bogus-simotukare 発言に、切れてしまった

id:bogus-simotukare 曰く

2012/03/10 06:17 id:noharra

ブクマとトラバを送ったのだから応答したらどうかね?。ツイッターの質問大歓迎というのは嘘だったわけかね?。

オーセルとか言う女は俺は「死んだ方がいいバカ女」「いっそ中国共産党がぶっ殺してくれないか、その方が世のためじゃないか」とすら思うが、君はどう思う?

http://d.hatena.ne.jp/noharra/comment?date=20120310#c から削除。

poppo-x 『↑まずは、この問題に関する日本政府の対応の「一次資料」中の「一次資料」である『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読むべきでしょう。

pdfで下記サイトから全文読めます。

http://www.awf.or.jp/program/index.html

noharra 『poppo-xさん

お久しぶりです。

たしかにこれが基礎資料ですね! ただ

http://www.awf.or.jp/program/pdf/p001_005.pdf

p001_005.pdf (application/pdf オブジェクト)以下はともかく、

http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf

ianfu_1.pdf (application/pdf オブジェクト)以下は、だいたい約500~600頁の本が5冊ですか?

膨大すぎてわたしのような怠け者にはちょっと辛いですねえ。どこかにまとめとか感想とかあればまた教えてください。』

noharra 『ああそうか。 上が下のまとめなのか。だからまず上を読めば良いと。なるほど。』

松下昇への接近

全ての問いを、その極限まで展開しうる状態の中に存在せしめよ!

…… 告発し、占拠する、関係としての原告団をつくろう!

上記から入れる1969年に書かれた「情況への発言」というビラ(あるいは貼り紙)表現から1行引こう。http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matu1.htm

  〈神戸大学教養部〉の全ての構成員諸君!  

このストを媒介にして何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ。(松下昇)

26年後、松下も野原も六甲大地震に出会う。カタストロフ。このカタストロフを媒介にして何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ。という文章を作ることができる。911も同じである。わたしたちはまあ実際のところ大樹のように大地にしっかり根を下ろしているわけではない。わたしたちはすぐにふとしたことで根拠を見失ってしまう。松下はそれを逆に祝福と考える。出世のためとか学問のためとかあるいは革命のためとかいった目的をもった人生がきしみを感じる。<わたし>が情況のうねりのなかで何かを感じているのだ。それに気付いても正確に言葉に出来た人は少ない。<何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ!>という命令はその希有の例であるだろう。

からだうた

「からだうた」という歌がある。ある養護学校で作詞作曲されたものだ。

「あたま あたま あたまのしたにくびがあって かたがある かたからうで ひじ またうで てくびがあって てがあるよ むねにおっぱい おなかにおへそ おなかのしたにワギナ/ペニスだよ せなかはみえない せなかはひろい こしがあって おしりだよ ふともも ひざ すね あしくび かかと あしのうら つまさき おしまい♪ 」という歌だ。わたしは新聞で歌詞を見ただけだが、「背中はみえない背中は広い」なんて面白いと思う。

 東京都の横山教育長という人は、都議会でこの歌について「とても人前で読むことがはばかられるもの」と言ったらしい。このひとはどういう感覚の持ち主なのか。わたしにとって一番大事なものは身体であって、その名前を知るのは大事なことだ。教育者が苦労してそれを教えているのに、なんだかわけの分からない自分の偏見でもって非難するとは何事か。こういう馬鹿な奴には是非一矢報いなければいけない。

(参考)http://www.ne.jp/asahi/law/suwanomori/sei.html

削除します

昨日「波状言論」への悪口を書いたがイマイチなので削除しようと思った。なにげないワルクチというものは感心しない、批判するなら20年経っても忘れないほどの思いでやれ、と思うので。ただ今見ると「波状言論」からのリンクが28もあるので一応残しておきます。似たようなことはできたらまた書きます。

