われあり、われらあり。

Ich bin. Wir sind. Das ist genug.

Ich bin. Aber ich habe mich nicht. Darum werden wir erst.

(p7『ドイツ語の本』冒頭)

これはあるドイツ語初級教科書の冒頭の例文なのだが*1

、ドイツ語なので全く分からない。Ich bin. Wir sind.とは英語の「I am.We are.」のようだが。

genug=enough(英語)=assez(仏語)のようだ、google翻訳では。十分に、ということか。

I am. We are. That is enough.

I am. But I do not have myself. Therefore we become only.(英語)

Je suis. Nous sommes. C’est assez.

Je suis. Mais je ne m’ai pas. C’est pourquoi nous devenons seulement.(仏語)

「I am.We are.それで十分」ということか。

 Das ist genug.という場合の〈genug〉は、たんにこれ以上は必要ないといい切っているのではなく、むしろいまは、これを最低限の条件として出発するのだ、という一種の覚悟が内包されていると思われる。次の Darum werden wir erst.の〈erst〉は、個々の〈私〉が自らの存在を対象化しえていない不確定さと同じ度合だけ、関係性としての〈私たち〉におしやられつつ、〈はじめて〉相互の構造に気付く、というニュアンスを帯びてもいる。 (たぶん松下昇 p3「正本ドイツ語の本」)

Ich bin. Wir sind. Das ist genug.はエルンスト・ブロッホの『ユートピアの精神』という本の冒頭。われあり、われらあり。とは、どんな場合でもそれだけは言えるというわれわれの表現や行為の土台である。*2ところがブロッホはそれを、果てしない努力の果てになお辿り着けないユートピアの青い鳥、でもあるかのように提示している。*3

「われあり、われらあり。」がユートピアの青い鳥であることは、最近のプチウヨの諸君を見てるとよく分かる。彼らはわれであるためには、是が非でも「日本あり」を成立させなければならず、そのためにはアサヒ、中国をはじめとするあらゆるもの*4に罵詈を投げかけ否定しなければならない。彼らはこっけいで有害だ。しかし、

「われあり」のために「われらあり。」が必要ないとするのはどうか。個人の自立を信奉する進歩派知識人は、憲法9条への愛だけを語り続けることにより、対米従属自衛隊強化沖縄植民地化を黙認し続けただけでなく、自らの幻想である平和国家という「われら」を強固に信じている。わたしたちはどんな既成の「われら」をも拒否するしかない、端的に時間の無駄だからだ。だが何んらかの「われら」を非望のように求めてしまっていることをむしろ認めるべきなのだ。

 とここまできてやっと、 

「Ich bin. Aber ich habe mich nicht. Darum werden wir erst.」から始まる本「Spuren」というのが、菅谷規矩雄訳で本棚にある本だと気づいた。

私は、在る。だが私は私を所有していない。それゆえにまず私たちが成る。

(p2『未知への痕跡』E・ブロッホ 菅谷規矩雄訳 イザラ書房)

この本の方法を菅谷は次のように解説する。

ひとつの神話、ひとつの物語は、それぞれその発生・成立時の支配イデオロギイその他に制約されていて、ほんらいのモティーフを充全に表現しえていない。主体において〈いまだ意識されない〉もの--それゆえ客体において〈いまだ存在していない〉もの--その双方はしかしやがて実現されるための変化のプロセス、つまり主体=意識の前線にあらわれでようとする意向(Intension)、客体の生成過程に未来的に潜在する傾向(Tendenz)の相関関係を、なお不充分なままでおしとどめ、そしてかすかな〈きざし〉のみを私たちに伝えてよこす。

(p296『未知への痕跡』E・ブロッホ への菅谷規矩雄の註と解説 イザラ書房)

Ich bin.とは、ブロッホにとって出発点であると同時に不可能なテロス(目的)であったようだ。

さて、わたしは松下にとって「be」とは何か?を訪ねるためにその周辺を回遊してみたわけである。

六○年代に出現した全ての問いを、その極限まで展開しうる状態の中に存在せしめよ、

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/itbe1.html

存在(Sein)所有(Haben)生成~自己実現(Werden)の相関のうちに、松下のこの問いの群はどのように直立しているのか。

*1:この本については下記に言及有り。http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_6/koumura.html 好村冨士彦追悼

*2:であるがゆえに言及されることはない。

*3:ユートピアの精神とは翻訳もある分厚い本だが私は全然読んでいない。したがってわたしの解釈は間違い。

*4:最近では&query=フクダユウイチ

キタ━━(゜∀゜)━━ッ!!

