撤兵について

(上の続き)

「テロリストの要求を契機にして民主主義の手続きを無視する動きが現れその圧力がまかり通ったら」という把握の仕方、どうなんでしょう。イラク派兵の是非という問題があくまで根本であり、他の問題は末梢だとおもいます。もう一つ、ブッシュが提唱し小泉が追随している「テロとの闘い」パラダイムが有効かどうかという問題があります。私のイラク撤兵論はフセイン政権を転覆させた戦争の是非を一義的には問題にしていません。それより問題なのは「戦後統治」のあり方だと思います。自己の統治下にある都市を何故空爆するのか?この問いは大きく取り上げられませんが私には信じられません。国家を占領した以上、占領地内のトラブルには基本的には警察権力で対応すべきもので、空爆なんてとんでもないと思います。そういった米軍の対応が一説にはイラク人死者、10万人超*1という結果をもたらしてしまった、のではないでしょうか。イラク人を西欧人や日本人などとは違った潜在的テロリストを含んだ人々の集団と見なす、というレイシズムがあるとも言えます。「テロとの闘い」パラダイムはこうした全てを肯定してしまう魔法のパラダイムなのです。

なおこれについては、1年前にも論じています。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20031206

それとイラク撤兵を主張する事に対し、「民主主義の手続きを無視する動き」といった反応をするのもおかしく思えます。イラク撤兵が実現化するとすれば、それは「民主主義の手続にしたがって」行われるだろう、というだけのことでしょう。イラク派兵は「民主主義の手続きに従って」行われた。しかしそれに付随する「小泉氏は~の問題などをきちんと国民に説明する義務があるがそれは果たされていない」という問題については同意していただきました。「イラク派兵」は憲法9条違反だするとする有力な意見があります。*2この意見に従えば、「民主主義の手続」に反しているのは、小泉氏の方です。

要するに「民主主義の手続」という言葉は、一旦決めた国家方針は覆せないということを砂糖で覆って口当たり良くしたもの、と私には受けとれます。日本にとって最大の問題は、一旦決めた派兵を(それが必要な場合に)撤回できるか?にあります。(このような書き方が許されるなら)それに比べるなら南京大虐殺など小さな問題です。南京大虐殺により中国当局は萎縮し日本に有利な講和を結べるはずだった。たまたまそれは果たされず、日本はそれ以後、7年以上中国大陸じゅうを歩き回った。(45年8月にも中国大陸にいた軍首脳はほとんど戦争の継続を望んだ。)どんなに不可能であっても、この7年半の間に日本は中国大陸から撤兵すべきだったのです。憲法に書いてなくても、戦後日本が国家として再出発するにあたって最大の誓いとして銘記されるべきことだったとわたしは思います。

「世に謳われている平和主義は非現実的且つ国際的孤立の道に他ならない」かどうかはともかくとして。イラク撤兵せよ、というのは日米安保の解消を意味するわけではないでしょう。ですから、イラク撤兵=国際的孤立とは必ずしもならないのではないでしょうか。それよりも「対米関係=国際的」という言葉として明らかに間違った等式が成立してしまうのは、対米関係が同盟関係ではなく従属関係だからではないですか。従属が内面化していれば、撤兵はその内面により拒否されます。

*1http://www.kahoku.co.jp/news/2004/10/2004102901001320.htm 河北新報ニュース イラク人死者、10万人超 科学的調査で推計

*2:わたしもそれに属する。細部に異論はあるが。

「切断操作」(2)

 香田証生さんについてはうまく書けない気がする。最初の3人の人質(なかでも高遠さん)についてはこの日記でもけっこう書いたのだが。自己引用。

 自己責任についてはもっともだ。というか、“アンマンのクリフホテルからのタクシーでバグダッドに向か”うと決めたとき、バグダッドに着くことなく拘束される可能性や死の可能性を彼らは充分考えた上で行為したに違いない。死んでしまえば何処に怨みを残そうが詮方ないのであって、どのような気持ちをもって、あるいは惰性で決断したにしてもそこにはやはり、死を覚悟した決断があったとはいえるだろう。(略)

