エチカ レジュメ2

第二部 人間

人間:神あるいは自然の属性が、一定の仕方で表現される様態である スピノザ

デカルトの残した問題 107

1,観念と対象事物の一致が真 しかしデカルトにとっては主観的観念しかない

では真は どこに?

2,思考と延長は 共通点がない

精神と身体が一つになっている状態を考える ことができない 心脳問題

猫A身体 : 「猫A身体」の観念

並行論 同じものが 二つの形を もっている

(私が観念を持つ と考えると 私が猫Aを知らない場合、この等値はなりたたない)

延長属性のなかでは  因果連鎖・・・台風A

思考属性のなかでは  理由の連鎖・・・台風Aの観念 (われわれに分からなくても) 111

(このような発想のもとで、近代科学は進んできたのか)

2定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。 並行論

厳密に同等で並行しており、一方が他方に先立つということがない 創造説の否定 112

無限知性 思考属性の無限様態 すべての事物についての真なる考え

2定理三二 すべての観念は神に関係する限り真である。 真理空間

人間:人間精神は人間身体の観念あるいは認識にほかならない。:2定理19証明

2定義七 個物とは有限で定まった存在を有する物のことと解する。もし多数の個体(あるいは個物)がすべて同時に一結果の原因であるようなふうに一つの活動において協同するならば、私はその限りにおいてそのすべてを一つの個物と見なす。

人間精神は神の無限な知性の一部である。「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかならない。ここで読者は疑いもなく蹟(つまず)くであろう。:2定理一一系

下位レベルで物質諸部分が協同してある種の自律的パターンを局所に実現しているとき、その上に上位の個物ないし個体特性が併発している。 116

無数の階層

P→Q ものの真なる観念Qを理解・結論しているのは、近接原因のPである 118

思考の無限連鎖が自ら継起しながら思考している 116

無限知性は無限に多くの観念の連鎖からできており、そのどの部分をとっても前提→結論のようなつながり方をしている。

スピノザは考える主体を消去している、思考の無限連鎖が自ら継起しながら思考している 119

2 定理九 現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状(アフェクトゥス)した〔発現した〕と見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。

いわば無限平面をびっしり這いまわる連鎖状の知性だけだ 121

ものBとの接触によって 身体Aに変状aが起こる

私の精神:身体Aの観念が自分の身体に生じている状態aを知る、非十全ながら 122

万有霊魂論

定理16〜47  コントラストがはっきりしている。

16〜19 人間精神は身体が受ける刺激

24〜31 は、非妥当 黒っぽい

32〜34 は、真である、白い

37〜40 「共通概念」が登場し、 真理に近づいていく

41〜47 「第一種の認識:虚偽〔誤謬〕に対して、反して第二種および第三種の認識は必然的に真」が確認され、真理に近づいていく

身体刺激を通じてわれわれが物体的事物をリアルに知覚する 2定理16系1 124

「外部の物体の妥当な認識ならびに人間身体を組織する部分の妥当な認識は、神が人間精神に変状したと見られる限りにおいては神の中になく、神が他の多くの観念に変状したと見られる限りにおいて神の中に在る。この認識は神が人間精神の本性を構成する限りにおいては神の中にない。ゆえにこの変状の観念は、単に人間精神に関連している限りは、いわば前提のない結論のようなものである。

言いかえればそれは混乱した観念である。 定理28証明 125

無限平面をびっしり這いまわる連鎖状の真理>真理しかないのになぜ誤謬が生じるか? 人間は局所だけ切り取っているから 126

表象(イマギナチオ):主観的認識モード

共通概念:

2定理三八 すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にも在るものは、妥当にしか考えられることができない。

この帰結として、すべての人間に共通のいくつかの観念あるいは概念が存することになる。

われわれの身体と椅子は「座り」とでも言うべき中間項を共通なc として共有する 128

>だからといって神の思考になるのか? 共有、能動の度合いを少しずつ高めていく

感覚を通して知る、あるいは言葉から知る:第一種の認識。

共通概念から:第二種の認識(理性)

神のいくつかの属性の形相的本質の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進む:第三種の認識 定理40備考2 >5定理二五以降(最終部)で展開される

