和解のためのパラヴァー (徹底的話し合い)

謝罪は難しい。自分が正しいと思ってやったことを咎められた場合、相手が自分の正しさを主張すればこちらもこちらの正しさを主張し返すことになり、きりがない。
だからそういうことは止めよう、と考える。しかしそれでは不正は放置されたままになり、社会は良くならない。被害者の気持ちも収まらない。ではどうすればよいか?

https://www.youtube.com/watch?v=ddfboRLj2Ew
京都大学のオンライン授業で、松田素二先生の、「アフリカから学ぶ人文学」という講義を聞いた。

アフリカでは何度も大きな紛争が起こっている。そして終結した。
一番有名なものは 南アのアパルトヘイト(1994年廃止)と1994年ルワンダの大虐殺(100人が犠牲になった)。
このような問題に対して、先進国インテリは「加害者の処罰をすべきだ」など言うが、今までうまく行っていない。上手く行かない場合、先進国側はそれをアフリカの未発達、未開のせいにしてしまう。
それに対して松田氏は「アフリカの潜在力」に注目すべきだとする。先進国がアフリカに学ぶべき点があるのだという新しい立場である。
どのように解決すれば良い?
法と法廷によって加害者を裁く、これが私たちの考え方。しかしそれによって、問題解決したと思われる例はなかった。
別の考え方がアフリカ人によって提起された。それはむしろ加害者を受容するという問題解決の仕方だ。加害者も被害者も同じコミュニティのなかで生きていくしかない。
それは乱暴に言えば、真実よりも和解・癒やしを追求するという考え方だ。アフリカ風には「顕微鏡型真実」ではなく、「対話的真実」と言う。
顕微鏡型真実は、物的証拠などを細かく積み重ねていって裁判所が「事実」を認定しそれによって「罰」を決める。
対話的真実とは、加害者と被害者が互いに話し合った中で了解しあえたものを真実とするという考え方。
南アの真実和解委員会(TRC)やルワンダの共同体法廷(ガチャチャ)でも、対話的真実の考え方が採用されている。これに問題がないわけではないが、顕微鏡型真実による解決よりは有効だと考えられる。
罰を与えるシステムには、今後どのようにしてひとびとが「よりよくともに生きることができるか」という問題意識が欠如しているからだ。

このような思想の核心として、コンゴのゲリラの指導者でもあった哲学者・社会学者ワンバ・ディア・ワンバ(去年コロナでなくなった)はパラヴァーものを強調する。

パラヴァーとは、誰もが参加し自由に雄弁に意見を述べ、全員が一致するまで話し合い続け最終的に「違い」を乗り越え合意に到達する会合(あるいはその場)ことである。何日も掛けることもある。
被害者がその思いを大きな悲嘆とともに語る、加害者はそう言ってもと自分の思いを語る。それは当然被害者のより大きな怒りをまねく。そのような巨大なエネルギーの交換が長く続く。(ミンデルが炎と言っているもの)
この場合、お互いの「違い」はあってはならないものとはされず、否定・征服されたりしない。南アにおける白人の立場は確かにある立場からは全否定しうるものかもしれないが、現実には50年以上続いているものである以上、そうすることはできないのだ。
そして、感情を徹底的にぶつけ合うことによって、その場に参加・関与する異質なひとびとのあいだに、それまでなかった共同性(一体感や共通価値)や熱狂、祝祭感覚をつくりだす。そういうことができるのだ、というのだ。
これは別に理想論ではなく、実際に各地で行われていることだ、というのだ。

わたしたちは多数決が民主主義であるかのように教えられているが、日本でもかっては、満場一致を原則とし、それに到達するまで粘り強く話し合い続けるという文化は珍しくなかった。多数決を理解しないのは遅れていると先進国の人は言うのだが、それも一方的だろう。(日本では現在国会できちんとした討論は行われておらず、多数決だけが機能しており、民主主義とは言えない。)

これを読んだとき、全共闘時代の大衆団交の理想に近いものを感じ、非常に興味深く感じた。
大衆団交について、松下昇はこう書いている。
「学生側(特に全共闘派)は大学構成員に関する全ての問題を、直接・対等・公開の原則に基づいて討論し、実行することを目指し、自他の生き方の検証の場としても把握していた。」対立は持続し、解決するまでこの場は終わらないという感覚は共有されていた。
http://666999.info/matu/data0/gainen32.php

パラヴァーは和解を目指すのに対して、大衆団交にはそういう指向はなかったという相違はある。しかし、納得するまで問い続けるという迫力が何かを生み出しうるという共通するものがあると感じた。まあこれは読者には分かりにくい話ではあろう。

「罪と罰」プロセスだと、過去の事実に罰(評価)を与えるだけである。「告発と謝罪」プロセスだと、被害/加害関係が予め決まっていて、加害者側は謝罪をする場合でも強いられた謝罪になり、ほんとうの謝罪には永遠にたどりつけない。
つまり、相手と共に生きるという結果から逆算すれば、パラヴァーのようなプロセスは絶対に必要である、と言えると思う。

また、裁判というものを国家に譲り渡さないというパラヴァーのヴィジョンは、これからのアナキズムを考える上でも必須のものであろう。妥協や復古、長老の価値というわたしたちが今まで否定的に見てきたものに対しても、再考が必要だということになる。

(この文章は、松田先生の下記動画・パワポにあった文章を引用符抜きで引用、あるいは一部改変させていただいております。
https://www.youtube.com/watch?v=ddfboRLj2Ew したがって野原が著作権を主張しうる文章ではありません。ご容赦ください。)

追記:現代日本においては、エビデンスに基づく裁判による有罪でなければ、加害者であっても自らの加害を認めないといった、「顕微鏡型真実」観の悪用さえ起こっている。直接関係ないが付記しておく。

差別を禁止しても・・・

ミンデル『紛争の心理学』の「反差別主義」を入り口に熱く語る」という、三鷹ダイバーシティセンターの4人による討論がある。
ミンデルの本のなかで、「差別をなくすべきとする考え方、は偏見はなくならない ということを見落としている。」と一行にであったとき、田中かず子元教授が衝撃を受けたことが動画で表情豊かに表現されており興味深い。
「差別をなくすため」の活動を世界中の研究者・アクティヴィストは国家や行政末端と協力し、日々啓蒙活動とかをして努力しているわけである。そうした努力を一行で否定されても困る。そういう困惑だろうか。
正確ではないような気がする。単純な設問であるがゆえに、簡単な感想文も書きにくい。そこでほぼ諦めた。

彼女たちはこの本に「第10章 人種差別主義者は誰?」という章があるのに抄訳では省かれていることに気づき、著者アーノルド・ミンデル氏に連絡し翻訳した。
「人種差別がテーマですが、これを読むとあらゆる差別問題に通ずるものがありとても大切な部分。残念ながら日本語に訳された本にはこの章は入っていませんでした。
なので恩師でもあり著者のアーノルド・ミンデルに許可をいただき、私たちが訳したものを学びの参考資料として無料でみなさんと分かち合うことを承諾してもらいました。」とある。
https://www.facebook.com/mitakadiversitycenter/posts/219045062919115
こちらのページから誰でもダウンロードできる! 翻訳に感謝します。さっそく読ませていただきました。
この章の最初の文章も衝撃的である。
「自分は人種差別主義者ではないと主張するリベラルな人よりも、自分は人種差別主義者だと宣言する人の方が対処しやすい。」

パブリックな空間で「自分は差別主義者だと宣言する人」がどんどん増えると、世の中は価値(公正)の基準すら失って無茶苦茶になってしまう。書店などに嫌韓嫌中本があふれ政治家もそれに影響されている日本社会は、それに近い状態になっている。
ただ、ミンデルが言っているのは彼が参加するワークショップなど一定の親密さを作り出せる空間、関係性内部での話をしているのだろう。

・善意の白人男性 謝罪しこれからは前向きに生きていく、宣言。
ミンデルは社会活動家にロールチェンジする。
ミンデルは彼に彼の特権性を忘れるべきではないと説く。マイノリティは差別から立ち去ることはできない。
彼は階級と経済の問題の重要性を忘れてないか、反問してくる。ミンデルはそれは認めた上で、再度話す。
「私たちは葛藤を乗り越え、二人とも心を深く動かされた。」p4
この場合はこのような相互関係にたどり着くことができた。しかし、私が見聞した限り、差別問題での話し合いでこのような感動や和解に至ることはめったにない、と思う。
差別問題とは、差別者と被差別者の非対等性である。したがって糾弾される側がいろいろ自分の感じたことを語ったとしても、そのような思いは無視されて当然なのだということになる。糾弾される側はまったく納得しないまま「形だけの謝罪」をすることになる。ところが「形だけの謝罪」では解決しないのだ。
ではどうすれば良いか?

この問題が解決に至った一つのポイントはミンデルが下記のような自分の体験を思い出したことにある。
「他の⼦供たちが私を醜い反ユダヤ主義的名前で呼び、暴⼒を振っ
たとき、私は⾃分がユダヤ⼈の家庭に⽣まれたことに初めて気づいた。⿊⼈の⼦どもたちは、路上のケンカで⾃分の⾝を守り、勝つ⽅法を教えてくれた。」
自己が差別されどうしようもなくなった体験、そしてその時黒人との友情にであったこと。さらに、ユダヤ人が黒人からは白人(差別する側)にも見られるということもこの白人に語りかける時有効に働いたかもしれない。反差別言説はしばしば雄弁である。しかしそれが抽象的な上から目線言説であるとき、他人の心を動かさない。

主流派だけが差別主義者になりうる。差別は意図的行為としてではなく、制度や経済的格差という完全に合法的な形で行使される。であるから主流派は自分が差別を犯しているとは気づかない。
これをどうしたら良いか?

「ダイバーシティ・トレーニング」やポロティカルコレクトネスといったものもある。それは服についた染みをぬぐうように、露骨な差別的な言語の使い方を矯正する。しかしそれはこの社会において「下層と認識される人々を踏みつける傾向を見えなくしてしまうこと」になるだけではないか。

しかし、一方でわたしたちはつながりあっている。真っ裸な赤子として生まれまたそれに帰ることによって死んでいく。マイノリティと呼ばれるひとたちとのつながりのなかで生きてきたのだ。だから関係性を認識し、気づき(アウェアネス)を獲得し、差別を変質させていくことができる。

テロリストに非暴力を求めるな!

