楠田一郎 黒い歌Ⅰ を紹介する

楠田一郎(1911〜1938)という詩人がいる。
『楠田一郎詩集』(1977年蜘蛛出版社)という本をたまたま持っていた。
冒頭に「黒い歌」連作Ⅰ〜Ⅷがあり、これが代表作だろう。Ⅰを紹介する。

黒い歌Ⅰ

孔雀のやうに羽をひろげて
橋の下を
棄てられた花束のやうに
溺死體がいくつとなく流されてゆく
空には架空の花が咲き
天使の夢やボール紙の悲しみが
智識人の太陽やアナルシイが
大戰時代の
マルク紙幣のやうに膨張する
灰色――死が快感をひき起す
徒刑場のお祭り騒ぎには
なにか美しい本質がひそんでゐた
死屍が横たわり
木の影で墓屋が睡ってゐた
鳥が射殺されてそのまゝ腐った

  おなじく

眠っていた――一羽の鳥が啼いた
かぐわしい沐浴の中で美しい男が自殺した
風のない森蔭を歩き
雲のやうな夢に埋れ
世界が哄笑し
死があらゆるものの上から覗き
小徑にかくれた夜を太陽の如く
待ってゐた
そして黄色い大河の上で
血まみれた晴天白日旗のやうに
夕ぐれがわめきはじめたとき――
よごれたジャンク船とともに
もの悲しい歌の消えるところ
永遠の火が破壊の風にあふられて……

(以上)
参考:
詩誌『新領土』での友人だった大島博光氏は、つぎのような追悼詩を残している。

楠田一郎への悲歌
   ──彼は地球から出て行った
     歩むために飢えないために──<黒い歌>
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-827.html

さて、ちょっとは感想を書かないと。
橋の下を、死體がいくつとなく流されてゆく、というのはこれが書かれた直前に始まった、日中戦争以後約8年間の巨大な戦争において何度も繰り返される風景であろう。
しかし、この詩においては死體はそのような事実のレベルで書かれているわけではない。
天使の夢やボール紙の悲しみが智識人の詩学や実験への熱意が膨張する。そのような自己の営みの〈本質〉を名指すために、楠田は「溺死體」「死屍」と言った言葉を持ってくる。
ただここで楠田が言っているのは、「遊んでないで現実を直視しなさい」といったお説教とは正反対のことだ。
「風のない森蔭を歩き雲のやうな夢に埋れ世界が哄笑し」といった「架空」を真剣に作ることは、すべてが死から見つめられることである。「よごれたジャンク船」といった形象を不可避に招き寄せることだ。
よごれたジャンク船がある中国の小川、そこでの銃撃戦などを一切楠田は見なかった。にも関わらず、「かぐわしい沐浴の中で美しい男が自殺した」という彼が書いた1行は、どうしてもそのようなイメージを引きずり出してしまった。興味深い。

ジュディス・バトラーと〈自己の外へ〉

ジュディス・バトラー』藤高和輝・以文社という本を読んだ。借り出し期間超過しているので、今日図書館に返す。バトラー論としては読みやすいし良い本だと思う。

さて、バトラー思想を「生と哲学を賭けた闘い」として理解するのだとして、藤高(敬称略)は、この本を書いた。
社会という制度のなかで他者化され押し殺されてきた彼女自身の生、と哲学という制度のなかで他者化され押し殺されてきたわたしたちの生、その両方を生き延びさせるために虚数方向から他者の声を呼び込むこと、それが彼女の闘いであっただろう。

バトラーは何よりもトラブルの哲学者として記憶されている。幼少期、自身のジェンダーやセクシュアリティをめぐる葛藤から、地下室に逃亡し、スピノザのエチカを手に取った。「人間存在におけるコナトゥスの根源的な固執から生じる感情の状態に関する推論は、人間の感情に関するもっとも深く、純粋で優れた説明のように思えた。事物がその存在で在り続けようとする。私に送られたこの思想は、絶望のなかでさえ固執する一種の生気論であるように思われた。」p19 とバトラーは語っている。

