待ってくれているお母さんからオープンレターまで

荒木優太氏の 文学+WEB版の文芸時評(第九回)
https://note.com/bungakuplus/n/n92fe85d1f32f を読んで、twitterに
オープンレター署名者が「オープンレター騒動で〈呉座勇一は悪い奴で解職されるのも当然だ〉とする立場」だとするのはいかがなものか。https://twitter.com/noharra/status/1494961188186505228

と書き込んだところ、荒木氏からそうは書いてないと反論があった。

(なお、「このオープンレターは、この問題(呉座氏女性差別発言問題)について背景にある仕組みをより深く考え、同様の問題が繰り返されぬよう行動することを、広く研究・教育・言論・メディアにかかわる人びとに呼びかけるものです。」が、このレターの趣旨である。2.22追記)
そこで、荒木氏の文章を改めて読んでみた。

荒木氏はコンビニの「お母さん食堂」に対する批判を取り上げているのだが、オープンレターの中心人物である北村氏が、2015年に行った「ご飯をつくるおかあさん」批判は取り上げていない。これがきになったので探すと、北村氏の批判とその対象の本文が両方ともでてきた。そこにさかのぼって、ゆっくり考えてみよう。

北村発言。:「https://saebou.hatenablog.com/entry/20150725/p1
 私が一番「これは全然ダメだ…」と思ったのは、「帰ったらご飯をつくって待ってくれているお母さん」がいることを平和な世界の象徴として訴えていたところである。これは自分の経験に基づいているのだろうが、全体的にものすごく家庭を守る母(「両親」ではない)とその子どもというイメージに依拠しており、はっきり言ってこのスピーチで提示されている「平和な家族像」というのはむしろ首相とその一派が推し進めているものに近い、母親が家にいて子どもを育て、家事や炊事をするという保守的・伝統的な性役割に基づいた家族モデルへのノスタルジーだと思った。」

これにはちょっと難しい問題があるかもしれない。

「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せを、ベビーカーに乗っている赤ちゃんが、私を見て、まだ歯の生えない口を開いて笑ってくれる幸せを、仕送りしてくれたお祖母ちゃんに『ありがとう』と電話して伝える幸せを、好きな人に教えてもらった音楽を帰りの電車の中で聞く幸せを、私はこういう小さな幸せを『平和』と呼ぶし、こういう毎日を守りたいんです。
 https://iwj.co.jp/wj/open/archives/254835」
 その女性は芝田さんという方で全文は公開されている。

小さな公園で幼児がよちよち歩いているのを見ると微笑ましい気分になる。数年前シリア情勢のニュースよく見ていた頃に、そのような情景を通りすぎると、公園全体が爆弾で破壊された情景を幻視することがあったほどだ。最近も午前10時ごろ公園で10分ほど過ごし、そうした幼児とお母さんの情景を十分に堪能した。ただウィークデイの日中でありかっての私の子どものような子は、ずっと保育所に居るはずだ。「幼児とお母さんの情景」自体をまつりあげると、確かに北村氏の言うような危惧は生まれる。
保育士は一度に多くの子どもを見なければいけない条件があるだけで、よちよち歩きの幼児の可愛らしさ自体を感じる情景を切り取ることはできるだろう。ただ私が見た公園では保育園児は見なかっただけだ。

思ったより整った文章だね。ただコピーライター風の達者さがあるので、北村氏の批判に根拠をあたえてしまった。言葉を超えた自分の常識である平和を描写したかったのだと思うが、CM映像のような情景を重ねてしまった。「母親が家にいて子どもを育て、家事や炊事をするという保守的・伝統的な性役割に基づいた家族モデルへのノスタルジー」とは直ちには思わないのだが。雄弁であろうとした時に、自分の実感をポピューラーなイメージに引きつけて表現したのだろう。

「帰ったらご飯をつくって待ってくれているお母さん」をうたい上げることが、「保守的・伝統的な性役割に基づいた家族モデル」の強化という政治的効果を持つ、と北村氏は言っているだろうか。
そう言っていないわけではないが、彼女の力点は、そこにはなく、「安倍を倒せ」をスローガンとする運動において「保守的・伝統的な性役割に基づいた家族モデル」にのっとったプロパガンダをすることは矛盾している、そのような問題意識を持って欲しいということだろう。

荒木氏は「おかあさん食堂」「ナチっぽい衣装」「ブラック企業」の例を上げ、「文言やイメージの流通それ自体が、差別的結果に結ばれる可能性がある――と見做される」論理のあり方を問題にしている。
これは行為の動機ではなく結果に照準するべきだとする責任観(北田暁大の言う「「強い」責任理論」)に立っていることだ、というのだ。
ナチとブラックについては、反ナチやBLMがその思想を広げる為に、それを許容している社会常識に挑戦しているのだ。おかあさん食堂も同様だろう。
つまり「この社会にはユダヤ人差別が、黒人差別が、家父長制的家族観がしみついている」という前提に立ち、それを強化するような、あるいは確信的にそう唱える言説に反発しているわけだ。そのときその言説が求めている結果とは何だろう。もちろん、ユダヤ人差別、黒人差別、家父長制の終焉である。しかしそれはあまりに巨大な目標でありすぐに達成できるといったものではない。私が詳細に検討した2015年の北村氏の批判も同じである。

荒木氏の文章は私にとって分かりくい。その原因は、この「結果」というものについて荒木氏が私とはまったく違うものをイメージしているみたいだ、という点にある。

志賀直哉『城の崎にて』での、川向うで休んでいたイモリをちょっと驚かせたいがために石を投げた行為が取り上げられる。この行為に対して、主人公の投石行為が(その前段にある鼠に石を投げる行為への)遅れてきた模倣欲の発露なのではないか、という解釈が書かれる。
「「マイクロアグレッション」でもいいし、最近の新語だと「トーンポリシング」でもいいのだが、人が用いているのを見ると自分もまた使ってみたくなるものだ。」そして最近のフェミニズム界隈の事例に戻る。

「結果」は何かと言うと、『城の崎にて』ではそのつもりではなかったのにイモリを殺してしまったこと。そしてここでは取り上げなかったが、「オープンター騒動」では、「呉座氏が解職されたこと」である。
オープンレターは解職を後押しするため書かれたものではない。したがって、オープンレター署名者が何らかの責任を感じる必要は一切ないのは自明だ。しかし荒木氏のこの文章は、非常に巧妙にそれを暗示しようとして、かなりの成功を収めている。ちょっと問題が在ると感じる。

