不運を不正として想像し直す

えーと、現代思想2001年5月号p216の岡野八代「遅れる正義/暴力のあとで」は、次のようにはじまる。

2000年12月東京で行われた「女性国際戦犯法廷」の初日8日と9日の二日間、わたしは<その場>にいた。彼女たちの声を聞くために、そこで何が起こるのかを見るために。

それがどうした、とも思います・・・女性国際戦犯法廷というものは、窮極の被害者という絶対的他者を立ててしまうこと、つまり複雑多様な現実を非常に平面的な分かり易すぎる図式に還元してしまうことだ、といったイメージがある。わたしの中にもある。(イメージがあるので細部まで読まないのでイメージが保存される。)だが岡野氏の体験したそれは決して分かりやすい体験ではなかった。それは良いのだが、彼女の文章は逆に分かりにくすぎるのだった。

法の外にあると考えられてきた従軍「慰安婦」問題を、再度「法」の内部の問題として解決しようとした試み、と岡野は今回の問題を捉える。

  1. 法の限界
  2. 法外にあったものが法内に取り込まれる時の力関係
  3. 法と正義の関係

といった問題が露わになった経験として。

法システムによって排除されてきた者が、法システムに向かって異議を唱えるときには、法システムの言語・文法によって語らなければならない、そうでなければ、法は聞く耳を持たない、という困難に陥る。(同上p217)

例えば全共闘運動の後、「裁判闘争」というものの訳のわからなさに出会ったことのある者なら、はあはあと、(半身を引きながらも)耳を傾けることができる。ただまあ学生運動のような言葉から生まれた活動と、辺境のサバルタンたちはもちろん違う。

サバルタンは<聞く耳>と出会う事により語りはじめる(こともある)。*1

暴力があった、その後に沈黙を強いられてきたであろう女性たちが、今回東京にやって来るまでの文字通りの長い道のりのなかで、聞く耳を持つ人に出会った。そのことによって、彼女たちは苦痛に苛まれながらも、暴力がふるわれる以前に自分たちが作り上げてきた文脈を破壊した--その意味で、彼女たちにとっては脈絡のない--出来事を伝えようとし、切断された記憶を取り戻すようにして少しずつ、いったん破壊されてしまった文脈からなる世界をやっとの思いでもう一度構築しなおしてきたのだということは、想像に難くない。(同上 p218)

さて、そのように裁判は始まろうとする。一つの非人称の声から。

あなたは真実を語ることを誓いますか

これは証人いや原告・・・いやこれは刑事裁判に類似ものであるから彼女たちではなく検事が原告であり、彼女たちは当事者性を疎外され証人であるにすぎない。これは証人調べを始めるときの決まり文句に過ぎない。だが、それを聞いて岡野は驚く。上に書いたように、自身の力でやっと沈黙から抜け出しここまでやってきた彼女たちに対し、「何を語るべきであり、さらにその言葉がいかに聞き取られるべきかを予め決定してしまうような発言に接して、わたしは驚いてしまったのだ。」

 被害女性の一人、エスメラルダ・ボエ(東チモール)さんは叫ぶように言う。

なぜ私がわざわざ日本にまで来て嘘をつきますか!

裁判官の耳に届く言葉を発するための「儀礼」は暴力ではないか、と岡野は言う。彼女たちのことばを彼女たちの現在において聞くのではなく、「裁判官にとっての「現在」、遅れてやってきた裁判官にとっての既存の一つの文脈(適正法手続)へと埋め込もうとしているのだから。」

法はいつでもそうしたもの(すべてを法の普遍性の下に包摂しようとする)にすぎない、としたり顔の奴らは言うだろう。だがそれは少し違う。法は正義に訴えることを認める。その限りで法もまた試されるのだ。