アーノルド・ミンデルの『紛争の心理学』講談社現代新書、はとても興味深い本だった。ちょっと引用、紹介したい。(この本は現在入手不可能に近いが、図書館にはある。)
「テロリズムの特徴は、平等や自由を目的に、権力を持たないグループが主流派に対して攻撃することである。
主流派に対する手当たり次第で道理に合わないと思われている暴力は、実際には、自由のために闘う人々が苦しんできた傷を埋め合わせる試みである。その目的は、権力を持つ人々に社会変革の必要性を気づかせることだ。テロリストの観点からすれば、自分たちが傷つけたり殺したりする主流派の人々はすべて、無辜の犠牲者ではない。主流派の人々はすべて、たとえ消極的なだけだとしてもテロリストが闘っている抑圧に関与している。」(p157)

21世紀は「米国同時多発テロ事件」から始まったとされ、特に日本ではテロリズム=絶対悪という用語法しか許されない、人々の思考もその枠内で動いている気がする。しかし本来、ミンデルの言うとおり「政治的な目的を達成するために暴力および暴力による脅迫を用いる」という意味である。独立運動などもテロリズムから始まることが多い。1970年代アメリカ西海岸で発達したニューエイジ心理学といったもののなかから、ミンデルさんは出て来た方なのだろう。主流派の人々が支配するこの社会、ひととひとが対等に向き合っているように見えてもすでにさまざまな権力関係が埋め込まれていることを、に批判的に分析していく。
歴史とは大なり小なり動乱なのであって、自由のために闘う人々がテロリズムという手段を行使することはありうる。「テロリズムは文化変容の必要性がありながら、それが妨げられているときの時代精神である。」p154とミンデルは書いている。

「私のテロリズムの定義は、心理的な苦痛の原因となるグループ・プロセスにおける復讐を含む。過去の暴露や暴力的な脅かしは、この範疇に入る。
わたしたちはこのようなテロリズムをしばしば体験する。たとえば、ある異性愛の女性が、パートナーに「私の要求に答えてくれなければ、出ていくわ」といったとしよう。彼はこれをテロリズムとして体験する。彼女は、今にも関係を終わらせるような勢いで迫る。彼女は、相手が自分の欲求を大切にしてくれないと感じ、関係を破壊することだけが満足のいく目覚めをもたらすと考える。」

話が急に家庭内の関係、たぶん日本人でもよく体験するような、に移る。新聞のニュースになるような大きな政治的テロリズムと、小さな夫婦喧嘩が同質だと、ミンデルは真面目に考えている。
主流派男性が少数派の不満に耳をかさず、黙ったまま抑圧関係を持続させられると思っていたら、少数派は我慢ができなくなってテロリズムに訴えた、という話である点で同質性があるわけだ。

「意図的あるいは無意識的なランクの乱用」というものによって、「若者や女性、貧しい人や有色人種、高齢者、ゲイやレズビアン、「犯罪者」、虐待被害者」たちは、耐え難い抑圧の持続にさらされながら、それを虐待であると告発することができない。反応を禁じられて最後に暴力という形で表現することしかできなかった。したがってこのような場合、暴力的な反応に恐怖し、過剰防衛したり、法的に処罰を求めたり、スキャンダルとして社会の笑いものにしようとしたりするのは、まったく不適切な対応となる。

(さてここで「ランク」という言葉がでてくる。これはプロセスワーク理論にとって最も重要な概念。自分で気づいていないさまざまな特権やパワーを私たちはすでに持っているという考え方。社会的/構造的/文脈的/心理的/精神的など。)

個人が公正に闘うには、大きすぎ、強力で圧倒的な人々や集団によって、抑圧的な状況が作り上げられているのだ。そういったばあい、「テロリストは私たちみんなの中に現れる。」
主流派を乱し、脅かす、いわゆる「病理的、境界例的、精神病的」な人々は、実は、世界を変革する可能性を持っている、と考えるべきなのだ。

特に日本では調和が重んじられ、集団内部に対立を顕在化させることは極端に嫌われる。会議でさえ議論のない会議の方が良いとされる。まそれは、森喜朗氏の件で分かったように、既成の大ボスの権威を少しでも傷つけないという、ただの権力維持である。自由な意見交換を抑圧したことは、日本の経済発展にさえマイナスになったかもしれない。

民主国家はみなが平等であるという建前に立つ。異論があればそれぞれ発言すれば公正な議論によって公正な結論を得ることができることになっている。しかし実際は、少数派は自身の〈ランクの低さ〉によって自由に発言できない。絶望や抑うつ、憤怒といった問題に囚われている。それに対して、権力を持つ人々は、実は暗黙のうちに「おまえたちには耳を傾けたくない。おまえたちやおまえたちの問題は重要ではない。その問題と一緒に私からは離れていてくれ」という雰囲気を漂わせている。シグナルやジェスチャーや座る場所などで。
このようなちょっとした雰囲気の悪さといったものを、ミンデルは、〈ゴースト間の闘い〉として描写する。主流派のゴーストは「座れ、静かにしろ。誰がここに招いてやったんだ。云々」という。マイノリティのゴーストは「目覚めろ!お前は試されているんだ!おまえたちの家を爆撃するぞ。云々」と言う。

北アイルランド紛争の対立する当事者の集まりに招かれたミンデルは、最初やはりテロリストの側がたんに無作法であるかのように見えてしまっていた。
しかしそうではない。テロリストと呼ばれる彼らの怒りや傷つき、変容への欲求を理解しなければならなかったのだ。
ベルファストのある男性は、子供の頃、英国秘密諜報部員に父親が頭を撃たれるのを見た。彼は許すことができず大人になってテロリストになった。ある時牧師に話をすると牧師は彼の復讐心を理解した。心から同情的になったするとテロリストも変化した。

マイノリティに必要なものは、パン(経済的サポート)、自由、そして尊敬だ。しかし、主流派が彼らの悩みを推測し与えてやるということでは問題は解決しないだろう。そうではなく彼らに彼ら自身の問題を語ることを促すのだ。聞き手は、彼らの問題をオープンに取り扱うため、彼らを発見し支えようとし、そうであることを彼らの理解させなければならない。そうすれば解決は近づく。しかしその場で和解が達成されたとしても問題は解決したわけではない。不平等、不公正でない社会の達成は困難だ。

主流派も苦しんでいる。テロリストはある種の霊的ランクを有しているのだ。正義において、また死を恐れないという点で。
それをはっきり認識するのも大事なことであろう。しかし話し合いの現場ではたいてい、主流派がもっと包容力を示すことが、相互に変容していくことを促すことになっていく。

アーノルド・ミンデルの『紛争の心理学』という本の第6章を、書き写し的に紹介してみた。わたしにとって新しくまた貴重な考え方であると思ったからだ。
社会的・政治的な問題はそれ自身として解決すべきであり、心理的に解決すべきではない、というのは真実だと思う。しかし紛争/紛争解決は心理的問題でもあり、その時に、平和、安全、非暴力などを少数派に強要するだけでは問題解決にはならない。そのことを学ぶのは価値あることだと思った。(7.28一部修正)

『光州 五月の記憶』尹祥源(ユンサンウォン)評伝について

 『光州 五月の記憶』は、1980年の光州事件を、若くしてこの闘いに倒れた尹祥源(ユンサンウォン)の評伝という形で書ききったもの。この大きな事件に近付こうとするとき、比較的理解しやすい一つの方法だと思える。

 現在の全羅南道光州広域市光山区に 尹祥源(ユンサンウォン) は1950年に生まれた。二浪し1971年に大学入学。半端な気持ちを持て余し演劇部に入部。彼は新人でありながら「オイディプス王」の預言者テイレシアスの役になった。
 ところで、私(野原)もたまたま同じ年に大学入学し、演劇サークルに入った。わたしはその続編にあたる「アンティゴネー」で盲目の預言者テイレシアス(同じ人)のいざり車を引く童子の役になった。違った国、違った大学であっても同時期に同じようなことをしていたので、私は尹祥源をまんざら他人とは思えない気がした。どちらの芝居でもテイレシアスは台詞の多い難役であるが、童子は役というほどでもない端役。尹サンウォンは歴史に名を残すことになるが、私は(あえて言えば幸いにも)どんな劇的ドラマにも参加せず、「幸せな老後」を迎えようとしている。

 尹サンウォンは大学1年の時演劇部で活躍したが、二年に成らずに休学し令状を受け取り軍に入隊した。そして75年に復学した。彼は社会運動に目覚め、当局の厳しい監視を受けながら、狭い自室を開放しつつ熱心に学習会に参加した。彼は迷った末、卒業し銀行に就職する。収入など急に改善されたが、困窮のうちに生きる下層労働者や闘って弾圧される後輩たちと違った生き方を選択することができず、銀行を辞めてしまう。そして光州に戻り、工場労働者になったり、野火夜学という夜学に出会い、熱心に参加していくことになる。

1979.10.26、独裁者朴正煕は殺される。翌年春から民主化を求める民衆・学生の活動は各地で活発になった。5月14日から3日間、光州では全南大学生を先頭に大きな大衆集会が続いた。

5月17日、深夜までに金大中、高銀など民主化運動指導者と金鍾泌ら旧軍勢力を含めた多くの人が逮捕され、戒厳令が強化された。全斗煥のクーデターである。
18日朝、空輸部隊はいち早く全南大学を制圧していた。学生たちは二、三百人が正門前で抗議しようとしたが、兵士たちは棍棒を激しく振り下ろし流血の惨事となった。今までの警察のやり方とはレベルの違う残虐さだった。しかし、市中心部(錦南路)など場所を変えながら、学生たちは抵抗を続け市民もそれを支援した。
 
 空輸部隊の暴力はあまりに凄惨だった。「罪もない学生を銃剣で裂き殺し、棍棒で殴りつけてトラックで運び去り、婦女子を白昼、裸にして銃剣で刺した奴らは、一体、何者だというのでしょうか?」光州市民民主闘争回報。このビラを作ったのが尹サンウォンと彼の仲間の夜学グループだった。空輸部隊などの圧倒的暴力を見て、恐怖に震えながらも、市民たちは戦い続けた。

5月22日、驚くべきことに市全域から戒厳軍が完全に撤退した。
「粘り強い市民の武装闘争で勝ち取った自由光州解放区……、あれほど恐ろしく強大だった軍部の権力を、民衆の力で打ち砕いた解放光州……。この感激的な勝利をどう守っていくのか。」[1]p180
重傷者への輸血のための献血者も殺到した。身元不明の遺体は道庁向かいの建物に整然と並べられ、家族たちが確認に訪れる(ハンガンの『少年が来る』に描かれた情景)。

しかし圧倒的強力な武力、国軍に包囲されているという絶望的情況は変わらない。この情況において、地元有力者らが「収拾方策」派として登場した。武器を回収し戒厳司令部に引き渡すしかない、というのだ。この主張を代表していたのが学生の金チャンギルであり、一時道庁のヘゲモニーは彼に握られる。

収拾派は言う「政治的、理念的話はしない。人道的、平和的に事態を収拾する。」しかし、ここでそれを了承すれば、死んだ者たちには「政治的、理念的」意味はなかったことになる。すぐに秩序は平穏に戻り、国軍の権威は100%保持されままになる。無垢の市民が殺されたことなどなかったことになってしまう。