「おかあさん食堂」「ナチっぽい衣装」「ブラック企業」そして荒木がなぜか取り上げなかった「ご飯をつくるお母さん」批判が、獲得しようとした「結果」はすべて、そのような(それぞれ違った差別の)不公正の是正である。それはオープンレターの文面にも繰り返し書かれていることだ。
ところが、荒木氏は何の関係もない志賀直哉『城の崎にて』を突然取り上げ、獲得しようとした「結果」が普遍的なものではなく、「解職」であったかのように文章を書いている。
文章はいつも普遍的な思想や美をテーマにするが、俗人はそれをなにかの具体的事件と結びつけて邪推する。文章の効果(結果)についてこのような詭弁を書いていると、いつかは文章家である自分自身がつまらない因縁を付けられる危険性がある。そういう可能性は十分あると思うけどね。

追記:
「オープンレター」でgoogle検索すると、一番上に、古谷経衡氏の文章が来て、2、「アゴラ編集部」の記事、3、78件のtogetterのまとめ 4、小山晃弘(狂)氏の文章、5、「オープンレター差出人・賛同人から離脱・撤回した人らまとめ」 6、でようやく「女性差別的な文化を脱するために」という「オープンレター」の本文がある。
卑小な論争(ケチつけ)の地平に足をとられたくないので、私は1から5までは読んでいない。とにかく、現在「オープンレター」はバックラッシュの大波に飲み込まれたかのような状況である。わたしはオープンレターそのものよりも、オープンレター批判を否定することに興味がある。従軍慰問題そのものよりも、従軍慰問題を避妊しようとする言説を否定することに興味があることの連続性で。
新進の批評家としての荒木さんには今までも学ばせていただいたし、嫌われたくはないのだが。(2.22追記)

水俣病関西訴訟から18年

原一男の『水俣曼荼羅』という長い映画を見た。思ったことを2点だけ書きます。

2004年10月、水俣病関西訴訟に対して、国と熊本県の責任を認める判決を最高裁判所が出した。
この判決の意味についてこの映画は、冒頭一時間以上を掛けてていねいに解説する。主役をつとめるのは、浴野成生(えきのしげお)と二宮正。(長い映画全体の主役とは言えないが)
http://aileenarchive.or.jp/minamata_jp/documents/060425ekino.html で次のように書いている。
「水俣病患者と慢性メチル水銀中毒患者は、いずれも口周囲と四肢末端に感覚異常を訴えた。日本では、末梢神経が傷害されて引き起こされたと信じられてきた。しかしこの感覚障害は、末梢神経でなく、大脳皮質の神経細胞の瀰漫性脱落によって生じていた(Neurotoxicology and Teratology 27 (2005) 643-653))。この誤診によって多くの典型的水俣病患者が認定申請を棄却されてきた。」

ものを感じるのはA「手足の先の神経」が損傷してもB「大脳皮質の神経細胞」が損傷してもうまくいかない。Aが損傷せずBが損傷している場合も駄目である。ところがこの場合は1977年(昭和52年)に環境庁が定めた「52年判断基準」によれば水俣病とは認定されない。
そうではなく、Bの損傷の方に水俣病の本質があるとするのが浴野学説。最高裁がこれを取り入れた時点で、「52年判断基準」は覆され、膨大な未認定患者が救済されるはずだった。
ところが、そうならなかなった。
不思議な国、日本。

慰安婦問題のキーワードは「賠償と謝罪」である。水俣病についても同じである。この映画でも、国や県の偉い人が謝罪せよと責められて深々と頭を下げるシーンが何度も出てくる。そのシーンだけを見ると、何度も頭を下げさせられてかわいそうだ、という逆の感想を持つ人もでてくる可能性がある。
謝罪せよ、と迫ることの意味がズレていることが原因ではないかと私は思う。
問題は「事実」の存在である。
水俣病患者(申請者)は有機水銀の影響を受けている。大脳皮質の神経細胞に損傷を受け、感覚障害がある場合、水俣病である。浴野学説を最高裁が採用しそれを覆す論文が存在しないかぎり、そう考えるべきだ。
当局が被害者に金を渡す場合、この金で被害者を黙らせることを目的とする。「事実」(加害という事実があったこと)をできる限りごまかすことが目的なのだ。「謝罪」はそれを求める側にとっては、「加害の事実を承認し申し訳なかった」ということだと理解される。これがマチガイである。当局者はその時、相手の前に立ち、相手の気持ちをなだめ、問題の明確化を避けるためのパフォーマンスとして「謝罪」を遂行する。
被害者は「謝罪と賠償」を要求するのは、どうなのか?まず「加害という事実」を認めるかどうかを先に確定すべきであり「謝罪と賠償」を要求するのはその後でよい。
(私が書いたようなことは何十年も闘い続けている先輩たちが気づいていないはずはないが)

台湾/香港/国家観念

『思想』2021年10月号の「帝国の非物質的遺留――台湾と香港の被占領経験の相違について………鄭鴻生(丸川哲史訳)」を読んだ。
それなりに面白いことを書いているのだが、なんだ結局、親中派、反香港騒動(2019年-2020年香港民主化デモ)にもっていきたいのね!という感じ。#丸川嫌い
思想の言葉で、倉沢愛子氏は、日本人が現地人、アジア系外国人を使う時に、「微妙に隠され、表立って問題視されない発言の背後に、「上から目線」に起因する蔑視や潜在的差別意識が忍んでいる。実は私だって、偉そうなことを言っているが、気づいていないだけで、無意識のうちにそのようなことをしているケースはたくさんあるのだと思う。」と述べている。これは現代日本人として考えなければならない点だ。https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/5290

香港は1842年に、台湾は1895年に植民地になり、住民は近代化に巻き込まれていく。1945年光復と1997年返還時、台湾香港の中上層市民たちは近代の帝国が与えた植民地近代をたっぷり味わっていた。それから見ると母国は遅れて見えた。この意識を端的に表すのは、国民党軍を嘲笑する「蛇口の物語」である。植民地モダニティを持った台湾香港の市民は植民地モダニティを与えられ、母国の遅れに対する差別的心理を持つことになった。(『無意識の優越感は日本人のような「先進国人」だけが持つものではないのだ。)
まあそういうことはあるかもしれないが、巨大な香港民主化デモをそうした差別意識で説明することはできないだろう。民主主義、あるいは「自分たちのネーション」に対するどこまでも熱い思いがそこにあったはずだ。
しかし、鄭鴻生はそのような理解はしない。中国人の民族と国家を獲得するための戦いは抗日戦争でピークを迎える。左派あるいは右派という形で「国家観念を持つ」ことになった。この「国家観念」に基づき鄭鴻生は「民主派」を国家観念の欠如と決めつける。
五四運動以来の新中国を模索する革命的運動を警戒した英領香港政府がかえって漢文書院系の教養を重視したという経過によって、香港の政治文化の土台たる広東語の豊かさが形成される。それ以後も戦後75年さまざまな経過を消化しつつ香港の政治文化は営まれてきたことを自身は的確に語っている。中国共産党(あるいは国民党)に求心するべき「国家観念」だけを基準に裁断することができるものではないことは、この論文を読むだけでも分かるのだ。

