それは敗戦ではなかった

 戦争に負けることは誰のせいで負けたのかという責任者を捜して叩くことにつながる。ところが日本では東条以下十数名は、天皇を中心にした支配層がアメリカに差し出した犠牲であり、最初から憎悪の対象ではなくしばらくしたら許されるべき存在だったと思われる。日本という同一性はいささかも傷を負わずに敗戦を生きのびてしまった。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050226#p3

恥ずかしくないのかね?

 先の大戦末期の沖縄戦で日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする出版物の記述は誤りで、名誉を棄損されたとして、当時の守備隊長と遺族が著者でノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店を相手取り、損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こすことが二十三日分かった。

http://www.sankei.co.jp/news/morning/24iti002.htm

Sankei Web 産経朝刊 沖縄守備隊長遺族、大江氏・岩波を提訴へ 「自決強制」記述誤り、名誉棄損(07/24 05:00)

米軍が沖縄の渡嘉敷島と座間味島に上陸した昭和二十年三月下旬、両島で起きた住民の集団自決について、大江氏らは、これらの島に駐屯していた旧日本軍の守備隊長の命令によるものだったと著書に書いているが、そのような軍命令はなく、守備隊長らの名誉を損ねたとしている。

沖縄戦の集団自決をめぐっては、

昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』で、赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きたと書かれた。この記述は、沖縄県史や渡嘉敷島(渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。

疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。

座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにした。

その後も、昭和史研究所(代表・中村粲元独協大教授)や自由主義史観研究会(代表・藤岡信勝拓殖大教授)が曽野さんらの取材を補強する実証的研究を行っている。

 やれやれというしかない。裁判の論点はどうあれ、わたしたち市民~国民にとっての論点は、「国軍が市民(国民)を守る」という建前が崩れたかどうか?である。「国軍が村の上層部などと一体になって働きかけることにより、たくさんの市民の自決が行われた」ことはどうあがいても動かせないはずだ。

参考:林博史氏の論文「「集団自決」の再検討」

http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper11.htm

 それより彼らの目的は何なのかね。ふやけたナルシズムを蔓延させても亡国につながるだけでしょうが。

産土(うぶすな)=パトリへの忠誠

戊辰戦争においては多くの藩が、薩長側(天皇)か幕府かという選択を急に迫られ右往左往してたわけです。上記の奈倉哲三氏論文からもう一箇所引きます。

二本松藩は幕府軍側で戦うことに決定。7月29日、新政府軍と激しい交戦となる。

そのさなか、農兵司令官として出陣していた三浦権太夫は、勤王論者として王師(おうすい)(天皇の軍隊)へ弓を引くことはできぬとして交戦を拒否、阿武隈川東岸で空矢を放って自刃した。合祀年月は不明であるが、靖国に祀られている。*1

 三浦氏は、(おそらく)うまれ育った故郷、その代表としての藩に対する忠誠と、自分が意識的に獲得してきた勤王イデオロギーの間で葛藤し、ついにどちらかに付くことは決断できず、自刃した。ところが靖国側は、その「勤王」の面にだけ注目し、靖国に合祀した。

 これと同じ事は「大東亜戦争」でも、無数に起こっている。南の島で餓死に追いやられ、祖国に対し怨みしか持っていない死者も沢山居たはずだと思う。それでも形式的に「護国」ということにして合祀する。一方空襲の死者とかは急進的愛国者が仮にいても合祀の対象からは外れる。また今回の台湾「高砂族」などのように遺族が合祀から外してくれと請求しても応じない。

 「国家の為忠奮戦死せし霊」だけを降ろし、神社に鎮座させるという*2選別装置。死者を選別するだけでなく、死者の内なる葛藤を拒絶し「国家の為」という面だけに光を当てる装置である、というわけだ。

*1:同書p113

*2:伝統に反した

天皇制を論じてはいけない、という意見?

http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050907/1126104535 で、あんとに庵さんがほりえもんの同じ記事を引いている。インタビュー現場の雰囲気の分かる記事もある。それはありがたかったのだが、どうもこの方は「天皇制」をタブーにし続けたいようだ。何故そう思うのか不思議だ。

・・・ですので報道記事はいささかニュアンスが異なるにせよ、根底には「そういう意味のない存在は無駄」的な思考が垣間見えるわけです。なんというかやはり芸術家の敵だな。こいつわ。三位一体論とか実体変化とか理解できないししたくもなさそうな人だと思う。

