戦時・性暴力連続体と女性のエイジェンシー

上野千鶴子・蘭信三・平井和子編集の『戦争と性暴力の比較史に向けて』という論文集を読んだ。研究者12人による論文集である。
以下、ランダムなメモ。

戦争は物理的だけでなく構造的暴力である。人間を従属下に置きコントロールすることである。「強姦から売買春、恋愛まで、さらには妊娠、中絶、出産から結婚までの多様性を含んでいる。」このような連続性を語るのは「事実このあいだに連続性があって、境界を引くことが難しいからである。」

「女性の異性間性行為の経験は……圧力による選択から力による強制までの、連続体上に存在する(リズ・ケリー)」
まあとにかく、「性暴力連続体」、上野が提起するそれを受け入れて話を続けよう。
強姦と犯罪化されないものはすべて無罪でありOKと考えるしかないという、ネトウヨ的基準をどのようにしても覆す必要は常にあるわけだ。

性暴力には連続性があるのに、そこにはさまざまな形で分割線が引かれる。

A.性暴力連続体に対して、加害者性の認定を最低限にしたいと考えるネトウヨや政府関係者は、法的に有罪であるものだけが有罪であり、それ以外は「道徳的に可哀想なだけだ」という分割線を、強く主張する。

B.しかし、日本軍の責任において慰安所が設置・運営されており、そこでの生活が離職の自由がないなど強制下のものであった場合は、日本国家に責任が生じるのは当然である。有責とされる範囲はA.の場合より広くなる。

C.さらに、兵士個人の犯罪とみなさざるをえないもの、軍から独立した民営施設における売春などでは国家の責任は直ちには問いにくい。しかしその場合でも、軍、占領、戦争といった圧倒的な暴力を背景にそれぞれの行為が起こっている以上、任意の自由な男女の関係とみなすことも適切ではない。

個人は十全の自由意志を持ち自己身体を自由にコントロールできる、というのが近代法を支える人間観である。しかし戦時性暴力を考察する時には、そうした「強い主体」を前提にすると、うまく分析できないことがある。

「エイジェンシー」という用語はこのような時便利である。
「エイジェンシーとは構築主義パラダイムが、構造と主体の隘路を突破するために創りだした概念である。それは近代の主客二元論を克服するために、完全に自由な「負荷なき主体」でもなく、完全に受動的な客体でもない、制約された条件のもとでも行使される能動性を指す。(略)
女性は制約のない完全に自由な主体でもないが、だからといって歴史にただ受動的に翻弄されるだけの客体でもない。
p11 上野千鶴子『戦争と性暴力の比較史に向けて』」

被害者としての立場で加害者を告発する、大きな暴力が存在しそれが抑圧され続けている以上社会的にはそれが、第一義的な課題となる。
しかしだからといって、女性は「たんに受動的な犠牲者」であったわけではない。さまざまな体験があった。「ときには強姦と売春、そして合意のうえでの性交を分ける線の幅の細さに、自分自身でとまどって」(同書p162)いながらも、ギリギリの生存戦略を選択していく。

売春という言葉を自由意志による商行為、すなわち管理者・軍の責任の全面免除という意味にしか理解しない自己の偏見を無理やり拡大することで、ネトウヨは世論にさえ影響を与えている。このような状況下では「エイジェンシー」という発想を提示することも、ひとつの困難さはある。しかし、どんな場合もひとはまったき自由の下では生きていない。まして、戦時性暴力という巨大な磁場のなかで生きる女性たちの実存に近づくためには、まずネトウヨ的平板かつ責任回避的問題設定をひていしなければならない。次にそれぞれの情況で女性たちが、どのようなエイジェンシーを行使して生きたのか、微細に見ていく必要もあるのだ。

性暴力被害者は常に、暴力からの被害と同時に、汚れた女〜売春婦差別という別の差別にもさらされ続ける。重層化する差別と抑圧はあるが、「従軍慰安婦」問題については、支援者側の支援・調査研究(試行錯誤からはじまった)の分厚い歴史がある。
ネトウヨ側のミスリードにさえ引っかからなければ、接近は難しくない。

ただまあ、結婚とかだとそれは100%祝福され無罪なものと考えられるので、戦時性暴力といったおぞましいものと関係があるとするのは受け入れ難いと感じる人は多いだろう。
しかし、「第二次世界大戦後、日本の連合国軍占領のために駐留していた米軍兵士と結婚し、米国に渡った日本人戦争花嫁は、戦後すぐから1950年代末までで合計約40,000人に達するといわれている[ウィキペ]。」
しかし彼女たちはパンパンと呼ばれ極端に差別され続けた女たちとかなり重なるカテゴリーである。敗戦国民や戦勝国民の良識派の人々からの差別も含めて考察する必要があるなら、この連続体の意味は明白にあるだろう。

追記:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RA62V3XFWJZRL/ref=cm_cr_arp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4000612433
「上野氏は朴裕河氏の「帝国の慰安婦」に対する、傍目には奇妙としか言いようのない肩入れぶりをめぐって、いろいろと非難されている。」非難する側に立って上野氏をDISってこの本の紹介。面白い。
朴裕河氏の『帝国の慰安婦』がクズ本であるのは言うまでもない。→

朴裕河『帝国の慰安婦』どうなのか?

楠田一郎 黒い歌Ⅰ を紹介する

楠田一郎(1911〜1938)という詩人がいる。
『楠田一郎詩集』(1977年蜘蛛出版社)という本をたまたま持っていた。
冒頭に「黒い歌」連作Ⅰ〜Ⅷがあり、これが代表作だろう。Ⅰを紹介する。

黒い歌Ⅰ

孔雀のやうに羽をひろげて
橋の下を
棄てられた花束のやうに
溺死體がいくつとなく流されてゆく
空には架空の花が咲き
天使の夢やボール紙の悲しみが
智識人の太陽やアナルシイが
大戰時代の
マルク紙幣のやうに膨張する
灰色――死が快感をひき起す
徒刑場のお祭り騒ぎには
なにか美しい本質がひそんでゐた
死屍が横たわり
木の影で墓屋が睡ってゐた
鳥が射殺されてそのまゝ腐った

  おなじく

眠っていた――一羽の鳥が啼いた
かぐわしい沐浴の中で美しい男が自殺した
風のない森蔭を歩き
雲のやうな夢に埋れ
世界が哄笑し
死があらゆるものの上から覗き
小徑にかくれた夜を太陽の如く
待ってゐた
そして黄色い大河の上で
血まみれた晴天白日旗のやうに
夕ぐれがわめきはじめたとき――
よごれたジャンク船とともに
もの悲しい歌の消えるところ
永遠の火が破壊の風にあふられて……

(以上)
参考:
詩誌『新領土』での友人だった大島博光氏は、つぎのような追悼詩を残している。

楠田一郎への悲歌
   ──彼は地球から出て行った
     歩むために飢えないために──<黒い歌>
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-827.html