5月26日午後、尹サンウォンは外国人特派員の前で会見を行う。
「光州市民と全南道民は、このような殺人軍部の蛮行に対して、蜂起したのです。空輸部隊を追い出すために、われわれは自ら武装したのです。誰かが強要したのではありません。市民が自分の命を守り、さらに隣人の命を守るために武装したのです。軍部のクーデターによる権力奪取の陰謀を粉砕し、この国の民主主義を守るために蜂起したのです。」
「私たち市民は、この事態が平和的に収拾されることを望んでいます。そのためには戒厳解除、殺人軍部クーデターの主役、全斗煥の退陣、拘束者の釈放、市民への謝罪、被害の実態究明、過渡的民主政府の樹立などの措置が必ずとられなければなりません。そうでなければ、私たちは最後の一人まで闘うつもりです。」[2]p211

27日「今夜十二時までに武器を返納しなければ、市民の安全は保証できない」という戒厳司令部の最後通牒が発せられた。
28日午前2時ごろ、尹サンウォンらは最後の戦いのための体制を整えようと、武器庫で武器を配った。尹サンウォンはまず言った。「高校生は外に出ろ。われわれが闘うから、君らは家に帰れ。君らは歴史の証人にならなければならない」

「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。この国の民主主義のために、最後まで団結して闘いましょう。そして全員が不義に抗して最後まで闘ったという、誇るべき記録を残しましょう。」

日本の戦後民主主義は、ここまでの緊張関係を生み出すことはなかった。したがって「命を掛けて」という修辞はどうしても多少浮ついたもののようにわたしたちに感じられてしまう。
日本人は戦後新しい国家と憲法を手に入れ、それが保証している民主主義は大きなところでは揺るぎないものだとわたしたちは信じていた。しかし安倍・菅政権は少し様子が違う。コロナ対策でも合理的とは言えないgotoトラベル政策とかを強行し、支持されているわけでもないオリンピックを強行しようとしている。このまま憲法「改正」にならないとも限らない。わたしたちと国家の関係が破綻すれば、悪である国家を倒すために命を投げ出すという尹青年のような生き方をも、身近に想像することができるようにならなければならないのかもしれない。

尹サンウォン、鋭敏な彼は何らかの形で韓国も、十年二十年後は日本のようになる可能性も感じていたかもしれない。「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。」かれは文字通りそれを信じようとしただろう。だが自分より若い青年たちの前でそう言い、死に駆り立ててしまうこと、それは大きな痛みなしにはできないことだった。

戒厳軍が道庁内部に入ってきたとき、彼は道庁民願室二階の会議室で旧式カービン銃を持っていた。彼は腹部を撃たれ倒れ、絶命した。

これが10日間の光州事件(光州蜂起)と尹サンウォンの物語である。
暴力や革命について論じたい人は、我々に近い国、近い時代のこのような例も確認しておいた方がよい。

追記:『ニムのための行進曲」の作曲者(キム・ジョンニュル)による歌唱  光州事件の犠牲者で市民軍の指導者ユン・サンウォンと1978年に不慮の事故で亡くなった労働活動家パク・ギスンの追悼(霊魂結婚式)のために制作された、とwikipediaにある。

追記2: https://x.com/DaegyoSeo/status/1791730791514550572 こちらのツイートで、「尹祥源(ユン・サンウォン)」の写真と墓地、外信記者たちに対して語った「抵抗する意味」を記しておられる、徐台教(ソ・テギョ)さんが。

References

References
1 p180
2 p211

〈現状態に対する本源的拒否〉の思想

 黄晳暎(ファンソギョン)の小説を何冊か読んでかなり好きになったので、黄晳暎論でも読もうかと思って図書館を探すと、金明仁(キムミョンイン)という人の『闘争の詩学』副題が「民主化闘争の中の韓国文学」という本があったので借りて見た。第7章が黄晳暎論である。つまり軽い気持ちで借りたのだが意外と真剣に読み込まなければという気になってきた。

 この本の後ろには14ページにも渡る「韓国民主化関連年表」が添付されている。批評家の本としては異例のことだという気がする。日本でも全共闘運動のころまでは、新日文、近代文学などなど、左派運動(政治)と関わりのあった文学運動はあったが、それ以後はむしろ政治的なものの一切をタブーとするかのような文学観に支配されているようだ。
 それに対して、明仁は、こう語る。「私にとって文学は世の中を変える方法や道具の一つですが、1980年代の韓国文学はまさにそのようなものでした。[1]同書p8

 「私にとって文学は世の中を変える方法や道具の一つ」という言い方は反発を呼びそうだが、ゆるやかな意味ではそれほどおかしな意見ではない。 民族=国家が成立していないために、まずもってそれを追求することが、文学にとっても課題にならなければならない。そういうことは理解できることだ。1945年の光復以後は、まずネーションが模索された。それ以後も独裁の否定、民主化の達成は文学の課題でもあった。
 「世の中と対抗することの美しさを示し、今とは異なる世の中をみちびく熱い啓示でぎっしり埋まった文学」こそが、もっとも美しい文学であり追求されるべき価値であるという、初心を明仁は数十年経っても捨てていないようだ。
それは時代遅れの文学観に感じられる。ただそれだけでは批判にはならない。

 韓国では〈学生を中心とした激しい反政府活動(デモなど)による独裁の崩壊→(束の間の春)→軍事クーデター〉という波が、戦後史において三度起こった。
A 60.4.19→5.16 朴正煕独裁へ
B 79.10.26→80.8.27 全斗煥大統領へ
C 87.6.10→12.16 盧泰愚が大統領に選出される
(D 2016-2017.3月 ろうそく革命は勝利に終わった例外 )

 C 87.6.29民主化宣言で長年の軍事独裁体制は崩壊した。しかし、明仁は「重要なのは労働者階級の動向だ」と考えていた。7,8月から切望された労働者大闘争が始まった。毎日のように民主労総結成闘争のニュースが聞こえてきた。しかしその本質は結局単に労働現場におけるもう一つの民主抗争にすぎず、労働法改正などで一定の権利を獲得するや、その生命力を減じていった。[2] p41

 そして、三度目は軍事クーデターではなく、大統領直接選挙による民主主義的な選出(平和的政権交代)で終わった。「1987年を契機に韓国社会は、軍部クーデターという後進国型政治変動との断絶に成功した[3]p25」という点では画期的だった。

しかし、全斗煥の協力者であった盧泰愚の勝利に終わったという結果は、明仁にとって限りなく苦いものであった。
70年代後半以降の民主化運動の長い歴史、光州以後のそれでもつむがれた夢、「労働者階級が主人となる近代的国家」への夢、それは〈統一〉も含むものであり、全的な解放をなんらかの形で実現すべきものだった。その夢は裏切られた。選挙という民主的方法によって裏切られたことは、彼らにとって自分の思想を一部変更せざるをえないほどショックなことだった。
 明仁たちは観念的過激化し、北朝鮮の主体革命理論か、速戦即決的なボルシェヴィズムに傾いた。死への傾斜をも孕んだものだったと言えるだろう。同時に、東欧社会主義国の崩壊があった。

 韓国におけるB79年からC87年の経過は、日本の60年安保から68_9年大学紛争の経過に類似するようにも思う。そうすると、明仁たちは「観念的過激化」は、70年代始めの赤軍派〜東アジア反日武装戦線の空気に似ている(だろう)。

「わたしたち」はすでに内的解体の危機をかかえていたので、運動は急速にしぼんでいった。明仁は「民衆的民族文学」という批評的準拠を持ち、基層民衆の文学的・文化的解放のための実践を模索していた。しかし常に観念が先んじて現実と交差しえなかった。[4]p45
 明仁にとって、文学・思想は政治的活動と一体のものであったから、挫折は全身的なものであっただろう。明仁は「運動」と関係を断ち、大学院にいわば亡命した。それぞれが生きる道を探しに出た。そして、共同体的な連帯や規律などを捨て、個人になることで、90年代の新しい社会へ入っていった。

 このような「いわば亡命」の過程は、(全共闘体験からの)高橋源一郎、加藤典洋、笠井潔といった人々も経ているものだろう。明仁の場合が、今までの左翼性・全体への夢を捨てないという点で、またまずそのプロセスを明らかにしようとする誠実さという点で、もっとも分かりやすいかもしれない。

 1980年代には金明仁のような左派的文学が主流だったのだが、90年代には個人主義的文学の時代になった。「わたしたちは近代を生産するはつらつとしたブルジョア的個人を持つ機会[5]p47」がなかった、と明仁は述べる。だから「1990年代以降の個人の発見、あるいは発現は、このような点から見れば「抑圧されたものの回帰[6] p47」としての切迫性があると思う」と続く。
 「個人」とは何らかの抑圧的集団性からの脱出を意味するだろう。それは「抑圧的な軍事独裁体制と国家独占資本体制が作り出した「国民」という全体主義的集団性と、その全体主義に対して戦う過程で形成された「民衆」という集団性、その異質な二つからの脱出という契機をもったものであるはずだ。[7] p47
 「しかし、国民であることは十分に克服されず、民衆であることは十分に実現されえなかったから」、「目覚めた主体としての個人」は成立しなかった。新自由主義的市場体制と言う支配のなかでの、孤立した労働者かつ消費者としての「単子」的存在となったにすぎなかった。 [8]p48 孤立した労働者かつ消費者としての孤立した存在というのは日本でも同じですね。

 抑圧的な軍事独裁体制からの抑圧を考えるとき、日本では次のような例がある。1933年の小林多喜二の死。それから十年以上後の、1945年8月9日の戸坂潤と一ヶ月後9月26日の三木清の死。45.8.15は彼らを抑圧した軍国主義の終わりであることは明らかだった。三木は影響力のある作家だった。だのに誰もの彼を奪還しに来なかった。彼らと民衆との連絡はすでに途絶えていたのだ。三木たちは敗戦は予感できただろうから混乱後の日本に希望が持てたなら、なんとしても生き延びようとしたのではないか。彼らが死んだのはすでに絶望しか持っていなかったから、民主化後の日本に対しても、ということが言えるだろうか。そうは思いたくないが、戦後70年の民主化の敗北後の日本においては、そういう思いもある。

 70年代から87年までの独裁政権から民主派青年たちに対する弾圧は、日本の上記のような弾圧以上に激しいものであった。最大の虐殺は2万人近く(?)殺された1980年光州事件だった。これは限りなく痛ましい事件だ。しかしそれは民主化運動が学生やその周辺のインテリだけでなく多くの民衆を巻き込んだ巨大な運動になったからこそ可能になったのだとも言える。日本の60年安保もデモに参加した人数などでは負けてはいない、しかし死の危険性ある抵抗運動に果敢に立ち上がるといった点で、つまりその思想的深さにおいてかなり及ばないものだった。
 過激な運動ができるから偉いとかそういうことではないが、権力の暴力に向き合う腹の座り方については、やはり日本はまだまだと言うしかなかろう。2011年以降、反核など市民運動はそれなりに盛り上がったがやはり2,3年で下火になった。そこにも同じ弱さがあったと言えるだろう。
 「私は元気でない国の一知識人として、それよりもはるかに元気でなくなってしまった隣国のみなさんに、言葉にならない憐憫と連帯感を感じるようになりました。[9]p7」金明仁は、日本人が怒るだろう「憐憫」ということばをあえて使って、連帯感を表明している。

