我有子無

我有子無、何故不受(われ有り子(し、“あなた”の尊称)無し、何の故に受けざる。)またまた『漢文入門』p37から。

子思*1が困窮していて、20日間に9回しか食べることができないほどだった。田子方というひとがこれを聞き、狐の皮ごろもを与えようとしたときに言った言葉。私は持ってるしあなたは持っていない。だから財が私からあなたに移るのは自然なことだ、という意味だろう。田子方という人は率直な人でたぶん本当にそう思ったのだろう。子思は屈折していて好意を受けられないのだがまあその話はいいとして、ここで取り上げたのは、富者から貧者へ富が移るのが自然なことと捉えられているからだ。おそらく東洋でも西洋でも前近代はわりにそういう感覚があったのかもしれない。

 「各人に資源がしかるべく行き渡っていないために自由が奪われている。だから自由のためにも、分配が必要だ。」と立岩真也は述べる。*2分配とは富者から取って貧者へ分けることである。ただ立岩は富者/貧者という言葉は使わない。富者/貧者といった途端、それはイデオロギーによって世界を見ている立場だと言われてしまう。所有、あるいは所有=労働というものこそが価値の源泉であり、それに挑戦するものは悪だ、強く主張する者たちが増えているのだそうだ。規制緩和を唱えるネオリベラリストもそうだし。

「我有り子無し」というシンプルな4字は、そうした近代のパラダイムに汚染されない対等性の感覚を伝えている。

*1:子思(しし、紀元前483年?-紀元前402年?)は中国戦国時代の儒学者。姓は孔、名は(きゅう)、字は子思。孔子の孫。『中庸』を書いたと伝えられていた。

*2:『自由の平等』isbn:4000233874

「再入国禁止法案」反対

勉強不足なんですけど、

http://www.sukuukai.jp/houkoku/log/200401/20040121.htm

例えば上記「救う会ニュース」には、3つの法案が連記されていた。

1)外国為替及び外国貿易法の一部を改正する法律案要綱

2)我が国の平和及び安全の維持等のための入港制限措置に関する法律案

3)日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法の一部を改正する法律案

1)は1月29日に衆院本会議を通過した。とのこと。

で、3)については 

http://www.asiavoice.net/nkorea/bbs/wforum.cgi?no=360&reno=358&oya=351&mode=msgview&page=0 で、Mさんが強調しておられるように、排外主義的なものであり、絶対許してはならない、と思います。

停電する自由

 昨日夜中パソコンしてると突然パソコンが切れた。停電である。だが街路や回りの家の電気はついている。ウチだけヒューズが飛んだのだ。(なぜか理由をさぐらないといけないがここではしない。*1)12時過ぎだったからしばらく暗闇でうろうろしてから蒲団に入り眠った。それまで十数分、色々なことを思った。わたしたちは何かしようとするときいつもまず手近のスイッチを押してから考える癖が付いている。だがいくらスイッチを押そうが何も反応しないのだ。電気に頼り切った生活に今さらながら気付く。できることはなにか。触覚だけでなく聴覚も残っている。そう言えば、地震の直後暗闇で小さな音楽会とかなかったのであろうか。(六甲大地震’95のことだ。)あの時は食糧もなくパニくっていたのでそんな企画はなかったようだ。あったら素晴らしかっただろうに。あの時月が綺麗だったのは覚えている。あの時は電気だけでなくガスも水道も止まった。イラクでも何処でも停電の多い国は多いが日本はあまりない。私たちの生活とはなんだろう。なぜパソコンで文章を打つのに手書きでは書けないのだろう。わたしの自由とはなんだろう。わたしは停電する自由しか、断食する自由しか与えられていないのに、その自由に気付いていないのではないか。

 ちなみに引用しようとして消えてしまった立岩氏の言葉。「存在のための手段によって私という存在が規定されてはたまらない。」*2

*1:ウチは中古住宅でどういうわけか、ヒューズとブレーカーが二重にある。翌朝すぐとりあえずつないだ、いまからヒューズを買いに行く。

*2:p128『自由の平等』

ケチは地球を救う

「人間の欲望の絶対量はたかが知れており、そう持っていたいとは思わないのだが、生産・所得と人間の価値とがつなげられていることによって、持つことの意味が肥大していくし、人はそれに下属することになる。」*1

その通りだと思う。例えばステーキ食べるにしても一人で2枚食べればせいぜいだ。旨い魚を食いたければ産地まで行けば倍もしない値段で良いのが食える。車はコンパクトカーの方が運転しやすいので楽だ。それ以上のものに「ステータス」とやらを感じるという文化によって辛うじて支えられているにすぎない。百チャンネルもあるテレビを契約したって一体何チャンネル見れるというのだ。パソコンも十万円ほど出せばしたいことは全て出来るようになった。消費が更新しないのも無理はない。一方でホームレスはどんどん死んでいく。分配は可能だから「してあげる」のではなく、「することに決めてしまう」のが良い。と立岩は言っている。

