charisさんへ(2回目)(9/15追加)

http://d.hatena.ne.jp/charis/comment?date=20050910#c

への応答です。

侵略戦争ではない戦争(例えば、ベトナム人民にとってのベトナム戦争)もあるから、国家による慰霊一般が不要だとはいえないのです。

戦争を論じる上で「侵略戦争ではない戦争がある」という指摘は大事だと思います。

国民が選んだ政府が戦争を始める場合、選んだ国民にも一定の戦争責任がある。従軍した兵士にも、民主主義国家における「意思決定の主体」としての責任があり、「心ならずも行かされた被害者」とだけ言うことはできない。

戦前の日本は民主主義国家ではなかったけれど戦争体制が確立するまでは一定の民主主義があったわけで、上記のような責任も薄くとも幾らかはあったと思います。

前の大戦の戦死者のほとんどが「侵略戦争の犠牲者」であるという認識は貴方と同じですが、そのように言えるのは、「戦争に負けた」という大前提の他に、軍部、天皇、ナチスなど、戦争責任を負わせられる「悪玉」がいたからです。

おっしゃっている意味がよく分かりません。すみません。

とにかくいろいろな種類の「戦死者」がいるわけですが、まず、餓死、それに近い病死などは「強度の犠牲者」と言えましょう。

「第二次世界大戦で日本の戦死者は中国での戦場をのぞくと約150万人。そのうち、約7割は餓死、または栄養失調の結果、病気を併発するというものだった。(秦郁彦)」特攻攻撃の死者などもそうです。

国際常識上、軍人として保証されるべき権利を自国から奪われて死んでいった、契約違反による死のようなものです。

このような死者が半数以上いるのですから、それらは「国家としての責任にもとづく慰霊」一般の問題に解消されてはならないはずです。

半数の「強度の犠牲者」に注目しそこから考えるというのが、私の基本的立場です。

さらに戦死者全体についても、「狭義の自衛戦争ならともかく倫理的にいかがわしい戦争において、人生が中断されたことを以て、絶対的な国家からの被害者だ」と考えることができます。

「戦争に勝とうが負けようが」「悪玉が居ようがいまいが」そう言えると思います。

(わたしの意見は野原燐一個の意見であり、世間の常識からは遠いかもしれません。)

私はもちろん反靖国派ですが、靖国問題は奥行きが深く、靖国派と戦うためには、彼らよりも根源的かつ包括的な地盤にこちらが立脚する必要があります。

非常に特殊な戦争だった「大東亜戦争」総体をどう評価するのかを決めれば良いだけなのではないでしょうか。民主主義国家の行う自衛戦争の場合どうか、などという架空の問いが何故必要なのでしょうか。

「敗戦、戦後日本は「反省」し戦前と断絶することにより新国家となった。したがって国家による慰霊はなされるべきではない。」(野原さん) 

ここで断絶とは、あくまで「大東亜戦争」評価という一面について言っています。

上手く書けないで申し訳ないですが、とりあえず。 

今後、charisさんの一連の論考を読ませていただきますので、応答はそれからでもけっこうです。  野原燐

少名毘古那神(すくなびこなのかみ)

少彦名については、古事記より日本書紀の方が多少詳細のようだ。西郷信綱の本まだ2巻までしか読んでないので出てこないのだが、しかたないので、いつものように下記から漢字テキストをコピペし、最低限のフリガナだけつけておこう。

http://www.neonet.to/kojiki/seikai/sinkoji-set.html 『真福寺本古事記』影印

故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗(なみのほより)乘(のりて)天之羅摩船(あめのかがみぶね)而、

内剥鵝皮剥(ひむしのかわをうつはぎにはぎて)爲衣服(きものにして)、有歸來神(よりくるかみありき)。

爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神、皆白不知(「知らず」ともうしき)。爾多邇具久(たにぐく)白言、此者久延毘古必知之、即召久延毘古、問時答白此者神産巣日神之御子少名毘古那神(すくなびこなのかみ)。

