Sくんへの手紙

Sさま

昨日は、わざわざ走って帽子を届けてくれてありがとう。
と昨日手紙を書き始めましたが、書き続けられず、2日後になってしまいました。

いま現在窮状にあるあなたがたにとって、問題解決していけるように、という問題意識をもって、Tさんの6/20付け「声明」「経過報告」「要求」を読んでみます。
(K.Eさんが送ってくれたものです。苦労してfacebook偽名でアカウント作成しましたが、この「声明」にまで辿り着かず。)

といっても、私の基本的視線は「批判的」なものかもしれないです。わたしたちが自分の常識と信じているものは絶対的なものではなく、別の形でもありうるはずだと私は信じています。
わたしたちを縛っている常識の最大のものは、いうまでもなく「仕事をし賃金を得なければならない」というものです。そのような常識を拒否しようとする試みとして、〈弁当屋〉の活動がありました。

弁当屋の人的構成を、次のようにまとめることができます。
α.運動をリードしてきた、F(H氏を含めるかどうか議論がある)の思想
β.弁当作り、店員の作業をになってきた、6人(くらい)(お祖母様、Aちゃんを含む)の熱意
γ.周辺の若者の手伝い+K.E、近隣住民某ほかの大きな興味 (オーナー、や地域住民の好意、客がついたこと)

「紛争」のきっかけは、H氏が書いた「HとFがゆかいななかまと作りかけているちいさな食堂のプロジェクト」というフレーズでした。
「HとFとゆかいななかまたち」とは「言い換えればF・Hがいなければ何もできないような構造のコミュニティへと前進してしまう事になる。」と言って、F氏は自己批判しました。しかしそれは無理やり書かされたものだとして、また彼は撤回することになります。
しかし一旦は彼は「今後、共同体の自由と豊かさの発展のためには、上記のような認識に基づき、これまで個人の名前や力をよりどころにしている、自分たちの考え方を反省し、行動を改めなくてはならない。」と書いたわけです。これはひるがえって考えるならば、「今後、共同体の自由と豊かさの発展のためには,自分の使用者としての甘えを反省し行動を改めなくてはならない。」とも読み替えることができるはずの文章ではないのでしょうか?

共同体の対等な構成メンバーの一員として共同体を支える、という権利と義務と誇りがそこにあったはずです。それに反する事態が起こった時、その理想の高さに立って倫理的に他のメンバーを糾弾するといった姿勢を支える根拠は、そのような理想の高さから来る以外に考えられないからです。

この「理想の高さに立って倫理的に他のメンバーを糾弾する」というスタイルが、連合赤軍的なものだという指摘が、K.Eさんからあったわけです。(私も基本的には同意します。)
しかし、私のあなたがたへの批判は、むしろこの「理想の高さ」といったものをあなたがたが維持し続けなかったことにあります。

最初の段階で、早くも「技術的な人々がより豊かに生きるために共有や贈与、社会関係を基盤とする組織、(もう少し広い意味で捉えるならば)関係のネットワークを含めた集団を指す」と言いながら、「観念や理想のレベルで存在しうるものではなく、あくまで」という分かりにくい保留を付けている。「彼らは、無償労働によるコミューン形成という理想に、疑問や留保があったとしてもやはり自分の決断として賭けたのだという事実を、無いものにしようとしている」と私は批判しました。

6月10日付けの要求では、
A「事業は「共同体」という宣伝で人を集めながらも運営実態は、藤野氏の指揮監督の下、メンバーに住み込みで労働に従事させるものであった。実質的に労使関係にありながら、名目的には共同体のメンバーということで無給で労働搾取が行われた。」と事実認定が行われている。
「共同体」というのは宣伝でしかなく、じぶんたちは使用者である藤野に搾取された哀れな労働者だった、というわけです。ここには、私が確認しようとした〈権利と義務と誇り〉が一切ありません。