*1:p148『自由の平等』

酒井啓子

下記に酒井啓子氏の文章があった。

http://www.be.asahi.com/20040110/W12/0022.html

カイロにあるアメリカン大学に勤務していた普通の女性が、アメリカがイスラエルの不正に荷担し続けたため、アメリカという看板を背負ってしまったただそれだけのために、どれだけ日々の困難を味あわなければならなかったか、を書いてます。

http://d.hatena.ne.jp/kitou/20040111 に紹介されていた。

「きみたちの国だ」について

 私の文章は読者に何かを訴えるだけのものですから、そしてわたしがわたしに何か訴えてもしかたないのですから、「わたしたち」から「わたし」を引いた「きみたち」に対して訴えてもなんら意味は変わらない、とも言える。

「国民の一人」として発言するという立場は、発言者に発言の権利と義務を与える。自分の意見を人に受け容れて貰おうとするとき、この「義務」は有効に働く。イラク派兵についてわたしはこう思うが君の意見はどうなんだ、まさか意見がないとは言うまいねといったふうに。しかしこうした日記とかで発信する場合はどのような立場、文体をとろうが勝手だ。ただ読者に対し説得力を(あるいは魅力を)持たなければ見放されるだけだ。

わたしは日本語しか話せなず日本に生活圏を持つが、だからといって日本という運命共同体に属しているとは思っていない。「北朝鮮が攻めてきたらどうする」と言われたときに、それはやっぱり困るなという反応が、現在の国民の保守的空気(軍事的なものの許容)を作ってきた。しかし北朝鮮がかりに日本に上陸したらそれは金正日政権の崩壊にしか繋がらないのは自明だと私には思われる。国難とか言いたい人が危機をあおり立て日本という共同幻想が立ち上っている。しかしもちろんそれだけではなく日本は悠久の昔からあり、国家を越える原理かもしれなかった仏教や儒教は衰退した。そして軍国主義に反対し普遍への信仰であった戦後民主主義も敗北している。日本人は宗教を持たないから「日本」を大事にするしかないのだ。哀れな!(ほんとうは日本には神道があるのにそれが近代国家に反するものであることをきみたちはしらない。)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040201 の私の文章の「きみたちの国だ。」に対して、次のようなコメントがあった。『「きみたちの国」じゃなくて、「わたしたちの国」です。あなたが日本人ならば。』わたしは日本語しか話せなず日本に生活圏を持つが、だからといって日本という運命共同体に属しているとは思っていない。このコメントは現在有る日本政府とか日本人の集合とかいった存在ではなく、日本という共同幻想への内属を野原に強要している。そうではなく、書くことは共同幻想の外側から書くことであるべきだ、むしろわたしはそう思う。

野原燐は戸籍名(仮名)YGのハンドルネームなのですが、YGは日本人だったりそうでなかったりするが、野原もそれと同じものなのかという問題があります。野原は勤労してないし現実の世界に生きているわけでもない。わたしがコギトとして宇宙のなかの一点として存在しているのに気付いたとき、そこから書くときのとりあえずの署名として「野原」はある。だから野原にとってYGが日本語しか使えないのは偶然にすぎない。わたしというものは世間の関係性や文化的影響や欲望によって制限された存在だが、なおかつ余剰がある。その余剰の方へ比重を掛けたいというベクトルが野原という名前にはこもっている(かもしれない)。

現在自衛隊イラク派兵という<戦後の終わり>といういうべき時代の転換点であるにも関わらず、去年のブッシュの戦争反対に比べても数分の一しか反対運動は盛り上がっていない(らしい)。派兵反対率はアンケートでは下がり続けている。それに対し「それは困る」と思った。でももちろんどこへ文句を持っていくこともできない。言論の自由も集会の自由も保障されている。「民主主義だからしょうがない」。

ところで民主主義とは何か。国の進路の大変換期に数割の反対があるのに、主要都市で目立ったデモがない、といったものが民主主義だろうか。きみたちは「日本は民主主義国だ」と教えられそう信じているが、それは違うだろう。デモ一つ出来なくては時流に押し流されて行くだけだ。