 三位一体に敵対する神学的テーゼを立てることと、そうした問題領域自体に敵対することは違う。堀江もんは「憲法見ると、天皇は日本の象徴であるというところから始まるのは、僕らにとっ てはものすごく違和感を感じますよ」と条文の文言について発言している。したがって後者ではなく(テーゼはたてていないが)前者である。あんとに庵さんはそれを後者であると歪曲している。

ところで、天皇制と国体というのは伝統的に日本では一致して来たわけですが、その辺りの解体をもくろむならそれなりの理論武装をしないとまずいのでしょうが、彼の場合は単純に「無駄」「有用」という価値で判断されているようです。

何を神秘化しているのですか。「天皇制と国体というのは伝統的に日本では一致して来た」というのは間違った理解です。問題は憲法1条をどうするかだけで、憲法改正が国民の権利であることは憲法に書いてあり国民の常識です。タブーを作りたい一部の勢力がいるだけです。

人というのはなんらかの共同体に属したりするわけでそれは土地だったり、国だったり、思想団体、宗教団体もそうですが、それによって形作られる人格というのがあり、また属するものへの拡大的な皮膚感覚を持ったりするものですが、それがないタイプというのは珍しい。

堀江氏はただ、「憲法1条は不要だ」と意志表示しただけですよ。その意見に反対したいなら、彼の意見を歪曲するのではなく、貴方自身の思想で行ってください。

だいたいタイトルも「ホリエモンの舌禍」だし、自分が言論の自由に敵対していると言うことが分かっていないようですね。

(突然、攻撃的TB失礼しました。)

ふふんふふーん・2

ところで『金比羅』図書館で借りて、もう2週間はとっくに過ぎているので明日は返さないといけない。もう少し引用しておこう。

小説冒頭部分でこの擬音語でも擬態語でもない奇妙な「ふふんふふーん」系の言葉(文字列)は次のところに集中して現れる。

(p11)

 ふふん!

 みっつというのはなんという都合のいい数でしょう。三と言っただけで愚民はもう全てを網羅し、可能性を調べ尽くしたと思ってくれるのですから。

 いやいや、しかし皆さんのような反権力・非愚民がそんな単純な事で騙されるはずはない。だって私だって別に騙そうとも思ってないんだから。へっへー--。

(p14)

--私は偶然に助かったんです。運がいいわけでもない。誰のおかげでもない、ふふんふふーん、私は科学の子だ。ふんふんふんっ。

 というような人がいるかもしれません・あーあ、ねーえ。*1

(p23)

あなた方などは神について語ってはいけない。たかが人間がね、何も知らない癖に。おや、今むっとしましたね。はっはっはっは、ふん。だけれども私達神が聞こえる神が見えるものと、あなた達人間とは違うのですよ。ですからね、今こそね、その違うということを思い知りなさい。ふん、ふうん、けーっ。ほっほー。

もう一度列挙すると次の通り。

  1. ふふん!
  2. へっへー--。
  3. ふふんふふーん
  4. ふんふんふんっ。
  5. ・あーあ、ねーえ。
  6. はっはっはっは、ふん。
  7. ふん、ふうん、けーっ。ほっほー。

この小説は、私が私について語る一人称小説である。そしてまた私が語り手となって、読者に向かって饒舌に語りかける、というスタイルを取る。それだけなら良いのだが、この「私」は実は人間ではない。金比羅だ。私達=神が聞こえる神が見えるもの、である。当然、あなた達人間とは違う。しかし神に近いものがそこらへんのおばちゃんのように自分のことをどんどんしゃべり始めてものだろうか。神に近いものは当然人間からは高慢に見える。しかし、半神はそもそもそんなことすら気にしない者ではないのか。人間の常識の範疇を超えているはずだ。しかしそれでは人間と関係を持てない。笙野の金比羅は一面、べたべたのおばちゃんであり相手の顔色を見ながら自分のことをどんどんしゃべり続けるのだ。

と言うことは、金比羅は高慢と媚びという二面を持つ。

1.高慢 2.媚び 3.4.高慢 5.媚び 6.高慢 7.媚び。このように考えると、この種の文字列がなぜ、数個づつ固まって現れるのかの説明が付く。

しかし上記のように二面に分けるのはかなり無理矢理だ。文字列たちは、身も世もなく身をくねらせるかのように、多彩で多様である。半神とただの人間との落差を埋めるための装置であり変幻自在でなければならないのだ。