エチカ2部定理九:現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状(アフェクトゥス)した〔発現した〕と見られる限りにおいて神を原因とする。バトラーが周囲とうまくいかない「醜いこ」であったとすれば、自己がどのような変状であろうと神との関係においては、他の子とまったき対等性を持つ、と教えられることは根源的慰めを与えてくれるものであっただろう。
(エチカの引用は、http://666999.info/liu/ethica.php の目次を利用した。)

エチカ3部定理七:おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力(要請・コナトゥス)は、その物の現実的本質にほかならない。とある。
「物はその定まった本性から必然的に生ずること以外のいかなることをもなしえない」というスピノザの説明から私は決定論的印象しかうけなかった。しかし、「要請」は事実的現実に尽きるものではなく事実的現実の彼方へ向かおうとする要請を内に含んでいることを意味している、とアガンベンは言っているらしい。p290

同一性に固執しようとすることが、かえって差異の立体性を開いてしまうといった逆説が展開されていく。

コナトゥス、事物が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする傾向を言う。(ウィキペディア)自己保存。とても個人主義的な概念だと思われていたが、バトラーはそのベクトルの向きを変えようとした。ドゥルーズは、コナトゥスはそれが存在する状況に即して自らを表現するとした。

バトラーはレズビアンのアイデンティティ政治とかの中から出てきた学者でもある。「ひとが自分自身の存在に固執することが可能になるのは、他性への固執によってのみである」p254 ヘテロなマジョリティとちがって、容易に自己同一性を獲得できないのがレズビアン(など)であって、トラブルや過剰の考察が常に必要になる。

社会はまず承認の規範的構造として、傷つきやすい「わたし」の前に現れる。でわたしはまず、規範に服従しなければならない。
子供の場合、まず「自分自身として存続するためには、誰かに愛着しなければならない」p260 そしてもし養育者に認めてもらえないならば、社会的な死を経験しなければならない。その為子供は「従属化」を選ぶ。自分自身の従属化の諸条件を欲望することになる。服従化への欲望、つまり死の欲動。主体として認められるためには、ひとは自己を断念し解体せねばならない。p260
他者の世界に服従すること、それが自分自身の存在への固執になる。なんだか非常に暗い話だ。ただまあ、現在の日本社会は学校教育、就活、過剰なサービス、死に至る残業と、「服従」ばかりであることは確かな気もする。
ひとは承認を求める、つまり規範への服従を全力で行なう。しかし、そうではない可能性もある。承認の規範的構造に対して批判的な開かれを迫っていくこと、自分自身の存在を賭け、「生成変化」の実践になっていくことができる。p264

バトラーはコナトゥス(自己保存)から出発する。しかし自分自身の存在への固執が規範的構造とトラブってしまう時、規範の方が変化していく可能性がある。
コナトゥスというベクトルが存在の自らを高めつづけようとする傾向に従いつつも、社会から見た見た時、ベクトルの方向を変える。このような変容を研究していきたいと私は考えている。

批判は常に社会的歴史的地平の内部でしか行われ得ない。が、どのように知と権力が世界を体系化し秩序化しているかを明らかにする。それと、そこからの脱出を示すブレイキング・ポイントを示すことができると、フーコーは、言う。主体は脱服従化できるのだ。
〈開かれ〉をフーコーは示す。真理の体制の限界を疑問に付し、同時に自己をある意味で危険に曝す。それは、ある者を承認したい、あるいは別の者によって承認されたいという欲望によって動機づけられている、とバトラーは付け加える。
私は、社会ー歴史的地平のなかで行為しながら、それを破綻、あるいは変容させようとしている。私を私自身の外の、私自身から剥奪され、同時に私が主体として構成されるような場へと移動させる動き、脱自的運動を通して。p280 それは他者とともに生きる共通の生を開く徳の実践でもある。

マイノリティは暴力的抑圧によって形成される。それは、暴力的な報復に向かいやすいものでもある。私たちという存在は、共有された危うさである。しかしそうした怒りは、私たちが強い情動でもって互いに結び付けられるための条件でもあるのだ。
承認可能性の規範から排除された「怒り」を自己や他者に向けるのではなく、社会へ向けなおすことで「共通の生」を開こうとする、そうした可能性がある。
「抵抗の行為はある生の様式にノーと言うものであるとともに、もう一つの生の様式にイエスと言うものであろう」p285