故爾白上於神産巣日御祖命者、答告、此者實我子也。於子之中、自我手俣(たなまたより)久岐斯(くしき(漏れた))子也。

故、與汝葦原色許男命爲兄弟(あにおととなりて)而、作堅其國。

故自爾(それより)大穴牟遲與(と)少名毘古那、二柱神相並、作堅(つくりかためた)此國。

然後者(せてのちは)、其少名毘古那神者、度(わたった)于常世國(とこよのくにに)也。故、顯白(あらはしもうせし)其少名毘古那神、所謂(いわゆる)久延毘古者、於今者(いまに)山田之曾富騰者(そほど(カカシ))也。此神者、足雖不行(ゆかねども)盡知天下之事神也。

西郷信綱『古事記註釈・3』p166以下を参考にした。

羅摩船(かがみぶね)、かがみとはガガイモのことだそうだ。らまと書いて何故かがみと読むのか。和名抄という本に羅摩子、和名加加美(かがみ)というふうに書いてあるらしい。

オホナムジに対してスクナヒコナ。兄弟に、オホ~、スクナ~とする命名法があった。

笙野はオホナムジ(女性)に対し、スクナヒコナ(その夫)としているがなぜなのだろう。*1

*1:『金比羅』では、かな

悲劇の島エロマンガ

(kuonkizunaさん経由)

http://www.apa-apa.net/kok/news/kok198.htm

■犬に石を投げるバヌアツ人を残酷だと非難する人々は、バヌアツ人に犬の餌を与えることについては鈍感である。自爆テロを繰り返すパレスチナ人を残酷だと非難する人々は、他人の土地を略奪した過去の歴史については鈍感である。

天皇に絶対随順する道

姜信子さんの下記の文章はナショナリズムを少し深く考えようとするときに必須の幾つかの論点を、的確に浮かびあがらせており優れた文章だと思う。

http://www.asahi-net.or.jp/~fw7s-kn/2004_08.html

日中戦争が始まった昭和12年に文部省が発行した「国体の本義」をひもとけば、日本という国のあり方、その臣民の徳目を語るこんな言葉。

「我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立ってをり、我等の祖先及び我らは、その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉體することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、ここに国民のすべての道徳の根源がある」。

「忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て我を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威(みいつ)に生き、国民としての真生命を発揚する所以である」(「国体の本義」第一 大日本国体 三.臣節より:昭和12年 文部省発行)。

まことに支那事変こそは、我が肇国の理想を東亜に布き、進んでこれを四海に普くせんとする聖業であり、一億国民の責務は実に尋常一様のものではない」。(「臣民の道」文部省編纂 昭和16年 )

こういった文章に対し姜信子さんは言う。

で、私はといえば、聖なる使命を語り、大義を語り、栄光を語り、絶対的な存在(たとえばかつての天皇、あるいは神)のもとでの個の全体への一体化を語る者たちの、その誇り高い「語り口」、その「語り口」の底にある「他者」と「私」を分かつあまりに深い自己愛とでも言うべきものへの違和感をどうしてもぬぐうことができない。

わたしもほぼ同意見だ。

ただまあ、「絶対随順は、我を捨て我を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。」となると自己というものは全否定しなければならないとされ、窮極のマゾヒズムになっている。朱子学においても我は否定されるべきものだがそれは哲学的存在論としてであり、日常生活の諸ベクトルを否定したものではない。教育勅語は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ」といった諸活動を積極的に認めているのであって全く違う。

しかしながら少なくとも昭和12年以降、教育勅語の名に於いて、天皇への絶対随順が説かれていた。そこに矛盾があるという声は上がらなかった。

「わが生命と活動の源としての天皇」というものと、「天皇に絶対随順する道」との間には、わずかだが決定的な差異があると私は思うのだが。

 ところで21世紀の教育勅語愛好家はだいたい「天皇に絶対随順する道」を愛好しようとしているようでもある。悲惨な脳髄だと思う。

(姜信子さんの文章は後半が良いので読んでください。)