(9/26追加)

*1:p14『金比羅』笙野頼子 isbn:4087747204

<人神思想>

「神の死」「ドストエフスキー」についてグーグルしたら下記のような頁を見つけた。Seigoさんと言う方の充実したドストエフスキーサイトの1頁。

この頁では、ドスト氏の小説の中の登場人物に二つの極端な類型を発見できるとする。即ち、

「人神思想」

(人神(じんしん)=神のような人。「神」に対抗して、自ら「神」たらんとする人物。)

ラスコーリニコフ(『罪と罰』)、キリーロフ(『悪霊』)、イヴァン、大審問官(『カラマーゾフの兄弟』)、

「神人思想」

(神人(しんじん)=人のような神。「神」の意志を体現した、「神」への謙虚な信仰や他者への同情と博愛に生きる人物。)

ソーニャ(『罪と罰』)、ムイシュキン公爵(『白痴』)、チーホン僧正(『悪霊』)、マカール老人(『未成年』)、ゾシマ長老、アリョーシャ、マルケル、イエス(以上、『カラマーゾフの兄弟』)

http://www.coara.or.jp/~dost/26-4.htm ドスト氏の小説における「人神思想、神人思想」の系譜

 キリストにも神にも興味がなかった十代の私が何故「神の死」というテーマに囚われたかといえば、まさにここでいう、人神思想、人は神になれるという思想に惹かれたのであろう。修行もしないで神になれる!のだからこんなスゴイ事はない!

 過去を振り返るとき「~に過ぎなかった」と言い切ってしまうのは簡単なことだが錯誤である。過去の錯誤を指摘する現在が過去より上位にある保証などどこにもないのにその疑問なく指弾は発せられる。全共闘運動への総括などに特徴的に見られる傾向だ。

 人は神になれない、というのは錯誤だ、と言ってみる。例えば、死刑執行人。人は人を殺せない。人を殺すためにはひとは獣になるか神になるしかないわけだが、戦場と違い死刑執行人は獣であることはできない。したがって、死刑執行人はすでに幾分か神でなければならない。

 特攻隊員は自己に死を与える。国家は既に敗北しており、自己の死は無駄になるだけだ。彼らは自己の死を全きゼロと交換することを強いられた。彼らは自ら神になることによってしか自らに死を与えることはできなかった。

 他人のことはよい。わたしは神ではない。ただ私というものがどのように規定されようがわたしにはその規定をアプリオリにはみ出す何かがあることは私には自明だと思われる。

東条有罪?

ポツダム戦争受諾によって長い戦争が終り、廃墟と困窮のなかで戦後生活の第一歩を踏み出そうとしたとき、復員*1)戦士も銃後の庶民も、男も女も老いも若きも、戦争にかかわる一切のもの、自分自身を戦争協力にかり立てた根源にある一切のものを抹殺したいと願った。そう願うのが当然と思われるほど、戦時下の経験は、いまわしい記憶に満ちていた。

(吉田満「戦後日本に欠落したもの」*2

「東条有罪。」というタイトルは適当ではないかもしれない。

男も女も老いも若きもが、戦争中の自分の根源にある一切のものを抹消したいと願った、と上の吉田の文章は言っている。

その願いは性急なものであった(ように書かれている)。自己/他者の戦争責任を追求するという困難な課題に取り組もうとする姿勢につながるものではない。

ただ、「戦時下の経験は、いまわしい記憶に満ちていた。」という巨大な共通体験だけが存在した。したがって「戦争はいけない」という文言は単なる美しい言葉ではなく、巨大な共通体験に裏打ちされたものであった。

しかし即自的な体験はいくら巨大なものであっても、60年経ったらすみやかに崩壊する(ことも多い)。

「戦争協力にかり立てた根源にある一切のものを抹殺したい」という切迫あったのなら、「東条有罪。」が求められたことになる。

自己の戦争責任から逃れるために東条を犠牲にした、と語りうる場合もあるかもしれない。自己の戦争責任にあらためて真摯に向きあうのだという決意を持つ場合は。

「戦時下の経験は、いまわしい記憶に満ちていた。」という体験自体を歪曲しようとする勢力が大きくなっているのが現在である。わたしは途方に暮れる。

 しかし、戦争にかかわる一切のものを抹消しようと焦るあまり、終戦の日を境に、抹殺されてはならないものまで、断ち切られることになったことも、事実である。断ち切られたのは、戦前から戦中、さらには戦後へと持続する、自分という人間の主体性、日本および日本人が、一貫して負うべき責任への自覚であった。

