人民のための戦争ではなく

 こうして、いよいよ軍司令部のあった首里も戦場になってきました。石兵団はすでに七○パーセント位がやられてしまっていました。山兵団が途中で応援に来て「総反攻」というのをやりましたが、それも、一日に六〇〇〇人も兵を無くすという大失敗で終わりました。そういう中、五月の二二日に、首里を最後まで死守するか、あるいは南の島尻まで退がって一日でも長く持ちこたえるかの、作戦会議が軍司令官や師団長、参謀長を集めて行われたそうです。そこで石兵団の藤間師団長は、我々の師団ではまだ多くの兵が陣地の壕や野戦病院の中で呻いている。それを見捨てて南へ退がるということは、到底できない。ここ首里で玉砕し、沖縄戦の最後としてもらいたい、と主張したそうです。しかし軍司令部の幹部連中は、首里戦線ではもう一週間も持ちこたえられないと判断し、一日でも長く持ちこたえよという大本営の命令に従うため、五月の二二日、南部への撤退方針を決定し、二五日から撤退を始めました。藤岡中将の提案を採用しておれば、その後の島尻での沖縄県民の惨状はなかったし、私たちも負傷者を見捨てて撤退しないでもすんだのです。それを思うと残念でならない。大本営命令をかざして、それを否定した軍司令官や参謀が、戦後になって評価されるなど耐えられるものではありません。

(p122『ある日本兵の二つの戦場』isbn:4784505571

 そもそも、立派な軍司令官や参謀長なら、なぜ島尻の方まで軍隊を退げて戦う必要があったのか。そこにはもう、二十数万という沖縄県民が、戦火を逃れており、それはもうはっきり分かっていたことなんです。分かりながら、首里の線がもう駄目だからといって、当時約三万の日本兵を退げた。その結果十何万人の沖縄住民が悲惨な戦場に巻きこまれて亡くなってしまった。前にも言ったように、五月二二日の会議のおりに、私らの師団長は、八○パーセントの兵を失い、今も負傷者があちこちの洞窟でうごめいているのに、ここを拾てるわけにはいかないといって、首里での玉砕を主張したそうです。もしそうしていたら、十何万といわれる沖縄県民の犠牲はずっと少なかったはずです。前線の兵士がどんな風に死んでいこうが、沖縄県氏が何万人死のうが、そんなことは問題外で、武人としての自分の立派さしか考えなかった、そうとしか私には考えられません。

 さらにその上の台湾の第十方面軍もとんでもないと思います。沖縄のすぐ近くの台湾には六〇万という兵隊がいるというのに、一兵たりとも沖縄には出しませんでした。

 さらにその上の大本営は何かといえば、絡局は国体護持、天皇制擁護しかなく、そのために一日でも長く持ちこたえよということで、沖縄を拾て石にしてしまった。

 そして全ての責任の一番の大元は、天皇です。東京裁判で東条英機がキーナン検事の質問に答えて、「天皇の言うことはノーとは言えない。そう言える状況でもなかった。我々は天皇の意思をくみ取って行動した」と述べている(天皇が訴追されそうになるので次回尋問で翻しましたが)。要するに、御名御璽、天皇の意思を汲んで東条が遂行したんです。

 それなのに、八月一五日、天皇裕仁は、三〇〇万の国民を亡くしてしまったのも、二〇〇〇万以上とも言われるアジアの人々を殺したのも、自分の間違いであったとはっきり言うことはありませんでした。このことが、今の日本をこんなにしてしまった根本原因です。

(p158 同書)

訂正

(一部削除)

しかもdempax情報によれば、

『にせ金を探せPart4』解答 http://web2.incl.ne.jp/yaoki/anise4.htm

R回の天秤操作で偽コイン(軽重不明の1枚)を見つけ出せるコインの枚数Mは

「ニャンチャロフ さんからの解答」の公式 M = ((3^R-1)/2) – 1

または「山形県 Shoji さんからの解答」 M = (3^R – 3)/2

と答えが違う。

13枚ではできるのかどうか??

