兵士になること(ヴォランティア)

「ロシアには屈しない ウクライナ 市民ボランティアの戦い」
https://www.nhk.jp/p/wdoc/ts/88Z7X45XZY/episode/te/3644Q6GXL3/
というNHKの番組を見た(元はBBC)。

 ヘルソンの隣町ムィコラーイウ で闘う市民ボランティアたち(今まで従軍したことがないし、訓練もほとんど受けていない)。ヴォランティアといっても実際に戦闘行為をしている。主にインターネットやドローンで敵の位置確認をしている人たちが居る。ドローンで敵めがけてまっすぐに爆弾投下すれば人が死ぬ(かなりの確実で)。もっと大きな爆弾を撃っている人たちはどこから見ても軍事行動だ。

 敵の数人もいっぺんに吹っ飛ぶような爆弾を上手く落として、敵が死ぬことを喜ぶのは、普段の倫理感からは大きく離れている。しかし、戦争とは敵の死を喜ぶことであろう。
 ウクライナは格別悪いことはしていない。だのにある日自分の住んでいる町が占領され自由が奪われる。その町に住んでいる人にとって悪いのは、一方的に相手(プーチン)側である。そのとき敵を倒し、敵を殺すことは善となる。

日本人はこの価値転換を是認しない人が多い。戦争は悪だ、という思想である。しかし、現実に侵略されたウクライナ人やかって侵略された中国人にとって、祖国(郷土)を守るために戦うのは、大きな決意をもってある〈善〉に投企することだ。
 日本人はこのような侵略に対する抵抗としての善なる市民戦争を体験したことがない。元寇は確かに侵略に対する抵抗ではあったが、戦ったのは武士であり市民ではない。
 臆病な普通の市民が銃を取るとき、そこにはパトリオティズムが微小だけれども立ち上がると考えうる。太古の昔から日本という国家が存在し、自分はそれに内包された存在だという日本人的存在感覚がわたしたちの間には深く根付いているが、それは信仰であり、普遍性はない。大きな敵がやってくることはあり、自分が去就を問われることもあるだろう。

私は一切の暴力を否定する、一切の戦争を否定する、戦争が起これば逃げる、あるいは降伏する、それはそれで一つの思想だろう。それに自分を賭けられるだけの深みが、あるのであれば。
 しかし日本人は戦後ずっと、兵火にさらされることなく生きてこれた。戦争中も本土の人は一方的に空襲とか受けるばかりで、自分が銃を取るか取らないかという決断をした人はほとんどいない。
 強大な軍隊に守られているとされる立場でぬくぬくと半生を過ごしながら、自分が厳しく問い詰められる可能性がないからそう言いうるだけである可能性もあるのに、倫理的に立派な平和主義を得意そうに口にするのは、(たいていの場合)非常に罪深い行為であるのではないか、と私は思ってしまう。

あなたが自分自身の命を掛けて、すべてを賭けて戦ったとしても、それは「戦争」である。つまり市民が行うゲームなのではなく、プーチンという巨大な帝国とゼレンスキーとそれを支援する欧米諸国という国際政治学的なゲームなのだ。
 参加しているひとりの市民の思い、憎しみや悲しみ、郷土への愛情は直接はカウントされない。あなたたち数人の必死の行動はどちらにしても「微細な戦果」に結果するだけだ。戦果の積み重ねが勝敗(この場合はプーチンの撤退)に影響するかどうかは分からない。それは無駄な抵抗であり、結果的に人名の損傷を増やしただけだと評価されるかもしれない。しかし他人の評価とは別に、自分の評価を信じるしかない。自分の命を掛けているのだから。

 ボランティアと兵士というのは日本では全く逆の意味と捉えられるが、ヨーロッパではそうではない。自分が自分の命を賭けることの、その決意という目に見えないものの集積が、共和国であり、ネーションであるのだ。

 ネーションというものは成立した途端に、私たちを抑圧するものという姿を見せる。であるとしても、敵を倒すために殺すことをさえ選んだヴォランティアたちを私は尊敬する。思想の差異があるかもしれないとしても。

もし私がウクライナに居て若くて元気だったとしても、銃を持つかどうかは分からない。実践的にはともかく、思想的に「持たないこと」が正しいのか。正しいと今の私は言い切れない。
 ただ正しくないと言う人が、「安全圏から偉そうに言っている」だけではないか、と思ったのでそう書いてみた。

「宮廷女官チャングムの誓い」について

 宮廷女官チャングムの誓い、54話もある長いドラマ。見ました。2003年の作品、脚本:キム・ヨンヒョン 演出:イ・ビョンフン。

 中宗(チュンジョン 1506年 – 1544年)時代ごろの朝鮮の王宮を舞台にしている。
 この時代に限らず朝鮮王朝時代は、支配階級のあいだに儒教が浸透し、女性のさまざまな活動が非常に制限されていた時代である。
 そのなかで、唯一王の主治医となり「大長今(偉大なるチャングム)」として歴史書に名前が残っている女性がチャングムなのだ。https://kankoku-drama.com/historia_topic/id=12001

 といっても、名前以外ほとんど資料がない。ありえたかもしれない一人の女性の闘いの一生を、作家は美しく描き出す事に成功した。(もっとのびのびと活躍したかったという500年間の女性の夢を、この一人の人物に集約させるように作られたキャラクターだとも言える。)

王宮には多くの女性たちがいた。王宮に入る女性は賤民や早くに両親を亡くしたものが多かったとされる。
https://zero-kihiroblog.com/trivia/nyokan/#index_id3
 重要な仕事をさせられることもある一方、都合が悪くなればいつでも殺すことができるそうした存在だったのだろう。男と違い最初から権利を持たない存在だと位置づけておけば、とても使いやすい。
 彼女たちは、幼くして王宮に連れてこられて以来、王宮の外に出ることも許されず、男性と付き合うことも許されず、子を持つこともできず寂しく死くしかない。王宮という人工的な世界でしか生きられない、死ぬとき以外王宮を出ることができない女性たち。

 ただ、ドラマでは女性たちが色鮮やかな料理を作っている日常が続き、基調はおだやかなので安心して見続けることができる。

このドラマのテーマは、ハン尚宮とチャングムとの世代を越えたシスターフッドだろう。その背後には、パク・ミョンイ(チャングムの母)とハン尚宮との友情が、ミョンイの水剌間(スラッカン、宮中の台所)からの追放、毒殺(未遂)により壊されるという関係がある。ミョンイを追放したのはチェ尚宮の一族。彼らがこの長いドラマで権力側としてずっと悪役をつとめる。チャングムを育て見守ってくれたハン尚宮も途中で追放され、その途上で死んでいく。