B「20万以上の余剰が派生するとして、相当な使途不明金があると思われる。どのような用途で共同体資金を使ったのかも含め、全容を明らかにすることを求める。」
Aでは、自己を使用者によって搾取された労働者と位置づけながら、ここでは利益は共同体資金だったとされる。じぶんたちが、Fによって使用されていたのか?共同体の為に働いていたのか?を、まずはっきりさせるべきでしょう。

どうして、こんなことになってしまったのでしょうか?
それは、わたしたち(というより西欧社会)が二百年かかって洗練させてきた交渉などのスタイル「労使交渉」の枠組みに、あなたがたが乗ってしまった点にあると思います。

出発点は共同体の対等な一員を目指したものであったはず、つまり自他の交換可能性であったはずなのに、それが、自他の非和解性、敵対性の持続拡大によって解決を求めるというスタイルに変わってしまったのです。
これは、敵=資本家は強大ではあるが、社会的名誉も企業活動継続による日々の利益もまた大きく、ストライキによって後者が損なわれることを嫌がるという理由で、解決がもたらされるものです。しかしながら、今回の敵=ふじのについては、強大でもなく金もなく、社会的名誉さほどなく、企業活動継続による日々の利益もまた小さい、といったのが実情でした。したがって解決がもたらされる可能性はないわけです。

以上が、とりあえず私が言いたいことです。

具体的には、あなたがたが何かを得ようとするなら、次のように考えた方が良いのではないか?
「F氏には当事者の納得のない限り引き続き中津での全活動の停止を求めていく」といった恫喝的語法を止めた方が良い。
逆に、「「一定の合意」さえ獲得すれば、H・Fが中津で安心して活動継続することを(いやいやでも)承認していきます」、と宣言した上で、「一定の合意」を勝ち取るべきだと思う。

2016.6.25 野原燐
noharra あっとまーく 666999.info に返信もらえれば嬉しいです。

参考:
とても残念なこと

訴状

訴状
原告 野原燐
被告 兵庫県
損害賠償事件
請求の趣旨
1,週3日(一日7時間15分)の勤務形態を認めず、
週4日(一日6時間)の勤務形態に就かせたことを、期待権に反した、不利益変更であることを確認する。
2,右記不利益変更にともなう、実際の拘束時間増にかかる経費 (金 円)の金員を支払え。
3,訴訟費用は被告の負担とする。
との判決を求める。

請求の理由
1,私は1975年22歳で兵庫県に就職して以来、38年間(2013年2月末まで)兵庫県職員として勤務してきました。定年後はいままでの週5日に代わり週3日で勤務する制度が長い間あったため、その制度を利用して、雇用延長してもらうつもりでした。ところが、2013年4月からの兵庫県による「被災地支援任期付職員」の募集がありそれに応募、合格したため、2013年4月から2014年3月まで東北大震災被災地(宮城県塩竈市)において市役所職員として勤務しました。2014年4月からは退職職員の「再任用制度」で雇用して貰えるとの内諾は東北に行く前に得ていました。「被災地支援任期付職員」においても雇用者は兵庫県、窓口は人事課であり、「再任用」と同じです。塩竈市にいた時に「再任用の申込書」を提出しました。2013年4月からの「再任用」においては存した「週3日(一日7時間15分)の勤務形態」が、用紙ではなくなっており、「週4日(一日6時間)」を選択するようになっていましたが、様式を二重線で消して週3日(一日7時間15分)と書き入れて採用希望しました。しかし塩竈市役所に兵庫県(復興支援課)から電話があり、「週4日(一日6時間)」しかだめだからそう直しておくと強く言われ、再検討を願いましたが、ダメと言われたので、しかたなく「週4日(一日6時間)」を受け入れ、2014年4月から再任用として働き始めました。4月1日から勤務開始で、当日兵庫県職員労働組合に再加入し、当日所長との断交を分会長(池上氏)とともに行ないました。しかし所長からはその要求には答えられないと回答がありました。
2014年年末にも申込書を、「週3日(一日7時間15分)」と書いて提出したところ、人事課から電話があり「週4日(一日6時間)」と書き直し申込書を再提出するように指示があり、しかたなく従いました。その結果2015年4月からの1年間雇用週4日(一日6時間)が決まりました。