(略)

 日本人はごく一部の例外を除き、苦しみながらも自覚し納得して戦争に協力したことは事実であるのに、戦争協力の義務にしばられていた自分は、アイデンティティの枠を外された戦後の自分とは、縁のない別の人間とされ、戦中から戦後に受けつがれるべき責任は、不問にふされた。戦争責任は正しく究明されることなく、馴れ合いの寛容さのなかに埋没した。

(同上の続き)

*1:福音。野原註

*2:p9『鎮魂 吉田満とその時代』isbn:4166604368

新しい野蛮状態!

 何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか?*1

 21世紀に入ったいま、おそらく世界中の人々の多くがこの問いを、(再度)強く問いかけざるを得ない時代になっている。

 カントによれば、啓蒙とは「他人の指導を受けなければ自分の悟性を使用できないような状態」から抜け出すことである。*2

(悟性は、感性に与えられる素材を自己の形式(範疇)にしたがって整理し、認識を成立させる。

理性は、悟性作用を統一し体系に纏め上げる。)

つまり、理性というものは体系の正しさ無しには成立しえない。カントにとっては自然科学(ニュートンなど)の勝利が体系の正しさを保証したと考えられた。しかし自然科学以外の領域では万人の認める体系は、いまだすんなりとは成立していない。

カントの概念は二重の意味を持っている。超越論的・超個人的自我として、理性は人間どうしの自由な共同生活という理念を含んでいる。その共同生活のうちで、人間は普遍的な主体として自己を組織し、純粋理性と経験的理性の間の矛盾を、全体の意識的連帯のうちに止揚する。そういう共同生活は真の普遍性の理念、つまりユートピアを表明している。

しかしそれと同時に理性は、計算的思考の法廷を形づくる。計算的思考は、自己保存という目的に合せて世界を調整し、対象をたんなる感覚の素材から隷従の素材へとしつらえる以外にいかなる機能をも知らない。一般的なものと特殊的なもの、概念と個別的事例とを外側から相互に一致させる図式論の本性は、つまるところ現行の科学のうちでは産業社会の利害に他ならないことが証明される。存在は、加工と管理という相の下で眺められる。一切は反復と代替の可能なプロセスに、体系の概念的モデルのためのたんなる事例になる。動物はいうまでもなく、個々の人間もまたその例外ではない。管理を旨とし物象化を事とする科学と個々人の経験の間の葛藤、公共精神と個々人の経験の問の葛藤は、環境によって予防されている。もろもろの感覚は、知覚が生じるよりも前に、いつもすでに概念装置によって規定されている。

p130-131*3

 理性は素材を体系に纏め上げる能力であるから、体系という視点から見て見えにくい部分は無視し勝ちになる。

 一般的なものと特殊的なものとの同一性は「純粋悟性の図式」によって保証されている、とカントは考えた。しかしながら保証が必要だったからそうなっているにすぎなかろう。わたしたちの社会では「存在は、加工と管理という相の下で眺められる。一切は反復と代替の可能なプロセスに、体系の概念的モデルのためのたんなる事例になる。」学校や工場や事務所は加工と管理のシステムである。生きることを点数や金額という数bitの数字に変えてくれる。

 「その共同生活のうちで、人間は普遍的な主体として自己を組織し、純粋理性と経験的理性の間の矛盾を、全体の意識的連帯のうちに止揚する。そういう共同生活は真の普遍性の理念、つまりユートピアを表明している。」

 「理念」や「ユートピア」という言葉はいまは流行らないのですが、それはそれをある既知を延長した平面に存在しうるものと矮小化して考えてしまったからではないか。そうではなく既知の平面を離れた垂直性のベクトルとしてなら〈ユートピア〉は非在の輝きをかいま見せるのではないかと思われた。

*1:序文『啓蒙の弁証法』

*2:参考p127『啓蒙の弁証法』

*3:『啓蒙の弁証法』ホルクハイマー・アドルノisbn:4000040545