以下、彼女の文章を歪めた形で断片的に引用しておく。

・・・

「不運を不正として想像し直すこと」を迫られる正義はつねにすでに遅すぎる。

遅れてくるがゆえに、つねに正義には責任が問われている。

・・・

彼女たちは責任を求める。これまでとは違う形での-未来における-<わたし>の応答可能性を。

・・・

不運/不正を区分しているのは、正義ではない。それは法の存在*2によるのだ。

・・・

「正義」「責任」「真実」といった言葉は男性中心的権威にともなう言葉だ。彼女たちに強制されてきた「彼ら」の言葉が、彼女たちの身体を通してもう一度発せられたとき、そうした言葉を「わたし」の言葉として紡ぎだすことで、自らの力で文脈からなる世界を創造しつつある女性たちを、わたしは見ていた。(同上 cf.p225-227)

*1:「何に対してわたしが無知であるのかは、そのことに無知でなくなったときにしか分からない、という認識上の限界」岡野・現代思想200112月号p183

*2:条文のありかたのことかな

黄色人種の戦い

foursue 『反論されている二点以外はこちらの意見に同意していただいたと見て良いのでしょうか?』

# noharra 『反論している二点以外もあなたの意見に同意していません。』

foursue 『では反論してください。』

foursue 『私がコメントしてからだいぶ時間も経っているのでそれ以外の反論があれば早めにすべてしてください。反論が無ければ同意と考えざるを得ません。もし反論が無いとしてもどの点が納得できないのか指摘してください。そうしなければこちらもこれ以上コメントを続けられません。』

(1)論点は最初の下記、についてです。

「太平洋戦争は歴史的に見れば白人に対する黄色人種の戦いであったとも見れる。」

他の論点については、この論点をある程度論じ合ってからでなければ、論じる意志はありません。

 逃亡したのなら御勝手に。

ナターシャさん母子の行方

 慰安婦問題をどのような視点から見ていくのかに関連して、現在*1の日本の底辺で売春機構に拘束され犯罪者となるに至ったある女性についての松下氏の文章を掲載する。

ナターシャさん母子の行方

 東南アジア、特にタイの女性が、仕事を求めて日本へ多数きているが、かなりの部分がパスポートを奪われたまま売春機構に拘束され、抵抗すると身体的な暴行を受け、売春を強要されている。日本社会はこの現実を構造的に作り出しているにもかかわらず放置している。しかし、無数の虐待の過程からタイの女性による反撃の行動が生起しつつある。このページ右に転載した記事は一例に過ぎないけれども、刑事事件になることを怖れない、というよりも、そのような配慮を超える切迫した行動によって、はじめて問題の重要性を私たちに広く認識させていくことになっている点を含めて、かの女らは意識している、いないにかかわらず、名づけがたい不可避の闘争の最前線の戦士たちであり、私たちは何らかの方法で支援~共闘していく責任があるだろう。

 大阪地裁においても、ナターシャさんが同僚のホステスを刺し殺したとして審理がおこなわれており、私も94年2月4日の公判で検察官・裁判官の質問と被告人の応答を傍聴した。いま私が痛感している問題点を列記してみると、

①多くの他の例と同様に、この事件も、加害者・被害者の双方がタイの女性である。いわば抑圧された女性同士の内ゲバであり、かの女らの怒りが真の敵に届かないままに味方を死なせていることが残念である。かの女らの情況は、経済的な侵略戦争における従軍慰安婦の位置である。本来ならば、かの女らにとってこそ反日闘争や(タイを含む)男性主導社会への闘争が必然であるにもかかわらず、少なくとも事件までは意識されてきていない経過の中に、この問題の真の悲劇がある。それは同時に、東アジア反日武装戦線の爆弾闘争の意味に共感しつつも、より存在的に複雑なこの問題へ引継ぎ応用していくことを直ちにはなしえていない私たちの悲劇でもある。

②言語の壁-ナターシャさんは、後半の一部の発言を日本語でおこない、次のぺージ右に転載したような日本語の文章を書くことができるようになってはいるが、これは2年近い獄中での学習の結果であり、取り調べや裁判や面会は日本語を強制されてきた。勿論通訳はいるのだが、それぞれの機関に属するか嘱託されている人であり、被告人の立場をくみとりつつ言語交通の媒介になるというわけにいかない。通訳の人員も研修も、法廷での休憩時間も不充分であり、公判を傍聴していたタイ語の判る人は、閉廷後に、通訳は要約・省略が多く、検察官の長すぎる文体の質問が、それを加重していた、と指摘していた。この状態に対する批判の声を裁判官は強権的に無視している。