「ほとんどの書き込みが単なるルサンチマンの表出としてしか読めません。」という2ちゃんねらーまがいの発言が多かったらしいが、そこ(決断)に<至高性>の臭いをすばやく嗅ぎつけ、それにヒステリックに反応する、野原ふうに言えば“奴隷”の心性を持った人が大量発生しているということだろう。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040414#p5

 自己責任については、香田さんの場合も同じだろう。彼は馬鹿なこと(かもしれないこと)をした。そして殺されてしまった。彼が後悔しながら死んでいった、かどうかは分からない。どちらにしても彼は殺された。*1一瞬、そこに静かに立ち止まるべきだろう。

日本中だけでも無惨に(「抑圧された」という情況においてそれを原因の一部として)死んでいく人々は少なくないはずだ。それでもマスコミで大きく報道される人は少なく、他の人は悼まれない。

香田さんに対してだけ、「危険なところに行ったお前が悪い」という発言行為があるのはなぜか。裏読みするならば、そこにはまず、「香田証生は他者ではない」という前提がある。その上で「切断操作」があるわけだ。

「香田証生は他者ではない」には二つの意味がある。マスコミが大きく報道する「日本人」としての同胞感。それと、多かれ少なかれ日本社会で仕事に熱中することに生きがいを見いだせず、浮遊感をもてあましつつ何らかの意味の自分探しをしている者としての共感*2

 ということで、わたしの問題意識では、(1)同情 がまずあり、それが(2)切断された と思います。

 ところで、前回の人質事件の時の「切断操作」と今回のそれはかなり違いますね。前回は明らかに反動的、政府支持的効果があったが、今回はなかった。ああこれは切断操作ではなく、人質が帰ってきたか駄目だったかの効果か。全然分析になってないな。まあどちらにしても「テトリストを憎め!」という大合唱が起こらずによかったです。(そう言いたがっている人もいますが。)

*1:テロリストを憎むことは、わたしも危険を冒し戦いに行く可能性につながる。

*2:2ちゃんねるやはてなのユーザーは大ざっぱに言うと大方後者のカテゴリーに入るのでは。だが、普通の大衆はそんな浮ついた問いを必要としない、考えもしない場所で生きているはずだ。それとも普通であることは、浮遊感を身体のすぐ裏側に感じながらそれをヒステリックにうち消すことで成立しているのか??

北朝鮮は餓え凍えている

# swan_slab 『>拉致された日本人を北朝鮮から奪還せよ、というストーリーばかりが叫ばれる

そのためには食糧支援も止めてやる!といってしまうわけですよね。。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041209-00000057-kyodo-intこんな記事が出ているときに。

様々なことを多角的に報道しないから視野狭窄になるんでしょうね。』

(2日ほど前に)id:swan_slabさんから コメントいただいた。

スワンさん こんにちわ。水俣病についても続きを書かなくちゃと思いながらできていません。

穀物価格については、2、3ヶ月前の情報ですがすでに「殺人的価格」であるという情報がありますね。

今年9月初旬にはコメ1キロが1400ウォン(茂山郡調べ)まで暴騰した穀物価格は、韓国と日本の食糧支援の実施を受けて下落を見せたものの、10月はコメ1キロが1100ウォン(同上)、トウモロコシ1キロが400ウォン(同上)と依然として一般住民には禁止的(殺人的)な価格となっている。なお、10月の為替レートは1中国元(約14円)=210北朝鮮ウォンとなっている。

 北朝鮮は食糧難が悪化したことから、今月初めから朝中国境を守る国境守備隊兵士らにもコメやトウモロコシの代わりにジャガイモを食糧として支給していると、23日伝えられた。

(略)

 収穫期の秋ではあるが、食糧価格はさらに値上がりし、平壌(ピョンヤン)では白米1キロが900~1000ウォン、地方都市では1200~1500ウォンまで高騰している。一般労働者の1か月の平均賃金は2500ウォン余だ。

