「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」

河村発言などによって「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれて、以降いろんな考察がでています。
小田原のどか氏による長い文章を読んでみます。「私たちは何を学べるのか?「表現の不自由展・その後」

問題の核心を、「中止に至った問題の諸相を単純に腑分けすれば、政府高官からの介入、市民による抗議、そして脅迫があると考えられる。」
「文化芸術基本法の理念に反する行為である。脅迫や、政治家による公金を理由にした介入などの暴力を決して許してはならない。しかし、河村たかし名古屋市長の来歴を見れば、《平和の少女像》を批判する発言が出てくることはごく「当然」なのである(*1)」
ととらえる。

☆ 河村名古屋市長は、政府高官ではない。
なぜそういう誤記をするのか。タブー意識が働いているのではないか?

☆ 河村市長が、慰安婦像を「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」として批判し、この発言を日本人の少なくない部分が肯定的に受け入れた。これが今回の事態の核心だと思われる。
保障されなければならない「表現の自由」なるものが侵された、と捉えるのは浅いのではないか?
行政の長に過ぎない河村氏が、「日本人の、国民の心」というのものに介入発言をしそれにかなり成功していること、これに対して、アートの人も「心」というフィールドにおいて、真正面から敵対していくことが必要だと思われる。

☆ 「《平和の少女像》に反感を抱く人々のなかには、像の建立と、政府間の慰安婦問題には直接的関係がないということを知らない人も多いのではないかと想像する。この構図を周知させることが、像への悪感情を和らげることにもつながるだろう。」
反感を抱く人は存在する。で反感に権利を認めるべきか。
私は権利はないと考える。そもそも「少女像への反感」は2015年安倍首相側からは「大きな汚点」と考えられた「謝罪」に対して、その謝罪の意味をごまかすために「大使館前少女像」に怒ってみせた、という政治的策動に端を発したものである。今回、河村市長が強い口調で断言的に怒ってみせた効果として、《平和の少女像》への反感が事後的に生まれたのである。
それに対して、「反感」というものを自然化し、あるいは「現状の展示場を見る限り、表現の問題ではなく政治の問題としてのみ焦点化されている印象が非常に強い」として作家〜展示者側の問題が気になってしまうのは、「少女像」をめぐる感受性の政治学の激動を完全にとらえそこなっていると思う。
そもそも、「少女像」が作られたのはソウル水曜デモが何十年も継続していることへの驚きからである。水曜デモは70年以上前の日本軍の暴虐に抗議しているのではない。河村発言を受け入れるような現代日本人の半端な被害者意識によって、自分たちの告発が聞き届けられないことへの抗議である。

☆「たとえ歴史認識のすりあわせが難しくとも、」:慰安婦問題については安倍氏も「当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している。」と認めている。この認識からは、少女像が「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」である、はでてこない。少なくとも私にはその理路が分からない。だから私はなん人もの人にそれを聞いて回ったが誰からも答えはなかった。
河村氏がいったいどのような歴史認識に立脚しているのか?それは小田原氏は確認している。「2007年、自民、民主両党の靖国派国会議員らが中心となり、米紙ワシントン・ポストへの意見広告「THE FACTS」を出した」それを読んだようだ。
河村氏はこうした認識に基づき、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」という感受性領域に対する傲慢な介入をした。

☆ 「そしてまた、より普遍的に考えれば、女性の人権が踏みにじられた過去を真摯に省みて、二度と繰り返さないという点では対立を超えることができるはずだ。」
ここにあるのは「政治性」というものに囚われることは、対立の激化につながる。「政治性」というものを脱却していけば「対立を超えることができるはずだ」といった構図、であろう。
現在の問題ではなく過去の問題だと捉えれば、「対立を超えることができるはずだ」と考えたい。
しかし、水曜デモが27年間、ある意味で無駄に積み重ねられざるをえなかったのは、つまりキム・ソギョン/キム・ウンソンが連帯を捧げようとしたものは、過去の問題ではない。「THE FACTS」のような歴史修正主義言説を生み出してしまう心の弱さという現在性に対する戦いである、と私は理解する。
河村氏たちというものは現在、日本において膨大な存在感として存在している。したがって、「愚か者」「テロリスト予備軍」と断じるだけでは終わらせることはできない。
河村氏たちすらも包括しうるような広大な慈悲といった立場に、究極的には到達すべきなのかもしれない。しかし、アートの立場は宗教の立場ではない。あえていうならば、27年間の河村発言に到る「歴史修正主義」発言の総体に憎悪でもって肉薄することこそが、想像力の戦いとしてなされるべきことであろう。

☆ 「憎悪」「対立」「正義」といったものは、アートとは別の領域にあるべきものだ、という思い込みはアートの弱体化にしか繋がらない。

☆ 小田原氏は、広島、長崎の資料館での加害/被害展示のあり方についてなども、持続的に考えておられる。2つの原爆資料館、その「展示」が伝えるもの

☆ 小田原氏は、天皇が「一度おばあさん[元慰安婦]の手を握り云々」という、文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長発言については、こう書いている。

これに対し日本政府は「不適切な部分がある」として謝罪と撤回を求めている。しかし政府は「不適切な部分」について、それが昭和天皇を戦争犯罪の主犯と呼んだことにあるのか、それとも上皇の謝罪を望んだことなのか、具体的には明らかにしていない。平成から令和に変わり「新しい時代」などとかまびすしいが、いったいどこに新しさなどあろうか。日韓のあいだには、変わらず深い溝が横たわっている。(北緯38度線の分断から見えるものとは何か?