申請に必要な書類

  1. 申請書
  2. 勤務証明書
  3. 所得を証明する書類
  4. 市民税課税台帳閲覧同意書

(市政ニュース より)

3.と4.は同じものではないのか?聞いてみた。要は年収と事業主が書いてあるという点で。所得に対し各種控除などが引かれてから市民税が決定されるから同じではないとの答え。でも4.には3.の内容が書いてあるはずだ。

そもそもなぜ所得が必要なのか聞くと、利用料の決定のため、と言った。ところが利用料は定額であり減免制度があるだけだ。減免に関係のない人からも所得証明を出させる理由はない。・・・

4.については任意提出にすると言った。*1

そして、3.についても所得額をマジックで塗りつぶして提出してもよいとのこと。は~~! それでは何の為の所得証明だ? 勤務もしていないのに勤務証明書が出てきた例がある。勤務関係が本当に存在するかどうかをチェックするために源泉徴収等が必要だ、とのこと。(零細な個人事業者への差別意識が指摘できそうだ?)勤務証明と源泉徴収は同じ会社(個人の場合もある)が証明しているので効力は同じではないか問いただすが、譲らない。

 わたしがあなたのやっていることは「大きな政府だ*2」と言うと相手は自分の心情を著しく傷つけられたらしく「小さな政府です」といってすぐ、話は継続しているのに自分から電話を切ってしまった。

 市役所が市政ニュースに載せた条件を撤回するのはよほどのことである。上記3.4.が個人情報保護法に抵触する、ということが決め手になった。で、「所得額をマジックで塗りつぶした」源泉徴収票というものやはり同法違反になると思うのでもう少し勉強したい。

(詳しい方教えてください)(11/26 7時追加)

*1:ここで不要な条件を市民に強制したことを謝罪すべきではないかと強く言ったら謝罪した。

*2:電話でも一切触れなかったが、「適正化」のための点数制度というものを彼らは非公開で用意しているらしい。

概念集・1   目  次

概念(序文の位相で)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051129

バリケード

法廷

監獄

フィクション

反日

http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000123#p1

非存在

仮装

宙吊り

全共闘運動

大学闘争

http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000122#p1

パタンランゲージ

委託

〈 〉焼き

ストライキ

文学

科学

不可能性

Let it be

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/itbe1.html

単位

n次闘争

オーパーツ

落書き

天然

id:mujigeさんへの質問

@mujigedari あらためてお聞きしますが、あなたは何がしたいの? 私にブログから削除せよ、との明示的要請がまだないのはなぜ?

posted at 12/7 20:30:02

中道右派 『>これほどの長い、しかも永井論文を単にまとめただけのものを貼り付けるなんて常軌を逸していると思いませんか?

常軌を逸しているとは思いません。

単にまとめただけと思われたとしたら、あなたは知的推理力と相手の意図の洞察力が欠けています。

永井論文の構成を示し、批判的検討を詳しく加える部分は詳しく引用し、あっさり検討する部分は短くまとめ、後でまとめて独立のエントリにしてもらうことで、一覧性を高め、議論の際も該当箇所が参照しやすいような再構成をする意図がありました。

>御自分でブログを作って検証してトラックバックをすればいいんじゃないですか?

お断りします。

先に、あなたから得るものは何もないとか、逃げたとみなすとか、喧嘩を売られた方にお説教されるいわれはありません。

私は、単に喧嘩を買っただけです。

あなたのブログをご紹介くだされば、そこに移ってもいいですが。

もしかして、櫻井よしこ氏の検索を示唆した先のブログのブログ主さんですか?

>しかもコメント欄で分割すれば読みにくさは倍増します。しかもはてなのコメント欄には容量に限界があります。少しはお考えになってはいかがでしょうか?