姜哲煥(カン・チョルファン)記者

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/10/24/20041024000009.html

Digital Chosunilbo (Japanese Edition) : Daily News in Japanese About Korea

ただ、食糧支援すれば良い、とばかりも言えないようです。ですが、支援が直接末端住民に届かなくても、支援のおこぼれによって生きのびられる人がいる、と主張する人もいます。

食糧支援が金正日政権を助けるだけだという指摘は半分当たっているがちょっと考えてほしい。

 九八年に支援食糧のモニタリングということで北朝鮮に入ったことがあり、本当に支援食糧が横領されている事実には驚いた。幹部たちが市民に転売して現金化しているのを目撃したといういろんな人の報告も聞いている。しかし支援食糧が入ると、闇市で流通しているコメの価格が下がることで市民が助かっている、生き延びられる人がいるという事実もある。

http://www.jrcl.net/web/frame041122s.html

石丸次郎さん講演 北朝鮮–隣人が苦しいときこそ手をさしのべて(下)/「モーターサイクル・ ダイアリーズ」を見て

 わたしは経済制裁論に組みするものではありませんが、何の成果もなしに大きな援助を先に決めた小泉政権のやり方も非常におかしいと思います。国家ではなく下層住民と直接交流できるように、せめてそうした方向性を持って、見聞きし考えていかなければいけないと思う。

「和解」か裁きか

番組改編問題については、

http://www.bro.gr.jp/kettei/k020-nhk.html 第20号 女性国際戦犯法廷・番組出演者の申立て NHK

で、第三者機関が出演者米山リサさんの主張をだいたい認めている。

http://www.bro.gr.jp/kettei/k020-nhk.html 第20号 女性国際戦犯法廷・番組出演者の申立て NHK

ところが、NHKは申立人が「女性法廷」について重視し、大事だと指摘していた「裁き」に関する部分、たとえば「日本軍あるいは日本政府が、かつて過去に犯した行為が犯罪であったかどうか、その判断ですね。つまり、裁きですね。それを下す手段も経ないまま、したがって、処罰されず免責されたまま」とか、「法廷が和解を前提としたものではない。和解を予め目指したものではない、ということが大事だと思うんです」などの部分を全て削除している。

このようなNHKの編集によって、コメンテーターとしての発言の本質ともいうべき「裁き」の部分が全て削除されたため、申立人の発言内容が視聴者に唐突な感じを与えたり、裁きの場としての「女性法廷」の意義を軽視し和解だけを推進する人物であるかのように誤解されかねない状況が作り出されたといえる。

 日本人は正義より「和解」という言葉を好む。しかし上記のような、NHKとその構成員といった力量に圧倒的差のあるものの意見が対立したとき、そこに形式的中立を求めることは、しばしば強い者の言い分を承認してしまうことにつながる。イスラエルによる自爆テロ非難の強力さにこの典型的例を見ることができる。従軍慰安婦問題も60年以上の時間を隔てた、この<情報を操作する者>と<サバルタン>との対位の展開である。

「和解」という口当たりの良い言葉に早急に飛びつこうとする者には注意が必要である。

よくやっているなぁ

mojimojiさんから下記のコメントをいただきました。1/27の13時ころ、です。

ここの日記では、同じ主題のものは翌日以降に書いてもその日の日記の下に継ぎ足して行くという構成をとっています。1/25の日記もそのように下へ継ぎ足していったのですが、上と下20050125#p3ではかなりニュアンスが違うものになっています。下は慰安婦テーマとは直接関係のない「金正日有罪」というわたしの主張を述べたものになったのです。以下のmojimojiさんのコメントはそれを含まない前半部分へのコメントですので念のため注記しておきます。

# mojimoji 『はじめまして。先日はトラックバックいただき、ありがとう。/外国はどうか分かりませんが、日本の女性運動(も含めて社会運動全般)は、圧倒的に量が足りないと感じています。とにかく、人が足りない。そんな中でもほんとによくやっているなぁ、と頭が下がる思いです。』

