応答可能性と政治的正義

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050918 の続き

責任/応答可能性という発想は、岡野八代においては政治的正義実現のための一つのステップとして現れる。

私の人生がこんなになったのは日本のせいです。日本は私たちに補償をして、このことを歴史に残さなければなりません。今の日本や韓国の若者は、こんなことがあったことを知らないので、事実を教えてあげなくてはいけないと思っています。(元従軍<慰安婦>金学順)

「責任」を考える場合に、わたしたちは、在る行為を自らが「自由」になしたからこそ、その行為に対する「責任」が生じる、と考える。だがしかし、呼応関係においては、「かつて自らが自由になした行為については、今その責任がある」といった<責任に先立つ自由>といった考え方が覆される。なぜなら、<わたし>がいま、金学順さんの言葉を聞いた時点で、すでに否応なく彼女の声に応えることが要請されており、聞いてしまった時点でわたしには、いかなる自由もなく、すでにその声に応える責任/応答可能性のなかに巻き込まれてしまっているからだ。そして、その後に、その声に応えるか否かの自由に開かれることになる。*1

責任とはまず無限責任なのだ。そして無限責任であるかぎりその責任を<わたし>は果たしえない。そんなことは不可能なのだ。p248同上

わたしたちは、ある意味で偶然出会う個別のひとびとからの呼びかけを個別の受信者として聞き取ることしかできないのである限り、あらゆる人からの無限の責めとしての倫理的責任は、ある限定した範囲の中で果たされるしかない。つまり、実際に彼女たちに正義が回復されるためには、わたしたちは、誰にどれだけの正義を返すのか、という限定的な正義の範疇や正義を回復するためのルールを確定しなければならない。(略)

そうではなく、倫理的責任は無限責任であることを意識しながらも、なお限界を問い返しながら責任を取ろうとする積極的正義が存在していることを意味しているのだ。p269同上

岡野はこの正義を「政治的正義」と呼ぶ。これは(アリストテレスからロールズに至る)現代正義論の立場、即ち「配分的正義論を正義の通常モデルとする正義論の立場に立てば、日本政府が従軍<慰安婦>問題に対して無責任であっても、正義に悖ることがないという結論が導かれる*2」そのことに対する批判として、なされる。

*1:p246 岡野八代『法の政治学』isbn:4791759699

*2:同上p265

「なぜ人を殺してはいけないか」再考

(1)

Qなぜ人を殺してはいけないか?

A国家が、正当な殺人を独占しているから。つまり、国家が、それ意外のものが殺人をしようとすることを押さえ込んでるんだよ。

http://blog.lv99.com/?eid=311232 こどものもうそうblog | 「なぜ人を殺してはいけないか」再考

その通りだと思う。なんとなく、この方のブログをはじめて覗き、上記の表題を見つけたので(失礼ながら)どうせ大したことは書いてないだろうと思いながら読んでみるとそんなことはなくて非常に素晴らしいのでビックリした。

萱野稔人『国家とはなにか』を最初だけ読んだ。エキサイティングな本の予感。

マックス・ウェーバーの『職業としての政治』を引用し、

国家とは、正当な(合法な)物理的暴力(破壊や殺傷、拘束、監禁といった具体的な暴力)行使を独占し、もし、他の個人や集団が物理的暴力を行うならば、国家はその暴力を上回る暴力によって実際に押さえ込むもの、といった内容(乱暴な要約で難しげになってるかもしれないけどね)が最初の20ページで展開される。(同上)

というヒントから生まれたものだという。

わたしは前から、死刑と戦争を肯定している社会に住みながらつまり間接的には殺人を肯定しながら、それとは無縁に「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いを考えることができると思っているようなインテリやマスコミ関係者に深い疑問を感じていた。

(2)

ここでは、たまたま読んでいた『戦争責任と「われわれ」』という本のなかにあった中岡成文の文章の一部を批判したが、ちょっと強引すぎるかもしれないので一旦削除します。

神の死について

近代において、共同体内存在であった個が自由になり個人になった。ここで自立した諸個人による交流の場市民社会が形成されればよいが、実際は上手くいかないことも多い。市民社会から排除された女性や犯罪者からの異議申し立てが起こる。