さて、ちょっとは感想を書かないと。
橋の下を、死體がいくつとなく流されてゆく、というのはこれが書かれた直前に始まった、日中戦争以後約8年間の巨大な戦争において何度も繰り返される風景であろう。
しかし、この詩においては死體はそのような事実のレベルで書かれているわけではない。
天使の夢やボール紙の悲しみが智識人の詩学や実験への熱意が膨張する。そのような自己の営みの〈本質〉を名指すために、楠田は「溺死體」「死屍」と言った言葉を持ってくる。
ただここで楠田が言っているのは、「遊んでないで現実を直視しなさい」といったお説教とは正反対のことだ。
「風のない森蔭を歩き雲のやうな夢に埋れ世界が哄笑し」といった「架空」を真剣に作ることは、すべてが死から見つめられることである。「よごれたジャンク船」といった形象を不可避に招き寄せることだ。
よごれたジャンク船がある中国の小川、そこでの銃撃戦などを一切楠田は見なかった。にも関わらず、「かぐわしい沐浴の中で美しい男が自殺した」という彼が書いた1行は、どうしてもそのようなイメージを引きずり出してしまった。興味深い。

ジュディス・バトラーと〈自己の外へ〉

ジュディス・バトラー』藤高和輝・以文社という本を読んだ。借り出し期間超過しているので、今日図書館に返す。バトラー論としては読みやすいし良い本だと思う。

さて、バトラー思想を「生と哲学を賭けた闘い」として理解するのだとして、藤高(敬称略)は、この本を書いた。
社会という制度のなかで他者化され押し殺されてきた彼女自身の生、と哲学という制度のなかで他者化され押し殺されてきたわたしたちの生、その両方を生き延びさせるために虚数方向から他者の声を呼び込むこと、それが彼女の闘いであっただろう。

バトラーは何よりもトラブルの哲学者として記憶されている。幼少期、自身のジェンダーやセクシュアリティをめぐる葛藤から、地下室に逃亡し、スピノザのエチカを手に取った。「人間存在におけるコナトゥスの根源的な固執から生じる感情の状態に関する推論は、人間の感情に関するもっとも深く、純粋で優れた説明のように思えた。事物がその存在で在り続けようとする。私に送られたこの思想は、絶望のなかでさえ固執する一種の生気論であるように思われた。」p19 とバトラーは語っている。

エチカ2部定理九:現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状(アフェクトゥス)した〔発現した〕と見られる限りにおいて神を原因とする。バトラーが周囲とうまくいかない「醜いこ」であったとすれば、自己がどのような変状であろうと神との関係においては、他の子とまったき対等性を持つ、と教えられることは根源的慰めを与えてくれるものであっただろう。
(エチカの引用は、http://666999.info/liu/ethica.php の目次を利用した。)

エチカ3部定理七:おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力(要請・コナトゥス)は、その物の現実的本質にほかならない。とある。
「物はその定まった本性から必然的に生ずること以外のいかなることをもなしえない」というスピノザの説明から私は決定論的印象しかうけなかった。しかし、「要請」は事実的現実に尽きるものではなく事実的現実の彼方へ向かおうとする要請を内に含んでいることを意味している、とアガンベンは言っているらしい。p290

同一性に固執しようとすることが、かえって差異の立体性を開いてしまうといった逆説が展開されていく。

コナトゥス、事物が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする傾向を言う。(ウィキペディア)自己保存。とても個人主義的な概念だと思われていたが、バトラーはそのベクトルの向きを変えようとした。ドゥルーズは、コナトゥスはそれが存在する状況に即して自らを表現するとした。

バトラーはレズビアンのアイデンティティ政治とかの中から出てきた学者でもある。「ひとが自分自身の存在に固執することが可能になるのは、他性への固執によってのみである」p254 ヘテロなマジョリティとちがって、容易に自己同一性を獲得できないのがレズビアン(など)であって、トラブルや過剰の考察が常に必要になる。

社会はまず承認の規範的構造として、傷つきやすい「わたし」の前に現れる。でわたしはまず、規範に服従しなければならない。
子供の場合、まず「自分自身として存続するためには、誰かに愛着しなければならない」p260 そしてもし養育者に認めてもらえないならば、社会的な死を経験しなければならない。その為子供は「従属化」を選ぶ。自分自身の従属化の諸条件を欲望することになる。服従化への欲望、つまり死の欲動。主体として認められるためには、ひとは自己を断念し解体せねばならない。p260
他者の世界に服従すること、それが自分自身の存在への固執になる。なんだか非常に暗い話だ。ただまあ、現在の日本社会は学校教育、就活、過剰なサービス、死に至る残業と、「服従」ばかりであることは確かな気もする。
ひとは承認を求める、つまり規範への服従を全力で行なう。しかし、そうではない可能性もある。承認の規範的構造に対して批判的な開かれを迫っていくこと、自分自身の存在を賭け、「生成変化」の実践になっていくことができる。p264

バトラーはコナトゥス(自己保存)から出発する。しかし自分自身の存在への固執が規範的構造とトラブってしまう時、規範の方が変化していく可能性がある。
コナトゥスというベクトルが存在の自らを高めつづけようとする傾向に従いつつも、社会から見た見た時、ベクトルの方向を変える。このような変容を研究していきたいと私は考えている。

批判は常に社会的歴史的地平の内部でしか行われ得ない。が、どのように知と権力が世界を体系化し秩序化しているかを明らかにする。それと、そこからの脱出を示すブレイキング・ポイントを示すことができると、フーコーは、言う。主体は脱服従化できるのだ。
〈開かれ〉をフーコーは示す。真理の体制の限界を疑問に付し、同時に自己をある意味で危険に曝す。それは、ある者を承認したい、あるいは別の者によって承認されたいという欲望によって動機づけられている、とバトラーは付け加える。
私は、社会ー歴史的地平のなかで行為しながら、それを破綻、あるいは変容させようとしている。私を私自身の外の、私自身から剥奪され、同時に私が主体として構成されるような場へと移動させる動き、脱自的運動を通して。p280 それは他者とともに生きる共通の生を開く徳の実践でもある。

マイノリティは暴力的抑圧によって形成される。それは、暴力的な報復に向かいやすいものでもある。私たちという存在は、共有された危うさである。しかしそうした怒りは、私たちが強い情動でもって互いに結び付けられるための条件でもあるのだ。
承認可能性の規範から排除された「怒り」を自己や他者に向けるのではなく、社会へ向けなおすことで「共通の生」を開こうとする、そうした可能性がある。
「抵抗の行為はある生の様式にノーと言うものであるとともに、もう一つの生の様式にイエスと言うものであろう」p285

「怒り」を、あなたとの新たな関係への、新たな共同性へのベクトルに変容させること。私たちという同一性を確立し、他者を排除するのがアインデンティティ・ポリティクスの経験だったが、バトラーはそれをきちんと辿ろうとすることで、かえって「共通の生」を志向することになった。