わたしたちの生活は軍(自衛隊や米軍)によって守られている、というのは錯誤だ。

投票さえしてたら民主主義だというのは、錯誤だ。

きみたちの国が何処へ行こうが私の知ったことかとは言わない。きみたちの国なんだからきみたちがよく考えろよ、と言っていも、結局の所、考えないものきみたちの勝手だが。

ここで、何故「きみたちの国」であり私の国ではないのか、という問いは答えられないままだ。だが国などどうでもよいではないか。わたしたちの社会は、世界=天下として成立している。世界は単一の原理では概観できない。そうであるからこそ問題は世界である、ことは強調されなければいけない。天下をすぐに論じられないからとりあえず、より狭い範囲を考えるが、国家をすこしでも特権化する思考はお断りだ。それと、この間明らかになったのは、「世界」もまた、帝国主義的に歪められたイメージでわたしたちに与えられているということだ。イスラエルは北朝鮮と同じように歪みきった弱小国家にすぎない(がそれが是正されるのは北朝鮮と違って数十年かかるだろう)。ここでもイスラエルや北朝鮮について発言する権利が野原にあるのか、という問いがある。その問いも開かれたままだ。

消えゆく他者

例えば http://www5.justnet.ne.jp/~takataka2001/linkp03.htm によれば、私が何か発言するとき、「私は常に他者によって呼びかけられているのです。」とデリダは、考えたらしい。

「私の責任は、私の措定以前に、(略)他者の呼びかけへの責任=応答可能性というレベルで既に始まっている。(略)責任は根元的には、<他者への応答>でしかない。応答することから始めなければならない。」(『アデュー』より)

たまたまこの引用元である『アデュー』というのはデリダによるレヴィナスに対する追悼の本である。がadieu という言葉には下記のような含意があるらしい。「 レヴィナスにおいて「アデュウ」(adieu)はa`-dieu(神 -へ)と読みかえられ、「私」と絶対的他者としての他人との倫理的関係を創設するような倫理的出来事を意味する。(河合孝昭 http://www.copula.net/mag/vol_2/venir01.html)」より

で、絶対的他者とは一体何なんだろうか?

「レヴィナスはしばしば、死者達に対する生きている者達の責任、罪責について語る。それがホロコーストの犠牲となった無数のユダヤ人達に対する、われわれ後世の生き残りの責任を意味していることは言うまでもない。(河合)」べつにあえて難癖を付けたいわけもなんでもないが、*1レヴィナスが死んだのは1995年、現在ほどではないが、パレスチナ人に対するイスラエル国家の暴虐はずっと以前から続いていた。ホロコーストを絶対的という形容詞とともに考察することは、イスラエルの暴虐を見ない振りをすることとシンクロしていた。という指摘は充分可能である。

「私は常に他者によって呼びかけられているのです。」という発想は魅力的である。

だが他者とはふと一瞬現れ次の時間には意識の外側に逃れ去るといったそういう存在ではないのだろうか。私たちが特権的に考察しなければならない他者とは、瀋陽総領事館駆け込み事件のキム・ハンミちゃんである。彼女はその後家族と共に無事韓国へ亡命したから彼女自身について気遣いを持続しなければならないわけではない。だが「中国にいる30万人の北朝鮮脱出者と、北朝鮮の2000万人の同胞の生活の大変さ」という問題は現在のものだ。(脱北者が30万人もいるのかどうか分からない。日本には数字にすぐケチをつける恥知らずなレイシストが多い。)キム・ハンミちゃんという固有名において記憶された悲惨は、他の難民たちのうえに大きく持続していると意識しうると思います。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040113 1ヶ月以上前に書いた、野口孝行さんと脱北者二人は中国当局によって拘束されたままです。日本の世論が盛り上れば情況も変わっていたでしょうが。えーこの文章は直接社会批判を呼び掛ける趣旨はありません。他者について考えているのです。他者は確かにそこにいる。だが世界中には数十億の他者が存し一々考えることなどできません。誰でもどの他者について考えるか選択を行っているわけです。脱北者はいつも後回しになる。北朝鮮がずっと遠くの北アフリカにあったら日本人はもっと関心を持ったかもしれない。ヨーロッパ人が騒げば日本人の一部は確実に影響されるのです。が隣の国北朝鮮に大きな関心を持っているあるいは持つべきだと考える人は現政権を通じての国民への浸透という回路だけを追求し、脱北者=難民を絶対的に見ようとしません。

「ユダヤ的な解釈はそれ自体、(呼びかけられる側の)安全化の戦略だ。僕は少なくとも責任にかんして、デリダとレヴィナスを信用しない。」という北田暁大氏の文に刺激を受けて以上書いてみました。http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040106

*1:レヴィナスのことを何も知らないのでケチの付けようがない。

普天の下、王土に非ざるなく、

『漢文入門』*1から引用します。

 温という国の人が周に行った。周は客(他国人)をいれない。「之に問うて曰く、『客か』と。対(こた)えて曰く、『主人(そこの土地の人)なり』と。その巷(町名)を問へども知らざるなり。吏因(よ)りて之を囚(とら)ふ。」君主は(代理人を通して)之に問う。「周の人でないのに、客に非ずというのは、なぜだ?」対えて曰く、「臣わかきとき詩を誦(しょう)せり、曰く『

