国家を訴える者は非国民か?

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050418#p5 の続き

id:noharra:20050418#p5 コメント欄より)

# hizzz 『「歴史観」と「歴史」は違います。右派「愛国史観」、左派「自虐史観」どちらも、歴史「観」=歴史の解釈とは「思想」そのもの。そして、「思想」=正義ではない。だから「国家犯罪」を問う問わないのは、政治思想以上のものではない、と言っているのです。無論、恣意的な政治思想と司法がセットになるのは、まさに軍国ファシズム=全体主義のオハコだったのではないでしょうかね。「民衆法廷」「東京裁判」という、「一方が一方を裁く」のが問題なのは、そういうことです。

構造に無自覚というのなら、大日本帝国/日本国を認めない=反国家という思想スタンスでいながら、戦前戦後を通し現日本政府に国家犯罪を認め謝罪しろというのは、カナリ大きな論理矛盾があるのですが。』 (2005/04/24 22:04)

# hizzz 『「天皇(&国家)を犯罪者と断定したい!」という思想プライオリティが幸先にあって、「マイノリティの切り札として登場したのが従軍慰安婦(20050423#p1)」で、罪を認めない相手(天皇&国家)が悪い=我々は常に公平正義というスジ以外考えないとするならば、永遠に該当女性の保証にたどりつかないですねぇ。で、それは当該者の為にすこしもなっておらず、PC側反PC側のネタとしてこうして消費され消耗するだけではないですか。そういうことはひたすら強調する「国家」という抽象的大物語に比べれば、とるに足りないものという風に見受けられるのですが。相手の無謬性を問うなら、自己の無謬性を何度も検証すべきです。>「国家」と同様に「民衆」「法廷(司法)」「マイノリティ(弱者)」という言葉にはりついた権威性』 (2005/04/24 22:39)

(野原)

a:一番のプライオリティは何ですか?「慰安婦」をどう保障すべきかという具体的提言なのではないでしょうか。

現在目の前に現れた「慰安婦」の具体的苦悩を早急に救うのが最大の獲得目標の筈だ。というのは違います。「慰安婦」はその当時死んでしまったそしてその後の長い戦後の間に死んでしまった死者たちを引きずって生きています。「今までこの世の中に生きて、幸せを感じたことは一度もないです。(金順徳)」とまで言うのは何故なのか。彼女たちは皇軍によって<辱め>を受け、その屈辱は祖国が独立した戦後も継続し続けた。もちろん戦後において抑圧したのは(家父長制的)韓国社会でしょう。しかしその原因を作ったのは皇軍です。したがって、いくら目の前に具体的苦悩があろうとも、そのことだけを要求することは彼女たちにはできない。すでに死んでしまった同僚を裏切ることになるから。彼女たちがまず、求めているのは「謝罪」です。

b:(国家は謝罪できるのか?謝罪すべきなのか?)

戦後日本は「かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」*1ことへの反省の上に成立している国家である。

謝罪が必要なら、謝罪できることは言うまでもない。

c:「東京裁判」という、「一方が一方を裁く」のが問題なのは、そういうことです。

そして東京裁判の最大の欠点はそゆ「権力」が一方的に裁いて死刑にしてしまったことです。>「やられたらやりかえせ」

日本がおこなった行為に対する戦勝国家による一方的裁判、に対しその限界を指摘し、乗り越えて行こうと考える事には賛成します。

「女性国際戦犯法廷」自体、東京裁判の枠組みを肯定した上で、被害者として取り扱われて当然だった(オランダ人「慰安婦」の場合と比べて)アジア諸国の「慰安婦」たちを取り上げたものです。さらに被告として、開催前から「天皇(裕仁)無罪」帰結を裏取引していた東京裁判、と違い、天皇(裕仁)をも取り上げた。

d:「女性戦犯法廷」が本当に求めたはずの国際法での(考えられるかぎりの公平な)ジャッジは離反しますよ。

「戦犯法廷」は証拠に基づき、権威ある裁判官が公正な判断をしたものだ。少なくとも当事者はそう主張している。そこまでは認めてもらったわけですね。

e:「天皇(&国家)を犯罪者と断定したい!」という思想プライオリティが幸先にあって、「マイノリティの切り札として登場したのが従軍慰安婦(20050423#p1)」で、罪を認めない相手(天皇&国家)が悪い=我々は常に公平正義というスジ以外考えない