 ところで、キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!! というのは英語で絶頂感を表すcome!、coming! の翻訳なのだろうか。こんなことを考えたのは、書こうとするとき「なにものかに促されて記述していく時に向こうから現れてくる像や音や~に気をつけ」云々という松下の文章を読んで、〈向こうから来る〉ものって何だろう、と考えてみたからだ。

私たちはテレビやネットで新商品などの情報を浴びせられ続けお腹一杯になる。それでもたくましく私たちは生きるのであって!何かがかすかなオーラを発するときすかさずわたしたちはキタ━(゜∀゜)ッ!!と歓声をあげてそれを迎え入れるのだ。つまりすでに何か奴隷のようなものであるわたしたちが、それでもなお〈光〉に反応するあかしこそが、キタ━━(゜∀゜)━━ッ!!である。

数分他人のブログを読んで分かる!こと

ネットでちょろちょろ、数分他人のブログを読んだくらいでなーにも分かるはずないだろ、という罵倒には十分根拠がある。

しかしその逆の面だってあるのではないか、という提起

noharra 『 そうですね。Panzaさんのいわれる通りですね。「その言葉を使っちゃいけないのか?」と問いを立てると議論になり、使う側には使うだけの理由があり紛糾してしまう。そうではなく、ただの感情論ではなく力を持った(おおげさに言えば関係の絶対性からの声に近い)発言には素直になるという態度を学びたいと思います。

「だから初めてブログを数分読んだからと言って何が分かるものでもない。」というのもまあ半分は嘘。1分でも数分でも、インターネット越しでも、かなり微妙な問題も分かってしまうことはあるものですから。

 CLさんへ。 わたしは根が無作法者なんですが、(良い方に)誤解してもらっているようですので、これ以上言いません。まあぼちぼちよろしく。』(2005/12/07 21:26)

mojimoji 『何か、一発で分かってしまうこと、ってありますよね。何かが「十分に」分かったということではないのですが、しかし、分かってなかったことを発見させられて、認識枠組が大きく変化するのを感じるというか。そういう瞬間。

自立生活してる重度障害者に初めて遭遇したときもそうでしたが、sidoさん(とその近くにいらっしゃる施設出身者の人たち)のブログを見たときにも、何かが物凄い勢いで分かった感じがしました。スゴイですよね。』(2005/12/07 23:27)

noharra 『mojimojiさん

 sidoさんたちのブログを(アンテナを通して)紹介してくれてありがとう。

「何かが物凄い勢いで分かった感じがしました。スゴイですよね。」とわたしも語れるようになりたいと思います。彼らのブログの(向こうにある/なかにある)現実はあまりに重い。だが(わたしの力量には余りに重い)と結局のところ切り捨てるのではなく、「分かる」というその思いを大事にすべきなのでしょう。

CLさんもここだけで分かったとか言ってないで、読んでください。彎曲を覚悟しなければ触れられない真実がそこにあるかもしれないから。』(2005/12/08 06:02)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/comment?date=20051203#c

コメント欄より

神さま、助けてください。

結城浩さん という方が次のように書いて居られる。

(まあ信仰者ならだれでもこんなふうに、言うものなのかもしれないのですが。)

<祈り>というのは生活のなかにだけあり、自分の心や身体から降りてゆくことが価値でありその逆ではない、というのは興味深い。

自我を捨てること=共同幻想に己を捧げること、と捉えて否定するのが戦後の常識だった。だが本来、祈ることは自我を捨てることではあっても、共同幻想に己を捧げることではない。

