国家神道とアニミズムは矛盾する

 宣長は神についてこう言っているらしい。

「かみとは、古の御典(みふみ)どもにも見えたる天地の諸々の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐい海山など、其の余(ほか)何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)きものを“かみ”とは云うなり。」『古事記伝』三

『国民の歴史』の著者西尾幹二(維新じゃない)はこれを引きながら言う。「日本の神々はきわめて具体的な事物や現象において考えられるもので、抽象的理念的な存在ではない」「これは通例アニミズムと呼ばれるものに等しい」*1

 へー、アニミズムって言っちゃっていいの、と思いました。アニミズムというのは宗教の原始的段階であり普通はけなし言葉でしょう。植民地主義の言説ではネイティブが未開である証拠として使ったりする。日本が尊いとする右翼人士がそんなこと言っても良いものか。仏教儒教に比べて言説力において大きく遅れを取っていた神道は、はじめ仏教、江戸時代からは儒教の語彙や発想を真似て自己の神学を形成してきた。平田篤胤はキリスト教にも学んだと言われている。西尾氏はそれらの努力をすべて無視して、アニミズムに帰る。超越的「天」の観念を背景にした中国的古代世界に対し、日本はそれとはちがった文明を持っていたと言いたいらしい。

 ここに注目したのは、http://d.hatena.ne.jp/noharra/20031129 で野原が、菅田正昭氏の本に依拠しながら書いたことは、「神道=アニミズム」にとても近いことだったからだ。菅田氏が原始神道に共感するのは、靖国神社などの国家神道は神道の本来のあり方ではないとし、本来の神道はもっと純なものでそれなりに可能性があるはずだという強い思いから来ている。すなわち、天照大御神を至上の神とする神々のヒエラルキーを作り出し主権者天皇を絶対化するために利用した近代日本の神道と、「神道=アニミズム」説は相容れない。ところがおかしな事に西尾氏はその点には触れないようだ。皇国日本の近代史を否定することは間違っているという信念が語られるだけだ。履歴からすると正当派哲学研究者のはずの西尾氏はトンデモ派に成り下がっているのか。

付記 http://www.ywad.com/books/698.html において、wadさんが『国民の歴史』を批判する場合、大衆に理解を得る批判でありうるためにはどうしたら良いか論じている。同感した。

*1:以上、子安宣邦氏の『「アジア」はどう語られてきたか』藤原書店のp266からの孫引き