日露戦争

 丁度百年前の日露戦争がどのような色合いで回顧されているのか知らないのだが、体験者の櫻井忠温の回顧などよりずっと口当たりのよい物語ばかりが反復されているのではないかな。

 JMM最新号に山本芳幸氏の「 ■ 戦争と人道支援 番外編「Fallujah 3」」にも、日露戦争の話が載っている。日露戦争は「有色人種が初めて白人と戦って勝った」話として、世界中の非白人の間に有名だ。有名なのは事実だし、日本人としてはそのことに誇りを抱いてしまう。

 でも本当にそうなのか。それが事実であるならそれと同じくらい下記も事実なのではないのか。日本人は英国の遠大な外交政策の道具の一つとして使われただけだ。

 日本は国家の生死をかけてロシアと戦った。ちょうど、オスマン・トルコの圧制から脱して自分達の国を作るために懸命に戦ったアラブ人のように。しかし、アラビアのロレンスは本気でアラブ人の解放を信じて戦ったかもしれないが、ロレンスもアラブ人もイギリスの道具に過ぎなかったのだ。ロシアと戦う日本がイギリスの道具に過ぎなかったように。

 ロレンス、アラブ、日本は、ロシアの南下政策を阻む強固な防衛線を築くための金太郎飴政策の道具であったということ、かつそれが主観的には国家の独立のための戦いであったという点で、20世紀前半における歴史の運命を共有していたと言えるだろう。

http://ryumurakami.jmm.co.jp/recent.html

 日本はアメリカと戦争して負けた。60年経って日本人はアジア人アイデンティティを喪失し疑似白人意識のまま、イラク占領に加担している。それでいて東京裁判史観粉砕とかまじめに唱えているつもりの馬鹿もいるから可笑しい。

山本氏のサイトとブログ。

http://www.i-nexus.org/yoshi/indexJ.html

http://yoshilog.exblog.jp/

こころのなか

swan_slab 『>「大切な人」同行

もしいなければ、弘法大師でも十字架でもなんでもいいから”偶像”を崇拝しなさい、悪いことはしないとあなたの神に誓いなさい、みたいな話と結局は地続きになっているわけですよ。自分のこころのなかは基本的に自分自身で区画整理するものですよね。ここまではいいだろう、といった判断が恣意的に公権力によってなされること自体がおかしい。

なのに、

「現場からは「犯人を追いつめる危険な任務の時にはちゅうちょしてしまう恐れがある」といった声も出ている」という、ある意味、問題の本質に無自覚な問題提起の仕方に私には不気味な傾向に感じるのです。

憲法問題を中心にブログをかきはじめたのは、この記事がきっかけでした。』

日本の自立/レイコフ

# N・B 『 なんかまた迷惑をかけてすいません今回は他の人まで巻き込んでしまって。

とりあえず、野原さんが最も違和感を覚えたと述べたところの釈明を、これは指摘されて気づいたんですが、私自身が確かに無意識に日本とアメリカと自分と身の回りの社会の関係を結び付けてました。どうも、自分の隠された動機を述べてしまったようです。

 ただ、日本の「自立」に関しては、メキシコのように国境のフェンス(農業労働などを行うために「不法」入国しようとして、今も数百万人が「不法」移民として働いてるそうです)が両国の歴史の反復であるかのように毎年多くの人の命を奪っている国では人々は嫌が上でも関係を意識せざるを得ません。やはり、日本では戦後の経済発展で受けた恩恵があまりに大きいので(もちろん、犠牲は別のところでら出たわけですが)忘れることが可能であったと思います。藤原帰一さんが「戦争を記憶する」でフィリピィンなどに比べた日本の鈍感さを指摘していたと思います。しかし、日本の経済や政治システムがどれほどアメリカから自立しているのかはまだ私にはよくわかりません(ヨーロッパに比べるとあからさまに行動は従属的ですが)。実は問題のエントリーについて書き込もうと最初はしたんですが。

 野原さんの「三者三様の矛盾」での推進派の矛盾が却って彼らの力になるという状況はある程度その辺りに理由があると思うのですが。もうひとつはスワンさんの指摘した「公共の福祉」に関する問題ですね(このあたりの皆さんの議論は大分参考になりました)。

>お互いにヘンな奴だと言い合うのは健全

 確かに何も見ようとしないよりは進歩だと思います。

>スワンさん

 ここに書き込むのがいいのか微妙ですが、とりあえずこのブログの文脈なので。えーと普通の意味での「モラル」にたいして、レイコフの「モラル」という概念は言語学者としての彼の人間の言葉の意味(メタファー)の理論に基づいて、私たちが政治的道徳的な思考や発言をするときに、大きくわけて二つの相容れないモラルのメタファーのシステムを持っている、それらは同じモラルを使うが優先順位の差によって違ったものになります、保守とリベラルであるというものです。そして、このシステム(モラル言語)に基づいて色々な同じ出来事や人物、議論に対する判断の違いが説明出来るというものです。レイコフは、90年代の保守の伸張などの論点に対する既存の(アメリカの)政治哲学や議論の無力と混乱を身にしみて問題の本を書いたそうです。レイコフの最近の情勢への分析は現代思想臨時増刊2001/10、「これは戦争か」で読めます。ただ、もちろん万能の理論でないことは前提ですが。

http://homepage2.nifty.com/nishitaya/intro4c12.htm

 第2節に、レイコフ理論の説明があります。

http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1028182794/E320095057/

 レイコフの考え方の革新性について私なんかよりずっとよく説明しています。

 スワンさんへの返事としては、法を成立させる過程、それを解釈する法廷、その運用の場面などで、レイコフのモラルは働いているのではないでしょうか、「実質的正義」とはまさにこれらの具体的場面で意見が分かれるとき「モラル」の違いが露出することではないかと思います。もうひとつ二つの愛国心については、どうも、二つの「モラル」の違いと対応しているのではないでしょうか。