2定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。

われわれの知性には自分勝手に虚構できない真なる観念がいくつか与えられている。

知性はそのことを知っている、という前提があるのだそうだ。 72

現にいくつかの真理に到達しているわれわれの精神のようなものが、この世に存在するには、世界はどうなっていなければならないか、と問うのがスピノザ。

「生得的な道具としてわれわれの中に真の観念が存在しなければならない」知性改善論39節

 

スピノザ・メモ 1

・・・・・・
目を閉じなさい。
何もないと考えなさい。
でも、何もないとは考えられないですよね。
何かあると考えてもよろしい。
それは、「それ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るか?(公理1)」
前者にしましょう。実体と名づけましょう。
後者であれば、様態と名づけましょう。
・・・・・・

「エチカ」は、実体と「様態」という二つの言葉からはじまる。
この実体ー様態間の存在論的な関係が本質ー特質間の認識論的、原因ー結果間の自然的・物質的な関係と同一視される、エチカでは。これがスピノザ哲学の最も重要なポイントだ。とドゥルーズは述べる。
p200 実践の哲学

「こうして、およそあるかぎりのものは、そのありようそのものはまったくちがっていても、(属性において)一義的に〈ある〉と言われるのである。存在の一犠牲が貫かれる。」p201実践の哲学

直接無限様態:思惟のそれは無現知性。延長のそれは運動と静止。
間接無限様態:延長のそれは、無限に多様に変化しながら全体としてはひとつの恒常性を保つ全宇宙の相。思惟のそれは「真理空間」?

エチカ レジュメ 1

今日やった、スピノザのエチカ レジュメ。

エチカ  上野修「スピノザの世界」p72以降 を主に参照する。

第一部 神あるいは自然

エチカは定義が8つ公理が7つ、その後まず定理が11個 並んでいる。
序文も方法論も定義規則もない!(著者名すら) 国分功一郎 p297

何から始めるか? 何から始めるにしてもその言葉をさらに説明する必要がある。無限遡行が避けられない。そうした問題にとことん悩んだスピノザは、何もなしに書き始めた。

定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
四 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。
一 自己原因
二 有限 何か他のものによって限界つけられる
六 神 無限の本質を表現する属性からなる実体
七 自由
八 永遠性 時間と関係なく真理 ならそれは永遠

定義3 実体= それ自身において存在する、それ自身によって考えられる 81
リンゴ
定義5 様態= 実体の変状(変様)、他のものの内にあり、他のものによって考えられるもの
「公理一 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。二 他のものによって考えられないものはそれ自身によって考えられなければならぬ。」により、ものは、実体か、様態かのどちらかだ。 82
リンゴのいろつや
定義4 属性= 知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの
リンゴ性 (知性、愛 がスコラ哲学では神の属性だったが、スピノザの場合、思惟と延長)
そういうものだとわかる表示 おのおのが神の永遠無限の本質を表現している p90

名目上の定義 (私は・・・と解する→読者はその前提を飲み込むしかない)

公理
三 原因がなければ結果はない
六 真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。 真理の定義ではない
定義を提示したならそれを有意味にするルールが自動的に要請されるそのルールが公理 国分303

定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じなければならぬ。:それまではどうするのか?
すべての基礎であるはずの神の起源・原理・基礎を語ろうとすることは、無限遡行のアポリアに向き合うことだ。304

実体/属性/本質 三つ組 ドゥルーズ 316
実体は 属性によって自らの本質を表現する 316
実体:表現する側 属性:表現 本質:表現される側
属性は実体の本質を表現している/構成している 320

「神」 定義六 神は、おのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、だ 怪人二十面相 91

ある実体 他のものからは生み出されえない
実体Aは他の物から生み出されることはない 自己原因 →存在する

神の存在論的証明
・・もし実体があるとすればそれは必然的に存在するとしか考えられない
・・だから必然的にそれは存在する 93
何かはある  何かを 神とするとすべては腑に落ちる 95

1 定理一四 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえない。
1 定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。
1 定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。

個物は神の属性の変状、あるいは神の属性が一帯の仕方で表現される様態、だ 97
猫、台風、戦争、あなた、 すべて神が 属性ごとに 変状したもの( 様態)だ 97

神は製作者ではない。神の本性には知性も意志も属さない 99
自由:自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるもの定義七