また市民社会を形成しうるのは教養ある市民であり、教養とは国家と神への信頼である、と考えられる。

しかし<神は死んだ>。

ここで対応法は3つ。

α.一つは神は死んでないとがんばる。

β.一つは神無しで生きる。

γ.一つは「神の代わりを出現させようとして狂う」*1。である。

βは一番スマートのようだが、結局世界にある圧倒的な不正義に目をつむり自分たちだけの権益を守る思想とつながるのではないか。

α、神が死んだとしても、神という名前だけは残る(例えば「皇高皇宗」)その名前とイデアへの尊敬を絶やさないような私個人の思いをなんとか拡げていけばいいのだ。このように考えると否定しなくともよいようにも思える。

神がない以上、わたしたちはいつも狂気の淵にさらされている。そう考えるとαβγは余り違わないところに収束してくかもしれない。しかし、体制派のひとは既成の権力関係をそのまま神の代わりに信仰せよと迫ってきたりするのだ。侮蔑し唾を引っかけてやれ。

祇園に行きました

一昨日。四条河原町から観光客用の窓がずっと並んだ道を少し行ってつき当たりに階段があり登ると祇園さんです。最初に蘇民将来の社がある。手を合わせた。*1行灯の沢山灯ったところの向こうにメインの神社がある。ここの祭神は牛頭天王だったな、と思って説明書きを見るとスサノオになっている。あとから考えるに、これはやはり明治の廃仏毀釈期に訳の分からない神を記紀の神に整理し直した影響だろう。その向こうは円山公園。戦争と基地強化のための日米首脳会談反対! 11・15-16京都行動 というのに参加するためわざわざ電車に乗ってきたのだ。誰からも誘われず誰にも言わずに。京都15日(火): 午後6時30分~  場所 円山公園 ラジオ塔前 というメモだけをたよりに。時計を持っていなかったがまだ予定の時刻より1時間近く早いかなと思って行くと灯りのまわりにそれらしき人々が十数人居た。公園が広いので人数少ないなあという印象。自販機の灯りをたよりに本を読みながらそこでじっと待っていたがかなり寒くなってきた。月がとてもきれいだ。…やっと始まる。沖縄や座間、韓国など現地の反基地運動との連帯のアピールが主だった。鳴り物を鳴らしているのが面白い。デモ出発。人数がだいぶ増えている。数が多かったせいか、一列3人とか4人とかの規制はされずいい加減に広がって歩く。わたしは大きな横断幕の端を持つことになった。通行人の反応は余りないが良かった方だろう。デモとは歩くことと怒鳴ることだ。アーンポ フンサイ、トーウソウショウリとシンコペートする二拍子はジグザクデモの時か。まあそれの変形が主流だが単調になりがち。ここは開発の余地が大いにあると思った。

 <反ブッシュ>の意志表示をしました。という報告。

*1:八坂神社の境内摂社である疫神社は、疫病除けの神、蘇民将来を祀っている

結城浩さんて

今読んでいた、「結城浩のWiki入門」isbn:4844319159の作者じゃないか。

今(1/28)に気づいた。日本に数あるWikiクローンの母体となったYukiWikiの作者である。YukiWikiの直系のPukiWikiを私も一週間ほど前から使い始めたばかり。まだどうなるか分からないが、非常に自由で使いやすいことは確かだ。

IT関係者はみなホリエモンのように敬虔さから最も遠い人ばかり、というイメージを持っていました。そうじゃないのですね。(1/28記)

反日

     反日

自己が依拠してきた発想や存在の様式を変換する契機を、日本の戦後過程における社会構造の責任との関連において、極限的に迫求する方向に見えてくるヴィジョン。

 日本国家に抑圧~侵略されてきている人々の反日の感情には十分な歴史的~現実的な根拠があり、私たちが、この根拠を全く不十分にしか止揚しえないままでいる事実をふまえつつ、いま問題にしたいのは、前記の反日の感情がとどきえない領域の反日である。

 別の例から同じ問題に入ってみよう。70年代に日本赤軍がアラブに根拠地をもち、いくつかの大きい成果を上げた時に、なぜ、イスラエルに根拠地をもち、同じような闘争を展開するのが困難であるのか・・・また、イスラエルに生まれ、育った人が同じような闘争への意志をもつまでの困難が最大ではないのか、と考えるのが、この問題への、もう一つの重要な入口である。さらに別の入口は後でいくつか示唆する。

