ハン・ガン『ギリシア語の時間』について

わたしたちの生が、不可思議な条件によって組み合わされた不細工な人形のごときものであること。
だから、それはふとしたきっかけで崩れてしまい、むねに大きな空洞が空いたままいきていく、そうしたものであること。ハン・ガンの人間観はそうしたものだ。

自分を主体であると、錯覚してはいけない。そうではなく、インターフェイスとしての自己、という発想がむしろ必要なのだ。

言葉によって世界が成立している以上、言葉は意識されない透明なものでなければならない。
言葉が存在を主張し始めると、存在者からなる世界は
どうしていいか、分からなくなる。

いちばん辛いのは、自分の口から出た言葉の一つひとつが
鳥肌がたつほどはっきり聞こえることだった。どんな
ありきたりの文章も、その完全さと不完全さ、真実と嘘、美しさと醜さを
氷のように冷ややかにくっきりあばきたてる。彼女は自分の
舌と手から吐き出される、白い蜘蛛の糸のような文章を恥じた。
嘔吐したかった。悲鳴を上げたかった。(p16)

言葉を当たり前のように自由に使いこなし、つまり言葉を見ることも感じることもない、幸せな人たちと、ひとつひとつの言葉を直接感受し、痛みすら感じてしまう主人公。

言葉。「一つの文章を書き始めようとするたびに、古い心臓を彼女は感じる。ぼろぼろの、つぎをあてられ、繕われ、干からびた、無表情な心臓。(p197)」
自分のものではないのに自分のものであるかのような言葉。

その喪失と回復(の予感)についてのこの物語は、特殊でありながら、わたしたちの体験の奥にも通じているようだ。

三浦しおん『仏果を得ず』

三浦しおん『仏果を得ず』を読んだ。
文楽の義太夫語りの若者を描いた小説で面白かった。

女殺油地獄、日高川入相花王、ひらかな盛衰記、本朝二十四孝、妹背山婦女庭訓、仮名手本忠臣蔵 など、の演目を各章の題にしている。
これらの演目は、歌舞伎と共通しているものも多いから、名前くらいは知っている人は多い。しかし、中身にまで入っていこうとしてもけっこう難しい。
というのは、あらすじを聞いても、ピンとこないというか、違和感ばかりでそれ以上共感できないといった話も多いのだ。三浦は熱心な文楽ファンになったのだが、そうなるためには、自分なかで多くのそうした難問を解かなければならなかった。これはそのプロセスを小説という形に展開したものでもある。

「世話物の男は優柔不断で、見ていて腹のたつようなやつばかりだ。登場する女たちが、それでも主人公の男に惚れている理由は?」
三浦はずばりと問題点を指摘する。

人間はおろかなものだ。それは私にも分かる。しかし、わざわざそんなことを芝居にまでして何が面白いのだろうか。それを現在によみがえらせるために必死で芸を磨く。
おろかさにそれだけの値打ちがあるのだろうか?

主人公健太夫は、小説の前半、芸にだけ打ち込むストイックな生活をしている。しかし後半、不思議にも、二人の女性から愛され、愛し、自らおろかさをとことんさらさざるをえなくなるのだ。そしてそのおろかさは感動的でもある。
この小説は、文楽案内を小説の体裁にしてみたものというより、文楽の力を借りてそれを分かりやすく展開してみた、優れた小説だ。

ハン・ガンの『少年が来る』について

 『少年が来る』という小説は傑作だと思う。光州事件を題材にしている。
 書いたのは、ハン・ガンという1970年光州生まれの女性作家だ。彼女は10歳の時に光州事件に遭遇した勘定になるが、彼女の一家はその直前にソウルに引っ越している。

 光州事件のことをよく知らないので復習する。
1979.10.26 朴大統領暗殺、キム・ジェギュ(金載圭)による。(『KCIA 南山の部長たち』に描かれている。)
79.12.12 全斗煥が軍の実権を握る。
80年春、ソウルの春 三金が政治の主役に。(光州は金大中氏の根拠地)
80.5.17 非常戒厳令全国に。
80.5.18 光州で無差別発砲事件が起こる
80.5.27 戒厳軍は武力鎮圧を強行。道庁内に留まっていた多数の市民の決死隊員を殺害した。

 この市民決死隊のなかには、多くの若者、大学生、高校生、あるいは中学生までいた。この小説は少年、一人の中学生を中心に語られる。トンホ。

 死体置き場になった尚武館。混乱のなかでここに迷い混んだ少年は、病院からどんどん運びこまれる棺を整理する係りになってしまう。死者の名前と棺の番号をノートに記入する係りだ。

チンス兄さんが50本入りのろうそく五箱とマッチ箱を置いていった朝、君は道庁の本館と別館を隅から隅まで回りながら、ろうそく台にする飲料の瓶を集めてきた。入り口の机の前に立って、一本ずつろうそくに火をつけてガラス瓶に挿しておくと、それを遺族が持っていって柩の前に置いた。
ろうそくの数にはゆとりがあり、遺族が寄り添っていない柩と身元が未確認の遺体の枕元にも漏れなくともすことができた。P25

 静かで美しい文章だ。実際には惨たらしく悪臭のする死体の山を、なんとかそれを並べてあげて、「悼む」形を整えた主人公の少年と二人の「姉さん」。かれらが並べたろうそくについて、それが悪臭を消すかのように美しく描写している。

