「週末研 – 沖縄花見」感想

kurameさんという方が書かれたのだろう「週末研 – 沖縄花見」という文章、読んでみた。
http://kurame.egloos.com/m/5362697

パク·ユハ教授とイ·ヨンフン教授にシンパシーを持っている人みたいだが、それはともかくとしてあまり感心できなかった。

このエッセイは、はじまりの部分と
1.国家の暴力と国民の暴力
2.<国民の暴力>に対する記憶と関連モニュメントの不在
3.魂はどう英霊となるのか –沖縄平和記念公園
4つの部分からなる。

この文章は、週末研というグループがあって、それで沖縄花見という小旅行をした感想である。
この方の基本的な出発点は、「軍事政権によって犯された様々な国家的暴力、日本軍によって犯された様々な暴力とそれを利用した民族主義の鼓吹ロジック」という韓国の左派のいつもの論理たちに対する、「ものすごい疲労感」である。この「左派の論理」と同質のものを、沖縄における反戦など言説にもこの方は感じた、ということなのだろう。

ただし、韓国と沖縄/日本ではロジックの構成に大きな差がある。というのは、
韓国では、国家暴力批判は<国民の暴力>への肯定に結びつく。
しかし、「琉球の人々は、日本人からは排除としての暴力を受け、同時に国家による暴力の対象となってきた。 」つまり、国家暴力批判は<国民の暴力>批判にもなる。ということで、韓国と沖縄は対極的である。
とこの方は云うのだが、「日本人にとって(日本国民の無意識において)忘れられた存在が琉球人」なのであれば、日本国家暴力批判は<沖縄県民の(暴)力>への肯定と結びつくという回路は存在するはずだ。現に、米軍基地の有刺鉄線を切ったという罪に問われた山城博治氏は日本国家の進める辺野古新基地反対闘争のリーダーであり県民から広い支持を獲得している。

韓国の国家暴力批判をしているのは韓国の左派であり、<国民の暴力>肯定しているのも韓国の左派である。
しかし日本国家暴力批判しているのは沖縄人(と左派日本人)であり、<日本国民の暴力>批判しているのも沖縄人である。
韓国の左派は現在政権を取り、したがってある程度ネーションと重ねることも許されるが、沖縄人はマイノリティでしかなく独立派すら形成しておらず、ネーションと重なることはありえない。作者はこのリアリティがよく分かっていないので、文章の論旨が通っていないことになった。

「沖縄が日本人に一種の国民的な超自我を呼び起こす対象である理由は、当時の日本人が<国民戦争>をしたからだと思う。」とまで、作者は言っている。日本人がそうした超自我を持っているなら、辺野古新基地建設などとっくに止まっているはずで、残念ながらそうしたものは形成されていないのだ。

「沖縄について考えるとき、日本人の反省は国家的暴力に対する反省と同時に、国民的暴力に対する反省でもあり、すなわち、国民-国家に対する反省であり、二つはきちんと分離しない。」
「日本人にとって(日本国民の無意識において)忘れられた存在が琉球人であり」と書いている方が正しいのであり、日本人は沖縄における国家的暴力すら反省していない。
<日本国民の暴力>については左派日本人すら批判しているとは、私は思わない。

「韓国ではまともな国民-国家が形成されたことがない」なんかずいぶん乱暴な議論だな。
朴正煕(パク·ジョンヒ)が<近代人として韓国人>を作った。
「く韓国人が持っていた日本に対する考え(=近代国家に対する考え)を、ひいては韓国人の<理>をハッキングし、一種のトロイの木馬を注入して、前近代的な方向性を近代的な方向に操作しようとする。 (これについてもっと詳しく知りたいなら小倉紀蔵さんの本を参照)」ふーん。
しかし、左派は朴正熙を独裁者、親日派、さらに倫理的に正しくない存在として全否定する。

「ブラックリストのようなものがあれば彼らにとって最高だ。」朴正熙から光州事件まで、ブラックリストどころか死体がごろごろあるのだから、こうした物言いはいただけない。
光州事件は、「国家の暴力が韓国の<理>を抑圧している」と捉えることはできないんじゃないかな。<理>が明らかにあったのなら無残に敗北することもなかったはずだ。

現在、文在寅政権は「積弊の清算」として韓国社会を大きく変えようとしている。作者はそれに批判的なようだ。
「国家は、親日派から続いた軍部勢力やその追従者たちが操縦する怪物のようなものとして描かれる」、文一派は国家を平板化し道徳的な形で全否定すしてしまう。彼らの想像力の中における親日派と正義のわたしたちの対立図式だ、とする。

私は韓国政治のことを一切知らないのでこの方の批判の正否を判断できない。しかし、文在寅を支える勢力は、「積弊の清算」などだけを目的にしているわけでもないだろう。最低賃金を上げるなどの労働政策、交通政策、弱者のための「出かける福祉」、参与連帯などの行政監視運動などさまざまな分野の活動があると聞いている。単一の「反日」派などというものではないことは、民主労総と文在寅の対立を見ても明らかだろう。
左翼勢力の側から大挙metooの告発事例がでたというのも、滑稽かつ悲惨な例ではあるが、単一の「反日」派の非存在を証している。

文一派は観念的かつ統一的ないわば神学といったものに依拠していると、作者は考える。
文一派の神学の女神が「平和の少女像」であるなら、それを転倒すべき〈鍵〉は「韓国では忘れられており、絶対に認めたくない<自発的な>日本軍への参戦者と日本軍慰安婦たちの<肯定的な>記憶」(パク·ユハ教授とイ·ヨンフン教授が発掘した)だと作者は云う。
「韓国人が正しいと信じていた両極端的な善悪観に決定的な分裂をもたらすもの」なんだ、と作者は云うのだが、そうだろうか。

例えば、集団自決というのは日本軍が沖縄人を殺したのではなく、例えば「沖縄人の母親が我が子を手に掛けた」といった事例もあった。そうした事実は沖縄県内や日本の左翼においても別に隠蔽などされていない。直接的ではなくとも日本軍による加害という構図のなかでの出来事であったと理解される。
「韓国における<自発的な>日本軍への参戦者と日本軍慰安婦たちの<肯定的な>記憶」といったもののそれと同じ構図のものに過ぎないと思われるのだが、違うのだろうか。
日本軍慰安婦たちが日本軍との関係においては被害者だったと、パク·ユハ教授も認めているはずで、それ以外がそれほど大事なことなのだろうか。よくわからない。
日本軍への参戦者と日本軍慰安婦に自発性があったという認識が糾弾される韓国国内のあり方について私は知らないので論評できない。しかし私の理解するところでは挺対協はフェミニスト団体であり、元日本軍慰安婦に対する戦後韓国社会の抑圧を家父長制として糾弾しているはずだ。つまり挺対協は反日団体ではないはずだと思うのだが、私の認識は間違っているのだろうか?