 さてもう一つの問題、その全体主義に対して戦う過程で形成された「民衆」という集団性からの脱出という契機とは何だろう。
そこには一つには、大衆の反政府闘争の主体が、依然として学生や知識人、在野勢力中心の人々でしかなかったという問題がある。「労働者階級を含めた基層の民衆が、自らの利害関係を越える政治的覚醒[10]p38」をなしうるかどうか、それが問題だと金明仁には思われた。AもBも労働者階級の組織的闘争につながらなかった、だから失敗した、と明仁はマルクス主義者らしく考えていた。
 7,8月から切望された労働者大闘争が始まった。毎日のように民主労総結成闘争のニュースが聞こえてきた。しかしその本質は結局単に労働現場におけるもう一つの民主抗争にすぎず、労働法改正などで一定の権利を獲得するや、その生命力を減じていった。[11]p41 資本家階級は労働者階級が革命的に転換することをギリギリ抑制させる程度の何かを労働者に与えることはできる。したがってほんとうの意識変化にはたどり着かない、これが金明仁の判断だった。

 「抵抗する集団性」をどう克服するか考えるときに避けられないもう一つの問題は、南北問題である。光復から朝鮮戦争の時期、民族を回復しようとする運動に参加していった人の圧倒的多数は左派系の人々だったので、彼らの多くは越北した。であるにも関わらず北の共和国はその人びとの思想と努力を活かすことができず、逆に国家首領独裁体制に対する異分子として抑圧され続けた。にも関わらず、南の絶対的反共国家のなかの抵抗者である民主派の人びとは北の実像を知ることもできず、心のどこかで本来の共和国の栄光という幻を保存し続けた。金明仁のこの本はそのような事情は良かれ悪しかれ全く書かれていない。[12]p228に、黄晳暎の『客人』について「分断克服という顕在的課題に対する一つの、歴史的であると同時に美学的回答」と書かれてあるだけだ。

 新しい「市民運動」。「人権、女性、環境、教育、消費者、多様な形態の政府監視など、いわゆる非政府機構の運動や多様な形の市民キャンペーン運動」が生まれ、過去の「民族民主運動」に取って替わっていった。
 「この運動は1990年代序盤の「呪われた転換期」を過ごす間、私たちが陥っていた虚無と冷笑、無気力と精算主義を身軽に越えて、支配ブロックの一方的な独走に対する牽制体制を構築した」意義ある運動形態だったと評価しうる。

 これは、日本では2011以降のたとえば、シールズ(自由と民主主義のための学生緊急行動・SEALDs)などと同質なものであると理解できる。限定された主題に対する明確な獲得目標、優れたデザイン感覚によって大衆の支持を獲得する、自己組織内の意思決定過程の透明化など、民主主義的で平明な感覚は人気を呼んだ。本書などによれば、韓国では20年以上前から着実に育ってきているものだったようだ。
 しかし、それは資本家階級の究極的支配とヘゲモニーに挑戦するという問題意識がない。階級運動ではない市民社会運動だ。革命運動ではなく改良運動だ。権力の獲得を目的としないという点で政治運動でもない、と金明仁は指摘する。

 ところで、80年代の運動が「権力獲得を目的にした革命的階級運動」だったか、というと実はそうも言い切れない。それは情緒的・観念的には過激だったが、本質上民主化運動に過ぎなかった。だから民主化を果たした後に、より「クール」な市民運動へと転換していくのは自然なことだった。[13]p50しかし、その夢想のなかには強力な力があった。それは現状態に対する本源的拒否の力である。人間が人間を搾取して疎外する世の中の土台と上部構造全体を総体的に変革すべきだという、非妥協的な精神の力がその核心にはあった。1990年代以降の市民運動にはこのような力が欠けている。[14] p50その場合市民運動と労働運動は、永遠にブルジョア支配社会の周辺部的な付属物であるにすぎない。

 新自由主義とは、「資本の運動を阻むすべての障害や境界を撤廃し、人間と地球に属するすべてのものを商品化し植民化し搾取[15]p51」するシステムである。そして「無限開発と無限競争」という考え方だけが唯一の真実であると強力に宣伝することを伴う。日本では服従原理主義を内面化しないと、おおむねどんな仕事にもつけない。そのように、このようなすべてのことはほとんどまるで「世の中の法則」であるかのように受け入れられてしまっている。

 半分疑いながらもそうした宣伝を少しは受け入れざるをえないわたしたちにとっては、〈現状態に対する本源的拒否〉という思想はまったくありえないものとしてある。現代日本においてはもはやそれを見つけることすら難しい思想として、それはある。であるので、この文章を読んだ時、わたしはタブーを破ったような罪悪感とともに、びっくりしたのだ。

 それにしても、〈現状態に対する本源的拒否〉という思想を肯定しても良いものだろうか。わたしたちは現体制なかで生まれ育ち教育をされ、雇ってもらっているのであれば、そのような全体に対するNONというものは論理的にありえないのではないか。「人間が人間を搾取して疎外する世の中」自体を根底から変革することができるとマルクスは言った。それが正しいかどうかは私は分からない。それでも社会の分かりやすい不正や矛盾すら現体制は是正してくれない。そうだとすると現体制で通用する理屈を越えて正義をそこに要求していくことは正しいことだと思う。
 要求をすることは正しい。しかし、〈本源的拒否〉とはなにか。

 全世界に目を向けると、「反グローバリゼーション、下からのグローバリゼーション、反米運動、エコフェミニズム、マイノリティ運動、再解釈されるアナーキズムやトロツキズムなど、「現状態」を越えるための世界的レベルの理論的・実践的努力」がさまざまに存在している。
 わたしたちはともすれば勘違いしてしまっているが〈現状態〉は決して一枚板の変えがたいものとして世界に君臨しているわけでない。学校、職場、知識その他さまざまな諸力のがまず、「私」自身を作りた、そうした多くの個人が動かしがたいかの秩序として現象する。さまざまな方角からそれを揺るがそうとすることはできる。

 この世の中は構造的に絶対多数の不幸と絶対少数の幸福を生産する世界だ。それが確かなら、私は世の中に同意できない。こんな世の中のために、あのように長年獄中で苦労してきたわけではない。と明仁は言う。
 そうではなく、覚醒した個人の主体性を堅持しながら、人と人の間、人とすべての生命の間の共同体的な連帯意識をふたたび回復することはできる。「人間も他の生きとし生ける物も、自らの生と他者の生の自由と解放を獲得するまで戦わなければならない。[16]p54」と明仁は言う。

 この世界の外部はない。なぜならわたしたちは事実上、この犯罪的世界の共謀者だからである。と明仁は一旦言い切る。そして次に「しかしこの世界の外部はある。わたしたちは常に懐疑し省察して、他の世界を夢見る存在だからである[17]p55」と彼はそちらの方を強調する。
「はてしなくこの世界の外部を思惟し、他の世界に思いを致さないかぎり、またこの世界を自分自身の内部から拒否しないかぎり、この世界は絶対によくならないからである。[18] p55」と、明仁は最後に言い切る。

 私たちは「はてしなくこの世界の外部を思惟する」ことができる、これは認めることができる。それでは世間に通用しないよ、と言われるだろうか?反抗の根拠は別にどこかの条文とかそういうところに存在する必要はないのだ。〈幻のコミューン〉といったもののリアリティがそこにあるだけでもよい。自己身体の叫びといったものでも良い。
 〈現状態に対する本源的拒否〉は存在する。ただ、そこからすべてのものが流出する〈幻の党本部〉のごときものであってはならないだけだ。
(以上)

References

References
1 同書p8
2 p41
3 p25
4 p45
5 p47
6 p47
7 p47
8 p48
9 p7
10 p38
11 p41
12 p228に、黄晳暎の『客人』について「分断克服という顕在的課題に対する一つの、歴史的であると同時に美学的回答」と書かれてあるだけだ。
13 p50
14 p50
15 p51
16 p54
17 p55
18 p55

黄晳暎『客人』を読んで

1, キリスト教徒青年たちによる殺戮

黄晳暎(ファンソギョン)の『客人』という小説、2003年に出版され翌年すぐ翻訳された本(岩波書店)、すこし古びた本を図書館でなんとなく手に取った。(訳者鄭敬謨、チョンギョンモ)

この小説はすごい。非常に残虐な出来事を直視し、書いているがエグくならず押し付けがましくもなく読むことができる。非常に大きなテーマを見事に描ききった傑作だと思う。

柳ヨセフ牧師がその兄柳ヨハネ長老に会いに行こうとする。38度線のすぐ上黄海道の、ソウルの西北方向にある小さな村、信川(シンチョン)、彼らはここで生まれ育った。朝鮮戦争時、この村でおおきな事件が起こりその当事者だった彼らは故郷を離れ、米国東海岸まで流れてきて40年経ち老年を迎えた。
ところでこの二人が主人公格なのだが、ヨハネ/ヨセフは似ていて紛らわしい。(ググるとヨハネには「神の国が近づいたことを人びとに伝え、悔い改めるよう迫った」洗礼者ヨハネのイメージがあることを知った。これは含意されていると思ってよい。)

キリスト教徒の多い地域であり二人の父も牧師だった。ここで、40年前(朝鮮戦争時)に惨劇があった。彼らはその目撃者ないし当事者だった。何十年も米国で暮らした後、ヨセフは北への旅行の機会を得るが、そのとき、自身と兄の当時の悪夢あるいは記憶がどんどん襲ってくる。重苦しい話ではあるが、事件の真相が少しづつ明かされるというミステリのようにも書かれているため、読みやすくもなっている。

日本敗北後朝鮮半島北部はソ連軍によって占領され、土地改革が実行される。大地主と企業家は先に南へ逃げ、中農と自作農が地域の上位階級になっていた。かれらはたいていキリスト教徒だった。村の作男や働き手だった小作農が、平壌に行って短い教育を受け村に帰ってきて、土地改革を実行した。差別されていた下層農民が先頭に立って暴力的に村の有力者の土地を没収する。激しい軋轢と憎悪が生まれた。南に逃げた中上層階層の子弟は極右団体を結成し、朝鮮戦争時、故郷に帰り旧秩序を回復しようとした。

2. 犬を吊り下げる

柳ヨセフが見た夢の、どんよりした暗い夢のイメージが3つ最初に提示される。最初は意味がわからないのだが、最後まで読むとこの小説の重要なシーンであることがわかる。

最初のイメージ。
α「どんより曇った日であった。(略)
赤ん坊はシーツにくるまれておりシーツの端がひざ下まで垂れ、ひらひら舞っていた。(略)大人は赤ん坊を抱

き上げ、木の一番下の枝に布でしばりつけた。p1」
残虐という以上になにやらひどく不吉なイメージである。この不吉なイメージは、この後も反復される。

β「むごたらしくもあり、血が騒ぎだすような興奮の中で私は犬が屠られる光景を初めて目撃した。犬の首に幾重にも縄を回し、ほどよい高さの木の枝にひっかけて吊り下げ、縄を引っ張る。ピンと張った縄をさらに引くと、犬は目を白黒させながら四つの足をジタバタさせる。p22」