 彼がひとつ、不思議に思ったのは、短い追悼式で、遺族が愛国歌を歌うことだった。軍人が殺した人々にどうして愛国歌を歌ってあげるのだろうか?
君がそう訊くと、姉さんはかえって驚く。軍人が反乱を起こしたのだ、と。「君も見たじゃないの。真っ昼間に人々を殴って、突き刺して、それでも足りないみたいに銃で撃ったじゃないの。そうしろって彼らが命令したのよ。そんな彼らを私たちの祖国の人たちだと、どうして呼べるのよ。」(P22)

少年はいままで教えられていたとおり、愛国歌は国家とその軍を褒めたたえるものだと思っていた。軍人の独裁が終わり民主主義の時代がやってきたのに、それを逆転し、銃口で人をどんどん殺して権力を奪おうとしているのは、軍だ、彼らは何の誇りも持てない反乱者にすぎない。本来の国、ネーションは私たちの側にある、と姉さんは説明する。しかし、少年は容易にはその説明が理解できない。

これはこの小説にとってはトリビアルな部分に過ぎないかもしれない。しかし一方で、日本人はまだこの国歌=国家の問題を解決できていないという気が強くする。
(天皇の歌である君が代を戦後日本の国歌にしたのは少しまずかった。
でもそれ以上にまずかったのは、解決したはずの「慰安婦問題」をいつまでも問題にし続け、「徴用工」にまで問題を広げ、自由貿易の原則まで破って見せて、まだ落とし所を見出し得ない安倍政権のやりくちだろう。)

「恐怖のために集会の規模が急速に小さくなっていると彼は真剣な顔で言った。」
「あまりにも多くの血が流れたではないですか。その血を見なかったふりなどできるはずがありません。先に逝った方たちの魂が、目を見開いて私たちを見守っています。」

「魂には体がないのに、どうやって目を開けて僕たちを見守るんだろう。」(P28)

少年はまだ幼いので、ぼんやりと考える。しかし少年は間違ってはいない。死者は死んでしまっており、彼らはどのようなベクトルも指示しはしない。すべては生きているこの私が決めることしかできない。


「軍人が圧倒的に強いということを知らないわけではありませんでした。ただ妙なことには、彼らの力と同じくらいに強烈な何かが私を圧倒していたということなのです。
良心。
そうです、良心。
この世で最も恐るべきものがそれです。
軍人が撃ち殺した人たちの遺体をリヤカーに載せ、先頭に押し立てて数十万の人々とともに銃口の前に立った日、不意に発見した自分の内にある清らかな何かに私は驚きました。もう何も怖くないという感じ、今死んでも構わないという感じ、数十万の人々の血が集まって巨大な血管をつくったようだった新鮮な感じを覚えています。その血管に流れ込んでドクドクと脈打つこの世で最も巨大で崇高な心臓の脈拍を私は感じました。大胆にも私がその一部になったのだと感じました。(p140-142)」

このような〈良心〉は最も大事なものであるのに、めったに語られることはない。言うまでもなく、代わりに語られるのは〈愛国〉であり、ある場合には〈革命〉だ。愛国は現在の体制・秩序・軍事組織への愛情・従順と区別するのが難しい。革命は運動の指導部あるいは前衛党への忠誠と区別するのが難しい。

「しかし今では何も確信することができません。(p142)」

といっても、この発言者四章「鉄と血」の主人公の「確信」が崩壊した原因は、明確に存在する。「モナミの黒のボールペン。それで指の間を縫うように挟み込みました。(p129)」以後10ページくらい詳細に語られる拷問の連続がそれだ。

敗北に続く拷問。
それが終わっても、日常生活がふつうに返ってくることはないのだ。生きることは存在の根っことともにしか営めないが、幸存者たちはみなそこに大きな欠損をうけてしまった。

271頁の小さな本だが、一つの軍事的弾圧の一面をクリアーに描いている。
(2023.8.11 ver.2)

梅原猛についての走り書き

『ユリイカ 梅原猛』というのを買った。最近日本古代を(簡単に)理解したいと思っているので。
梅原猛(うめはらたけし、1925年-2019年1月12日))(吉本の1年下)

出雲について

出雲は戦後長い間、古代の実在的勢力としては重視されていなかった。
「大和と出雲を結ぶものは実は宇宙軸であり、つまり大和から見て出雲が西の果にあって日の没する方位を代表していたことが出雲をして神話的に重からしめるゆえんであった。p99」と西郷信綱も書いていた。

「1984年に荒神谷遺跡から358本の銅剣が見つかり、翌年には6個の銅鐸と16本の銅矛が出土した。1996年には加茂岩倉遺跡から銅鐸39個が掘り出された。そして2000年、出雲大社の地下から巨大な柱が出土して」
「20年足らずの間に、直線で20キロも離れていない狭い地域で相次いだ3つの大発見によって、古代日本列島における出雲に対する認識はすっかり変わる」p103(べきであった)

梅原は「出雲を舞台にした「天の下造らしし大神」の話は、全くの虚構ではないかのか」と書いていた。p98
上記の発見から10年以上遅れて、2010年『葬られた王朝 古代出雲の謎を解く』で梅原は旧説を撤回した。p102
(研究者でも、出雲の実態的勢力はなかった説を墨守する人もまだいるらしい。)

鎌倉新仏教中心主義

戦後日本思想史では親鸞が重視される。「自己の罪悪を反省し、阿弥陀如来の絶対他力を確信し、その信仰のもと安心を享受するという内面のドラマ」p224(参照:子安)に注目する。要はプロテスタント的宗教に近づけた理解ということのようだ。
(鎌倉新仏教だけを強調する理解:「鎌倉時代以降を「封建制」と理解し、日本は東アジア諸国と違って「封建制」に到達したから近代化の道に進むことができたという「脱亜論」の変形である。p56)