国民的反省、国民的超自我を形成することを作者は求めているようだが、よくわからない。それは文一派は国民的主体を形成しつつ在ると自負していることと、論理的には何処が違うのか。

第三章の感想については省略する。

(ところで「韓国左派の方が、北朝鮮に対して人民たちが受ける苦痛と人権弾圧は完全に無視して、金氏一家に好意を抱くのは有名な話」とするならば、それは致命的な過ちであり糾弾するしかない。)

韓国の方がたまたま、日本語で書かれたブログを読ませていただいた。本来それほど広い範囲の読者を想定している文章ではないのかもしれない。
ただ、パク・ユハ氏の『帝国の慰安婦』にしても、私はその本自体よりも日本におけるそのフォロワーたち(有名な作家、学者など)の存在に非常に腹を立ててている。パク・ユハ氏も『反日種族主義』も日本に持ってくると、間違ってベストセラーになってしまう、パク・ユハ氏も眉をひそめるようなネトウヨまがいが大量に存在しているためである。


今回の文章は、非常に興味があるテーマを扱っているので、感想を書かせていただいた。

「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」

河村発言などによって「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれて、以降いろんな考察がでています。
小田原のどか氏による長い文章を読んでみます。「私たちは何を学べるのか?「表現の不自由展・その後」

問題の核心を、「中止に至った問題の諸相を単純に腑分けすれば、政府高官からの介入、市民による抗議、そして脅迫があると考えられる。」
「文化芸術基本法の理念に反する行為である。脅迫や、政治家による公金を理由にした介入などの暴力を決して許してはならない。しかし、河村たかし名古屋市長の来歴を見れば、《平和の少女像》を批判する発言が出てくることはごく「当然」なのである(*1)」
ととらえる。

☆ 河村名古屋市長は、政府高官ではない。
なぜそういう誤記をするのか。タブー意識が働いているのではないか?

☆ 河村市長が、慰安婦像を「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」として批判し、この発言を日本人の少なくない部分が肯定的に受け入れた。これが今回の事態の核心だと思われる。
保障されなければならない「表現の自由」なるものが侵された、と捉えるのは浅いのではないか?
行政の長に過ぎない河村氏が、「日本人の、国民の心」というのものに介入発言をしそれにかなり成功していること、これに対して、アートの人も「心」というフィールドにおいて、真正面から敵対していくことが必要だと思われる。

☆ 「《平和の少女像》に反感を抱く人々のなかには、像の建立と、政府間の慰安婦問題には直接的関係がないということを知らない人も多いのではないかと想像する。この構図を周知させることが、像への悪感情を和らげることにもつながるだろう。」
反感を抱く人は存在する。で反感に権利を認めるべきか。
私は権利はないと考える。そもそも「少女像への反感」は2015年安倍首相側からは「大きな汚点」と考えられた「謝罪」に対して、その謝罪の意味をごまかすために「大使館前少女像」に怒ってみせた、という政治的策動に端を発したものである。今回、河村市長が強い口調で断言的に怒ってみせた効果として、《平和の少女像》への反感が事後的に生まれたのである。
それに対して、「反感」というものを自然化し、あるいは「現状の展示場を見る限り、表現の問題ではなく政治の問題としてのみ焦点化されている印象が非常に強い」として作家〜展示者側の問題が気になってしまうのは、「少女像」をめぐる感受性の政治学の激動を完全にとらえそこなっていると思う。
そもそも、「少女像」が作られたのはソウル水曜デモが何十年も継続していることへの驚きからである。水曜デモは70年以上前の日本軍の暴虐に抗議しているのではない。河村発言を受け入れるような現代日本人の半端な被害者意識によって、自分たちの告発が聞き届けられないことへの抗議である。

☆「たとえ歴史認識のすりあわせが難しくとも、」:慰安婦問題については安倍氏も「当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している。」と認めている。この認識からは、少女像が「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」である、はでてこない。少なくとも私にはその理路が分からない。だから私はなん人もの人にそれを聞いて回ったが誰からも答えはなかった。
河村氏がいったいどのような歴史認識に立脚しているのか?それは小田原氏は確認している。「2007年、自民、民主両党の靖国派国会議員らが中心となり、米紙ワシントン・ポストへの意見広告「THE FACTS」を出した」それを読んだようだ。
河村氏はこうした認識に基づき、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」という感受性領域に対する傲慢な介入をした。

☆ 「そしてまた、より普遍的に考えれば、女性の人権が踏みにじられた過去を真摯に省みて、二度と繰り返さないという点では対立を超えることができるはずだ。」
ここにあるのは「政治性」というものに囚われることは、対立の激化につながる。「政治性」というものを脱却していけば「対立を超えることができるはずだ」といった構図、であろう。
現在の問題ではなく過去の問題だと捉えれば、「対立を超えることができるはずだ」と考えたい。
しかし、水曜デモが27年間、ある意味で無駄に積み重ねられざるをえなかったのは、つまりキム・ソギョン/キム・ウンソンが連帯を捧げようとしたものは、過去の問題ではない。「THE FACTS」のような歴史修正主義言説を生み出してしまう心の弱さという現在性に対する戦いである、と私は理解する。
河村氏たちというものは現在、日本において膨大な存在感として存在している。したがって、「愚か者」「テロリスト予備軍」と断じるだけでは終わらせることはできない。
河村氏たちすらも包括しうるような広大な慈悲といった立場に、究極的には到達すべきなのかもしれない。しかし、アートの立場は宗教の立場ではない。あえていうならば、27年間の河村発言に到る「歴史修正主義」発言の総体に憎悪でもって肉薄することこそが、想像力の戦いとしてなされるべきことであろう。

