# swan_slab 『ちょっと【邪悪な愛国心と正しい愛国心は観念できるか】という私の問いに戻したいことがあるのですが、これまでの議論をふりかえると、

hikaru さんhal44さんは愛国心はそもそも悪いものにならざるをえないといった議論を展開しているように思います。そもそも悪いものにならざるをえない理由として、hikaruさんはすでに存在している多元的社会における生活を提示します。これは例えば「国籍保持者に奉仕活動を義務付けるべきだ」という考え方を例にとれば分かるように、愛国心は国内的にも排他的性格を持たざるをえない。つまり差別を助長する。

hal44さんは同じく多元的社会あるいはグローバル化した社会を前提に、その排他性を「敵の必要」という観点から説明しているように思われます。お二人の議論を重ね合わせると、国外に敵をつくるのみでなく、国内にも敵をつくる論理であるから、愛国心は忌避されるべきであるということになろうかと思います。

それに対して、私は「愛国心」の社会公共的価値はあるという考え方です。もう少し具体的にいうと、現行の憲法的秩序に深い信頼と確信を寄せ、それを不断の努力によって守っていこうとする態度はひとつの愛国心といえないでしょうか。国制(Constitution)に対する信頼。もちろん、愛国心の多様性を前提としますので、現行制度に否定的な愛国心もあり得る。この着想は、17世紀にアメリカに渡った移民たちの契約モデルをイメージしています。何が「善い」のかはさておき、善い社会を目指していこうというコンセンサスです。しかし、通常、メイフラワー盟約も、憲法的秩序への忠誠も、パトリオティズムとの関連で認知されていませんね。

それから、野原さんは

>進歩派の多数派が実際にやっていたことは、パックスアメリカーナを困難な理想主義としての平和と曖昧に混同し、基地を沖縄に押しつけ続けるということではなかったでしょうか。>

と述べています。

この多数派がどのような人たちを指すのかちょっとぼんやりしていますが、私の考えでは、戦後の日米外交は、「巻き込まれリスク」と「見捨てられリスク」の均衡のなかで対米距離を測ってきた。しかし、江畑謙介が指摘*1するように「巻き込まれリスク」といった観念は、冷戦後強力に推し進められたアメリカの「全世界戦略」の現実に目をそむけるものであると。そういう側面は恐らく日本の知識人の間にもあっただろうと思います。

また、左翼的知識人のなかには、依って立つ立場自体を問題にされることがあった。例えば丸山眞男はそのたち位置「精神的貴族主義」が批判の的となった。

>パトリオティズムに私がやや否定的なのは枠の問題が抜けるからなのです。>N・Bさん

ちょっとよくわからなかったですが、私自身は「隣人とは誰か」の対象をアトミックな個人に見定めるか、個人を育む歴史的・文化的・政治的中間集団の多様性を認めるか、といったことに興味があります。』 (2005/03/26 18:22)

# index_home 『スワンさん

>私は「愛国心」の社会公共的価値はあるという考え方です。

もちろん、現代は多元的な社会になってきているといっても、国家が崩壊したわけではありませんから「愛国心」の価値はあると思います。もっとも、価値があるだけに危ういともいえるかもしれませんが。』 (2005/03/26 22:15)

# hal44 『「社会公共的価値」あるいは、道徳律の基礎としては、遍性のある「人権」を私は採用します。「人権」の保証には超国家的な枠組みが必要なんですけど、現実的な問題は多々ありますね。「愛国心」は国民にしか人権を認めませんから。』 (2005/03/27 06:17)

*1:『日本の軍事システム』P21

聞きなれない→捏造

ym 『はじめまして。

>「言論の淘汰圧」という聞き慣れない言葉を使うことで、捏造が行われる。

言論の淘汰圧というのは、ミームの話ではありませんか?参考までに、スーザン・ブラックモアがミーム(文化の遺伝子)に関して“ミーム・マシーンとしての私”という本を出版しています(小熊さんの解釈が妥当かどうかは私には判断できませんのでひとまず置きます)。

「ミーム」も聞き慣れない言葉でしょうが、聞きなれない→捏造というのは淋しいですね。耳慣れない内容に関して日々研究をしている人間もいますので、できれば穏当な表現に押さえていただければと思います。』(2005/04/14 04:30)

(野原)

ymさん はじめまして。

ミームという言葉は聞いたことがありますがよく分かりません。(あやしいなという印象しか持っていません?)