それに対して、「自然は人間のように、生き、物言う世界」と信じる日本の神道と最も密接に結びつき定着した真言密教(p222)、そして天台(本覚論)を強調したのが初期梅原。
「密教が生み出した信仰である観音崇拝や不動崇拝は広く民衆の間に広がった。」p56

日本文化論

鈴木大拙や和辻哲郎、彼らの作り上げた日本文化論を 戦後継承することはできない。p55 として激しく批判するところから梅原の評論活動は始まった。
「現在では、鈴木も和辻もなかば忘れられているが」と保立はあっさり書く。
しかし、アカデミズムの側のそのむとんちゃくな忘却が、大衆に対して何重にも劣化した「日本主義」、日本会議系の、蔓延を許ししてしまったのではないのか?

和辻:国民精神文化研究所 戦後はそれについて口をぬぐった
和辻『尊王思想とその伝統』
1,祀る神としての天皇
2,その背後にいる 祀って祀られる皇祖神
3,風雨の神のような 祀られるだけの神
4,祀られるだけの 祟り神 p58

世界全部につながっちゃう

これまでの日本人が国粋的な意味で日本のオリジナルだと思っていたものが、実はもっと広い「古代世界」とつながっていて、聖徳太子をズルズルたどっていくとキリスト教につながり、世界全部につながっちゃうというように、日本というものが大きく底のほうで「世界」に開かれている p251

という普遍性を語るのが、梅原の仕事だった。

梅原は〈辺境〉に共感を持った。
〈辺境〉を糾合して普遍化し、人類思想のメインラインに位置づけようとした。p254
そして、それを大衆にわかり易い物語として語りきった。

歴史に血と肉が与えられて

山岸:ああ、すごいですねえ。本当に先生のお話を伺っていると、歴史に血と肉が与えられて生命が吹きこまれるという感じですね。(略)歴史の先生はというと、どうしても年号を並べて二言目には「かもしれません」ばかりおっしゃるでしょう。私、これが残念でしかたないんです。梅原先生のように、とても明快で歴史が生身で立ち上がってくるようにお話してくださると…。
梅原:それを言いすぎるから、ぼくは嫌われるんだ(笑)。
山岸:いえいえ。でも、それだけに影響力がすごくて、私は本当に怖くて(笑)。
『日出処の天子 3』白泉社文庫 解説・対談より

平成と令和の間に開いた想定外の〈解放空間〉

釜ヶ崎のあいりん労働福祉センターが3月31日で閉鎖されることになっており、午後6時ごろシャッターを閉め始めましたが、多くの人が集まって抗議したため、閉められませんでした。(JR新今宮すぐ南)
私は野次馬として31日午後4時から11時頃までセンターにいました。

6日後の現在も「センターは西成労働福祉センターの管理から外れ、それ以降は管理者不在状態」のまま、夜も昼もシャッター(大部分)開いています。
「電気は止まっているので、センター1階は昼間も暗いままだが、夜中もなかまたちの泊まり込み体制による自主管理が続いている。」

下記のようなイベントも予定されているので、
平成と令和の間に開いた、想定外の〈解放空間〉を一度訪問されたら、いかがでしょうか?

4月7日(日)14時から『泥ウソとテント村-東大・山形大 廃寮反対闘争記』
4月8日(月)18時から「イタリア報告会 社会センターとsquatなどなど」(たぶん行きたい)
4月9日(火)18時から『月夜釜合戦』

4月6日(土)12時から 三角公園

参考ブログなど 3つ
・・《速報》閉鎖されたはずの西成あいりん総合センターで今、何が起きているか?
http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=57
尾崎美代子 https://twitter.com/hanamama58 さんの記事

・・リアル『月夜釜合戦』エピソード2に出演できます
http://attackoto.blog9.fc2.com/blog-entry-454.html

・・あいりん総合センター周辺で配布されていたビラ3枚。(陸奥賢)

朝日新聞記事
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日雇い労働者の街、大阪市西成区のあいりん地区にある「あいりん総合センター」(13階建て)の労働施設フロア(1~4階)が31日、閉鎖の日を迎えた。1階に労働者が仕事を求めて集まる「寄せ場」がある地区の中核施設だが、耐震性の問題で現地で建て替えられる。併設する病院施設(5~8階)の移転後に建物全体を取り壊し、新しい労働施設は6年後に完成する予定。
 この日は閉鎖に反対するグループが1階の寄せ場で午後5時から炊き出しを実施。閉鎖時間の午後6時ごろ、シャッターの下で座り込んだ。一時、100人を超える人たちが集まり、夜遅くまで「シャッターを閉めるな」などと抗議を続けた。

 センターは、国や大阪府などがJR新今宮駅南側に1970年に建てた。3階のフロアは仕事がない人たちの日中の居場所にもなっており、閉鎖に反対する裁判も起きている。入居していた職業安定所や西成労働福祉センターはすでに仮移転。寄せ場も1日から同じ場所へ移る。

 夜間に缶拾いをして日中、センター3階で過ごしてきた男性(76)は「ここがなくなると行く所がない」とこぼした。毎日、1階寄せ場で仕事を探してきた日雇い労働者の男性(60)は「閉鎖は残念だけれど、すでに決まったことだからしょうがない」と話した。(村上潤治、高橋大作)朝日新聞——————-
(以上)