γ「あのときオレはおじさんを電信柱に吊り下げたんだよな。p23」

αのイメージの意味は直ちには理解できない。ひと又は犬が木のようなものにくくりつけられるイメージがp22〜23に二つ出てくるのでβ、γとして、引用し考えてみよう。

βは、他人の飼い犬を吊るして食べてしまうシーンの一部。今では残虐無比と非難されるだろうが、この当時は悪ガキのいたずらとしてしかられる程度で澄んだのだろう。「血が騒ぎだすような興奮の中で」ひとは狂う、犬を屠るくらいならたいしたことはない。しかし人ならどうか。

γ、これは殺人のようだ。しかしこの頁では、幼い時にさまざまな楽しみを教えてくれたスンナムおじの亡霊との短い対話の断片として記されているだけなので、いったいどういうことなのか意味は分からない。

いったいどういうわけで、この小説はこんなふうにわかりにくい始まり方をしているのだろうか。この小説は、庶民がふとしてきっかけで大量虐殺を犯してしまうその謎を描こうとしたものだ。日本では関東大震災後に朝鮮人大量虐殺があったが、それを犯した人もちょっと前まで平穏な市民だったはずだ。
謎を謎のままで提示しなければならない。一方、読者の興味をつなぐよう、語り方に工夫が必要だ。そのためにこの小説は過去に殺されたたくさんの人物が亡霊となり、自由に現在にやってきて主人公たちと対話する、という形を取っている。主人公は過去に自分がやったことを記憶している。だがそれは思い出したくないことなので抑圧している。亡霊がやってきてひとことだけつぶやく。読者にはこの頁ではその意味が分からない。異様な感触だけを残して小説は進んでいく。

αについては、p41に説明がある。「大おばあ」つまりヨセフの祖母はこんなふうに言う。客人が流行り始めても田舎の村には医者もいない。巫祭(クッ)をしたくても金もない。(表題になっている「客人(ソンニム)」とは危険な伝染病だった天然痘のこと)何もできない。

「我が子が病に冒されるとただ胸に抱きしめていて、もう助けようがないとわかると草わらか雨具にぐるぐる巻いて夜更けに山に行くのさ。山に行って背の高い木を選んでその枝にしっかりくくりつけて降りてくる。カラスはまたなんであんなに多いのか、まだ死んでもいない体に集まってきて目ん玉を突っついて食べるんだね。子どもの父母が夜通し見守ってカラスを追っ払うのよ。そうやっているうちに助かった前例もあるので、みなで幾夜も木の下で見守りながら夜を明かしたらしいね。41」
子捨てと究極の祈りが合体しているような、ひどく奇妙な風習だ。生と死の距離が近く、まれに反転することもある幽冥の世界。

3,虐殺

(信川郡 (シンチョンぐん)は 朝鮮民主主義人民共和国 黄海南道 に属する。ソウルの西北に開城(ケソン)がありその西方に海州、そのちょっと北に信川がある。)
信川だけでも三万五千人以上が死んだと言われているらしい。残虐行為の一角をこの小説から見てみよう。

「数十名の青年が畔に伏せていた。彼らはそれぞれ手に鎌や鍬や棍棒を握っていた。(略)彼らは駐在所の前まで来ると、うわーっと大声で叫びながらなだれ込み、建物の中でうとうと座って居眠りをしていた二人の署員を棍棒と鍬で滅多打ちにして殺し、奥の部屋で寝ていた署員も撲殺した。p218」
始めての殺害。駐在所員の殺害は蜂起としての合理性はある。しかし撲殺する必要はないわけで、そこには貧民による土地改革をどうしても許せないサタンの仕業と位置づける強い反動的情動があったと思われる。
また、直近に載寧(チェリョン)で党員と北朝鮮軍による殺害があった。
「彼らは、以前から反動だとにらんでいた家はもちろん、疑わしいキリスト教徒の家々を捜索し、相手がしたように家の中で家族らを残らず処刑した。(略)載寧(チェリョン)での三昼夜は、九月山(クゥオルサン)一体でそれから始まる血の惨劇の導火線となったのだ。p222」この被害に対する激しい報復感情が噴出したともいえる。

「私たちがこの戦いの勝利を占める唯一の方法は、神の力に頼り正義のために悪を覆さなくてはならないという信念を堅持することだと信じております。いま自由のための十字軍は私たちを解き放つべく近くまで来てはおりますが、サタンの軍勢はいまだに私たちに脅威を加えております。(略)主イエス・キリストの御名においてお祈りします。アーメン」とヨハネは唱える。
1950年9月15日に米軍が仁川に上陸する、これは朝鮮戦争の画期として記憶されている。しかし、長い間野蛮な日本によって信仰を抑圧されてやっと解放だとなったら今度は共産主義との闘いになり彼らに支配されるに至った黄海道のキリスト教青年にとっては、それは文字どおりキリスト教の救世主が武装してやってきたもの!と受け取られた。

合理的な理由があってはじめられた残虐行為は、集団的熱狂のなかでどんどん凶暴さを加えていく。加害者たちはみずからの残虐さに慣れてしまい、反省することもなくなる。

「うるせえな。一人の男が赤ん坊をまるでサッカーボールを蹴るように蹴飛ばすと、赤ん坊は一瞬宙に浮いて二、三歩離れたところに転がり落ちた。p235」

兄ヨハネは幼い頃、近所のガキ大将株だったスンナムおじさんを捕らえる。最初にでてきた、犬を吊るして食べてしまうという乱暴な子どもの遊びを教えてくれたものスンナムだ。ただそんな思い出は今は関係ない。保安隊(共産党)として村のリーダー格だった彼を許すわけにはいかない。ただヨハネは彼を本部に連行するのは止める。連れて行けば、殺される前にひどい虐待や辱めを受けるだけだから。
「土手の上に電柱が見えた。 あれに吊り下げろ!(略)
仲間たちは電柱の足場に電話線を引っ掛けると容赦なく下に引き寄せた。クワッと異常な声を上げ足をばたつかせながらスンナムの体は宙に浮いた。p241」
スンナムは吊るされる。これが冒頭にちらっと出てきた γ である。

黄晳暎が、α、β、γと、ひと又は犬が木のようなものにくくりつけられるイメージを反復するのはなぜだろうか?
γは弁護の余地ない大虐殺の一部である。ここでの被害者はアカと呼ばれる人びとであり、加害者はキリスト教徒の青年団である。三万人以上が死んだという大虐殺。その過半はキリスト教勢力から「アカ」に対する殺害だった。

その中の一つを黄晳暎は「男を電柱に吊り下げる」というイメージで描写する。そのγのイメージを説明するために、βがある。つまり虐殺はむごたらしいばかりではなく、「血が騒ぎだすような興奮」を誘い出す集団心理を誘発するものなのだ。昨日まで平和だった農民たちが、虐殺者集団に変貌する一つの契機を描いたものだろう。

「男を電柱に吊り下げる」というイメージはまた、人間の罪を引き受け赦しを与えるイエスのイメージに近い。赦しを求めるというのが、この小説のテーマである。しかし、イエスのイメージを出したからと言って、これほどの虐殺、残虐の膨大さがもたらす恨みと怒りを都合よく昇華できるわけではない。それは決してできない、それだけは黄晳暎にはよく分かっていた。

(ここでは言及しないが、この大虐殺について北朝鮮当局は博物館まで作って展示しているが、虐殺者は米軍であるとしている。この本が語ることとおおきな違いがある。)

4 罪人と神

兄ヨハネが現地に残した妻の問いかけ。
「自分の生涯を振り返ってみるとね。それでも人のためにと思い善い生き方をしようと努めたじゃない。それなのにどうしてこんなにまでお互いを憎み合うようになったのか、それが不思議でね。植民地時代の日本人でもあれほど憎んではいなかったはずよ。
私一人がここに居残り、悪事を犯した罪人のように暮らしながら……いたいけな娘二人にろくなものも食べさせることができないままなくし、残ったあの子一人を何とか育て上げながら、いつも考えましたよ。神にも罪があるのではあるまいかと……p168」

「あの生地獄のような惨劇を、上からだまって眺めていた神さまにも罪があるのではあるまいかと、ずっと思ってきたけれど p168」
「人間につきまとう苦難といえども、それはある目論見をもった神から与えられたものでしょう。」
神はあれほどの惨劇を許すべきでなかった。しかしそう言ったとて、過去を変えられるわけではない。周囲の人々からの強い憎悪のなかで、毎日なんとかその日を生きのびることだけが彼女にできることだった。二人の娘は生きのびることも出来なかった。
神にも罪があるのでは。彼女は神を恨み続ける。しかし、そうすることでも何も得られない。

「兄さんのヨハネが殺(あや)めた人たちはサタンではなく霊魂をもっている人間であったのです。兄さんのヨハネもサタンではなく信仰が捻じ曲がっていただけなんです。」
あのような惨劇を行ったのは誰か?それは神ではなく人間である。人間が我が手でもって行った殺害はその人自身のものであり神のせいにしてはいけない。ヨハネが犯した怖ろしい罪、その血痕は数十年経とうと消えずに残り続ける。事実を認めることは苦しい。しかし、避けようとしてもそれは、可能ではない。

「私、望むことなどありませんよ」何かを望むことに意味はない。「この世には人間どもが犯す罪に満ち満ちている」北朝鮮であろうと韓国であろうと統一国家であろうと「人間どもが犯す罪に満ち満ちている p169」以外の生き方は人間にはできない。

「少しずつでもそれをなくしながら生きていかなくては……」つつましやかな願い。しかしそれを捨ててはならない。しかもそれを貫くのには非常な力量が必要だ。

「お祈りを上げましょう」
「この共和国においても、主の御恵みのもと人びとが健やかにそれぞれの生を営んでいる 姿を、この目で確かめることができましたことを心より感謝いたします。(略)
過ぎにし日、故郷の地を去りし者も、残りし者も、共に経ざるえなかった苦難ゆえに互いに怨み、その苦しみを神のせいにするような冒瀆を犯さないよう助けてください。そしてお互いに赦しあえるような愛と寛容の心を授けてください。(略)アーメン」p170

兄ヨハネの凄惨な殺害行為(「私が知る限りでも、この村で手をかけた人の数は十人は超えるわ」)を特定し言及することなく、「去りし者も、残りし者も」といった形で包括的に愛と寛容を与えようとすること。わたしはそれは好ましくないと思う。
凄惨な殺害とその憎悪を再体験すること、それは耐え難いばかりでなく、倫理的に善いこととも言い難いだろう。しかしそれを少しでも忘れようと、なかったことにすることは許されない。

