権力闘争と儒教思想

連続TVドラマ『開封府 北宋を包む青い天』を見て

なかなかおもしろい。全58話もあるが毎日楽しんで見ることができた。(うちのケーブルテレビでは無料だった。)

死刑は何のためにあるか?それは人々いや正確には、官僚たちに皇帝を畏怖させるためにある。
このドラマは帝国権力の原点が、どのようなダイナミズムにおいて存在するかを分かりやすく描いている。
武官でありながら強い野望を持つ張徳林と文官を束ねる王延齢が二大勢力である。具体的権力は彼らが持っており、宮中も彼らに逆らうことはできない。逆らえば炎上させられてしまう危険がある。また時として彼らは対立し内戦状態にならんとする時もあった。しかし、二人は嫌々ながら協力して自己権力を保っている。それは名目的な第一権力宮中がただの名目に留まらない存在感を常に要求してくるので、対立している余裕がなくなるのだ。

中盤の最も長いお話(陳世美が中心になる)を取り上げて書いてみる。(ネタバレ)
かつて均州から共に上京した5人のうち、3人が殺された。残るは駙馬(皇族の夫)の陳世美と行方知れずの韓琦のみ。
秦香蓮は三年前科挙を受験しに上京して以降行方不明になった夫岑旺祖を探している。探し続けた夫を眼の前にして、包拯に問いただされた秦香蓮は数年間求め続けた真実が眼の前に居るのに、それを否定してしまう。夫の皇族としての官僚としての立場を守るために。権力の配置によって、真実(言説)がくるっとひっくり返る見事な例である。

秦香蓮はどんなことがあとうとも夫を信じ抜こうとする。対幻想の極限とも言える。ひとつの思想を解体は、似たような体験から学ぶプロセスを経ることで達成しうる、というのがこの長いドラマが教えることだ。
本来秦香蓮母子を殺せと命じられた殺人者韓琦は、隠れ家で秦香蓮母子と暮らすうちに情が移ってしまい、瀕死になりながら、彼らを逃がそうとする。その韓琦を殺したのは陳世美(本名岑旺祖)だった。
ここで秦香蓮は、はじめて真実を口にすることができるようになる。それにより陳世美の有罪は確定する。
ところが千年前の中国ではそれは終わりではない。皇帝は張徳林・王延齢配下の腐れ官僚と対抗するための役割を、陳世美に割り振っていた。ここで陳世美を失うことは張徳林・王延齢に対しての敗北を意味する。皇帝の命令で陳世美は釈放される。
しかしその後、ある出来事により再審の機会が訪れる。張徳林・王延齢が二人揃って、陳世美の救命を乞うのを聞いて、皇帝は気を変える。彼は自ら審理の場(開封府)に出向き、義理の妹の夫とした陳世美を有罪とする。官僚として頂点を極めたものであろうと、正義に反すれば死罪に処す。これこそが皇帝権の栄光を宣言することだ。張徳林・王延齢に対して自己権力を主張し確保することだからだ。このような死刑肯定論は興味深い。

権力中枢に皇帝より強い者が居るとき、皇帝はただその強者のための飾り物になる。しかしそれでも権力者(この場合張徳林・王延齢)が影響力を及ぼせない領域もある。公正を貫くという原則を曲げない包拯が支配する司法の府(開封府)がそれだ。そこに乗り込み、直接裁くことはできる。名目上絶対君主でありながら、実際に権力行使できる機会はわずかである。で実際に権力をふるえる機会があれば、自分にすこしくらいダメージがあっても振るう方がよい。そうでないと、権力者の言うがままのお飾りに留まることになる。

ホームズばりの名裁判官物語を期待すると、それは裏切られる。包拯がそのような名推理を披露する場面はない。推理によって犯人を視聴者に対して明らかにしたとしても、その犯人が権力者(張徳林・王延齢)の関係者あるいは宮中の関係者である場合は、実際の解決にはつながらない。
事件はたいてい次のような経過をたどる。犯罪者たちは真実の隠蔽のために、証人を殺したり、さらに悪行を重ね、それは反発、波紋を広げる。それをすこし遅れてついていくことで悪行は公的なものになる。つまり皇帝の前で明らかになることになる。

常に遅れてではあっても、公正が辛うじて実現していくのは、権力者(張徳林・王延齢)が弁解ができなくなると、包拯の不正を憎むという論理に、同意していくからである。皇帝はもちろん公正な裁きを自己の権力のために必要とする。王権は権力から遠い無数の民たちのために行使されなければならないという、儒教思想が共有されている。張徳林はやり手の息子(次男)という後継者を持ち、宋王朝(劉氏)の簒奪に成功する可能性はあったようにドラマでは描かれる。ただし「簒奪」とは、張氏がただ強引な権力者であるだけでなく、常に公正な支配者であり続ける(フリをする)数十年を経てのものだ、ということも張父子は強烈に意識している。

支配のための技術としての儒教思想というものを、この長いドラマでリアルに理解することができる。

本来の儒教思想を包拯とともに代表するのは、歴史にも名が残っている范仲淹(はんちゅうえん)である。
このドラマは、最終回であまりにもドラマティックに盛り上がった末、ハッピーエンドで終わる。つまり、包拯と范仲淹は勝利し、皇帝の下で科挙改革などに取り組んでいくことになる。しかしほとんどの官僚は必然的に腐敗するという法則があるかのように数年後、范仲淹はまた都を追われることになる。とってつけたようなアンハッピーエンドである。ただ中国二千年の官僚制の歴史(現在も続く)の中にいる中国民衆は、ハッピーエンドではどうも落ち着きが悪いのかもしれない。

蛇足:このドラマは武侠アクションという面もある。それを支える展昭(てんしょう別名南侠)、廬方(ろほう)、錦毛鼠は清代の小説『三侠五義』に包拯とともに登場する人物。大学者兪樾(ゆえつ)も愛した。