「被害者の立場」に対する危惧

id:gkmond:20050726#p1 への返信がおおはばに遅れ、申しわけありませんでした。

以下乱文で失礼します。

0)わたしは確かに少し年上のようですが、戦争について意識的に本を読んだりしはじめたのはある意味で『ゴーマニズム宣言・戦争論』を読んでからで、まだ3,4年です。戦争を知っていると言えば、もう80歳くらいの方ですね。下記のリストを見ると、小泉、石原的なものに危機感を持っている方が意外にも多いように感じました。

http://www.tokyo-np.co.jp/shouwa0/index.html 昭和零年 1925年生まれの戦後60年

1)わたしは「日本の行った悪いこと」について学校で教えられた記憶はほとんどありません。中学高校は受験校で詳細な世界史日本史の授業を受けました。教師は左翼でしたが、太平洋戦争はおろか明治くらいまでしか行かなかったような気がします。

「イデオロギー的(=絶対平和主義的)強制に反発して」、という動機を持つ人が多いようですがわたしにはそうした体験が欠けています。

2)言いたくないのですが、わたしの父母の親族は(わたしの知る限り)兵役についた人もおらず、戦災で死傷した人もいません。お上には上辺でだけつき合って置けばよいという関西商人のエゴイズムとか、要はわが身だけは守るプチブルのエゴが通る余地が少しはあったということです。戦争で前線にかり出されるのは常に下層階級の割合が圧倒的に高いということ、この傾向は新自由主義の現在強まってきていることは最も強調されるべき事です。

3)

 また当時の日本軍が「生きて俘虜の辱めを受けず」という命令を住民に強制しようとしていたという話をきいたことは当然私にもありますが、それを民間人に強制しようとしていたのかまでは知りません。

これが論点ですね。

4)「例えばそのフレーズを広く普及させたのは、ラジオや新聞だったかもしれないし、町内会長や校長先生みたいな人物だったかもしれないと考えるからです。そしてそうであった場合、軍隊だけが悪いと言い切れるでしょうか?」

もちろん軍隊だけが悪い、わけではないです。

id:noharra:20050730#p2 に書きました。

5)「 また「彼ら(軍人)の存在が被害者を作ったという因果関係は明らかにある」という部分に関して、こちらに反論はない(そういう部分がなかったというのは明らかに想像力に問題があると思いますので)のですが、」

これを認めてもらったらそれでよいのです。

6)

参考にあげられた林博史氏の論文「「集団自決」の再検討」 http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htmは、上記参照サイト「教科書は間違っている」において、致命的な批判を受けているように思われる『鉄の暴風』(編集・沖縄タイムス社。初版発行・昭和二十五年八月十五日)に基づいた記述がなされていると考えられるので参考にはできないかと思われます。インタビューに関しても同様のスタンスを取りたいと思います。 

7)

「戦前の日本がやったことは全て悪いことである」というのが戦後を支配した定理で、それに対する批判はすべて正しいとされてきた。このように私は理解しています。

そういう面があったとも言えるでしょう。その限りでそれに対する批判は正しいでしょう。しかし、

小泉氏は「罪を憎んで人を憎まず」というが、「罪とは何か?」を定義しようとした事は一度もない。「戦前の日本がやったことは全て悪いこととは言えない」という主張になっている。歯止めが一切ないのです。だから、「何度でもわたしは崖から飛び降ります」みたいな窮極のマゾヒズムの肯定まで直ぐにいってしまう。ここが現在の言説情況の非常におかしなところです。

8)

だから私にとって、このイデオロギーにまみれた戦前戦中史が検証されるようになってきたことは、ある種の解放に思われます。触ってはいけない部分が減ったという点においてです。

 私は国を誇れるような歴史が欲しいわけではありません。ただ神話でなく歴史を名乗るなら、常に検証可能であるべきだと思っているだけです。

賛成です。15万人?の死者を身近に感じ、その問題にわたしがせき立てられているといった気持ちには、犯しがたいものがある。だが被害者の立場といっても多様な物のはずで、不可侵の正義が予めある、という前提は、異論の存在する余地をなくしてしまう。というようなことが確かにあるのかもしれない。

というわけで以下、3)と6)について検討したい。

日本人の血

ところで、小林秀雄は『夜明け前』についてこう言っている。

作者が長い文学的生涯の果てに自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである。個性とか性格とかいう近代小説家が戦って来たまた藤村自身も闘って来たもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している。

少し後に「日本的という観念」という言葉もある。小林は何を言っているのだろう?日本人はすべて狂死すべきだとでも言いたいのか。

予定

 デリダの『死を与える』を読んだので、特攻隊員が<死を与える>に至った思考過程を、デリダの考察とを照らし合わせて考えようと思いました。

・・・難しそうでくじけそうなので、予定だぞ、やるぞ、という決意表明をしておきます。

松下昇についてどこから語ることができるか?