香港民主化デモの巨大なうねりは、中国共産党勢力の厳しい弾圧によって現在見えなくなっている。中国や日本といった大きな主語(国家観念)によってだけ歴史を語ろうとすることは、歴史と民衆のダイナミズムを取り逃がしてしまうのではないだろうか。

朝鮮に渡った「日本人妻」たち

林典子『朝鮮に渡った「日本人妻」』2019刊 岩波新書を読んだ。島田陽磨監督の映画 『ちょっと朝鮮まで行ってくるけん』に続いて。ほぼ同じテーマ、題材を扱った作品と言える。

異郷、北朝鮮は世界地図では日本の隣だが政治的理由で往来が非常に困難、で何十年も暮らし老境を迎えた元日本人女性たち。彼らにとってふるさととは何だろう。

これを読んで北朝鮮に生きる人についてのイメージが少し変わった。脱北者救済とかという運動サイドの関心を持っているとドキュメンターでもそうした傾向のものを見てしまう。北朝鮮という国家、システムの中でどうしようもない抑圧を受け外に出てきた例外的な人々の目を通して、北朝鮮を理解することになる。
一方、北朝鮮の庶民(人民)はこれですと当局が教えてくれる人々もいるのだが、それは当局によって準備され美化されたものである。「行ってくるけん」にも海水浴で遊んでいる人たちが写り、いい感じなのだが、こんな良い海岸ならもっと人が多くても良いはずではと考えてしまう。人々の実像を知るのは難しい。
北朝鮮には強制収容所があり、言論の自由はない。この映画でも歌を歌うというと首領さまが出てくる歌を歌ったりする。日本の歌は自由に歌っていたようだが、どんな歌でも歌って良いという自由はない。
ただそれにしても、人々はその中でせいいっぱい努力し日々を楽しみ子供を育ていているのだ。一緒に行った日本人男性が40近くなっても結婚していないのを聞いて北朝鮮の人は驚く。日本では自由という主義の下で、子供を作ることすら出来ない人々を大量に生み出してしまった。(これは難しい問題なのでこの表現が正しいかどうか迷うところだが)どんな社会でも人は、別の社会の人には不条理と思われるような常識を受け入れて生き続けていくものだろう。

ひとは生きて老いて死んでいく、はるかな海を渡り違った国で生きるという決断、なんという過ちを犯してしまったのか後悔した人もいるだろう。ただこの本に出てくるのは、後悔せず強く生き続けた女性たちだ。後悔いくらしてもしきれないといった気持ちに沈んでうつうつとした人生を送ったひともいたろう。それぞれどの人生も貴重である。

1959年から1984年まで、在日朝鮮人の北朝鮮への「帰国」運動が行われた。約93000人が「帰国」した(その8割は最初の2年間に帰国)。そのうちに約1830人の日本人妻と言われる人がいる。林典子さんは2013年から18年まで11回訪朝し、9人の日本人妻と残留日本人女性1人を訪問し話を聞いてきた。
3年で里帰りできるという約束は果たされず、60年にも及ぶ年月で一度でも里帰りできた人は極わずかである。
両国家の都合にも合致したため帰国することになったが、両国家の都合により一時帰国も禁じる状態が60年も続く。当事者にとっては不条理かつ過酷な状態である。また日本人妻にとっては、朝鮮人との結婚と「帰国」に対して親から激しく反対された人が殆どである。他の方以上の激しい孤独・孤立感にうちかって60年近く過ごしてきたわけだ。
にも関わらず、林さんの伝える日本人妻たちは、北朝鮮当局や日本に対する恨みつらみを持っていないようだ、それらを強く抑圧し、消化していかないと生きてこれなかったのだろう。

「「だから早く「クッキョチョンサンファ」してね、行ったり来たりできるようになればいいのに、これ何ていうの日本語で?」(同書p64)
「国交正常化……」。私は答えた。」と林さんは答える。
「国交正常化」なるものが両国間の政治、そして日本国民の北朝鮮感情などにももみくちゃにされ、当事者の思いとは遠いところに存在していることを林さんは「……」に込めているのだろう。

『夜は歌う』と革命の原理

キム・ヨンスの「夜は歌う」はなぜ、甘やかな恋愛の話から始まるのか?陰惨な話が続く後半、最後まで、その強い記憶は消えない。

主人公キム・ヘヨンは1910年朝鮮併合の年に生まれた朝鮮人である。彼は工業高校出で満鉄に就職するというチャンスをつかんだ。独立や共産主義に興味はない(ないふりをしている)。

ヘヨンはジョンヒに出会いジョンヒを愛した。そしていくぶんかは彼女も自分を愛しるはずと信じた。しかし、ジョンヒは実は、間島の反日帝パルチザンの中心的活動家であり多くの人にその正体を知らせずに活発に活動してたのだ。ヘヨンに近づいたのも利用しようという考えからだったろう。それを知らされ、自分の信じていた世界はまったく空虚なものだった、とヘヨンは愕然とする。

しかし、そこには幾分かの真実はあったのだ、ということは最後の頁で明らかになる。李ジョンヒは11歳の時、ウラジオストクで祖父を日本軍の襲撃で失う。そのとき「悪魔のように強くなろうと決めた」という。彼女はヘヨンに「私を愛さないで」と言う。しかし、ジョンヒを誤解し、彼女が切り捨てた自分の半身いわばお嬢さんとしての半身を、強く愛してくれるヘヨンをジョンヒは嫌えなかった。

「愛も憎しみも感情だけでは存在しない。行動で見せてこそ存在するんだ(p81)」と中島は言う。

行動というより人間存在の全体性をかけて、ジョンヒを愛したのかと中島は挑発的に問いかける。ヘヨンはこの挑発に答えるように、革命に近づいていく。

物語の最初で中島が朗読するハイネの詩は、この小説全体の骨組みを明かしているようにも読める。

それはある限りない怒りについての詩だ。ある男は死してなお限りない怒りに包まれている、その力でもって男は死を越え、恋人を自分の墓に連れ込む、という詩だ。

この詩の男をジョンヒに、女をヘヨンに入れ替える、するとこの複雑で残虐な物語のシンプルな構造が見えてくる。ジョンヒは死を超えるほどの力で世界と革命を希求した。そしてそれが中断したため、死を越えてヘヨンを召喚したのだ。ヘヨンはそれに応え、革命とは何かを知る。