にもかかわらず、実際はe のパフォーマンスになっている。とhizzzさんは認定する。

犯罪があったとすれば、罪を認めない相手が悪いのは当然です。相手がたまたま(天皇&国家)であった場合には、被害者の側が特殊な「反国家」的イデオロギーに染まりきった者 として差別されるべきだ、ということでしょうか。それがhizzzさんのお嫌いな全体主義的イデオロギーなのですが。

f:相手の無謬性を問うなら、自己の無謬性を何度も検証すべきです。

というのは一見もっともらしい意見だ。しかし、法廷で(具体的審理プロセスで)国家を訴えるものを「反国家イデオロギーの所有者」と決めつけるhizzzさんは、国家の無謬性を一貫して擁護している。(おそらく或る程度は無自覚に)

(野原)

hizzzさんは、慰安婦支持者を非国民とみなしているわけではない。そうではなく「我々は常に公平正義」に凝り固まった人たち、と見ている。そのことにより、慰安婦の具体性や多様性を抑圧している結果になっていないかと危惧している。一般的に言ってこのような危惧を抱くことが不要かというとそんなことはなく、逆にそういう問題意識は常に必要である。hizzzさんの誤りは、「正しくないことはない理屈」によって、運動側にだけ高すぎるハードルを課し、結果的に国家の無謬性を一貫して擁護しているのに、そのことに無自覚である点にある。

*1:バンドン小泉発言

根津公子さん停職1ヶ月

(朝日新聞 2,005年5月28日朝刊 武蔵野版)

「君が代」不起立、初の停職  都教委

都教育委員会は27曰、今春の入学式で「君が代」斉唱時に起立しなかったなどとされた公立学校教職員十人の懲戒処分を発令した。直前の卒業式の「不起立」で減給十分の1(6カ月)の処分を受けた多摩地区の女性の中学校教員(54)は、停職1カ月を受けた。都教委が教職員に君が代斉唱時の

起立を義務づけ03年秋以降、停職処分は初めて。(以下略)

 “日本という同一性への忠誠”を価値として立て、それに従わないものを処分することには、激しく反対したい。

あなたが存ればよい。

五倫は惟(た)だ夫婦に在り。此の夫婦は男女にして一人なり。(略)此が自然の五倫なり。(略)然るに、聖人、私の制法を以て君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の五倫を立て、推して上に立てて君臣と為し、自然の五倫を盗んで自然の直耕を貪り食う。

(安藤昌益『統道真伝』)

『ブックガイド日本の思想』p52から孫引き。

今日ではむしろ、恋愛=欲望=消費主義やマイホーム=マンション購入主義への批判を先行させなければいけないかもしれない。一方、靖国をはじめとする国家主義は君臣、父子、兄弟、朋友の関係を(わたし=たちに先立つ)倫理として定立していこうとしている。

安藤昌益について何も知らないのだが、「五倫は惟(た)だ夫婦に在り。」という思い切った断言は興味深い。

(このテーマについてわたしを支配しているイメージは、先日も書いたとおり、戦後60年戦死した恋人の腐らない屍体を小舟に乗せて彷徨っている<元ちとせ>、にあります。「靖国がいらない」とはこういうことだ。http://otd9.jbbs.livedoor.jp/908725/bbs_plain?base=95&range=1

(7)への応答(7/9追記)

#drmccoy 野原さん、ご自身が言った事「皇軍の強制が原因」が正しいというなら、「具体的にどう強制したのか」答えてください。

(野原)「具体的な強制」がなければ、強制ではない。というのは論理的に間違っています。したがって質問に答える必要を認めません。

死者を語ることの欺瞞

http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050805 哲学の劇場さんのところに、雑誌一冊についてのくわしい紹介あり。これも奈倉哲三(なぐら・てつぞう)氏の「招魂――戊辰戦争から靖国を考える」*1について詳しい。他に、小泉義之(こいずみ・よしゆき)氏の「贖罪の時」についても。

このように考えてくると、英霊を祀る欲望は、死者を亡霊化する似非宗教的な所業であるだけでなく、その人が生きていたときに為したことを真正面から擁護することを回避する卑劣極まりない所業であるということが見えてくる。(小泉義之「贖罪の時」より)

なるほど。小泉氏が言うのは死者は絶対的に死んでしまっているということのようだ。

*1:のわたしが引用しなかった箇所

4冊の本

えーっ、今日は友人宅で、

『古事記』の

天地初發之時、於高天原成神名 から

次洗右御目時所成神名月讀命次洗御鼻時所成神 名月讀命次洗御■時所成神建速須佐之男命須佐二字以音 までの部分の読書会のレジュメ提出者を友人宅でやりました。そのあとアルコールを飲んで10時ごろ自宅に帰り着きました。