静かだが、言うべきことは言い切っている。
今回の文章の河村発言については、明らかにトーンが変わっている。

日韓の請求権協定の解釈について

去年10月に韓国大法院は、強制動員被害者に対する賠償を新日鉄住金に命ずる判決を出した。以後、日本政府によるそれへの反発とその影響は、むちゃくちゃ大きなものになっている。
ところが、この日韓請求権についての問題は、法的にとても煩瑣な議論でありとても難解である。
弁護士山本晴太氏の文章二つを参考に、下記にまとめてみた。不出来ではあるがよかったら読んで下さい。
・・ 日韓請求権協定解釈の変遷と大法院判決
・・ 日韓両国の日韓請求権協定解釈の変遷

日韓請求権協定第2条では、「両締約国およびその国民の財産、権利および利益ならびに請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたこととなる」となっています。

1、この問題がトラブルになっている原因は、それとはまったく違う解釈を日本政府が繰り返していたことにあります。
「当事者個人がその本国政府を通じないでこれとは独立して直接に賠償を求める権利は、条約によって直接影響は及ばない」
と1965年の以前から日本政府は主張していた。
広島原爆被爆者、シベリア抑留被害者の日本政府への補償請求において。

2,広島の被爆者は、アメリカ合衆国ないしトルーマン大統領に対して損害賠償請求権を持っていたのに、これをサンフランシスコ平和条約で日本政府が消滅させてしまったとして、アメリカからの賠償にかわる補償を日本国に求めたのです。
これを回避するために、「サンフランシスコ平和条約に書いてある『放棄する』とは個人の権利を消滅させるものではなく国の権利である外交保護権を放棄しただけだ」という説が日本政府によってとなえられた。

3、1965年の日韓請求権協定についても、朝鮮半島に財産を残してきた日本国民から訴えられると困るので、「個人の請求権の消滅ではない」と説明した。

4、ところが1990年代から、韓国、中国の被害者が日本の裁判所で続々と裁判を起こし始めた。
2000年頃になると、「消滅時効を援用すると、「いや、国側が資料を隠しておいて、今さら時効というのは信義則に反する」。それから国家無答責といって、明治憲法のもとでは国家は不法行為責任を負わないと考えられていたのですが、「それは旧憲法下の解釈であって、現憲法下で適用できる解釈ではない」などというように、論点ごとに国に不利な判断が次々に出始めて、ついに国が敗訴する」ことにまでなってきた。

5,この状況下で国は裁判での主張を急に変えてきた。「実は1965年日韓請求権協定で解決済みだ」と。しかし最初それは裁判所も採用しなかった。しかし、2007年4月27日の最高裁判決(西松建設事件)、国の新解釈を受け入れた。「サンフランシスコ平和条約の枠組み」というものがあり、それが平和条約に参加していない中国にも適用されるとする、理解不能の論理によって。

『サンフランシスコ平和条約の枠組み』論とは、平和条約締結後に混乱を生じさせる恐れがあり、条約の目的達成の妨げとなるので、『個人の請求権』について民事裁判上の権利を行使できないとするという。日中共同声明や日韓請求権協定も『枠組み』に入るものとして、『個人の請求権』を裁判で行使できないものとする、というもの。

6,「ここでいう請求権の『放棄』とは,請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく,当該請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるにとどまるものと解するのが相当である。」と述べました。つまり、日中共同声明によって被害者個人の請求権が消滅することはないが、その請求権を裁判で行使することができなくなったという。
非常に難解である。

7,「個別具体的請求権について、その内容などにかんがみ、債務者側において任意の自発的な対応をすることは、妨げられない」だけが、唯一の希望として残った。この考えにとって、原告たちは西松建設と和解を成立させた。

8,したがって、同様に強制動員問題当事者たちと、企業また日本政府とが和解を成立させることは、日本政府にその意志があれば容易なことだ、ということになる。

9、90年代から慰安婦問題が大きく取り上げられるようになり、河野談話、アジア女性基金ができたが、日本政府は元「慰安婦」たちとの和解を達成することができなかった。

10.2005年盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権が「韓日会談文書公開官民共同委員会」を設置。
「韓日請求権協定は日本の植民支配の賠償を請求するためのものでなく、韓日両国間の財政的、民事的債権・債務関係を解決するためのものであり、したがって日本軍慰安婦問題など日本政府や軍など国家権力が関与した反人道的不法行為に対しては請求権協定によって解決されたと見ることはできず、日本政府の法的責任が残っている。サハリン同胞問題と原爆被害者問題も請求権協定に含まれていない」と明らかにした。
日本軍慰安婦・サハリン同胞・原爆被害に対する賠償請求権は未解決という点を明確にした。参考

しかし強制動員被害者については、請求権協定資金の5億ドルの計算の中には、強制動員被害者に対するものが総合的に勘案されている、とした。
ただし、山本晴太氏によれば、これは個人の請求権が消滅したという意味ではない、とのこと。

11,2012年5月24日の大法院判決は画期的な判断を示した。
「日韓請求権協定はサンフランシスコ条約を受けた財政的問題を精算するための条約であって、日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や植民地支配と直結した不法行為による損害賠償請求権は請求権協定の対象外だというのです。これまでは外交保護権放棄なのか、個人の請求権なのかという話をしていたら、ここで「いや、そもそもこの協定は関係ないんだ」という判断を打ち出したということです。この協定の締結過程で日本は植民地支配の不法性を一切認めなかった。不法性を全く認めず、植民地支配の性格について合意がないまま結んだ協定で、どうして不法行為による損害賠償請求権が解決されるのかという理由です。」

12,この判決は画期的だったが、日本ではほとんど報道されなかった。
この間、日本では河野談話の約束は果たされず、2014年朝日新聞が不必要な「謝罪」をし、日本国民の意識は嫌韓に傾いていた。