③ナターシャさんは日本人男性との間に二人の娘(現在4才と2才)が生まれたが、父親に相当する男性の認知がないため無国籍のまま幼児院と養護施設で(年令区分により分離されて)過ごしてきた。弁護人の努力でタイ国籍がとれるようになったものの今度は不法滞在で強制送還されそうである。母親が(実質的にはせいぜい傷害致死、本質的には正当防衛であるが)殺人罪で裁かれ、長期の服役が予測されるので、今後ずっと出会うこと、まして一緒に暮らすことは不可能である。日本人の場合よりも何重にも困難な運命をしいられているにもかかわらず、これまでの東南アジアの人々への判決の先例は日本人に対するよりも重く、これは日本の支配層の差別政策を象徴している。

 私は、この問題を機関誌(例えば前ぺージに記事を転載した「救援」)によって知ることはできたが、実際に法廷まで出かける気にはなっていなかった。法廷まで出かけたのは93年末に〈ふしぎな機縁で出会った人〉の中にナターシャさん母子を支援する女性がいたからである。まことに、ふしぎな機縁であると思うが、そのようにして微かに関わり始めているに過ぎないことの自己批判をこめて、そう思うのである。私には私なりの関わり方しか今はできないとしても、その偏差自体にこめられている意味を正確に把握し、深めつつ応用していくつもりである。

 私なりの関わり方という場合、必ずしも前記の三点に示されているようなテーマとの格闘だけではない。より自由な視点、いや聴点を媒介していきたい。なぜ視点というよりも〈聴点〉がふさわしいか…。今年2月4日の法廷で初めて出会ったナターシャさんの発語の意味を私は全く理解できなかったが、発語や姿勢の総体からあふれてくる繊細な音楽性が印象的であった。これは勿論かの女の資質や、獄中での内省による成長にも関連しているであろうが、言語としての特性によることも、閉廷後に読んだタイ語の本から判った。

私は語学のセンスは乏しいし、ましてタイ語に関しては幼児以下であるが、それを前提として、あえてタイ語の特性を記すと、a-タイ語は韻および声調を基本としている。声域には(音楽の5線譜のように!)5段階あり、同じ表記でも高低の変化によって全く異なる意味をもつ。例えば maaは、高低なしに発音すれば「来る」、高い声域で発音すれば「馬」、低部から高部に移行する声域で発音すれば「犬」である。(日本語にも「ハシ」のように発音によって「橋・箸・端」などに意味を分岐させる例はあり、関東と関西でアクセントが逆になるのも面白いが、タイ語の場合は、より総体的な特性といえる。)b-タイ語は西欧の文法体系から判断すると語形の変化がなく、性・数・格・人称・時制を示す標識もなく、さらには品詞という概念さえない。(へブライ語の助詞には時制がなく、完了形と未完了形しかないことを預言の実現度との関連で印象的に聞いたことがあるが、タイ語はより徹底している。)aの韻および声調との関連における語順だけが判断の手掛りになると聞いて驚くが、タイ語を話す人々が、こういう文法体系の判断を越えて自由に意思を交通し合えていることに、もっと驚く。これは文法だけでなく文明の突破方向にも示唆を与えてくれる。

c-タイは〈微笑みの国〉といわれているが、言葉より(存在的な声を聴きとりうる他者への)微笑みの方が重視され、日本人のように無表情で形式的な美辞麗句をひけらかすことは失礼であるという。背筋が寒くなるような指摘である。