☆ 「憎悪」「対立」「正義」といったものは、アートとは別の領域にあるべきものだ、という思い込みはアートの弱体化にしか繋がらない。

☆ 小田原氏は、広島、長崎の資料館での加害/被害展示のあり方についてなども、持続的に考えておられる。2つの原爆資料館、その「展示」が伝えるもの

☆ 小田原氏は、天皇が「一度おばあさん[元慰安婦]の手を握り云々」という、文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長発言については、こう書いている。

これに対し日本政府は「不適切な部分がある」として謝罪と撤回を求めている。しかし政府は「不適切な部分」について、それが昭和天皇を戦争犯罪の主犯と呼んだことにあるのか、それとも上皇の謝罪を望んだことなのか、具体的には明らかにしていない。平成から令和に変わり「新しい時代」などとかまびすしいが、いったいどこに新しさなどあろうか。日韓のあいだには、変わらず深い溝が横たわっている。(北緯38度線の分断から見えるものとは何か?

静かだが、言うべきことは言い切っている。
今回の文章の河村発言については、明らかにトーンが変わっている。

平成と令和の間に開いた想定外の〈解放空間〉

釜ヶ崎のあいりん労働福祉センターが3月31日で閉鎖されることになっており、午後6時ごろシャッターを閉め始めましたが、多くの人が集まって抗議したため、閉められませんでした。(JR新今宮すぐ南)
私は野次馬として31日午後4時から11時頃までセンターにいました。

6日後の現在も「センターは西成労働福祉センターの管理から外れ、それ以降は管理者不在状態」のまま、夜も昼もシャッター(大部分)開いています。
「電気は止まっているので、センター1階は昼間も暗いままだが、夜中もなかまたちの泊まり込み体制による自主管理が続いている。」

下記のようなイベントも予定されているので、
平成と令和の間に開いた、想定外の〈解放空間〉を一度訪問されたら、いかがでしょうか?

4月7日(日)14時から『泥ウソとテント村-東大・山形大 廃寮反対闘争記』
4月8日(月)18時から「イタリア報告会 社会センターとsquatなどなど」(たぶん行きたい)
4月9日(火)18時から『月夜釜合戦』

4月6日(土)12時から 三角公園

参考ブログなど 3つ
・・《速報》閉鎖されたはずの西成あいりん総合センターで今、何が起きているか?
http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=57
尾崎美代子 https://twitter.com/hanamama58 さんの記事

・・リアル『月夜釜合戦』エピソード2に出演できます
http://attackoto.blog9.fc2.com/blog-entry-454.html

・・あいりん総合センター周辺で配布されていたビラ3枚。(陸奥賢)

朝日新聞記事
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日雇い労働者の街、大阪市西成区のあいりん地区にある「あいりん総合センター」(13階建て)の労働施設フロア(1~4階)が31日、閉鎖の日を迎えた。1階に労働者が仕事を求めて集まる「寄せ場」がある地区の中核施設だが、耐震性の問題で現地で建て替えられる。併設する病院施設(5~8階)の移転後に建物全体を取り壊し、新しい労働施設は6年後に完成する予定。
 この日は閉鎖に反対するグループが1階の寄せ場で午後5時から炊き出しを実施。閉鎖時間の午後6時ごろ、シャッターの下で座り込んだ。一時、100人を超える人たちが集まり、夜遅くまで「シャッターを閉めるな」などと抗議を続けた。

 センターは、国や大阪府などがJR新今宮駅南側に1970年に建てた。3階のフロアは仕事がない人たちの日中の居場所にもなっており、閉鎖に反対する裁判も起きている。入居していた職業安定所や西成労働福祉センターはすでに仮移転。寄せ場も1日から同じ場所へ移る。

 夜間に缶拾いをして日中、センター3階で過ごしてきた男性(76)は「ここがなくなると行く所がない」とこぼした。毎日、1階寄せ場で仕事を探してきた日雇い労働者の男性(60)は「閉鎖は残念だけれど、すでに決まったことだからしょうがない」と話した。(村上潤治、高橋大作)朝日新聞——————-
(以上)

異なり記念日 感想

『異なり記念日』齋藤陽道 医学書院 という奇妙な題の本を読んだ。
ろう者である写真家が自分と家族のことを語ったエッセイ、といったもの。わたしたちは書記言語より先に音声言語(聞く・話す)に出会うわけだが、聞くことが困難である人たちがろう者だ。作者齋藤陽道は、自分たちのことをこう書く。「男の写真家は聴者の家庭で育ち、日本語に近づく教育を受けました(本格的に日本手話を使い始めたのは16歳のときです)。
女の写真家はろう者の家庭で育ち、生まれたときから日本手話で語り、聞きました。」
日本語(音声語)。
電話:「もしもし」「はるみちだよ」「どうしたの?」「これから帰るよ」「気をつけて帰ってきてね」・・・
あまりにも当たり前の日常会話だから特に活字にしたりすることもないやりとりだ。しかしろう者の陽道にとっては、電話でこうしたさりげないやり取りをすることは、大きな困難を乗り越えないとできないことであり、大変な憧れだった。
そして、彼は実際にそうした会話をしたわけではないのだという。「ガラス越しに見ている同級生たちに対する見栄としての、電話ができるフリだった。p125」
日本語は分かっている、しかし聴く・話す機能の一部にかなりの困難があるがために、この程度のことでもわざわざ「フィクション」としてしか実現できない。いや「この程度のこと」ではないのだ。
「ごくふつうに「聞こえる人」のように伝わり和えたというやりとりのなめらかさ」「そんななめらかな会話ができたときには(略)内心では痺れるくらいの喜びに満ちていた。p126」
これは、音声の感度も高度化した灰色のデジタル公衆電話がでてきた頃の話。その後、FAXができ、高校1年のころには、携帯電話でショートメールができるようになる。
高校三年のときには8〜10円で千文字ほどのメールを送れるサービス、その長文メールを一日に何通も書いていた。彼の喜びは想像することができる。彼の日本語に対する特殊な障害を乗り越え、友達と同じようにコミュニケーションできる喜び。
特異なこともない日常に向き合い一冊の本になるほど文字を紡ぎ出すこと、いままでの文学青年とまったく違った回路をたどり、彼は日本語と表現活動にたどりついているのだ。