「もし主体の系譜学的批判が現在の言説上の手段によって形成される構成的、排他的な権力関係に対する問いかけであるならば、それに従って、クィア主体についての批判はクィア・ポリティックスの民主化の継続に欠かせないものであるだろう。アイデンティティ用語が使われるべきであり、「アウトであること」が肯定されるべきであるのと同様に、これらの概念自体が生産する排他的作用は批判されなければならない。」

アイデンティティ・ポリティクスとは領域確定であり、定義の厳密化であり、自己権力の確立であるだろう。しかし、バトラーはそこに留まらない。「批判的にクィアする」ことが継続されなければならない。批判的に「自己の外へ」と開こうとする運動、〈取り乱し・トラブル〉は幸か不幸か、継続される。

「すなわち、潜往的に運動しているものとして、時間的なものとして、私ではないもの(not I)として、固定した利害あるいは経験よりもむしろ求め(want)の系譜学に従って脱構築しうるものとして、である。このように、(現有進行中の)欲望の系譜学の効果として理解された主体は[…]主権的なものとしても、決定的なものとしても現れない。たとえ、それが「私」として肯定されているときでさえ(Brown 1995: 75)。」
と、ウェンディ・ブラウンが引用される。p302
つまり運動は、断固としたわたし(あるいは私たち)の肯定として始まるが、求めるという動詞に導かれるそれは、同一化、権力集中の力学から常に逸脱することを孕んでいる。
バトラーは〈複数形の私たち〉に訴えるのだ。

以上、この本の9章、10章、結論部を、自由かつきままに要約してみた。怒られるかもしれない。
ご批判などよろしくおねがいします。

吉田松蔭に価値はあるか

吉田松陰は尊敬されるべきである。と言いたいが、勉強不足で説明するのは難しい。野口武彦の『王道と革命の間』の松蔭の章を読みながら、理解できたところを簡単に紹介したい。

「わが国体の外国と異なる所以の大義を明らかにし、かふ(闔)国の人はかふ国の為に死し、かふ藩の人はかふ藩の為に死し、臣は君の為に死し、子は父の為に死するの志確固たらば、何ぞ諸蕃を畏れんや」p256(闔国とは全国という意味らしい。某国という意味かと思っていた。)ここで「大義」があくまで普遍性に向けて開かれたものであったと、考えていくことができるのではないか。

「この「国体」概念は、明治維新以後の時代から逆投影されて極度に理念化されたそれとは、かならずしも同日には論じられない性格を持っていたように思われる。」と野口は書く。p256 昭和十年代の劣悪な国体概念を砂糖水に垂らしたような現在のネトウヨ的「国体」理解と混同することは、なおさらできないだろう。

吉田松蔭(1830年〜1859年)。彼が維新の8年も前に死んでいる点を私たちは勘定に入れなければならない。忠誠・政治の中心点を藩・幕府から天皇に転換するだけでなく、それが民生の全てを支えうる価値の総括者でもあるという「国体論」を、彼は創出した。松蔭が「狂者」たる己の実存を掛けて果たした転換によって、時代は変わり多少軽薄な変革者たち(?)により維新は果たされる。
さて、その国体論は、大逆事件を経て昭和10年代に完成する全体主義「国体論」と、表面上酷似するが故に、混同させられてしまうこともある。
しかし、忠誠対象を天皇に転換するためだけにも、おおきな思想的力量が必要であったことを全体主義的感じをあたえる理解しなければならない。
また、民を愛するという仁政の徹底においてしか、国のために死すことはできない、と考えた点は重要であろう。

松蔭の思想は「事実上の教え」としての孟子に基づく。
孟子の思想は、「善く戦う」などより「仁政」を重んじるところにある。「親を親しみ、賢を賢とし、民を愛し士を養うの政」を行なうことである。
「古今兵を論じる者、皆利を本とし、仁義如何を顧みず。今時に至りその弊極まれり。その実は、仁義ほど利なるものはなく、また利ほど不仁不義にして不利なるものはなし。」p273
すなわち、民に対して仁政を施すことが強国化につながるという孟子の論は、孟子が生きていた戦乱の時代のリアリズムにおいてなされたものだというのが、松蔭の「王道論」である。だから、それはすなわち幕末の危機にも直接適用できるとする。
(おそらく松蔭が今生きていれば、新自由主義による労働分配率の減少を鋭く捉えて
渾身で糾弾したに違いない。)

「「天朝を憂ふる」という一語に要約される、皇統への全身的な忠誠心情と決断主義的論理との複合」と、野口は松蔭の思想を要約する。この限りで、戦後において危険思想とされるしかないことになろう。しかし、天皇も国家主義も平和(戦争)も何一つわたしたちは処理しきれていない、そのことの危機が顕在化している以上、わたしたちは松蔭をゴミ箱に入れる権利はないのだ。

松島泰勝氏科研費叩きについて

「科研費叩き」の#杉田水脈 氏が、新しいターゲットに火を付けたようだ。

この八重山新報の記事によると、次のとおりである。

松島泰勝は、琉球民族独立総合研究学会を作った。松島は2011-2012「沖縄県の振興開発と内発的発展に関する総合研究」科研費424万円を取っている。

成果物である論文のタイトルを見れば、「自治と基地をめぐる…」「琉球の独立と平和」…など「地域活性化とはほど遠い印象を受けます」とある。
「中には「尋求自己国家独立的琉球2014」といった中国語の論文も見受けられる。
「国連での記者会見の画像を見ると「琉球民族獨立總合研究學會」と中国語で書かれています。」とあるが、独と総と学が旧字体になっているだけである。「いったい誰を対象に会見をしているのでしょうか?思わず「中国では?」と疑いたくなります。」と書いている。杉田がここで示唆しようとしているのはまぎれもなく「中国(北京政府の)」のだが、旧字体を使うのは台湾である。それに旧字体は本来日本のものでもあり、中国語などではない。それを「中国語」とは支離滅裂なのだが、2つならべて「中国」との深い関わりを暗示できればそれで良いのだろう。

「科学技術立国である日本において、「科研費」はとても重要なものです。しかし、我々の税金から捻出されるその貴重な財源を使って「琉球独立」を主張するのはいかがなものか?」
「今後は科研費の審査や決定の過程、その成果の評価がどのようになされているかについてもしっかり調査していきたいと思います」
この2点が結論部分である。
性急な反論に対して言い逃れできるように、非常に巧妙、暗示的な物言いをしていることに注意しなければならない。同時に大衆の偏見を味方に付けるための巧妙なポジショニングにも。