13,2018年11月の大法院判決も2012年のものを踏襲したもの。
安倍晋三首相は「国際法に照らしてあり得ない判断」だと批判した。そして、本来被害者と民間企業の間の問題であるにも関わらず、1965年の協定で解決済みを振りかざして韓国政府に圧力を掛けようとした。
そして2019.8.28、輸出手続きで優遇対象とする「ホワイト国」から韓国を除外した。大きな国際紛争になってしまったわけだ。

14,この間日本政府は「1965年の協定で解決済み」が、絶対的な真実であるかのように大宣伝しており、マスコミに出てくる評論家もそれに従っているようだが、そこまでは言えないことは確かだろう。

真如とは

6世紀前半に中国で作られたらしい『大乗起信論』
これについてちょっとメモしておきたい、と思いながらできずにいた。なお、原文と書き下し文は下記にある。
大乗起信論

石井公成氏の『東アジア仏教史』によれば、インド仏教では、「心」は、揺れ動くものであり制御すべきものとされていた。(p96)

ところが、大乗起信論では、大乗とは「衆生心」(人々の心)にほかならないと断言してしまう。(岩波文庫p177)
(摩訶衍(大乗)とは) 所言(いわゆる)法とは、謂わく衆生心なり。

「本書では、「大乗」(摩訶衍)について「衆生の心がそのまま大乗である」と述べ、「一般平凡な衆生の心に仏性がある」という「如来蔵」思想を説き、「大乗起信」とは、これへの信仰を起こさせるという意味である。

本書は、いわゆる般若経などに説かれる自性清浄心と、いわばその発展思想である「如来蔵説」を述べ、これを「本覚」と呼んでいる。」ウィキペディアからごく一部引用してみた。

さて、大竹晋氏の『大乗起信論成立問題の研究―『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』という分厚い本を読んでみた(一部)。図書館から借りて。

「真如」というのが、この本の中心概念、ほとんど万能的に振り回される概念である。
ところが、この概念の中身にかなり問題があるというのが大竹の指摘。(p448以下)

 インド仏教(唯識説)においては、それそれの諸法(もの)にそれぞれの(言語表現どおりの)自性があるわけではない。

あらゆる諸法が、さまざまな言語表現によって形容されるにせよ、言語表現は「仮設」である。つまり、言語表現どおりの自性(svabhava)はない。
むしろ、「あらゆる諸法には言語表現されえないこと、という自性があること」 そのことが、「真如」と呼ばれる。原語では、真如:tathata、そのとおりのまこと、である。
つまり、真如とは、あらゆる諸法に共通の属性である。

ところが、起信論では、「真如」は、神秘化、超強力化、実体化されてしまう。

起信論では、次のようになる。
 是の故に、一切の法は本より已来、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして、変異あることなく、破壊すべからず、唯だ是れ一心なり。故に真如と名づく。
「あらゆる諸法は、もともと、言語表現を特徴とするものをかけ離れており、
音素を特徴とするものをかけ離れており、心の所縁を特徴とするものをかけ離れている。絶対に一定であり、無変異であり、破壊できないものであり、ただ一つの心であるにすぎない。ゆえに真如とよばれる。」p449 岩波文庫p180
つまり「言語表現されえないから真如である」と説かれている。

 此の真如の体は、遣るべきものあることなし。一切の法は悉く皆真なるを以っての故なり。
 亦た立つべきものなし、一切の法は皆同じく如なるを以っての故なり。当に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如となす。

「この真如という体は排除されるべきものを有しない。あらゆる諸法はいずれも真だからである。
さらに追加されるべきものを有しない。あらゆる諸法はいずれも如だからである。あらゆる諸法は説かれうるものでもないし、念ぜられうるものでもないがゆえに、真如と呼ばれると知るべきである。」p450
あらゆる諸法は、ダイレクトに真如となる。

まとめると、インド仏教では、あらゆる諸法に共通の属性が真如。
しかし、起信論では、あらゆる諸法が真如になってしまう。450

「あらゆる諸法の区別は「念」によってあるにすぎず、念を取り払ったならば、あらゆる諸法は一なる真如である。」

これを大竹は、次のようなたとえ話で語る。
身近な例で言うと
「インド仏教の唯識: 心という映画館において、心というスクリーンに、心という映写機が諸法という映画を映し出している。
その映画について、さまざまな言語表現を浴びせて騒ぐのが、念という愚かな観客。念をなくせば、安らかに鑑賞できるが、諸法という映画は終わらない。それが仏の心の状態である。

起信論: 心という映画館において、真如というスクリーンに、念という映写機が諸法という映画を映し出している。念をなくせば、諸法という映画は終わって、真如という純白のスクリーンだけになる。それが仏の心の状態である。(p451)

まとめると、インド仏教では、「あらゆる諸法には言語表現されえないこと、という自性があること」 そのことが、「真如」と呼ばれる。
『大乗起信論』では、あらゆるものは「言語表現されえないから真如である」となる。
これをもって、大竹はインド人作の原典が存在せず、中国人が撰述したものだろう、と結論する。

結局、真如なんてものをわたしがかみ砕いて理解できるはずもなく、大竹氏の本の(まずい)転写を行なうだけになってしまった。

2.大竹氏のもう一冊の本『宗祖に聞け』から、
後の時代の人が、「真如」をどんな風に使っていたか、ちらっと確認しておこう。
中国浄土宗・善導(ぜんどう、613-681)曰く。

真如(そのとおりのまこと)のありかたは満々としており、その性質上(むしけらのような)うごめく者どもの心を出たりせぬ。(略)
真如は、煩悩の垢に覆われている時も、煩悩の垢に覆われていない時も、含識(ごんしき・生きもの)のうちにあまねく行きわたっておる。ガンジス河の砂の数ほどの功徳は、はたらきを潜めたまま、含識(ごんしき)のうちにじっとしておる。ただ煩悩の垢という障(さまたげ)の覆いが深いから、清らかな本体(である真如)は輝きでるすべがないのじゃ。