言葉を身につけてしまった我々はどうしても言葉で考え言葉で伝えようとする。
ただ、コミュニケーションのためにはそれとは少し違ったやり方もあるのだ。
ろう者と自閉症者のコミュニケーション。
「まなみ(ろう者)が一言も音声を発さずに、身振り(でもおそらくそれはただの身振りではない。表情やちょっとした空間の揺らぎにも意味を含める手話言語のニュアンスを織り交ぜた身振りであって、メッセージがより明快に読み取れるものであることが予想できる)で語りかけた」
「その子の(想像だけど)「せっかちで落ち着きがない」動作から、目線やしぐさ、指先の震え、一瞬の表情といったものすべてを無意識に「ことば」として受け止めていたからこそ」
ろう者と自閉症者。辞書的言語以外の領域で語らざるをえない人同士といえるのかどうか、かれらの間ではコミュニケーションが成立した。

日本語(書記言語と音声言語)によって世界は、どんなわずかな隙間さえ無いほど、語りつけされ埋め尽くされているかのように感じられる。しかしほんとうはまったくそのようなことはないのだ。
この本は若い夫婦が子供という他者とどう出会うかという話でもある。子供はいつも言葉なしに生まれてくる。そして親たちとの圧倒的な接触のなかで言葉も身につけていく。この夫婦の場合は、両親は聞こえないというハンディを持ち、子供は(たぶん)持たない。それでも子供は親から言葉を学んでいく。その体験を作者は〈異なり〉の体験として書き留める。子供がはじめて音楽というものを知り嬉しそうに報告してくれる。作者は思わず「おとーさん、音楽、わからない。わからないんだよね。」と返してしまう。
〈異なり〉の体験は、辛いものではある。しかし、生きることの豊かさと繋がってもいるのだ。

わたしたちは〈ろう者〉と無縁に、これからも生きていくかもしれない。しかし、この本を読むことで、言葉の、生きることの豊かさに触れるきっかけに出会うことができるかもしれない。

楠田一郎 黒い歌Ⅰ を紹介する

楠田一郎(1911〜1938)という詩人がいる。
『楠田一郎詩集』(1977年蜘蛛出版社)という本をたまたま持っていた。
冒頭に「黒い歌」連作Ⅰ〜Ⅷがあり、これが代表作だろう。Ⅰを紹介する。

黒い歌Ⅰ

孔雀のやうに羽をひろげて
橋の下を
棄てられた花束のやうに
溺死體がいくつとなく流されてゆく
空には架空の花が咲き
天使の夢やボール紙の悲しみが
智識人の太陽やアナルシイが
大戰時代の
マルク紙幣のやうに膨張する
灰色――死が快感をひき起す
徒刑場のお祭り騒ぎには
なにか美しい本質がひそんでゐた
死屍が横たわり
木の影で墓屋が睡ってゐた
鳥が射殺されてそのまゝ腐った

  おなじく

眠っていた――一羽の鳥が啼いた
かぐわしい沐浴の中で美しい男が自殺した
風のない森蔭を歩き
雲のやうな夢に埋れ
世界が哄笑し
死があらゆるものの上から覗き
小徑にかくれた夜を太陽の如く
待ってゐた
そして黄色い大河の上で
血まみれた晴天白日旗のやうに
夕ぐれがわめきはじめたとき――
よごれたジャンク船とともに
もの悲しい歌の消えるところ
永遠の火が破壊の風にあふられて……

(以上)
参考:
詩誌『新領土』での友人だった大島博光氏は、つぎのような追悼詩を残している。

楠田一郎への悲歌
   ──彼は地球から出て行った
     歩むために飢えないために──<黒い歌>
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-827.html

さて、ちょっとは感想を書かないと。
橋の下を、死體がいくつとなく流されてゆく、というのはこれが書かれた直前に始まった、日中戦争以後約8年間の巨大な戦争において何度も繰り返される風景であろう。
しかし、この詩においては死體はそのような事実のレベルで書かれているわけではない。
天使の夢やボール紙の悲しみが智識人の詩学や実験への熱意が膨張する。そのような自己の営みの〈本質〉を名指すために、楠田は「溺死體」「死屍」と言った言葉を持ってくる。
ただここで楠田が言っているのは、「遊んでないで現実を直視しなさい」といったお説教とは正反対のことだ。
「風のない森蔭を歩き雲のやうな夢に埋れ世界が哄笑し」といった「架空」を真剣に作ることは、すべてが死から見つめられることである。「よごれたジャンク船」といった形象を不可避に招き寄せることだ。
よごれたジャンク船がある中国の小川、そこでの銃撃戦などを一切楠田は見なかった。にも関わらず、「かぐわしい沐浴の中で美しい男が自殺した」という彼が書いた1行は、どうしてもそのようなイメージを引きずり出してしまった。興味深い。

ジュディス・バトラーと〈自己の外へ〉

ジュディス・バトラー』藤高和輝・以文社という本を読んだ。借り出し期間超過しているので、今日図書館に返す。バトラー論としては読みやすいし良い本だと思う。

さて、バトラー思想を「生と哲学を賭けた闘い」として理解するのだとして、藤高(敬称略)は、この本を書いた。
社会という制度のなかで他者化され押し殺されてきた彼女自身の生、と哲学という制度のなかで他者化され押し殺されてきたわたしたちの生、その両方を生き延びさせるために虚数方向から他者の声を呼び込むこと、それが彼女の闘いであっただろう。

