重慶~~~ヒロシマ

今日は59年目の原爆記念日である。

朝日新聞の社説は、ヒロシマに並べて、ドレスデン、重慶などへの空爆を取り上げている。

「こうした無差別爆撃は、20世紀の戦争の非人道性のもっとも分かりやすい象徴となった。先例となったのは、スペイン内戦中の37年に独軍機が行ったゲルニカ攻撃であり、日本軍機が38年から中国の重慶に対して繰り返した大空爆だった。それらがドレスデンへ、東京大空襲へとつながり、結局、広島と長崎への原爆投下へ行き着く。」朝日新聞8/6

東京広島長崎という日本人の被害に対しその前史として、ゲルニカ、重慶、ドレスデンを取り上げたのは世界史の広がりに対しより適切な表現だと一応は評価できる。しかしカート・ヴォネガットのファンなら、彼が口にするのを何とか避けようとする身振りによってしか語れなかった<ドレスデン>を知っている。ドレスデンが「分かりやすい」という形容詞とともに叙述されることに異和感をいだくだろう。さらにこの文章はドレスデンの聖母教会の金の十字架の輝きの記述から始まり、20行ほどドレスデンについて書かれている。それに対し、重慶への言及は26字だけだ。重慶はヒロシマのように日本人に広く知られているわけではない。ここでのドレスデンと重慶の比率のアンバランスは何を意味しているか?そこには、例えばユダヤ人少女アンネの悲劇は日本人に広く知られているが、それに比すべき中国人や朝鮮人の物語は皆無であるといった言説分布と同じエピステーメが存在している。日本のインテリは基本的には欧米インテリの口まねをしているだけなのだ。アンネなど日本人には関係ない、とあえて放言しておこう。

2年前から重慶の被害者たちとヒロシマとの交流は始まっているようだ。下記urlに3人の方の証言が載っている。

http://www.anti731saikinsen.net/kanren/jukei/index.html

長いが「  王孝詢氏のメッセージ  」をそのままコピ&ペーストします。

日本軍の爆撃機が重慶を爆撃することに関するいくつかの問題

            王孝詢

   一 日本軍による重慶爆撃の情況

 1938年2月18日から1943年8月23日にかけて、日本侵略軍は9000機余りの爆撃機を出撃させ、重慶に対して5年間にわたり爆撃を続けた。歴史上これは「重慶大爆撃」と呼ばれている。

当時の中国国民政府の記録によると、日本軍の爆撃により、11,889人の重慶市民が殺され、14,100人の重慶市民が負傷し、壊された家屋は3万軒余りである。他の財産の損失は数えきれない。

 「重慶大爆撃」の中でも、1939年5月3日、5月4日の爆撃及び1941年の六・五隧道虐殺事件は全世界を驚かせた。 1939年5月3日の昼、日本海軍航空隊の第一空襲部隊に属する36機の中型の爆撃機は、重慶中心部の人家が密集した商業地域に対し、冷酷な無差別爆撃を加えた。爆弾98発と焼夷弾68発を投下し、下半城の19街路の町並みは廃墟になり、主城の41街路の町並みは火の海となってしまった。爆撃は1時間かけて行われ、673人が死亡し、350人が負傷し、爆撃や火事で壊された家屋は1,068軒である。

 1939年5月4日の午後6時、日本海軍航空隊の爆撃機27機は再度重慶市の中心部を1時間以上かけて爆撃した。爆弾78発と焼夷弾48発を投下し、上半城の38街路の町並みが爆撃され、最もにぎやかな10街路の町並みが全壊され、3,318人が殺され、1,973人が負傷し、3,803軒の家屋が壊された。この爆撃による死傷者数は、一回の爆撃による死傷者数という点においては、第二次世界大戦中最高記録である。

 1941年6月5日夜の6時18分から11時27分にかけて、日本軍の爆撃機は3陣に分かれて順番に重慶を爆撃した。5時間もかけて行われたこの爆撃によって、重慶市中心部のトンネルに難を逃れようとした市民1,000人が窒息して死亡するという、非常に凄惨な結果がもたらされた。