ドラマの最後では、チェ尚宮一派の罪は暴かれ裁かれることになる。ところが、チェ尚宮一人だけは逃げ出し、宮中の外にまで出ていく。どこに行くのかと思えば、なんと(自分が殺した)ミョンイの墓である。チェ尚宮とミョンイは、幼い頃から水剌間の見習いとして育った親友だったのだ。チェ尚宮は家と権力を守るために手を汚すことを厭わず生きてきた自分を、否定し反省するだけの力も持てず、幼年期に退行する。そして松の木の枝にかかったリボンを取ろうとして(あるいはそういう幻影を見て)崖から落ちて死んでしまう。

 クミョンはチェ尚宮の姪であり、水剌間の最高尚宮としての地位を引き継いだ。しかし幼いころはやはりチャングムとの友情があったのだ。
 女官たちは幼少期から世間から隔絶した閉鎖空間、理不尽な権力関係に振り回される奇妙な空間に生き続けなければならず、しかも出口はない。このような長く続く世界で営まれた、回帰するシスターフッドというものが、このドラマのテーマである。

チャングムは最初后と、次に王からも信頼を得ることが出来、それによって復讐を遂げることができた。后も王も最高権力という立場にありながら、誰にもこころを許すことができずひどく孤独である。それがチャングムを急に評価するようになった原因でもある。后はチャングムにこころを許すあまり、対立する王子(中宮)の命を縮めることを命じる。后との関係を断たない限り、悪に手を染めるしかない立場に置かれる。(宮中の権力関係というのは苛酷であり、ほとんど殺さなければ殺されるといった関係なのだ。)この直後、チャングムは一時的に水剌間の最高尚宮にもなる。この二つのエピソードが示しているのは、母を殺したチェ尚宮、このドラマの敵役とチャングムとの同一性である。存在様式としての同一性と言いたい。最高尚宮としてのチャングムの姿はそのことをビジュアル的にも明らかにしている。

 王宮という閉ざされた空間で繰り返されるのは、自己が生き延びるために他者を排除する悪に加担せざるをえないというつまらない反復である。
 それに対して、チャングムが貫いているのは、どんな場合にもその人を害することになる食事(あるいは医療)は出さないという倫理である。罪なくして死に追いやられた母とハン尚宮の復讐をするためにチャングムは王宮に帰ってきた、そして自ら悪行をすることなくして復讐を果たすという、不可能だと思われていたことをやり遂げた。

しかし、振り返ってみれば、幼い頃宮中に来てから死に至るまでチェ尚宮の生はミョンイの生の反復であり、同じようにチャングムの生を反復しているのがクミョンである。女官として同じような外見と人生から外れることができない彼女たちには、差異よりは反復が大きく感じられる。
 朝鮮王朝で何の積極性も主体性もなく抑圧されたばかりで数百年過ごした女性たち。そんなことはないと証したのがチャングムであり、そしてすべての女たちも、また少しづつはチャングムであったのだ。

 なお、「シスターフッドとは、男性優位の社会を変えるため、階級や人種、性的嗜好を超えて女性同士が連帯すること」とされる。https://www.tjapan.jp/entertainment/17528215 
 しかし、全く同じ空間、権力関係のなかで何十年もすごした女どうしの友情/憎悪、に対してもシスターフッドという言葉を使うことも許されるのではないか。

 朝鮮王朝期には男性優位の社会を変えるといった問題意識はまったくなかった。王宮という閉じられた世界では、どのように新しいことをやろうとしてもそれは挫折し出発点に戻るしかない。王宮の女性たちはすべて同じ立場に置かれており、そのことを良く知っている。その必然性を裏切る〈一瞬の夢〉としてチャングムは現れた。チャングムを見つめる女官たちの視線には、反復するシスターフッドが、逆説的に表れている。

存在革命の可能性について

図書館で、岩波書店の雑誌『思想』2023年2月号を手に取った。大黒弘慈「「あいだ」のフェティシズム」という奇妙な題の論文、ふと読み始めると、難しいがとても大切なことを言おうとしているようだと分かった。

フェティシズムという言葉は難しい。ギニア人が価値のなさそうなビーズに価値を見言い出したり、粗末な神像を拝んだり、というのがフェティシズム。ととりあえず理解する。
A  :そのもの。例:木や紙で無造作に作った人形
〈A〉:フェティッシュ。おおきな神の予感。(信じてない人=近代的理性によって虚偽とされる)、という図式である。
フェティッシュ(物神)を否定しなければならないという常識をグレーバーは批判する。対象Aと主体Bとの安定した限定的関係がいつでも可能だしそれにたどり着けるという考え方に対する批判である。

われわれが創造的に生きようとするとき 物神は必ずしも悪いものではない。ただ危険な場合もある。p90 というふうに言っている。つまり、対象Aの本質、性質、質量などを私たちは客観的に捉え理解できるという前提に立つ時、それに対する例外としてフェティッシュがあるわけだ。
しかし私たちが生きているとき、ものAは慣れ親しんだものとか彼女が口にしていたものとか、そういうふうになんらかの情緒とともに存在している。であればそれは決して悪いものではないだろう。逆に、「ある種のフェティシズムをよすがにしてよりよい社会を築いていく」ことも可能なのではないか?それは「われわれがフェティシズムを作り出す行程について、理解しえない余地をあえて残すことによって可能になる」とグレーバーは言っている。p91
まあ、より正しい主体を求めていくことで、未来を獲得できるという考えを彼が取らないことは分かる。超越性への匂い(誘い)、ベクトルといったものを見出していくということだろうか。

でこの論文は、価値と権力の基礎とは何かを問い、その中で、新しい社会的現実を創造するためにフェティッシュが果たしうる可能性を探ろうとするものだ。

(第1章は「廣松渉、真木悠介、宇野弘蔵が、それぞれマルクスの「物神性論」を原理的なレベルでどのように読み替えていったのか」を追う章。ここではこの章に一切触れずに、残りの部分だけでの理解を書きます。)

第2章は「物神の消失/主体の埋没」となっている。

資本主義の現在は、対象Aの確実性が揺らいでいる時代である。例えば、サービス労働のような非物質的労働が優勢となっている。また、フェティッシュ崇拝は盛んになっている。「推し」消費の増大などに見られるように。
今日経済は非物質化している。貨幣の非物質化、ネットワーク上のbit列化が著しくすすんでいる。そしてまた、負債経済の下では、金融権力がわれわれに負債感情を植え付け、返済のために行動を画一化し、「正しい」生活規範へ順応させ、評価に縛られた空虚な活動に駆り立てられる。p108 

疎外とは「人間の本質をモノに外化し、それによって逆に支配される事態」のことだった。であれば、ひとと人が対等に関わり感情を含めて交流する介護、保育などの仕事は「疎外されていない労働」という面も持つ。実際そこにやりがいを感じると語る人も多い。しかし実際にはそこには困窮(moneyの欠如)がある。
またひととひととの関係においては、〈対等性〉が重要である。サービスの受益者と供給者という格差の一方で、人対人としての〈対等性〉をどのように確保するか?その問いに開かれた関係を作っていくべきだろう。