 これらのa~b~cを基軸とする特性から受ける衝撃を、ナターシャさん母子のテーマについてだけではなく、さまざまのテーマの追求に生かしたい。

註-ナターシャさん母子のテーマを普遍的に論じるとすれば、以上の提起で、とりあえずはよいといえるかもしれないが、この提起によってナターシャさん母子が具体的に力づけられることは殆どないであろう。むしろ、支援グループの人々とスケジュールを組んで、養護施設から子どもを連れていって面会したり、差し入れたり、タイの父親と連絡をとったり、判決が少しでも軽くなるように弁論を構想したりする方が、ずっとナターシャさん母子にとって具体的なプラスになるであろうことや、その作業に関わる人々こそが重要であり、不可欠であることは判っている。私も必要ならぱ、いつでもピンチヒッターになる用意はある。しかし、あくまで自分の不可避の闘いを展開する過程での空想上のピンチヒッターでしかないことを自覚しつつ以上を記してきた。その上で次のことを記しておきたい。

①〈タイ女性〉を媒介する刑事事件を把握する基本軸は多くの例について共通であるとして、個々の例は、より複雑な陰影をともなっているはずであり、とりわけナターシャさん母子の場合にはそういえるという気がする。あえていえば、この事件に関心をもつ全ての男性が自分をかの女と関係のある位置に置き、全ての女性がかの女の位置を生きていると仮定し、かの女らが日本で暮らした数年間に潜った条件や感覚の中で、どのように振る舞うかを考え、事件と対置してみる作業が必要であると考える。それによって事件を法的レベルで裁こうとする枠や、これまでの事件把握の傍観者性を突破しつつ、かの女らへの本質的な提起をなしうるのではないか。

②前項は、本文でのべた反日武装戦線レベルの方法だけでは真の反撃は不可能ではないかという内省にも関わる。東南アジアへの侵略企業は爆破される理由がある。しかし、買売春に関わる男(女)をどのように〈爆破〉するか。このいい方がいくらか短絡していると感じられるならば、原子力発電や家畜制度の粉砕の質の差を媒介させてみるのがよい。(*)これらは具体的な粉砕の現実的困難さだけでなく、自分の生活や存在が粉砕すべき対象に依拠し、同質の構造に組み込まれているという、より深い困難さを開示している。ナターシャさんたちの問題に限らず、各人が位相差はあるとしても日々無縁ではありえない内在性の問題との対決の方法が、今後ますます問われていくであろう。

③ナターシャさんの娘の他に、事件で死亡した女性にも娘がある。今は幼いこれらの娘たちが次第に成長していく段階で、自分の母と自分を軸とする世界把握をしていく場合の不安定さ~絶望をいかに支えうるか、という視点を今から準備しておく必要があるだろう。かの女らこそが、今回の事件の最大の犠牲者であり、それ故に最も審判者の位置にふさわしい。かの女らの行方を見守り、共闘する人々がたくさん現われること、それらの人々が、今回の事件を引き起こした全ての要因の爆破~解体へ突き進んでいくことを心から願う。

(*)武器~弾薬の製造・使用への反対、自衛隊・機動隊粉砕と、原発用燃料の輸送・使用への反対、授業・入試粉砕を比較してもよい。

参考:ナターシャさん自筆手紙(上)http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/Tai1.jpg

(下)http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/Tai2.jpg   「ナターシャさん母子を見守る会」通信第3号(93年4月)より

『概念集 10』(~1994.3~) p16~18 より

*1:10年前だが

ファロナルシスト石原のの事実摘示は嘘

  西宮の反フェミニストとして知られる?内田樹さんのブログhttp://blog.tatsuru.com/ 3/5に、

石原都知事が「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする。」と言ったと出ていた。

 あるフランス語学校経営者がそれに抗議している。

(1)貴殿が上記報じられた内容を発言したのは、真実ですか。

(2)「フランス語は数を勘定できない言葉」であるとの事実摘示が真実でないことを、貴殿は承認しますか。仮に承認できないとすると、貴殿は、いかなる根拠に基づき、具体的にいかなる事態を指して、かかる発言をしたのですか。

 プチウヨ、“なかった派”類似分子(石原を含む)は、アジアの隣国だけでなく欧米にも全く通用しない言説で自慰している有害分子である。

今頃になって従属だったのか!