   二 日本が重慶を爆撃した目的及び戦術の変化

  1937年7月7日、日本軍国主義は盧溝橋事件をきっかけに、全面的に中国を侵略する戦争を発動した。盧溝橋事件から広州を占領した1938年10月25 日までの15か月間、日本軍は中国に100万の兵力を投入し、中国の13省の340都市及び100万平方キロメートルの土地を侵略して占拠した。

ところが1938年の末、日本侵略軍は44.7万人が死傷し、軍事力は大いに弱められた。軍事費の支出が大幅に増えたため、日本人民の生活は日増しに悪化して、日本国内では戦争に反対する声も高まった。

一方、中国の抗日勢力は叩き潰されてなかった。100万余りの中国の正規軍は、武漢の周りの戦区に駐屯し、直接に華北、華中の日本侵略軍に脅威を与えた。国民政府が支配した西南と西北地域には、日本軍と対抗する実力があった。中国共産党が率いる八路軍と新四軍は、抗日根拠地に遊撃戦を行い、正面戦場と合わせて、日本軍を挟撃する状態になった。日本軍は広州を占領した後は、大規模な戦略進攻は困難になり、抗日戦争は対峙する段階に入った。

 1937年11月、国民政府は最後まで抗日戦争をするため、重慶に遷都することを決め、公に発表した。その後、重慶は抗日戦争時期の中国の政治、経済、軍事及び文化の中心となった。中国人民の抗日意欲をたたきつぶし、国民政府を投降に追い込み、中国を滅亡させて「大東亜共栄圏」を打ち立てるため、日本侵略軍は重慶を最も重要な攻撃目標として、1938年から重慶に対して戦略爆撃を開始した。

 1938年に日本軍が重慶に対して行った爆撃は、長距離で試験的な攻撃であったが、1939年に入ると爆撃は頻繁に行われるようになり、かつ野蛮な大量虐殺の段階に入った。その特徴は以下の通りである。第一に、日本軍は賑やかな市区を爆撃するだけではなく、近郊ひいては遠い郊外も爆撃の目標にした。第二に、無差別爆撃を実施した。人民の住宅、学校、工場、医院、外国の駐在機関及び大使館も爆撃された。第三に、昼の爆撃に加えてさらに、夜間においても不定時に爆撃する戦術をとって、かき乱す時間と爆撃する時間を伸ばし、重慶を常に不安定な状態においた。

 1940年、第二次世界大戦のヨーロッパ戦争が勃発した。日本は、南に進攻して、東南アジアと太平洋にあるイギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの国の植民地を奪う好機が来たと考え、中国に対する侵略戦争を、出来るだけ早く終わらせようと考えた。南へ進攻する兵力をつくるため、日本は「101号作戦」計画を立て、重慶に対して1939年より更に激しい、広範囲にわたる爆撃を開始した。

数で比較してみると、前年の1939年には日本軍は59陣で809機の爆撃機を出撃させ30回の爆撃、2,213発の爆弾投下であったのに対し、1940 年には日本軍は191陣で4727機の爆撃機を出撃させ80回の爆撃、投下された爆弾は9553発のもの数になった。重慶の市区だけではなく、遠い郊外地域も大規模な爆撃を受けた。1939年の爆撃は日本軍の攻撃が無差別に行われていることを露呈したが、日本は外部に対して「重慶の軍事、政治拠点しか爆撃しない」と揚言していた。

1940年には、日本がイギリス、アメリカ、フランス、ドイツなどの国の駐在機関と大使館のため確定した「安全区」以外、日本軍の爆撃機は重慶のすべての地区と施設に対してさらに残虐、野蛮な無差別爆撃をおこなった。しかも破壊力がとても強く、新しい凝固ガソリン弾と数多くの焼夷弾を使った。その爆弾は極めて大きい被害をもたらし、爆撃によって、1939年に4,437人が死亡し、4,979人が重傷し、4,827軒の家屋が壊された。1940年、 4,232人が死亡し、5,411人が重傷し、6,955軒の家屋が壊された。この2年間の死傷の人数及び壊された建物の数の差がそれほど大きくないのは、1940年に重慶市区の防空意識と防空施設が極めて改善されたことに起因する。

 1941年、日本は南に進攻する政策を推進し、太平洋戦争開始の準備をするため、対中国の戦争をなるべく早く終わらせることが日本の当面の急務になった。そのため、1940年の「101号作戦」計画の後には、日本軍はさらに1941年7月の中旬に、「102号作戦」計画を立てた。

