仕事に対する誇りとは

 たとえ、会社が秒単位の遅延を問題にするからといって、制限速度超過をすることを許されるわけではない。会社が、それを要求したとしても、プロとして拒絶するくらいの倫理性がなければ、数百もの人生を預かることは許されないというべきであろう。

http://dainagon-end.at.webry.info/200504/article_8.html 尼崎の事故に思う nagoyan

この運転手は13日間の「日勤教育」を受けたという。その内容を公開すべきであろう。

 わたしには、「日勤教育」が単なるペナルティーである以上の意味を有していたようには思えない。 とすれば、JR西日本の経営者は、職員を一個の人間とみることができなかったといわざるを得ない。

 確かに使用者は、雇用関係に基づく懲戒権を有する。しかし、雇用契約は対等の市民同士の契約であって、奴隷契約ではない。懲戒権は、職場秩序の維持などの特定の目的のために、その目的に必要な範囲で、かつ、就業規則に基づき適正な手続きの下に違反行為と処分との均衡が維持されるようなものでなければならないはずだ。しかし、伝え聞くところの「日勤教育」は実質懲戒として行われているようでありながら、これらの要件を満たしているようには、到底思えない。

 さらに、問題なのは、職員の資質向上を目的としていない処罰としての「教育」を科すだけであるから、職員の資質向上は図られない。

(同上)

「時間厳守」と「安全」はしばしば背反する。「絶対に両立させるぞ」とか叫ばせることは何の教育にもならないのはいうまでもないだろう。両立困難な二つ以上の課題が瞬間に押し寄せるときどう対応できるか。「中庸」といった東洋の智恵はそこに幾ばくかの示唆を与えるものかもしれない。「会社への帰属意識を高める」といったことは有害無益である、とそれは教えている*1

*1:とも考えられる

萌え上がる物

次國椎如浮脂而。久羅下那洲多陀用幣琉之時【琉字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而。成神名。宇摩志阿斯訶備比古遲神【此神名以音】

次天之常立神【訓常云登許訓立云多知】此二柱神亦獨神成坐而。隱身也。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/kojiki1.txt

かの始めて成れる一つの物、浮き脂の如く、虚空(オホソラ)に漂蕩(ただよ)えるなり。さて其の物の中より、葦牙(あしかび)のごとく萌上がる物あり。これ天となるべき物也。かくてその天と成るべき物は萌上がり了(おわ)りて、其の跡に残れるが、堅まりて、地(つち)とは成る也。されど此の時は、いまだ海と国土と分かちなどもなく、ただ混(ひと)つにて、ふわふわとただよいてある也。(三大考)*1

第3図。宇宙のなかにただ一つ浮き脂みたいなものができて、葦の芽のようにぐいーんと萌え上がるものがあった。上の方向への巨大なベクトル。宣長によれば、あしかびは「葦のかつがつ生(お)初(そ)めたるを云う名なり」*2これを中庸は「その天と成るべき物」とみなすわけですが、まあそんなことは古事記には全然書いてないのですけどね。宣長には「さて此は天(あめ)の始めにて、如此萌え騰りて終(つい)に天とは成れるなり」*3とある。これによって天と地が分かれたと。

 そもそも「三大」とは何か、というと、天、地、泉である。このうち二つがここで出来た。あと泉、とはいずみではなく黄泉(よみ)のこと。上に天が出来、下に垂れ下る物もあって黄泉になった(はずだ)と次の段で説明がある。

*1:p258 日本思想体系 50

*2:古事記伝1・p189

*3:同上p190

小学教科書への疑問

子どもはちょうど、小学6年の社会科教科書で日本史を勉強しているみたいだ。*1子どもに聞くと習ったはずの大化の改新も知らないで困ったものだ。ある頁を開けると、2頁見開き一杯に平城京碁盤の目状の都市の鳥瞰図がありむちゃくちゃ立派だ。人口が十万。ちょっと多すぎるような気がしてぐぐると、ある人(寺崎保広教授)の意見は、「5~6万ほど」「10万人説は居住可能な免責に隈無く人が住んでいたという前提での計算である点が問題で」とあった。http://www.nara-u.ac.jp/daigaku/koho/mini/terasaki.html奈良大学

わたしが気になったのは聖徳太子のところ。

ゆうたさんは、大和朝廷の役人に十七条の憲法を示した、聖徳太子を調べることにした。

として1頁全部を使って聖徳太子を紹介している。次の頁が大化改新であるが、「聖徳太子がつくろうとした天皇を中心とする政治のしくみが、ここでできたのだな。」とゴシックでまとめられている。