異なり記念日 感想

『異なり記念日』齋藤陽道 医学書院 という奇妙な題の本を読んだ。
ろう者である写真家が自分と家族のことを語ったエッセイ、といったもの。わたしたちは書記言語より先に音声言語(聞く・話す)に出会うわけだが、聞くことが困難である人たちがろう者だ。作者齋藤陽道は、自分たちのことをこう書く。「男の写真家は聴者の家庭で育ち、日本語に近づく教育を受けました(本格的に日本手話を使い始めたのは16歳のときです)。
女の写真家はろう者の家庭で育ち、生まれたときから日本手話で語り、聞きました。」
日本語(音声語)。
電話:「もしもし」「はるみちだよ」「どうしたの?」「これから帰るよ」「気をつけて帰ってきてね」・・・
あまりにも当たり前の日常会話だから特に活字にしたりすることもないやりとりだ。しかしろう者の陽道にとっては、電話でこうしたさりげないやり取りをすることは、大きな困難を乗り越えないとできないことであり、大変な憧れだった。
そして、彼は実際にそうした会話をしたわけではないのだという。「ガラス越しに見ている同級生たちに対する見栄としての、電話ができるフリだった。p125」
日本語は分かっている、しかし聴く・話す機能の一部にかなりの困難があるがために、この程度のことでもわざわざ「フィクション」としてしか実現できない。いや「この程度のこと」ではないのだ。
「ごくふつうに「聞こえる人」のように伝わり和えたというやりとりのなめらかさ」「そんななめらかな会話ができたときには(略)内心では痺れるくらいの喜びに満ちていた。p126」
これは、音声の感度も高度化した灰色のデジタル公衆電話がでてきた頃の話。その後、FAXができ、高校1年のころには、携帯電話でショートメールができるようになる。
高校三年のときには8〜10円で千文字ほどのメールを送れるサービス、その長文メールを一日に何通も書いていた。彼の喜びは想像することができる。彼の日本語に対する特殊な障害を乗り越え、友達と同じようにコミュニケーションできる喜び。
特異なこともない日常に向き合い一冊の本になるほど文字を紡ぎ出すこと、いままでの文学青年とまったく違った回路をたどり、彼は日本語と表現活動にたどりついているのだ。

言葉を身につけてしまった我々はどうしても言葉で考え言葉で伝えようとする。
ただ、コミュニケーションのためにはそれとは少し違ったやり方もあるのだ。
ろう者と自閉症者のコミュニケーション。
「まなみ(ろう者)が一言も音声を発さずに、身振り(でもおそらくそれはただの身振りではない。表情やちょっとした空間の揺らぎにも意味を含める手話言語のニュアンスを織り交ぜた身振りであって、メッセージがより明快に読み取れるものであることが予想できる)で語りかけた」
「その子の(想像だけど)「せっかちで落ち着きがない」動作から、目線やしぐさ、指先の震え、一瞬の表情といったものすべてを無意識に「ことば」として受け止めていたからこそ」
ろう者と自閉症者。辞書的言語以外の領域で語らざるをえない人同士といえるのかどうか、かれらの間ではコミュニケーションが成立した。

日本語(書記言語と音声言語)によって世界は、どんなわずかな隙間さえ無いほど、語りつけされ埋め尽くされているかのように感じられる。しかしほんとうはまったくそのようなことはないのだ。
この本は若い夫婦が子供という他者とどう出会うかという話でもある。子供はいつも言葉なしに生まれてくる。そして親たちとの圧倒的な接触のなかで言葉も身につけていく。この夫婦の場合は、両親は聞こえないというハンディを持ち、子供は(たぶん)持たない。それでも子供は親から言葉を学んでいく。その体験を作者は〈異なり〉の体験として書き留める。子供がはじめて音楽というものを知り嬉しそうに報告してくれる。作者は思わず「おとーさん、音楽、わからない。わからないんだよね。」と返してしまう。
〈異なり〉の体験は、辛いものではある。しかし、生きることの豊かさと繋がってもいるのだ。

わたしたちは〈ろう者〉と無縁に、これからも生きていくかもしれない。しかし、この本を読むことで、言葉の、生きることの豊かさに触れるきっかけに出会うことができるかもしれない。

甘耀明(カンヤオミン)『鬼殺し』上・下を推す

甘耀明(カンヤオミン)の『鬼殺し』上・下、図書館で何気なく手に取った本。大傑作だ。莫言に絶賛されたが、将来のノーベル賞級の才能だと思う。白水紀子訳 白水社 2016年翻訳刊行。

甘耀明は1972年(戦後27年)生の客家系台湾人だ。苗栗県出身。地図で見ると、台北と台中の間は北から桃園市、新竹市、苗栗県となる。苗栗県には雪覇国家公園という広大な国立公園があり、東側の太魯閣国家公園とほぼ隣り合っている。甘は苗栗(ミャオリ)県獅潭(シータン)郷の、先住民族(タイヤル族など)の部落に近接する縦谷の客家の山村で6歳まで過ごした。タイヤル族や彼らの神話・伝説は作中でおおきな比重を占める。