「聞きなれない→捏造という」ふうには、書いていない筈ですが。

ネット上の論争といっても二つの全く違った現象を、ある(キーワードになる)「言葉を使う」ことで同一化していると指摘しているのです。

「言論の淘汰圧」であれなんであれ「聞き慣れない言葉を使う」事自体に、反対していません。わたしの表現も聞き慣れない言葉や記号に満ちているでしょうし。

サヨクあるいは市民派どもは「批判されて当然」

http://d.hatena.ne.jp/andy22/20050419#p3

というところがおとなり日記にあったので読んでみたら、綾川亭さんは困惑しておられる。“明らかに左翼的意見の人が「サヨクあるいは市民派どもは馬鹿にされて当然」だと思っている”ことに対する困惑のようだ。わたし(野原)にもあてはまらないことはないので、元のブログの流れには無知なままそこの所にだけ反応してみよう。

(1) 天皇制が身分制度でないとしたら何の制度なんですかね?ある家があってその血統ゆえに生まれながらに尊いという社会であれば、逆に特定の血筋の人間集団が卑しいと差別される発想が生まれるでしょう。表裏一体。「橋のない川」って知ってる?知らんでしょ。

(2) 、、、、ってまあ、このあたりがサヨクあるいは市民派どもが吹聴してた話さ。例の民衆法廷もそれの吹き溜まり。(レイプ犯許すまじ)

について解説します。

 図式的に言うと、左翼には(旧)左翼と新左翼の二種類があり、後者は前者を否定する。(2)はそういう意味の否定だろう。

新左翼は旧左翼の持つスターリニズム、権威主義、口先だけのきれい事を激しく批判します。即ち、現在のプチウヨは新左翼の劣化コピーなのです。

 旧左翼はプロレタリアート=労働者に依拠していたはずが、その依拠対象を(選挙目当ての)市民にズラして行き、口当たりの悪いこと(天皇制批判)などを言えなくなっています。新左翼はマイノリティに依拠します。マイノリティの切り札として登場したのが従軍慰安婦です。*1従軍慰安婦=被害者と活動家との間には落差があるわけですが、旧左翼の場合自らを善意の存在とみなし(普遍的人権とか、平和、アジア連帯といった)理念が両者を救ってくれる、と考えます。新左翼は、自分の主体が落差にさらされる<自己否定>という磁場を大事にします。*2新左翼なら、「レイプ犯許すまじ」といいながら、(自分が日本人の男性である場合には)自分を被害者に対してではなくレイプ犯の方に位置づけながら語るべきです。その立場性は当然語られることはない。ただある場合にはキレて、落差がかいま見られることもある、この場合のように。

 以上「新左翼」という言葉を非常に特殊な意味で定義し使ってみました。わたしはここでいう意味での新左翼になりましょう。

 新左翼は反スタ(反スターリニズム)でなければならず、反金正日であるはずです。*3 女性国際戦犯法廷を支えたVAWW-NET Japanなどの現在にその姿勢がないのなら、批判されるべきです。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050125#p3 <<<金正日有罪>>>に書いたとおりです。

要は、民衆法廷を担ったうちの日本人たちは何かの「吹き溜まり」であっただろう。それは2000年に於ける左翼全体の退潮という状況において当然のことだ。彼女/彼たちの主流の思想傾向について違和感を持つ人は多かろう。だが日本軍「慰安婦」たちの存在を見たくない(否認しよう)とする欲望は悪であることは明白である。したがって「慰安婦」問題を重視するが「サヨクあるいは市民派ども」を批判する立場というのは当然あり得ます。

あと2点にだけ触れておきます。

すでに述べたが、「レイプ犯許すまじ」さんには、慰安婦問題を、朝鮮韓国人問題へと結びつけることが全くない。これは今時、非常に稀有な見方だと思う。(綾川亭)

慰安婦問題は、東ティモール、インドネシア、マレーシア、オランダ、南北朝鮮(共同提出)、中華人民共和国、フィリピン、台湾、そして日本といったひろがりを持った問題です。その事実把握が「非常に稀有な見方」になったのは安倍晋三とプチウヨによる世論誘導の成果です。

天皇制が身分制度でないと考えているのでしょうか?頭に蛆がわいているんじゃないですか?(レイプ犯許すまじ)

天皇制は身分制度であり、廃止されるべきだ、というのはそれに反対するとしても、べつにあって当然の意見だと思います。そう思わない人はタブーに縛られているのでは?