上の子の中学の教科書*2を見ると

17条憲法を定めて役人の心がまえを示したといわれています。

とちょっと遠慮がちである。

それもそのはず、

近代史学の対象となりうる太子関連の第一次資料は皆無に等しく第二次資料としての『日本書紀』の記述が残存しているだけであった。あとは「天寿国繍帳」の銘文ぐらいしかない。

p4佐藤正英『聖徳太子の仏法』isbn:4061497227

という情況だからである。

佐藤氏は「太子非実在論」はますます激しくなるだろうと、(彼にとって)悲観的な予想を述べている。ではなぜ、小学校の教科書だけがこんなに力をこめて聖徳太子を記述するのだろうか。それはたぶん学習指導要領が命じて居るためだ。

 仏教伝来の後、聖徳太子が法隆寺を建て仏教を日本に定着させた、とだいたいそう教えられてきた。

しかしそれは6世紀終~7世紀初の思想状況に対する正確な理解ではない。

釈迦仏を祀るとは、ひとびとにとって、見知らない新たな<たま>神を祀ることにほかならなかった。(p42同上)

お握りにライスバーガーとラベルをはっただけみたいな漢字で、「仏(ほとけ)がみ」というラベルの神がやってきたにすぎない。

以上わたしの乏しい知識においても、小学校教科書は充分偏向しているように思われた。

参考:

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/shotoku/iesu.htm 以下(大山誠一『<聖徳太子>の誕生』を批判する立場の文章)

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/shoutokutaishi.htm 「聖徳太子」はいなかった

*1:見たのは大阪書籍のもの。

*2:大阪書籍

投稿者も高齢化で段々と消えて行きます。

 わたしは下記の文章を引用したいと思ったのだ。わたしはほんの少しの活字を通して「大トア戦争(アジア太平洋戦争)」の体験談を読んだりした。ネット右翼の人たちはそうした体験談を読まないかそれとも読んでも無視して、自分の観念のなかの薄っぺらな戦争観だけで語り続けるのだろう。無惨である。

http://www.geocities.jp/sato1922jp/tyugoku.htm#rappu

拉 夫(らっぷ)

                須賀川市 S

野戦で兵隊が毎日持ち運ぶものは、兵器の外に食料品、調味料、医薬品、アゴを出した兵の装具などで各人が持つ量は莫大なものだ。

行軍中、小休止の時に腰を下ろすと出発の時には誰かに起こして貰はなくては立てない程の重さである。

そこで現地人を強制徴発して物を運ばせることになる。彼等には賃金は勿論生命の保証も与えられていない。これが拉夫(らっぷ)と言われる苦力である。

綺麗な小川があって故郷を思わせる谷底に一つの町が有った。この町を占領するには大分苦戦をしたそうだ。この小川をしばらく遡って行くと小高い所に部落があって我々はここに宿営した。この辺は既に警備地区になっていて戦場ではないから無茶な真似をすると憲兵に捕まるが、通過部隊はその場かぎりなので兎角出鱈目をやる。

途中からひっぱって来た牛を殺して皆でたらふく食べて一夜を明かしたが、いざ出発になるとどうも荷物が多過ぎる。牛は食ってしまったので積むわけには行かない。

兵は毎日の行軍でアゴを出しているから余計なものは紙一枚だって持てない。ぎりぎりのところまで持っているのだからどうしょうもない。あの頃は10日分位の食料を持っていたと思う。

野戦馴れしているヒゲ軍曹が何処かに出かけて、天秤に野菜を一杯担いだニーコ(中国人)を二人連れて来た。野菜を買ってやるからと騙して町から連れて来たのだそうだ。彼等が喜んでついて来たのが運のつきで、野菜も籠もおまけに自分迄徴発されてしまった。泣きわめく彼等に有無を言わせず、いろんな荷物を天秤に担がせて出発した。

実直な農夫で今日一日仕事をするから明日は帰してくれとヒゲ軍曹に哀願する。軍曹は馴れたもので、「好好、明天回去(よしよし明日帰す)」とか何とか誤魔化してしまう。

なんとこれが道県の町に着く迄、十何日も重い荷を運ばされてしまったのだ。

(略)