駅から自宅まで自転車です。10分ほどかな、駅には図書館と大きな本屋が在るのですがこの時間はもちろんしまっています。駅から数分のところにもう一つM書店がありここは空いていました。でそこに寄って買ってしまった。何を買ったかと言うと。

水木しげる『神秘家列伝』isbn4-04-192911-3

チラとみると天狗小僧寅吉、柳田国男とかあったので、息子も読むかも知れないと思い買ってみた。

で次、エクセルデータベースとか、旧パソコンの有効活用とかいう見出しに引かれPCmodeなんていう雑誌630円を買った。次

児童書を見ると、井上洋介の『ムシムシエホン』というのがあった、380円なので買った。

脇を見るとなんだかポルノマンガ雑誌が一面にあり、手に取ってみると、

やたら胸の大きな母親と息子の話が載っていてまあ面白いかもと思い買った。『comic真激』500円。

さてこの文章のポイントは勿論、最後のポルノマンガを私が買ったという点にあります。

パソ音痴

昨日からインターネット接続の調子が悪く、メールも繋がらなかった。いつも1時間くらいで直るのに今回は半日以上続くので困った。ルータをリセットしてみたら直った。デフォルト・ゲートウェイにpingして100%lossとは、ルータと繋がっていない、という意味ですか?

相互寛容の成立条件

(3)

さて、中岡成文の「排除しない思考は可能か」はあまり良い文章ではないとわたしには思える。しかし悪口を書いてしまった行きがかり上もう少し検討してみよう。

彼が思考の出発点に据えるのは次のような文だ。

もとより私は、正義というものが一方の側にだけあるとは思わない。私もまた誤りうる存在だ。批判に耳を傾ける態度を互いに持っていければと思う。(中岡 )

数十年前、マレー半島のある少女に起こったある出来事について、中岡は新聞記事に書いた。いわゆる従軍慰安婦問題である。読者からの批判が新聞社にあった。それを口実に(?)、その新聞の文化部次長は中岡の文章への批判的な文章を新聞に掲載した。ここからうかがわれるのは、従軍慰安婦問題というものが、マスコミへの表現(再現前)に際し加えられる圧力、それによってこうむる表現のニュアンスのいくらかのズレ、といった問題と本質的に関わっているのではないか、という示唆である。しかし中岡の問題意識はそういう方向には向かわない。

「私もまた誤りうる存在だ」という表現に込められた「相互の寛容を求め、排除的態度を戒める」という思想を、このエッセイの主軸に据える。だが相互とは誰と誰との相互なのか。いわゆる従軍慰安婦とはもとよりサバルタンであり中岡という表象代行者によってここに登場しているにすぎない。そして中岡の文章に苛立ちを感じた何人かの読者も投書がたまたまその新聞の文化部次長の目に留まったことによりここに登場しているにすぎない。つまり、「相互の寛容」の相互とは、言論のリングに上がった者同士のことをしか意味しないのだ。しかしこのような自己の特権性というテーマは中岡では取り上げられない。

「誤りうる」ことの対極にあるのは、自分を「誤りえない」もの、絶対に正しいものと信じることであろう。あたかもローマ教皇が「不可謬」と信じられたようにである。(中岡 p101)

「正義というものが一方の側にだけある」とされること、通常戦争においてはそれが必要とされる。しかし一方で戦争には敵の存在が必要だ。その上に勝利の決まった戦争はない。「私が誤りうる存在である」ことを骨肉から知っているのは戦争遂行者に他ならないのではないか。

自己と自己の信念の関係を問うという問題意識は私にはスコラ的なものに思える。

「「盲目状態」に自分が置かれていることを承知で、「同時期」の出来事について発言を敢行する」という態度を評価する加藤典洋を、中岡は批判しようとする。批判しようとすること自体は良い。「「盲目状態」に自分が置かれている」というシチュエーションを一度でも我がものとして思いめぐらせたことがあるのだろうか。*1

*1:ないわけではない。彼は自分の属する大学教養部解体という情況に深く関わり、消耗感を味わった。中岡の駄目なところは、消耗感でもってそれを自己にとって非本質的として切り捨てようとしているところだ。

反ブッシュ、小泉!

ブッシュが来る!小泉が来る!

11/16 日米首脳会談 in 京都・迎賓館 抗議行動へGO!

11月15日(火)18:30~

円山公園ラジオ塔前集合、その後デモへ

(京阪「四条」駅下車、東へ徒歩10分/市バス206号系統「祇園」下車)

11月16日(水)午前10:00~

京都教育文化センター集合、迎賓館に向けてデモへ!!

(京阪「丸太町」駅下車、5番出口より東へ徒歩3分)

※出町三角州集合は使用許可が降りなかったため、変更になりました。