克己復礼

克己復礼というのは儒学では特に重んじられたスローガンらしい。

克己復禮爲仁。一日克己復禮。天下歸仁焉。

http://kanbun.info/keibu/rongo12.html 論語・顏淵第十二(Web漢文大系)

顔淵(がんえん)、仁を問う。子曰く、おのれに克(か)ち、礼に復(か)えるを仁となす。一日、おのれに克(か)ちて礼に復(か)えらば、天下仁に帰(き)せん。(同上)

(内に)わが身をつつしんで(外は)礼(の規範)にたちもどるのが仁ということだ。一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、世界中が仁になつくようになる。(金谷治訳 岩波文庫p225)

ところで素直に読むとこれはかなりおかしい。わたしが身をいかに慎んだところで、天下に直ちに影響を与えるような大物である筈がない。つまり、「克己復禮」とは本来、王に求められる徳であるわけである。最高権力者は当然権力を自分の思うままに使いたくなるが、それを絶対制御しないといけない!という教えである。

上の孟子にある、人民の状態は君主の徳の関数であるといった思想がここにも読みとれる。つまり儒教は本来、王あるいは宰相クラスの人に徳を求めるものであった。それが士大夫に広がり、ついには「国民全体」に一律に期待されるに至った。だからといって、上のいうことには従えといった奴隷道徳と解釈される余地はない。*1

 ところで、10月15日から梅田で子安宣邦先生の新講座「荻生徂徠・弁名を読む」が始まりました。徂徠講義の後の時間に、子安先生は「克己復禮」について詳細に話してくださいました。ここに書いたことは、そのとき聞いたことの一部です。「克己復礼」というたった四字が、それぞれの時代のそれぞれの論者によってさまざまな表情をみせるのには驚きます。

この文章はわたしのオリジナルではまったくない。がしかし子安氏の講義の紹介でもない、わたしなりの切り取り方をしたものです。

(10/16追加)

*1:愛国心や日の丸が好きな人は、奴隷道徳が好きな人であるように私には思える。

祓え給え、清め給え

神道というものは

ただ、祓え給え、清め給え、といえばよい。

というものなのだろうか。山田孝雄は「それに相違ないのである」と言っているようだ。(同書p98)

日本書紀の中の今申したように、腹がへってたまらぬという御心が凝って客観化して食物の神さまになる。禍津日神も穢を憎んで、それを去らなければ禍を下されるが、それは善人に禍を下す神さまではない。穢れを承知しない神様である。穢れがなくなればそれでいいという神様である。

欠如=ある徳への希求が凝って<神>になる。いま自己を圧迫してくる悪に対し、ひたすら「祓え給え、清め給え」と祈る、そうすると穢を憎む神が悪人に禍を与えてくれる。ということだろうか。

しかしそれには可能の原理がなければならぬ。その祓いの可能の原理がこの荒魂の活動にやどる。それが私の見た所に於いての平田先生の神道の神髄である。

「神が悪人に禍を与えてくれる」とまでは篤胤も孝雄も言っていないだろう。ただそういう方向の可能性はあるくらいか。

確かにAという人間を捉えて悪人であると規定することは、人間存在の広大さに対し人知でもってさかしらに規定することになり、出来ないことだと宣長はいうだろう。

本居先生の神道の考え方は要するに善悪二元論である。禍津日神となおびの神が両立しておいでになる。さうして(略)禍福は糾える縄の如しいうような説明をして居られるのである。(同書p85)

でもってこれを救済しようとするこの頃の*1日本主義者は、ヘーゲルをもってこれを解釈する、と。

それに対し篤胤は、二元論ではなく、一元論になる。

悪は祓いうる。つまり悪は本質的な物でないから祓いうるのだ。したがって神道は一元論でなければならない、と。なるほど。

ところでこの『平田篤胤』という本は、字が大きく百頁ほどでしかも内容が極めて平易である。面白い本だと思った。昭和17年という出版時点でこの表題ではひょっとして無茶苦茶国粋主義的なのではと思ったがそうしたところはなくとてもほのぼのした感じ。

「平田先生の一番力を籠め、殆ど命を打ち込んでやられた一番重要な点」が現在全く理解されていない、となげきながらも!