「人殺しの鉄の怪物が蕃界(原住民が住む場所)の関牛窩(グアンニュボー)にやってきた。」という文章からこの小説は始まる。小学生だが荒唐無稽なまでに強い客家の少年帕(Pa)はその前に立ちはだかろうとする。「汽車は実に壮観で、先頭には黒檀に描かれた花輪がかかり、花輪の中に「八紘一宇」の四文字が書かれていた」
帕(Pa)は車体に貼ってあった「皇軍は米国を奇襲、真珠湾を轟沈した」という新聞記事を見て、おもわず雄叫びをあげてしまう。
日本軍鬼中佐は、汽車から降り立ち、「銀色に光る軍刀を抜き、集まった村人に向かって言う。「新しい時代が、本日からはじまる。お前たちは手足を動かして天皇陛下にお仕えせねばならぬ。どんな犠牲も惜しまず、あの山を平らにせよ。」
鬼中佐は公学校の校舎を練兵場に変える。公学校は恩主公廟に移される。今までの村人の精神的中心恩主公(関帝、つまり関羽)の神像は燃やされることになる。
柴を加え油をまいて火をつけても、恩主公像は真っ黒になりながらも生きのこる。神像に宿る魂を汽車に轢きつぶさせようとするが、「恩主公はオウと声を上げ、歯をぐっと食いしばって、踏みつけられても死なない、おさえつけられてもぺしゃんこにならない、何度踏まれてもつぶれない」不滅さを見せる。

日本軍の帝国主義的暴虐を、民衆の神話・伝説にまみれた精神世界にズラシて物語っていくのが、甘耀明のマジック・リアリズムである。

鬼中佐は帕に目を付ける。
「鬼中佐は汽車を停車させ、恩主公の前まで歩いて行くと、大声で怒鳴った。「帕、出てこい」。帕は背が高いので、頭が人の群れから浮き出てきて、間もなく全身をあらわした。鬼中佐は彼に名前を名乗らせた。
「帕であります」。帕は両手を腰にあて、目を大きく見開いていたが険しくはなかった。
「それは『蕃名』だ、漢名は?」
「劉興帕です」。帕はまた付け足して言った、「名前の中には『蕃』の字が入っております」
「お前は両親から捨てられた子だ、俺がお前を養子にしてやる。今後は、お前の名は鹿野千抜だ」。
鬼中佐は言い終わると、帕に何度も「鹿野千抜」と、早くも遅くもないちょうどよい速さで復唱させた。帕はまず拳を握りしめて反抗し、それから耳をふさいだが、もう手遅れだった。その名前は頭の中でずんずん大きくなり、雷のように流れこみ、海のように浸食してきて、追い払うよりも受け入れるほうがましだった。そこで帕は口を開けて心の声を追い払い、言った。「鹿野千抜」
「鹿野千抜、来い。刀を枚いて、支那の神を斬れ」。鬼中佐は腰に帯びた刀をたたいた。帕は数歩前に進み出て、刀の柄をつかみ、鞘から枚いた。刀をさっとひと振りした瞬間、空気が裂けて傷口が見えたかと思うと、大声をあげて神像を真っ二つにたたき斬った。」

1895年日本軍が台湾を領有するために上陸した時、台湾民主国の義勇軍総統領として戦ったのが、客家人呉湯興だった。呉湯興は1895年八卦山の戦いで敗北死去するが、作中では鬼の世界の鬼王として死にきれずに存在している。かってその部下だった劉金福は、日本支配に抵抗し山奥で隠遁生活をしている。帕はその劉に育てられた孫だった。だから帕はその抵抗の意思を直系で受け継がなければならない存在だったのだが、残念ながら、皇軍の鬼中佐に、「名前を付けられる」ことで、彼の養子になってしまう。彼は「八紘一宇」の子どもになり、「一生神に呪われて生きることになった。」

少なくない数の、台湾、中国、朝鮮、その他の国の少年、青年たちを皇軍は「八紘一宇」の子どもに育て上げようとした。驚くべきことに、そして痛ましいことにそれは、半ばは成功したのだ。彼らは苦しみながらも戦い、死んでいった。戦後(光復)まで生き延びた者たちも居る。しかし、魂を昭和天皇に譲り渡した彼らには、「光復」は決してやってこない。「一生神に呪われて生きる」ことしかできないのだ。
戦後新しい国家建設のための思想を確立しなければならなかった台湾、中国人にとって、「天皇の子」を日本鬼子(にほんじん)として疎外するしかないのは、しかたないことであった。

「帕は地面にひざまずいて、心の中で自分は日本鬼子(にほんじん)ではない、自分は日本鬼子ではないと繰り返したが、しかし日本鬼子以外に、自分が何者になれるのか思いつかなかった。日本の天皇は自分の赤子をさっさと見捨て、国民政府もまた急いで日帝の遺児を門外に締め出し、彼らには荒野以外に、何一つなかった。」下p251

天皇と皇軍軍人たち、そしてその周辺の人々の変わり身の素早かったこと。一夜にして「大日本」の「大」の字は消し去られ、満州、台湾、朝鮮は日本とは無関係の土地となった。占領していただけだ。日本軍に協力した奴らは、民族の魂を売り渡した、売国奴だ。国民党、共産党の側からそう言われるのは分かるが、天皇の側はどうだったか。台湾50年の歴史は一切なかったものになり、日本は太古の昔からせいぜい沖縄あたりまで、その沖縄さえ米軍様のまえに差し出しましょうということになった。
「日本鬼子以外に、自分が何者になれるのか思いつかなかった」子どもたちのことは、誰からも忘れられた。