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=2887146*1

松下昇についてどこから語ることができるか?

まず遺書を引用する。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000101

として遺書を引用しました。

ですがちょっと思い直して削除しました。

どうも文体がぶっきらぼうで、読者に語りかける方向性が

はっきりしないからです。

どうしたらいいかな?

坂本さんの文章も、自閉的な他人に開かれていない難解な文章と

一般的には評されるだろうと思いますが、

Uさんはそれほど異和感はなかったですか?

どうもこのMIXIという場の性格もよく分からない。

今まではインターネットに繋ぐことさえ出来れば見れるサイトやブログを作ってきました。

インターネットは世界に広がっている、誰でも対等とかオプティミスティックに言う人がいますが、実際にはそこに前提されている文化を共有しないと入れないわけで、少なくとも最低限の知力と資力がないものは排除されています。おそらくそのような排除された者たちを目の前にいる者たちより重視する(しようとする)のが松下の方法論だった、とも言えるように思います。

そこでネット一般よりさらに限定された場で展開することの意味は何か?と考えるとすぐには答えが見つかりません。

・・・

どうも消極的ですみません。

*1:入会希望者はメールください。

概念集(2への序文の位相で)

概念集(2への序文の位相で)

 概念集・1を刊行してから、次のようなことが気になった。項目別に記すと、

一、このパンフに現れている項目群の集合の排反領域は何であり、排反領域の可能な限り広くを深く占拠していくにはどうすればよいか。

二、これまで人間は〈概念集〉にどこかで対応する試みをさまざまにおこなってきているが、これらの言語表現や表現総体の構造は、どこへ何かっているか。

三、私たちの発想や存在様式が変換する瞬間に最も力を及ぽすもの、そして私たちの発想や存在様式の中に最も長く残るものは、概念ではなく反概念としての像なのではないか。

 これらのヴィジョンが、項目とか言葉になる以前の場所でゆらめいていたのを主要因として、概念集・2~の可視的な作業の殆ど進行しない段階が持続した。

 いま、やっと、前記の三項目に(夢の中で模索したり、メモに記したりする水準を飛び越して)いきなりワープロに〈書く〉という作業によってたどりついているので、これを手掛かりにして、半歩でも先へ進んでみよう。この〈半歩〉性は、すぐに記述しうるものではないが、それと共に、常に渦まき、表象化しているものでもあるから、ここでは二月に打っておいた〈概念と像の振幅〉を、次ぺージに模索の開始点として掲げておく。

註一、〈概念〉の像よりは〈概念集〉の像に、〈私の〉よりは〈表現情況の〉重力が集中していると考えている。また、概念と像は、静止的に対応させて関連をとらえるよりも、時間(音を含む)を媒介する領域に入りこむ、ないし、その領域を突き動かそうとする過程で関連をとらえる方がよいのではないか。(〈瞬間〉の項目参照)

二、〈概念と像の振福〉で二月に予感していた…集(映像集)は、五月の〈神戸大学闘争史…年表と写真集〉としても現れており、また、これまでのパンフ群が帯びている放射性の時間から包囲性の時間を発見して、六月に批評集・α続篇を構想したのは、時間の像と概念を往還する試みの一つでもあった。

三、これまで刊行してきたパンフ群は、それぞれの位相で他の系列と相互に包括しあっている。(計論過程のレジュメ等は希望者に配布可能)このような関係を強いる力を逆用して、概念相互、像相互、全ての試み相互の関係の追求をしていきたい。

           ~一九八九年七月~        松下昇

(p1『松下昇 概念集・2』 ~1989・9~)

概念集・2   目  次

概念集(2への序文の位相で)    1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051204#p1

概念と像の振幅           2

技術                3

無力感からの出立          5

自主講座              7

自主ゼミ              9

連続シンポジウム          11

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/itbe3.html#sympo

大衆団交              13

一票対〇票             14

参加                15

瞬間                17

表現手段(過程)          19

年周視差              21

生活手段(職業)          22

華蓋・花なきバラ          24

メニュー              25

訂正                27

六甲あるいは〈 〉空間の方法    29