関東軍は1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変(柳条湖事件)を起こす、そしてまたたく間に満洲全土を制圧した。しかし北間島地区では、朝鮮人たちの抵抗が激しい弾圧にも関わらず執拗に続いていた。

1933年4月のある晴れた日、北間島の山間の小さな村での婚礼は、突然日本軍に襲われ、参加者は全て殺される。いわば紛れ込んだにすぎない主人公キム・ヘヨンだけは生き残る。「遊撃隊」に助けられ、その後中国共産党地方幹部に尋問される。意外な経過により、彼は助かり漁浪村での政治学習が命じられる。

「僕は草葺きの家で赤衛隊の青年たちとともに団体生活を送りながら、思想・軍事教育を受け、労働した。」

「議会主権が来たぞ。赤い主権が来たぞ。無産大衆の血と引き換えに議会主権が来たぞ。」

「その歌声を聞きながら野原で働いていると、心が温かくなる。ここの人々はみな、白区で共産主義青年団員として、あるいは赤衛隊員として活動していたときに、討伐で家族や家を失って遊撃区にやって来た人たちなので、お互いを心の支えとしていた。心を固く閉ざしているかと思えば、たったひと言で心を開くこともあった。」

「草葺きの家での生活を始めて二か月あまり経った頃、僕は少し違う人間になっていた。日は暗闇に慣れ、細かい光にも反応し、鼻はどこに食べ物があるのかをすぐに嗅ぎつけ、口は休みなく革命歌を歌った」(p154-157より)

「草葺きの家で」と語られるこの数ヶ月の生活は美しいものだった。

著者は「革命の原理」についてこう書く。

北間島で生まれた朝鮮の娘はふつう男の所有物に過ぎない。アヘンと引き換えに売られたりする。しかし、ある若い女性(ヨオク)はある夜学教師に出会うことができた。彼が世界のことを教えてくれた。彼はヨオクの言葉に耳を傾け、ヨオクの顔や体をじっと見つめた。「そうやって見つめられ、話を聞いてもらううちに、ヨオクは初めて自分もひとりの人間だということに気づいた。革命の原理を悟ったのだ。(p101)」

私は自由な人間だ、「人間は畜生ではない、それぞれが高貴な存在なのだ、と」。それはひととひととの魂のふれあいによって初めて気付ける真理なのだ。教師は階級支配について語ったりもしたが、そうした思想注入が人を革命的にするのではない。おまえは人間だ、と感じさせてくれることにより人は革命に目覚める。

この小説は、500人を超える朝鮮人革命家(あるいは難民)が敵ではなく仲間の手によって殺された悲惨際まりない事件、「民生団事件」を描いた初めての小説である。それについて解説すべきだが、字数制限により省略する。

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首都占領は恋愛のチャンス

廉想渉(ヨムサンソプ)の『驟雨』は面白い小説だ。
1952年に書かれたとは思えない、とてもモダンな感じ。
白川豊による翻訳が出たのが、2019年、21世紀に書かれたと言われてもだまされてしまうだろう。

「フロントグラスをザーザーと容赦なく叩きつける大粒の雨を、ルームライトを消した真っ黒な車内にいる皆は(略)」
という車内の描写からはじまる。大金が入ったバッグと美しい女秘書をつれた社長が逃げようとしている。まるで映画のようだ。
しかしこれは、数百万ソウル市民が体験した北朝鮮軍による占領体験を市民の側から詳細に記述した小説なのだ。朝鮮戦争勃発の2日後である、1950.6.27から50.12.13までの時期のソウルを描いたもの。
国民的なあまりに重い主題とそれとうらはらなポップなスタイルの矛盾が、この小説である。

廉想渉(1897-1963)は李光洙(1892-1950)より5歳下なだけ、黄晳暎(1943年生)などよりずっと先輩になる。
経歴を見ると、1918年慶応大学予科入学するも半年で辞め、福井県の小新聞の記者になり3カ月で辞める。後東亜日報ほかのソウルでの新聞雑誌者で活躍とある。金達寿の『玄海灘』の主人公とそっくりだ。
廉想渉は1919年の三一独立運動に際して、大阪でビラ撒きしようとして拘留された。1945年光復後、多くの韓国の文学者たちは愛国に目覚め社会主義化し越北する人も多かった。廉想渉はリアリストとされ、彼らとは一線を画した。多くの絶望を抱え込んでしまったのだろう。
ただ、『玄海灘』の方は未来のネーションを支えるべき二人の青年が主人公だったのに対して、『驟雨』は吹けば飛ぶような一人の女性が主人公である。

「避難民が溢れそうに通り過ぎるのを、食後に出てきたのか孫を連れた老人がぼんやりと眺めており、その前で黄色い子犬が尻尾を振っている。この奇妙な対照!」(同書解説p418の作家の文章より)
全てを捨てて歩き続けなければならない宿命に押しつぶされそうな避難民たちに対して、「この老人は燦々と降り注ぐ日差しの下で座っているようにみえる」
われわれの生活と思考と感情のすべてがその軸を失った以上、そこに与えられたわずかなぬくもりの中で思い存分背伸びしてみることもできるはずだ。首都崩壊のただなかでの災害ユートピアの幻をこの小説は描いている。

姜スンジェははきはきした美しい新女性である。社長の秘書で愛人でもあったが、戦争の混乱の中で自らそうした関係から自由になる。そして間借りすることにもなる元の同僚申永植に急接近しはじめる。「スンジェの愛欲心理と恋人・永植に対する実際の積極的なアプローチが、かなり具体的に書き込まれている」と白川氏に評されている。