「科学技術立国である日本において、「科研費」はとても重要なものです。」という発言は、科学技術以外の研究・学問は客観的な評価ができなものであり、無駄なのではないか、という大衆の偏見に訴えている。
「税金から捻出されるその貴重な財源」を使っている以上、その成果を我々に分かるように説明すべきだ、とは「民主的なもの言い」ではある。しかしこれは、(net上でネトウヨと対話したことがある人はすぐ分かるのだが)ある主張を無効化するために、「分かるように説明せよ」と限りなく繰り返していく歴史修正主義者・ネトウヨのテンプレ化してものの言い方に過ぎない。しかしそれは「納税者」への説明、というタームとともに使われる場合かなり強い効果を発する。
ここで杉田が提起しているのは「琉球独立」という「偏向したテーマ」「反日的だと結論付けられる(だろう)テーマ」に、税金を支出することの是非?である。
杉田が、「琉球独立」をテーマとして取り上げたのは、それを自分が気に入らないから、ではない。日本と一体であるべき沖縄という地域が、独立という言葉を使うことは日本の版図が減ることであり即ち反日的思想あり許すことができない。このように煽られればその通りだ、と頷く国民が半分以上いるかもしれない。つまり賛同を得られやすいテーマとして選択されている。
ダライ・ラマがどんなに誘われようと絶対に口にしない言葉が「独立」である。政治的に敏感な言葉だからだ。しかし松島はダライ・ラマと違って学者である。学者はどんな思想であろうと、それを深く研究すべきである。そこに「政治的に敏感さ」を持ち込もうとするのは、日本を中国的な思想・学問の自由のない国にしようとすることである。
twitter上では、琉球王国非存在論者たちがグループを作って数年前から活発に活動中である。彼ら(中心人物は琉球歴女を名乗っているが)は琉球王国数百年の歴史についても、歴史修正主義的語りを準備している。https://togetter.com/li/1133220 などで批判した。
そしてまた、杉田はツイッターのフォロワーが10万5千いる。私の百倍、松島氏の二百倍である。(ちなみに山口二郎氏は57000である)この文章を暗示的な表現だけにとどめたのは、彼女が抑えめに書いてもフォロワーたちがいくらでもえげつなく敷衍し拡散していく。彼女はそれを計算に入れて活動し続けている。(おそらく安倍首相に評価され衆議院議員になった。)
このように、彼女は、この問題については核心部から周辺まで、広範かつ強力な支持を期待できる。いわば、万全の準備の下にこの新聞記事は投下されたわけである。

杉田氏のターゲットは明確であり、「琉球独立」を研究する学問の自由を侵害したいのだ。
大学の外にいる一市民が、学問の自由をどう考えるのか?という問題が改めて問われている。
学問の自由(がくもんのじゆう)は、研究・講義などの学問的活動において外部からの介入や干渉を受けない自由である。
ただし「明らかに反人倫的な生体実験や人類の将来に危険を及ぼすおそれのある研究については一定の規制が必要と考えられている」と制限はあるのだとされる。「人類の将来」ではなく「日本国家の将来」と基準をすり替えるならば、琉球独立論を抑圧することにも理はあるとすることはできるかもしれない。
「納税者」という殺し文句がそういう方向を後押しする。しかしそれは間違っている。

学問の自由はドイツ19世紀に強調された概念である。「市民革命が未完成で市民的自由の保障が不十分であったドイツでは、大学教授に対する学問研究の自由を保障することが不可欠だったためである。ウィキペディア」
沖縄の名護市辺野古において国論を二分する反対運動が起こっている。それは沖縄県と国との対立にさえなってるが、国は強行姿勢を緩めない。かえってtwitter上でのフェイク混じりの反対派攻撃なども支援している。
したがって、今回の松島氏への攻撃も、その一環と捉えうる。ということは「学問の自由」の本旨でもって、松島氏を守るべきだ、ということになる。

国民、その代表(代理)としての国会議員は科研費の「成果の評価」に口を出す権利があるだろうか?私はない、と思う。なぜなら、一つの論文を評価するためには、その学問及びその周辺分野でいままで何がなされてきたか、どのよなう方法でどのように書くのが妥当なのかという知識が必要であるからだ。
任意の国民やその代理としての国会議員はその能力を持っていない。したがって、無理筋の抑圧しか行なうことはできない。
これは、南京大虐殺、慰安婦問題などで、歴史学の成果に反する俗悪本が、多数かなりの部数売れているとしても、学問の水準を満たさなければ、大学・アカデミズムには反映されないのと同じことである。
しかし、杉田氏は隠れもない歴史修正主義者であり、確信犯として攻撃をかけてきている。お前が悪だというだけでは話にならない。
琉球独立論を考えることは、それを支持しないとしても、例えばスコットランド独立や英国のEU離脱を考察するのと同様、ぜひとも必要なことである。これは当たり前のことであるが、熱意を込めて大衆に説かなければならない、情況になってきているのだ。

以上、長々しく書いてきた。
科研費を取ったら説明責任が生じる、は一見正しい理屈だが、責められて説明を始めるべきではない。
1) 経理的説明責任については、「不法行為の立証責任は訴える側にある」言えばよい。けいと @kuzunobankai さん、Dr.t-BuLi (阿修羅降臨) @h_ttt_h さんに教えていただきました。
https://togetter.com/li/1228186 にまとめました。
2)成果についての説明責任は、最低限のものはnet上に公開されている。これについて、思想の自由の範囲で各自が自分の批判を提出する自由がある。それは納税者の権利とは別の問題である。なお、批判は現在までの学問の達成を踏まえていなければ、無視されるだろう。

1)と2)をごっちゃにして、数の力で気に入らない教授をやっつけようとする策動は、感心しない。

次に、(できれば)松島氏の研究概要を読んでみたい。興味深そうだ。

余傑『劉暁波伝』を読む

1,

80年代中期「文革」の大災厄を経た中国では万物がよみがえる兆しが現れ、各種の文学・文化思潮が次々に起こった。哲学ブーム、美学ブーム、主体性討論、国民性批判、『今天』を中心とする朦朧詩、白洋淀派、「黄色い大地」や「赤い高粱」など第五世代の映画、西部の風、尋根(ルーツ)文学、実験小説、星星画展に誕生を促された現代芸術、崔健のロック「一無所有」・・・

 余傑はこう書いている。p99
私はほとんど知らないが、想像することはできる。人々は自らの自由を自ら確認し展開してことができることを知り、喜び、世界が変わっていくことを信じた。おそらくどのような人にでもそうした高揚期というものはあるはずだ。そのとき人は自由であり恐れを知らない。後になって振り返れば(かんちがい)だったかもしれないが、自由という名のかんちがいが人間の本質に属することもまた確かなのだ。

このようないわばシュトゥルム・ウント・ドラング中に、劉暁波ははなばなしく登場した。しかし彼は新時期文学に冷水を浴びせるような形で、登場したのだ。
「中国の作家は相変わらず個性の意識に乏しい。この無個性の深層にあるのは生命力の萎縮、生命力の理性化、教条化であり、中国文化の発展は一貫して理性により感性の生命を束縛し、道徳的規範で個性の意識の自由発展に枠をはめてきた」と彼は語った。

彼は後に20世紀末の中国政府のあり方に異議申し立てをすることになるが、彼の思想は決して権力の批判にとどまるものではない。中国数千年の歴史が真に権力や社会の矛盾に真正面から向き合う思想、思想家を生み出し得なかったことへの深い反省が常に彼にはあった。