この計画によると、5月から7月にかけて、日本海軍の第22航空隊は、重慶に対して20回余りの爆撃を行った。7月中旬に日本海軍の第11航空隊、8月の初めに日本陸軍の航空隊第60戦闘隊は相次いで重慶に対する攻撃に参入した。

この1年間の爆撃には、一つのあからさまな特徴がある。日本軍は疲労爆撃戦術を採用したという点である。大量の兵力で、一回限りの爆撃ではなく、少量の爆撃機を使って一日中連続して何度も空襲、あるいは何日間も持続して空襲した。そのため、重慶の市民は連続の空襲警報の下奔走し、疲れ果ててしまった。正常な生活や仕事ができなくなって、精神的に常に緊迫した状況に置かれた。

6月14日から16日にかけて、28日から30日にかけて、7月4日から8日にかけて、27日から30日にかけて、4回にわたって連続して爆撃があった。

8月8日から14日にかけて、連続して7昼夜の爆撃があり、毎回の爆撃の間に6時間の間隔をとった。

8月10日から13日にかけて、重慶市区では13回にわたり空襲警告が鳴り響き、警告の時間は96時間に達した。

また、日本軍は無差別爆撃の範囲を拡大し、日本軍が確定した「安全区」内のイギリス、アメリカ、フランスなどの国の大使館も何回も爆撃を受けた。全世界を驚かした六・五大隧道虐殺事件は、まさに疲労爆撃という形で引き起こされた。

 1941年12月8日、日本軍は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争に突入した。日本は太平洋戦争に参加したこと、中国の空軍と防空力が強められたこと、米国の志願航空隊すなわち陳納徳将軍が率いた「飛虎隊」が対日作戦に投入されたなどの結果、日本は中国戦場の制空権を失った。そのため、1942年、1943年に入ると、日本軍は偵察機を派遣し、重慶及び周辺地区の上空に入って、偵察しかできなくなった。この2年の間には、1943年8月23日に一回の重慶に対する空襲があった。151発の爆弾が投下され、21人が死亡し、18人が重傷し、99軒の建物が壊された。

   三 日本軍が重慶を爆撃して犯した罪

 日本軍が重慶を爆撃して犯した罪は三つある。

 1、平和を破壊する罪、すなわち他国を侵略する罪である。

 2、戦争法規と慣例に違反した罪、すなわち重慶を爆撃した時に国際法に反する手段をとった罪、及び平民の生命と財産を害する罪である。

1907年のハーグ陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約付属書陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則の第27条は以下のように定めている:

「包囲攻撃する時に、宗教、技芸、学校及び慈善事業に関する建物、医院及び収容所などは目標にしてはいけない」

日本が加入した1929年の「海軍条約」も同様に定めている。

「平民に恐怖を感じさせ、非軍事的性質の個人財産を害し、あるいは非戦闘員を傷害するなどを目的とする空襲を禁止する」

言うまでもなく、日本軍が重慶で行った無差別爆撃は、国際法と国際慣例に反したものである。ここで指摘しなければならないのは、日本が重慶で行った無差別爆撃は、「過失」ではなく、故意に国際法と国際慣例を踏みにじった爆撃だということである。   1937年11月に制定した日本の「航空部隊使用法」 103条はこのように強調する

「……もっとも重要なのは直接に住民を空襲し、敵に極めて大きい恐怖をもたらし、敵の意志を打ち砕くことである」。

   1939年1月21日に平沼首相は議会でこのように演説した

「中国人が日本の意向を理解してもらいたい。そうでなければ、彼らを消滅する以外ほかの方法はない」。

1939年7月24日、中国侵略派遣軍の参謀長が軍事態勢についてこのように陸相坂垣将軍に提案した。

「恐怖心をつくって敵の軍隊と人民を混乱させるために、空軍は後方の戦略拠点を空襲するべきである」。

3、人道違反罪日本軍が重慶を爆撃した際に、細菌爆弾を使用した事実については、当時の新聞にも掲載された。

2001 年4月、日本軍による細菌戦によって被害を受けた中国人が日本政府に賠償請求をした。これを支援するため、日本弁護団の構成員である一瀬敬一郎氏、731 部隊資料編纂会の奈須重雄氏等が重慶を訪れ、調査を行った。彼らは重慶の梁平県で当時の目撃者と罹災者の遺族を訪ねて調査した。その結果、日本が重慶に細菌爆弾を投下したことが明らかになった。(以上)

