「NOを言うこと」は必要だ



報告をしなければならない。今日の裁判は行われないと。
なぜならば、それは野原によって取下げられたから。取り下げると○○県人事課に言った。私の二つの目的のうち一つ、週3日勤務を認めると相手が言ったから。もうひとつの目的172758円を支払えという要求は無条件で撤回した。

この4月から私はまた、何事もなかったかのように元の職場で働いている。
私がたった一人で裁判までして訴えたかったことは何だろう。
私は41年間もサラリーマンをしてきたが数年を除き残業はほとんどしてこなかった。しかしこの20年くらい日本では正規職員の平均残業時間はどんどん増え、非正規労働者の平均賃金はどんどん下がった(と言えるはずだ)。つまり労使の力関係において使用者側の力が一方的に強くなった。労働者はナメられているのだ。都心に高層ビルが立ち並び、オフィスにパソコンが林立するのは資本の側が高度化したことであり、それに対抗するものをわたしたちは獲得できなかった。
一方で、非正規化だけでなく労働時間の多様化は進行している。いまの私の課は課長1名課員10名だが、フルタイムの課員は3人だけだ。残りの7人はそれぞれ勤務時間がばらばらで、4日✕7時間30分、3日✕7時間45分、4日✕6時間、5日✕7時間、5日✕4時間、4日✕4時間15分(たぶん)、病気休職中が一人となっている。身分としては正規6人、再任用3人、非正規1人。時間給もばらばらである。このような状況下で相変わらず、正規(男性)労働者を基準にした「賃金闘争」を行うことしかできない労働組合というものが存在意義を減少させ続けるのは当然であろう。
しかし、どうしたらよいのか?
生産者が今まで一本百円で売っていたきゅうりを一本五十円でしか買わないと言われたら、どうだろう。それが不当でも買い手が一人しかいなければ生産者は買い手の言いなりになるしかない。それがどうしてもくやしいなら、それに応じずに、1年間我慢して大量のきゅうりをくさらせるしかない。後者のようにNOを言う人が出てくれば、歴史は少しづつ動いていく可能性がある。生活があるから言いたくてもNOは言えない、それはもっともである、しかし。正規職員として60歳あるいは65歳まで生きれば気づくことはそうした生活には終わりがあるということだ。NOを言っても言わなくて60歳あるいは65歳になれば、雇用関係はどのようにしても終わる。であれば、NOを言うことができる最後のチャンス(例えば64歳のとき)にNOを言うべきだ。
これが私の考えたことだった。そのために、私は「訴状」をにわか勉強して書き神戸地裁に提出した。第一回法廷は4月7日に行われる予定だった。
しかしどういうわけか、人事当局は私の主張を認めたので、「取り下げ」した。
やはり「NOを言うこと」は必要であると思う。

2016.4.7 野原燐



資料
  ビラ(去年年末の)
  訴状
  補正命令   ・     補正への回答
  
呼出状   ・     経緯
  取下書
  ビラ (2016年5月)