バトラーは何よりもトラブルの哲学者として記憶されている。幼少期、自身のジェンダーやセクシュアリティをめぐる葛藤から、地下室に逃亡し、スピノザのエチカを手に取った。「人間存在におけるコナトゥスの根源的な固執から生じる感情の状態に関する推論は、人間の感情に関するもっとも深く、純粋で優れた説明のように思えた。事物がその存在で在り続けようとする。私に送られたこの思想は、絶望のなかでさえ固執する一種の生気論であるように思われた。」p19 とバトラーは語っている。

エチカ2部定理九:現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状(アフェクトゥス)した〔発現した〕と見られる限りにおいて神を原因とする。バトラーが周囲とうまくいかない「醜いこ」であったとすれば、自己がどのような変状であろうと神との関係においては、他の子とまったき対等性を持つ、と教えられることは根源的慰めを与えてくれるものであっただろう。
(エチカの引用は、http://666999.info/liu/ethica.php の目次を利用した。)

エチカ3部定理七:おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力(要請・コナトゥス)は、その物の現実的本質にほかならない。とある。
「物はその定まった本性から必然的に生ずること以外のいかなることをもなしえない」というスピノザの説明から私は決定論的印象しかうけなかった。しかし、「要請」は事実的現実に尽きるものではなく事実的現実の彼方へ向かおうとする要請を内に含んでいることを意味している、とアガンベンは言っているらしい。p290

同一性に固執しようとすることが、かえって差異の立体性を開いてしまうといった逆説が展開されていく。

コナトゥス、事物が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする傾向を言う。(ウィキペディア)自己保存。とても個人主義的な概念だと思われていたが、バトラーはそのベクトルの向きを変えようとした。ドゥルーズは、コナトゥスはそれが存在する状況に即して自らを表現するとした。

バトラーはレズビアンのアイデンティティ政治とかの中から出てきた学者でもある。「ひとが自分自身の存在に固執することが可能になるのは、他性への固執によってのみである」p254 ヘテロなマジョリティとちがって、容易に自己同一性を獲得できないのがレズビアン(など)であって、トラブルや過剰の考察が常に必要になる。

社会はまず承認の規範的構造として、傷つきやすい「わたし」の前に現れる。でわたしはまず、規範に服従しなければならない。
子供の場合、まず「自分自身として存続するためには、誰かに愛着しなければならない」p260 そしてもし養育者に認めてもらえないならば、社会的な死を経験しなければならない。その為子供は「従属化」を選ぶ。自分自身の従属化の諸条件を欲望することになる。服従化への欲望、つまり死の欲動。主体として認められるためには、ひとは自己を断念し解体せねばならない。p260
他者の世界に服従すること、それが自分自身の存在への固執になる。なんだか非常に暗い話だ。ただまあ、現在の日本社会は学校教育、就活、過剰なサービス、死に至る残業と、「服従」ばかりであることは確かな気もする。
ひとは承認を求める、つまり規範への服従を全力で行なう。しかし、そうではない可能性もある。承認の規範的構造に対して批判的な開かれを迫っていくこと、自分自身の存在を賭け、「生成変化」の実践になっていくことができる。p264

バトラーはコナトゥス(自己保存)から出発する。しかし自分自身の存在への固執が規範的構造とトラブってしまう時、規範の方が変化していく可能性がある。
コナトゥスというベクトルが存在の自らを高めつづけようとする傾向に従いつつも、社会から見た見た時、ベクトルの方向を変える。このような変容を研究していきたいと私は考えている。

批判は常に社会的歴史的地平の内部でしか行われ得ない。が、どのように知と権力が世界を体系化し秩序化しているかを明らかにする。それと、そこからの脱出を示すブレイキング・ポイントを示すことができると、フーコーは、言う。主体は脱服従化できるのだ。
〈開かれ〉をフーコーは示す。真理の体制の限界を疑問に付し、同時に自己をある意味で危険に曝す。それは、ある者を承認したい、あるいは別の者によって承認されたいという欲望によって動機づけられている、とバトラーは付け加える。
私は、社会ー歴史的地平のなかで行為しながら、それを破綻、あるいは変容させようとしている。私を私自身の外の、私自身から剥奪され、同時に私が主体として構成されるような場へと移動させる動き、脱自的運動を通して。p280 それは他者とともに生きる共通の生を開く徳の実践でもある。

マイノリティは暴力的抑圧によって形成される。それは、暴力的な報復に向かいやすいものでもある。私たちという存在は、共有された危うさである。しかしそうした怒りは、私たちが強い情動でもって互いに結び付けられるための条件でもあるのだ。
承認可能性の規範から排除された「怒り」を自己や他者に向けるのではなく、社会へ向けなおすことで「共通の生」を開こうとする、そうした可能性がある。
「抵抗の行為はある生の様式にノーと言うものであるとともに、もう一つの生の様式にイエスと言うものであろう」p285

「怒り」を、あなたとの新たな関係への、新たな共同性へのベクトルに変容させること。私たちという同一性を確立し、他者を排除するのがアインデンティティ・ポリティクスの経験だったが、バトラーはそれをきちんと辿ろうとすることで、かえって「共通の生」を志向することになった。

「もし主体の系譜学的批判が現在の言説上の手段によって形成される構成的、排他的な権力関係に対する問いかけであるならば、それに従って、クィア主体についての批判はクィア・ポリティックスの民主化の継続に欠かせないものであるだろう。アイデンティティ用語が使われるべきであり、「アウトであること」が肯定されるべきであるのと同様に、これらの概念自体が生産する排他的作用は批判されなければならない。」

アイデンティティ・ポリティクスとは領域確定であり、定義の厳密化であり、自己権力の確立であるだろう。しかし、バトラーはそこに留まらない。「批判的にクィアする」ことが継続されなければならない。批判的に「自己の外へ」と開こうとする運動、〈取り乱し・トラブル〉は幸か不幸か、継続される。