1定理一八 神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない。 汎神論

現実のすべては必然的にこのようであり、別のふうではありえなかった 定理33
必然主義 103

isbn:4-06-149783-9

マルタとマリア

イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 ルカ10-38

つまり「主はマルタに「無くてはならぬものは唯一つのみ」と言い給うた。マルタよ、思い煩いなく純粋であろうと欲する者は唯一つのもの、すなわち離脱をもたなければならない、と。」
エックハルトは、被造物から離れるべきことを性急に説く。利益であれ報酬であれ内面性の深みであれ自分のものとして求めるすべてのものから直ちに離れるべきである、という。
つまり、日常の雑事に追われてせわしく立ち働いていたマルタという生き方を否定し、一途にイエスの足元に近づきそこに浸りきったマリアの生き方を良しとする、かのようである。ところがここで、エックハルトは大きな逆説を説き始める。

イエスはマルタを叱責したのではない、と。マルタは確かに雑事に追われ、「思い煩っている」。しかしそうしたすべての活動において、マルタは少しの惑乱もしていない。ただ事物のすぐ近くに立ち、それぞれの物事を手早く的確に処理し続けるだけである。そのような生き方は、「事物がお前の中にまで入り込んでいる」状態ではない。手段であるべき事物に魂を奪われてはおらず、マルタの魂は天に直ちに通じている、と。

エックハルトは、仕事について次のように言う。
秩序正しく、合理的に、そして意識的に働くようにつとめなかればならない。秩序正しくとは、いずれのところにおいてもまずもっとも身近なことに応答していくことである。合理的とは、その時その時の事に没頭してより善きものを考えないことである。意識的とは、つねに甲斐甲斐しく活動してその中に活発発地の真理が喜ばしく現前するのを覚知することである。
p286神の慰めの書

いささか乱暴に言えば、仕事とか生計とか将来とかいうものを私たちは、物神化、イデオロギー化している。そのようなあり方からは直ちに離脱しなければならない、というのが、エックハルトの考え方。
一方、わたしたちは、衣食住をはじめその時々の必要を満たしていかなければならない。そのためにいそがしく甲斐甲斐しく働くことは、神の前に神とは別の自己(思想)、自己満足を立ててしまうこととは全く違う。かえって神の前におのれを空しくしている状態であるのだ、ということのようだ。

それより偉大なものが何も考えられない何か

Yさん、毎日暑いですが、だいじょうぶですか?

「それより偉大なものが何も考えられない何か」について、何か書きたいと思います。しかし、難しいので返信が遅れました。

「神はその卓越性のゆえに、いみじくも「無」と呼ばれる。」というエリウゲナの言葉があります。つまり、それはむしろ「語りえないもの」の近くにある。そして、「ある、esse」という言葉も微妙なところがあるようなんですね、じつは。

トマスも神を定義してはいけない、と言っています。

「神はその本質を通してこの世のわれわれには知りえず、ただ被造物を通してのみ認識されるから、従って被造物を通してのみ名付けられる。決してその名が神の本質を表現するような仕方では名付けられない。」

それゆえ、主よ、あなたはそれより偉大なものは考えられないものであるばかりでなく、考えられうるよりも偉大なあるものです。このたぐいの何ものかが存在することは考えられうることですから、もしあなたがこのものでないならば、あなたよりも偉大な何ものかが考えられうることになります。
しかし、これはありえないことです。アンセルムス プロスロギオン15章

あるものBは「考えられうる」よりも大きなあるものだ。このようなものが存在するのは充分あり得る。世界は人間の知より大きいのだから。しかしその場合、B>A(神)とするなら、それはありえない。
したがってBは神であるか、それとも存在しないかだ。(しかし後者についてアンセルムスは言及していない。)
私たちに問われているのはまず、「考えられうるよりも偉大な」と名指される領域に対する感受性です。私たちは「考えられえない」領域について考えないという習慣を持っている。「考えられえない」領域について考えても、意味のある文章はでてこないからだ。しかしその場合の「意味のある」という定義はまた近代的前提に立っているので、アンセルムスを読んだり批判したりするには訳に立たない。
それより大事なことは、「考えられえない」領域について考えないという習慣に無自覚になることで、「考えられえない」領域についてあたかもないかのような錯覚に陥っている危険性が高いということだ。

