ホーム › フォーラム › 韓国の小説を12冊読む › 1 生き方の主体性と市場原理主義
- このトピックには6件の返信、1人の参加者があり、最後に
田坂龍一により2年、 5ヶ月前に更新されました。
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投稿者投稿
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田坂龍一
ゲスト政治、社会に市場化が浸透するにつれて、個性、主体性というも
も貨幣換算されるものに過ぎなくなるということ。
公共性、共同性を帯びるものも、私的なものとなる。
その結果、「私は知りません」ばかりの日常生活になると
いうことです。以上-
このトピックは
noharraが1年、 1ヶ月前に変更しました。
野原 燐
ゲスト投稿ありがとうございます。
「目の眩んだ」は難しいけど考えるべきことがたくさんある本で、刺激的でした。
考えてからまた返信します。手紙をここに貼り付けてもいいですか?
noharra
キーマスター田坂から野原宛手紙(ホン・チョルギ論文感想など)1〜3 10.23日
野原燐
ゲスト(10/23 野原→田坂 メール)
田坂さま
お手紙ありがとうございます!! 読みました。ホン・チョルギについては当日はほとんど応答できず失礼しました。
ホン・チョルギさんの文章はむずかしく、読みにくかった。一度は読んだはずなのに、分からず、さきほど苦労して読み返して少し分かってきました。
今回私たちが無能力だったことが分かった。
① 政治を経済が代替し、私たち自身も市場化された主体性になった。
まあ例えば、大学4年間というものが就活のためにあるとすれば、その人は市場化された主体性になってると言えるのだろう。
② 私の言葉は相手に届かず、私的なつぶやきだけとなる。
(twitterをやると分かるが、他人と同じような意見は「いいね」がつくが、自分のオリジナルな意見には「いいね」はつかない。)言葉より可視性が重視される。
イメージによって媒介された極度に皮相的で形骸化した社会、分かりやすい透明社会になってしまった。そこでは分かりにくいものは透明性の敵である。多様な関係を深くくぐった思索によって、責任があると告げられても聞こえないとされる。230
政治的責任は司法化する。法的な処罰を受けなければ政治的責任も存在しない、というのは責任を極小化するテクニックにすぎないが、それが当然のように主張される。(昨日話に出た、統一教会の宗教法人解散に刑事有罪が必要か?という議論。)
(後半省略)
まあだいたいこんなことが書いてあったかな、と思いました。② 言語あるいは意思疎通の関係自体の市場化。
昔だったら、生活が苦しいね→賃上げ目指して春闘で闘おう、みたいに 言葉を支える公的回路があり、言葉が通じてた。
しかしそのような公的空間自体がなくなった。透明性と非媒介性、つまり分かりやすい因果関係がないとき、因果関係はないとされる。
まだ明確になっていない複雑でもつれた関係を根気強く腑分けし、周辺状況から断定するといった、いくつかのプロセスを経て「因果関係の存在」は明かされる。そうではなく「因果関係なし」をめざそうとすれば作文は簡単である。立証できなかったと言えば終わり。☆さて、個性や主体性を目指して自分でも努力してきたけど、それが「貨幣による交換によってしか実現されなくなった」。
と書いておられますが、これについては分かるような分からないような。
おっしゃるとおり、自分の生活において「公共性とは?」というと、ない、という感じですね。
年に1回の「官製ワーキングプア大阪集会」は、一応数十万人の非正規公務員のための公的活動ですが、そういう労働組合があるわけでもなく、孤立した活動、孤立した発言という感じが強い。昨日のようにぱぶり家という別の関係性にそれの参加者が来てくれたことは、大げさに言えば〈社会〉の成立のきっかけみたいに感じることができると思う。
参考→http://666999.info/liu/ILO/kanoo22.html
(以上私の話は分かりやすくなるようむりに解釈しているので、正しいかどうかは分からないです。)さて、次に「ペ・ミョンホンのマンションを閉め出された話」と②の関係と、手紙が続いていきます。
申しわけないですが、今日のところは返信前半だけで失礼します。
とても良い刺激を与えてくださって喜んでおります。
ありがとう!