ところで神が居なくとも、わたしたちは<祈り>を学ぶべきなのか?そうかもしれない、と私は思う。

http://www.hyuki.com/dig/prog.html

プログラミングを身につけるには / 生きた信仰の第一歩

聖書も同じだ。

いろんな聖書の解説書や聖書に関する本が売っている。

教会でも牧師さんが聖書の講解説教をやってくださる。

けれどもそれだけではだめだ。

自分で聖書を読み、自分でよく理解し、自分の口で祈り、

自分自身の生活の中に適用していかなくては、

聖書は身につかない。

自分で適用しようとしてみなければ、

聖書の厳しさも、神さまの愛も本当にはわからない。

自分の心の中の深いところは他の人にはわからない。

自分の心の奥深いところ、

誰にも見せず、誰にも開いていない扉を開くのは

その人本人にしかできない。

 祈り方もわからず、聖書も読んでいませんが、

 自分が自分の力ではもうだめだということはわかります。

 神さま、助けてください。神さま、ゆるしてください。

 イエスさま、どうぞ私の心に、今、来てください。(同上)

結城浩さんて

今読んでいた、「結城浩のWiki入門」isbn:4844319159の作者じゃないか。

今(1/28)に気づいた。日本に数あるWikiクローンの母体となったYukiWikiの作者である。YukiWikiの直系のPukiWikiを私も一週間ほど前から使い始めたばかり。まだどうなるか分からないが、非常に自由で使いやすいことは確かだ。

IT関係者はみなホリエモンのように敬虔さから最も遠い人ばかり、というイメージを持っていました。そうじゃないのですね。(1/28記)

口には出さない憎悪

どこぞのブログで炎上してましたが、まあ『表現の自由』とか『民主主義のため』とかいっていらないよって言っているのを無理やり敷地に入ってこられてビラをつっこまれるとかそういうのはやめて欲しい、ってそういうことでしょう。至極当然の話です。

http://d.hatena.ne.jp/keiroku/20051209

けーろく奮闘記 – へっへっへ~

私はkeiroku氏を憎悪する

たった一度の住居侵入。

私は神戸大学を懲戒免職になった松下昇氏をずっと尊敬し続けてきている。

自分の関心のある任意の行為や、その持続が何らかの評価を受ける場合、どのような動詞として規定されているかを調べてみることである。私は、自分に対する処分理由や起訴理由などについてやってみる。

 処分理由…「成績表を提出せず、試験の実施を拒否し、0点をつけ、開講せず、教授会に出席せず、はり紙をなし、ビラを作成し、立ち入り禁止の学舎内に残留して退去せず、教室を占拠して無断使用し、明け渡しの通告を無視して不法占拠を持続し、教壇を占拠し退去説得にも応ぜず、授業実施を中止するのやむなきに至らしめ

(後略)

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/itbe1.html

で今回の、立川ビラ配布訴訟での、動詞の数を調べると、

 被告人大西章寛(のぶひろ),被告人高田幸美(さちみ)及び被告人大洞俊之(おおぼらとしゆき)は,共謀の上,「自衛隊のイラク派兵反対!」などと記載したビラを防衛庁立川宿舎各室玄関ドア新聞受けに投函する目的で,管理者及び居住者の承諾を得ないで,平成16年1月17日午前11時過ぎころから同日午後0時ころまでの問,陸上自衛隊東立川駐屯地業務隊長赤塚昭美(あきよし)らが管理し,浅霧修(あさぎりおさむ)らが居住する立川宿舎の敷地に立ち入った上,同宿舎の3号棟東側階段,同棟中央階段,5号棟東側階投,6号棟東側階段及び7号棟西側階段の各階段1階出入口から4階の各室玄関前まで立ち入り,もって正当な理由なく人の住居に侵入した.

http://homepage2.nifty.com/osawa-yutaka/heiwa-iraku-dannatu-hanketu.htm

何と、「人の住居に侵入した」のたった一つしかない。もちろん一つでも「殺す」とかだと十分問題だが、松下における多くの動詞同様、それ自体が重大な法益を侵す動詞とは思えない。したがって松下における上に上げただけでも動詞が十であるのに比べると立川事件での強引さが目立つわけである。