彼等の名前なんか誰も呼ばず、一様にクリー(苦力)と呼ぶ。夜は逃げられないように部屋に閉じ込め、便所に行くにも銃剣を突きつけて監視する。

行軍中は天秤と首を細引で繋いでおく。強行軍について歩けないと殴られる。

歳をとっている私ら補充兵は割合苦力をいたわった。それで私らはすぐ苦力と仲良しになってしまった。

古参兵は随分と残虐な真似をする。これについては書かないことにする。

兵は夜寝るのに毛布や天幕、雨外套などがあって服装もちゃんとしているので良いが、苦力は野菜売りに出たままの姿だから、寒くてたまらないようだ。不寝番に立って彼等の寝ている所に行ったら、海老のように曲がって、ふたり身体を寄せ合ってガタガタ震えていた。

(後略)

 日本軍は8年間も中国大陸で何をしていたのか。糧秣の現地補給というが、たった一匹の牛を失うことが農民にとってどういうことか、わたしよりも当時の皇軍兵士の大部分にはよく分かっただろう。ネット右翼の皆さんも「自衛戦争」なんて無惨なことを言わずによく考えてもらいたい。

民衆の心に根ざした追悼の様式?? (8/7追記)

http://d.hatena.ne.jp/sakunou/20050805/1123252066 では、次のように論じている。

(1)「靖国神社とは、明治になってからできたもので、近代になってからできた宗教施設である。つまり、最近できた新興宗教ではないのか」。

という意見は間違っていると。

そして「新ゴーマニズム宣言SPECIAL靖国論 * 作者: 小林よしのり」から次の文章を引用する。

(2)戊辰戦争の戦死者の埋葬に際しては、「當村の守護神トシテ」と記された文章が残っている。公に殉じたものを「村の守護神」として祀ることは、地域・民間から自発的に起こっていたのだ。(小林)

(3)このように、民衆の心に根ざした(日本人としての宗教観に基づく)追悼の様式を、国家が引き継ぐ形で創建されたのが、靖国神社であり、「明治になって近代国家が軍国主義に基づいて作った新興宗教ではない」ということは明白だと思います。(sakunou)

 まず新興宗教という言葉を聞けば、ちょうど靖国と同時期幕末明治期にできた黒住教*1、天理教、大本教などなどをまず思い浮かべます。篤胤以降のこの時期は日本ネイティヴィズムの戦国時代とも考えられ、靖国を新興宗教と呼ぶのは、(普通の言葉の使い方としては間違いですが)一周回ってクール!という感じもします。

(2)への批判。ある戊辰戦争の戦死者が、ある村で「當村の守護神トシテ」祀られたことは、靖国神社でそれが「村の守護神トシテ」祀られたことを意味しない。靖国は上に書いたように魂の選別装置であり、新政府側に立って斃れた者たちだけを祀って居る。

 小林よしのりの原思想は“鐘楼のパトリオティスム”みたいなものに近いのではないのか。であれば会津白虎隊の悲劇を考える場合にコンフリクトしないのかなあ?

(3)に対する批判。戊辰戦争は内戦であり、多くの藩が二つの陣営に分かれ、またそれに至るためにはひとつの藩の中でリーダーが内紛し争うこともあった。戦争の以前を含め、沢山の死者を出した。そのような「戦争」に対し、「民衆の心に根ざした(日本人としての宗教観に基づく)追悼」は、むしろ両者をともに祀る、といった形である。「民衆の心に根ざした」という視点を強調するならむしろそう考えられる。

 靖国神社が必要だったとすればそれは国家というものをなにが何でも強力に成立させなければならなかった、当時の国際情勢によっているだろう。現在はむしろそれとは逆の国際情勢にあるのに、一部のナルシストは国家主義を選択させようとしている。馬鹿げたことだ。

*1:今読んでいる本『<出雲>という思想』のp117以下に、国学者大国隆正の思想との親近性が触れられている

憲法1条廃止しよう

 衆院選広島6区に無所属で立候補しているライブドアの堀江貴文社長は6日、東京都内の日本外国特派員協会で講演し、天皇制について「憲法が『天皇は日本の象徴である』というところから始まるのには違和感がある。歴代の首相や内閣が(象徴天皇制を)何も変えようとしないのは多分、右翼の人たちが怖いから」などと指摘した。

http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20050907k0000m010016000c.html

MSN-Mainichi INTERACTIVE その他

 「郵政民営化」の論点化という小泉のデマゴギーを推進した点で堀江は許せない、と思っていた。だがこの発言は良い。天皇は(明治)憲法ができるずっと前から天皇だった訳で、伝統を尊重するなら1条廃止論に反対する必要はない。19世紀ドイツ起源の軍国主義=国家主義的なものは現在日本にも、排外主義その他として根強く復活しようとしているが、日本の伝統でもないし美しくないし、ひどい失敗をしたばかりだ。憲法1条から8条は削除すればよいと思う。