2,
1988年8月から三ヶ月間、劉暁波はオスロ大学に招聘された。次いでハワイ大学、コロンビア大学で海外の学者との交流を楽しんだ。89年4月15日胡耀邦が死去し、民主化の動きが高まった。劉暁波は最初海外からこの動きに参加しようと、「改革建言」「全中国の大学生に宛てた公開書簡」などを公表した。4月26日、彼は危険に身を晒すことになるから今は帰国するな、という友人たちの忠告に逆らって帰国した。権力との関係において敗北しながらその敗北を直視せず自己を偽りそれを言葉で飾り立ててしまう、中国インテリの伝統を、自分で断ち切らなければならないという思いが、劉暁波には強かった。
それまで劉は「個人主義と超人哲学を尊び、群衆を見下し、社会は烏合の衆だ(p141)」とみなしているきらいがあった。
天安門広場の学生たちの運動に、まさに情況の核心に劉はつっこんで行き、そのなかでそうした個人主義も訂正されていく。

5月13日、学生たちはハンストを初めた。
5月19日、戒厳令を敷くことに反対だった趙紫陽総書記は、広場に現われ、学生たちとの対話しようとした。しかしその時点でもはや、趙は権力を失っていたようだ。5月20日戒厳令が下される。
追い詰められた劉暁波たちは、ハンスト宣言を出し、ハンストに入る。「李鵬政府が非理性的で専制的な軍事管制を以て学生の愛国民主運動を鎮圧することに抗議する。また、一中国知識人として、この行動を以て、ただ口先を動かすだけで、手を動かさないという軟弱性に終止符を打とうとする。」ここでも劉は、知識人としての自己否定(変革)に大きな比重を置いていたことが分かる。

6月3日、戒厳部隊は、西、南、東三方から広場に向かって進軍し、バリケードや投石で阻止しようとする市民たちと衝突し、流血の惨事が起こる。
緊張が高まる広場で、一部銃で武装しようとしていた労働者クループがいたが、劉らは説得し武装解除に応じさせ、武器を叩き潰した。そして次に、劉らは広場を死守しようとする学生らを説得し、ついに学生らは撤退することになった。広場での流血の惨事は避けられたが、周辺ではすでに多量の血が流されてしまっていた。6月4日朝になっていた。
ここで、彼の人生の前半は終わる。

3,
流血のさなかよろよろと広場を出た劉暁波は、数日後捕らえられ、秦城監獄に入れられる。
劉暁波は反省文を書き、91年1月獄を出る。知識人や学生リーダーに対する罰は比較的軽かったが、一般市民の「暴徒」は死刑や重罪になるものも多かった。反省文について、「ぼくは個人の尊厳を売り渡したと同時に、六・四で冤罪を被った死者の霊魂と流血を売り渡した。」と劉は書いた。
多くの血が流され、それを証し立てなければならない立場に劉は置かれたようだった。

1991年劉暁波はオーストラリアから招聘を受け、当局は出国を許可した。当局は劉が亡命してくれたほうが厄介払いができると考えたらしい。しかし、「六・四」流血と民主化の中断の場所に劉は戻ってきた。「四六時中の監視、尾行、嫌がらせ、さらに定期的な「談話(事情聴取)」、召喚、軟禁、家宅捜索(p223)」を覚悟の上で。
彼は毎年、6月には六四の死者を追悼し続けた。詩集『独り大海原に向かって』(書肆侃侃房)には十九もの鎮魂歌が収められている。
二千年代に入ると彼はインターネットを始め、海外の友人と話し合ったり、海外で文章を発表したりすることが比較的容易にできるようになった。
2008年、〇八憲章の起草と署名の中心人物になった。自由・平等・共和・民主・憲政と言った理念に基づき、国家の政治制度、公民の権利、社会的発展についての具体的主張を提起したもの。最初の署名者は三百三人だったが、彼らの思想がすべて一致していたわけではなく、小異を残して大同につき、公民社会を作っていくための基盤として、提起されたものだ。
ところが、当局の警戒と弾圧は劉たちが予想したより厳しかった。2008.12.8警察官が「国家転覆扇動罪の嫌疑」で彼を連れ去った。そして、結局その後、彼は死ぬまで釈放されなかったのだ。なんという非道!!そして隣国にいて、幾分かの関心をこの事件に向けていたものとして、日本国内でこの問題への関心と劉暁波への同情をもり立てることができなかったことを、とても残念に思う。

劉暁波は世界のすべてを思索しようとする大柄な思想家だった。彼は西欧的な自由や制度だけを求めた思想家だったわけではない。彼は若くして荘子や司馬遷、屈原などと深く対話した。そして東洋において真の自由を得るためにはどうしていったらよいかを、素直に実践していった。
現在、六四から約30年、中国では経済的な驚くべき発展に伴い、習近平独裁体制が完成しようとしているかに見える。しかしそれは歴史の一面に過ぎず、劉暁波を引き継ぐ自由と民主主義への模索が、中断されることはないだろう。

六四天安門事件犠牲者への鎮魂歌

劉暁波の詩集『独り大海原に向かって』が劉燕子・田島安江訳編で、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)という福岡の出版社からこの3月に、刊行された。劉霞の詩集『毒薬』と同時出版になる。訳編者二人の愛情と熱意のたまものであろう。なお、書肆侃侃房は先に劉暁波の詩集『牢屋の鼠』も刊行しているので、彼の詩集は2冊目になる。
以下、その書評。

1,1989年6月4日、中国民主化を求める天安門広場を中心とした学生たちに対して戒厳部隊が襲いかかり、多くの死傷者が出た。劉暁波はその弾圧を中心部で体験した。

あんなにうねり逆巻いていた人々の流れが消えていく
ゆっくりと干あがる河のように
両岸の風景が石の塊に変わったとき
一人ひとりの数えきれない喉が恐怖で窒息し
砲煙に震えあがり散り散りになった
殺し屋の鉄かぶとだけがきらきら光る p7

その場に残ったのは、数個の鉄かぶとだけだ。

ぼくはもう旗が見分けられなくなった
旗はいたいけな子どもみたいだ
母親の死体にすがりついて、泣き叫ぶ
「ねえ、おうちに帰ろう よー! p7

散乱する鉄かぶとの近くに、崩れ落ちた旗が小さな膨らみとして見捨てられている。劉暁波はそこに「いたいけな子ども」を幻視してしまう。
子どもは母親にすがりついて泣き叫ぶのだが、応答はない。なぜなら母親はすでに死んでいるのだから。
六四という巨大な群衆運動が死滅したとき、「ぼくはもう旗が見分けられなくなった」「ぼくはもう昼と夜の区別がなくなる」。ぼくは母をなくしたいたいけな子どもに還元されてしまう。「すべてをなくした」。
「いのちは壊れ、深く沈んで/かすかなこだまさえ聞こえない」