ここで紹介されている今井里恵氏の論文は、今日の労働疎外の核心をこう語る。
「物を製作することにより他者との新たな関係を築き自己の物語を紡ぐような仕事の機会」が奪われていることだと。p108
彼女は仕事を「演技ゲーム」として、「他者とともに共同社会を能動的に構築していく作業は本来、根源的喜びである」と定義する。p109 個々人が自分の判断で不確実性への跳躍をして、自分の物語をつむぐことが「自由」である。
しかし、1970年代以降は、管理強化され、自由の感覚が奪われた「演技労働」に堕落した、と彼女は考えた。現在、わたしたちの労働は、不確実性への跳躍が一切奪われてしまっている。

マルクスは生産物があふれる豊かな社会になれば(さらに革命後)、人間の主体性や人と人との直接的関係が回復されるはずだと考えた。それは実現できていない。
ここで、「むしろフェティシズムを回復することによって、自由な主体は可能になり対称的な人間関係が可能になるのではないか?」と考えた人がいる。ラゥトールである。p110
物神を一掃し、事実の集積だけの世界を真実だと批判家は考える。しかしそれは結局同じことなのだとして、ラトゥールは「物神事実」 ということばを使う。

第3章は「理論と実践」と題されている。

実際はギニア人とポルトガル人のいずれも「超越性の像を作る」。そこには、構成された実在と内在的な超越、中途半端な物神事実どうしの対立があるだけであり、階層差はなく、いずれも物神崇拝者であるといえる。p112
物神が行為者を支配しているようにみえるが、実際は行為者が自分の力をその物に投影しているだけだ、と批判する。
そして、そのさらに背後には、多数の作用者、社会的群衆、諸関係、伝統というものがあり、力をあたえている。

批判的思想は、物神を一掃し、事実(A=Aである対象の群れ)だけが現実だとみなそうとする。
それに対し、ラゥトールの見方はもっとダイナミックであり、「自らの行為によって幾分か超過される」行為者を考えてみようと言う。
関係を、主体と客体、本質と本質としてスタティックに捉えるのではなく、行為と行為の関係として動的に捉えるべきだと言う。まあ、生きている上では客体自体をそのまま捉えることは困難であり、行為の中にしか現れないのはむしろありふれた体験になる。

ここで、パリ郊外の民族精神医学の治療現場という現場が出てくる。
精神医学なのに、個人の内面に注意を払い分析の中心にするということがない。そうではなく、彼らの崇拝物、祖国の祖父母、叔父、(サッカー)、そうしたものが複数の言語で語られる。患者は心理学的主体ではなく行為体になる。患者だけでなくその他多くの参加者たちがその過程で少しずつ変貌する。そのようにして、患者は治っていく。その人は患者としてではなく参加者のひとりとして、崇拝物を回復し主体となる。物神から解放された主体ではなく、「崇拝物をもつ準主体」である。p113

自由とは、完全な自由ではない。いくぶんか支配されることはむしろ不可欠なのだ。絶対的な自由などないといって諦めるのではなく、悪いつながりを良いつながりへと置き換える不断の営みが肝要だろう。p114

ラトゥールは客体としての客体というものを否定する。
例えばパストゥールは「しかるべき実験室を自分の手で注意深く設定したからこそ乳酸酵母は実在する」。パストゥールは超越性を作った、と言う。
考えてみれば、超越を製作することは、それほどめずらしいことではない。「自分の書いた文章を読むことで自分の考えていることが初めて分かる書き手」というものはよく居る。p115

人と物との注意深い共同作業によって構築された「物神事実」こそが実在である。
自由とは物神事実のかたわらで生きるということである。それは物神に支配されることではない。制御不可能な領域(撹乱的要素)を残すことである。〈 〉に注ぎ込まれるべき力の可能性を信じることである。

絶対王権を革命したとしても、「良い支配者」「固定された主体」による支配という構図が変わらないが、それでは意味がないのだ。p116
自由とは、他者の影響を遮断することではない。恐怖を騙して魅力に変え、風通しをよくしていく。諸々の繋がりを剥奪されないようにする。魅力によって人々を繋いでいけるのだ。p117

フェティッシュは排除されなければならないという思い込みは強い。真理や客観性や聖性に到達するには媒介物を完全に駆除するのが不可欠だと考えられているのだ。
しかし、我々が神自体に触ることができない以上、像的媒介物には超越へ達する手段を超えた聖性がすでにあると考えるべきではないか。

物神事実という認識から始める必要がある。「物神と事実、疎外と解放、非合理と合理などの階層的二元性に基づいて、双方の差異を絶対化するのではなく、モノもコトもヒトも諸々の結びつきによって相対的に異なるにすぎないのだとまずは認識すべきである。」とラトゥールは言う。(この文章は日本では危険である、と指摘しておいた方がよいだろう。日本では味噌もクソも一緒くたにして、結局権力側つまり日本的包括者が勝利するシステムが強く働くから)

「価値の階層化から注意深く距離を取りながら、価値の恣意性のなかから、いかにして新しい同一性をつくり直し、良い結びつきを通じて新たな社会関係を創造していくか」、「理論」をヒントにすることによってそれができるとラトゥールは言う。(マンガ、アニメなどで、女子どものたあいのない思いからかなり高度なドラマを作り続けてきた、日本人の膨大な諸作品は参考になるかもしれない。)

「いまここで新しい社会的現実を創造しようと思うのなら、そこには必ず「詐欺」の要素がなくてはならないということだ。」
「詐欺」というと誤解されるであろうが、なんらかのフェティッシュ「人知が及び難い領域があると思わせること」なしには、「一定の理念を巨大な現実に変えることができる集団的力を引き出すよすがにはなりえない」のだ。
未開社会の藁人形、アナキストの巨大人形、そしてホッブスのリバイアサンというのがその例だ。

「新しい社会形態や制度を創造するためには聖なるものが必要です。」「しかし、聖なるものの力と神秘は、同時に危険なものもあります」そして実践的にこの矛盾を解く方法はある、とグレーバーは言う。

わたしたちの社会で最も力をふるっているのは商品フェティシズムである。それは金融権力に識らず知らず服従するといったかたちでも、ひそかにどんどん進行している。
しかし、そのようなフェティシズムのなかで、それを拒否するのではなく、それを魅力ある結び目に変えていくということはできるのだ、と大黒氏は最後に言う。

近代の〈物神事実〉崇拝について ―ならびに「聖像衝突」 –2017
ブリュノ・ラトゥール (Bruno Latour 著), 荒金直人 (翻訳)

資本主義後の世界のために (新しいアナーキズムの視座) – 2009
デヴィッド グレーバー (著), 高祖 岩三郎 (翻訳)

(私はまだ読んでない)

反スターリニズムとは何か?