天のウズメの胸乳

 むかし、神が天から下ってこようとした時、天のやちまたに一人の異形の地神*1が居た。何ものだと従の神に聞かせようとしたが、皆位負けして問えない。天のうず女に命が下る。「天のうず女*2、すなわちその胸乳を露わにかきいでて、裳帯(もひも)を臍の下に仰(おした)れて、咲(あざ)わらいて向きて立つ。*3」有名な天の岩戸の前のパフォーマンスとほぼ同じである。*4しかし、天の岩戸の時の、神々が観客として大勢いて、天のうず女のパフォーマンスに「八百万の神ともに笑いき。」という、みながショーを楽しんでいるといった配置とは今回は全く違う。どんな敵が潜んでいるかしれない未知の領域に入ったとたん、強そうな異貌のものが立ちふさがっている。どちらかというと闘って力でねじ伏せて進んでいくしかないとシシュエーションにいきなり裸に近い女が登場するのは、21世紀風の趣味にはひょっとしたら合うかもしれないが、古代にふさわしいことなのか、と疑問がふくらむ。

 だが、白川静の『字統』などによれば、濃い化粧をした巫女(ふじょ)の呪祝の力は古代において非常に重視されたもののようだ。*5天のウズメのエロティックなパフォーマンスは、エロティックなものとしてあったのではなく、敵を倒す呪いの力を持つものであったのだ。したがって「胸乳かきいで」云々というフレーズは、後者の闘いのシシュエーションに置かれていたテキストの方が古いのではないか。現代人にも分かりやすいストリップショーの喜びという場面は、古事記の時代の人によって新たに作られたものでそれほど古くないのではないか。

*1:猿田彦大神

*2:天鈿女、あるいは天宇受売

*3:p134岩波文庫『日本書紀』

*4:古事記では、「胸乳をかきいで、裳緒(もひも)をほとに忍(おし)垂(た)れき」。p51新潮日本古典集成

*5:『字統』の媚、蔑などの項目参照。

(7)反フェミ/フェミの水掛け論(10/26追加)

10/26までに三人の方からコメントいただきました。ありがとうございます。

(1)

# 通りすがり 『匿名失礼します。上記1~3のような反フェミ/フェミの水掛け論は耳にタコの世界ですね。もっとこう、プラグマティックで議論の土台になりうる、「遺伝的に違ったらどうなんだよ。抑圧しても差別してもいいのかよ」という、止揚を目指した議論が(一般に)広まることを期待します。』

(2)

# dennouprion 『統計的に男女差があっても個人差があるわけだから、差別は正当化できないはず。遺伝的なさがあるかないかを議論しても無意味だと思います。http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/dskrmnc.html#kagaku

上記で紹介いただいたサイトから一ヶ所だけ引用すると次のようです。

だから私には、仮に女性の方が男性よりも生物学的適性により子育てとか家事に有意な差において適しているという証拠がいくら「科学的」に提出されたところで、果たしてそれが女性に子育てと家事を担当させることを正当化する理由にはならないと思うのです (*)。

http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/dskrmnc.html#kagaku

男女に統計差があるなら役割分担すべきか

(3)

# Cman 『統計的な男女差が人為的な差別によるものかどうかを識別するために、遺伝的な要因があるかないかが問題なのだろうに。』

以上、野原は(1)(2)の方の意見に賛成です。(3)の意見は山形さんに近いのかな。

(3)の問題設定は、(1)(2)及び野原に理解されていないし、理解すべきかどうかという問題意識すらないようだ。したがってCmanさんは、もし議論したいなら、その問題設定の妥当性を私たちに対し教育しなければならないみたいだ。

カウンタ

祝!