それは必ずしも一部の台湾人だけの運命ではない。帕は台湾東部にやってくる敵と戦う為に、中央山脈を越えようとする。しかしそこで聖なる山の「引力」にとらわれ、ぐるぐる回るばかりで山から抜け出せないという呪いに掛かる。ここの描写には、ニューギニア島の山地を数年間さまよった日本兵たちへの哀悼が込められていると読める。「大東亜戦争」の巨大な〈夢〉に囚われ、「戦後」に帰還できなかった日本兵も沢山いた。彼らの魂の底をさらえようとした文学が、日本にあっただろうか。(レイテ戦記は巨大な達成だがクールすぎる。)

戦後左翼の偏向・浅薄さを声高に叫ぶ人たちは、時に「八紘一宇」を口にする。しかし彼らは「八紘一宇」の真実をかけらもしらないのに、安手の愛国言説と戯れているだけだ。わたしたちが乗り越えることができなかった「大東亜戦争」を知るためにも、この小説は日本人に読まれるべきだ。

戦時・性暴力連続体と女性のエイジェンシー

上野千鶴子・蘭信三・平井和子編集の『戦争と性暴力の比較史に向けて』という論文集を読んだ。研究者12人による論文集である。
以下、ランダムなメモ。

戦争は物理的だけでなく構造的暴力である。人間を従属下に置きコントロールすることである。「強姦から売買春、恋愛まで、さらには妊娠、中絶、出産から結婚までの多様性を含んでいる。」このような連続性を語るのは「事実このあいだに連続性があって、境界を引くことが難しいからである。」

「女性の異性間性行為の経験は……圧力による選択から力による強制までの、連続体上に存在する(リズ・ケリー)」
まあとにかく、「性暴力連続体」、上野が提起するそれを受け入れて話を続けよう。
強姦と犯罪化されないものはすべて無罪でありOKと考えるしかないという、ネトウヨ的基準をどのようにしても覆す必要は常にあるわけだ。

性暴力には連続性があるのに、そこにはさまざまな形で分割線が引かれる。

A.性暴力連続体に対して、加害者性の認定を最低限にしたいと考えるネトウヨや政府関係者は、法的に有罪であるものだけが有罪であり、それ以外は「道徳的に可哀想なだけだ」という分割線を、強く主張する。

B.しかし、日本軍の責任において慰安所が設置・運営されており、そこでの生活が離職の自由がないなど強制下のものであった場合は、日本国家に責任が生じるのは当然である。有責とされる範囲はA.の場合より広くなる。

C.さらに、兵士個人の犯罪とみなさざるをえないもの、軍から独立した民営施設における売春などでは国家の責任は直ちには問いにくい。しかしその場合でも、軍、占領、戦争といった圧倒的な暴力を背景にそれぞれの行為が起こっている以上、任意の自由な男女の関係とみなすことも適切ではない。

個人は十全の自由意志を持ち自己身体を自由にコントロールできる、というのが近代法を支える人間観である。しかし戦時性暴力を考察する時には、そうした「強い主体」を前提にすると、うまく分析できないことがある。

「エイジェンシー」という用語はこのような時便利である。
「エイジェンシーとは構築主義パラダイムが、構造と主体の隘路を突破するために創りだした概念である。それは近代の主客二元論を克服するために、完全に自由な「負荷なき主体」でもなく、完全に受動的な客体でもない、制約された条件のもとでも行使される能動性を指す。(略)
女性は制約のない完全に自由な主体でもないが、だからといって歴史にただ受動的に翻弄されるだけの客体でもない。
p11 上野千鶴子『戦争と性暴力の比較史に向けて』」

被害者としての立場で加害者を告発する、大きな暴力が存在しそれが抑圧され続けている以上社会的にはそれが、第一義的な課題となる。
しかしだからといって、女性は「たんに受動的な犠牲者」であったわけではない。さまざまな体験があった。「ときには強姦と売春、そして合意のうえでの性交を分ける線の幅の細さに、自分自身でとまどって」(同書p162)いながらも、ギリギリの生存戦略を選択していく。

売春という言葉を自由意志による商行為、すなわち管理者・軍の責任の全面免除という意味にしか理解しない自己の偏見を無理やり拡大することで、ネトウヨは世論にさえ影響を与えている。このような状況下では「エイジェンシー」という発想を提示することも、ひとつの困難さはある。しかし、どんな場合もひとはまったき自由の下では生きていない。まして、戦時性暴力という巨大な磁場のなかで生きる女性たちの実存に近づくためには、まずネトウヨ的平板かつ責任回避的問題設定をひていしなければならない。次にそれぞれの情況で女性たちが、どのようなエイジェンシーを行使して生きたのか、微細に見ていく必要もあるのだ。

性暴力被害者は常に、暴力からの被害と同時に、汚れた女〜売春婦差別という別の差別にもさらされ続ける。重層化する差別と抑圧はあるが、「従軍慰安婦」問題については、支援者側の支援・調査研究(試行錯誤からはじまった)の分厚い歴史がある。
ネトウヨ側のミスリードにさえ引っかからなければ、接近は難しくない。

ただまあ、結婚とかだとそれは100%祝福され無罪なものと考えられるので、戦時性暴力といったおぞましいものと関係があるとするのは受け入れ難いと感じる人は多いだろう。
しかし、「第二次世界大戦後、日本の連合国軍占領のために駐留していた米軍兵士と結婚し、米国に渡った日本人戦争花嫁は、戦後すぐから1950年代末までで合計約40,000人に達するといわれている[ウィキペ]。」
しかし彼女たちはパンパンと呼ばれ極端に差別され続けた女たちとかなり重なるカテゴリーである。敗戦国民や戦勝国民の良識派の人々からの差別も含めて考察する必要があるなら、この連続体の意味は明白にあるだろう。

追記:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RA62V3XFWJZRL/ref=cm_cr_arp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4000612433
「上野氏は朴裕河氏の「帝国の慰安婦」に対する、傍目には奇妙としか言いようのない肩入れぶりをめぐって、いろいろと非難されている。」非難する側に立って上野氏をDISってこの本の紹介。面白い。
朴裕河氏の『帝国の慰安婦』がクズ本であるのは言うまでもない。→

朴裕河『帝国の慰安婦』どうなのか?