# mojimoji 『前日のエントリの毎日新聞の記事ですが、あそこは割と両論併記だから、よく馬鹿な記事が載りますよ。記憶に新しいところでは、サマワの自衛隊派遣に関して高畑論説委員の記事が出て、すぐ翌日だかに布施論説委員による異論が掲載されました。今回の件も、すぐさま反論が出されることを期待したいですが、はてさて、どうなることやら。』

# mojimoji 『サマワの件での肝心の元記事がなくなっているのが残念なのですが、そのときにフォローしていたシバレイさんのブログがあります。雰囲気くらいはつかめるか、と。

http://reishiva.exblog.jp/m2004-11-01#1111392

 女性国際戦犯法廷の全記録、を見ると、規模も大きいし、法廷であろうとする努力をできる限りしていることも分かるし、多種多様なボランティアが緊急に集まった割には、ほんとうにすごいなあと感心します。

 批判すべき点があると仮にしても、まず本を読むなりビデオを見るなりして知るという努力を払うに値するイベントであると思います。

慰安婦問題は問題ではない、と思いたいというデフォルトがあるのは事実である。ただそこで自分たちの欲望に従うことが、国益にそうかどうかは別問題。国益はわたしはどうでもよいのだが、何と言ったらよいのか、「大東亜の大義」を一旦は叫んだ男たちの末裔としては最低限直視する責任がある問題だと思うが、みなさん誇りがないようだ。

戦争責任は未済だ、と主張する

N・Bさんから教えて貰ったとおり、「おおやにき」のコメント欄での

田島正樹氏の発言がとても興味深いのでメモしておきたい。

1)「日本はいつまで戦後処理をし続けなくてはならないのか?」と問いかけた人がいました。「いつまで謝罪し続けなければならないのか?」という言説が保守側から出ていてそれを反復した問いだと思われます。

田島氏は言う。

我々がアジアにおいて何者であり、また何者であらうと意志するか、つまりはどのやなヴィジョンと戦略で我々の意志と権力をアジアや世界に及ぼしてゆくのかといふ展望の下で、はじめて我々の過去に対する責任と切断が具体的な形で問題となるのだ。

「戦争責任や戦後処理問題は存在しない」と言うこともできる。だがそれは、逆に「ずるずると過去の亡霊を引きずり、将来の我々自身の政治的選択肢を狭隘化してしまふ」ことになる。

アジアにおける政治的主体性の確立が、歴史に対する決済と不可分であることを理解せねばならない。それは、過去の罪や負ひ目にどこまでも呪縛されることであるどころか、それと決別して新たな権力意志を立ち上げることである。それは国益に反して仕方なく果たされるべき道徳的義務ではなく、極東での我々の権益拡大のための必須の条件である。

http://alicia.zive.net/MT/mt-comments.cgi?entry_id=152

おおやにき: Comment on 法廷と手続的正義・続々々

これは、id:noharra:20050203#p1 で書いたことと同じ趣旨だと読んだ。

悪役から逃れるための「反省」

「ホモ・ホスティリスの悪循環」のホモ・ホスティリスとは敵対人。意味が分からなかったので英和辞典で引くと、ホステスやホスピタリティに音は近いがhostilityという言葉があり、敵意、敵対、反抗、戦争状態のこととあった。

 「残酷な東洋人」というイメージ原型が(十字軍のころから)ある。対日戦争も「褐色の民(アジア・アフリカ)を黄色の有色の民(日本)から救った白色(英国)の民」というレイプ・レスキューの図式にはめ込まれる。そのとき英国は、邪悪な龍と戦って成敗する正義の騎士聖ジョージそのままになる。*1

 で数十年前のヒロヒトに代わり邪悪な龍の場所を占めたのがイラクのフセインだった。日本が米英のイラク占領に加担するとは「自らの悪のイメージをぬぐうために、他のものを悪として、自身は何食わぬ顔をして正義組にはいって安心する*2」という振る舞いだ。そう考えるとたいへん情けない!