で、俺の時代に至るまで、基本は「新左翼は日本帝国主義自立論」であって、また、80年代のバブル期だったので日本も外国にガンガン資本投下して、外国の安い労働力を搾り取るようになっていたわけで、「日本帝国主義」という言葉にはなんの違和感も持たなかったわけだ。

然るに、この小泉政権のアメリカ帝国主義への従属ぶりはどーよ、という問題に突き当たったのが、アフガンーイラク戦争の過程である。アメリカ合衆国は対イラク開戦ですんげえ国際的に孤立を深めたわけだが、その中で率先してブッシュの屁のにおい嗅ぎにいってたのが小泉である。

「・・・・・・オマケだったのか・・・・」という衝撃が我々の中にはあった。

http://black.ap.teacup.com/despera/34.html

衝撃とまでは言わないが、今頃になって従属だったのか、という思いはわたしにもありましたね。

ユダヤ人/シオニズム

高橋 『 何年か前までは、私はナチスに迫害されたユダヤ人を気の毒に思っていた。単なる心情的支援であったが。しかし、イスラエルにおけるパレスチナ人に対する暴虐無残な殺戮・弾圧などを見聞きしているうちに、ユダヤ人というのは、私が子供の頃に皇軍の将校から聞いたユダヤ陰謀説なるものを信じる気持ちになってきた。

 実にユダヤは世界に災厄をもたらす巨悪の1つである。イスラエルはナチスよりも恐ろしい。よって今後はイスラエルを ナチラエル NAZIRAEL と呼ぶ事を提案する。』

高橋さん、こんにちは。野原燐です。

(1)現在のイスラエル国家はパレスチナ領域内に住む(及び領域外に移住をやむなくされた)パレスチナ人に対して土地の強奪、家屋破壊、検問、壁、暴行、殺害などなどによる迫害を継続しています。にもかかわらず国際社会からの批判は弱くUSA国家を始め多くの大企業なども多大な援助を行っています。

(2)フセイン政権を倒して得をするのはUSAではなくイスラエルである。イスラエルの核を不問にしたまま、核拡散反対を強行しようとしても論理的に矛盾する。小泉が追随しているUSAの中東政策は長期的に見て中東に安定をもたらす見込みはない。

(3)

 書くべき事はいくらでもあるのですが、ここでは「ユダヤ陰謀説=実にユダヤは世界に災厄をもたらす巨悪の1つである。」という言葉使いについて。

「国内」での暴虐無残な殺戮・弾圧などにより国内だけでなく結果的に世界じゅうにテロリズムの蔓延をもたらしている(ともいえる)犯人は、イスラエル国家とそれを支えるシオニストたちです。ユダヤ人というひとたち、はべつに一つの考えでまとまっているわけではありません。現在のイスラエルのあり方に批判的なユダヤ教指導者もたくさんいます。

 したがって、巨悪はユダヤではなく(現在残念ながらイスラエル「国内」で圧倒的多数派である)シオニズムである、と理解すべきです。

(4)

現在まで欧米の殆どの地区において、ユダヤ人差別が日常的に存在しているという事実もある。したがって、ユダヤ人ではなくシオニズムが悪だ、と考えるべきだと思います。

 以上は、欧米と違いユダヤ人に対して歴史的に負い目を持たない日本人にとっては容易に辿り着ける認識のはずです。

(5)

ところで、ユダヤ人とシオニズムとの差異は、日本人に対しても適用できます。日中友好声明のときに確認された「悪しき軍国主義者」と「それ以外の(本来は平和を愛していたはずの)日本人たち」という区別です。前者をわたしはこの間、【国体護持派】とも呼ぼうとしてきました。

宮台: 靖国神社にA級戦犯が祀られているのはどういうことであるのか。理屈ははっきりしている。要は、天皇陛下と日本国民から罪を免じてA級戦犯が悪いということにする。これがサンフランシスコ講和条約*1の基本になる。もちろん中国もロシアも参加していませんが理屈は世界中に知られていたわけですよ。日本国民が悪いんじゃないという話にしてA級戦犯に罪をなすりつけた。(http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041201#p1 スワンさんの引用する宮台真司より。