わたし/ナルシズム

--私は偶然に助かったんです。運がいいわけでもない。誰のおかげでもない、ふふんふふーん、私は科学の子だ。ふんふんふんっ。

 というような人がいるかもしれません・あーあ、ねーえ。*1

の「ふふんふふーん」「ふんふんふんっ」って一体何なんだ。わたしはサラリーマンです、とかわたしは主婦です、とかのありふれた自己紹介にもこの「ふふんふふーん」「ふんふんふんっ」はくっつけることができる。わたしは私をニュートラルに記述することはできず、そうできたと思っているときは、普通よりより深いレベルでナルシズムを育ててしまっている。笙野はそう言いたいのか。

*1:p14『金比羅』笙野頼子 isbn:4087747204

自慰史観派が外務省に圧力

★外務省HP 歴史コーナーの記述見直し検討

・町村信孝外相は十三日の参院外交防衛委員会で、外務省のホームページの

 「歴史問題Q&A」と題したコーナーについて、「事実でなかったことをあたかも あったかのような印象を与えるような記述や、過大に妄想的な数字がなかったか どうか、よく検証したい」と記述内容を見直す考えを示した。山谷えり子氏(自民)への答弁。

 ホームページには「首相の靖国神社参拝は過去の植民地支配と侵略を正当化するものではないか」「南京大虐殺をどう考えているか」などの設問が並び、平成七年の「村山談話」などを引用した回答が載っている。

 山谷氏は「中国や韓国のホームページのような問題設定で、日本の立場を十分に説明していない。あえて誤解を招くような書きぶりもある」と指摘。「従軍慰安婦」など当時なかった呼称を使っていることなども「不適切」と批判した。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051014-00000009-san-pol

http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1129228260 【政治】”南京大虐殺、従軍慰安婦…” 「事実だったように思わせてしまう」→外務省HP、見直し検討

このQ&Aのこと。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/index.html 外務省: 歴史問題Q&A

天皇に絶対随順する道

姜信子さんの下記の文章はナショナリズムを少し深く考えようとするときに必須の幾つかの論点を、的確に浮かびあがらせており優れた文章だと思う。

http://www.asahi-net.or.jp/~fw7s-kn/2004_08.html

日中戦争が始まった昭和12年に文部省が発行した「国体の本義」をひもとけば、日本という国のあり方、その臣民の徳目を語るこんな言葉。

「我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立ってをり、我等の祖先及び我らは、その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉體することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、ここに国民のすべての道徳の根源がある」。

「忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て我を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威(みいつ)に生き、国民としての真生命を発揚する所以である」(「国体の本義」第一 大日本国体 三.臣節より:昭和12年 文部省発行)。

まことに支那事変こそは、我が肇国の理想を東亜に布き、進んでこれを四海に普くせんとする聖業であり、一億国民の責務は実に尋常一様のものではない」。(「臣民の道」文部省編纂 昭和16年 )

こういった文章に対し姜信子さんは言う。

で、私はといえば、聖なる使命を語り、大義を語り、栄光を語り、絶対的な存在(たとえばかつての天皇、あるいは神)のもとでの個の全体への一体化を語る者たちの、その誇り高い「語り口」、その「語り口」の底にある「他者」と「私」を分かつあまりに深い自己愛とでも言うべきものへの違和感をどうしてもぬぐうことができない。

わたしもほぼ同意見だ。

ただまあ、「絶対随順は、我を捨て我を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。」となると自己というものは全否定しなければならないとされ、窮極のマゾヒズムになっている。朱子学においても我は否定されるべきものだがそれは哲学的存在論としてであり、日常生活の諸ベクトルを否定したものではない。教育勅語は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ」といった諸活動を積極的に認めているのであって全く違う。

しかしながら少なくとも昭和12年以降、教育勅語の名に於いて、天皇への絶対随順が説かれていた。そこに矛盾があるという声は上がらなかった。

「わが生命と活動の源としての天皇」というものと、「天皇に絶対随順する道」との間には、わずかだが決定的な差異があると私は思うのだが。

 ところで21世紀の教育勅語愛好家はだいたい「天皇に絶対随順する道」を愛好しようとしているようでもある。悲惨な脳髄だと思う。

(姜信子さんの文章は後半が良いので読んでください。)