さて、吉本隆明『重層的な非決定へ』という1985年の本を手に取ってみた。

「貴方は世界にさきがけて、戦争の責任とまったく同等の重さと規模でレーニン-スターリン主義責任というものがありうること、そしてその責任を問う場所がありうることを身をもって示したのでした」、と吉本は埴谷を評する。p24 そこから20ページほど、吉本のレーニン批判が展開される。マルクス・レーニン主義というものが存在することを前提にしてその周辺でそれを批判しているにすぎないと、埴谷も批判される。

いわゆる新左翼は1960年ごろ以降、反スターリン主義を標榜していたが、それを思想的にきちんと展開できていたか、よく分からない。全共闘運動が反スターリン主義的な情動、思想とともにあったことは確かだろうが。

91年ソ連は崩壊し、マルクス主義自体が検討に値しないものみたいな風潮のなかで、このような問題も忘れられていったのだろうか。
北朝鮮と中国は存在し続け、それらの国家の自由の欠如、人権弾圧(あるいは飢餓など)という問題、そうした権力を支えるスターリン主義としての中国共産党や金日成主義をどう考えるか、という問題は大きな問題として残り続けた。しかし市民の連帯運動としても、思想的にも、それとまともに格闘しようとした動きは少なかった。

東欧・ソ連の崩壊の数年前、ソルジェニーツィンの告発やポルポトの惨劇がありまたポーランドの連帯の運動が盛り上がっていた。一連の現在の社会主義「国」が抱懐する理念と現実の挙動の根柢的な欠陥、を真正面から受け止めて「苦しげな理念批判と自己批判」を展開したのは酒巻さんという無名人だけだったと、吉本は言う。p25

埴谷は「クロンシュタットの労働者や兵士のソヴィエトと、国家権力を掌握したレーニンの党派とのあいだの対立と、レーニンの党派が加えた無態な弾圧の経緯について、詳しく述べ」ている(と吉本は言っている)。p26
それは大事な問題だ。ロシア革命は、レーニンが指導するボルシェヴィキだけが成し遂げたものではなく、「クロンシュタットにおける労働者・兵士ソヴィエトの、権力はあくまでもコンミューンにあるべきだとする非中央集権的な理念」と行動が成し遂げた部分がかなり大きいことは、事実であるし大きな示唆をあたえてくれる。(これについては、『忘れられた革命 ーー1917年』という本を参照して欲しい。)

しかし吉本は、それはちょっと違った問題だと把握すべきだと言う。
クロンシュタットの問題は「一地域的な政治体験での、中央集権派と非中央集権派の抗争」の問題と考えられる。
しかしそれとは違い、スターリニズムは、過渡期における資本制的な過剰国家管理体制の一変態、国家社会主義のヴァリエーションとして理解すべきだ、というのです。p27

「レーニンらの党派の中央集権的な理念と、クロンシュタットの労働者・兵士のソヴィエト・コンミューンの非中央集権的な理念との対立・抗争。弾圧」この対立がロシア革命最大の問題であることを誰も疑わない。しかし、吉本は「対立にすぎない」と軽く扱う。人類の社会制度史が革命されて「広範な物言わぬ大衆と市民の貌」がせりあがってきた、と言いうるために、欠けているものがある、と判断する。

どういうことか。
消費としての賃労働者(階級)の大衆的理念が、いかにして生産労働としての自己階級と自己階級の理念を超えていくか、という課題に革命の問題があるのだ、と吉本は言うのだ。生産者としての存在様式の団結により階級形成、理念形成、革命闘争をおこなっていくプロレタリア革命の理論とはまったく違うものを、作りださないといけないと吉本は言うのだが、暗示的な形でしか表現できていない。

「国家と革命」の国家観について吉本は全否定はしない。「精いっぱいの理想主義」と評価できるところもあるとする。しかし、大事なことは下記だろう。この文章は1985年つまりソ連崩壊前のもの。つまり左翼の間ではレーニンの権威がまだ残ってた時代だ。この頃、レーニンのテキストに遡り、否定すべきところは否定するという作業を果たそうとした人が世界中にいたはずだ。しかし、今ではただ読まなれなくなった。それではただの流行にしたがっているだけになる。

「監獄その他を自由にすることができる武装した人間の特殊な部隊」を国家とよぶという部分もたしかにエンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』の文中にあることはある。しかしそれは極小のものに過ぎず、現実の「国家」や「権力」の精緻な動きの記述には耐えられないものだ。p34
「すべての市民が、武装した労働者である国家にやとわれる勤務員に転化する。」とかいうのは、レーニンによって短絡と狭窄を受けた「権力」の規定がうみだした歪んだ国家像だ。それは「どうかんがえても強制収容所群島にゆきつくほかないものです」と、吉本は断言する。p37

「「国家」とか「権力」とか「法」とかいう共同の幻想が、どんな実体と具体的な現実機関と、表裏となって存在するのか」といった問題を把握していかなければならないのだ。現時点で言えば、プーチンの大ロシア主義や愛国主義というものが復活してくる危険性を吉本は予見したわけではない。ただ、「共同の幻想」が大事だという点では当たっていたとも言える。

さらに吉本は、レーニン『哲学ノート』を読み、ヘーゲルに言及する
「ヘーゲルの論理学の美点は、(力運動)・移行・分極・対立・同一性・差異などの概念を論理学に登場させて、動く世界の内在的な必然的な連関を導いているところにありましょう。だがその論理学の欠陥は、世界を閉じられた枠組(輪郭)をもったまま規定可能だとみた点にあると思います。」
この吉本の批判は見事なものだと思う。そしてそれは、直接レーニン批判につながるものだ。
ヘーゲルの概念のうち「絶対者、神、天、純粋理念」などをレーニンは否定する。だが吉本は「人間が自然を喪失してしまった後の、自然と等身大の真理概念で、すべての概念の「終焉」として意義深いものだ」と書く。
西欧近代哲学とは「神」概念の解体の歴史だったのだから、21世紀近くなって吉本が「神」を捨てるなと説くのは奇妙に思える。
「世界を閉じられた枠組(輪郭)をもったまま規定可能だとみる」こと、それは世界を一つのシステムとしてみることに近いと思うが、それをなんといっても避けなければならないと、吉本は考えたわけだ。
これは、現在価値を見出すべき思想だと思う。