 従軍慰安婦問題も自分が聞きたくないから耳を塞ぐという態度では、過去の事実に誠実な誇りある日本人として向きあうことにならない。そして否認することは、このような「残酷な東洋人」としての「日本=レイピスト」イメージを延命させることにもなる(西欧人から見た場合)。中国や韓国朝鮮にとっては、「日本=レイピスト」イメージは国家の独立に関わるもっと必須なものに容易になってしまう。日本の実像がどうであろうとそれを悪と決めつける図式にそれらの国が囚われているわけではない。だが過去においては((現在でもかな)、国家当局がイメージ操作を振りまいたことも確かにあっただろう。

「大東亜戦争」という歴史において皇軍がアジアの過半に展開しそこの民衆を苦しめ、そしてレイプの例も多いというのは、事実である。わたしたちは、こうした事実をどう認めるかについて国民的合意を形成できなかった。A級戦犯の靖国合祀などをしてナルシズムに浸っている場合ではないのだ。今年は戦後60年。国家が自己を他国に向かってどうプロデュースするのかの正念場だ。安倍晋三的なものを排除することが国益だと思うぞ。

*1:同書p129

*2:同書p138

「北朝鮮人権侵害救済法案」支持!

 前にも書いたように3/13に大阪経済大学での北朝鮮・脱北者についての集会に参加した。その会の終わりに「集会決議」という文書が読み上げられ皆が拍手で確認した。そのなかに次の文章があった。

1.北朝鮮の人権改善と被害者救済にわが国が実効ある政策を実施できるよう、日本政府ならびに国会に対し「北朝鮮人権法」の制定を求めます。

拍手はしたものの、北朝鮮人権法案というものを読んでないので気になっていた。今、ネットで確認することができた。

まず、民主党・北朝鮮問題プロジェクトチームの中川正春座長(衆院議員)は(2/25日)に国会へ「北朝鮮人権侵害救済法案」を提出した。一方、「北朝鮮人権法・自民党案の提出は、3月半ばごろになるもようで、今国会での成立を目指す。」とのことで足並みがそろっていたが、自民党は法案の今国会提出を見送る方針を固めた、らしい。

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1008500/detail北朝鮮人権法 民主座長に聞く

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1010594/detail北朝鮮人権法 自民座長に聞く – livedoor ニュース

http://www.asiavoice.net/nkorea/ 3/12朝鮮民主主義研究センター

で、民主党が提出した法案はここにある。

http://www.masaharu.gr.jp/nkjinkenhou_050225.htm 民主党北朝鮮人権侵害救済法案050225

興味あるところを抜き書きしてみる。

第一条 この法律は、拉(ら)致問題への対処に関する国の責務を明らかにするとともに、脱北者の保護及び支援、北朝鮮に対する支援に係る基本原則等について定めることにより、拉致問題の解決その他北朝鮮当局により侵害されている人権の救済及び北朝鮮における人権状況の改善に資することを目的とする。

   第三章 脱北者の保護及び支援

 (脱北者の保護及び支援に関する国の責務)

第六条 国は、脱北者(北朝鮮を脱出した後生活の本拠を有することなく我が国に保護を求める者(北朝鮮に戻った場合に迫害を受けるおそれがないと認められる者を除く。)をいう。以下同じ。)を保護し、及び支援する責務を有する。

2 政府は、脱北者から在外公館に対して保護の要請があった場合には、その安全の確保に努めるものとする。

3 政府は、脱北者がその希望に応じて本邦に帰国し、若しくは入国し、又は他国に出国することができるよう努めるものとする。

4 政府は、脱北者の安全の確保等について、関係国の理解と協力を得るよう努めるものとする。

5 政府は、脱北者の保護及び支援を行うに当たっては、脱北者及びその関係者の安全を確保するため、これらの者に関する情報の取扱い等について、十分に配慮するものとする。