2,以上のようにこの2年間、契約に従い週4日(一日6時間)で勤務してきました。しかしその契約において私の意志(希望)が週3日(一日7時間15分)であり週4日(一日6時間)でないことは明らかであり、雇用者(兵庫県人事課)もまたそれを知っていたものです。したがって、これは「心裡留保」の法理により無効なものです。

3,したがって、3日勤務を4日勤務に不利益偏向したことによる、拘束時間の増加(通勤時間1時間半×2、および昼休み1時間、計4時間)に相当する金員を支払え。

4,政府が平成19年に定めた「仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章」には次のような文章があります。「働き方や生き方に関するこれまでの考え方や制度の改革に挑戦し、個々人の生き方や子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な働き方の選択を可能とする仕事と生活の調和を実現しなければならない。」
現在、60歳ないし65歳で定年(あるいは雇用延長の終了)を迎えそれ以後は労働しないといった生き方が主流であるようです。しかしこれからの高齢化社会においては、報酬を貰える貰えないに関わらず、定年後も働く、学ぶ、教える、介護する、家事する、農業するなどの社会的活動を積極的に行って行くべきと、憲章は考えていると読み取れます。週のうち3日しか雇用しないことは、労働を中心とする世界観においてはマイナスであり、(賃金さえ貰えれば)4日も5日も働きたいという方が多かったでしょう。しかしワークライフバランスを重視する社会に変化させて未来を開いて行くためには、週のうち2日(週休日と合わせて4日)を上記のような現役時代の延長の労働以外の営みに積極的に費やしていくことが必要とされていると思います。
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以上、訴状VER1.0 です。差し替え予定。

裁判提訴してみたい!

「ひるね通信(紙版・7号)」        2016.1.16
 裁判提訴してみたい!

 私は現在62歳です。60歳で定年退職し、年金の受給権と退職金をすでに貰いました(60歳の次の年度からすぐ年金貰えた最後の年)。さらにその上に38年間勤めた会社(兵庫県)で「再任用」してもらっています。世間一般から言うと恵まれた身分のようで、この上雇用者(兵庫県)に文句を言うなんて、非常識だということになるかもしれません。確かに役所及び今まで私を支えてくれた同僚に対して感謝の気持ちもあります。しかし、40年以上兵庫県で働くなかで、組織の上の人の常識に従い仕事をしていくことが本当は市民のためになっていない、むしろ組織のなかで組織のオカシイところを追求し声を上げていくことの方が正しいのではないかと、私は気付きました。
 しかし兵庫県のなかでそれ(例えば人事課)と闘うのは、不利益が予想されるため難しいことです。本当に具体的な不利益が予想されるというよりも、やはり「いわば非国民に」なっていくことへの恐れがあった、と思います。しかし現在私は「再任用・3年目」です。おとなしくしていても月15万円の仕事があと2年間得られるだけなのです。失うものが少なければ臆病者にも、「たたかう」ことは可能なはずです。このように考え私は「たたかう」ことを決めました。