「怨恨ゆえにまだ虚空をさまよっているだろう多くの亡霊たちが安心して旅立つことができるように、シキム(死者を送り出す巫儀)でもしてあげないとね。スンナミおじさん、一郎おじさん、朴明善のうちのチンソン、インソン、ヨンソン、トクソン、チュンソニおじの内儀、小学校の女の先生、そしてあの倉庫のなかでもだえ死んだ多くの人たち……p173」
亡霊たちは安心して旅立つだろうか?「安心して」なんてことはありそうにない。

兄嫁は、自分のものではないない罪を実際問題、一人で背負って「打ちひしがれ」長い長いあいだ苦しんだ。彼女には何か神からの言葉が与えれても良いのではないか、と思われるが、キリスト教にそうしたものはないようで、この小説には出てこない。

(この本には書いてないが、黄晳暎はかの金日成と何度も親しく対話したことがある少数の韓国人の一人である。どこから見ても罪の塊である金日成と会食するなど犯罪であろう、そうした意見には一理どころではない重みがある。多くの強制収容所を経営し、収容者に死に瀕した生を強いている金正恩は断罪されるべきだ。しかし、彼をサタンであると信じ、なんとしてもその死を願うことが正しいのか?正しくはない。金日成も金正恩もサタンではなく信仰が捻じ曲がっていただけにすぎない。敵対し粉砕を叫ぶことは政治的行為としてありうるが、その有効性は状況に於いて問われる。つまり絶対的なものではない。)

5 赦すこと

1950年10月19日、中国人民志願軍参戦、12月6日には平壌奪還。人民軍はどんどん南下してきて、信川のあたりもすでに敵(共産党)の勢力下になり、ヨハネは逃げるため久しぶりに家に戻る。
「私(妻)は全身汗まみれで、顔からは汗が滴り落ちていた。
「子どもが生まれるわ」「なんで選りによってこんなときに」(略)
夫は周りを見廻すと、乱暴に箪笥を開けた。服がこぼれるようにあふれでた。その衣類の中から肌着を一枚取り出して彼は子どもを取り上げた。赤ん坊の泣き声と彼の歓声が聞こえた。 p182」
しかし、すぐ近くで銃声がし、彼はそそくさと立ち去る。夫はずっと遠くに去っていってしまった。

数十年後、ヨセフは兄嫁を尋ね、このときの肌着を託される。
「寒井里に行ってその骨を埋めるときに、これを燃やしてから一緒に埋めてちょうだい。 p179」

「彼は雑草が生え茂った場所を避け、乾いた土が露(あらわ)になっている所を選んで蹲った。手でそこの土を掻き集め、ほんのりと芳しい匂いを嗅いでみる。」
そこに古枝を集めて火をつけ、兄の肌着を燃やす。
「兄は故郷の地に戻ったのである。p282」
遺体に火をつけ燃やし、故郷に埋葬すること。それはかなわなかったにせよ、彼が一生抱き続けた深い深い罪を追体験し祈ることで、ヨハネは故郷の地に戻る。

「ヨセフは壁伝いに長く列になって立っている亡霊たちを見廻した。およそ十人くらいいるように見えた。
(略)
おれたちはヨハネを連れて行く前に、彼が殺めた人らを解き放してやろうと思って集まったのだ。人は死ねば、犯した罪はみな消えるというが、あったことの真相をありのままに明かしておかなければならないのだ。p215」

ひとはともすれば謝罪や赦しをめぐって大騒ぎしてしまうが、「あったことの真相をありのままに明かしておくこと」を十分に確認せずにそうしたことをしても結局無意味である。(いつまで経っても解決しない「従軍慰安婦問題」をめぐる日本側の態度をみてもそのことは明らかだ。)
「あったことの真相をありのままに明かしておくこと」をまず求めなければならない。

「殺した奴も殺された奴も、この世を去れば、みーんな一つのところに集まることになっているんだよ。(略)
やっとのこと故郷に帰って来てなー、昔の友だちにも会い、恨みも怒りも解けてしもうた。 p278」

こう言っているのはヨハネ(亡霊ではあるが)である。ヨハネの殺人者としての所業を知ったわれわれは、こうした言葉だけではなかなか納得しずらい。加害者がそう言ったからと言って、被害者は恨みも怒りも忘れないのではないか。

しかし、この小説では、被害者であるスンナムおじさんや一郎(イルラン)も亡霊としてそこに居る。
「さあ、さあー。もうこれでいい。早よう立たにゃ。 一郎も同意した。 そうだ。みんな一緒に立とう。」
40年亡霊として彷徨った後、加害者ヨハネが亡霊として故郷に帰ってきた。それによってやっと立ち去ることができる。恨みも怒りも解けたというのが本当かどうかは分からない。しかし彼らは実際には既に死んでいるのだから、「去るべき者らは去り、生き残った者らは新しく出発しないと。p279」ということはできる。

最終章は 十二「締めの歌  心おきなく去られ給え」となっている。

「山奥のそのまた奥の  訪れる人もなく  焼畑のイモを食に  飢えをしのぐ貧しい山村  そなたが生まれたのは  そんな所だったp285」

村に流れ着いた一郎という名の作男(子どもにさえバカにされていた)の生涯を歌う。
「ある日突然  世が変わり  上の者が下となり  下の者が上になったとき  生まれて初めて  幸せがわかったのだ  /三食飯にありつき  フトンで寝る」

マルクスやアレントが低い評価しかしないところのルンペンプロレタリアートである。

「(略)  人として生まれた幸せが分かった  しかしそれも束の間  自由も権利も  一場の夢と化し  命まで奪われてしまったのだ」
「恨みはあろう悲しくもあろう  しかし今はもう  怨みも悲しみもすべて忘れ  安らかに心おきなく  あの世の方へ  去られ給え、旅立ち給え」

「怨みも悲しみもすべて忘れ」というこの作品のテーマについて、私は納得できない。この作品は「客人巫〓(ソンニムクッ)」という伝統的な巫俗儀礼の形式にのっとって構成されている。韓国はシャーマニズムの伝統がある。ムーダン、マンシンとよばれる降神巫。彼らは人びとから依頼を受けて、死者をあの世に送る儀礼を行う。これがクッとよばれる。厄払いである。現世に対して大きな怨みをいだいて死んでいく者が、その怨みによって現世に災厄をもたらしたりしないように、安らかに心おきなく去れるよう慰める。死者とその怨念、彼に向けられた怨念その両方を彼方に送るための儀式。その様式を借りてこの小説は書かれている。
「怨みも悲しみもすべて忘れ」は黄晳暎の意志ではなく、クッを必要とした民衆の意志でもあるわけだ。

6 怨みも悲しみもすべて忘れ

この小説のなかでは、40年前に死んだ死者たちと先日死んだ死者がともに亡霊となり、生き残った人々と対話する。死者たちに語らせる。それは40年間彼らの声が抑圧されなかったものとされてきたからだ。
殺害された者はもはやいないので発言できない。殺害したものも逃げてしまい故郷との繋がりが失われる。また殺害したものは真実を語るのは自分にとってつらすぎるとして抑圧してしまう。
しかし実は小説家はどのような人のどのような行為であろうと小説に書くことができる。40年前の世界も現在の世界も。しかし黄晳暎はそのどちらも選ばず、現在に浸透してくる過去を描いた。
40年前を描いた小説であってもそれが読まれるとしたら、現在にしか生きていない読者がそれを求めるからだ。ふと思い出される過去の記憶といったものは現在の少なくない部分を占めている。40年前の過去であっても、トラウマと呼ばれる抑圧された記憶はふとしたきっかけで鮮明に思い出されることがある。40年前の事件のドキュメンタリが求められているのではない。事件のドキュメンタリの意味が求められているのだ。殺す者と殺される者の距離、40年間という距離、国家と民衆の距離、そのような隔たりを超えるために、亡霊による語りというスタイルを黄晳暎は採用した。
最も抑圧しようとしたものは何十年経っても残る。小説家としてそれを書こうと思ったのは当然だろう。

「この作品に描かれた惨劇は民族内部で演じられたものであるだけに、北側の公式的な主張を立場とする人たちからも、また惨劇のあと北の地を離れ南に移ったクリスチャンを中心とする人たちからも、否定され指弾されるということはありうるだろう。(p291)」
そうした自己保身的あるいは政治的配慮よりも、作品を完成させることだけを目的に黄晳暎は書こうとした。半亡命→帰国・入獄から1998年出獄、その5年後にやっと書き上げることができた。

「キリスト教とマルクス主義は、この民族が植民地時代と分断の時代を経てくる間に、自律的な近代の達成に失敗し、他律的なものとして受け入れた、近代化への二つの異なった途であったということができよう。」
最近翻訳がでた自伝『囚人』に詳しいが、1985年から1993年まで黄晳暎はドイツや米国などに滞在し、途中何度か北朝鮮も訪問した。1980年代の西欧から見た場合40年前の北朝鮮のキリスト教とマルクス主義はほとんど双生児のように似ていると見えたことだろう。
「キリスト教とマルクス主義は考えてみれば一つの根から生えた二つの枝であったのだ。」明治期のキリスト教と大正期以後のマルクス主義が、伝統社会・思想に挑戦する欧米由来の思想の二つの代表であったことは、日本でも同じである。しかし日本では、明治以来国家によって整備された大学の教師と学生によって主に受容された。大衆によるダイレクトな受容の弱さという問題を(現在まで)引きずっている。
朝鮮では、日韓併合以後の植民地主義的抑圧に(心理的に)抗する思想としてキリスト教は朝鮮社会に根付いていた面がある。(特に黄海道では)1945年以降、ソ連占領軍による半ば強制として、主に下層階級にマルクス主義が急激に広まる。思想というより最初から、住民支配の道具としての思想だった。先に近代思想に目覚めていたキリスト教徒はまず反発を感じただろう。

AがBを撲殺する。その意味ははっきりしている。ごまかしようがない。しかしキリスト教とマルクス主義が関与すると少し違う。同じ殺害でも神のため、あるいは党のためであれば許される場合もあるのだ。この小説ではもっぱらキリスト教徒が扱われる。彼らが天国に通じる道と信じて殺害を行ったがその道はわずか数ヶ月で消えた。彼らは故郷から逃げざるを得なかった。神のためという言い訳が通用しなくなり、殺害という苦い記憶を抱えてAは40年生き続ける。しかし黄晳暎は悔恨や反省を一切書こうとしない。

AがBを撲殺した。Aはそのことを忘れない。不快なもやもやとして、強い苦さとしてそれはときどきやってくる。それを悔恨や反省としてすこし意味を変え昇華していくことが、人間の文化だろう。それを最も洗練させたものがキリスト教とマルクス主義(そして近代文学)だろう。反省、神への帰依によって救われること、それは「神の名によって殺すこと」とそれほど大きく違うだろうか?黄晳暎はそこまで書いていない。しかし、彼が悔恨や反省を書こうとしないとはそういう意味でもありうるだろう。

BはAに撲殺された。Aのようなそれ以後の40年はBには存在しない。亡霊として漂い続けただけだ。BはAを激しく怨んでいるはずだろう。しかし厳密に考えるならばその怨みも、生きているB以外の人がなければならないと強く考えているだけなのではないか。Bはただ死んでしまい何を考えているのか分からない。

「強い風が吹きまくっている。」
「一群の人びとが上半身を屈め、同じ方向に進んでいる。何か重たいものを引く網でも肩にかけているような姿勢なのだ。前進している人の長い列は前の方も、後ろの方も終わりが見えない。曲がりくねった道は野原を横切り、遥か彼方に見える大きな山並みに接しているが、人びとは一切無言である。屈められた彼らの背中が見えるだけである。」283

彼らはただ歩いているだけなのか。彼らのうち少なくない人は、自らその手に凶器を担い他者の肉体にそれを振り下ろした。見えはしないが、人びとはその罪とともに歩き続けるのか?