6 政府は、関係国及び国際連合人権委員会、国際連合難民高等弁務官事務所その他の国際機関との緊密な協力の下に、北朝鮮を脱出した者の保護及び支援に積極的な役割を果たすものとする。

脱北者=(北朝鮮を脱出した後生活の本拠を有することなく我が国に保護を求める者(北朝鮮に戻った場合に迫害を受けるおそれがないと認められる者を除く。)、という定義が目を引く。経済難民なんていう言葉を使い、脱北者の難民性を薄ようとすることは、彼らを北朝鮮に帰国させて迫害にさらされることにつながる。そうした今までの経験に照らし、脱北者の生身の人権に配慮した定義になっている。強く支持したい。

 (脱北者の保護及び支援を行う民間の団体との協力並びにこれに対する支援)

第七条 政府は、脱北者の保護及び支援に当たって民間の団体と協力するとともに、脱北者の保護及び支援を行う民間の団体の活動に係る安全の確保及びその活動の促進を図るため、情報の提供、財政上の措置その他の必要な措置を講ずるよう努めるものとする。

 (脱北者の認定)

第八条 法務大臣は、北朝鮮を脱出し本邦にある者から法務省令で定める手続により申請があったときは、その提出した資料に基づき、その者が脱北者である旨の認定(以下「脱北者の認定」という。)を行うことができる。

2 法務大臣は、脱北者の認定をしたときは、法務省令で定める手続により、その者に対し、脱北者認定証明書を交付し、その認定をしないときは、その者に対し、理由を付した書面をもって、その旨を通知する。

 (脱北者の認定の取消し)

第九条 法務大臣は、脱北者の認定を受けている者について、偽りその他不正の手段により脱北者の認定を受けたことが判明したときは、法務省令で定める手続により、その脱北者の認定を取り消すものとする。

2 法務大臣は、前項の規定により脱北者の認定を取り消す場合には、その者に対し、理由を付した書面をもって、その旨を通知するとともに、その者に係る脱北者認定証明書がその効力を失った旨を官報に告示する。

3 前項の規定により脱北者の認定の取消しの通知を受けたときは、脱北者認定証明書の交付を受けている者は、速やかに法務大臣にこれを返納しなければならない。

6条の3では、脱北者がその希望に応じて本邦に帰国し、若しくは入国することが認められる。だがそのまま在留資格を得るわけではなく「脱北者認定」というステップを踏む、ことになっている。11条には、認定にあたって「入管法第二条第十二号の二に規定する難民調査官に事実の調査をさせることができる。」との規定もあり、入管法という言葉には良いイメージをもっていないわたしとしては大丈夫かなとも思うのですが、でもまあそういうものなのだろう。

 キム・ハンミちゃん事件の映像を見ても、<難民>とは、国と国の境、領事館の壁の上に何年も生きることを強いられる存在だ、といえるように思う。

 領事館の壁の上みたいな不安定な場所におかれる時間を短縮し、一度日本国内に移動させてから、(判断が必要なら)その判断を行うとするこの法案は大変な進歩であり、強く支持してよいと思う。

# swan_slab 『ちょっと【邪悪な愛国心と正しい愛国心は観念できるか】という私の問いに戻したいことがあるのですが、これまでの議論をふりかえると、

hikaru さんhal44さんは愛国心はそもそも悪いものにならざるをえないといった議論を展開しているように思います。そもそも悪いものにならざるをえない理由として、hikaruさんはすでに存在している多元的社会における生活を提示します。これは例えば「国籍保持者に奉仕活動を義務付けるべきだ」という考え方を例にとれば分かるように、愛国心は国内的にも排他的性格を持たざるをえない。つまり差別を助長する。

hal44さんは同じく多元的社会あるいはグローバル化した社会を前提に、その排他性を「敵の必要」という観点から説明しているように思われます。お二人の議論を重ね合わせると、国外に敵をつくるのみでなく、国内にも敵をつくる論理であるから、愛国心は忌避されるべきであるということになろうかと思います。