上記のとおり、そのことを考えて、初めから独立エントリにまとめてもらうつもりでした。

>>3月15日付けと3月19日付けの私の該当コメントを、『永井和論文の批判的検討』などといったタイトルで独立のエントリにしていただけると、うれしいです。

>厚かましいにもほどがありますな。

どうぞご自由にそう思われてください。

市川海老蔵に似ていると良く言われるので、『厚顔海老蔵』とHNを変えましょうか?

>それからはてなの容量のことも調べずに「逃げた逃げた」と中傷したことについて言及は一切無しですか?とことん礼儀知らずの人ですね。

印象操作は止めてください。

元々私は、逃げたと断言した訳ではなく、逃げたのではないでしょうね?と質問しているだけなので、中傷ではないでしょう。誤謬です。

また、その点については、3月15日付けのエントリで、自分の誤謬を認め、あなたの感覚の正常さを褒め、自戒の念を示すと共に、今後のより良き指針とする決意を示したつもりだったのですが、これでは満足されませんか?謝罪と賠償をお求めになりますか?

野原氏は、私が自省の念を示しただけで、以後特に追及もされませんでしたが。

一方、あなたは私のコメントを誤解曲解して断言したり印象操作をされることが多いが、そのことを私が指摘しても特に気にされるそぶりも無い。別にそんなことで一々あなたが非を認めることを求めるつもりもありませんが。

お互い、礼儀と考えるところがかなり違うようですな。

やはり、人類普遍の真理道徳はありえず、最大公約数的な道徳的価値判断を含む比較的価値中立的な法による支配を目指すのが良いようですね。』(2007/03/28 11:42)

* ノーモア 『人を売国奴だの無知だのなんだのと罵っておいて、御自分に礼儀があると信じていらっしゃるところに心より憐れみを覚えます。

>喧嘩を買った?

バカを言いなさんな。あなたが勝手に野原氏を中傷したのが先でしょうが。私はそれを恥知らずの行為だと指摘したまでです。それから「印象操作」という言葉が安売りなさっているようですが、それを立証したいなら陰謀論や「(歴史学の専門では全くない)『M2』もこう言ってるよ」みたいな「印象操作」は止めて御自分の力で積み残しを解決なさったらいかがですか?今のところ私の議論にあなたはまともに太刀打ちできていないことをお忘れなく。

このコメント欄はあなたの質問に答える為だけにあるのではありません。あなたが長文を貼り付けて容量をオーバーさせれば他の人は書き込めなくなるんですよ。そんなことも分かりませんか?』(2007/03/28 11:54)

* ノーモア 『「野原氏にアクセス禁止処分をされたもようです。今後全てのエントリにアク禁される可能性もあるかもしれないので、ここに最後になるかもしれない私の返事を書き込み、ウェブ魚拓もとっておきます。まさか、野原氏はあなたと同一人物で、自分で勝利宣言して直後にアク禁にして、私が逃げたと印象操作するつもりだったのではないでしょうね?」

これが単なる質問?印象操作はそっちでしょうが(笑)

ちなみに私は野原氏はアク禁にすべきだと思います。理由は大量のコメントを連日貼り付けてすぐに容量をオーバーさせ他の人がコメント出来ないから。魚拓とりたいならとらせればいいんですよ。自分が勝ったと思っているなら自分でブログでも作って堂々と貼り付ければよろしい。出向きますよ、私は。』(2007/03/28 12:24)

* ノーモア 『それからついでに。私へのコメントは私宛にして下さい。分かりにくいので。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070318#c1174804311

ノーモアはなぜ論点のすり替えを追及しないかですが。

(1)まずご自分が論点のすり替えを行ったと認めるんでしょうか(笑)

(2)で、吉見氏が論点のすり替えをやったということを実証してください。

これもまた「検索」でしょうか(笑)』(2007/03/28 12:49)

353 Re:宅間氏の死刑のコメントです。

F さん

昨日はごくろうさまでした。せっかく発言してくれたのに発見が遅れちゃってすみません。「邪魔」なんてとんでもありませんのでどんどん発言してください。

さて、今日は(昨日飲み過ぎたせいで)元気がなく、書こうと思っても頭があまりまわりません。*1

 「もしも、愛する人が誰かに殺されたら、その殺した相手に死んで欲しいと望むだろう」と人は言う。そうかもしれない。その時の胸の痛みを想像してみようと思う。ではそこから死刑制度を肯定するところにいけるかというと、そうはならない。