 定年退職後、2013年4月から同じ兵庫県で週3日勤務の「再任用」雇用に入る予定でした。ただちょうど、2013年度から「被災地支援任期付職員」というものを兵庫県が初めていて、兵庫県が雇用者になり東北大震災被災地(宮城県)のそれぞれの市役所に1年間の任期付職員として勤務する制度(ただし継続雇用あり5年まで)が作られたので、それに応募・採用され1年間宮城県塩竈市の市役所で勤務しました。1年後には「再任用」として戻って来ることに内諾を得た形で1年間だけ行っていたのです。2013年の暮れ、来年度の希望調書提出の時に、私にとって衝撃的な事実を知らされました。
 それまで「再任用」は週3日勤務でした。これは私が知る限りずっと(20年ほど前から)です。ところがそのような一日7時間45分×3日という勤務形態は2013年度からなくなった、来年度からは一日6時間×4日という勤務形態しか認めなくなったと言われました。苦情を言おうとしましたが譲歩の余地なしと言われたので、仕方がないので、一日6時間×4日を承認し2014年度は雇用して貰いました。2014年の暮れも同じことを繰り返し、一旦一日7時間45分×3日という希望を出したが撤回し一日6時間×4日に訂正して2015年度は雇用して貰いました。
 週3日ではなく週4日勤めろ、しかも(一日あたりの)勤務時間は減らして、(週合計で)概ね同じ時間だから良いだろう、とする提案は、私には「納得してはいけない」ものを感じました。
 多くの人は60歳まで週5日間勤務を当然のこととして何十年も過ごします。(私の場合は61歳までそうだったわけですが。)辛くても辛くなくてもとにかくそれが当たり前であったわけです。だから、62歳から週4日と言われても受け入れられないわけではなく、週3日より逆に受け入れやすい可能性もあります。しかしそのような発想、週5日フルタイムで働くのが当たり前であり、そうでなくても出来る限りそれに近づける方が良いという発想は、あまりにも労働中心主義的ではないでしょうか?
 それにいずれにしても、「再任用」が認められるのは最大で65歳までであり、終わりがあるわけですね。仕事や収入だけが人生の目的と中身であるのなら、それが終わった時点で人は人生の抜け殻の時間に向き合わないといけなくなる。そうならないように完全退職までの5年間の準備期間において人は、仕事以外の人生を開発していかなければいけない。これまで週3日勤務、4日休みであったので、趣味であれ勉強であれボランティアであれ地域活動であれそれぞれ自分を発揮していく分野を発見できていた、と思います。しかし今回週4日制の強制というのは、当局と職場に都合が良い働き方しか認めないことであり、それを納得するのは当局と職場に合わせて生きるという今までと同じ生き方を肯定することです。
 これはどうしても納得できないことでした、私には。

 もともと仕事はお金と引き換えに時間を売るだけの行為のはずです。しかし何十年も雇用関係が続くと、しごと自体が人生であるかのような勘違いが、働いている側ににも雇っている側にも生じてしまいます。定年後短時間勤務において、それは半分は解除されるべきであるのに、そうならず、逆に労働者として弱くなった分だけ、雇用者のいうがままの条件を受け入れないと雇ってもらえないことになる。
 人事課の若い職員の態度には、自分がこちらに押し付けている価値観に対し私が反発してくる可能性とか、そういう発想がありうる事自体を一切考えたことがないといった「素直な傲慢さ」といったものがありました。それが私にはガマンできないことでした。

 裁判提訴する事自体はそれほど難しいことではありません。(裁判を継続的に展開してくのは難しい)損害賠償の民事訴訟の形を取れば裁判として成立させることはできるはずです。(弁護士なしで訴訟したいと思っています) ただ、私の境遇と問題意識がすこし特殊なため、みなさんの理解と支援を得られにくいのではないかと思ってそれが心配で、ビラ作成などできずにいました。
 こんな私ですが、いくばくかの関心を持っていただければ幸いです。

慰安婦問題は終わった

昨日「慰安婦問題」について下記のようにツイートした。
今回の「決着」は、安倍周辺が言っていた「謝罪の必要なし」に反するものなので、わけの分からないという感想もある。しかし、これに対して安倍批判をしたがる「リベラル」は頭悪いんちゃうか、と思ってしまう。
今回、(何度も言うが)「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料も存在しなかった」ことが明確化したんだ、と理解することはできる。であれば他のことはおいておいて、そのことを強調し、ネトウヨを殲滅することにちからをそそぐべきだろうと思うのだ。
私にとっての「慰安婦問題」の本質はこれが最も大きい。(元慰安婦の方はすでに7割以上なくなっていて、少なくとも彼女たちについてはどんな解決もなかった、ということがすでに確定している。)

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慰安婦問題:「不可逆的に最終決着した」とか言って、何のことか分からない。ともかく、河野談話の「事実認定と謝罪」を覆す何物もネトウヨとその周辺の読売新聞とかがもっていなかった事実が「不可逆的に最終決着した」と理解しうる。この事実をすべてのネトウヨに突きつけ嘲笑おう!