*1:S17年頃

直ちに其の神に成る

えっと折口を読もうとしていたのに宣長まで出してきたので話が別の方向へ転回しわけがわからなくなってきたぞ。

我が国には古く、言霊の信仰があるが、(略)

それよりも前に、祝詞には、其の言語を最初に発した、神の力が宿っていて、その言葉を唱える人は直ちに其の神に成る、という信仰のあったために、祝詞が神聖視されたのである。そして後世には、其事が忘れられて了うた為に、祝詞には言霊が潜在する、と思うに至ったのである。

だから、言霊という語の解釈も、比較的に新しい時代の用語例に、あてはまるに過ぎないものだ、と言わねばならぬ。

(p165 折口信夫「神道に現れた民族論理」『全集3巻』)

 たかだか8世紀前半にまでしか遡れない古事記の言語をもって「古の(こころ)=事(こと)=言」がそこにある、とする宣長の方法論には明らかに無理がある。当然、「それよりも前」の時代の人々は違う論理で生きていたはずだからである。

 神がもっと身近にいた太古を折口は自身に近づける。「直ちに其の神に成るという信仰」云々と折口は言うのだが、それは畢竟彼の詩的直感による構成物ではないのか。であれば凡人にはなかなか近づけなくとも当然か、という感想が起こる。

 どうも話が全然まとまらないのですが、少し分かってきた。

<古(いにしえ)>を読む、再現前させる二つの方法があると。

一つは、昔からの一定の伝統的な解釈にそのまま乗っかって「すらすらと平気に」語る方法。

もう一つは、宣長、折口それぞれやり方は違うが、常人離れした努力の果てにどこかで神懸かり的に、いまここに直接<古(いにしえ)>が降りてくるというパフォーマンスを行うこと。

この二つの異質な物をむりやり同一化したものが「靖国」的な、日本=日本の同一律であり、それは最強であり最悪だ、と。

神さま、助けてください。

結城浩さん という方が次のように書いて居られる。

(まあ信仰者ならだれでもこんなふうに、言うものなのかもしれないのですが。)

<祈り>というのは生活のなかにだけあり、自分の心や身体から降りてゆくことが価値でありその逆ではない、というのは興味深い。

自我を捨てること=共同幻想に己を捧げること、と捉えて否定するのが戦後の常識だった。だが本来、祈ることは自我を捨てることではあっても、共同幻想に己を捧げることではない。

ところで神が居なくとも、わたしたちは<祈り>を学ぶべきなのか?そうかもしれない、と私は思う。

http://www.hyuki.com/dig/prog.html

プログラミングを身につけるには / 生きた信仰の第一歩

聖書も同じだ。

いろんな聖書の解説書や聖書に関する本が売っている。

教会でも牧師さんが聖書の講解説教をやってくださる。

けれどもそれだけではだめだ。

自分で聖書を読み、自分でよく理解し、自分の口で祈り、

自分自身の生活の中に適用していかなくては、

聖書は身につかない。

自分で適用しようとしてみなければ、

聖書の厳しさも、神さまの愛も本当にはわからない。

自分の心の中の深いところは他の人にはわからない。

自分の心の奥深いところ、

誰にも見せず、誰にも開いていない扉を開くのは

その人本人にしかできない。

 祈り方もわからず、聖書も読んでいませんが、

 自分が自分の力ではもうだめだということはわかります。

 神さま、助けてください。神さま、ゆるしてください。

 イエスさま、どうぞ私の心に、今、来てください。(同上)

大学闘争

00318/00319 VYN03317 野原燐 大学闘争(概念集の一項目から)( 1) 00/07/24 08:04 00310へのコメント

以下に、1989・1 松下昇概念集・1 から、p22「大学闘争」という項目を転記する。

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    大学闘争

 この概念を見掛けの狭さから、どれだけ広いテーマ領域へ解き放つことができるか、によって、この概念を論じる人の情況論や表現論の水準は明らかになるだろう。具体的な大学闘争が殆ど存在しないようにみえる現在こそ、そういってよい。

 前記の水準への指標として、次の規定を掲げておく。

「大学(闘争)は、階級闘争が最も幻想的に展開される空間(における)闘争である。」(69・12・l4都立大学解放学校における発言ーー表現集に収録)「ある事件とされるものの現実過程と、それに交差する幻想過程の比重が、ほぽ拮抗し、あるいは後者が前者をのみこみつつある世界(史)的な段階、それがいわば大学闘争なるものを生み出した情況の本質ではないか。(75・l1・20同志社大学EVEにおける発言ーー発言集に収録) 文書として発表したものでは、~198l・7・29~付けの神戸地裁あて{最終意見陳述書}(表現集・続編に収録)の全文を読んでいただきたいが、とりわけ、7・大学闘争とは何か、の項が重要である。

「大学闘争は、たんに、虚偽にみちた大学の機構や当局者たちだけを批判してきたのではない。もっと巨大で、無意識のうちに私たち全てをつつみこんでいる矛盾の総体と格闘してきたのである。これまでのあらゆる革命運動が見落としてきた領域を、現在まで人類史が累積してきた諸幻想領域との関連で把握し止揚の道を切り開くこと。大学闘争の個々の参加者、政治党派の思い込みとは別の位相でこの方向性は存在し続けている。(・・・) 根本的なところでの勝者があるとすれば、それは、この闘争(裁判をふくむ)においてだれが最もよく、時間、空間、関係性を包括し、その方法を世界に開示しえているかという基準で測らねぱならないであろう。この点においては、私たち、仮装被告団こそが勝利してきたといえる。しかしこれは、たんに誇っていうのではなく、やり残した課題について自己批判的に、また、未来における共闘者への、ある~的なあいさつとしていうのである。(註ー原表現の~の部分には「この表現をうけとった人が任意に記入してください」というエンピツの書き込みがある。