 ところで、70年代に出現した東アジア反日武装戦線の提起したのは、前記の問題の具体化~身体化である。そして、日本赤軍も、東アジア反日武装戦線も、60年代末の大学闘争以降のさまざまな模索過程が生み出した形態の中の二つの極限であるといえる。したがって、この二つ、とりわけ国内における闘争によって、より概念の密度を高めている後者における反日性を把握するためには、60年代末の大学闘争以降のさまざまな模索過程の総体を視野におくことか不可欠であろう。この作業は殆ど開始されていない。(註一)

 大学闘争とよばれる激動の本質は、機構の変革のみならず、変革しようとする主体の変革を同時に展開することを不可避とする世界史的情況にあり、この情況係数を前提として視る者の眼には、人間や社会が存続する条件よりも、存続のために他を犠牲にしてきた条件の追求に比重をおかねばならないのは自明であった。

 この自明さは、反日の概念を把握するための原点であるが、同時に、反日の概念とは無関係にみえる多くの概念(例えば〈甲山〉ー註二)を把握するための原点であることも強調しておく。反日の具体的展開には大きい振幅があり、対立する場合も少なくない。天皇制を含む日本の存在様式の解体を共通の前提としていても、その根拠や射程が、前記の原点の把握の度合に対応して異なる(特に、アイヌ、科学、武装、自然、言語をめぐってー註三)からである。筆者としては、社会的底辺、国際的周辺、時間的辺境という三つの〈辺〉に根拠をおきつつ、それらが形成する三角形を、楔としての三角錐へ変換するための幻想的な点ないし軸を想像~創造して生きたい。

註一ー この作業のためには、あえていえば、

 αーある声の誘いに応じて、長年にわたって手にしてきた〈網〉を拾てて、直ちに歩き出すことのできる魂の飢餓

 βー今後、何一つ〈日本〉語では表現しないで生きようとする意織

 γー〈天皇〉あるいは自分を爆破しうる武器を作りうる技術の総体を、イメージとして統一しつつ、そのイメージに敵対しうる全ての思想、文明の様式と、暗黙のうちに断固として訣別し、同時に、それらの水準を内在的に追い越し、解体しうる実力を形成していなければならない。

註二ー 74年3月に、十二才の少女と少年が、障害児収容施設である甲山学園から連続して行方不明になり、その後、二人が園内の地下浄化槽から死体として発見されたことを契機とする事件。容疑者~被告人とされた保母の冤罪を主張し、支援する人々の善意は疑わないが、この人々は、死者や死刑の意味を、〈内ゲバ〉事件や、連合赤軍事件や、いくつかの反日闘争(とりわけ、アイヌモシリのために実行された、北海道庁爆破事件)における場合と統一的に把握し、〈同じ〉論理で支援しようとする時に初めて〈甲山〉事件の本質に触れうるであろう。

註三ー この五項目は、ワープロ作成中に浮かんだもので、無数の項目からの断片に過ぎないが、共通していえることは、それぞれの項目が喚起するイメージが現在の人類史の具体性から発している度合を無化して把握しなおすべき、ということであろう。それぞれの項目への認識ベクトルを、概念の発生する初期条件と最終条件の包囲する座標系でとらえていく、といいかえてもよい。五項目に限らず、関連する概念は、あらためて独立の項目で論じていくが、それにしても、このような発想を導く〈反日〉とは不思議な概念である。

(松下昇『概念集』1 p14~15 ~1989・1~より)

(15年前は、「反日」という言葉は、東アジア反日武装戦線に言及する場合以外まったく使われない言葉だったように思えます。)

私の単純ミス

なんと去年のブログ記事を今年と間違えてブログに貼ってしまった! 

(訂正前)

2.18時より チャクラ(北浜)にて 祈りの集い ◇

追悼・平和 法要 ◇ ダライ・ラマ法王からのメッセージ朗読

林 孝瑞 師(四方僧伽・スーパーサンガ幹事)

◆登山家 大西 保 氏

◆チベット音楽 川辺 ゆか 氏

◆大樹玄承師(スーパーサンガ 関西地区代表)

となり、川辺ゆか氏、大樹玄承氏は、天鷲寺とだぶる。大丈夫か?

出かけようという方は、よくご確認の上お願いします。(2/10日 11時記)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20120309#p1

中道右派toノーモア様

『以前あなたとコメントを交わしたエントリは、5回投稿しましたが書き込まれなかったので、野原氏にアクセス禁止処分をされたもようです。今後全てのエントリにアク禁される可能性もあるかもしれないので、ここに最後になるかもしれない私の返事を書き込み、ウェブ魚拓もとっておきます。

まさか、野原氏はあなたと同一人物で、自分で勝利宣言して直後にアク禁にして、私が逃げたと印象操作するつもりだったのではないでしょうね?