私は皆さんに提案したいが、この一週間この論点でネトウヨをいじめることはできるし、それはぜひすべきことだとおもうのだが、如何だろう? 

いまごろ新しい基金とか何のことかまったく分からない。しかしそれの批判に勢力を使うのではなく、河野談話のいう「反省」の日本の教育への反映を回復することに全精力をそそぐべき。前回も基金批判に精力を費やしすぎた。 

この局面で私たちにはできることがあると思う。「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料もあなた方は持っていなかった」ことを、広義のネトウヨに確認させることです。

「歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ(河野談話)」を再確認しているはずなので、教育をさせなければいけないのがもちろん一番大事です。

.@hana__yoshiさんへ 「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料もあなた方は持っていなかった」ことをまだ承認できないみたいですね。自分が負け犬であることをそろそろ自覚してください。

河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料をあなた方は持っていのですか? 問題がもつれたのは、「相手は金を要求している」として相手を卑小化しようとして相手の感情的反発をもたらしてしまったあなたがたのせいです。まだわからない?

最初の問題は事実認定です。「軍管理下の慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」したがって国家に責任があったことは明らかです。これは認めるのですね? いいですか質問は「責任」についてだけですよ。

ここで言っているのは、連れてきた女性を性労働(性奴隷)状態に起き続けた責任です。 「慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。」はいいですね。人身売買はあったとしてその前の話。

河野談話がいかにいい加減か>で今回の「決着」はそれと同等あるいはそれより悪質なものですね?

ネトウヨ侮蔑が大事だと思う。

それが「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるなんらかの材料」なんですか?「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるなんらかの材料」が存在するのにそれを利用しないほど日本政府は愚かだったが貴方の理解?.

「吉田某が・・・」「朝日が・・・」とほとんど意味のないことで大騒ぎしたあげく、それがやっぱり無意味な騒ぎだったことが、今回明らかになったということですよね。

東氏曰く「ここはおとなしく歓迎すべき」>事態をどう捉えるか。「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料も、読売新聞を含む膨大なネトウヨの類が持っていなかった」ことが明らかになったわけです。それを大喜びし確定させるべきだ、に賛成!!

安倍氏が日韓関係を現に修復したのか?私は興味がない。「歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶」の確認と実行だけが大事だと思っている。それを確認し実行させようとする人が少なすぎる!

河野談話には不十分点もあった(だろう)。しかしその後の経過から考えるとその談話の事実認定と謝罪と文言を守り切ることが、最大の分岐点であった、ことは明らかだと思う。しかしフェミも左翼も政治的に思考せず、河野談話の気に入らない点をけなすことにだけ精力を集中し、全敗情況に至った。

「河野談話の事実認定と謝罪」を保持し確認し教育していくことが(最低限かもしれないが)最も重要であり(それとネトウヨを叩くことが)、それに利用できるので評価すべき。

弯曲していく日常

弯曲していく日常の、第2期を始めよう。

読者が誰もいない。今後増やせないと意味がないが。
でもまず、自己との対話、作品化への努力が必要かもしれない。
まずは、(旧)はてな からのインポートをしてしまおう。

Hello world!

1,12/27 はてな「弯曲していく日常」の最初の1/3をインポート。
ところで、編集した文章を確定するボタンがわからない。ああ「更新」か。

バカ親のバカ息子

今日は8月31日です。今頃うちの息子は二人机に向かって真剣に何かしています。・・・

ところで、31日って thirty-first でいいのか、11日はeleventhだよね、英語は難しい。

細菌兵器開発のため人体実験を繰り返した旧関東軍防疫給水部

731部隊長名のノート発見 元側近宅から2冊

2005年08月04日07時08分

 細菌兵器開発のため人体実験を繰り返したとされる旧関東軍防疫給水部(731部隊)の部隊長・石井四郎軍医中将の署名が表紙に記された未公開ノート2冊が、側近だった夫妻の自宅から見つかった。石井氏は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に資料を提供し、戦犯の訴追を免れたが、これまで本人の手記は見つかっていない。直筆ノートならば、GHQにも明かさなかった終戦後の足跡や内面を記した貴重な一次史料ということになる。