そのとおりだとわたしも思います。

処刑されたのは、宅間守だけじゃなくてもう一人いたみたいですね。アムネスティによれば、大阪拘置所の宅間守さんと福岡拘置所の嶋崎末男さんに対して9/14に死刑執行されたようですね。

http://homepage2.nifty.com/shihai/kougi.html

http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_hirata.html

上記に平田オリザさんのメッセージというのがあって、下記の部分が印象的でした。

「逆に言うと、加害者と被害者がいて、殺していいですよと判決を下して、ナイフが置いてあったとき、被害者が加害者を殺すかといったら――殺す人もいるかも知れませんが――まず殺さないのではないでしょうか。

死刑という制度があるから、「殺したい」という気持ちが、「殺す」という行為に直結してしまうのではないかと思うのです。」

死刑廃止を正面から論じるより、(想像上だが)殺しても良いよとナイフを投げてやる。わたしたちが殺しても飽き足りないほどそいつを憎んでいるとして、また殺してもいいよと許可が出たとして、そのときすぐ殺すだろうか。鶏一匹殺せないわたしが本当に人を殺せるのか。理屈で考えた上で殺すというのは普通の人間にはなかなかできないことだろうと思われます。「悪である」ことも結局のところ否定しがたいし。

 人はみな「自分は人を殺さないし、死刑のような極刑を受けるような悪いことはしない」と思っている。だが、国家が人を殺す制度をもっているということは、必ずしも客観的・妥当的な「悪いこと」をした者にだけその刑を適用するためではない。かろうじてまだ「民主的国家」の看板を掲げている日本でもそれが外れるや否やその持っている権力をどのように濫用し始めるのか。それを想像するのは恐ろしいことであるが、もし少し歴史を振り返ってみるなら事実として容易に認められるはずだ。

 自己保存のために、権力に刀を預け、お上に守ってもらおうと思う人々によって死刑制度は支えられている。

そのとおりですね。テレビなどで見ている限り、殺人者は絶対的悪であり、わたしは善の側にいるという図式から離れることはできません。でもそれはわたしの想像力の問題に過ぎない。死刑までいったら困るが、現実に色々な形で国家と出会い軋轢し問いただしていくなかでしか、「民主的国家」の内実を守っていくことはできないでしょう。

                野原燐

http://replay.waybackmachine.org/20050127175829/http://otd9.jbbs.livedoor.jp/908725/bbs_reply?reply=353

*1:発言日不明

見えないがそこにある民力

 え。場違いな感じもするが、『漢文入門』岩波全書 という1957年刊行で今でも刊行中の本から引用しよう。

 楚の荘王という人がいて、陳という国を伐(う)とうとして、スパイを派遣し調べさせた。帰ってきて曰く、「城郭高く、掘りは深く、蓄積がとても多い」だから勝てそうもないですよ、と。だが、荘王は「陳伐(う)つべし」と意見を変えない。「陳は小国である。だのにそれだけの備え、蓄積を用意したのは、民をどんどん収奪したからだ。もはや陳には民力はないはずだ」と。(『説苑』BC1Cより)

 それでつらつら思ったのだが、今日北朝鮮の脅威を言う人がいるが、むしろ金正日を挑発し日本に上陸させればどうか。もしそうできれば、北朝鮮はそれに耐えるだけの国力は持っていないから自然に崩壊するだろう。まあこんなことを言っても誰も賛成しないでしょうけどね。でも国境というものがあるということは破られる可能性があるということで、それがあっても別におかしくないという前提で物事を考えないとおかしい。国というものがあればそれが滅びることもあるという2000年前の感覚の方がかえって健全である。排外主義をあおったり武力に頼ったりしている場合ではないのである。