したい。(この本は現在入手不可能に近いが、図書館にはある。)
「テロリズムの特徴は、平等や自由を目的に、権力を持たないグループが主流派に対して攻撃することである。
主流派に対する手当たり次第で道理に合わないと思われている暴力は、実際には、自由のために闘う人々が苦しんできた傷を埋め合わせる試みである。その目的は、権力を持つ人々に社会変革の必要性を気づかせることだ。テロリストの観点からすれば、自分たちが傷つけたり殺したりする主流派の人々はすべて、無辜の犠牲者ではない。主流派の人々はすべて、たとえ消極的なだけだとしてもテロリストが闘っている抑圧に関与している。」(p157)

21世紀は「米国同時多発テロ事件」から始まったとされ、特に日本ではテロリズム=絶対悪という用語法しか許されない、人々の思考もその枠内で動いている気がする。しかし本来、ミンデルの言うとおり「政治的な目的を達成するために暴力および暴力による脅迫を用いる」という意味である。独立運動などもテロリズムから始まることが多い。1970年代アメリカ西海岸で発達したニューエイジ心理学といったもののなかから、ミンデルさんは出て来た方なのだろう。主流派の人々が支配するこの社会、ひととひとが対等に向き合っているように見えてもすでにさまざまな権力関係が埋め込まれていることを、に批判的に分析していく。
歴史とは大なり小なり動乱なのであって、自由のために闘う人々がテロリズムという手段を行使することはありうる。「テロリズムは文化変容の必要性がありながら、それが妨げられているときの時代精神である。」p154とミンデルは書いている。

「私のテロリズムの定義は、心理的な苦痛の原因となるグループ・プロセスにおける復讐を含む。過去の暴露や暴力的な脅かしは、この範疇に入る。
わたしたちはこのようなテロリズムをしばしば体験する。たとえば、ある異性愛の女性が、パートナーに「私の要求に答えてくれなければ、出ていくわ」といったとしよう。彼はこれをテロリズムとして体験する。彼女は、今にも関係を終わらせるような勢いで迫る。彼女は、相手が自分の欲求を大切にしてくれないと感じ、関係を破壊することだけが満足のいく目覚めをもたらすと考える。」

話が急に家庭内の関係、たぶん日本人でもよく体験するような、に移る。新聞のニュースになるような大きな政治的テロリズムと、小さな夫婦喧嘩が同質だと、ミンデルは真面目に考えている。
主流派男性が少数派の不満に耳をかさず、黙ったまま抑圧関係を持続させられると思っていたら、少数派は我慢ができなくなってテロリズムに訴えた、という話である点で同質性があるわけだ。

「意図的あるいは無意識的なランクの乱用」というものによって、「若者や女性、貧しい人や有色人種、高齢者、ゲイやレズビアン、「犯罪者」、虐待被害者」たちは、耐え難い抑圧の持続にさらされながら、それを虐待であると告発することができない。反応を禁じられて最後に暴力という形で表現することしかできなかった。したがってこのような場合、暴力的な反応に恐怖し、過剰防衛したり、法的に処罰を求めたり、スキャンダルとして社会の笑いものにしようとしたりするのは、まったく不適切な対応となる。

(さてここで「ランク」という言葉がでてくる。これはプロセスワーク理論にとって最も重要な概念。自分で気づいていないさまざまな特権やパワーを私たちはすでに持っているという考え方。社会的/構造的/文脈的/心理的/精神的など。)

個人が公正に闘うには、大きすぎ、強力で圧倒的な人々や集団によって、抑圧的な状況が作り上げられているのだ。そういったばあい、「テロリストは私たちみんなの中に現れる。」
主流派を乱し、脅かす、いわゆる「病理的、境界例的、精神病的」な人々は、実は、世界を変革する可能性を持っている、と考えるべきなのだ。

特に日本では調和が重んじられ、集団内部に対立を顕在化させることは極端に嫌われる。会議でさえ議論のない会議の方が良いとされる。まそれは、森喜朗氏の件で分かったように、既成の大ボスの権威を少しでも傷つけないという、ただの権力維持である。自由な意見交換を抑圧したことは、日本の経済発展にさえマイナスになったかもしれない。

民主国家はみなが平等であるという建前に立つ。異論があればそれぞれ発言すれば公正な議論によって公正な結論を得ることができることになっている。しかし実際は、少数派は自身の〈ランクの低さ〉によって自由に発言できない。絶望や抑うつ、憤怒といった問題に囚われている。それに対して、権力を持つ人々は、実は暗黙のうちに「おまえたちには耳を傾けたくない。おまえたちやおまえたちの問題は重要ではない。その問題と一緒に私からは離れていてくれ」という雰囲気を漂わせている。シグナルやジェスチャーや座る場所などで。
このようなちょっとした雰囲気の悪さといったものを、ミンデルは、〈ゴースト間の闘い〉として描写する。主流派のゴーストは「座れ、静かにしろ。誰がここに招いてやったんだ。云々」という。マイノリティのゴーストは「目覚めろ!お前は試されているんだ!おまえたちの家を爆撃するぞ。云々」と言う。

北アイルランド紛争の対立する当事者の集まりに招かれたミンデルは、最初やはりテロリストの側がたんに無作法であるかのように見えてしまっていた。
しかしそうではない。テロリストと呼ばれる彼らの怒りや傷つき、変容への欲求を理解しなければならなかったのだ。
ベルファストのある男性は、子供の頃、英国秘密諜報部員に父親が頭を撃たれるのを見た。彼は許すことができず大人になってテロリストになった。ある時牧師に話をすると牧師は彼の復讐心を理解した。心から同情的になったするとテロリストも変化した。

マイノリティに必要なものは、パン(経済的サポート)、自由、そして尊敬だ。しかし、主流派が彼らの悩みを推測し与えてやるということでは問題は解決しないだろう。そうではなく彼らに彼ら自身の問題を語ることを促すのだ。聞き手は、彼らの問題をオープンに取り扱うため、彼らを発見し支えようとし、そうであることを彼らの理解させなければならない。そうすれば解決は近づく。しかしその場で和解が達成されたとしても問題は解決したわけではない。不平等、不公正でない社会の達成は困難だ。

主流派も苦しんでいる。テロリストはある種の霊的ランクを有しているのだ。正義において、また死を恐れないという点で。
それをはっきり認識するのも大事なことであろう。しかし話し合いの現場ではたいてい、主流派がもっと包容力を示すことが、相互に変容していくことを促すことになっていく。

アーノルド・ミンデルの『紛争の心理学』という本の第6章を、書き写し的に紹介してみた。わたしにとって新しくまた貴重な考え方であると思ったからだ。
社会的・政治的な問題はそれ自身として解決すべきであり、心理的に解決すべきではない、というのは真実だと思う。しかし紛争/紛争解決は心理的問題でもあり、その時に、平和、安全、非暴力などを少数派に強要するだけでは問題解決にはならない。そのことを学ぶのは価値あることだと思った。(7.28一部修正)