靖国神社にA級戦犯が祀られていなかったのはどういうことだったのか?を端的に説明している。

 (わたしたちは悪くなかったんだという)否認のナルシズムである【国体護持派】は、日本人に対し悪影響しか及ぼさない連中であることは明らかでしょう。

多くの日本人とは

0000 『日の丸が多くの日本人に好かれていない理由は以下(省略)

この一文だけであなたの主義主張が一方へ偏っていることが良くわかります。

一般の日本人は日の丸に誇りを持っていると思います。オリンピックやワールドカップなどを見たことがないのですか?』

K’s room経由 『はじめまして。

> 日の丸が多くの日本人に好かれていない理由は

との事ですが、日の丸はたしか左にバイアスがかかっているとされる

朝日新聞の読者にして8割りだかが支持していたはずですが。

ロジックのなにかが間違ってませんか?』

(野原)

 例えば、国民の1割が好きでない、とします。この場合、一千万ほどの日本人が嫌悪していることになります。当然、「多くの日本人に好かれていない」ということになりますね。

(1)生きて俘虜の辱めを受けずとして兵士や市民に死を強制した帝国を、愛すべきだと考える理由を教えてください。

むう 『むしろ多くの日本人が日の丸を愛しているんだとの理由を教えてください。

スポーツ大会で日の丸をかかげるのは日の丸を愛しているからではなく、単に恒例だからだと思います。じっさい君が代は歌ってない選手が多いです。これも嫌いだからではなく知らないだけでしょう。』(2005/04/17 20:23)

JR西日本・尼崎電車区ってひどいところなのかな?

2001.9.6 運転士、服部匡起(44歳)さん自殺。

http://www.jr-souren.com/statemnt/tusin492.htm

JR総連通信 №446

 9月6日、JR西日本・尼崎電車区で1分の列車遅延を理由に乗務停止の扱いを受けていた運転士が自殺するという悲しい事態が発生しました。

1年後、自殺した運転士の父親が提訴

http://www.jr-souren.com/outlaw/teiso.htm

管理者とJR西日本に損害賠償請求

訴状の中で榮さんは「被告園田、同片山、同山口は、現実の行為者として、『日勤教育』の実態が…過酷ないじめに等しいものであることを充分に認識しており、心理的付加の過度な蓄積により匡起の心身の健康を害する危険性を予測し得た。にもかかわらず匡起に対しそのような『日勤教育』を敢行したのであり、被告園田、同片山、同山口には、匡起の自殺について、少なくとも過失があることは明らかである」と尼崎電車区管理者の犯罪を告発しています。

http://www.jr-souren.com/outlaw.htm JR西日本・JR東海の不法行為

宇宙論とは何か

# amgun 『noharraさん。そうですね。『三大考』は、『古事記伝』で宣長自身が「これは私が言いたかったことそのものだ」的な絶賛をしているので、『古事記伝』がどのような宇宙論を含意したものだったのかを考えるには、避けて通れないテクストなので、読む価値はあります。前回の私の研究会報告では、『三大考』から派生していく様々な問題の自分なりの整理も兼ねてしたのでした。』 (2005/05/26 09:30)

(野原)

amgunさん、コメントありがとう。いやまあそれは、三日ほど前からは分かりました。(発表を聞いていたときには始めてだったので、もうひとつピントが合ってなかったのですが・・・)

ケプラー、ガリレオの宇宙論の概要は教養として必須ということに一応なっていますが、本当にそうなのか。それが事実だから知る必要があるのか。教科書に書いてあったからという理由だけでは無意味だろう。amgunさんが配布してくださった中庸以降百年にも及ぶ、三大考論争とは何だったのか。最初から無意味な言葉遊びに過ぎないのか?現在までの自然科学の成果というものが揺るぎないものなのであれば、歴史を振り返る必要もないのか?

・・・うまく言えないのですがそのような問いに囚われました。