1、「それより偉大なものが何も考えられない何か」が「もし少なくとも理解のうちにだけでもある」。
2.一般に、何かが人間の理解の内にあるだけではなく、実際に(現実に)存在する方が、より大きいと言える。
3.もしもそのような存在が人間の理解の内にあるだけで、実際に存在しないのであれば、背理法により、おかしなことになる。
3-2だから、「実在としても存在する」ことになる。
4 ところで、「それより偉大なものが何も考えられない何か」とは私たちの神だ。そこで、神は真に存在する。

という感じかな。

2については、「(被造物は)それ自体ではそれ自身の本質を通して存在しているが、私たちの認識のうちでは、それらの本質としてではなく、それらの形似として存在している。それゆえ、創造されたものは、わたしたちの認識のうちに存在するよりもそれ自身のうちにおいてより真に存在する。」、まあこれは被造物についてで、神についてではないですが。
認識のうちのウサギより、実際に生きているウサギの方が、ウサギの本質を、多く持っているみたいな話ですね。

「概念+実在」と言ってしまうと、おかしな感じがするのはもちろんですが、そこらへんを解きほぐすのはなかなか困難です。

まとまりませんが、とりあえずの応答まで。

ちなみに、アンセルムスを勝手に敷衍した文章を添付します。

ここで、それより偉大なものが何も考えられない何か、とは何だろうか? 神という言葉はこの文章で一箇所、愚か者の言葉の中にしか出てこない。したがってここで言われているのは、社会的歴史的にあり続けたキリスト教の神とは別のものだと解釈する。わたしたちが信じ、そして愚か者たちが信じないものとは、例えば〈希望〉である。わたしたちの一年分の人生がたかだか数百〜千万の金銭と等価であるかのような等式を信じるふりをすることでこの社会はなりたっている。アンセルムスが「信じています」とそれだけを語っているのに対し、私たちは「信じないこと」を資本主義から強制されているのだ。であるがゆえにわたしたちは、自らを見失い脱出を夢見ている。そのときわたしたちはアンセルムスが信じていたことを知る。その〈希望〉は理解することができる。理解したことは、たとえそれが存在することを理解したのでないとしても、私の理解の内にある。〈希望〉とはあなたと私の魂の関係の再編に他ならない。そうであるところの〈希望〉は理解することができることにより、徐々に実在としても存在することになる。

『プロスロギオン』はスコラ哲学の父と言われるアンセルムス(1033年-1109年)の著作。西欧哲学とはこの神の存在の形而上学の脱色化の歴史だとも考えられる。野原はここで脱色化ではなく、それを横跳することを考えた。(野原燐 2016.4.8)

哲学を包囲する

ところで話は変わりますが、西欧哲学の読書会をしようと思っています。
下記のように全12回とします。(いかにも平凡なラインアップっぽい?)
西欧哲学を学ぶというのではなく、わたしたちを支配している常識のなかに埋め込まれている西欧哲学から自由になるために、といった趣旨です。

タイトルは「哲学を包囲する」です。
全12回で、西欧哲学の骨格/輪郭の偏差を、各自がそれぞれ自分なりに体感することを目的とします。

最初は12冊 こんな感じで選びました。
1,ソクラテス以前 >プラトン 
2,プラトン >アリストテレス
3,アリストテレス >スコラ哲学
4,キリスト教 >マイスター・エックハルト 
5,デカルト >スピノザ(9/29、10/18)
6,スピノザ >ライプニッツ (11/24)
7,カント >ロック (1/26)
8,ヘーゲル >カント (2/23)
9,マルクス >ヘーゲル (3/23) 
10,ニーチェ
11,キルケゴール
12,ハイデガー
( > の後ろは実際に行ったもの)

続いて、東洋篇
1,論語
2,墨子
3,孟子
4,荀子
5,荘子
6,朱子
7,王陽明
8,藤原惺窩
9,山崎闇斎
10,伊藤仁斎
11,荻生徂徠
12,新儒家

いかにもお勉強しますという感じのリストになっている。ほんとうの趣旨は、私が死んでいくにあたって、知的世界(書物)との自分なりの関係を再確認しておきたい、という極私的なものです。

〈共同体〉とは何か?