朝鮮の首都が共産主義者によって占領され、数カ月後逆転する、それは決して『驟雨』などと軽々しく呼ばれるべきものではないはずだ。しかしそれはその後70年経っても分断を解決できなかったこの世界(南北朝鮮とその周辺国家)の歴史が、そういう重みを背負わせてしまったのだ。
光復によって民族が解放された以上、なんらかの統一は近々なされなけらばならないしなされるだろう、と当時の人々は信じただろう。スンジュの夫は共産主義者になり越北するが、占領軍としてソウルに帰ってきて復縁を迫る。しかしスンジェは「勇気がない」として拒否する。しかし「私は心の中では、あるいは精神的にはあなたの妻です」と書きとめる。しかし「自由に背を向けてまであなたの妻でいられるほど、自由を捨てて出ていく勇気もありません。(p182)」友人の文学者たちが越北していった時、廉想渉もそう思ったのだろう。社会主義の大義は認める、しかし私は自由の方を取る。インテリの考える思想的自由ではなく、スンジェの生き生きした喜びのなかにある自由それを私は捨てられないのだ、と廉想渉は考えた(と言っていいだろう)。
「北」に傾くことなく身を処し続けた廉想渉は、思想的にも「北」にとらわれず、かといって反発もせず、自由に生きつづけた。戦乱のなかでのスンジュの小さな恋愛のたたかいを長編小説に記し、讃えた。

(2024.5.9訂正)

『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』

1.
朴婉緒の自伝3部作の第二、『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』読んだ。あとがきに自伝ではなく自伝的小説だとある。

朝鮮戦争時、ソウルは二度にわたり北朝鮮軍に支配される。
一度目は、1950年6月28日から9月末まで。
二度目は、51年1月4日から3月14日まで。
この小説はちょうどこの二度めの時期を扱っている。二度めは一度目と違い、ほとんどのソウル市民がソウルを脱出し南へ逃げた。しかし婉緒の兄は脚に傷を負っており動けなかったので、彼女の家族はそれができなかった。たった二ヶ月とはいえ、この奇妙な権力は婉緒たちに触れずにその上を通過してはくれなかった。
婉緒は元の家から、ソウル西北の知人宅に避難していた。(避難しないことは、アカに染まったとして旧体制復帰後迫害されるので、偽装でも「避難」しないといけない。)
1.4後退からしばらくしてから、婉緒の地区にも人民委員会ができる。嫌々ながら婉緒も人民委員会で事務的な仕事をやらされることになる。北朝鮮軍は退却することになる。婉緒と義姉とその幼児だけは北に送られることになる。義姉のとっさの気転でイムジン河だけは渡らずに、そちらの方向にとぼとぼ歩いて行き、途中で東に道を逸れる。ソウルの東北近郊坡州(パジュ) の近くの山中にまで来ると、幼児が咳き込みひどく熱を出し始めた。「ヒョンは一日中、義姉の背中で咳き込んでいた。咳がひどくてなんどか背中にもどした。吐いたものを拭こうと思ってねんねこの上にかぶせた綿布団をはがすと、体が火鉢のように暑かった。」幼児を連れた避難民たち。数年前満州の北から南へ、あるいは朝鮮へ向かってとぼとぼ歩き続けた日本人母子たち、を思い出す。今も世界のいくつかの場所では同じように歩き続けている国内避難民たちがいる。

村で一番大きな家に助けを求めると、女主人が迎えてくれる。胡桃の油を絞って飲ませると熱が引くだろうと言って、飲ませてくれる。無愛想な老女に見えた女主人はしだいに妖精国の女王めいた風格を見せ始める。

2.
「全焼した村から少し離れた一軒家で退屈な昼を過ごしたあと、その村に漂う静けさに魅せられて美しい灰の中を歩いた。ちょうどそのとき、甕(かめ)のそばの痩せこけた木の枝につぼみが膨らんでいるのを見た。木蓮の木だった。よく見ると外側の固い花びらがようやくほころびかけていた。木蓮は一度春の気配を感じ取ると、あっという間に花を咲かせる。その狂気じみた開花が目に浮かび、思わず私は、まあこの子ったら狂っちゃったんだわ、と悲鳴を漏らした。木を擬人化したのではなく、私自身が木になっていたのだ。私が木になって、長い長い冬眠から目を覚ましたときに見た、人間の犯したあまりに残酷で、気違いじみたことに対して驚愕の声を上げたのだった。(p94)」

これは不思議な文章だが美しい。木蓮は咲きほこる花々を惜しみなくすべて捨て、毎年新たにまた狂ったように花を咲かせる。しかし人間はもっと恒常的なものであり、いったん建った家はずっと建ちつづけている。普通は。ところが村の建物がすべて焼けてしまうことがあるのだ。そしてそのような村がつづきそれが異常ではないように感じられてしまう。人間としての恒常性失って、しかもそのとき陽が照っていればそれだけで喜びを感じる。そのような存在感覚を「私が木になった」と書いている。そして滅びの姿のなかに在る自己に肯定感を感じている。

3.
エピローグに、朴婉緒の家系の自慢と、彼女の母親がするその自慢への婉緒の嫌悪が書かれている。一族から王の婿を三人も出した、というのだ。(朴趾源(パク・チウォン 1737-1805、私が最近興味を持った丁若鏞と並ぶ朝鮮最大の実学派儒学者)も一族らしい。)親日派の巨頭もいたが、両班の家名を支える価値観においては、彼らを恥さらしとする価値観はなかった。「国が滅びようが滅ぶまいが、当代の政権が正当だろうが不当だろうが、そんなことはどうでもよかった。何があっても商売や労働などの卑しい仕事は避け、官職につきたい一心で、平気で破廉恥なことをするのが両班の正体だ。」

このような両班(やんばん)のどうしようもなさに対して、叔父さん(婉緒の家の事実上の当主)の取った態度は立派だった。毎日「ゴハン叔父は納屋から取り出した背負子(しょいこ)を負い(略)、敦岩市場の近くで物を売り」家族12人の生活を支え続けた。背負子ほど両班に似合わないものはない。しかし彼は言う。「背負子のどこが悪い。行商すらできなかったから、うちのミョンソが死んでしまったんだ」

両班根性を嫌悪していた婉緒。彼女が実際にやったことはどうだったか。
1950年彼女はソウル大学に入学したが、すぐ朝鮮戦争が始まり一切授業を受けることができなくなった。それにしても、当時女性のソウル大学生などありえないほどの過剰な学歴になる。
最初に、北朝鮮軍支配下ではそもそも普通の若者自体いなかった。男性は連れ去られ兵士にさせられる。だからむりやり事務(ガリ切り)の仕事をさせられる。
次に、米軍支配の世になってからは、郷土防衛隊というところに連れて行かれる。警察官と口論の末だがなんと「気性は荒いが名門大学の学生だ、うまくやってみるように」と紹介してくれたのだ。(p141)まだ行政庁が帰還していない時期だった。
イムジン江を挟んでの一進一退が続き、再び漢江の南に避難しろという後退令がでる。彼女の仕事は急に忙しくなる。「冬に人民委員会で働いていたときと状況があまりに似ていたので、ふと、今どっちの世にいるのだろう、と思うのだった」