それに対して、私は「愛国心」の社会公共的価値はあるという考え方です。もう少し具体的にいうと、現行の憲法的秩序に深い信頼と確信を寄せ、それを不断の努力によって守っていこうとする態度はひとつの愛国心といえないでしょうか。国制(Constitution)に対する信頼。もちろん、愛国心の多様性を前提としますので、現行制度に否定的な愛国心もあり得る。この着想は、17世紀にアメリカに渡った移民たちの契約モデルをイメージしています。何が「善い」のかはさておき、善い社会を目指していこうというコンセンサスです。しかし、通常、メイフラワー盟約も、憲法的秩序への忠誠も、パトリオティズムとの関連で認知されていませんね。

それから、野原さんは

>進歩派の多数派が実際にやっていたことは、パックスアメリカーナを困難な理想主義としての平和と曖昧に混同し、基地を沖縄に押しつけ続けるということではなかったでしょうか。>

と述べています。

この多数派がどのような人たちを指すのかちょっとぼんやりしていますが、私の考えでは、戦後の日米外交は、「巻き込まれリスク」と「見捨てられリスク」の均衡のなかで対米距離を測ってきた。しかし、江畑謙介が指摘*1するように「巻き込まれリスク」といった観念は、冷戦後強力に推し進められたアメリカの「全世界戦略」の現実に目をそむけるものであると。そういう側面は恐らく日本の知識人の間にもあっただろうと思います。

また、左翼的知識人のなかには、依って立つ立場自体を問題にされることがあった。例えば丸山眞男はそのたち位置「精神的貴族主義」が批判の的となった。

>パトリオティズムに私がやや否定的なのは枠の問題が抜けるからなのです。>N・Bさん

ちょっとよくわからなかったですが、私自身は「隣人とは誰か」の対象をアトミックな個人に見定めるか、個人を育む歴史的・文化的・政治的中間集団の多様性を認めるか、といったことに興味があります。』 (2005/03/26 18:22)

# index_home 『スワンさん

>私は「愛国心」の社会公共的価値はあるという考え方です。

もちろん、現代は多元的な社会になってきているといっても、国家が崩壊したわけではありませんから「愛国心」の価値はあると思います。もっとも、価値があるだけに危ういともいえるかもしれませんが。』 (2005/03/26 22:15)

# hal44 『「社会公共的価値」あるいは、道徳律の基礎としては、遍性のある「人権」を私は採用します。「人権」の保証には超国家的な枠組みが必要なんですけど、現実的な問題は多々ありますね。「愛国心」は国民にしか人権を認めませんから。』 (2005/03/27 06:17)

*1:『日本の軍事システム』P21

聞きなれない→捏造

ym 『はじめまして。

>「言論の淘汰圧」という聞き慣れない言葉を使うことで、捏造が行われる。

言論の淘汰圧というのは、ミームの話ではありませんか?参考までに、スーザン・ブラックモアがミーム(文化の遺伝子)に関して“ミーム・マシーンとしての私”という本を出版しています(小熊さんの解釈が妥当かどうかは私には判断できませんのでひとまず置きます)。

「ミーム」も聞き慣れない言葉でしょうが、聞きなれない→捏造というのは淋しいですね。耳慣れない内容に関して日々研究をしている人間もいますので、できれば穏当な表現に押さえていただければと思います。』(2005/04/14 04:30)

(野原)

ymさん はじめまして。

ミームという言葉は聞いたことがありますがよく分かりません。(あやしいなという印象しか持っていません?)

「聞きなれない→捏造という」ふうには、書いていない筈ですが。

ネット上の論争といっても二つの全く違った現象を、ある(キーワードになる)「言葉を使う」ことで同一化していると指摘しているのです。

「言論の淘汰圧」であれなんであれ「聞き慣れない言葉を使う」事自体に、反対していません。わたしの表現も聞き慣れない言葉や記号に満ちているでしょうし。