ゴーダ綱領批判を読んでみた

マルクスのゴーダ綱領批判は、ちょっと意外な文章から始まる。
「労働はすべての富の源泉ではない。」価値は労働力から生まれると資本論には書いてあるのではないのか。(ちょっとよく分からない)
自然もまた労働と同じ程度に、使用価値の源泉である。とマルクスは言う。なるほど。
「そして、労働そのものも一つの自然力すなわち人間労働力の発現にすぎない。」
労働がそれに必要な対象と手段をもって行われる、とするならば「労働は富の源泉だ」は正しい。土地とクワがないときに耕す労働をする人はいないので、たいていの場合それは正しいことになる。
しかし「土地とクワがないとき」どうしたらよいか、つまり失業したらという困惑とすれすれのところに労働者は生きているのであり、その言葉を意味あるものとする条件を、当たり前のこととして語らないブルジョア的言い方を許してはいけない。

人間が自然に対して、それに働きかける権利を有する者として、それに働きかけるとき、富が生まれる。使用価値(価値)が生まれる。p15
労働者は「労働に必要な対象と手段(対象的労働条件)」を普通持っていない。だから、それを持っているブルジョアの奴隷にならないといけない。
「労働はすべての富の源泉だ」とポジティブに言い切ってしまうと、労働者の従属関係とともにしか労働は成立しえない、という事情が見えなくなってしまう。と、なるほどと思う。
「労働はすべての富の源泉だ。労働者がこの社会を作り上げている」というのは元気が出るスローガンだし、まったく間違っているわけでもないが、厳密に考え発言していく方がよいのだ。

「有益な労働は、ただ社会のなかで、また社会をつうじてはじめて可能である」
マルクスが「労働に必要な対象と手段とをもって行われる場合」と明確に語っている」ところを、「社会のなかで、また社会をつうじて」とあいまいに表現している。

でそれによって、「労働の全収益は、平等な権利にしたがって、社会の全員に帰属する。」
現在の社会では格差が問題になっている。社長が労働者の100倍の報酬を貰ったりしている。それに対して、例えば「Twitterの全収益は、平等な権利にしたがって、Twitterの全員に帰属する。」と考えてみることは、思考実験としては行うべきことのように思われる。

全収益を分けるとすれば、まず「社会を維持するために必要なもの」を控除しなければならない。
ただし「社会を維持するために必要なもの」はマスクスによれば、直ちにかぎりなく拡張解釈されてしまうものだ。政府とその付属物の要求、およびブルジョアたちの私有物が円滑に働くことができるための要求、として。
空虚な文句は、口当たり良く見えるけれども、どんなふうにもこじつけられる。つまり支配者(ブルジョア)の解釈がまず適用されるとかんがえておかなければいけない。

「労働はただ社会的労働としてはじめて、富と文化の源泉となる。」この命題は正しいとマルクスは言う。しかし、
「労働が社会的に発展し、またそのことによって富と文化の源泉となるにつれて、働く側の貧困と見捨てられた状態、働かない者の側の富と文化が発展する。」こちらの正しさも忘れてはいけない。
そして、現在の労働者に、このような災禍を打破せざるをえないような物質的その他の諸条件を現在の資本主義社会はつくりだした、論じきるべきだった。

「公正な分配」をゴーダ綱領は求める。
しかし「公正な分配」とはなにか?現在の生産様式の基礎の上では今行われている分配が公正なものだと主張されるだろう。

労働の全収益を社会の全員に配分する!と語ると、皆の人気をえることができるかもしれない。しかし実際に分配できるのは、各種控除すべきものを控除した後の額である。また「社会の全員の平等な権利」をことばのあや以上のものとして確定するのはひどく難しいだろう。

以上のように、マルクスは、ポピュリズム的語り口が労働運動のスローガンに入ってくることを厳しく排除しようとした。資本主義がその冷徹な法則を貫徹させ、合理的であるがゆえに、労働者を苦しめるのだ、ということが、マルクスが資本論で発見したことだった。

以上が、「ゴーダ綱領批判」の(わかり易く歪めた)概要である。

労働というものが、それに必要な手段をもって自然(あるいは人工的な自然)に働きかけすべての富を作っていくのだ、という基本思想は貫かれている。21世紀の現在、労働という言葉はかって持っていた力強い価値を失っているように感じられる。インターネットで伝達される情報や巧みに組み合わされ人を惑わすイメージの乱舞といったものが、大きな価値を生んでいるかに見える。
ただ、現在も一日8時間労働のサラリーマンといった雇用形態は大きな比重を失っていない。むしろそうでない雇用形態が限りない搾取に陥り易いことが問題になっている。
労働というテーマを私たちが処理できていない限り、マルクス・エンゲルス全集の一部を読んで見るということも、意味のあることである。

「現代中国のリベラリズム思潮」を読んで

現代中国のリベラリズム思潮」という本を読み始めた。

最初の論文が徐友漁という人の「90年代の社会思潮」というもの。
これが思いのほか面白かったので、紹介したい。徐友漁(1947年-、四川成都人)

70年代の終わりに文革が終わり、80年代インテリたちは開放的空気に包まれた。
改革開放、いままで禁じられていた西欧的、資本主義的なもの、サルトル、フロイト、ニーチェなどまで入ってきた。近代的、合理的、普遍的なものが目指された。
89年に六四天安門事件が起こり(そう書いてないのだが明らかに分かる)、時代の空気が変わる。
一つは「国学」ブームなどの文化ナショナリズムである。全般的西欧化が否定され、愛国主義、伝統文化が称揚される。
現在の西側文明は抜け出すことができない危機に陥っており、東洋的文化だけがそれを救うことができる。西欧文明は自然を一方的に収奪してきたが、道教の無為自然思想にもあるように、東洋には人間だけを高いとするのではなく自然と共存していく思想と知恵がある。集団主義、無制限な自由・権利を認めないこと、官僚制度、競争の抑制、などはアジア的近代化を支える価値とされる。
徐氏はこれを文化ナショナリズムとよび、インドや日本の思想家がアジア的文化が世界を救うといった時と同じ言葉使いだが、中身はそれぞれ違うと指摘する。ドイツやロシアの知識人もしばしばそのような「精神文化の優位」といった言説を雄弁に語ったと指摘する。
まさに、日本では30-40年代に、〈近代の超克〉として語られたことであり、それ以後もたびたび繰り返されたものだ。しかし思想はある社会のなかで有機的に切り離しえないものとして切実に存在しており、そう簡単には客観的評価できない。中国である切実さにおいて文化ナショナリズムが存在していたことを知るのは、日本のそれを理解するためにも参考になる。
日本と中国のどちらが東アジアの文化を代表しうるのかといった問いは、異一見愚かに見えるがそうでもなく、言説を支える土俵に影響している。

