それは愛ではなく

 去年のノーベル賞受賞者J・M・クッツェーの土岐恒二訳『夷狄を待ちながら』が集英社文庫になったのでさっそく買ってみました。『夷狄を待ちながら』は大傑作です。*1みなさん本屋さんで手にとってみてください。異文明との接触を描くSFのようでもありストーリー的にも起承転結がはっきりしていて面白く読みやすい。*2

 クッツェーは1940年南アフリカ生まれの白人。この小説の舞台は架空だが、18世紀末の東ケープ地方をモデルにしているらしい。先日書いた南アフリカの歌劇「ウモジャ」と共通点はないこともない(強弁だが)。ウモジャは愛と性のドラマなのだが、恋愛ではない。黒人の部族においては愛と性は一対の男女において始まるものではない。それは、女の同年齢集団と男の同年齢集団とのコミュニケーションとして存在する。そうした時代はすぐに過ぎ去り若者たちは都会へ出てくるのだがそこにも恋愛はない。即ち女は娼婦になり、商品として媚びを売ることはあっても、一人の黒人に愛を捧げることなどできないのだ。即ちそういう風に古代以前から、急に21世紀のルンペンプロレタリアートに飛躍するそれが真実だというシビアな現実があのエロティックなエンターテイメントの骨格にはあった。一方、この本は白人男性と夷狄の女との性交あるいは疑似性交シーンがずっと出てくるのだが、最後まで男と女は愛(二人の対等性を基盤にする)の入り口にも達することができない。不可能性は客観的に存在する、そんなことはあの歌劇を見ても分かることだ。まあそうなんだがそう言ってしまえばお終いでしょう。不可能に近くてもひとはそれを追求しなければならない。(以下ネタバレ注意!)

 というか、主人公の「私」は不可能だからこそその女を抱こうとしたのかもしれない。物乞いしている夷狄の女。女は煙っぽく、不潔な衣服が異臭を放ち、魚くさい。女は被拷問者だ。

 主人公は静かな城壁に囲まれた辺境の町の民政官、帝国から唯一人派遣されている権力者だが、二十数年その職にありすっかり穏和になっている。がある日、同格の権力を持つ軍人が現れる。彼はサングラスを掛けている。彼は現実を自分の歪んだ視角からしか見ない。彼は拷問者だ。「わたしが真実を発見しなければならないような状況」においては、と彼は述べる。「最初にわたしが得るのは嘘の供述だ-じっさい、こんどのこともそうだ-まず最初に嘘がある、そこで圧力をかける、するとさらに嘘が重なられる、そこでさらに圧力を加える、と潰れる、そこでもっと圧力をかけ、それでやっと真実が得られるというわけだ。こうやってはじめて真実は得られるものなのだ。」

 主人公は女を自室に連れ込み、足を洗ってやる。色香に迷って、ではない。むしろ“罪責感をうち消す”ための方が近い。だが、彼は毎夜彼女を愛撫し続けるのだ。倫理的行為とは言い難い。彼は彼女のなかに入らない。彼は彼女をどうしたいのか、自分でも分からない。「わたしが好んで考える以上に正常な彼女は、わたしをも正常と見なす道を心得ているのかもしれぬ。*3

「厚ぼったい口、額の下縁でカットされた髪、ずんぐりした背丈の少女。(略)「さよなら」とわたしは言う。「さよなら」と女は言う。*4

この対等性を獲得するために、主人公は多くを予想もしなかったほど多くを失うことになる。だが、最初に書いたように「愛」が得られた訳ではない。

(この小説はイラク侵攻の失敗のことも思わせる。上の記事と合わせて読んでください。)

*1:isbn4-08-760452-7 12月刊行。 でこの邦題にある夷狄ですが、イテキと読む。東夷北狄の略で中国から見て未開民族をいう言葉だが死語ですよね。原題はWaiting for Barbarians で、アレクサンドリアのギリシャ詩人カヴァフィスの詩のタイトルから借りたものだ。この詩については、サイードのお葬式の時に娘さんがコンスタンティノス・カヴァフィス(1863-1933)の詩 “Waiting for the Barbarians”を朗読したと、中野真紀子さんのサイトにあり、中井久夫さんによる訳も載っています。 http://home.att.ne.jp/sun/RUR55/home.html

*2:実際、この Waiting for Barbariansは1983年度のフィリップ・K・ディック記念賞候補になっていたらしい。惜しくも受賞はラッカーの『ソフトウェア』にさらわれた。ちなみに野原は『ソフトウェア』のファンでもある。

*3:同書p130

*4:同書p167