「すなわち、潜往的に運動しているものとして、時間的なものとして、私ではないもの(not I)として、固定した利害あるいは経験よりもむしろ求め(want)の系譜学に従って脱構築しうるものとして、である。このように、(現有進行中の)欲望の系譜学の効果として理解された主体は[…]主権的なものとしても、決定的なものとしても現れない。たとえ、それが「私」として肯定されているときでさえ(Brown 1995: 75)。」
と、ウェンディ・ブラウンが引用される。p302
つまり運動は、断固としたわたし(あるいは私たち)の肯定として始まるが、求めるという動詞に導かれるそれは、同一化、権力集中の力学から常に逸脱することを孕んでいる。
バトラーは〈複数形の私たち〉に訴えるのだ。

以上、この本の9章、10章、結論部を、自由かつきままに要約してみた。怒られるかもしれない。
ご批判などよろしくおねがいします。

六四天安門事件犠牲者への鎮魂歌

劉暁波の詩集『独り大海原に向かって』が劉燕子・田島安江訳編で、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)という福岡の出版社からこの3月に、刊行された。劉霞の詩集『毒薬』と同時出版になる。訳編者二人の愛情と熱意のたまものであろう。なお、書肆侃侃房は先に劉暁波の詩集『牢屋の鼠』も刊行しているので、彼の詩集は2冊目になる。
以下、その書評。

1,1989年6月4日、中国民主化を求める天安門広場を中心とした学生たちに対して戒厳部隊が襲いかかり、多くの死傷者が出た。劉暁波はその弾圧を中心部で体験した。

あんなにうねり逆巻いていた人々の流れが消えていく
ゆっくりと干あがる河のように
両岸の風景が石の塊に変わったとき
一人ひとりの数えきれない喉が恐怖で窒息し
砲煙に震えあがり散り散りになった
殺し屋の鉄かぶとだけがきらきら光る p7

その場に残ったのは、数個の鉄かぶとだけだ。

ぼくはもう旗が見分けられなくなった
旗はいたいけな子どもみたいだ
母親の死体にすがりついて、泣き叫ぶ
「ねえ、おうちに帰ろう よー! p7

散乱する鉄かぶとの近くに、崩れ落ちた旗が小さな膨らみとして見捨てられている。劉暁波はそこに「いたいけな子ども」を幻視してしまう。
子どもは母親にすがりついて泣き叫ぶのだが、応答はない。なぜなら母親はすでに死んでいるのだから。
六四という巨大な群衆運動が死滅したとき、「ぼくはもう旗が見分けられなくなった」「ぼくはもう昼と夜の区別がなくなる」。ぼくは母をなくしたいたいけな子どもに還元されてしまう。「すべてをなくした」。
「いのちは壊れ、深く沈んで/かすかなこだまさえ聞こえない」

「生きている限り、死のことはわからない」
一周年追悼、詩人の自己は「いたいけな子ども」になってしまったのか。そこにはただ「殺し屋の鉄かぶと」があるだけだった。

2,一年後、「ぼくは生きていて/過不足ない悪評もあびせられる」と劉暁波は書く。ぼくは生きているが君は、「十七歳は路で倒れ/その路はそれきり消えてしまった」。

花を一束と詩を一篇ささげるために
十七歳のほほえみの前に行く
ぼくにはわかっている
十七歳は何の怨みも抱いてないと p18

「十七歳は路で倒れ/その路はそれきり消えてしまった/泥土に永眠する十七歳は/書物のように安らかだ/十七歳は生を受けた現世に/何の未練もなかったろう/純白で傷のない年齢の他には」

劉暁波は彼をことさらに「何の怨みも抱いてない」「何の未練もない」と形容する。彼はただ17歳の一人の人間存在であった。そしてそれが中断された。死者に怨みを背負わすことはできない。すべては生者であるわたしたちが引き受けるしかないのだ。
劉暁波ができることが、「花を一束と詩を一篇ささげる」ことだけであったとしても。

3,

夕暮れ、すぐ近くに
血まみれの死体がひとかたまりになって
横たわっていた 撃ち抜かれて
大きな穴の開いた頭は
黒々として血なまぐさい
板の木目に染み込んだ
つぶれた豆腐のような白いもの
あれは何だ p95

十二周年追悼と副題されたこの詩は、奇妙なことに死体のそばにたたまたあった一枚の板の視点から書かれている。

見向きもされない一枚の板だけど
轢き殺そうとする鋼鉄のには歯が立たないけど
君を助けたい
君が気絶して倒れる寸前でも、死体になっても p97

君を助けたいという非望の直接性と不可能性を見事に作品化している。

4,

あの日に起こったことは
一種のいつまでも治らない病だ
祖先が近親相姦をつづけ
代々遺伝して伝わってきたものが
皇帝の精子の中に潜伏し
それが命運となった P58

この詩行は、日本人が読むとちょっと違和感がある。「祖先が近親相姦をつづけ/代々遺伝して伝わってきたものが」と言えば、万世一系の天皇をいただく日本の、アキヒト氏の精子にずっと濃く含まれているはずだ。「この民族の崩れた健康は/五千年かけても治せはしない」とも書く。しかし、中国は日本より大きいし、それが一つの民族であるというのは中国共産党系のデマゴギーでしかない。(中国共産党政権は、「中華民族」を「漢族と55少数民族の総称」と規定している。)

どうして、あの日、腕を
夜半から黎明まで
真紅から青黒くなるまで振り上げたのに
我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか p61

それにしても日本人は、「どうして、我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか?」と問いを立てたことは一度もない。
天皇制を糾弾する声を上げる人は居るが、自分が天皇を全面肯定した憲法1条の下に戦後の繁栄を享受したことを抑えた上で批判するのでなければ無効であろう。
全共闘運動から50年、彼らの(わたしたちの)「自己否定」が嘘だったのでなければ、「どうして、我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか?」という問いを自ら引き受けた上で、別の答えを出していくことが必要である。