ふじのにできて、あなた〜わたしにできないこと、とは現在何だろうか?

わたしたちは一つの幻想あまりにも強く存在を拘束されているため、もはや自由とは何かが分からなくなっている。〈働かなければならない・稼がなければならない〉がそれだ。一見それから免れているかに見える専業主婦なども、毎晩の晩飯を作らなければならないという形でそれに縛られている。

しかし、すこし世界を見渡すとそうした思い込みは特殊なものに過ぎないことがわかる。例えば古代ローマのストア主義者の場合は、いかに良く死ぬかだけを考えて生きるべきだとされていた。
わたしたちはわたしたちの自由を自分で定義することができる、生活と語り方のスタイルを共有することによって。非暴力の自らの生活基盤や身体性の根底からの再検討をめざす表現過程において。

自己/あなた/第三者の3つの位相において、常に〈開放〉を志向すること、つまり、

自己が自己であり続けようとする固執を常に解除し続けること。

存在論的対等という要求をあいてに示し、自己もまたそれに開かれているようにすること。

形成されつつある関係性が疎外し忘れている人物、また無関係な外から飛び込んでくる人物を
最重要視し、一旦は考えてみること。

このように考えるなら、いまここから、再度〈共同体〉を作っていくことは可能なのではないか?

                     2016.7.8   野原燐
 

Sくんへの手紙

Sさま

昨日は、わざわざ走って帽子を届けてくれてありがとう。
と昨日手紙を書き始めましたが、書き続けられず、2日後になってしまいました。

いま現在窮状にあるあなたがたにとって、問題解決していけるように、という問題意識をもって、Tさんの6/20付け「声明」「経過報告」「要求」を読んでみます。
(K.Eさんが送ってくれたものです。苦労してfacebook偽名でアカウント作成しましたが、この「声明」にまで辿り着かず。)

といっても、私の基本的視線は「批判的」なものかもしれないです。わたしたちが自分の常識と信じているものは絶対的なものではなく、別の形でもありうるはずだと私は信じています。
わたしたちを縛っている常識の最大のものは、いうまでもなく「仕事をし賃金を得なければならない」というものです。そのような常識を拒否しようとする試みとして、〈弁当屋〉の活動がありました。

弁当屋の人的構成を、次のようにまとめることができます。
α.運動をリードしてきた、F(H氏を含めるかどうか議論がある)の思想
β.弁当作り、店員の作業をになってきた、6人(くらい)(お祖母様、Aちゃんを含む)の熱意
γ.周辺の若者の手伝い+K.E、近隣住民某ほかの大きな興味 (オーナー、や地域住民の好意、客がついたこと)

「紛争」のきっかけは、H氏が書いた「HとFがゆかいななかまと作りかけているちいさな食堂のプロジェクト」というフレーズでした。
「HとFとゆかいななかまたち」とは「言い換えればF・Hがいなければ何もできないような構造のコミュニティへと前進してしまう事になる。」と言って、F氏は自己批判しました。しかしそれは無理やり書かされたものだとして、また彼は撤回することになります。
しかし一旦は彼は「今後、共同体の自由と豊かさの発展のためには、上記のような認識に基づき、これまで個人の名前や力をよりどころにしている、自分たちの考え方を反省し、行動を改めなくてはならない。」と書いたわけです。これはひるがえって考えるならば、「今後、共同体の自由と豊かさの発展のためには,自分の使用者としての甘えを反省し行動を改めなくてはならない。」とも読み替えることができるはずの文章ではないのでしょうか?