*1:したがって、従軍慰安婦に注目すること自体ある意味では新左翼的なわけです。ですがこの後、その運動の中での旧左翼的傾向と新左翼的傾向の差異について書きます。

*2:日本の新左翼に何の関係もないが、「サバルタンは語ることができるか」スピヴァク、はそうした問題意識を示しています。

*3:現在そうした人はほとんどいないが

スピノザ~儒教

でぐぐって見たら、こんなのがあった。メモしておこう。

そしてまたここで、筆者が比較社会思想研究の恒例として汎神論と多元的民主主義思想を兼ね備えたスピノザを挙げたことに対して、サンデル、テイラー両氏とも、スピノザが東西思想の架け橋となりうる哲学者であろうと格別の関心を示したことを、特記しておきたい。

(山脇 直司)http://homepage2.nifty.com/public-philosophy/yamawaki5.htm

アメリカにおける朱子学の大家として名高いドバリー氏は、約20年前に朱子学とリベラリズムの親近性を論じて注目を浴びた学者であるが、最近ではむしろ儒教を一つのコミュニタリアニズムとみなして、その現代的意義を論じる傾向が強まっている。そこでまず、彼が一体どのような問題提起を行うのかに、参加者の関心が集まった。その彼は、朱子学が仏教やエスノセントリズムにはない普遍主義的倫理を持ち、しかもその理気思想が宇宙論的射程を持つが故に、地球的規模でのエコロジー危機に対処しうる公共哲学になりうることを指摘した。そしてさらに、儒教には「人民による政治」という伝統はないものの、統治者が常に民意を汲み取り「人民のための政治」を行うという意味での公共性の伝統が存在している点を強調した。(略)、ドバリー氏は、侍文化によって歪められた日本の儒教・朱子学と異なり、本来の儒教・朱子学には人権思想や制度変革思想が存在することを改めて力説した。

(同上)

東条英機無罪?

東条氏の孫や一部極右分子に引きずられて、「東条英機無罪」にしてしまって、日本人は本当に良いのでしょうか?

「大東亜戦争を反省し、平和国家(憲法9条)に生まれ変わった」というのが戦後日本の表看板でした。

後半はともかく、「反省」については撤回できないことはバンドン会議で明らかになりました。(もう一方に、戦前の「国際連盟脱退」に類似する道を選ぶ、という選択肢もあります。)

「反省」をどうパラフレーズし、近隣諸国に訴えかけていくのかが問われているのだ。日本国家にとっては。「反省」という課題に背を向けふやけたナルシズムに耽ろうとする人々には冷水を浴びせなければいかない。

あの戦争は太平洋戦争ではない!!

6/28の朝日新聞夕刊素粒子には次のようにある。

世論調査によれば、20代の49%、30代の57%が太平洋戦争のことを「知らない」。無知は恥と知れ。

 あのね、朝日さん。プチウヨと同じフレーズは使いたくないが、無恥なのはお前の方だろ、と思うぞ。

 大東亜戦争を太平洋戦争に言いかえさせたのは占領軍アメリカ。日本人は、それを喜々として受け入れ、「日本はアメリカ(+イギリスなど)と戦い負けた(日本は中国と戦っていたんですかあ~~?)」という認識を成立させた。「太平洋戦争」のことなど知る必要はない。太平洋戦争ではなく、アジア太平洋戦争あるいは括弧付きの「大東亜戦争」だったのだ、と知ることからしか何も始まらない。

「受忍しない」

手元に1枚の新聞の切り抜きがある。大江健三郎の、2005年8月16日付けの朝日新聞・朝刊の連載エッセー「伝える言葉」である。

「一九四五年三月、米軍が沖縄列島ではじめて上陸した慶良間諸島で、住民たちが集団で自殺したということが起こりました。渡嘉敷島で、三百人以上、座間味島で百数十人が死に(あるいは殺され)ました。」というのが冒頭の文章である。

読み進めると、「私はいま、一九七〇年に書いた『沖縄ノート』(岩波新書)での、慶良間諸島の集団自殺をめぐっての記述で、座間味島の当時の日本人守備隊長と、渡嘉敷村の同じ立場だった人の遺族に、名誉毀損のかどで訴訟を起こされています。」とある。まさにこのテーマについての当事者の一方の発言である。だからこれに触れて書いてみようと思ったのだが、なかなか書けない。

 はっきり言ってあまり良い文章だとは思えないのだ。最初の方に、石原昌家という人の文章が引用されている。

「沖縄戦で住民が日本軍に積極的に協力したという基準で適用されるのが「戦傷病者戦没者遺族等援護法。認定基準の一つに、「集団自決」という項目があり、ゼロ歳児でも戦闘参加者として靖国神社に合祀されているという事実を直視すべきだ」

戦傷病者戦没者遺族等援護法というのは、「 恩給法の適用を受けない軍人・軍属及び準軍属が、在職期間内に傷病を受けた場合、その傷病の程度に応じて、本人またはその遺族に対し各種年金が支給する」ことなどを定めた法律らしい。いわゆる「集団自決」などの場合は純然たる民間人だから、上の説明からは貰えないように思える。*1