「生きている限り、死のことはわからない」
一周年追悼、詩人の自己は「いたいけな子ども」になってしまったのか。そこにはただ「殺し屋の鉄かぶと」があるだけだった。

2,一年後、「ぼくは生きていて/過不足ない悪評もあびせられる」と劉暁波は書く。ぼくは生きているが君は、「十七歳は路で倒れ/その路はそれきり消えてしまった」。

花を一束と詩を一篇ささげるために
十七歳のほほえみの前に行く
ぼくにはわかっている
十七歳は何の怨みも抱いてないと p18

「十七歳は路で倒れ/その路はそれきり消えてしまった/泥土に永眠する十七歳は/書物のように安らかだ/十七歳は生を受けた現世に/何の未練もなかったろう/純白で傷のない年齢の他には」

劉暁波は彼をことさらに「何の怨みも抱いてない」「何の未練もない」と形容する。彼はただ17歳の一人の人間存在であった。そしてそれが中断された。死者に怨みを背負わすことはできない。すべては生者であるわたしたちが引き受けるしかないのだ。
劉暁波ができることが、「花を一束と詩を一篇ささげる」ことだけであったとしても。

3,

夕暮れ、すぐ近くに
血まみれの死体がひとかたまりになって
横たわっていた 撃ち抜かれて
大きな穴の開いた頭は
黒々として血なまぐさい
板の木目に染み込んだ
つぶれた豆腐のような白いもの
あれは何だ p95

十二周年追悼と副題されたこの詩は、奇妙なことに死体のそばにたたまたあった一枚の板の視点から書かれている。

見向きもされない一枚の板だけど
轢き殺そうとする鋼鉄のには歯が立たないけど
君を助けたい
君が気絶して倒れる寸前でも、死体になっても p97

君を助けたいという非望の直接性と不可能性を見事に作品化している。

4,

あの日に起こったことは
一種のいつまでも治らない病だ
祖先が近親相姦をつづけ
代々遺伝して伝わってきたものが
皇帝の精子の中に潜伏し
それが命運となった P58

この詩行は、日本人が読むとちょっと違和感がある。「祖先が近親相姦をつづけ/代々遺伝して伝わってきたものが」と言えば、万世一系の天皇をいただく日本の、アキヒト氏の精子にずっと濃く含まれているはずだ。「この民族の崩れた健康は/五千年かけても治せはしない」とも書く。しかし、中国は日本より大きいし、それが一つの民族であるというのは中国共産党系のデマゴギーでしかない。(中国共産党政権は、「中華民族」を「漢族と55少数民族の総称」と規定している。)

どうして、あの日、腕を
夜半から黎明まで
真紅から青黒くなるまで振り上げたのに
我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか p61

それにしても日本人は、「どうして、我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか?」と問いを立てたことは一度もない。
天皇制を糾弾する声を上げる人は居るが、自分が天皇を全面肯定した憲法1条の下に戦後の繁栄を享受したことを抑えた上で批判するのでなければ無効であろう。
全共闘運動から50年、彼らの(わたしたちの)「自己否定」が嘘だったのでなければ、「どうして、我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか?」という問いを自ら引き受けた上で、別の答えを出していくことが必要である。

「我が民族は/この宿病ゆえにすべてをコントロールしてしまえる」と劉暁波は言う。わが民族が免れ難い欺瞞性、恥知らずをその本質に持つという発想はもちろん、修辞でなければ錯誤にすぎない。
それが本質であるなら脱却することは不可能なわけであり、指摘しても無駄だということになる。劉暁波は既に獄中で死に、つまりそれは殺されたと同じであり、少なくとも彼の死まではこの本質は貫かれた。死後10年後、20年後になれば、アリバイ的な名誉回復が行われるかもしれない。それがアリバイ的なものでしかなければやはり「本質」は生き延びていることになろう。
現実がどうあれこの本質規定は有害無益なものだと私には思える。しかし実践的解決がどんな形であれもたらされることがないなら、わたしの主張もあまり意味はないのかもしれない。

なお、この詩集は、「天安門事件犠牲者への鎮魂歌」、「獄中から霞へ」、長編詩「独り大海原に向かって」の三部から成る。ここでは鎮魂歌にしか言及できなかった。

幽閉された詩人 劉霞

劉霞の詩集『毒薬』が劉燕子・田島安江訳編で、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)という福岡の小出版社からこの3月に、刊行された。
以下、その書評。

ある朝、眠りから醒めると/暗い影が夢から現れたようにゆっくりと動き/さきほどから私の視線をさえぎる/時はながれ、季節はめぐっても/あの、先がみえぬほど長くて残忍な朝が/ずっとつづき終わることがない

一脚の椅子と一本の煙管(パイプ)/記憶の中であなたを待ち続けても徒労だけ/誰も街角を歩くあなたを見たりしない/ひとみの中を小鳥が飛び/葉の落ちた木からオリーブの実が一粒落ちる [1] 同書 p58

劉霞、劉暁波の妻。
中国は共和国である。その民主主義をもう一歩進めようと劉暁波は2008年「零八憲章」を起草した。暁波はテロリストでもなんでもなく教科書的民主主義を要求しただけだが、中国共産党は許さず、囚われた。欧州の民主主義者たちは、彼の自由を求めて彼にノーベル賞を授与した。獄中の暁波は授賞式に出られないので劉霞が代理出席すべきところ、中国当局はそれも許さず、逆に劉霞の発言一切を徹底的に抑圧した。彼女は劉暁波と違い、どんな罪にも問われていないしたがって、共和国公民として海外渡航の自由を含む自由を持っているはずで、そのことは当局も公式に認めている。しかし実際には彼女は自分の友人にも会えず、近所のマーケットにも自由に行くことができず、徹底的に幽閉されている。暁波は去年7月亡くなったが、彼の死後も劉霞に対する事実上の徹底的な幽閉は続いている。

冒頭に引用した詩は、1997年に書かれた「黒い影 ―暁波へ―」。「1996年10月8日、早朝、二人が寝ているとドアがノックされ、警官が押し入り、劉暁波は妻に別れを告げる間もなく連行された(三度目の投獄)」と訳者注が付いている。20年以上、暁波がずっと囚われていたわけではない。またこの詩を書いた時点でそれに近いことが起こるなど予想もしなかったはずだ。にも関わらず、彼女の二十数年はおよそ「長くて残忍な朝が/ずっとつづき終わることがない」と要約できる。
そこにあるのは「ひとみの中」で飛んでいる小鳥である。人は自由であるとき自由を自覚できない。だからといって自由でなければ自由を自覚できるわけでもない。しかし劉霞は、悲しみのなかで、小鳥=自由を獲得し、小鳥とともに生き続けた。

劉霞は大丈夫なのか?彼女は劉暁波のことしか考えていなかった。また幽閉されすべての友人との関係を断たれ、他の事を考える自由を奪われた。であるのに、去年7月劉暁波は死んだ。劉霞はどうなってしまうのだろう。
詩集を読めばその答えは分かる。彼女は大丈夫だ。生きながら琥珀に閉じ込められた美しい小さな蛾のような劉霞は。