楠田一郎 黒い歌Ⅰ を紹介する

楠田一郎(1911〜1938)という詩人がいる。
『楠田一郎詩集』(1977年蜘蛛出版社)という本をたまたま持っていた。
冒頭に「黒い歌」連作Ⅰ〜Ⅷがあり、これが代表作だろう。Ⅰを紹介する。

黒い歌Ⅰ

孔雀のやうに羽をひろげて
橋の下を
棄てられた花束のやうに
溺死體がいくつとなく流されてゆく
空には架空の花が咲き
天使の夢やボール紙の悲しみが
智識人の太陽やアナルシイが
大戰時代の
マルク紙幣のやうに膨張する
灰色――死が快感をひき起す
徒刑場のお祭り騒ぎには
なにか美しい本質がひそんでゐた
死屍が横たわり
木の影で墓屋が睡ってゐた
鳥が射殺されてそのまゝ腐った

  おなじく

眠っていた――一羽の鳥が啼いた
かぐわしい沐浴の中で美しい男が自殺した
風のない森蔭を歩き
雲のやうな夢に埋れ
世界が哄笑し
死があらゆるものの上から覗き
小徑にかくれた夜を太陽の如く
待ってゐた
そして黄色い大河の上で
血まみれた晴天白日旗のやうに
夕ぐれがわめきはじめたとき――
よごれたジャンク船とともに
もの悲しい歌の消えるところ
永遠の火が破壊の風にあふられて……

(以上)
参考:
詩誌『新領土』での友人だった大島博光氏は、つぎのような追悼詩を残している。

楠田一郎への悲歌
   ──彼は地球から出て行った
     歩むために飢えないために──<黒い歌>
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-827.html

さて、ちょっとは感想を書かないと。
橋の下を、死體がいくつとなく流されてゆく、というのはこれが書かれた直前に始まった、日中戦争以後約8年間の巨大な戦争において何度も繰り返される風景であろう。
しかし、この詩においては死體はそのような事実のレベルで書かれているわけではない。
天使の夢やボール紙の悲しみが智識人の詩学や実験への熱意が膨張する。そのような自己の営みの〈本質〉を名指すために、楠田は「溺死體」「死屍」と言った言葉を持ってくる。
ただここで楠田が言っているのは、「遊んでないで現実を直視しなさい」といったお説教とは正反対のことだ。
「風のない森蔭を歩き雲のやうな夢に埋れ世界が哄笑し」といった「架空」を真剣に作ることは、すべてが死から見つめられることである。「よごれたジャンク船」といった形象を不可避に招き寄せることだ。
よごれたジャンク船がある中国の小川、そこでの銃撃戦などを一切楠田は見なかった。にも関わらず、「かぐわしい沐浴の中で美しい男が自殺した」という彼が書いた1行は、どうしてもそのようなイメージを引きずり出してしまった。興味深い。

ジュディス・バトラーと〈自己の外へ〉

ジュディス・バトラー』藤高和輝・以文社という本を読んだ。借り出し期間超過しているので、今日図書館に返す。バトラー論としては読みやすいし良い本だと思う。

さて、バトラー思想を「生と哲学を賭けた闘い」として理解するのだとして、藤高(敬称略)は、この本を書いた。
社会という制度のなかで他者化され押し殺されてきた彼女自身の生、と哲学という制度のなかで他者化され押し殺されてきたわたしたちの生、その両方を生き延びさせるために虚数方向から他者の声を呼び込むこと、それが彼女の闘いであっただろう。

バトラーは何よりもトラブルの哲学者として記憶されている。幼少期、自身のジェンダーやセクシュアリティをめぐる葛藤から、地下室に逃亡し、スピノザのエチカを手に取った。「人間存在におけるコナトゥスの根源的な固執から生じる感情の状態に関する推論は、人間の感情に関するもっとも深く、純粋で優れた説明のように思えた。事物がその存在で在り続けようとする。私に送られたこの思想は、絶望のなかでさえ固執する一種の生気論であるように思われた。」p19 とバトラーは語っている。

エチカ2部定理九:現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状(アフェクトゥス)した〔発現した〕と見られる限りにおいて神を原因とする。バトラーが周囲とうまくいかない「醜いこ」であったとすれば、自己がどのような変状であろうと神との関係においては、他の子とまったき対等性を持つ、と教えられることは根源的慰めを与えてくれるものであっただろう。
(エチカの引用は、http://666999.info/liu/ethica.php の目次を利用した。)

エチカ3部定理七:おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力(要請・コナトゥス)は、その物の現実的本質にほかならない。とある。
「物はその定まった本性から必然的に生ずること以外のいかなることをもなしえない」というスピノザの説明から私は決定論的印象しかうけなかった。しかし、「要請」は事実的現実に尽きるものではなく事実的現実の彼方へ向かおうとする要請を内に含んでいることを意味している、とアガンベンは言っているらしい。p290

