近代の超克

中島岳志という人が『中村屋のボース』で大佛次郎賞を取ったそうだ。

自らを西田幾多郎ら京都学派の哲学に依拠すると位置づける。

「近代の超克は可能か、という問いを捨ててはいけない。西洋近代が生んだものに、アジアの側から基礎づけを与えていきたい。」

(朝日新聞12/14朝)

日本そのものの否定

アジア主義の否認は、それ自身のうちに止揚しがたい矛盾を孕んでいる。アジア主義を否定することは日本そのものを否定することになる。*1

何の信仰も超越も持っていないが故に日本を最終審級とする(哀れな/素直な)奴らを、ナショナリストとか右翼とか呼ぶのは間違いだ。彼らはただ(哀れな/素直な)だけだ。

*1:「神の否認は、それ自身のうちに止揚しがたい矛盾を孕んでいる。神を否定することは知識そのものを否定することになる。」p170啓蒙の弁証法 のパロディ

平成超国家主義

 中島岳志さんのエッセイが今月号の論座に載っていたので、図書館で読んでみた。(暇人か?)

 彼は1975年生。論壇では最若年になる。でその世代には「オルタナティブな価値や世界のあり方を見出したいという欲求が広範に共有されている。」

この間の右傾化の流れの中でいわゆる右翼的になることも多いのだが、上の世代の右翼的な人たちとはだいぶ違う。福田和也や宮崎哲弥は世間にさからってあえて右翼的言説で行くといった選択をした人。が平成ネオ・ナショナリズムと名付けられる20代の彼らはもっとストレート。社会の曖昧な抑圧感への抵抗をそのまま「ナショナリズム」にもっていく。従来左翼的なものと親近していた、エコロジーや反戦運動、オーガニック、ニューエイジ的スピリチュアリティみたいなものに接近することも多い。でもって、縄文的アニミズムの称揚や「母なる大地」との一体化を唱えるナショナリズムとむすびついていく、と。代表的人物としては俳優の窪塚洋介が挙げられる。彼は映画「Go」で在日朝鮮人を演じ(おおげさに言えばそれに憑依す)るなかで、自己の中のナショナリズムに目覚めていく。社会システムに抵抗する自己の軸を「在日」ではなく「日本」に見出したのだ。といった話でした。

 で、中島によれば、オルタナティブを求める運動が国家主義に回収されるのは珍しいことではない。昭和初期の超国家主義も、国家主義のウルトラであったわけではなく、現実の国家を超越した価値を追求する思想だったと。

 ふむ。