共同体の対等な構成メンバーの一員として共同体を支える、という権利と義務と誇りがそこにあったはずです。それに反する事態が起こった時、その理想の高さに立って倫理的に他のメンバーを糾弾するといった姿勢を支える根拠は、そのような理想の高さから来る以外に考えられないからです。

この「理想の高さに立って倫理的に他のメンバーを糾弾する」というスタイルが、連合赤軍的なものだという指摘が、K.Eさんからあったわけです。(私も基本的には同意します。)
しかし、私のあなたがたへの批判は、むしろこの「理想の高さ」といったものをあなたがたが維持し続けなかったことにあります。

最初の段階で、早くも「技術的な人々がより豊かに生きるために共有や贈与、社会関係を基盤とする組織、(もう少し広い意味で捉えるならば)関係のネットワークを含めた集団を指す」と言いながら、「観念や理想のレベルで存在しうるものではなく、あくまで」という分かりにくい保留を付けている。「彼らは、無償労働によるコミューン形成という理想に、疑問や留保があったとしてもやはり自分の決断として賭けたのだという事実を、無いものにしようとしている」と私は批判しました。

6月10日付けの要求では、
A「事業は「共同体」という宣伝で人を集めながらも運営実態は、藤野氏の指揮監督の下、メンバーに住み込みで労働に従事させるものであった。実質的に労使関係にありながら、名目的には共同体のメンバーということで無給で労働搾取が行われた。」と事実認定が行われている。
「共同体」というのは宣伝でしかなく、じぶんたちは使用者である藤野に搾取された哀れな労働者だった、というわけです。ここには、私が確認しようとした〈権利と義務と誇り〉が一切ありません。

B「20万以上の余剰が派生するとして、相当な使途不明金があると思われる。どのような用途で共同体資金を使ったのかも含め、全容を明らかにすることを求める。」
Aでは、自己を使用者によって搾取された労働者と位置づけながら、ここでは利益は共同体資金だったとされる。じぶんたちが、Fによって使用されていたのか?共同体の為に働いていたのか?を、まずはっきりさせるべきでしょう。

どうして、こんなことになってしまったのでしょうか?
それは、わたしたち(というより西欧社会)が二百年かかって洗練させてきた交渉などのスタイル「労使交渉」の枠組みに、あなたがたが乗ってしまった点にあると思います。

出発点は共同体の対等な一員を目指したものであったはず、つまり自他の交換可能性であったはずなのに、それが、自他の非和解性、敵対性の持続拡大によって解決を求めるというスタイルに変わってしまったのです。
これは、敵=資本家は強大ではあるが、社会的名誉も企業活動継続による日々の利益もまた大きく、ストライキによって後者が損なわれることを嫌がるという理由で、解決がもたらされるものです。しかしながら、今回の敵=ふじのについては、強大でもなく金もなく、社会的名誉さほどなく、企業活動継続による日々の利益もまた小さい、といったのが実情でした。したがって解決がもたらされる可能性はないわけです。

以上が、とりあえず私が言いたいことです。

具体的には、あなたがたが何かを得ようとするなら、次のように考えた方が良いのではないか?
「F氏には当事者の納得のない限り引き続き中津での全活動の停止を求めていく」といった恫喝的語法を止めた方が良い。
逆に、「「一定の合意」さえ獲得すれば、H・Fが中津で安心して活動継続することを(いやいやでも)承認していきます」、と宣言した上で、「一定の合意」を勝ち取るべきだと思う。

2016.6.25 野原燐
noharra あっとまーく 666999.info に返信もらえれば嬉しいです。

参考:
とても残念なこと

訴状

訴状
原告 野原燐
被告 兵庫県
損害賠償事件
請求の趣旨
1,週3日(一日7時間15分)の勤務形態を認めず、
週4日(一日6時間)の勤務形態に就かせたことを、期待権に反した、不利益変更であることを確認する。
2,右記不利益変更にともなう、実際の拘束時間増にかかる経費 (金 円)の金員を支払え。
3,訴訟費用は被告の負担とする。
との判決を求める。