同一性に固執しようとすることが、かえって差異の立体性を開いてしまうといった逆説が展開されていく。

コナトゥス、事物が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする傾向を言う。(ウィキペディア)自己保存。とても個人主義的な概念だと思われていたが、バトラーはそのベクトルの向きを変えようとした。ドゥルーズは、コナトゥスはそれが存在する状況に即して自らを表現するとした。

バトラーはレズビアンのアイデンティティ政治とかの中から出てきた学者でもある。「ひとが自分自身の存在に固執することが可能になるのは、他性への固執によってのみである」p254 ヘテロなマジョリティとちがって、容易に自己同一性を獲得できないのがレズビアン(など)であって、トラブルや過剰の考察が常に必要になる。

社会はまず承認の規範的構造として、傷つきやすい「わたし」の前に現れる。でわたしはまず、規範に服従しなければならない。
子供の場合、まず「自分自身として存続するためには、誰かに愛着しなければならない」p260 そしてもし養育者に認めてもらえないならば、社会的な死を経験しなければならない。その為子供は「従属化」を選ぶ。自分自身の従属化の諸条件を欲望することになる。服従化への欲望、つまり死の欲動。主体として認められるためには、ひとは自己を断念し解体せねばならない。p260
他者の世界に服従すること、それが自分自身の存在への固執になる。なんだか非常に暗い話だ。ただまあ、現在の日本社会は学校教育、就活、過剰なサービス、死に至る残業と、「服従」ばかりであることは確かな気もする。
ひとは承認を求める、つまり規範への服従を全力で行なう。しかし、そうではない可能性もある。承認の規範的構造に対して批判的な開かれを迫っていくこと、自分自身の存在を賭け、「生成変化」の実践になっていくことができる。p264

バトラーはコナトゥス(自己保存)から出発する。しかし自分自身の存在への固執が規範的構造とトラブってしまう時、規範の方が変化していく可能性がある。
コナトゥスというベクトルが存在の自らを高めつづけようとする傾向に従いつつも、社会から見た見た時、ベクトルの方向を変える。このような変容を研究していきたいと私は考えている。

批判は常に社会的歴史的地平の内部でしか行われ得ない。が、どのように知と権力が世界を体系化し秩序化しているかを明らかにする。それと、そこからの脱出を示すブレイキング・ポイントを示すことができると、フーコーは、言う。主体は脱服従化できるのだ。
〈開かれ〉をフーコーは示す。真理の体制の限界を疑問に付し、同時に自己をある意味で危険に曝す。それは、ある者を承認したい、あるいは別の者によって承認されたいという欲望によって動機づけられている、とバトラーは付け加える。
私は、社会ー歴史的地平のなかで行為しながら、それを破綻、あるいは変容させようとしている。私を私自身の外の、私自身から剥奪され、同時に私が主体として構成されるような場へと移動させる動き、脱自的運動を通して。p280 それは他者とともに生きる共通の生を開く徳の実践でもある。

マイノリティは暴力的抑圧によって形成される。それは、暴力的な報復に向かいやすいものでもある。私たちという存在は、共有された危うさである。しかしそうした怒りは、私たちが強い情動でもって互いに結び付けられるための条件でもあるのだ。
承認可能性の規範から排除された「怒り」を自己や他者に向けるのではなく、社会へ向けなおすことで「共通の生」を開こうとする、そうした可能性がある。
「抵抗の行為はある生の様式にノーと言うものであるとともに、もう一つの生の様式にイエスと言うものであろう」p285

「怒り」を、あなたとの新たな関係への、新たな共同性へのベクトルに変容させること。私たちという同一性を確立し、他者を排除するのがアインデンティティ・ポリティクスの経験だったが、バトラーはそれをきちんと辿ろうとすることで、かえって「共通の生」を志向することになった。

「もし主体の系譜学的批判が現在の言説上の手段によって形成される構成的、排他的な権力関係に対する問いかけであるならば、それに従って、クィア主体についての批判はクィア・ポリティックスの民主化の継続に欠かせないものであるだろう。アイデンティティ用語が使われるべきであり、「アウトであること」が肯定されるべきであるのと同様に、これらの概念自体が生産する排他的作用は批判されなければならない。」

アイデンティティ・ポリティクスとは領域確定であり、定義の厳密化であり、自己権力の確立であるだろう。しかし、バトラーはそこに留まらない。「批判的にクィアする」ことが継続されなければならない。批判的に「自己の外へ」と開こうとする運動、〈取り乱し・トラブル〉は幸か不幸か、継続される。

「すなわち、潜往的に運動しているものとして、時間的なものとして、私ではないもの(not I)として、固定した利害あるいは経験よりもむしろ求め(want)の系譜学に従って脱構築しうるものとして、である。このように、(現有進行中の)欲望の系譜学の効果として理解された主体は[…]主権的なものとしても、決定的なものとしても現れない。たとえ、それが「私」として肯定されているときでさえ(Brown 1995: 75)。」
と、ウェンディ・ブラウンが引用される。p302
つまり運動は、断固としたわたし(あるいは私たち)の肯定として始まるが、求めるという動詞に導かれるそれは、同一化、権力集中の力学から常に逸脱することを孕んでいる。
バトラーは〈複数形の私たち〉に訴えるのだ。

以上、この本の9章、10章、結論部を、自由かつきままに要約してみた。怒られるかもしれない。
ご批判などよろしくおねがいします。