ところが実際には、「集団自決」などの場合でも貰えることがある。「集団自決」は国家の責任だから当然である。というか本来は別の論理で別の法律で出すべき筋のものである。そのような立法はなされなかった。このような場合に、行政は相手が「頭を下げてくること」を条件に恩恵的に年金を出すことがある。金を出すのだから頭下げてもらうのは当たり前って、それは民主主義国家じゃあないだろう。でこの場合の条件というのが「軍からの命令」の存在である。で曾野綾子以下の何人もの人がこの「軍からの命令」が真実のものかどうかをあげつらいはじめるのだが、これは行政にとっては大きな計算外れだったに違いない。行政にとって、この「軍からの命令」はその真偽を厳密に問うべき物ではないのだ、本来救済すべき遺族に対し救済を別の方法で与えるための便法に過ぎないのだ。

 私は戦傷病者戦没者遺族等援護法の認定基準について勉強したことはない。*2しかし、本来は軍人に対する制度である援護法を適用すること自体がおかしい。というところから考えた場合上のような理屈が成り立つ。その結果仮にAさんの名誉が毀損されたのであれば、責任は「集団自決」に正面から補償する制度を作らなかった国家にあるのではないか。

 このような「恩恵としての行政」の問題は、当然「自決」をどう捉えるか、軍に殺されたのか否かというイデオロギー的問題を当局寄りに解決することを伴う。

だからといって「靖国に合祀する」かどうか、は靖国神社という一神社の判断の問題であり、援護法の適用の問題とは全く無関係のはずだ。大江の(引用を含む)文章はここが全く不明確なので、悪文だと思う。

 そしてさらに文章の後半では、憲法13条幸福追求権がでてくる。「すべて国民は、個人として尊重される。(略)」

戦争放棄の項とあいまって、この項は60年前の夏、戦争が終わった日に日本人が感じた解放感の柱だったものを表現していると思います。その解放感のすぐ裏側には(略)個人に死を強制する国という存在への恐怖が、なおこちらをジッと見ている、という気持ちも残っていたのが思い出されます。

確かに大江にとっての真実はここにあるのだろう。

国家は戦争の時個人に死を強制する。したがって国家を拒否できないなら戦争を拒否すべきだ。そう言われれば納得する。

ただ、大江がもっとも美しいと讃える13条には「公共の福祉に反しない限り」という魔法のフレーズが含まれている。このフレーズにどう向きあうべきなのか、大江は問題点を提示しながらその問いには答えない。

 広島・長崎で、また沖縄で、人間として決して受忍できない苦しみを、人間がこうむったこと。

 例えば中国大陸のある作戦で華々しく戦いながら死んでいった兵士は「受忍できない苦しみをこうむったこと」にはならないのか、と反問してもしかたないだろう。「人間として決して受忍できない苦しみ」という修辞にこだわってもしかたない。それを記憶し、伝えることが本当に可能かどうかも分からない。ただ個人的に考えてどうしたって受けたくない苦しみには違いない。そのような苦しみをなくしていくためにはどうすればよいのか考えなければいけない。

*1:だいたい階級制度のきびしかった戦前の給料に基づく恩給法をそのまま継続した事自体が、戦争責任問題との絡みで問題なわけだが。

*2:だから厳密には間違いがあるかもしれない。

独裁とは何か

異論があっても、誰もそれを声に出して言わない時代のことである。

【宮崎学氏の発言より】

自民党、公明党が衆議院の議席3分の2を支配した。

(略)

第58条 両議院は、各々その議長その他の役員を選任する。

2 両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、又、院内の秩序をみだした議員を懲罰することができる。但し、議員を除名するには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする。

 これが3分の2の議席占有の威力である。こうなるとどうなるか。

 つまり言えることは、自らに逆らうものは、実体的に殲滅するという「論理」の純化がはじまる。自民党内にとどまらず、その矛先は民主党の一部にも向かうであろう。そうするとである、議員が「職業」、つまり就職としてとらえているような意識水準の議員はひとたまりもなく寝返ることとなる。

 それでも抵抗する者には、難クセをつけて議員の首を切ればいいということになる。これは法的には何ら問題はない。

 こうして、平成型翼賛政治が完了する。そしてこの翼賛は、社会的にはそれぞれ内部に問題を抱える、警察、検察が下支えすることになる。

 まあ、ワシはこう見とる。

http://miyazakimanabu.com/archive/2005/09/20050914.htm 憲法第58条2項 ~スターリン党への変貌~