4/6の朝日新聞では「つくる会」教科書を特集している。
(扶桑社の歴史・公民の教科書)両分野を貫く形で強調されたのは、公、天皇、国家に献身する精神である。
歴史では武士道の忠義の観念に光を当て、「公のために働くという理念」としてコラムを新設した。武士を「究極的には天皇に仕える立場」と位置づけ、源頼朝や足利尊氏、徳川家康らが天皇や朝廷から将軍に任命されたと強調している。
ふーむ。「つくる会」教科書というのは、水戸学派のイデオロギーによって歴史を語るものなのだ。でも待てよ、尊氏は「廃主の命を奉じて、叛臣の名を免れ、光明院を擁立して以て正閏の分を乱す」*1人物ではないですか。尊氏について天皇や朝廷から将軍に任命されたと強調しているのだとすると、大義名分論には反しますね。(水戸学とは何か分かっているわけではないのでまあちょっと書いただけですが。)
中国では歴史の任務は「善を彰(あら)わし悪を貶(おと)す」ことと考えられていた。したがって歴史を学ぶことにより、いかなる権威や権力にも屈しない勧善懲悪の倫理的立場を理解することができるわけです。尊氏であれ誰であり彼がどの点において善でありどの点において悪であるかが書かれる。事実を直書するという方法により。それを鑑(かがみ)とすることで為政者は治世に資することができる。
現代日本の右翼はまさにプチウヨであり、倫理とかいう言葉が大好きなようですが倫理という物の根本が分かっていない。天皇、国家なんてものは普遍的なものではない。倫理という限りは普遍的な善とか悪が語れなければ話しにならない。
もちろん天皇は普遍的なものだ、と主張する神懸かり的な立場も有りうる。というよりも神道は、仏教、儒教という普遍思想との絡み合いのなかで自己を形成してきたので自己を普遍として語ることしかできない。「まことの道は、何れの国までも、同じくただ一すじなり。id:noharra:20050326#p2」
ところが明治になって採用した国民国家は、諸国家のあいだの一員でしかないのであり、多少大きくなって帝国を名のろうが、中国のように自己が世界の中心であると信じることはできない。ここにおいて国家神道を軸にした国家統合は最初から根本的矛盾を孕んでいた、ということが指摘できる。
でもって現在のプチウヨは、「天皇、国家に献身する精神」などというアプリオリに普遍性を欠いた物を「公」という名前であたかも普遍であるかのように売りつけようとしてくる。
倫理を欠いた献身などただの奴隷道徳であり、わたしたちはつい60年前に実際に国民全体で実践したではないか。これが分からない奴は馬鹿だ。
*1:安積澹泊「大日本史贊藪 」p177『日本思想体系・近世史論集』