1,107(20040307~)親サイト

10,160(20040805~)ここ

この日記にはタイトルに反し日常が一切ない、頭で書いた(コピペした)文章ばかりじゃないか、つまらん!という声が聞こえてきた。

プロナタル・アンチナタル

11/18に続き、今度は『概念集・10』に、松下昇氏の(性というよりも)出産に関わる文章があったので、掲載します。

id:noharra:20040905で関曠野氏の文章をかなり引用しましたが、この松下の文章は1992年に出版された関氏の文章をきっかけにして書かれたもの。

        プロナタル・アンチナタル

 プロナタルは出産を奨励し、妊娠中絶を否定する主張、アンチナタルは妊娠や出産を女性主導でおこなおうとする主張。関曠野氏によれば、今後の世界情況における最大の対立点になると想定されており(このぺージ右に主要部分を転載する。)、左翼ー右翼の図式を転倒する争点の提起と共に、その指摘はユニークであるが、疑問点を提出すると、

①アンチナタルは一見、正当な根拠をもっているようであるが、この立場にある人、特に女性は、妊娠~出産だけでなく、売春や性的暴行の根源を存在論のレベルで包括しつつ女性の直面してきた困難さを歴史的かつ生理的に提起し、かつ政治機構の改革(例として議会の男女同数議席)のプログラムを提起してほしい。これが徹底的になされるならば、男性主導社会~文明への〈爆弾〉になりうることは確実である。この包括性がない場合には、いかに妊娠~出産とエロスの分離という主張をしても、あらかじめ生理的に分離され、歴史的に立場を補強している男性主導社会~文明を爆破しえないであろう。また、男性主導社会~文明の裏返し的な頽廃を育成してしまう危険もある。

②妊娠~出産だけでなく、異性との出会い~性的交渉における女性主導という場合、その主張の主体は、受胎するまでの関係性と、受胎した場合の生命が軸であり、受胎した女性は補助的な判断主体にしかなりえないことを明確にすべきである。そして、もし、受胎した生命を中絶(抹殺)するとしても、受胎に関わる異性との関係を中絶(抹殺)することが前提である。これは過酷な提起であろうか。胎児や、受胎に関わり得なかった異性は決してそう判断しないであろうし、この判断が優先されなければ、存在の最低限の対等性は維持できないのではないか。

③前記の①~②の論点に交差しない存在(異性に出会う回路~意思を持たない、あるいは子どもを生めないか生まない生理~位置にある人々)にとっての対等なテーマを相互に確認し共同で追求していく関係のレベルにおいてのみ、プロナタルの主張もアンチナタルの主張も、未来情況への意味をもちうるであろう。そして、この共同の追求を阻害する全ての力と対決していく過程は、人間存在の深い根拠を照らし出し再構成するであろう。そのような過程にこそ、この世界に生誕してくる意味や、他者、とりわけ異性に出会う意味に関する論議は生命を持つはずである。新たな図式=プロナタル・アンチナタル論議の限界を超えよ!

註ー胎児の生命を尊重する視点からのプロナタル的な立場に対しては、少くとも死刑制度や軍隊・讐察などの暴力装置の廃絶と共に主張せよ、という反論を対置していくのが原則である。いまプロナタル的な立場にある者も、人口・環境問題の切迫からアンチナタル的な立場へ移行するか利用してくるのは自明であり、その安易さや支配者性をあらかじめ批判しておくためにも。一方、異性との出会い~性的交渉の意味を先験的によいこと、必然の欲求とみなすアンチナタルの立場は、ラディカルな装いをまとっていても信じるに値しない。自らの立場が、もしかしたら最も安易な、遅れた質を内在させているかもしれないと自己対象化しえた後でのみ主張は力を持つであろう。

松下昇『概念集・10』~1994・3~ p19

金文紹介のサイト

http://e-medicine.sumitomopharm.co.jp/e-medicine/komiti/

金文(青銅器などに刻まれた古代中国の漢字)甲骨文などを画像付きで親しみやすく解説しているサイトでとても面白い。

例えば、懼の字。この甲骨文のように鳥が目を左右にくるくる回して天敵の襲来を恐れる形。白川静系。

http://e-medicine.sumitomopharm.co.jp/e-medicine/komiti/kokoro_2/main.html

(提供、住友製薬らしい)

快不快の話

スワンさんコメントありがとう。

# swan_slab

『こんにちは。この件については、週末にちらっと意識はしたのですが、読む分量が多すぎたのでテキトーに参考にした程度ですが、結局、快不快の話だという前提があるのでつっこみにくいのはたしかです。』