次に、ポストモダニズム。ポストモダニズムは近代という価値基準を放棄する。
科学、民主、理性といった価値を真正面から取り組むべき価値として追及してきた知識人たちの営為は全否定される。それらは資本主義的概念として否定される。
しかし、と徐は言う。五四新文化運動は確かに西欧啓蒙思想の借用ではあるが、そのままの輸入ではない。五四運動は儒家の礼教、三綱五常という悪しき慣習と闘ったのだ。伝統を切り捨てたのではなく、顧炎武から章炳麟に至る「破壊と継承の闘い」がその根にはある。同じように八十年代の新啓蒙運動も当時の中国の状況、矛盾(文革の暴虐など)に向き合い解決しようとしたものだ。

次に、「新左派」理論というものがある。
冷戦終了後、先進国での資本主義批判はポストモダン思想とも交流しつつ、活発化した。フランクフルト学派などの批判者たち。彼らは、前に進むようなふりをしつつ、古いものを懐かしみ、精神を崇め立て、物質を否定し、大衆を蔑みつつ、大衆の導師として振る舞い、エリート的である、と徐は批判する。(まあ、フランクフルト学派が古いものを懐かしんでるだけと言われると違う気はするが。)
リベラリズムは結局は巨大な集権的国家建設を支持するものだといったマルクーゼの言葉を、かなり強引に引用し、さらに胡適の例を引き、リベラリズムは専制を支持するものだと結論つける(王彬彬氏)。

90年代、市場経済を発展させていくという目的のために人々は経済的リベラリズムを学んだ。
中国ではずっと、個人主義は極端なけなし言葉だった。しかし、多くの西欧の思想家たちを、上記のような様々な論争のなかで受け入れることで、中国人もリベラリズムへの理解を深めていく。
1997年から中国でも法治国家という原則が確立される。「法は人よりも大きく、法はその他のいかなる権力よりも大きい」ということを中国人も徐々に理解していく。それは党が国家に変わって直接権力を行使するという形を変えていくことである。
人が自由に生きていくためにもリベラリズムは必要であろう。
「こうした一つの連合体においては、各人の自由の発展が万人の自由の自由な発展の条件となる。」というマルクスの言葉でこの文章は締められる。

日本の思想史の百年近くを中国では20年で過ごしたみたいな感じもあって、忙しい。しかし中国の方が、ストレートに深く思想を問うているところがある。日本を考える上でも中国を知ろうとするのは必須であろう。

さて、1980年代は文革の反省としての西欧に学べとリベラリズムの時代だったが、その空気は89年六四天安門事件で終わった。90年代は、文化ナショナリズム/ポストモダニズム/「新左派」/リベラリズムと論争ははなやかだった。
2008年、〇八憲章。劉暁波拘束。2010年、劉暁波にノーベル賞。2012年、反日デモ。(2014年、台湾ひまわり運動、香港雨傘運動)。
2017年、劉暁波死去。2022年、習近平3期目総書記、独裁強化。
この間は、言論の自由は逆に狭まっている。

「現代中国のリベラリズム思潮」は2015年に出た本である。その後8年間中国の言論の状況はどう変わったのか。先日、この本の著者の一人秦暉氏の講演が神戸大学であったので聞きに行った。現在の政治などについての意見を言う自由がほとんどないことが彼の雰囲気から分かった。8年前に比べても中国の言論の自由は大幅に狭まっているようだ。
ただし、五四運動以降、あるいはもっと長く三千年前からの思想の流れを考えても、リベラリズムは中国思想と無縁の外来思想ではないので、いつか復活するしかないだろう、とこの分厚い本を読んで思った。

図書館にネトウヨ本問題(2)

続き。http://666999.info/noharra/2022/12/28/toshokan/ に対して
1月25日付で 返事が来ました。

図書館からの返事(1)

2月7日付けで 再質問しました。

□□市産業文化局 生涯学習部
読書振興課 担当課長 様
2022.2.7
□□図書館の選書について(2)(質問)

回答ありがとうございます。

1.□□市立図書館資料収集に関わる基準に基づいて、購入されているとのことですね。
「市民の文化的生活の向上に役立つ蔵書構成を構築するため、計画的・系統的に収集する。」とあります。
私の質問した124点の図書は、「市民の文化的生活の向上に役立つ」とはかならずしも言えないと思います。

2.日本には長い歴史と豊かな文化があり、それを学び愛するのは大事なことです。しかし、だいたい1935年の国体明徴声明以降の日本では、天壌無窮の天皇崇拝思想が極まり、八紘一宇「全世界を一つの家にすること」が強調され、アジア太平洋戦争に至りました。
このような体制下では、思想の自由がなく、また図書館の自由もありませんでした。
そこで、戦後教育勅語の排除にともない昭和25年に図書館法が成立しました。したがってそこで謳われた「健全な発達」「国民の教育と文化」とは、そのような歴史の反省の上に立ったものだと理解できます。まずもって「多様な対立する意見がある主題」であると理解するのは間違っていると思います。
どのような諸意見が対立しているのだ、と認識されているのでしょうか?

3.その前提の上で、私の質問した124点の図書は不適切なのか?そうでもないのか?が問われます。
それぞれの観点の資料をバランスよく収集した結果だと、書かれていますが、具体的にどのような本(百冊以上)とつりあっていると思われているのですか?

4.私の質問した124点の図書は、選書委員会によって自主的に選ばれたものでしょうか?それとも市民からの購入希望によって購入したものでしょうか?一冊づつ示してください。数人の市民の希望により、偏った選書になってしまったということはないのでしょうか?

5.傷んでいない本は無償譲渡するとの回答ですね。市民の教養を高めることができる値打ちのある本だと理解しているということですね?

6.「概要」のp15では、寄贈の本が、3744冊もある。これはどのような本ですか?
私の質問した本のうちに寄贈の本はありますか? もしこのような偏った思想の本の寄贈を受け取って使用しているなら大きな問題です。

7.「外国人に対する偏見や差別は、異なる民族・国・地域・文化等について正しい理解がなされていないことなどが要因となっている」と、第2次□□市人権教育・啓発に関する基本計画にはあります。
わたしの提示した本には他国についての正しい理解を妨げる記述が存在するのではないでしょうか?