 なるべく短くするつもりだったのですが、わかりにくい長文申し訳ありません。』 (2005/03/24 10:21)

身勝手なこと喚き散らして(4/4追加)

http://d.hatena.ne.jp/azamiko/20050312

きびをむく少女の指先傷つきてラムの琥珀酒カリブの海より来たる – 梅の花もほころび。

azamikoさんのコメント欄が大変なことに!

fantomeye 『親とか教師の人からしてみれば自分たちはいいことしている、間違っていないと考えているのかもしれませんが、私達生徒の思い出を作る場に土足で入ってきて身勝手なこと喚き散らしている以外のなにものでもないんです。国とかのやり方に文句があるなら役所でやってください。(略)

(野原)

fantomeyaさん はじめまして

「私達生徒の思い出を作る場に土足で入ってきて身勝手なこと喚き散らしている」のは、横山教育長の側か?、それとも処分された教師の側か?

「子供たちが主役の舞台」を勝手に変更して「日の丸を正面に据える」よう変更を命じたのは東京都にすぎません。

もし自分の子どもがあなたと同じような考え方だったらと思うと恥ずかしくて顔から火が出そうです!

女性国際戦犯法廷について(2)

上の続き。

コメントしたら返事をいただいた。

# noharra 『開催前から「天皇(裕仁)無罪」帰結を裏取引していた東京裁判よりは公正に近いと評価できる。』

# hizzz 『上記したように、自分好みを他者に押付ける=ポリティクスの発動(「やられたらやりかえせ」的視点)という点においては、「女性国際戦犯法廷」も「東京裁判」も同列でしかない。以前カキコしたように「道義的責任」を問うこの問題は「法」では決して解決しない。なせなら「やられたらやりかえせ」の限りない連鎖を呼ぶだけであり、現にそれを呼び起こしてしまったということにおいて「公平」を掲げるポリティクスとしても、結果は致命的ですらありましょう。』

(野原)

「なせなら「やられたらやりかえせ」の限りない連鎖を呼ぶだけであり、現にそれを呼び起こしてしまった」というのは、「天皇有罪」に対して(日本人の誇りを傷つけられたとして)憤激し慰安婦に対するセカンドレイプにはしったりする反応を引き起こしたことを言っているのでしょうか。 

 レイプという具体的な犯罪があった場合、それを裁こうとすることは、正義をもたらすことにより暴力(の連鎖)から世界を救うことになると思いますが。

右翼も左翼も、自分たち以外(制度外の第三者)という存在を喪失している。そして喪失しつづけてるが故に、なんとかしようとして居丈高になり、更なるお手付きを重ねて、パンピー(=イデオロギー的正義思想を持たない者=ウヨサヨ制度外の第三者)の支持を減らす。

http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20050213#p3

(野原)

 これは少し当たっているような気もする。だがレイプの問題は本来イエオロギーの問題ではない。彼女たちは白人(オランダ人)でなかった、まともな国家を持たないアジア人女性にすぎなかったがために東京裁判の時点で裁判化されなかった。そこでアジア人と女性に対する差別が弱くなった50年後ようやく事実を事実として語りうるようになった。それをイエオロギー的言説であるかのように演出してしまっているのは、ナルシズムに汚染された日本の言説空間である。

貧乏人の連休の過ごし方

子ども二人家族4人、ふだんは多いとも感じませんが家族旅行にでも行こうものなら4万円単位でお金は飛ぶように出ていくので行けるものではありません。まして連休は混んでるし。だからといってべったり家にいても普段と同じではあまりにも単調です。どこかに日常性を離脱する契機が欲しいもの。“うちのおかあさん”はおとといからさっさと一人で友人宅に泊まりに行ってしまいました。家事労働全般を子どもと3人でやらなければいけません。ゴミ出し、洗濯物干し、食器洗い、ほんの少しでも普段はうちの子はやらない。今回も嫌がるので「やらないとおかあさんに(子どもの自立を助けるため)帰ってくるなと言うぞ」と脅して無理矢理やらした。

無意味

IP電話の調子が(最初から)悪いのを、苦情をいったら、光電話アアプタをF社に変えてみようか、と送ってきた。変えてみたが、電話全然通じず。しかたないので元に戻した。戻したらインターネットが繋がらない。しばらくごそそそしてやっとつながった。無意味なアーティクルですみませんが、書き込めるテストを兼ねて。愚痴!

(追記)駄目だったと言ったら、同じ製品をもう一度送ってくると言う。拒否できなかったが無駄だと思うが・・・

あの戦争は太平洋戦争ではない!!

6/28の朝日新聞夕刊素粒子には次のようにある。

世論調査によれば、20代の49%、30代の57%が太平洋戦争のことを「知らない」。無知は恥と知れ。

 あのね、朝日さん。プチウヨと同じフレーズは使いたくないが、無恥なのはお前の方だろ、と思うぞ。

 大東亜戦争を太平洋戦争に言いかえさせたのは占領軍アメリカ。日本人は、それを喜々として受け入れ、「日本はアメリカ(+イギリスなど)と戦い負けた(日本は中国と戦っていたんですかあ~~?)」という認識を成立させた。「太平洋戦争」のことなど知る必要はない。太平洋戦争ではなく、アジア太平洋戦争あるいは括弧付きの「大東亜戦争」だったのだ、と知ることからしか何も始まらない。