普天の下、王土に非ざるなく、卒土の濱(ひん)(はて)、王臣に非ざるなし』と。いま君は天子なれば、即ち我は天子の臣なり。」人の臣であって客であることはありえない。だから主人と言ったのだと。君主はこれを解放した。(韓非子 より)(漢文と訳ごちゃまぜのいいかげんな引用。)

古代中国においてはまさに王(天子、帝)はどこまでも続く地平線の果てまでの民を、自らの臣としているという発想があったわけです。王とは支配の別名ですから、朱子的にいえば「理」でありまた20世紀的には「近代人権思想」とも接続可能です。日本は戦後狭くなっただけではなく、視野が一国主義的になり外国といえばアメリカなどの欧米を意味するようになった。本来は「普天の下、王土に非ざるなく」という西欧起源ではない普遍感覚は日本人のうちにも存在していたのに。

というわけで、ここでも野原は野口孝行氏の解放を訴えているわけで、中華を名のる国家元首であるなら、どうかこのエピソードを思い出し、北朝鮮と中国の国境線によって人は印を付けられ差別されるという思想をとらず、彼らを解放してやってほしいものです。

*1isbn:4000201018 この本は1957年発行の本なのでisbnなんてついてないかと思っていたら1992年版にはちゃんとついていた。

代理母の場合

 わたしたちの世界は所有権を不可侵のものとしているがこれはおかしい。例えば、世界的な美術品などを私有して破壊してしまうといった行為が許されないのは当然だ。同様に人間を私有することも許されない。しかし、現在日本でも過労死などはよく起こっている。これは実質的にその人間が私有された結果だと捉えられるのではないか。それに対し、基本的に分配可能なものは分配すれば良い、と立岩氏は言う。

 分配不可能なものはどうか。例えば、代理母が産む赤ちゃん。当初は子宮を貸すビジネスとして割り切れると思っていたがそうはならず、“そのもの”(赤ちゃん)とわかれられない。これが、「分けること、どちらかに帰属先を決めることが必要な場合もある。世界が既にあり、その中のあるものを私も欲しいしあなたも欲しい。」*1一つを半分に分けることはできない。そうした場合である。

 どちらに与えるか?実母(子宮提供者)に優先を与えると、ドゥルシラ・コーネルは言い立岩も賛成する。ただその理由は違う。実母に子供を手放せということは、「自らの性に関わる存在を表現する権利」を奪われることだ、とコーネルは言う。それに対し、立岩は「自らが作っていくその子との関係において、関係に対して自ら表現するものが権利性を規定するのだとすれば、親であろうとしている二人に区別はないのではないか。」

「その理由は、その人に対して、人との関係において、その人が接してしまった、既に会ってしまったことにある」だろうと立岩は言う。「そのこと自体においては自由なあり方ではない。」関わり自体は全くの偶然だったかもしれない、としてもその出会いをやり過ごすことが出来ず、出会ってしまった。「その存在に接する人、接してしまう人がそれについての権利を付与される」と考えるべきだろう。権利といっても、「それは決定できる権利ではなく、むろん処分できる権利ではなく、そのもとにいること、留まることについての優先を与えられるという権利である」が。

「ここで起こるのは、私の期待や願望が途絶し挫折すること、あるいはそんなたいそうなことは起こらないまでも、期待や願望と別のところに別の存在がいてしまうことを感じてしまうこと、そのことに伴って、そのものが存在し続けることに関わることを引き受けざるをえないと思う、そのような出来事である。*2

 ハイデガーはなぜ死についてなんか思索したのだろう、死ではなく誕生の方が微細に観察可能であり思索も深まるはずだと思った人は多いはずだ。21世紀になり立岩はついにその課題を達成しつつある、と言っても決しておおげさではないと思う。*3

*1:p267 isbn:4000233874 金銭を介した代理母契約は無効、とコーネルも立岩も言う。民法でもそうですね。ただ金銭を介さない場合、コーネルは認める。

*2:同書p270

*3:『私的所有論』の時から書いてたような気もするが。

松下昇

松下昇の“優先所有権”を求めることほど松下の精神からほど遠いものはない。*1

あらゆる「所有権」を超然と度外視するのではないにせよ、それについて考えてみるためには、同志よ、もう一歩が必要だ。*2

「例えば、白い紙(ないしパソコンなど)を前にして何かを表現しようと身構える態度は1969年以降は無効である」(『概念集・8』あとがき からすこし変えて引用)

労働中、潜水中、墜落中、睡眠中など筆記用具(ないし表現手段のすべて)が無効な状態での表現行為を考えよ。あるいは日本語を知らない人が日本語での表現を強いられる場合を考えろ。それとの位相差が表現の内容や方法に及ぼす作用と反作用を繰り込めないかぎり、表現は無効である。というようなことを松下は考えていた。

*1:p193 『マルクスと息子たち』からマルクスを松下昇に代えて引用

*2:デリダ 同書p53