請求の理由
1,私は1975年22歳で兵庫県に就職して以来、38年間(2013年2月末まで)兵庫県職員として勤務してきました。定年後はいままでの週5日に代わり週3日で勤務する制度が長い間あったため、その制度を利用して、雇用延長してもらうつもりでした。ところが、2013年4月からの兵庫県による「被災地支援任期付職員」の募集がありそれに応募、合格したため、2013年4月から2014年3月まで東北大震災被災地(宮城県塩竈市)において市役所職員として勤務しました。2014年4月からは退職職員の「再任用制度」で雇用して貰えるとの内諾は東北に行く前に得ていました。「被災地支援任期付職員」においても雇用者は兵庫県、窓口は人事課であり、「再任用」と同じです。塩竈市にいた時に「再任用の申込書」を提出しました。2013年4月からの「再任用」においては存した「週3日(一日7時間15分)の勤務形態」が、用紙ではなくなっており、「週4日(一日6時間)」を選択するようになっていましたが、様式を二重線で消して週3日(一日7時間15分)と書き入れて採用希望しました。しかし塩竈市役所に兵庫県(復興支援課)から電話があり、「週4日(一日6時間)」しかだめだからそう直しておくと強く言われ、再検討を願いましたが、ダメと言われたので、しかたなく「週4日(一日6時間)」を受け入れ、2014年4月から再任用として働き始めました。4月1日から勤務開始で、当日兵庫県職員労働組合に再加入し、当日所長との断交を分会長(池上氏)とともに行ないました。しかし所長からはその要求には答えられないと回答がありました。
2014年年末にも申込書を、「週3日(一日7時間15分)」と書いて提出したところ、人事課から電話があり「週4日(一日6時間)」と書き直し申込書を再提出するように指示があり、しかたなく従いました。その結果2015年4月からの1年間雇用週4日(一日6時間)が決まりました。

2,以上のようにこの2年間、契約に従い週4日(一日6時間)で勤務してきました。しかしその契約において私の意志(希望)が週3日(一日7時間15分)であり週4日(一日6時間)でないことは明らかであり、雇用者(兵庫県人事課)もまたそれを知っていたものです。したがって、これは「心裡留保」の法理により無効なものです。

3,したがって、3日勤務を4日勤務に不利益偏向したことによる、拘束時間の増加(通勤時間1時間半×2、および昼休み1時間、計4時間)に相当する金員を支払え。

4,政府が平成19年に定めた「仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章」には次のような文章があります。「働き方や生き方に関するこれまでの考え方や制度の改革に挑戦し、個々人の生き方や子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な働き方の選択を可能とする仕事と生活の調和を実現しなければならない。」
現在、60歳ないし65歳で定年(あるいは雇用延長の終了)を迎えそれ以後は労働しないといった生き方が主流であるようです。しかしこれからの高齢化社会においては、報酬を貰える貰えないに関わらず、定年後も働く、学ぶ、教える、介護する、家事する、農業するなどの社会的活動を積極的に行って行くべきと、憲章は考えていると読み取れます。週のうち3日しか雇用しないことは、労働を中心とする世界観においてはマイナスであり、(賃金さえ貰えれば)4日も5日も働きたいという方が多かったでしょう。しかしワークライフバランスを重視する社会に変化させて未来を開いて行くためには、週のうち2日(週休日と合わせて4日)を上記のような現役時代の延長の労働以外の営みに積極的に費やしていくことが必要とされていると思います。
——————————————–
以上、訴状VER1.0 です。差し替え予定。

裁判提訴してみたい!

「ひるね通信(紙版・7号)」        2016.1.16
 裁判提訴してみたい!

 私は現在62歳です。60歳で定年退職し、年金の受給権と退職金をすでに貰いました(60歳の次の年度からすぐ年金貰えた最後の年)。さらにその上に38年間勤めた会社(兵庫県)で「再任用」してもらっています。世間一般から言うと恵まれた身分のようで、この上雇用者(兵庫県)に文句を言うなんて、非常識だということになるかもしれません。確かに役所及び今まで私を支えてくれた同僚に対して感謝の気持ちもあります。しかし、40年以上兵庫県で働くなかで、組織の上の人の常識に従い仕事をしていくことが本当は市民のためになっていない、むしろ組織のなかで組織のオカシイところを追求し声を上げていくことの方が正しいのではないかと、私は気付きました。
 しかし兵庫県のなかでそれ(例えば人事課)と闘うのは、不利益が予想されるため難しいことです。本当に具体的な不利益が予想されるというよりも、やはり「いわば非国民に」なっていくことへの恐れがあった、と思います。しかし現在私は「再任用・3年目」です。おとなしくしていても月15万円の仕事があと2年間得られるだけなのです。失うものが少なければ臆病者にも、「たたかう」ことは可能なはずです。このように考え私は「たたかう」ことを決めました。