「我が民族は/この宿病ゆえにすべてをコントロールしてしまえる」と劉暁波は言う。わが民族が免れ難い欺瞞性、恥知らずをその本質に持つという発想はもちろん、修辞でなければ錯誤にすぎない。
それが本質であるなら脱却することは不可能なわけであり、指摘しても無駄だということになる。劉暁波は既に獄中で死に、つまりそれは殺されたと同じであり、少なくとも彼の死まではこの本質は貫かれた。死後10年後、20年後になれば、アリバイ的な名誉回復が行われるかもしれない。それがアリバイ的なものでしかなければやはり「本質」は生き延びていることになろう。
現実がどうあれこの本質規定は有害無益なものだと私には思える。しかし実践的解決がどんな形であれもたらされることがないなら、わたしの主張もあまり意味はないのかもしれない。

なお、この詩集は、「天安門事件犠牲者への鎮魂歌」、「獄中から霞へ」、長編詩「独り大海原に向かって」の三部から成る。ここでは鎮魂歌にしか言及できなかった。

幽閉された詩人 劉霞

劉霞の詩集『毒薬』が劉燕子・田島安江訳編で、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)という福岡の小出版社からこの3月に、刊行された。
以下、その書評。

ある朝、眠りから醒めると/暗い影が夢から現れたようにゆっくりと動き/さきほどから私の視線をさえぎる/時はながれ、季節はめぐっても/あの、先がみえぬほど長くて残忍な朝が/ずっとつづき終わることがない

一脚の椅子と一本の煙管(パイプ)/記憶の中であなたを待ち続けても徒労だけ/誰も街角を歩くあなたを見たりしない/ひとみの中を小鳥が飛び/葉の落ちた木からオリーブの実が一粒落ちる [1] 同書 p58

劉霞、劉暁波の妻。
中国は共和国である。その民主主義をもう一歩進めようと劉暁波は2008年「零八憲章」を起草した。暁波はテロリストでもなんでもなく教科書的民主主義を要求しただけだが、中国共産党は許さず、囚われた。欧州の民主主義者たちは、彼の自由を求めて彼にノーベル賞を授与した。獄中の暁波は授賞式に出られないので劉霞が代理出席すべきところ、中国当局はそれも許さず、逆に劉霞の発言一切を徹底的に抑圧した。彼女は劉暁波と違い、どんな罪にも問われていないしたがって、共和国公民として海外渡航の自由を含む自由を持っているはずで、そのことは当局も公式に認めている。しかし実際には彼女は自分の友人にも会えず、近所のマーケットにも自由に行くことができず、徹底的に幽閉されている。暁波は去年7月亡くなったが、彼の死後も劉霞に対する事実上の徹底的な幽閉は続いている。

冒頭に引用した詩は、1997年に書かれた「黒い影 ―暁波へ―」。「1996年10月8日、早朝、二人が寝ているとドアがノックされ、警官が押し入り、劉暁波は妻に別れを告げる間もなく連行された(三度目の投獄)」と訳者注が付いている。20年以上、暁波がずっと囚われていたわけではない。またこの詩を書いた時点でそれに近いことが起こるなど予想もしなかったはずだ。にも関わらず、彼女の二十数年はおよそ「長くて残忍な朝が/ずっとつづき終わることがない」と要約できる。
そこにあるのは「ひとみの中」で飛んでいる小鳥である。人は自由であるとき自由を自覚できない。だからといって自由でなければ自由を自覚できるわけでもない。しかし劉霞は、悲しみのなかで、小鳥=自由を獲得し、小鳥とともに生き続けた。

劉霞は大丈夫なのか?彼女は劉暁波のことしか考えていなかった。また幽閉されすべての友人との関係を断たれ、他の事を考える自由を奪われた。であるのに、去年7月劉暁波は死んだ。劉霞はどうなってしまうのだろう。
詩集を読めばその答えは分かる。彼女は大丈夫だ。生きながら琥珀に閉じ込められた美しい小さな蛾のような劉霞は。

彼女の世界は不在と拒否で特徴づけられている。

あちらにもこちらにも空いている椅子/こんなにたくさんの空いている椅子が/世界のあちこちにあるけれど[2] 同書 p94

空いている椅子があれば人が座っている椅子もあるはずだが、彼女は「空いている椅子」だけに魅せられる。ある椅子に座ると「凍えるほどかじかんでしまい/身動きできなくなってしまう」 劉暁波の不在だけが彼女のテーマである以上、それはしかたがないことだ。

うちのドアをノックしないで/もう決してしないで/いや、するな/ /
うちには人がいない/私たちはただの人形/蒼穹の手に引かれる人形/いまはぐっすり眠っている/ / [3] 同書 p102

この詩は1998年11月とあるが、劉暁波は帰って来ているようだ。しかし詩のトーンはほとんど変わらない。劉暁波もまた六四天安門事件の死者を背負った詩人で、そこから発する言葉は他人に届かない、そうである暁波と二人でいる幸せを沈黙に閉じ込めることを劉霞は選んだ。

カーテンの裏側で/数えきれないローソクが/真っ暗で突き刺すような寒風の中/粘り強く灯っている/わたしたちは亡霊とともに/灯火を手に声を押し殺して哭(な)く/ /
お願い、ノックする見知らぬ人よ/ここから立ち去って/私たちはまだ眠らなければならないの/睡眠によって力を蓄えるために/大きなカーテンを開くとき/わたしたちは何も畏れずに対峙する/あなたちといっしょに/拍手喝采なんてごめんだから [4] 同書 p105

劉霞の拒絶は、「いまだけ」のものだ。「真っ暗で突き刺すような寒風の中粘り強く灯っている数えきれないローソク」とともに、劉霞は生きている。余りにも長く続く「幽閉」状況に合わせて、文体を作ってきた劉霞は、いま挫折してはいない。もう少し幽閉状況が続いても、生き延び、表現し続け、私たちに新しい姿を見せてくれるだろう。

追記:劉霞に自由を!!
劉霞は何の法的根拠もなく一切の自由を奪われている(友人と話したり、手紙を書いたり、作品の感想を聞いたりできない)、零八憲章発表後(特にノーベル賞受賞以後)10年近く。これはまったく不当なことであり、中国当局は至急彼女に自由を与えるべきである。鬱状態に加えて心疾患も危惧されている。ところで、2018年4月2日に亡くなったウィニー・マンデラのことを、先日ある集会で出会った若い南アのアクティヴィストは、(わたしたちの)ママと呼び、深く追悼していた。ネルソン・マンデラが28年間獄中にあった時期、ウィニーがいわば代理として政治的に大きな活躍をしたのは広く知られている。劉霞は政治的志向がなくそうした活動をしたいとは思わないだろうが、一切の自由を奪うとは、中国国家は、アベルトヘイト国家を大きく下回る最低国家ということになる。