一方「自分はそこに現れた一幅の画面の上を、鳥のように飛翔していた。」
鳥のようなのはおそらくヨセフではなく、作家黄晳暎であろう。殺された者も殺した者も、決してエリートでもインテリでもなかった。広大な歴史の原野をただ歩き続けるしかない庶民である。しかし作家はそうではない。そう望まなくとも作家はすべてを見通し設計しうる。語られる限りでは歴史すら、改変し各自の感情、倫理的色合いすら左右できる。読者も巻き込んで。

殺害者にもっと真摯な反省を求めるという感情を私は持ってしまう。大きな虐殺事件を悼むためには、それを隠蔽しようと(偽の物語で覆おうと)するたくらみをまずはがさなければならない、と思う。誰が加害者であり、どのように犯行はなされたか、を書き留めなければならない。
ただし、反省と謝罪を求めることは一方の側に加担することになり、性急な態度と結びつきがちだ。そうではなく、真実のためには、黄晳暎がここでやったように、かざぶたを一枚づつ剥がしていくような、繊細なていねいな手続きが必要なのだ。

「遠くの方から牛の鳴き声と、首につけられた鈴の音が聞こえてくる。めんどりが卵を産み落として出す姦しい啼き声も聞こえてきた。田園がひろがる野原では、人びとが田植えの歌を歌っており、それにまじって、鉦(ケンガリ)や長鼓(チャング)を叩く農楽(ノンアク)の音も聞こえてくる。」
数多くの殺害を飲み込んでなお、庶民(常民)の世界は延々と続いていく。無理やりであろうと「怨みも悲しみもすべて忘れ」という言葉とともに、作家は彼らに別れを告げる。

(2010.2.5〜2014.7.26)

一国二制度から天下主義へ

 許紀霖という人の『普遍的価値を求める』という本が非常に興味深かった。
 かってわれわれは、キリスト教(神を中心とした外在的超越性)や儒教(内面と天理が合一する内在的超越性)あるいは他の宗教が与える究極的な価値とともに、生きることができた。(p164)しかし今や、先進国は自由、自由主義の下に生きている。自由、平等、公正といった個人の自己選択を保証する制度的条件が整えられ、人はすべてを決定する理性を持って生きていくことになった。自由主義は、社会の不正義によって生み出された苦難に対しては有効な救済の方策を持つのだが、日常生活や存在意義に関わる苦難や死に対しては、基本的には白紙の答案しか出せない。
 自由主義は価値の多元性を認める。自由・平等・公正という正しさは強調されるが、精神的秩序の「よさ」や「善」の問題については、答えない。絶対的な善と悪の間で選択を行うには、道徳的理性というよりも、信仰(あるいは内在的良知)に由来する意志や決断の方を必要とする。キリスト教や儒教など、「枢軸文明」と著者は言うのだが、その豊かな「善」の資源を再吸収していくことが必要だ。
 人が人として生きていくことの困難、日本ではそれはかって想像されなかったさまざまな形で現れているが、自由主義によって救いえないものだ。「枢軸文明」からより多くのものを汲み取る必要はあるだろう。

 さて、すべてのものから独立した〈近代的主体〉の自由な権能といったもの、それを至上化したものが〈近代的国家の主権〉であるかもしれない。近代的主体を前提にする哲学はポスト構造主義によって批判されたが、政治的領域においては近代国家の至上性(主権)は疑われないままだ。それどころか、一部の学者の世界ではなぜか今頃「シュミット主義の亡霊」がもてはやされる。SNSなど最新のメディアでは排外主義的言説がポピュリズム的に繁茂する。
 いま私たちは、苦しくとも、西欧と東アジアを古代から深く掘りなおし読み直すことなしに、再出発できないのではないか。

 この本は難解な面も多いが、誰でも分かるようなモチーフが二つある。
 いま世界中の人が認識するしかないことは、中国の巨大化である。世界の覇権国家である米国と対等な国力をつけつつある。
 そこで思い出すことができるのは、清朝に至る過去の大帝国である。帝国は、強大な権力を範囲内の人民に直接押し付けるといった形態を取るものではない。「漢民族が住む地域は中心にある十八省で、清朝は歴代の儒家の礼楽制度を継承し、中華文明によって中華を統治した。それに対して、満州族、モンゴル族、チベット族が住む辺境地域では、ラマ教を共通の精神的な絆とし、統治方法はより多元的で、弾力的で、柔軟であり、歴史的な持続性を維持した。」(p69)
 それに対して現在の中国は、自分たちの統治意識への同化をチベット、ウイグルに押し付け、彼らの宗教を破壊しようとし、全面的な反発を力で抑え込もうとしている。ウイグルには百万人もの収容施設があると、西側諸国にも知られ糾弾されそうになっている。なぜ清朝のようにうまくやれなかったのか?

 もう一つは、韓国、ベトナム、日本などとの関係である。
 「伝統的な中華帝国には万国来朝の盛況があった。重要なことは、それは周辺国家が帝国の武力制服を恐れたからではなく、先進的な文明と制度に引きつけられたからで、そうした文明の吸引力こそが国家のソフト・パワーにほかならない。」(p76)
 これができなくなったのは、中国が限定された領土、領民に対する独占的排他的支配を自らうたう近代国家としてアイデンティフィしているからだ。近代国家であるには、中国は大きく成りすぎた。大きくなりすぎた米国が、人権の普遍性を振りかざす姿勢を持ち続けることしかできないように、中国もなんらかの「普遍性」を強く打ち出すしかないだろう。

 許紀霖が依拠しようとするのは、儒家、道家、仏教など古代からの中国の伝統である。キリスト教、ギリシャ思想などと合わせて、ヤスパースに習い「枢軸文明」と著者は言うのだが、その豊かな「善」の資源を再吸収していくことが必要だとする。
儒教は、一人称の小我を越えて、天下、人類の大我を目指していた。ひとつの地域に限定されることを自ら欲する近代国家と違い、「天下は天下のひとびとのための天下である」(p60)中国人は常に「天下」において考えていた。そして、天下の価値は普遍的でありヒューマニズムだ、と言いうる。

 中国は近代国家であり、少数民族であろうとその一人ひとりはそれぞれ国民として完全に平等に尊重されることになっている。しかしその現実は求心的すぎる国民国家の基準をマイノリティに押し付け、民族文化を破壊するかに至っている。
 「伝統的な帝国の多元的な宗教と統治の制度を参考にして、儒家を漢民族の文化アイデンティティに記号とし、また同時に、少数民族の宗教、言語、文化の独自性を保護して、少数のエスニックグループとしてのかれらの権利を認め、制度的な保証を与えるという考えもある。それによれば、「一国二制度」は、香港、マカオ、台湾において運用される国策であるだけでなく、辺境の自治区に対しても拡大すべき統治方針であるということになる。」(p74)
(2020年8月にこの日本語訳は日本で出版されたが、丁度そのころ香港における「一国二制度」の持続を求める運動は、完全に潰されたようだ。しかし、許紀霖は百年単位で思考しているわけだから、何らかの逆転はありうるかもしれない。)

 また、大きな国際問題になっているのは、東シナ海、南シナ海のたくさんの島嶼についてである。それぞれの島に対して、それがどの国家の領域であるかを厳密に確定すべきだという思想は東アジアにはなかった。島は共同で使用されるものだったのだ。海に近代の主権という境界を存在させるべきでないだろう。(p80)鄧小平「擱置争議、共同開発」は古代の天下主義の智慧を発揮したものだった、と考えうる。日本の田中、大平もそれを了承した。それを覆したのは、(おそらく米国の意志を受けた)一部の日本の外務官僚である。

 とにかく、中国が自らを近代国家としてアイデンティファイするのは、愚かなことだと許紀霖は言っている。
 「これは中国の内政で、外国人がとやかく言うのは許さない」「これは中国の核心的利益であり、他国の干渉を許すことはできない」(p76)といった言説は、たとえ国際法上は正しくとも周辺国の反発しか産まない。そうではなく、友好こそが相互の利益を産むと、それを中国は一貫して追求してきたことを思い出すべきだ。

 近代国家主義の原則を相互に大幅に緩めた例として、数百年の憎悪と流血の果に手に入れたEUの体験を参考にすべきだろう。

 2001年9月のいわゆるイスラム原理主義によるテロ事件に対して、面子を失った米国はアフガン・イラク戦争を開始したが、結局中東地域に平和と安定をもたらすことに完全に失敗した。人権を大事にするはずの先進国も、シリアやイスラエルによる国民に対する広範な人権侵害を見逃さざるをえない状況になっている。「西洋と異なる中国的な近代化モデルが台頭し、右翼ナショナリズム及びポピュリズムの嵐が世界的規模で吹き荒れました。pⅳ」
 つまり、「今日の世界は普遍性を失った時代になっている。」このような時代に、何を基準にものごとを考えていけばよいのか、許紀霖は冷静に問い尋ね続ける。

(備考)
許紀霖氏は、1957年上海生まれ。20世紀中国思想史研究。
『普遍的価値を求める  中国現代思想の新潮流』
許紀霖:著, 中島隆博:監訳, 王前:監訳, 及川淳子:訳, 徐行:訳, 藤井嘉章:訳
叢書・ウニベルシタス 1121 2020年翻訳刊。
https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-01121-4.html
参考:中国の「新天下主義」について−許紀霖『普遍的価値を求める』を読む 子安宣邦
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/84281039.html

権力闘争と儒教思想

連続TVドラマ『開封府 北宋を包む青い天』を見て

なかなかおもしろい。全58話もあるが毎日楽しんで見ることができた。(うちのケーブルテレビでは無料だった。)

死刑は何のためにあるか?それは人々いや正確には、官僚たちに皇帝を畏怖させるためにある。
このドラマは帝国権力の原点が、どのようなダイナミズムにおいて存在するかを分かりやすく描いている。
武官でありながら強い野望を持つ張徳林と文官を束ねる王延齢が二大勢力である。具体的権力は彼らが持っており、宮中も彼らに逆らうことはできない。逆らえば炎上させられてしまう危険がある。また時として彼らは対立し内戦状態にならんとする時もあった。しかし、二人は嫌々ながら協力して自己権力を保っている。それは名目的な第一権力宮中がただの名目に留まらない存在感を常に要求してくるので、対立している余裕がなくなるのだ。