 A5判の大学ノート。表紙に鉛筆で「1945―8―16終戦当時メモ」「終戦メモ1946―1―11 石井四郎」と記され、終戦直後に書き留めた備忘録とみられる。在米ジャーナリストの青木冨貴子さん(57)が東京都内の元側近宅でノートのことを知った。

 元側近の妻によると、石井氏は戦後まもなくこの元側近宅を訪れ「アメリカ人が来て没収すると困るから」とノートを預け、59年の死去まで返還を求めなかったという。

 青木さんは米国立公文書館の文書をもとにノートを分析し、「ごく少数の関係者しか知らない部隊幹部の住所など、本人でないと知り得ない事実が書いてある」ことから直筆ノートと判断。石井氏が部隊を創設し、戦後に訴追を免れるまでの経緯を5日発売の著書「731」(新潮社)にまとめた。

 ノートは略語や隠語を多用した断片的なメモの羅列のため、青木さんは当時の史料とつき合わせて解読を試みた。

 ■「1945」メモ

 記述は敗戦翌日から始まる。ソ連が対日参戦し、8月9日に旧満州に侵攻すると、石井氏は東京から駆けつけた司令官に、一切の証拠物件を雲散霧消させるよう命令を受けた。ノートには〈新京(現長春)に軍司令官当地訪問/徹底的爆破焼却、且、徹底防諜を決定す〉と記されている。

 しかし石井氏らは大量の病理標本や浄水機などの機械類、ワクチンなどを持ち帰った。ノートには〈抽出持込〉〈搬出積込〉と記され、命令を受けた直後から資料を持ち出す作業に取りかかったことになる。

 石井氏の帰国経路をうかがわせる記述もある。8月16日、〈新京 停車場貴賓室に徹夜〉。そこから釜山に到着し、貨物船を手配。〈26/8 医務局〉とあり、8月下旬に東京に戻り、26日に陸軍省医務局を訪れたようだ。

 ■「1946」メモ

 石井氏が自宅蟄居(ちっきょ)中に書いたとみられる。

 〈連合国20/11招待時の買出し一覧表〉と記され、GHQ詰めの米国人将校の名前がある。青木さんは「石井が45年11月20日に将校6人を自宅に招き会食したと考えればつじつまが合う」と語る。

 会食時の米軍将校らの会話の内容とみられる個所もある。〈ミスター・イシイを知っているか まだ満州にいて帰らぬ〉などとある。「GHQの一握りの幹部は45年秋から石井の所在を知っており、会食にまで応じながら、尋問のため石井を探し回っていたGHQの調査担当者には隠していたのではないか」と青木さんは推測する。

http://www.asahi.com/national/update/0804/TKY200508030366.html?ref=toolbar2

asahi.com: 731部隊長名のノート発見 元側近宅から2冊 – 社会

関連資料なのでここにコピペしておきます。

解答(7/20)

金貨を40,00,01,02,03、10,11,12,13,20,21,22,23  とする。

(a-1)10位4つと20位4つを比べ、前者が軽いとする。

(b)00位他5つと、10,11,20,21,22を比べる。

後者が重かったら、20と21を比べ重い方が偽。イコールなら22が偽。

後者が軽かったら、10と11を比べ軽い方が偽。

   イコールなら、12+23と例えば00+01を比べる。

      前者が軽かったら、12が偽。

      前者が重かったら、23が偽。

      イコールなら、13が偽。(軽い)

(a-2)10位4つと20位4つを比べ、イコールの場合。(8つは正)

b)00+01と02+10(例えば)を比べる。

   イコールなら03と10を比べる。

      イコールなら40が偽。そうでないなら03が偽。

   前者が軽いとき、00+02と例えば10+11を比べる。

      前者が軽ければ、00が偽、軽。

      前者が重ければ、02が偽、重。

      イコールなら、01が偽、軽。

(以上)あっているかな?