# N・B

『 あ、スワンさん。お久しぶりです、あいまいな形でトラックバックしてすいません。それでも『快不快』『好悪』が基本にあると自覚するのは重要だと思います。

 

>応答が遅れていて

 普通の人が私よりずっと忙しいのはさすがに承知してます、「今は忙しい忙しい」と書くのと同時に、やたらと長く書かれるより、一言断っていただいたほうがずっと『好き』ですよ。では失礼します。』

# N・B 『前の書き込み、「返事を長く書かれるより」、です、「返事」を抜くと意味が全く変わることに今気づきました。個人的なことそのほかで余計に書きすぎましたすいません。』

ビラをまく自由

 投票に行くことより、デモをしたりビラをまいたりする方が有効な政治的行為だと思っている、わたしは。

 去年くらいに駅構内でビラをまいてはいけないという通知がJRの各駅長宛出たという噂をきいた。

 2月24日、東京のある高校前で、ある大学生がビラを配っていたという理由で、その高校長が警察に通報した、という事例があるようだ。

 また次のような噂もある。

  また、式典会場及びその周辺においてビラまきなどがなされた場合には、「住居侵入罪」「道路交通法違反」を活用して警察力を導入せよとの校長宛指導がなされているとの情報もあり、

 道路でビラをまくことについて、警官に嫌がらせをする権利があるかどうか、前から気になっていたので、道路交通法を見てみた。

第76条 

4 何人も、次の各号に掲げる行為は、してはならない。

1.道路において、酒に酔つて交通の妨害となるような程度にふらつくこと。

2.道路において、交通の妨害となるような方法で寝そべり、すわり、しやがみ、又は立ちどまつていること。

3.交通のひんぱんな道路において、球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること。

4.石、ガラスびん、金属片その他道路上の人若しくは車両等を損傷するおそれのある物件を投げ、又は発射すること。

5.前号に掲げるもののほか、道路において進行中の車両等から物件を投げること。

6.道路において進行中の自動車、トロリーバス又は路面電車に飛び乗り、若しくはこれらから飛び降り、又はこれらに外からつかまること。

7.前各号に掲げるもののほか、道路又は交通の状況により、公安委員会が、道路における交通の危険を生じさせ、又は著しく交通の妨害となるおそれがあると認めて定めた行為

 これを見る限り、「道路交通法」ではビラ撒きは禁止されていない。公務員が法的根拠なく市民の政治的自由を制限してはいけない。

もう一つの固有名

だが、ここで突然出現した「心臓」という語。わたしはそれが気になって仕方がない。南条あやの心臓、それはいったいどんなものなのだろう。南条あやの心臓を想起すること、それは許されることなのだろうか。許されるとして、それはどのように想起すべきことなのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/irogami/20050310 materia:materia

おとなり日記4%から唐突に引用。(引用させていただきます)

南条あやとはネットにおけるメンヘラーの中でもアイドル的存在だったが、すでに自殺しているひとらしい。政治的被抑圧者、(の代わりに死んだ)アクティヴィスト、を考える際に必須のサバルタン、といったテーマ系とは無縁の場所で死んでいった女性。わたしにはうまく考えられないのだから引用もすべきではないのだが、わたしに無縁とは言い切れないので引用しておきたい。

 ところで引用先には次のような文もあった。

ついでに言うなら、自分はアドルノやレヴィナスに与して、真に問われるべき問いは、存在の意味への問いではなく、存在者の側に、存在者という他者への問いを否応なく終わりなく呼びかけるものの側にこそあるという考えである。

 レイチェル・コリー、桧森孝雄という二つの固有名は虐殺されたもの、あるいは死を賭けたその代理人である。死んだという衝撃を政治的効果に換算するために、政治的メッセージとしてヘッダに掲げられている(はずだ)。ひとは政治的に死ぬことはできない。全体的存在の果たされていない約束でありながら死ぬことしか可能ではない。最終的に死は臓器の死であるが、臓器を想起する方法もまたわたしたちは持っていない。政治的言説は豊かな現実の錯綜する関係性を平板化するものとして昨今評判が悪い。現実の帝国主義や国家の側がひとを死に追いやっている事実は重視しないのが洗練された生き方のようだ。だが、一つの死は単に政治的ではないより大きな死であったが為に、政治的メッセージにもなる。