時の楔通信第〈九〉号からも、次の二ヵ所を引用しておく。

 「{ }公判過程とは、大学闘争の提起したテーマ群の対象化に要する時間性が、人間の生涯より長いこと、また、対象化を要する空間性が眼前の社会総体を占拠し、かつはみ出していることを否応なしに前提とせざるを得ない過程なのである。」(3ページ) 「~70~年の深淵と仮装性の本質をかいまみたものは、法的に被告であろうとなかろうと、出会ったテーマが、おそらく言語の発生から現在までの全時間の関係性に対応していることを直感している。」(35ページ) このように概念規定したこと、せざるをえなかったことが<私>の不幸かも知れない。

(G1-22)---------------------------------

bogus-simotukare 発言に、切れてしまった

id:bogus-simotukare 曰く

2012/03/10 06:17 id:noharra

ブクマとトラバを送ったのだから応答したらどうかね?。ツイッターの質問大歓迎というのは嘘だったわけかね?。

オーセルとか言う女は俺は「死んだ方がいいバカ女」「いっそ中国共産党がぶっ殺してくれないか、その方が世のためじゃないか」とすら思うが、君はどう思う?

http://d.hatena.ne.jp/noharra/comment?date=20120310#c から削除。

poppo-x 『↑まずは、この問題に関する日本政府の対応の「一次資料」中の「一次資料」である『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読むべきでしょう。

pdfで下記サイトから全文読めます。

http://www.awf.or.jp/program/index.html

noharra 『poppo-xさん

お久しぶりです。

たしかにこれが基礎資料ですね! ただ

http://www.awf.or.jp/program/pdf/p001_005.pdf

p001_005.pdf (application/pdf オブジェクト)以下はともかく、

http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf

ianfu_1.pdf (application/pdf オブジェクト)以下は、だいたい約500~600頁の本が5冊ですか?

膨大すぎてわたしのような怠け者にはちょっと辛いですねえ。どこかにまとめとか感想とかあればまた教えてください。』

noharra 『ああそうか。 上が下のまとめなのか。だからまず上を読めば良いと。なるほど。』

松下昇への接近

全ての問いを、その極限まで展開しうる状態の中に存在せしめよ!

…… 告発し、占拠する、関係としての原告団をつくろう!

上記から入れる1969年に書かれた「情況への発言」というビラ(あるいは貼り紙)表現から1行引こう。http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matu1.htm

  〈神戸大学教養部〉の全ての構成員諸君!  

このストを媒介にして何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ。(松下昇)

26年後、松下も野原も六甲大地震に出会う。カタストロフ。このカタストロフを媒介にして何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ。という文章を作ることができる。911も同じである。わたしたちはまあ実際のところ大樹のように大地にしっかり根を下ろしているわけではない。わたしたちはすぐにふとしたことで根拠を見失ってしまう。松下はそれを逆に祝福と考える。出世のためとか学問のためとかあるいは革命のためとかいった目的をもった人生がきしみを感じる。<わたし>が情況のうねりのなかで何かを感じているのだ。それに気付いても正確に言葉に出来た人は少ない。<何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ!>という命令はその希有の例であるだろう。

からだうた

「からだうた」という歌がある。ある養護学校で作詞作曲されたものだ。

「あたま あたま あたまのしたにくびがあって かたがある かたからうで ひじ またうで てくびがあって てがあるよ むねにおっぱい おなかにおへそ おなかのしたにワギナ/ペニスだよ せなかはみえない せなかはひろい こしがあって おしりだよ ふともも ひざ すね あしくび かかと あしのうら つまさき おしまい♪ 」という歌だ。わたしは新聞で歌詞を見ただけだが、「背中はみえない背中は広い」なんて面白いと思う。

 東京都の横山教育長という人は、都議会でこの歌について「とても人前で読むことがはばかられるもの」と言ったらしい。このひとはどういう感覚の持ち主なのか。わたしにとって一番大事なものは身体であって、その名前を知るのは大事なことだ。教育者が苦労してそれを教えているのに、なんだかわけの分からない自分の偏見でもって非難するとは何事か。こういう馬鹿な奴には是非一矢報いなければいけない。

(参考)http://www.ne.jp/asahi/law/suwanomori/sei.html

削除します

昨日「波状言論」への悪口を書いたがイマイチなので削除しようと思った。なにげないワルクチというものは感心しない、批判するなら20年経っても忘れないほどの思いでやれ、と思うので。ただ今見ると「波状言論」からのリンクが28もあるので一応残しておきます。似たようなことはできたらまた書きます。