松下の場合は、自分の職場で本来の職務を実施しなかっただけでも、社会の根幹を侵している。立川事件には反社会性はない。

近くの小学校の校門でビラまきをしようとしただけで警察に通報するぞと、脅かされる時代。言論の自由のない時代。

ビラまきを抑圧する民主主義なんてものはありえない。

(12/12 朝7時追加)

best3の本

  1. ジーン・ウルフ『拷問者の影』

全4巻でまだ最後まで読んでないので分からないのだが、全く新しいファンタジー/SFではないでしょうか。

正統的な成長小説。男の子が女性と(寝て)成長していく。でもフェミニストも合格点を出すと思う。

  1. 笙野頼子『金比羅』

わたしは笙野よりもじつは、Panzaさんのファンかもしれないが。

  1. 草森紳一『本が崩れる』

うちの部屋も本の小さな山が5,6個増殖中。

平田篤胤の墓もでくる。

番外○島崎藤村『夜明け前』

8月9月に読んだ。日本人なら読め。

新しい野蛮状態!

 何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか?*1

 21世紀に入ったいま、おそらく世界中の人々の多くがこの問いを、(再度)強く問いかけざるを得ない時代になっている。

 カントによれば、啓蒙とは「他人の指導を受けなければ自分の悟性を使用できないような状態」から抜け出すことである。*2

(悟性は、感性に与えられる素材を自己の形式(範疇)にしたがって整理し、認識を成立させる。

理性は、悟性作用を統一し体系に纏め上げる。)

つまり、理性というものは体系の正しさ無しには成立しえない。カントにとっては自然科学(ニュートンなど)の勝利が体系の正しさを保証したと考えられた。しかし自然科学以外の領域では万人の認める体系は、いまだすんなりとは成立していない。

カントの概念は二重の意味を持っている。超越論的・超個人的自我として、理性は人間どうしの自由な共同生活という理念を含んでいる。その共同生活のうちで、人間は普遍的な主体として自己を組織し、純粋理性と経験的理性の間の矛盾を、全体の意識的連帯のうちに止揚する。そういう共同生活は真の普遍性の理念、つまりユートピアを表明している。

しかしそれと同時に理性は、計算的思考の法廷を形づくる。計算的思考は、自己保存という目的に合せて世界を調整し、対象をたんなる感覚の素材から隷従の素材へとしつらえる以外にいかなる機能をも知らない。一般的なものと特殊的なもの、概念と個別的事例とを外側から相互に一致させる図式論の本性は、つまるところ現行の科学のうちでは産業社会の利害に他ならないことが証明される。存在は、加工と管理という相の下で眺められる。一切は反復と代替の可能なプロセスに、体系の概念的モデルのためのたんなる事例になる。動物はいうまでもなく、個々の人間もまたその例外ではない。管理を旨とし物象化を事とする科学と個々人の経験の間の葛藤、公共精神と個々人の経験の問の葛藤は、環境によって予防されている。もろもろの感覚は、知覚が生じるよりも前に、いつもすでに概念装置によって規定されている。

p130-131*3

 理性は素材を体系に纏め上げる能力であるから、体系という視点から見て見えにくい部分は無視し勝ちになる。

 一般的なものと特殊的なものとの同一性は「純粋悟性の図式」によって保証されている、とカントは考えた。しかしながら保証が必要だったからそうなっているにすぎなかろう。わたしたちの社会では「存在は、加工と管理という相の下で眺められる。一切は反復と代替の可能なプロセスに、体系の概念的モデルのためのたんなる事例になる。」学校や工場や事務所は加工と管理のシステムである。生きることを点数や金額という数bitの数字に変えてくれる。

 「その共同生活のうちで、人間は普遍的な主体として自己を組織し、純粋理性と経験的理性の間の矛盾を、全体の意識的連帯のうちに止揚する。そういう共同生活は真の普遍性の理念、つまりユートピアを表明している。」

 「理念」や「ユートピア」という言葉はいまは流行らないのですが、それはそれをある既知を延長した平面に存在しうるものと矮小化して考えてしまったからではないか。そうではなく既知の平面を離れた垂直性のベクトルとしてなら〈ユートピア〉は非在の輝きをかいま見せるのではないかと思われた。

*1:序文『啓蒙の弁証法』

*2:参考p127『啓蒙の弁証法』

*3:『啓蒙の弁証法』ホルクハイマー・アドルノisbn:4000040545