三度目は行政関係ではない、米軍PX(進駐軍専用の商業施設)だ。物も何もない当時のソウルでは、唯一光輝いていた場所だった。
「私には永遠に絵に描いた餅にすぎないと思っていた、アメリカのチョコレート、ビスケット、キャンディーなどが、いつの間にか我が家の日常的なおやつになった。
(略)アメリカ製品には驚くべき力があった。体はガリガリなのに頭だけが大きく、首が細く、口の端がただれ、そのまわりに白く疥(はたけ)が出来ていた子供たちが(婉緒の甥たち)、あっという間にぽっちゃりして肌につやがでてきたのだった。(p251)」

一番目と二番目は権力がまだひよこ状態での権力機構といえるだろう。三番目は商業施設にすぎないのに、その最新西洋日用品のもっている非常な輝きとそれを普通の朝鮮人は買えないという特権性でやはり、権力的落差を存在させていた。

数百年続いた極度に集権的な王・国家・官職への両班の崇敬と、この3つの権力性を同一視することはもちろんできない。生きるためにいくらかの金を入手するためだけの職の入手において、思いもよらない権力関係と交渉しなければならないことになるとは、大学に入ったばかりの女の子には思いもよらないことだった。

 [1]10/25投稿だが、自伝3部作の第一「新女性を生きよ」と並べるため、「記事公開日時変更:9/14に」

References

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1 10/25投稿だが、自伝3部作の第一「新女性を生きよ」と並べるため、「記事公開日時変更:9/14に」

『新女性を生きよ』朴婉緒を読んで

『新女性を生きよ』朴婉緒の自伝3部作の最初。大ベストセラーになった。やっと読み始めたが、とてもおもしろい。[1]「どこにでもあったあのスイバは誰が食べつくしたのか」が原題。『新女性を生きよ―日本の植民地と朝鮮戦争を生きた二代の女の物語 … Continue reading

彼女は1931年生まれ、開城(松都)近くの片田舎の両班の家に生まれる。その田舎の小村は両班が2軒、非両班が16軒ほどで、農地は村人が所有する格差の少ない村だった。

「厠の角から裏山に通じる道には露草がびっしり生えていた。きよらかな朝の露を含んだ藍色の露草を無残に踏みしだくと足は自ずと洗われ、爽快な歓喜が樹液のように地面から体に立ちのぼってくる。衝動的な喜びをどうしてよいかわからず、露草で笛をつくると細くふるえるような音がした。p65」
自然がたんなる自然ではなく、実存と直接交流するかのようなダイナミックな記述。ほぼ同世代の作家である森崎和江、石牟礼道子(ふたりとも1927生)に通じるものがある。

しかし彼女はそのような小ユートピアから離れ小学校に入学するためにむりやりソウルにいくことになる。これは、彼女の母親が〈新女性〉というものにやみくもな憧れを持ち、自分が叶えられなかった望みを娘に託そうとしたからだ。
「お前もソウルで学校に通わなくちゃ p33」
試験がある。「“お前は何だってちゃんとやれるはずだ”と言いながらも母は、一日に何度も予想問題を出してわたしを疲れさせた。p45」合格。
「入学すると同時に朝鮮語は一言も使えなくなり、目に見えるものと行動を日本語で反復して注入された。p63」
「先生は美しく、匂うようだった。母がいう新女性がこの先生だ、とのぴったりの見本を目にしたようだった。子どもはみんな先生を慕う。(略)きれいな先生は心もやさしくて、親鳥にピョコピョコついてまわるひよこのような子どもたちに、注意と愛情を平等に分配しようととても神経を使っていた。」
一人ひとりの子どもに配慮するゆきとどいた教育、しかしそれは「日本語の強制」というトゲとともにしか与えられないものだった。というかそれは多くの人が望んでも得られないものだったのだから「強制」とも少し違う。植民地に生きるとは、すべての希望が結局のところ日本、日本文化に集中していく、そのような構造のなかで生きることと、それへの反発の体験である。

「新女性を生きよ」というのは、朴婉緒の母親から朴婉緒が受けた命令、祈りのような命令だ。朴婉緒の母親は「新女性」にあこがれ、朴婉緒をそのように育てようとした。
「母の実家も似たりよったりの田舎だが、外祖母(母の母)がソウルのかなりの家で、朴積谷に来る前の娘時代のひと頃をソウルの叔母たちと過ごしたことがあったらしい。いとこたちが真明とか淑明とかの女学校に通っていて、それがこの上なく素敵に思え、うらやましかったらしい。母は肩つりのチマを着て革靴をはき、新式の教育を受ける女性たちをひとからげに新女性と呼びならわし、わたしもそのように育てるのが願いだった。p17」

21世紀のわたしたちはすべての欲望を体験した後なおも、女子高生たちの素朴な明るさを愛している。まして百年近く前のソウルの女子高生たちはどんなに輝いていたことだろう。
「母」は、近代や自由というものつまりはまるごとの世界への熱い希求を「新女性」ということばに賭けた。そして思い込みが強い性格である彼女は、その希求をまるごと朴婉緒に投入する。
それが「お前もソウルで学校に通わなくちゃ p33」である。

韓国の歴史を語るときに、親日/反日という価値基準は外せない。しかし、1945年8月までは日帝が韓国を全面的に植民地支配していたのであり、何をやるにしても日帝の権力にすり寄っていくことはほとんど必須のことであった。民衆はいつも日々のささいな利益のために権力にすり寄るものである。そうしたふるまいをあとになってすべて、「親日行為」とイデオロギー的に断罪するのは乱暴であろう。
しかし、そうしたことを無条件に許してしまえば、「誇り」が崩壊するのであり、虐げられた民にとっては「誇り」もまた必須のものであるのだ。

「日本が負けたことをわたしたちが知ったのは、一群の青年たちが、突然棍棒を持って家に押し入ってきたからだった。彼らは仲間うちで嬉々として戯れるかと思うと肩をそびやかし、ガチャンガチャンと家財道具や扉をたたき壊し始めた。」p150

1945年8月15日、日本が負けて、今までの権威日本の権威はゼロになる。それぞれの地域で「親日派」として権勢を奮っていた人の家は襲われる。ただ、朴婉緒の(祖父の)家は地元でさほど恨みは買っていなかったようだ。
「この日、我が家が受けた暴力は深い怨恨に色どられた組織的なものではなく、急に抑圧が解けて抑えつけられていた力がそんなふうに噴出した一種の祝祭行為だったといえる。青年の暴力はいくつもの村をめぐっていくうちに自然に鎮静していき、(略)」p152
数年後の朝鮮戦争時には「青年団とか自衛隊とか左翼とか右翼とかいう政治的なもの」が人の心を入れ替えてしまい、信じられないような暴力が横行することにもなったのだが。