大竹が口をはさむ、「真如はいずれも、あらゆる法(枠組み)の空性(からっぽさ)の別名です。あらゆる衆生に仏性があるにせよ、この娑婆世界において仏性を現わすことは難しいというお話ですね。」(p170)

親鸞もだいたい同じような感じ。真如は輝かしいものだが実際には閉ざされているという感じのようだ。上の問題意識からいうと、インド哲学の範囲内か。

真如について、雰囲気だけ味わってみた。

ハン・ガン『ギリシア語の時間』について

わたしたちの生が、不可思議な条件によって組み合わされた不細工な人形のごときものであること。
だから、それはふとしたきっかけで崩れてしまい、むねに大きな空洞が空いたままいきていく、そうしたものであること。ハン・ガンの人間観はそうしたものだ。

自分を主体であると、錯覚してはいけない。そうではなく、インターフェイスとしての自己、という発想がむしろ必要なのだ。

言葉によって世界が成立している以上、言葉は意識されない透明なものでなければならない。
言葉が存在を主張し始めると、存在者からなる世界は
どうしていいか、分からなくなる。

いちばん辛いのは、自分の口から出た言葉の一つひとつが
鳥肌がたつほどはっきり聞こえることだった。どんな
ありきたりの文章も、その完全さと不完全さ、真実と嘘、美しさと醜さを
氷のように冷ややかにくっきりあばきたてる。彼女は自分の
舌と手から吐き出される、白い蜘蛛の糸のような文章を恥じた。
嘔吐したかった。悲鳴を上げたかった。(p16)

言葉を当たり前のように自由に使いこなし、つまり言葉を見ることも感じることもない、幸せな人たちと、ひとつひとつの言葉を直接感受し、痛みすら感じてしまう主人公。

言葉。「一つの文章を書き始めようとするたびに、古い心臓を彼女は感じる。ぼろぼろの、つぎをあてられ、繕われ、干からびた、無表情な心臓。(p197)」
自分のものではないのに自分のものであるかのような言葉。

その喪失と回復(の予感)についてのこの物語は、特殊でありながら、わたしたちの体験の奥にも通じているようだ。

三浦しおん『仏果を得ず』

三浦しおん『仏果を得ず』を読んだ。
文楽の義太夫語りの若者を描いた小説で面白かった。

女殺油地獄、日高川入相花王、ひらかな盛衰記、本朝二十四孝、妹背山婦女庭訓、仮名手本忠臣蔵 など、の演目を各章の題にしている。
これらの演目は、歌舞伎と共通しているものも多いから、名前くらいは知っている人は多い。しかし、中身にまで入っていこうとしてもけっこう難しい。
というのは、あらすじを聞いても、ピンとこないというか、違和感ばかりでそれ以上共感できないといった話も多いのだ。三浦は熱心な文楽ファンになったのだが、そうなるためには、自分なかで多くのそうした難問を解かなければならなかった。これはそのプロセスを小説という形に展開したものでもある。

「世話物の男は優柔不断で、見ていて腹のたつようなやつばかりだ。登場する女たちが、それでも主人公の男に惚れている理由は?」
三浦はずばりと問題点を指摘する。

人間はおろかなものだ。それは私にも分かる。しかし、わざわざそんなことを芝居にまでして何が面白いのだろうか。それを現在によみがえらせるために必死で芸を磨く。
おろかさにそれだけの値打ちがあるのだろうか?

主人公健太夫は、小説の前半、芸にだけ打ち込むストイックな生活をしている。しかし後半、不思議にも、二人の女性から愛され、愛し、自らおろかさをとことんさらさざるをえなくなるのだ。そしてそのおろかさは感動的でもある。
この小説は、文楽案内を小説の体裁にしてみたものというより、文楽の力を借りてそれを分かりやすく展開してみた、優れた小説だ。

ハン・ガンの『少年が来る』について

 『少年が来る』という小説は傑作だと思う。光州事件を題材にしている。
 書いたのは、ハン・ガンという1970年光州生まれの女性作家だ。彼女は10歳の時に光州事件に遭遇した勘定になるが、彼女の一家はその直前にソウルに引っ越している。

 光州事件のことをよく知らないので復習する。
1979.10.26 朴大統領暗殺、キム・ジェギュ(金載圭)による。(『KCIA 南山の部長たち』に描かれている。)
79.12.12 全斗煥が軍の実権を握る。
80年春、ソウルの春 三金が政治の主役に。(光州は金大中氏の根拠地)
80.5.17 非常戒厳令全国に。
80.5.18 光州で無差別発砲事件が起こる
80.5.27 戒厳軍は武力鎮圧を強行。道庁内に留まっていた多数の市民の決死隊員を殺害した。

 この市民決死隊のなかには、多くの若者、大学生、高校生、あるいは中学生までいた。この小説は少年、一人の中学生を中心に語られる。トンホ。

 死体置き場になった尚武館。混乱のなかでここに迷い混んだ少年は、病院からどんどん運びこまれる棺を整理する係りになってしまう。死者の名前と棺の番号をノートに記入する係りだ。

チンス兄さんが50本入りのろうそく五箱とマッチ箱を置いていった朝、君は道庁の本館と別館を隅から隅まで回りながら、ろうそく台にする飲料の瓶を集めてきた。入り口の机の前に立って、一本ずつろうそくに火をつけてガラス瓶に挿しておくと、それを遺族が持っていって柩の前に置いた。
ろうそくの数にはゆとりがあり、遺族が寄り添っていない柩と身元が未確認の遺体の枕元にも漏れなくともすことができた。P25