返事がないので、2023年11月に担当者に会いにいきました。

http://666999.info/noharra/2022/12/28/toshokan/
http://666999.info/noharra/2023/02/18/toshokan2/
前に書いた問題に、つまり2/7に私が再質問してから、一度電話催促しただけで返事がないので、どうなっているのか?聞きに行ったのです。

中央図書館のMさんという女性、資料チームのチーム長に、11/28に会いました。
相手はもう一人のひとと2人でこちらは一人で会いました。

124冊のうち、図書館が選書会議で自主的に選んだものが32冊、残り92冊は市民の希望によるもの、だとのこと。(これは確か前に電話で聞いていた。)ただし希望といっても、選書会議には掛けるとのこと。

市民の希望に対して、「この本は偏っているから入れない」という回答はできない、ということでした。

これらは「ある思想傾向」というよりも、20年ほどまえから始まった特定の運動であり、インターネットで嫌韓など中国・韓国に対する差別的発言を流行らせ、雑誌でネトウヨ的文章が主の雑誌を出し、本を出し、また政治家もそういう傾向の発言をするなど、一部の人たちがぐるぐる回る運動体を作り上げているものに過ぎないのだ、私としては、指摘しました。
市民には違いないとしても、特殊な人々にすぎません。そして、これらの本は内容がほとんどおなじようなものが繰り返し出されるので、本屋に並ぶのは数ヶ月だけです(たいていの本がそうなのですが)。ところが図書館に買われると、一般の図書と並んで何年も開架式本棚に並ぶことになる。これは市役所が特定の人たちのために、何年間も本を権威つけ宣伝してあげていることになる。極めて不当だ。
と力説したのですが、全然とりあってもらえませんでした。
希望をした本はほとんど買ってもらえることが多いようです。

ということで、まったく成果がなかったという報告でした。

図書館は私が日々親しんでいる最も身近な施設なので、今後のために少しでも手がかりを作りたいと思ったのですが、ダメでした。

なお、4月に電話催促したとき、Mさんは慌てたような感じで、返事出しますと言ったのです。だから待っていたのです。ところが、今回会うと、電話で了解してもらったので返事は不要と理解していたというのです。虚偽です。中年女性ですが司書の仕事とかにもさほど見識のない、今どきの忖度公務員なのでしょう。

とりあえず、報告まで。

困難女性支援法コメント

https://public-comment.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=495220328&Mode=0 こちらで、困難な問題を抱える女性への支援のための施策に関する基本的な方針、についてパブリック・コメントを求めていたので、書いてみました。

次のとおり、意見を書きます。

1・「時代が下るにつれ、社会経済状況の急激な変化とともに、女性の高学歴化が進み、就業率が上昇した。p1」
「にもかかわらず、女性の低賃金、雇用の不安定といった傾向は改善されず、パワハラ・セクハラ・解雇などの被害にあいやすい傾向が続いている。」ということを強調しておきたい。
なぜなら、
女性に対する支援だけのための法律を作るのは男性差別だという趣旨のパブコメが、大量に来ることが予想される。したがって、現状が顕著に女性差別的であるので対策が必要なのだ、という因果関係を明示する必要がある。

2・社会の変化に見合った婦人保護事業の見直しについて(p2)
ここで言う「社会の変化」とは何なのか?「女性の低賃金、雇用の不安定」の事実に変化がないという認識の上に、行政を行うべきだろう。

3・婦人補導院の廃止には賛成する。p3
「女性を婦人補導院に強制的に収容して矯正する補導処分」という思想が、「売春婦差別」の色合いが濃い。

4・「婦人保護事業は困難な問題を抱える女性への支援が重要な課題となっているにもかかわらず十分に活用されてこなかった状況」これが問題である。
「困難な問題を抱える女性」は特に、「本人が支援を求めない傾向が強い」。これは本人の自己肯定力が弱く、また行政による「上から」の支援に対する不信感が原因である。これを解きほぐしていくためには、相談員などによる持続的・粘り強い相談が必要である。

5・約84%は非常勤職員である(p7)。
婦人相談員手当等の増額は図られているようである。さらに、単年度雇用では相談の継続性も保証されない。会計年度任用職員制度の抜本改正が必要である。
常勤・正規化するのも一つの方法である。ただ、週4日など短時間職員のままで常勤化(雇用保障)する途を確立すべきである。

6・「市の女性相談支援員(旧婦人相談員)の相談実人数は1.3倍、延べ件数から見ると1.6倍となっている」p8
市役所・区役所の方が相談しやすいので、このような相談所を増加させる方が良いだろう。

7・「民間団体が独自にソーシャルネットワーキングサービス等も活用しつつアウトリーチや相談支援、居場所やシェルター、ステップハウスの提供や医療機関・行政機関等への同行支援等、生活再建に向けた支援の様々な支援策を展開している」p9
4に書いた理由によりこうした支援は、行政がやるより有効である場合がある。
ところで、現在暇空と名乗る人物がインタ―ネットで活躍し、良くわからない理由で、この種の活動の細部にケチを付ける活動が非常な盛り上がりを見せている。これは合理的理由がない理解しがたいものである。したがって、市民の意見ではあるがこれに類する意見については、厚労省は見識を持って無視していただきたい。

8・「性自認が女性であるトランスジェンダーの者」p9 についても、生きる上で大きな困難に出会う場合が多いので、この法の範囲で支援するようにしてほしい。

9・「とりわけ、性売買等の性的搾取・性的虐待・性暴力の被害により、尊厳を著しく傷つけられた女性には、これらの搾取等の構造から離れ、安心できる安定的な生活を確立し、心身の回復を時間をかけて図っていくことが必要である。」賛成する。

10・「また、性的搾取による被害が「性非行」として捉えられやすい若年女性(児童である場合や妊産婦を含む)については、その背後にある虐待、暴力、貧困、家族問題、孤立、障害などの問
題を十分に踏まえつつ」対応をお願いしたい。
また性的搾取でなくても、性交渉、妊娠などの場合学校当局が退学など苛酷な処分をする場合がある。性交渉や妊娠は罪ではないという基本認識を徹底し、本人(と場合によっては胎児)の立場に立った処遇を指導すべきである。

11・「相談に至っていないが支援が必要な女性に対し、民間団体等による気軽に立ち寄れる場や一時滞在場所において支援対象者に寄り添い、つながり続ける支援を行うことは、女性たちとの信頼関係の構築にとって重要であり、公的支援を必要とする女性への支援の提供に向けても有効であると考えられる。なお、相談に至っていないが支援が必要な女性には、女性自身が困難に気付いているが他者に言えない場合や、女性自身が気付いていない又は気付きを避けている場合、厳しい精神状態にある場合など様々な状態があり、女性自身の状態に配慮しつつ適切に対応していくことが重要である。」賛成。
(以上)

私は相談業務の仕事をしたこともないし、勉強不足で、内容は自信がない。
できれば批判してください。

図書館にネトウヨ本が多すぎ、申し入れした

□□市教育委員会 様
□□図書館長 様

いつも図書館を利用させていただいております。
優れた本をたくさん購入してくださってありがとうございます。

ただ、先日□□市図書館○○分館の開架図書をずっとみていたところ、一群の本が気になりました。
歴史修正主義的な本です。
これらの本は、主にアジア太平洋戦争に触れています。終戦(敗戦)までは「大東亜戦争」と言っていました。

日本と中国の対立と、それによる満洲をめぐる国境紛争により発生した日中戦争(支那事変)は予想外の総力戦となり泥沼化しました。そのため日本は南進を行い、中国国民党への物資の補給路を断ち、石油などの戦略物資を入手することで日中戦争の解決を図ることになる。そしてそれを認めない英米と戦争するに至ったわけです。それを欧米に植民地化されたアジアを開放する戦争だとして美化し、東南アジア、インドなどの人びとに支持してもらおうとしたプロパガンダが「大東亜共栄圏」建設です。

歴史の見方は歴史家によって異なりますが、自民族(日本)だけを正しいとして、日本に不利な証言などはできるだけ採用しないようにして本を書けば、かなり偏向した「歴史」本が生まれます。しかしこの20年ほど特にそのような戦争中の歴史観に先祖返りしたような観念に基づく本や雑誌が多く書かれ、それを支持する政治家や市民なども増えてきていました。書店ではそのような本を買う人も少なくないようです。図書館に希望する人も多いのでしょうか。かなりの冊数の本があります。すべてリクエストに応じて購入したものでしょうか?