野原燐野原燐
ゲスト田坂さま
お返事の続きが大幅に遅れ、申しわけありません。
この間、官製ワーキングプア大阪集会の準備を手伝っていてすこし忙しかったです。
http://666999.info/liu/ILO/kanoo22.html
資料を膨大に読まなければならずその作業はまだ終わっていません。
いいわけですみません。さて、ホン・チョルギさんの文章相変わらず難しいです。とりあえず全ページpdf化はしました、ので送付希望なら言ってください。
①は、わたしたちは、自己マネジメントという資本主義に都合がよい性格に自分を作り上げさせられているよね、というような話ですね。
②:でそれにともなって、わたしたちは愛し合ったり、深い対話したりする喜び自体から疎外されている。
言語あるいは意思疎通の関係自体の市場化。
SNSでラーメンの話をしているだけでも、うまいラーメンを食べる競争とか、「いいね」をもらえる競争とかに陥ってしまう。
みたいな話かな。・「事実」の問題にしてしまうと、政府は市民の主張にまじめにとりあわなくてもよくなる。
「公共の問題に無関心になり」、と書いておられますが個人の問題というより、〈公共への回路〉といったものがすでになくなっているとホン・チョルギは考えているのでしょう。以上は前半の復習。
数百人の被害者の損害賠償や責任者の処罰を求めるという社会活動は可能だが、それだけでは決定的に足りない。明白、明確なエビデンスを提示しないと交渉や裁判には勝てない。
直接利害当事者としてではなく、公的主体による公共性を作っていく必要がある。p236
政治的なものを再構築しなければならない。そのためのヒントは「間接性」である、と言うがそこはまだ良くわからない。さて、「ペ・ミョンホンのマンションを閉め出された話」
・一般論でいうと、最低賃金レベルで雇われている人は、マニュアルどおりに仕事をし、例外的場合には上司に判断を求めなければいけない。
ところが、(民間でも役所でも)非正規が増えすぎて、例外にも非正規が対応することになった。すると中間管理職は不要になるので削減される。ちょっと「むずかしい例外」の場合は誰も対応ができず、「マンションから閉め出される」ことになる。
マンションの場合ならまだいいが、10年に一度の例外のための規則(例、バラスト水を減らすな)など無視しても、9年間は安全に運行できるので、コストカットのためには当然そうすべきだと考える人が支配するのが「新自由主義」だ。その場合、10年に一度は必ず事故が起こることになる。私たちは、自己マネジメントという資本主義に都合がよい性格に自分を作り上げさせられている、わけですが、その裏の面として、目の前の人のためになんとかしようとするのではなく、マニュアルの範囲外なら無視するのが正しいとするシステム化された人間になることになります。
(3)「文学がなぜ必要か」
感情を追体験することは大切だ。
自分の子どもが、さほど遠くない距離で、まだ沈んでいない船の中にいてそれが数時間後には沈んでいくだろう時の親の気持ちを想像すること。
男は泣くことを軽蔑するようしつけられる、古今東西。それは正しくないのではないか。
私個人も私は正確に議論をしたい、そのためには感情を切り捨てなければならないといった思いが強かった。今でもその考えを捨ててはいない。しかし、生きる上で感情を切り捨ててはいけないことが最近分かってきた。また自分の孤独を否認するためにかえってむだな空回りしている気もしていた。
そういう何らかの功利を求めて小説を読もうとするのも面白いかもしれない。野原燐
ゲスト投稿するとエラーが出るのに、なぜか反映されている。なぜだ?
田坂龍一
ゲストやっと野原さんの感想を一読しました。
少し抽象的感想ですが
「貨幣を媒介とする交換」が、商取引だけでなく
社会のありとあらゆる関係に浸透すると
上記2つの指摘した事態を克服することは中々むつかしいです。
かつての村社会にあった、無償のやり取り、それを閉鎖的、
排他的な関係でなく、お互い交換できないかと思います。 -
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