>石原氏は河野談話は撤回すべきどころか正しいとすら認識しているということですよ?さてどこに外交信義違反が存在するんでしょうね?外交信義違反はなかったということでよろしいですね?

いいえ。ダメですよ。あなたも石原氏の主観と認めておられる。外交信義違反かどうかを判断するのは、責任者たる現首相であって、退任された石原氏の主観ではありませんから。どうしてそうやって強引な認定をしたがるのか。

>あなたはご自身の持ち出した論点を何一つまともに擁護できておられない。他人事ながら気の毒なくらいです。

ダメですよ。印象操作しちゃ。確かに、最初の頃、私の気づいていなかった歴史学上の視点をいくつか呈示してくれたあなたには感謝しています。

しかし、あなたは、最初からロジックは強引で、最近の論点については、勝手に論点ずらしだと誤解されたり、ドツボにはまってミスされていますよね。

>将来のお仕事に支障をきたされるのではないでしょうか?まあ要らぬお世話ですが。

十分稼いでますから、ご心配なされずに。今は休暇中だから、色んなジャンルのサイトを巡回して書き込んでるだけですよ。やはり、異分野の視点って重要だな、と大いに勉強になります。あなたにも、大いに学びました。

>つまり「外交信義違反」などと言っている人は政治家にはいないということですか?「外交信義違反」の論点自体あなたのオリジナルということですね?当事者が誰も気付いてすらいないのに「信義違反」とはどういう意味なのでしょうか?私には全く想像すらつきかねます。

でも、あなたも河野談話が修正or撤回されたら、韓国側からそういう主張がでることは容易に想像がつきますよね?そのときに備えて抗弁までシュミレートしておくことは、悪いことではありません。問題になって政府から問い合わせがあったら、当然アドヴァイスしてあげます。

>つまり「外交信義違反なのだから撤回すべき」という主張をあなたは放棄したんですね?

放棄しませんよ。正当化の根拠は多い方がいいですから。修正or撤回論が出てきた主因は、明らかに研究の深化による事実誤認の発覚。でも、これ言っちゃうと、事実誤認がないと思われている節があるあなたに悪いかなと思って、あえて言わなかったんですよ。

>>国家として事実を認めるためには裏づけや信用性が不十分だった

>そのように石原氏が述べている箇所を「正確に」引用して下さいませんか?

櫻井よしこ氏の著作にありますね。検索し、ネット上で見つからなければ、図書館・本屋に行きますので、しばしお待ちを。

>>中韓系ロビーの擁護ですか。

>そんなことは一行も書いてませんが?「イデオロギーバイアス」が激しすぎるんじゃないですか?

いいえ。この問題でのNGOと言えば、どこが主力かはあなたもご存知のはず。見て見ぬフリはいけません。

>また被害者のなかには何よりも日本側にきちんと責任を認めてもらいたいと言う人が存在するということも考えてください。問われているのはどのような解決が為されるべきかという「政治的な知恵」なんですよ。

それには賛成しますよ。その点、ヴァイツゼッカーは偉かった。国際的な赦しのコンセンサスを作り上げたのですから。日本にも彼のような弁の立つ政治家がいなかったのが悔やまれます。しかし、彼の責任論は、法的視点も含まれているところが重要なのです。

>>日本からぶんどった協力金

>で、それは要するに賠償金ではないわけですよね?

それは、日本側の名目でしょ?韓国側は、賠償問題の解決金と言ってますから、実質賠償であることは双方の共通認識です。被害者に韓国政府が分配するって言ってるじゃないですか。当時の韓国は、史上初めて宗主国から賠償金をとった素晴らしい政治力の国です。最近は怪しいですが。

私はこの原資からの分配とセットなら、『現時点での正確な事実認識』に基づいた日本の国会決議に賛成します。事後の検証否定条項には反対ですが。一旦韓国予算から裏で日本予算に還流して、そこから日本が支払ってもいいと思います。政治的な技術については政治家が決断することですが。これが私なりの政治的な智恵ですね。賛同が得られるかは不明ですが。あなたのコメントは大変ヒントになりました。

でも、一緒に実質的救済のための運動はしてくれないのですね?太平洋と日本海の友情の架け橋に反対なのですか?