ファルージャの内側

世界とは、世界とアウシュヴィッツの内側から成る。

アウシュヴィッツの内側をわれわれは覗けない。

そこがあると語る者は詐欺師だけだ。

それがないと言う者たちを信じてはいけない。

シンポジウムは続く

 概念集の1項目としての「連続シンポジウム」について、4/21に前半だけ「紹介」しましたが、今日4/27に後半を追加しました、4/21の欄に。

下記4/21の「連続シンポジウム」と題された文章では、〈連続シンポジウム〉について、“バリケードが言葉としてさえ流通しない段階の祭”という簡単な規定がなされている。わたしというものが自己がそう信じている私を大きくはみ出す存在である、ということに基礎を置く集合的心性を楽しむことが、祭りであるだろう。言い換えれば、そこに集まった人々の身体的高揚感の相互交流である。坂本氏の掲げた「新しい共同性を目指す流れをもつ大学祭を創り出す」というスローガンは、まさにその<祭り>の本質を知的に言い換えたものと考えることができる。したがってうさんくさいと思いながらも全面的に拒否できない理屈として、存在し続けた。

 で、松下氏の文章の後半は意外にも「連続シンポジウム」に対して批判的である。「任意の活動ないし討論の場面に、予備知識のない人が参加したとして、この人は目前の場面が〈祭〉に関わるものとは思わないであろうという事実に危機が象徴されている。」この批判はかなりクリティカルな(臨界的)もので、野原がこの「後半」の掲載をためらった原因にも成っている。*1祭りの準備というのは、楽しい場合もあるが必ずしもそうである必要はなく、祭り自体が楽しければそれでいいのである。だが重苦しいばかりで全然楽しくないとしたら問題である。(仕事でも一緒ですね。)目的に対し建前(当為)の比重が高く、自分の身体がついていっていないばあいなどがこれに当たるだろう。

 テーマとして掲げられた<単位制、天皇制、家族制の批判的検討>。野原自身かって討論会に何度も参加したので他人事として言うことはできないのだが。例えば「天皇制」という言葉について、連続シンポ的用法は生産的でないと、現在の私は思う。自己変革において世界を転倒させるという可能性において言葉は発せられていたのであって、そのことを抜きに議論は成立しないのであるが・・・

(つづく)

*1:岡山の討論会だけでなく他の松下を中心にした討論会にも当てはまるのではないか?という問いを引き起こす点で。

ラファの動物園の破壊

Summer in the city

Summer in the city(ザフーかと思って確認したらラヴィンスプ-ンフルだった)をラテンのけだるい女声でやっていて面白かったので、昼間から安い赤ワインを少し飲んでしまった。さっき二百円で買った北野勇作 『かめくん』というのを一章だけ読んだが良かった。リストラになったフォークリフト労働者が辛うじて場末の木造アパートに入居できるというプロレタリア文学風の地味な書き出し。文体に余剰がないので疲れずにどんどん読める。p34、「これがキール」という男の子のセリフでわたしはあっけなく感動した。*1

*1:キール、背甲の縦に隆起した部分

女童べの言葉

本居宣長『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』を新潮古典文学集成isbn:410620360XC0310 で読んだ。この全集は文章の半分くらいに現代語訳でふりがながふってあり、現代語訳を読みながら原文を読んだ気持ちだけは味わえるという私にとってはありがたい本です。

和歌についての問答形式で書いているので論点が明快で読みやすい。

「歌はひたすらに物はかなくあだあだしう聞えて、ただ女童べ(をんなわらはべ)のもてあそびにこそしつべけれ、まことしういみじきものと見えぬにや。」*1

女や子供のもてあそびものでたいしたもんじゃないだろう?ととても失礼な問いかけからある節は始まる。宣長答えていわく「まことにさることなり(そのとうりである)」(漫才ならコケルところ)でも結局は彼は次のように力強く言う。

「詩はもと人の性情を吟唱するわざなれば、ただ物はかなく女童べの言めきて(言葉みたいで)あるべきなり。」その背後には「大方人は、どんなに賢しきも、心の奥を尋ぬれば、女童べなどにもことに(特別には)異ならず」という人間観がある。その通りだと思う。今からおよそ250年ほど前の発言として非常にラディカルなものだ。唐の人の書いたものなど、「誰でもみな己賢こからんとのみするゆえに、かの実の情の物はかなく女女しきをば恥ぢかくして言にもあらわさず」「まして作り出る書などは、うるわしく道々しきことをのみ書きすくめて、かりにもはかなだちたる心は見えずなんある。」*2全然書いていないものを読みながら、あなたの心の奥には女童べと同じものがあるのだと断言する。なかなかすごい。

*1:p406同書

*2:p409同書