 静かで美しい文章だ。実際には惨たらしく悪臭のする死体の山を、なんとかそれを並べてあげて、「悼む」形を整えた主人公の少年と二人の「姉さん」。かれらが並べたろうそくについて、それが悪臭を消すかのように美しく描写している。

 彼がひとつ、不思議に思ったのは、短い追悼式で、遺族が愛国歌を歌うことだった。軍人が殺した人々にどうして愛国歌を歌ってあげるのだろうか?
君がそう訊くと、姉さんはかえって驚く。軍人が反乱を起こしたのだ、と。「君も見たじゃないの。真っ昼間に人々を殴って、突き刺して、それでも足りないみたいに銃で撃ったじゃないの。そうしろって彼らが命令したのよ。そんな彼らを私たちの祖国の人たちだと、どうして呼べるのよ。」(P22)

少年はいままで教えられていたとおり、愛国歌は国家とその軍を褒めたたえるものだと思っていた。軍人の独裁が終わり民主主義の時代がやってきたのに、それを逆転し、銃口で人をどんどん殺して権力を奪おうとしているのは、軍だ、彼らは何の誇りも持てない反乱者にすぎない。本来の国、ネーションは私たちの側にある、と姉さんは説明する。しかし、少年は容易にはその説明が理解できない。

これはこの小説にとってはトリビアルな部分に過ぎないかもしれない。しかし一方で、日本人はまだこの国歌=国家の問題を解決できていないという気が強くする。
(天皇の歌である君が代を戦後日本の国歌にしたのは少しまずかった。
でもそれ以上にまずかったのは、解決したはずの「慰安婦問題」をいつまでも問題にし続け、「徴用工」にまで問題を広げ、自由貿易の原則まで破って見せて、まだ落とし所を見出し得ない安倍政権のやりくちだろう。)

「恐怖のために集会の規模が急速に小さくなっていると彼は真剣な顔で言った。」
「あまりにも多くの血が流れたではないですか。その血を見なかったふりなどできるはずがありません。先に逝った方たちの魂が、目を見開いて私たちを見守っています。」

「魂には体がないのに、どうやって目を開けて僕たちを見守るんだろう。」(P28)

少年はまだ幼いので、ぼんやりと考える。しかし少年は間違ってはいない。死者は死んでしまっており、彼らはどのようなベクトルも指示しはしない。すべては生きているこの私が決めることしかできない。


「軍人が圧倒的に強いということを知らないわけではありませんでした。ただ妙なことには、彼らの力と同じくらいに強烈な何かが私を圧倒していたということなのです。
良心。
そうです、良心。
この世で最も恐るべきものがそれです。
軍人が撃ち殺した人たちの遺体をリヤカーに載せ、先頭に押し立てて数十万の人々とともに銃口の前に立った日、不意に発見した自分の内にある清らかな何かに私は驚きました。もう何も怖くないという感じ、今死んでも構わないという感じ、数十万の人々の血が集まって巨大な血管をつくったようだった新鮮な感じを覚えています。その血管に流れ込んでドクドクと脈打つこの世で最も巨大で崇高な心臓の脈拍を私は感じました。大胆にも私がその一部になったのだと感じました。(p140-142)」

このような〈良心〉は最も大事なものであるのに、めったに語られることはない。言うまでもなく、代わりに語られるのは〈愛国〉であり、ある場合には〈革命〉だ。愛国は現在の体制・秩序・軍事組織への愛情・従順と区別するのが難しい。革命は運動の指導部あるいは前衛党への忠誠と区別するのが難しい。

「しかし今では何も確信することができません。(p142)」

といっても、この発言者四章「鉄と血」の主人公の「確信」が崩壊した原因は、明確に存在する。「モナミの黒のボールペン。それで指の間を縫うように挟み込みました。(p129)」以後10ページくらい詳細に語られる拷問の連続がそれだ。

敗北に続く拷問。
それが終わっても、日常生活がふつうに返ってくることはないのだ。生きることは存在の根っことともにしか営めないが、幸存者たちはみなそこに大きな欠損をうけてしまった。

271頁の小さな本だが、一つの軍事的弾圧の一面をクリアーに描いている。
(2023.8.11 ver.2)

梅原猛についての走り書き

『ユリイカ 梅原猛』というのを買った。最近日本古代を(簡単に)理解したいと思っているので。
梅原猛(うめはらたけし、1925年-2019年1月12日))(吉本の1年下)

出雲について

出雲は戦後長い間、古代の実在的勢力としては重視されていなかった。
「大和と出雲を結ぶものは実は宇宙軸であり、つまり大和から見て出雲が西の果にあって日の没する方位を代表していたことが出雲をして神話的に重からしめるゆえんであった。p99」と西郷信綱も書いていた。

「1984年に荒神谷遺跡から358本の銅剣が見つかり、翌年には6個の銅鐸と16本の銅矛が出土した。1996年には加茂岩倉遺跡から銅鐸39個が掘り出された。そして2000年、出雲大社の地下から巨大な柱が出土して」
「20年足らずの間に、直線で20キロも離れていない狭い地域で相次いだ3つの大発見によって、古代日本列島における出雲に対する認識はすっかり変わる」p103(べきであった)

梅原は「出雲を舞台にした「天の下造らしし大神」の話は、全くの虚構ではないかのか」と書いていた。p98
上記の発見から10年以上遅れて、2010年『葬られた王朝 古代出雲の謎を解く』で梅原は旧説を撤回した。p102
(研究者でも、出雲の実態的勢力はなかった説を墨守する人もまだいるらしい。)

鎌倉新仏教中心主義

戦後日本思想史では親鸞が重視される。「自己の罪悪を反省し、阿弥陀如来の絶対他力を確信し、その信仰のもと安心を享受するという内面のドラマ」p224(参照:子安)に注目する。要はプロテスタント的宗教に近づけた理解ということのようだ。
(鎌倉新仏教だけを強調する理解:「鎌倉時代以降を「封建制」と理解し、日本は東アジア諸国と違って「封建制」に到達したから近代化の道に進むことができたという「脱亜論」の変形である。p56)