References

References
1 同書 p58
2 同書 p94
3 同書 p102
4 同書 p105

九州大学生体解剖事件講演会


熊野いそ 講演会 を下記により行ないます。(直前の告知で申しわけない)
2/4(日)13:30~大阪産業創造館6階で #倫理の境界
九州大学生体解剖事件は捕虜が生きたまま手術&解剖された事件です。

終戦直前の1945年春、九州帝国大学(現:九州大学)医学部で実際に起きた実験手術と解剖。米軍捕虜8名はこの手術によって殺されました。
ウィキペディアでの事件概要はこちら

遠藤周作の小説「海と毒薬」のモデルになった事件と言われています。

このイベントは「九州大学生体解剖事件 70年目の真実(2015年 岩波書店)」の著者である、熊野以素さんにご講演いただいた後、一緒にワークショップを行う試みです。

場所:大阪産業創造館 (堺筋本町駅徒歩5分)
参加費:500円

第二部では、ワークショップも行います。
————————————————

戦後のBC級戦犯裁判で大きく取り上げられたのは、捕虜虐待問題。
そのなかでも、最もスキャンダラスだったのは、この九州大学生体解剖事件
でしょう。

ご著書によると、熊野さんは、鳥巣太郎氏の行動を微細に追うことで、この事件を
追体験されています。

☆住民に対する無差別爆撃は国際法違反であり、その行為者を死刑にすること自体は認められるべきか?
☆なぜ生体解剖を行ったのか?生きた人間の体を切り開いて様々な手術を行うことには、臨床医として研究者として大変な魅力がある」のだろうか?
☆2回めの手術時、鳥巣は石山に「手術に九大が関係しとるということがわかれば、後で大変なことになる」と言うが「これは軍の命令なのだ」と拒否される。鳥巣は一時間遅刻して解剖実習室に行った。
☆1946年罪を問われた石山教授は自殺し、最も消極的だった鳥巣も責任を取らされることになる。48年8月、九大の鳥巣、平尾、森は二人の軍人とともに 絞首刑という判決が出た。
☆宗教の力も借り、罪の自覚を深めた鳥巣は、死刑を受け入れようとする。しかしその妻はあくまでその強制に逆らおうとする。
☆戦争という巨大な力、教授の権力という巨大な力に服従したばあい、服従は言い訳にはならない。しかしそのように冷めていることが本当にできるのか?
戦争中の一つの事件ではありますが、この事件はいまでも過去にすることができていない多くの問題を孕んでいます。
講演会にぜひ足を運んで下さい。
野原燐 
参考 九大生体解剖事件と有限性の責任

上野発言を弁護しようと思って

書いてみたが、弁護にならなかった。
この文章の趣旨は、
1,人口1億人の維持
2,出生率1.8の実現を 安倍氏は目的に掲げる
このことを、全力で否定するためにこの文章は書かれている。

1,人口を維持するためには、自然増と社会増。
自然増は見込めない(3)
移民の受け入れについて考える。
移民を受け入れると、社会的不公正に悩む国になる(4)
移民を受け入れず、人口の減少を受け入れて、衰退する(5)

4か5かを選ぶしかない。(5)を彼女は選ぶ。
安倍の掲げる1と2がいずれも空語であるのであるから、大量移民がなければ自動的に5を選ぶしかない。
「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい。」(6)
問題はそんなことができるのか?である。現在生活保護をはじめとした福祉予算は増える一方、一方税収はどんどん減る。極端な再分配政策を取らなければ「みんな平等に、貧しくなる」ことなどできない。
(6)の文章は、みんなが貧しさを甘受する覚悟さえあれば可能であるかのようだ。しかしみんなが貧しさを甘受する覚悟があっても、ネオリベ思想を弾圧し極端な再分配政策を取る、ということがなければ、それは不可能だろう。
NPOなど、「協」セクターに期待するのはけっこうだが、再分配についての大きなデザインなしには、NPOにも何もできないだろう。

移民の流入が社会的不公正と抑圧と治安悪化をもたらすといった文言が批判されている。まあもっともだ。
ただ、移民を多少受け入れようとも「人口減少なら衰退」という常識を覆さない限りにおいて、「みんなが貧しくなる」といった結論は避けがたいのではないか。
人口の半分近くが餓死線上といった事態を避けたければ、再分配について正面から考える必要があるのではないか。

ただ、私も上野さんと同じでこの日本国家が極端な再分配政策を取る可能性はないだろうと考えている。であればどうするか?

追記:ツイッターから

「みんな等しく貧しくなる」というフレーズは面白いとも考えられますね。貧しい人は貧しいままで、大金持ち、金持ちが富を全部吐き出すという意味なら。
革命になります!

〈みんな〉〈平等に〉〈貧しくなる〉、を考えたい。上野とその異端の弟子ともいえるイダヒロユキはそれぞれ「ひとり」をタイトルにした本を出している。そのような「ひとり」を思想の根底から再検討することが必要。端的には自分がなぜ子供を持てなかったのか考える。
〈平等〉についてはものや関係を濃く共有していく、グレーバー(負債論)がいうコミュニズムが大事。〈貧しさ〉については、シェアルームのようにプライバシーを一部切り捨て別のものを獲得する方法が大事。〈みんな〉については国民国家のごく一部の人たち(貧者中心)が
連帯する仕組みを作りたい。
身体の脱資本主義化だがこれのためには途上国やイスラムに学ぶ必要がある。上野批判派が声高に叫ぶ「多文化共生」は観念的な理想論でしかなく敗北するしかない。そうではない自己身体の変容による〈多文化共生〉を、獲得するチャンスだ。(2/14)