彼女の世界は不在と拒否で特徴づけられている。

あちらにもこちらにも空いている椅子/こんなにたくさんの空いている椅子が/世界のあちこちにあるけれど[2] 同書 p94

空いている椅子があれば人が座っている椅子もあるはずだが、彼女は「空いている椅子」だけに魅せられる。ある椅子に座ると「凍えるほどかじかんでしまい/身動きできなくなってしまう」 劉暁波の不在だけが彼女のテーマである以上、それはしかたがないことだ。

うちのドアをノックしないで/もう決してしないで/いや、するな/ /
うちには人がいない/私たちはただの人形/蒼穹の手に引かれる人形/いまはぐっすり眠っている/ / [3] 同書 p102

この詩は1998年11月とあるが、劉暁波は帰って来ているようだ。しかし詩のトーンはほとんど変わらない。劉暁波もまた六四天安門事件の死者を背負った詩人で、そこから発する言葉は他人に届かない、そうである暁波と二人でいる幸せを沈黙に閉じ込めることを劉霞は選んだ。

カーテンの裏側で/数えきれないローソクが/真っ暗で突き刺すような寒風の中/粘り強く灯っている/わたしたちは亡霊とともに/灯火を手に声を押し殺して哭(な)く/ /
お願い、ノックする見知らぬ人よ/ここから立ち去って/私たちはまだ眠らなければならないの/睡眠によって力を蓄えるために/大きなカーテンを開くとき/わたしたちは何も畏れずに対峙する/あなたちといっしょに/拍手喝采なんてごめんだから [4] 同書 p105

劉霞の拒絶は、「いまだけ」のものだ。「真っ暗で突き刺すような寒風の中粘り強く灯っている数えきれないローソク」とともに、劉霞は生きている。余りにも長く続く「幽閉」状況に合わせて、文体を作ってきた劉霞は、いま挫折してはいない。もう少し幽閉状況が続いても、生き延び、表現し続け、私たちに新しい姿を見せてくれるだろう。

追記:劉霞に自由を!!
劉霞は何の法的根拠もなく一切の自由を奪われている(友人と話したり、手紙を書いたり、作品の感想を聞いたりできない)、零八憲章発表後(特にノーベル賞受賞以後)10年近く。これはまったく不当なことであり、中国当局は至急彼女に自由を与えるべきである。鬱状態に加えて心疾患も危惧されている。ところで、2018年4月2日に亡くなったウィニー・マンデラのことを、先日ある集会で出会った若い南アのアクティヴィストは、(わたしたちの)ママと呼び、深く追悼していた。ネルソン・マンデラが28年間獄中にあった時期、ウィニーがいわば代理として政治的に大きな活躍をしたのは広く知られている。劉霞は政治的志向がなくそうした活動をしたいとは思わないだろうが、一切の自由を奪うとは、中国国家は、アベルトヘイト国家を大きく下回る最低国家ということになる。

References

References
1 同書 p58
2 同書 p94
3 同書 p102
4 同書 p105

在米「歴史戦」敗北の総括について

(1)
『海を渡る「慰安婦」問題 ー右派の「歴史戦」を問うー』は、岩波書店から2016年に出た本だ。著者は山口智美、能川元一、テッサ・モーリス-スズキ、小山エミと、テッサさんを除けばツイッターでおなじみの論客。
そのわりに、きちんと紹介されていないかもしれない。今回、ある特定の意図をもって、第2章アメリカ「慰安婦」碑設置への攻撃(小山エミ)の部分を読んでみたい。

2010年アメリカのニュージャージー州パリセイズパークに「慰安婦」碑が建てられた。次にカリフォルニア州グレンデール市でも「慰安婦」碑が計画されたが、これには一部の日系人による反対運動が起こった。ロサンゼルスでのこの反対運動の中心にいたのは目良浩一という人。この運動に集まった人の多くは1990年前後以降に渡米した新一世と呼ばれる人びと。それに対して、大戦中の日系人収容政策についてアメリカ政府から謝罪と補償を求めて以前から運動をしていた日系人のグループは、「慰安婦」碑設置に賛成する立場を取るに至った。

日系人収容所問題と「慰安婦」問題はいくつかの共通点がある。ひとつは1980年から1990年始めという、戦後処理としては少し遅れて始まっている点。また、アメリカで当時日系人が大日本帝国の手先かもしれないと危険視された背景には人種的偏見があった。「慰安婦」問題の背景にも、韓国人、中国人その他への(非日本人への)人種的偏見があった。などだ。「あとからやってきた保守系日本人たちが、(略)日系人代表のようなふりをして大日本帝国を援護する運動を始めたことに日系人が反発するのは当然だった。(p45)」

2013年7月慰安婦像設立。2014年5月、青山繁晴は関西放送で「日本人のこどもたちが毎日毎日、ひどいいじめにあっていて」と発言した。そしてこれは週刊新潮、週間SPA!などでも取り上げられ広く流布した。しかしこの「イジメ」が実在するのかどうか?検証しても証拠は出てきていない。

「こうした「日本人いじめ」について現地の日系人団体に聞いてみたところ、そのような噂をきいたことすらない、との回答が得られた。」さらに「日系人団体の人たちと協力して、現地の警察・学校・教育委員会、その他さまざまな機関や民間団体に問い合わせたが、やはり何の相談も通報も報告されていなかった。」現地の地方紙や全国紙、さらに日本の全国紙の記者も何も発見できず。東京新聞が外務省に問い合わせた結果も同じ。
「「日本人いじめ」の実態は、その実在を主張する保守派の側ですらつかめていない。たとえば、日本から杉田水脈をはじめとする次世代の党(当時)の現職国会議員三名画グレンデール市を訪れ、いじめ被害を受けた児童の保護者との面談を希望したが、結局見つからずに面談することができなかった。」(p48)

青山繁晴及び週刊新潮、週間SPA!などが取り上げた「慰安婦像に起因する日本人児童いじめ」の存在は疑わしい。ほぼまちがいなくデマである。この点について、杉田水脈さんの現時点での判断をお聞きしたいものだ。

(2)
目良ら「歴史の真実を求める世界連合会」(GAHT)がロサンゼルスの連邦地方裁判所でグレンデール「慰安婦」碑の撤去を求める裁判を起こした。藤岡信勝、山本優美子、加瀬英明らがメンバーだ。その主張の第一は、一自治体が「慰安婦」問題を取り上げるのは連邦政府だけが持っている外交権限を侵害するというもの。慰安婦についての歴史的事実については主張していない。また「日本人いじめ」などの具体的な被害の訴えもない。訴えは却下。次に州裁判所に訴えたが、「原告の訴えは「連邦主義と民主主義の根本的な原理に反するもの」だ」として、なんの正当性もないばかりか、自由な言論を封殺するものだ」として、なんの正当性もないばかりか、自由な言論を封殺する恫喝訴訟だと認定」された。