それに対して、「自然は人間のように、生き、物言う世界」と信じる日本の神道と最も密接に結びつき定着した真言密教(p222)、そして天台(本覚論)を強調したのが初期梅原。
「密教が生み出した信仰である観音崇拝や不動崇拝は広く民衆の間に広がった。」p56

日本文化論

鈴木大拙や和辻哲郎、彼らの作り上げた日本文化論を 戦後継承することはできない。p55 として激しく批判するところから梅原の評論活動は始まった。
「現在では、鈴木も和辻もなかば忘れられているが」と保立はあっさり書く。
しかし、アカデミズムの側のそのむとんちゃくな忘却が、大衆に対して何重にも劣化した「日本主義」、日本会議系の、蔓延を許ししてしまったのではないのか?

和辻:国民精神文化研究所 戦後はそれについて口をぬぐった
和辻『尊王思想とその伝統』
1,祀る神としての天皇
2,その背後にいる 祀って祀られる皇祖神
3,風雨の神のような 祀られるだけの神
4,祀られるだけの 祟り神 p58

世界全部につながっちゃう

これまでの日本人が国粋的な意味で日本のオリジナルだと思っていたものが、実はもっと広い「古代世界」とつながっていて、聖徳太子をズルズルたどっていくとキリスト教につながり、世界全部につながっちゃうというように、日本というものが大きく底のほうで「世界」に開かれている p251

という普遍性を語るのが、梅原の仕事だった。

梅原は〈辺境〉に共感を持った。
〈辺境〉を糾合して普遍化し、人類思想のメインラインに位置づけようとした。p254
そして、それを大衆にわかり易い物語として語りきった。

歴史に血と肉が与えられて

山岸:ああ、すごいですねえ。本当に先生のお話を伺っていると、歴史に血と肉が与えられて生命が吹きこまれるという感じですね。(略)歴史の先生はというと、どうしても年号を並べて二言目には「かもしれません」ばかりおっしゃるでしょう。私、これが残念でしかたないんです。梅原先生のように、とても明快で歴史が生身で立ち上がってくるようにお話してくださると…。
梅原:それを言いすぎるから、ぼくは嫌われるんだ(笑)。
山岸:いえいえ。でも、それだけに影響力がすごくて、私は本当に怖くて(笑)。
『日出処の天子 3』白泉社文庫 解説・対談より

平成と令和の間に開いた想定外の〈解放空間〉

釜ヶ崎のあいりん労働福祉センターが3月31日で閉鎖されることになっており、午後6時ごろシャッターを閉め始めましたが、多くの人が集まって抗議したため、閉められませんでした。(JR新今宮すぐ南)
私は野次馬として31日午後4時から11時頃までセンターにいました。

6日後の現在も「センターは西成労働福祉センターの管理から外れ、それ以降は管理者不在状態」のまま、夜も昼もシャッター(大部分)開いています。
「電気は止まっているので、センター1階は昼間も暗いままだが、夜中もなかまたちの泊まり込み体制による自主管理が続いている。」

下記のようなイベントも予定されているので、
平成と令和の間に開いた、想定外の〈解放空間〉を一度訪問されたら、いかがでしょうか?

4月7日(日)14時から『泥ウソとテント村-東大・山形大 廃寮反対闘争記』
4月8日(月)18時から「イタリア報告会 社会センターとsquatなどなど」(たぶん行きたい)
4月9日(火)18時から『月夜釜合戦』

4月6日(土)12時から 三角公園

参考ブログなど 3つ
・・《速報》閉鎖されたはずの西成あいりん総合センターで今、何が起きているか?
http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=57
尾崎美代子 https://twitter.com/hanamama58 さんの記事

・・リアル『月夜釜合戦』エピソード2に出演できます
http://attackoto.blog9.fc2.com/blog-entry-454.html

・・あいりん総合センター周辺で配布されていたビラ3枚。(陸奥賢)

朝日新聞記事
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日雇い労働者の街、大阪市西成区のあいりん地区にある「あいりん総合センター」(13階建て)の労働施設フロア(1~4階)が31日、閉鎖の日を迎えた。1階に労働者が仕事を求めて集まる「寄せ場」がある地区の中核施設だが、耐震性の問題で現地で建て替えられる。併設する病院施設(5~8階)の移転後に建物全体を取り壊し、新しい労働施設は6年後に完成する予定。
 この日は閉鎖に反対するグループが1階の寄せ場で午後5時から炊き出しを実施。閉鎖時間の午後6時ごろ、シャッターの下で座り込んだ。一時、100人を超える人たちが集まり、夜遅くまで「シャッターを閉めるな」などと抗議を続けた。

 センターは、国や大阪府などがJR新今宮駅南側に1970年に建てた。3階のフロアは仕事がない人たちの日中の居場所にもなっており、閉鎖に反対する裁判も起きている。入居していた職業安定所や西成労働福祉センターはすでに仮移転。寄せ場も1日から同じ場所へ移る。

 夜間に缶拾いをして日中、センター3階で過ごしてきた男性(76)は「ここがなくなると行く所がない」とこぼした。毎日、1階寄せ場で仕事を探してきた日雇い労働者の男性(60)は「閉鎖は残念だけれど、すでに決まったことだからしょうがない」と話した。(村上潤治、高橋大作)朝日新聞——————-
(以上)