 定年退職後、2013年4月から同じ兵庫県で週3日勤務の「再任用」雇用に入る予定でした。ただちょうど、2013年度から「被災地支援任期付職員」というものを兵庫県が初めていて、兵庫県が雇用者になり東北大震災被災地(宮城県)のそれぞれの市役所に1年間の任期付職員として勤務する制度(ただし継続雇用あり5年まで)が作られたので、それに応募・採用され1年間宮城県塩竈市の市役所で勤務しました。1年後には「再任用」として戻って来ることに内諾を得た形で1年間だけ行っていたのです。2013年の暮れ、来年度の希望調書提出の時に、私にとって衝撃的な事実を知らされました。
 それまで「再任用」は週3日勤務でした。これは私が知る限りずっと(20年ほど前から)です。ところがそのような一日7時間45分×3日という勤務形態は2013年度からなくなった、来年度からは一日6時間×4日という勤務形態しか認めなくなったと言われました。苦情を言おうとしましたが譲歩の余地なしと言われたので、仕方がないので、一日6時間×4日を承認し2014年度は雇用して貰いました。2014年の暮れも同じことを繰り返し、一旦一日7時間45分×3日という希望を出したが撤回し一日6時間×4日に訂正して2015年度は雇用して貰いました。
 週3日ではなく週4日勤めろ、しかも(一日あたりの)勤務時間は減らして、(週合計で)概ね同じ時間だから良いだろう、とする提案は、私には「納得してはいけない」ものを感じました。
 多くの人は60歳まで週5日間勤務を当然のこととして何十年も過ごします。(私の場合は61歳までそうだったわけですが。)辛くても辛くなくてもとにかくそれが当たり前であったわけです。だから、62歳から週4日と言われても受け入れられないわけではなく、週3日より逆に受け入れやすい可能性もあります。しかしそのような発想、週5日フルタイムで働くのが当たり前であり、そうでなくても出来る限りそれに近づける方が良いという発想は、あまりにも労働中心主義的ではないでしょうか?
 それにいずれにしても、「再任用」が認められるのは最大で65歳までであり、終わりがあるわけですね。仕事や収入だけが人生の目的と中身であるのなら、それが終わった時点で人は人生の抜け殻の時間に向き合わないといけなくなる。そうならないように完全退職までの5年間の準備期間において人は、仕事以外の人生を開発していかなければいけない。これまで週3日勤務、4日休みであったので、趣味であれ勉強であれボランティアであれ地域活動であれそれぞれ自分を発揮していく分野を発見できていた、と思います。しかし今回週4日制の強制というのは、当局と職場に都合が良い働き方しか認めないことであり、それを納得するのは当局と職場に合わせて生きるという今までと同じ生き方を肯定することです。
 これはどうしても納得できないことでした、私には。

 もともと仕事はお金と引き換えに時間を売るだけの行為のはずです。しかし何十年も雇用関係が続くと、しごと自体が人生であるかのような勘違いが、働いている側ににも雇っている側にも生じてしまいます。定年後短時間勤務において、それは半分は解除されるべきであるのに、そうならず、逆に労働者として弱くなった分だけ、雇用者のいうがままの条件を受け入れないと雇ってもらえないことになる。
 人事課の若い職員の態度には、自分がこちらに押し付けている価値観に対し私が反発してくる可能性とか、そういう発想がありうる事自体を一切考えたことがないといった「素直な傲慢さ」といったものがありました。それが私にはガマンできないことでした。

 裁判提訴する事自体はそれほど難しいことではありません。(裁判を継続的に展開してくのは難しい)損害賠償の民事訴訟の形を取れば裁判として成立させることはできるはずです。(弁護士なしで訴訟したいと思っています) ただ、私の境遇と問題意識がすこし特殊なため、みなさんの理解と支援を得られにくいのではないかと思ってそれが心配で、ビラ作成などできずにいました。
 こんな私ですが、いくばくかの関心を持っていただければ幸いです。