一方で連邦控訴裁判所に控訴したと、小山本に書いてあったので、GAHTのサイトを見ると次の文章を発見。
「結果は残念ながら、米国最高裁判所への申請が採択されずに、控訴裁判所の判決が最終判決となったために、目的を達成することが出来ませんでした。しかし、最高裁に申請書を提出した直後に、それまで冷淡であった日本政府が、我々を支援するアミカス・キュリエと称する「意見書」を提出して、我々の申請を熱情をもって支援しました。 gahtjp.org/?p=1846 」
負けたのは当然だが、なんと日本政府が支援の意見書を出したという。日本政府に抗議したい。

(3)サンフランシスコ市で「慰安婦」碑公聴会
反「慰安婦」碑勢力は、アメリカ内で盛んにイベントを開催している。しかし、米国人などに訴えかけるために英語で行われたものは、大きな抗議活動に迎えられるのが常で、成果を上げていない。(同書p52-56)

2015年から今度は、サンフランシスコ市で「慰安婦」碑設置の動きが出た。
GAHTの目良、幸福の科学の田口、セントラルワシントン大学の岡田ら、多くの在米日本人が市議会に押しかけ反対意見を述べた。他の町でなかったのは、ジャパンタウンの有力者のうち数人が反対にまわったこと。それは在サンフランシスコ日本領事館からの働きかけによる。また大阪市も姉妹都市としてさまざまな反対運動をした。公聴会が開かれ、多くの人が証言をした。賛成派は元「慰安婦」・李容洙、日系人その他のアジア系アメリカ人など。
反対派は、目良、水島一郎、ロサンゼルスの日本人団体「真実の日本ネットワーク」の今村照美ら。
「目良は「二〇万人の被害者、強制、性奴隷など、慰安婦問題について言われていることはすべて嘘だ」と言ったのち、サラ・ソー教授の著書を振りかざし、目の前にいる元慰安婦の李を名指しして「この人の証言は信用できない」と批判した。」
しかし「ソーの著書では、元「慰安婦」の証言の一部に誇張や間違いが含まれることは、日本の保守派が言うような「日本は事実と異なることでいわれのない非難を受けている」ということを意味しない、とはっきり指摘している。」(p61)

このような老婦人に対する目良の侮辱は、議員に激しい反発を受けた。建設は全員一致の賛成を得た。

(4)2016年3月国連本部で
「同年三月には、国連本部近くの会場で、目良、藤木、杉田、藤井(論破プロジェクト)、山本(なでしこアクション)、細谷(日本近現代史研究会)、鈴木(ニューヨーク正論の会)、マラーノ(「テキサス親父」)が四回に及ぶイベントを開催し、日本語と英語で「慰安婦」問題は虚構であると訴えた。もっとも英語で開催したイベントでは、「日本人は弱者をいたわるが、韓国人はドブに落ちた犬を叩く文化だ」(細谷)、「あなたたちが信じているのは捏造だ」(目良)、「元慰安婦を自称する人には、政治的プロパガンダに利用されて、支援団体からこう話しなさい、ああ話しなさいというトレーニングを受けている人がいる」(杉田)などの発言で、聴衆から猛反発を受けていた。特に紛糾したイベントの後、杉田は「観客は全員韓国、中国に洗脳された桜ばかり」「挺対協や世界抗日連合が後ろにいて、国連の職員を始め、韓国人、中国人、日本人以外の人達を動員していた」とブログに書いたが、日本国内でしか通用しないような自分たちの発言が聴衆を完全に敵に回したという認識ができないのだろうか。」(p67)

以上が、小山エミ「アメリカ「慰安婦」碑設置への攻撃」という文章のつたない概要となる。
わたしの言いたいことは、反対派は反対の根拠を提出することがまったくできていない、ということだ。慰安婦は存在した。少なくともほとんどの慰安婦に離職の自由はなかった。つまり「強制的な状況の下での痛ましい労働・生活」を彼女たちに与えたことは事実であり、それが事実であるがゆえに、日本は河野談話と2015年と少なくとも2回謝罪しているのだ。
したがってわたしたちは「(被害者)すべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ち」を持ち続けている。したがって、慰安婦像を不快に感じることもない。杉田氏ら反対派のひとが何を言っているのか、何が言いたいのか、まったく理解できない。したがって当然、米国人や韓国人、フィリピン人なども理解できないだろう。

杉田水脈議員にお願いする。あなたがいままでやってきたこのような行動は馬鹿げているだけであり、米国人の理解をまったく得られず、日本の名誉をかえって傷つけるものであるので、直ちに中止してください。

九州大学生体解剖事件講演会


熊野いそ 講演会 を下記により行ないます。(直前の告知で申しわけない)
2/4(日)13:30~大阪産業創造館6階で #倫理の境界
九州大学生体解剖事件は捕虜が生きたまま手術&解剖された事件です。

終戦直前の1945年春、九州帝国大学(現:九州大学)医学部で実際に起きた実験手術と解剖。米軍捕虜8名はこの手術によって殺されました。
ウィキペディアでの事件概要はこちら

遠藤周作の小説「海と毒薬」のモデルになった事件と言われています。

このイベントは「九州大学生体解剖事件 70年目の真実(2015年 岩波書店)」の著者である、熊野以素さんにご講演いただいた後、一緒にワークショップを行う試みです。

場所:大阪産業創造館 (堺筋本町駅徒歩5分)
参加費:500円

第二部では、ワークショップも行います。
————————————————

戦後のBC級戦犯裁判で大きく取り上げられたのは、捕虜虐待問題。
そのなかでも、最もスキャンダラスだったのは、この九州大学生体解剖事件
でしょう。

ご著書によると、熊野さんは、鳥巣太郎氏の行動を微細に追うことで、この事件を
追体験されています。

☆住民に対する無差別爆撃は国際法違反であり、その行為者を死刑にすること自体は認められるべきか?
☆なぜ生体解剖を行ったのか?生きた人間の体を切り開いて様々な手術を行うことには、臨床医として研究者として大変な魅力がある」のだろうか?
☆2回めの手術時、鳥巣は石山に「手術に九大が関係しとるということがわかれば、後で大変なことになる」と言うが「これは軍の命令なのだ」と拒否される。鳥巣は一時間遅刻して解剖実習室に行った。
☆1946年罪を問われた石山教授は自殺し、最も消極的だった鳥巣も責任を取らされることになる。48年8月、九大の鳥巣、平尾、森は二人の軍人とともに 絞首刑という判決が出た。
☆宗教の力も借り、罪の自覚を深めた鳥巣は、死刑を受け入れようとする。しかしその妻はあくまでその強制に逆らおうとする。
☆戦争という巨大な力、教授の権力という巨大な力に服従したばあい、服従は言い訳にはならない。しかしそのように冷めていることが本当にできるのか?
戦争中の一つの事件ではありますが、この事件はいまでも過去にすることができていない多くの問題を孕んでいます。
講演会にぜひ足を運んで下さい。
野原燐 
参考 九大生体解剖事件と有限性の責任