異なり記念日 感想

『異なり記念日』齋藤陽道 医学書院 という奇妙な題の本を読んだ。
ろう者である写真家が自分と家族のことを語ったエッセイ、といったもの。わたしたちは書記言語より先に音声言語(聞く・話す)に出会うわけだが、聞くことが困難である人たちがろう者だ。作者齋藤陽道は、自分たちのことをこう書く。「男の写真家は聴者の家庭で育ち、日本語に近づく教育を受けました(本格的に日本手話を使い始めたのは16歳のときです)。
女の写真家はろう者の家庭で育ち、生まれたときから日本手話で語り、聞きました。」
日本語(音声語)。
電話:「もしもし」「はるみちだよ」「どうしたの?」「これから帰るよ」「気をつけて帰ってきてね」・・・
あまりにも当たり前の日常会話だから特に活字にしたりすることもないやりとりだ。しかしろう者の陽道にとっては、電話でこうしたさりげないやり取りをすることは、大きな困難を乗り越えないとできないことであり、大変な憧れだった。
そして、彼は実際にそうした会話をしたわけではないのだという。「ガラス越しに見ている同級生たちに対する見栄としての、電話ができるフリだった。p125」
日本語は分かっている、しかし聴く・話す機能の一部にかなりの困難があるがために、この程度のことでもわざわざ「フィクション」としてしか実現できない。いや「この程度のこと」ではないのだ。
「ごくふつうに「聞こえる人」のように伝わり和えたというやりとりのなめらかさ」「そんななめらかな会話ができたときには(略)内心では痺れるくらいの喜びに満ちていた。p126」
これは、音声の感度も高度化した灰色のデジタル公衆電話がでてきた頃の話。その後、FAXができ、高校1年のころには、携帯電話でショートメールができるようになる。
高校三年のときには8〜10円で千文字ほどのメールを送れるサービス、その長文メールを一日に何通も書いていた。彼の喜びは想像することができる。彼の日本語に対する特殊な障害を乗り越え、友達と同じようにコミュニケーションできる喜び。
特異なこともない日常に向き合い一冊の本になるほど文字を紡ぎ出すこと、いままでの文学青年とまったく違った回路をたどり、彼は日本語と表現活動にたどりついているのだ。

言葉を身につけてしまった我々はどうしても言葉で考え言葉で伝えようとする。
ただ、コミュニケーションのためにはそれとは少し違ったやり方もあるのだ。
ろう者と自閉症者のコミュニケーション。
「まなみ(ろう者)が一言も音声を発さずに、身振り(でもおそらくそれはただの身振りではない。表情やちょっとした空間の揺らぎにも意味を含める手話言語のニュアンスを織り交ぜた身振りであって、メッセージがより明快に読み取れるものであることが予想できる)で語りかけた」
「その子の(想像だけど)「せっかちで落ち着きがない」動作から、目線やしぐさ、指先の震え、一瞬の表情といったものすべてを無意識に「ことば」として受け止めていたからこそ」
ろう者と自閉症者。辞書的言語以外の領域で語らざるをえない人同士といえるのかどうか、かれらの間ではコミュニケーションが成立した。

日本語(書記言語と音声言語)によって世界は、どんなわずかな隙間さえ無いほど、語りつけされ埋め尽くされているかのように感じられる。しかしほんとうはまったくそのようなことはないのだ。
この本は若い夫婦が子供という他者とどう出会うかという話でもある。子供はいつも言葉なしに生まれてくる。そして親たちとの圧倒的な接触のなかで言葉も身につけていく。この夫婦の場合は、両親は聞こえないというハンディを持ち、子供は(たぶん)持たない。それでも子供は親から言葉を学んでいく。その体験を作者は〈異なり〉の体験として書き留める。子供がはじめて音楽というものを知り嬉しそうに報告してくれる。作者は思わず「おとーさん、音楽、わからない。わからないんだよね。」と返してしまう。
〈異なり〉の体験は、辛いものではある。しかし、生きることの豊かさと繋がってもいるのだ。

わたしたちは〈ろう者〉と無縁に、これからも生きていくかもしれない。しかし、この本を読むことで、言葉の、生きることの豊かさに触れるきっかけに出会うことができるかもしれない。

甘耀明(カンヤオミン)『鬼殺し』上・下を推す

甘耀明(カンヤオミン)の『鬼殺し』上・下、図書館で何気なく手に取った本。大傑作だ。莫言に絶賛されたが、将来のノーベル賞級の才能だと思う。白水紀子訳 白水社 2016年翻訳刊行。

甘耀明は1972年(戦後27年)生の客家系台湾人だ。苗栗県出身。地図で見ると、台北と台中の間は北から桃園市、新竹市、苗栗県となる。苗栗県には雪覇国家公園という広大な国立公園があり、東側の太魯閣国家公園とほぼ隣り合っている。甘は苗栗(ミャオリ)県獅潭(シータン)郷の、先住民族(タイヤル族など)の部落に近接する縦谷の客家の山村で6歳まで過ごした。タイヤル族や彼らの神話・伝説は作中でおおきな比重を占める。

「人殺しの鉄の怪物が蕃界(原住民が住む場所)の関牛窩(グアンニュボー)にやってきた。」という文章からこの小説は始まる。小学生だが荒唐無稽なまでに強い客家の少年帕(Pa)はその前に立ちはだかろうとする。「汽車は実に壮観で、先頭には黒檀に描かれた花輪がかかり、花輪の中に「八紘一宇」の四文字が書かれていた」
帕(Pa)は車体に貼ってあった「皇軍は米国を奇襲、真珠湾を轟沈した」という新聞記事を見て、おもわず雄叫びをあげてしまう。
日本軍鬼中佐は、汽車から降り立ち、「銀色に光る軍刀を抜き、集まった村人に向かって言う。「新しい時代が、本日からはじまる。お前たちは手足を動かして天皇陛下にお仕えせねばならぬ。どんな犠牲も惜しまず、あの山を平らにせよ。」
鬼中佐は公学校の校舎を練兵場に変える。公学校は恩主公廟に移される。今までの村人の精神的中心恩主公(関帝、つまり関羽)の神像は燃やされることになる。
柴を加え油をまいて火をつけても、恩主公像は真っ黒になりながらも生きのこる。神像に宿る魂を汽車に轢きつぶさせようとするが、「恩主公はオウと声を上げ、歯をぐっと食いしばって、踏みつけられても死なない、おさえつけられてもぺしゃんこにならない、何度踏まれてもつぶれない」不滅さを見せる。