図書館ではどのような本を所蔵すべきなのでしょうか。
社会教育法では「実際生活に即する文化的教養を高め」るといった言葉があります。
また総務省は「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」を推進する「多文化共生」を進めようとしています。
そのような観点から見た場合、下記の本たちはかなり問題があるのではないかと考えます。

去年京都市宇治市のウトロというところで放火事件が起こりました。
犯人は当時22歳の男性で、特定の出自(朝鮮)を持つ人々への偏見や嫌悪感といった動機をもって、放火を犯してしまったのは民主主義社会では許容されないと、判決に記されました。
またその後、「日本を滅亡に追い込む組織」であるとしてと立憲民主党の辻元氏事務所やコリア国際学園、創価学会を連続襲撃した事件も起こっています。
上に書いたように、日本が朝鮮を植民地化し中国・アジアを侵略したことは事実です。ところがそれを日本の1945年までの歴史と努力を全否定するものととらえて、反発する思想によって書かれた低劣な本は多いです。これらの犯人はおそらく、そのような本やネット記事を読み、日本人は朝鮮人などより優れているなどの誤った思想をもってしまい、そのことが犯行の原因のひとつにもなったのではないでしょうか。

そうだとすると、そのような思想を展開している本を一般市民に対し積極的に公開していくことは良くないのではないか、と考えられます。

わたしが貴市の図書館から抜き出した下記の本は、おおむね上に書いた大東亜戦争肯定論的な構えに立ち、日本軍の残虐行為をできるだけ小さく描写し、朝鮮・中国人の欠点をことさらに強調するといった特徴を持っています。しかも学者の書いた本に比べ、扇情的で読みやすい文体で書いてあります。

以上書いたことについて、次のとおり質問します。

1,これらの本についてレイシズム的思想を拡散する本だと評価できるのではないでしょうか?
多数の本の中から限られた本を購入するに当たっての「選書基準」はどのようなものなのでしょうか?

2,そうである場合、これらの本をとりあえず、開架から閉架に移すことはできますか?
3,廃棄する場合は、市民への無料配布ではなく、直接廃棄する方が良いと思われますが、いかがでしょうか?

以上のとおり質問します。


歴史修正主義的な本の一覧
別添のとおり   2022.12.18


☆ 私がいいかげんにセレクトしただけで、124冊にもなったことに驚きました。いままでずっとそれが当たり前だったのなら、わたしの主張が通ることはないかもしれない。

私の書いた理屈は左翼・リベラルなら普通のものだと思われるのに、いままでこういう活動をした人がいない(みたいな)のはなぜだろうか? 検閲禁止みたいに思う人がいるのかもだが、そもそも図書館は無数の本の中で特定のその本を選んで買っているのであり、なんらかの価値があると判断しているわけだ。歴史修正主義的(民族差別的なものを含む)かつ扇情的な本をこんなにたくさん所蔵する必要はない。

☆ また、むしろ左派的な本が今後追放されていくきっかけを作るのではないか?という危惧を言う人も多いと思います。世の中の右傾化は止んでいないので、そうした可能性も全否定はできないかな、とも思います。でも正しさを素直にいろいろなところでふつうに主張していくのが大事なのではないか。

ご意見いただければありがたいです。

歴史修正主義的な本の一覧

河野談話など

○○さま
先日、2015年の安倍氏の謝罪について、知っているひとが少ないという話がでました。ここで最初からの経緯を簡単に説明します
慰安婦問題について
1993年8.4に日本政府が出した河野談話は
「今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
(略)
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。
(略)
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 (略)」
というそれなりに格調高いものでした。

この文章の問題点(1)は、慰安婦問題の責任主体が、日本軍だったのか、慰安業者だったのかという問題をあいまいにしていることだ、と言われます。

https://fightforjustice.info/?page_id=2475 に他の問題点もあげられています。
とにかく、(4)の約束に反し、教科書から慰安婦の記述をなくしていったのは、ありえないことであり復活させるべきだ、ということになります。

ところで、先日、話になったのは、2015年に安倍首相(当時)が謝罪したのに、誰もそれを知らないということについてです。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/na/kr/page4_001664.html
2015.12.28に、岸田氏が代理で、記者発表したものです
「 日韓間の慰安婦問題については,これまで,両国局長協議等において,集中的に協議を行ってきた。その結果に基づき,日本政府として,以下を申し述べる。

(1)慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している。
 安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する。

(2)日本政府は,これまでも本問題に真摯に取り組んできたところ,その経験に立って,今般,日本政府の予算により,全ての元慰安婦の方々の心の傷を癒やす措置を講じる。具体的には,韓国政府が,元慰安婦の方々の支援を目的とした財団を設立し,これに日本政府の予算で資金を一括で拠出し,日韓両政府が協力し,全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復,心の傷の癒やしのための事業を行うこととする。 日韓間の慰安婦問題については,これまで,両国局長協議等において,集中的に協議を行ってきた。その結果に基づき,日本政府として,以下を申し述べる。」

「安倍内閣総理大臣は,(略)心からおわびと反省の気持ちを表明する。」と言ってますね。
安倍氏は嫌韓的言説などでネトウヨに人気を得ていたため、謝罪しながら謝罪はしていないようなイメージ作りを必死に行いました。

この時に、日本政府はソウルの日本大使館近くの〈少女像〉の撤去を要求しました。(内藤さんと一緒に見に行きました)
ただ、韓国は撤去に努力するといっただけなので、別に約束やぶりではありません。

ただし、2015年に安倍内閣総理大臣が「心からおわびと反省の気持ちを表明」したという事実を、どうしても隠蔽したいひとがいるようで、なんだか理屈はわからないが、少女像がくると怒りまわるひとたちもそれを隠蔽したいには違いないでしょう。

以上、1993年と2015年の二つの宣言についての簡単な説明でした。