朝鮮戦争時朴婉緒一家はソウルに住んでいた。避難が遅れているうちに前線が家を通り過ぎて行き、“一晩で世の中がひっくりかえった”。兄は(北側の)「義勇軍に持っていかれた」。
三ヶ月後、「世の中がまた、ひっくり返った。」p215 米軍がソウルを制圧したのだ。そのような中で、義姉は男の子を出産する。

「青年団とか自衛隊」とかいう愛国団体がたくさん出来、アカ狩りにせいを出す。告発と密告が荒れ狂う。理解はできるが悲惨なできごとである。

そして大きな問題は、右か左かという分断は若者個人個人の実存の内部にも走っていたことである。
兄は共産主義関係のパンフレットなども持っており、朴婉緒も影響を受ける。(p170)女学校にも民青の組織があり、南山でのメーデーの集会に誘われ出席する。彼女はそれ以上は目立った活動はしていないが、それでもアカとして調べられ、アカメスと呼ばれる。(p218)

右か左かという分断が首都、大きな町の上を砲弾とともに通り過ぎていく。それとは別に、右か左かという分断をはんらかの形で自分自身の内部にも(あるいは家族のなかに)抱えている人は少なくないのだ。

苦しく巨大すぎる問題が首都と自己の核心を捉えて全身を塗り替えていく、ありえない体験。多くの韓国・朝鮮人はこうした体験をした。

ただこの小説はそれを書こうとしたものではない。まだ少女だった自分と家族が世の中の流れに流されるなかで体験した(せざるをえなかった)事実を記したもの、に過ぎない。ただ庶民といえど、ただ受動的に流されたばかりではない、希望を持ち決断し挫折する、そのような時として滑稽なせいいっぱいの生き方が描かれる。
両班の長男の嫁という立場にも支えられた「母」の自然で強力な誇り(自恃)も印象的である。かって私たちの間にも少しはあったそれを、わたしたちは思い出すべきだろう。

References

References
1 「どこにでもあったあのスイバは誰が食べつくしたのか」が原題。『新女性を生きよ―日本の植民地と朝鮮戦争を生きた二代の女の物語 教科書に書かれなかった戦争・らいぶ』梨の木舎1999年刊 「日本の植民地と朝鮮戦争を生きた二代の女の物語 教科書に書かれなかった戦争・らいぶ」という副題は、この小説から歴史を学ぼうという問題意識だけが強調されすぎ不適切と思う。

和解のためのパラヴァー (徹底的話し合い)

謝罪は難しい。自分が正しいと思ってやったことを咎められた場合、相手が自分の正しさを主張すればこちらもこちらの正しさを主張し返すことになり、きりがない。
だからそういうことは止めよう、と考える。しかしそれでは不正は放置されたままになり、社会は良くならない。被害者の気持ちも収まらない。ではどうすればよいか?

https://www.youtube.com/watch?v=ddfboRLj2Ew
京都大学のオンライン授業で、松田素二先生の、「アフリカから学ぶ人文学」という講義を聞いた。

アフリカでは何度も大きな紛争が起こっている。そして終結した。
一番有名なものは 南アのアパルトヘイト(1994年廃止)と1994年ルワンダの大虐殺(100人が犠牲になった)。
このような問題に対して、先進国インテリは「加害者の処罰をすべきだ」など言うが、今までうまく行っていない。上手く行かない場合、先進国側はそれをアフリカの未発達、未開のせいにしてしまう。
それに対して松田氏は「アフリカの潜在力」に注目すべきだとする。先進国がアフリカに学ぶべき点があるのだという新しい立場である。
どのように解決すれば良い?
法と法廷によって加害者を裁く、これが私たちの考え方。しかしそれによって、問題解決したと思われる例はなかった。
別の考え方がアフリカ人によって提起された。それはむしろ加害者を受容するという問題解決の仕方だ。加害者も被害者も同じコミュニティのなかで生きていくしかない。
それは乱暴に言えば、真実よりも和解・癒やしを追求するという考え方だ。アフリカ風には「顕微鏡型真実」ではなく、「対話的真実」と言う。
顕微鏡型真実は、物的証拠などを細かく積み重ねていって裁判所が「事実」を認定しそれによって「罰」を決める。
対話的真実とは、加害者と被害者が互いに話し合った中で了解しあえたものを真実とするという考え方。
南アの真実和解委員会(TRC)やルワンダの共同体法廷(ガチャチャ)でも、対話的真実の考え方が採用されている。これに問題がないわけではないが、顕微鏡型真実による解決よりは有効だと考えられる。
罰を与えるシステムには、今後どのようにしてひとびとが「よりよくともに生きることができるか」という問題意識が欠如しているからだ。

このような思想の核心として、コンゴのゲリラの指導者でもあった哲学者・社会学者ワンバ・ディア・ワンバ(去年コロナでなくなった)はパラヴァーものを強調する。

パラヴァーとは、誰もが参加し自由に雄弁に意見を述べ、全員が一致するまで話し合い続け最終的に「違い」を乗り越え合意に到達する会合(あるいはその場)ことである。何日も掛けることもある。
被害者がその思いを大きな悲嘆とともに語る、加害者はそう言ってもと自分の思いを語る。それは当然被害者のより大きな怒りをまねく。そのような巨大なエネルギーの交換が長く続く。(ミンデルが炎と言っているもの)
この場合、お互いの「違い」はあってはならないものとはされず、否定・征服されたりしない。南アにおける白人の立場は確かにある立場からは全否定しうるものかもしれないが、現実には50年以上続いているものである以上、そうすることはできないのだ。
そして、感情を徹底的にぶつけ合うことによって、その場に参加・関与する異質なひとびとのあいだに、それまでなかった共同性(一体感や共通価値)や熱狂、祝祭感覚をつくりだす。そういうことができるのだ、というのだ。
これは別に理想論ではなく、実際に各地で行われていることだ、というのだ。

わたしたちは多数決が民主主義であるかのように教えられているが、日本でもかっては、満場一致を原則とし、それに到達するまで粘り強く話し合い続けるという文化は珍しくなかった。多数決を理解しないのは遅れていると先進国の人は言うのだが、それも一方的だろう。(日本では現在国会できちんとした討論は行われておらず、多数決だけが機能しており、民主主義とは言えない。)