日本軍の帝国主義的暴虐を、民衆の神話・伝説にまみれた精神世界にズラシて物語っていくのが、甘耀明のマジック・リアリズムである。

鬼中佐は帕に目を付ける。
「鬼中佐は汽車を停車させ、恩主公の前まで歩いて行くと、大声で怒鳴った。「帕、出てこい」。帕は背が高いので、頭が人の群れから浮き出てきて、間もなく全身をあらわした。鬼中佐は彼に名前を名乗らせた。
「帕であります」。帕は両手を腰にあて、目を大きく見開いていたが険しくはなかった。
「それは『蕃名』だ、漢名は?」
「劉興帕です」。帕はまた付け足して言った、「名前の中には『蕃』の字が入っております」
「お前は両親から捨てられた子だ、俺がお前を養子にしてやる。今後は、お前の名は鹿野千抜だ」。
鬼中佐は言い終わると、帕に何度も「鹿野千抜」と、早くも遅くもないちょうどよい速さで復唱させた。帕はまず拳を握りしめて反抗し、それから耳をふさいだが、もう手遅れだった。その名前は頭の中でずんずん大きくなり、雷のように流れこみ、海のように浸食してきて、追い払うよりも受け入れるほうがましだった。そこで帕は口を開けて心の声を追い払い、言った。「鹿野千抜」
「鹿野千抜、来い。刀を枚いて、支那の神を斬れ」。鬼中佐は腰に帯びた刀をたたいた。帕は数歩前に進み出て、刀の柄をつかみ、鞘から枚いた。刀をさっとひと振りした瞬間、空気が裂けて傷口が見えたかと思うと、大声をあげて神像を真っ二つにたたき斬った。」

1895年日本軍が台湾を領有するために上陸した時、台湾民主国の義勇軍総統領として戦ったのが、客家人呉湯興だった。呉湯興は1895年八卦山の戦いで敗北死去するが、作中では鬼の世界の鬼王として死にきれずに存在している。かってその部下だった劉金福は、日本支配に抵抗し山奥で隠遁生活をしている。帕はその劉に育てられた孫だった。だから帕はその抵抗の意思を直系で受け継がなければならない存在だったのだが、残念ながら、皇軍の鬼中佐に、「名前を付けられる」ことで、彼の養子になってしまう。彼は「八紘一宇」の子どもになり、「一生神に呪われて生きることになった。」

少なくない数の、台湾、中国、朝鮮、その他の国の少年、青年たちを皇軍は「八紘一宇」の子どもに育て上げようとした。驚くべきことに、そして痛ましいことにそれは、半ばは成功したのだ。彼らは苦しみながらも戦い、死んでいった。戦後(光復)まで生き延びた者たちも居る。しかし、魂を昭和天皇に譲り渡した彼らには、「光復」は決してやってこない。「一生神に呪われて生きる」ことしかできないのだ。
戦後新しい国家建設のための思想を確立しなければならなかった台湾、中国人にとって、「天皇の子」を日本鬼子(にほんじん)として疎外するしかないのは、しかたないことであった。

「帕は地面にひざまずいて、心の中で自分は日本鬼子(にほんじん)ではない、自分は日本鬼子ではないと繰り返したが、しかし日本鬼子以外に、自分が何者になれるのか思いつかなかった。日本の天皇は自分の赤子をさっさと見捨て、国民政府もまた急いで日帝の遺児を門外に締め出し、彼らには荒野以外に、何一つなかった。」下p251

天皇と皇軍軍人たち、そしてその周辺の人々の変わり身の素早かったこと。一夜にして「大日本」の「大」の字は消し去られ、満州、台湾、朝鮮は日本とは無関係の土地となった。占領していただけだ。日本軍に協力した奴らは、民族の魂を売り渡した、売国奴だ。国民党、共産党の側からそう言われるのは分かるが、天皇の側はどうだったか。台湾50年の歴史は一切なかったものになり、日本は太古の昔からせいぜい沖縄あたりまで、その沖縄さえ米軍様のまえに差し出しましょうということになった。
「日本鬼子以外に、自分が何者になれるのか思いつかなかった」子どもたちのことは、誰からも忘れられた。

それは必ずしも一部の台湾人だけの運命ではない。帕は台湾東部にやってくる敵と戦う為に、中央山脈を越えようとする。しかしそこで聖なる山の「引力」にとらわれ、ぐるぐる回るばかりで山から抜け出せないという呪いに掛かる。ここの描写には、ニューギニア島の山地を数年間さまよった日本兵たちへの哀悼が込められていると読める。「大東亜戦争」の巨大な〈夢〉に囚われ、「戦後」に帰還できなかった日本兵も沢山いた。彼らの魂の底をさらえようとした文学が、日本にあっただろうか。(レイテ戦記は巨大な達成だがクールすぎる。)

戦後左翼の偏向・浅薄さを声高に叫ぶ人たちは、時に「八紘一宇」を口にする。しかし彼らは「八紘一宇」の真実をかけらもしらないのに、安手の愛国言説と戯れているだけだ。わたしたちが乗り越えることができなかった「大東亜戦争」を知るためにも、この小説は日本人に読まれるべきだ。