>さてところであなたの蛇足話に付き合うのも飽きてきました。私としてはここまでの状況に鑑みてあなたと話しても得るものはあまりないので(他方あなたはラッキーだったでしょうが)、さっさと積み残しの「本題」をきちんと片付けて頂きたいと思いますね。

ラッキイだったのはあなたの方では?法的に一番救済しやすいのが韓国政府からの分配だと気づいたことがそんなに嫌なんですか?元々は日本人の払った血税ですよ。

積み残しの方についてはあなたも分かるでしょ?ロジックだけならいつでも考えられるけど、資料検証には、他の資料とのつき合せも必要ですから、図書館や本屋を渉猟してるんですよ。一応ロジックだけなら構成がありますけど、あなたそれだけじゃご不満のようだから。』

ノーモア 『>野原氏にアクセス禁止処分をされたもようです。

また被害妄想を。はてなのコメント欄はある一定の容量を超えると表示されなくなるんです。サイドバーの「最近のコメント」の欄にはあなたの名前が表示されていますよね。そこからしてまずアク禁ではありえないことがわかるはず。

>野原氏はあなたと同一人物で、自分で勝利宣言して直後にアク禁にして、私が逃げたと印象操作するつもりだったのではないでしょうね?

まさに誹謗中傷ですな。あなたは最初の投稿でもこれと同じことをやらかしましたが。下品に見られるのでおやめになられたらいかがでしょうか。ウェブで姿が見えないといっても人間「節度」というものがあります。

>あなたも石原氏の主観と認めておられる。外交信義違反かどうかを判断するのは、責任者たる現首相であって、退任された石原氏の主観ではありませんから。

ですからあなたは「本当は日本の当事者は嘘だと認識していたが韓国が個人補償の放棄をバーターとして持ちかけてきたから河野談話を発表した」という事実を立証すべきなんですよ。そのように認識していた当事者は誰ですか?具体的に挙げてください。それが出来ていないのにうだうだ言っても話になりませんな。

>ダメですよ。印象操作しちゃ。

ああそうですか。ではちゃんとした議論をしてください。「櫻井よしこ氏の著作」ねえ…確かにそのような話をしてましたが、あの人は南京事件を始めとして歴史の問題になるとヒステリックになったり事実を捻じ曲げたりしますからねえ。

>明らかに研究の深化による事実誤認の発覚。

いや、あなたそもそも最新の歴史学の成果なんてフォローしていないでしょう?「研究の深化による事実誤認の発覚」と仰いますがそれはどこですか?ちなみに失礼ですが吉見氏の著作くらいは読んでますよね?

>でも、あなたも河野談話が修正or撤回されたら、韓国側からそういう主張がでることは容易に想像がつきますよね?

ですから答えになっていないんですよ。繰り返します「当事者が誰も気付いてすらいないのに「信義違反」とはどういう意味なのでしょうか?」

>問題になって政府から問い合わせがあったら、当然アドヴァイスしてあげます。

そのようなことは絶対にありえませんので御安心ください。

>この問題でのNGOと言えば、どこが主力かはあなたもご存知のはず。

知りませんね。あなたはそれが具体的にどのような活動実態と構成員を持つNGOなのか知っているんでしょうか?そしてそれが横田洋三氏の仰っているものと一致するというのはいかなる根拠に基づくのでしょうか。

>被害者に韓国政府が分配するって言ってるじゃないですか。

もう一度同じことを繰り返して申し訳ないですが、従軍慰安婦問題は考慮されていませんでした。

>法的に一番救済しやすいのが韓国政府からの分配だと気づいたこと

典型論点なので別にどうということは無いです。嫌韓サイトをみればバカの一つ覚えのように「解決済み!」が連呼されてますから。

>資料検証には、他の資料とのつき合せも必要ですから、図書館や本屋を渉猟してるんですよ。

頑張って下さいね。』

シオニズムはユダヤ人の文化に敵対する。

http://www.diplo.jp/articles02/0208-2.html 

にあるフランス人が書いた文章には、「イディッシュ語(民族虐殺によりほぼ壊滅した)」という表現がある。だが、この説明は正確ではない(だろう)。そこにあるように、「イスラエルでは、死者、敗者、臆病者の言語であるとさえ見なされています。」シオニズムの組織的なイディッシュ語への敵対がその「ほぼ壊滅」を産んだのではないか。千年近い歴史を持ち豊穣な文化を育んだイディッシュ。「イスラエルは東ヨーロッパのユダヤ人の民の歴史を恥じており、イスラエルの過去からそれを消去したいかのように、ことが運んでいる。」p101(6)