中盤の最も長いお話(陳世美が中心になる)を取り上げて書いてみる。(ネタバレ)
かつて均州から共に上京した5人のうち、3人が殺された。残るは駙馬(皇族の夫)の陳世美と行方知れずの韓琦のみ。
秦香蓮は三年前科挙を受験しに上京して以降行方不明になった夫岑旺祖(陳世美)を探している。探し続けた夫を眼の前にして、包拯に問いただされた秦香蓮は数年間求め続けた真実が眼の前に居るのに、それを否定してしまう。夫の皇族としての官僚としての立場を守るために。権力の配置によって、真実(言説)がくるっとひっくり返る見事な例である。

秦香蓮はどんなことがあとうとも夫を信じ抜こうとする。対幻想の極限とも言える。ひとつの思想を解体することは、似たような体験から学ぶプロセスを経ることで達成しうる、というのがこの長いドラマが教えることだ。
本来秦香蓮母子を殺せと命じられた殺人者韓琦は、隠れ家で秦香蓮母子と暮らすうちに情が移ってしまい、瀕死になりながら、彼らを逃がそうとする。その韓琦を殺したのは陳世美だった。
ここで秦香蓮は、はじめて真実を口にすることができるようになる。それにより陳世美の有罪は確定する。
ところが千年前の中国ではそれは終わりではない。皇帝は張徳林・王延齢配下の腐れ官僚と対抗するための役割を、陳世美に割り振っていた。ここで陳世美を失うことは張徳林・王延齢に対しての敗北を意味する。皇帝の命令で陳世美は釈放される。
しかしその後、ある出来事により再審の機会が訪れる。張徳林・王延齢が二人揃って、陳世美の救命を乞うのを聞いて、皇帝は気を変える。彼は自ら審理の場(開封府)に出向き、義理の妹の夫とした陳世美を有罪とする。官僚として頂点を極めたものであろうと、正義に反すれば死罪に処す。これこそが皇帝権の栄光を宣言することだ。張徳林・王延齢に対して自己権力を主張し確保することだからだ。このような死刑肯定論は興味深い。

権力中枢に皇帝より強い者が居るとき、皇帝はただその強者のための飾り物になる。しかしそれでも権力者(この場合張徳林・王延齢)が影響力を及ぼせない領域もある。公正を貫くという原則を曲げない包拯が支配する司法の府(開封府)がそれだ。そこに乗り込み、直接裁くことはできる。名目上絶対君主でありながら、実際に権力行使できる機会はわずかである。で実際に権力をふるえる機会があれば、自分にすこしくらいダメージがあっても振るう方がよい。そうでないと、権力者の言うがままのお飾りに留まることになる。

ホームズばりの名裁判官物語を期待すると、それは裏切られる。包拯がそのような名推理を披露する場面はない。推理によって犯人を視聴者に対して明らかにしたとしても、その犯人が権力者(張徳林・王延齢)の関係者あるいは宮中の関係者である場合は、実際の解決にはつながらない。
事件はたいてい次のような経過をたどる。犯罪者たちは真実の隠蔽のために、証人を殺したり、さらに悪行を重ね、それは反発、波紋を広げる。それをすこし遅れて突いていくことで悪行は公的なものになる。つまり皇帝の前で明らかになることになる。

常に遅れてではあっても、公正が辛うじて実現していくのは、権力者(張徳林・王延齢)が弁解ができなくなると、包拯の「不正を憎むという論理」に、同意していくからである。皇帝はもちろん公正な裁きを自己の権力のために必要とする。王権は権力から遠い無数の民たちのために行使されなければならないという、儒教思想が共有されている。張徳林はやり手の息子(次男)という後継者を持ち、宋王朝(劉氏)の簒奪に成功する可能性はあったようにドラマでは描かれる。ただし「簒奪」とは、張氏がただ強引な権力者であるだけでなく、常に公正な支配者であり続ける(フリをする)数十年を経てのものだ、ということも張父子は強烈に意識している。

支配のための技術としての儒教思想というものを、この長いドラマでリアルに理解することができる。

本来の儒教思想を包拯とともに代表するのは、歴史にも名が残っている范仲淹(はんちゅうえん)である。
このドラマは、最終回であまりにもドラマティックに盛り上がった末、ハッピーエンドで終わる。つまり、包拯と范仲淹は勝利し、皇帝の下で科挙改革などに取り組んでいくことになる。しかしほとんどの官僚は必然的に腐敗するという法則があるかのように数年後、范仲淹はまた都を追われることになる。とってつけたようなアンハッピーエンドである。ただ中国二千年の官僚制の歴史(現在も続く)の中にいる中国民衆は、ハッピーエンドではどうも落ち着きが悪いのかもしれない。

蛇足:このドラマは武侠アクションという面もある。それを支える展昭(てんしょう別名南侠)、廬方(ろほう)、錦毛鼠は清代の小説『三侠五義』に包拯とともに登場する人物。大学者兪樾(ゆえつ)も愛した。 

大西つねき氏は生命選別論でもない

大西つねき氏の「生命選別しないと駄目だと思いますよ」という発言が取り上げられ、かなり強く批判されている。
批判対象になった、大西発言文字起こし

しかし、彼の本意は「とにかく長生き、死なせちゃいけない」という思想・制度が正しいのか、幸せを生んでいるのか?、というところにあっのだと思う。

例えば、twitterでは、thisgamewas さんという方が、
“高齢者をとにかく死なせちゃいけない、長生きさせなきゃいけないって言う政策を取っていると”、という一文を引用して次のように続けている。(この文章は実際非常に重要である。)

「大事なのはここでしょ。
実際にいまの日本でお年寄りが倒れて病院まで運ばれたら自然死は選べないよ。
医師の判断で管を外す事はできない。

自分の身内を含めて、たくさんのそういう高齢者を俺は見たよ」https://twitter.com/thisgamewas/status/1281436982749454336

「いのち」というものが、殺してはいけない聖なるものとされることによりタブー化され、ほとんどの自由意志と身体の自由を奪われるままに、病院のベッドに横たわり続けることが「健康上の正義」だとされる。そのような制度を日本全体で作っていることに対して、根本的に考え直すべきだ、と大西は言っているのではないか。

むりやり多くの「管」をつないで、多量の薬を入れて、むりやり生きさせられる(スパゲティー状態)。その数ヶ月。
回復すればよいが、そのまま死んだ場合、その数ヶ月の「生」とは何なのか?病院でむりやり生きさせるのは、かならずしも正しくない。そう考える人は多いはずだ。
しかし、ではどうすればいいのか。人はどのように死を迎えるべきなのか? 難しいがもう少し考えてみよう。

生きること/死なせること、の二項の間に 危険をおかす/安全のために閉じ込める(介護者の意見を聞く) というもう一つの 選択を考えことができる。
介護者(医療者)の健康のためにあるいは安全のためにという言説により、当事者の自由・行動が抑圧される。これが〈健康による抑圧〉である。

現代社会は膨大な病院群をかかえている。人々を病気であると名指し入院状態から離脱させない効果を持つ言説の方が、病院の経営のために有利であればその方がもてはやされるということが起こりうる。これがはっきり観察できるのが、精神病院についてである。諸外国では入院はどんどん減っているのに対して(イタリアでは40年前に原則ゼロにした)日本でだけ入院者数が減らない。その最大の要因は、入院者が多い方が私立病院の経営が安定するからだ、と言われている。患者の健康という口実の下に、患者の自由が奪われているわけである。

超高齢化社会においては、自分の身体の(あるいは親しい人の)不具合、病気、死といった時間とどうつきあっていくのかという問いに、私たちは向き合わざるをえない。具合が悪くなれば入院し1,2週間で退院していくといったサイクルはもはや期待できないのだ。いわば「with病気」であるところの生を、生きざるをえない。このような時代になってしまったからには、生きることの主導権を医療者の側から奪還し、痛みと危険と共に生きる権利を、そのための勇気を獲得していくことであるだろう。そういう答えが正しいのかどうかは分からない。ただそうした困難な問いに一人一人が向き合う覚悟は必要になる。

死をタブー化し、ひたすら遠ざけようとするのはもう止めよう。
「願わくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ」という西行の有名な短歌がある。「出家遁世」(しゅっけとんせい)というものが当たり前だった時代の感覚は我々には分からない。しかし世俗の価値観をいったんまったく捨て、美を希求するというただその一心において生き、その情景のなかで死を迎える。20世紀は金銭と欲望と消費というモデル、つまり明らかに若者向けの時代だった。21世紀の超高齢化社会は、それとはまったく違ったモデル、年寄りがどう生きるのが美しいのかのモデルが必要なのだが、まだ形成されていないようだ。

今日は体調が悪いと思っても、愛犬のために散歩に行く、とかもささいなことではあるが、そうした一例になりうるだろう。その犬を愛するという具体的な関係、具体的な行為、具体的な危機を生きることを終わりまで辿らないと、死はやってこない。死を自分のものにするためには、大きな愛が必要なのだ。単純にボケていくといった生き方もある。その場合も自己を肯定し気弱にならないためには、やはりそこまで積み重ねてきた自信が必要ではないかとも思う。

わたしたちの社会は、金銭や仕事についてだけ価値を認める社会である。それは言い換えれば、金を持っていない失業者は自由になれ!すなわち死に至る自由を行使せよ!といった圧力が普段に働いくということだ。それが実際に実行され貧しい高齢者が「殺されて」いく危険性は高い。今回、大西氏の「生命選別しないと駄目だと思いますよ」「社会的選択を していくしかない」という発言は、広くヒステリックな批判を招いた。それは、そのように「高齢者」「障害者」を「殺していく」イデオロギーとほぼ同じものがそこにあると、解釈されたからだろう。
それはもっともなことだし、したがって、「生命選別しないと駄目だと思いますよ」「社会的選択を していくしかない」という言葉自体は謝罪し撤回すべきだろう(たぶんしているようだ)。
だが、大西つねきの投げかけた問題、1,2で書いた問題はそれとは別に、大きな問題として残っている。

ところで、「大西つねき氏の動画内での発言は、れいわ新選組の立党の精神と反するもので看過することはできない。」

7月7日付け
で、れいわ新選組は言っています。

しかし、大西発言の一部「生命選別しないと駄目だと思いますよ」「社会的選択を していくしかない」などには、上記3で検討したように大きな問題点があると思う。
したがってそれに対して組織的対応がなされるのはおかしくないのだろう。
しかし、私が強調したいのは、「命の尊重」を表向きは掲げる現在の医療の全体がかなりおかしな歪みをもった現状になっているということを、まず認識すべきだということです。しかしこれは難しい問題であり、各人によっても認識は異なるものでしょう。そしてそれに対してどうしていくべきかについても、すぐには一致できないだろう。であるとしても、これが問題になった以上、各自がより深くこの問題について考え議論していくことは必要になるだろうと思う。
また、普遍的な問題についての理解において相違がある各自がなお、現状において具体的問題_回答において一致しうるという形で、政治的に共闘していくということは可能であると思う。れいわにはそれを追求していってほしい。