これを読んだとき、全共闘時代の大衆団交の理想に近いものを感じ、非常に興味深く感じた。
大衆団交について、松下昇はこう書いている。
「学生側(特に全共闘派)は大学構成員に関する全ての問題を、直接・対等・公開の原則に基づいて討論し、実行することを目指し、自他の生き方の検証の場としても把握していた。」対立は持続し、解決するまでこの場は終わらないという感覚は共有されていた。
http://666999.info/matu/data0/gainen32.php

パラヴァーは和解を目指すのに対して、大衆団交にはそういう指向はなかったという相違はある。しかし、納得するまで問い続けるという迫力が何かを生み出しうるという共通するものがあると感じた。まあこれは読者には分かりにくい話ではあろう。

「罪と罰」プロセスだと、過去の事実に罰(評価)を与えるだけである。「告発と謝罪」プロセスだと、被害/加害関係が予め決まっていて、加害者側は謝罪をする場合でも強いられた謝罪になり、ほんとうの謝罪には永遠にたどりつけない。
つまり、相手と共に生きるという結果から逆算すれば、パラヴァーのようなプロセスは絶対に必要である、と言えると思う。

また、裁判というものを国家に譲り渡さないというパラヴァーのヴィジョンは、これからのアナキズムを考える上でも必須のものであろう。妥協や復古、長老の価値というわたしたちが今まで否定的に見てきたものに対しても、再考が必要だということになる。

(この文章は、松田先生の下記動画・パワポにあった文章を引用符抜きで引用、あるいは一部改変させていただいております。
https://www.youtube.com/watch?v=ddfboRLj2Ew したがって野原が著作権を主張しうる文章ではありません。ご容赦ください。)

追記:現代日本においては、エビデンスに基づく裁判による有罪でなければ、加害者であっても自らの加害を認めないといった、「顕微鏡型真実」観の悪用さえ起こっている。直接関係ないが付記しておく。

差別を禁止しても・・・

ミンデル『紛争の心理学』の「反差別主義」を入り口に熱く語る」という、三鷹ダイバーシティセンターの4人による討論がある。
ミンデルの本のなかで、「差別をなくすべきとする考え方、は偏見はなくならない ということを見落としている。」と一行にであったとき、田中かず子元教授が衝撃を受けたことが動画で表情豊かに表現されており興味深い。
「差別をなくすため」の活動を世界中の研究者・アクティヴィストは国家や行政末端と協力し、日々啓蒙活動とかをして努力しているわけである。そうした努力を一行で否定されても困る。そういう困惑だろうか。
正確ではないような気がする。単純な設問であるがゆえに、簡単な感想文も書きにくい。そこでほぼ諦めた。

彼女たちはこの本に「第10章 人種差別主義者は誰?」という章があるのに抄訳では省かれていることに気づき、著者アーノルド・ミンデル氏に連絡し翻訳した。
「人種差別がテーマですが、これを読むとあらゆる差別問題に通ずるものがありとても大切な部分。残念ながら日本語に訳された本にはこの章は入っていませんでした。
なので恩師でもあり著者のアーノルド・ミンデルに許可をいただき、私たちが訳したものを学びの参考資料として無料でみなさんと分かち合うことを承諾してもらいました。」とある。
https://www.facebook.com/mitakadiversitycenter/posts/219045062919115
こちらのページから誰でもダウンロードできる! 翻訳に感謝します。さっそく読ませていただきました。
この章の最初の文章も衝撃的である。
「自分は人種差別主義者ではないと主張するリベラルな人よりも、自分は人種差別主義者だと宣言する人の方が対処しやすい。」

パブリックな空間で「自分は差別主義者だと宣言する人」がどんどん増えると、世の中は価値(公正)の基準すら失って無茶苦茶になってしまう。書店などに嫌韓嫌中本があふれ政治家もそれに影響されている日本社会は、それに近い状態になっている。
ただ、ミンデルが言っているのは彼が参加するワークショップなど一定の親密さを作り出せる空間、関係性内部での話をしているのだろう。

・善意の白人男性 謝罪しこれからは前向きに生きていく、宣言。
ミンデルは社会活動家にロールチェンジする。
ミンデルは彼に彼の特権性を忘れるべきではないと説く。マイノリティは差別から立ち去ることはできない。
彼は階級と経済の問題の重要性を忘れてないか、反問してくる。ミンデルはそれは認めた上で、再度話す。
「私たちは葛藤を乗り越え、二人とも心を深く動かされた。」p4
この場合はこのような相互関係にたどり着くことができた。しかし、私が見聞した限り、差別問題での話し合いでこのような感動や和解に至ることはめったにない、と思う。
差別問題とは、差別者と被差別者の非対等性である。したがって糾弾される側がいろいろ自分の感じたことを語ったとしても、そのような思いは無視されて当然なのだということになる。糾弾される側はまったく納得しないまま「形だけの謝罪」をすることになる。ところが「形だけの謝罪」では解決しないのだ。
ではどうすれば良いか?

この問題が解決に至った一つのポイントはミンデルが下記のような自分の体験を思い出したことにある。
「他の⼦供たちが私を醜い反ユダヤ主義的名前で呼び、暴⼒を振っ
たとき、私は⾃分がユダヤ⼈の家庭に⽣まれたことに初めて気づいた。⿊⼈の⼦どもたちは、路上のケンカで⾃分の⾝を守り、勝つ⽅法を教えてくれた。」
自己が差別されどうしようもなくなった体験、そしてその時黒人との友情にであったこと。さらに、ユダヤ人が黒人からは白人(差別する側)にも見られるということもこの白人に語りかける時有効に働いたかもしれない。反差別言説はしばしば雄弁である。しかしそれが抽象的な上から目線言説であるとき、他人の心を動かさない。

主流派だけが差別主義者になりうる。差別は意図的行為としてではなく、制度や経済的格差という完全に合法的な形で行使される。であるから主流派は自分が差別を犯しているとは気づかない。
これをどうしたら良いか?

「ダイバーシティ・トレーニング」やポロティカルコレクトネスといったものもある。それは服についた染みをぬぐうように、露骨な差別的な言語の使い方を矯正する。しかしそれはこの社会において「下層と認識される人々を踏みつける傾向を見えなくしてしまうこと」になるだけではないか。

しかし、一方でわたしたちはつながりあっている。真っ裸な赤子として生まれまたそれに帰ることによって死んでいく。マイノリティと呼ばれるひとたちとのつながりのなかで生きてきたのだ。だから関係性を認識し、気づき(アウェアネス)を獲得し、差別を変質させていくことができる。