これは日本の日の丸強制主義者にも似ているようだ。彼らは日本文化への誇りを言うが、彼らのいう日本文化とは教育勅語、カイゼルのドイツを真似た鹿鳴館のような偽物文化にすぎない。江戸時代までの長い歴史は西欧化されたわたしたちにはすぐ分かりにくいとしても、落ち着いて考えてみればとても興味深い。そして長い歴史はまた多様な文化との交流でもあった。民族離散というほど大袈裟でなくとも、21世紀は日本人にとっていっそうの離散の時代になることは確かだろう。日本ではなかったものを日本だとし、政府への服従を愛国心と言いくるめる、教育基本法の改正は阻止しなければいけない。

スピノザ、モーゼス・ヘス、ショラム・アレイヘムやブント、モスクワのハビマ座やレイネット・ロラネーズ、サラエボやローワー・イースト・サイドなどのユダヤ人の歴史を消去するためにすべてがなされる。p176

とりわけアンダルシアとその黄金時代とを再発見すること。ユダヤ教徒とイスラム教徒は協調し7世紀以上にわたって、中世西欧の最盛期を作り出した。キリスト教ヨーロッパがそれに追いつくのに何世紀もかかるような。p178

旧左翼のどこが駄目なのか

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20031210 に書いた沢田さんから返事が1週間ほど前に来たので、それへの返信を書いていた、一日中。しんどかった・・・

 書くことがないので無理して書いてみよう。昨日広河隆一さんの講演を聴いたのでその感想を。彼の発言は物静かで、分かりやすかった。“戦争といっても軍隊と軍隊がぶつかり合うといった普通の戦争をわたしは体験したことがない。わたしが知っているのは、もっと一方的な、一方が他方にクラスター爆弾*1のような強力すぎる兵器を落とす、落とす側と落とされる側がはっきりしている「戦争」ばかりだ”、といっていた。

広河さんは、イラク人の被害者の被害よりもアメリカ兵の故郷から離れた寂しさなどの方を大きく報道し、結果的にアメリカの側に立った世界観しか持たせないようにしていまう現在のメディアのあり方を強く批判していた。

 イラク戦争の現在などの場合、敵は国家でも公認された交戦団体でもないので、国際法によっても保護されません。思えば、日中戦争(日華事変)もそうだった。<日華事変>をどう考えるかが戦後最大の問題だったのに、ヒロヒト留任と同じく誤魔化してしまったので、日本はとうとうこんなていたらくになってしまった。

 えー。その集会は広河さんの講演集会ではなく主催者は、自治労某県支部だった。その自治労(かなんかしらないが)の書記長とかが2,3人発言した。発言の内容というよりその姿勢、根拠というものにかなり疑問をもった。カメラマンは世界中の戦場を駆け回って被害者の写真を撮り、日本に帰ってその写真を売る、あえてそういう言い方をするならえげつない商売だとも言える。他者の悲しみを表象=代行することにはやましさがつきまとう。他者の悲しみに対抗するだけの<真実の力>というものを自分の力で自分のなかに作り出すことができなければそのような営為は持続できない。ところが自治労委員長の方はどうか。かれは自分が何も支払わずに正義の発言をしている、ということに何の疑問ももっていない、ようにみえた。小泉は悪であり、労働者は護憲、平和の陣営であり保証されているその正義を唱えているだけだ。

これでは大衆に見放されて当然だ。わたしは彼の意見にまあまあ賛成なのだが、どうもそう思ってしまった。どうすればよいのだろう?“労働者はその即自性において平和勢力だ”などというドグマに基づいた運動展開はやめるべきだろう。労働組合に所属するとしても、各個人の自発性において、反戦なら反戦集会に参加するとすっきり割り切るべきだろう。まあそうなって何の集会も開けなくなってしまっている地方も多いだろう。それはそれで困るが、でも民主主義だからしょうがない・・・

きみたちの国だ。

*1:200メートル四方ほどに文字通り無数の鋼鉄の微細な玉をまき散らす。マイニチインタラクティブによれば「クラスターは英語でぶどうなどの「房」。投下された親爆弾が花びらのように開き、中から200個以上の子爆弾が約200×400メートルの範囲に飛散、わずかな衝撃で爆発する。ベトナム戦争当時から米軍が使い始め、湾岸戦争、コソボ紛争、アフガニスタン攻撃などで約6万4000個使われた。」