「怒り」を、あなたとの新たな関係への、新たな共同性へのベクトルに変容させること。私たちという同一性を確立し、他者を排除するのがアインデンティティ・ポリティクスの経験だったが、バトラーはそれをきちんと辿ろうとすることで、かえって「共通の生」を志向することになった。

「もし主体の系譜学的批判が現在の言説上の手段によって形成される構成的、排他的な権力関係に対する問いかけであるならば、それに従って、クィア主体についての批判はクィア・ポリティックスの民主化の継続に欠かせないものであるだろう。アイデンティティ用語が使われるべきであり、「アウトであること」が肯定されるべきであるのと同様に、これらの概念自体が生産する排他的作用は批判されなければならない。」

アイデンティティ・ポリティクスとは領域確定であり、定義の厳密化であり、自己権力の確立であるだろう。しかし、バトラーはそこに留まらない。「批判的にクィアする」ことが継続されなければならない。批判的に「自己の外へ」と開こうとする運動、〈取り乱し・トラブル〉は幸か不幸か、継続される。

「すなわち、潜往的に運動しているものとして、時間的なものとして、私ではないもの(not I)として、固定した利害あるいは経験よりもむしろ求め(want)の系譜学に従って脱構築しうるものとして、である。このように、(現有進行中の)欲望の系譜学の効果として理解された主体は[…]主権的なものとしても、決定的なものとしても現れない。たとえ、それが「私」として肯定されているときでさえ(Brown 1995: 75)。」
と、ウェンディ・ブラウンが引用される。p302
つまり運動は、断固としたわたし(あるいは私たち)の肯定として始まるが、求めるという動詞に導かれるそれは、同一化、権力集中の力学から常に逸脱することを孕んでいる。
バトラーは〈複数形の私たち〉に訴えるのだ。

以上、この本の9章、10章、結論部を、自由かつきままに要約してみた。怒られるかもしれない。
ご批判などよろしくおねがいします。

吉田松蔭に価値はあるか

吉田松陰は尊敬されるべきである。と言いたいが、勉強不足で説明するのは難しい。野口武彦の『王道と革命の間』の松蔭の章を読みながら、理解できたところを簡単に紹介したい。

「わが国体の外国と異なる所以の大義を明らかにし、かふ(闔)国の人はかふ国の為に死し、かふ藩の人はかふ藩の為に死し、臣は君の為に死し、子は父の為に死するの志確固たらば、何ぞ諸蕃を畏れんや」p256(闔国とは全国という意味らしい。某国という意味かと思っていた。)ここで「大義」があくまで普遍性に向けて開かれたものであったと、考えていくことができるのではないか。

「この「国体」概念は、明治維新以後の時代から逆投影されて極度に理念化されたそれとは、かならずしも同日には論じられない性格を持っていたように思われる。」と野口は書く。p256 昭和十年代の劣悪な国体概念を砂糖水に垂らしたような現在のネトウヨ的「国体」理解と混同することは、なおさらできないだろう。

吉田松蔭(1830年〜1859年)。彼が維新の8年も前に死んでいる点を私たちは勘定に入れなければならない。忠誠・政治の中心点を藩・幕府から天皇に転換するだけでなく、それが民生の全てを支えうる価値の総括者でもあるという「国体論」を、彼は創出した。松蔭が「狂者」たる己の実存を掛けて果たした転換によって、時代は変わり多少軽薄な変革者たち(?)により維新は果たされる。
さて、その国体論は、大逆事件を経て昭和10年代に完成する全体主義「国体論」と、表面上酷似するが故に、混同させられてしまうこともある。
しかし、忠誠対象を天皇に転換するためだけにも、おおきな思想的力量が必要であったことを全体主義的感じをあたえる理解しなければならない。
また、民を愛するという仁政の徹底においてしか、国のために死すことはできない、と考えた点は重要であろう。

松蔭の思想は「事実上の教え」としての孟子に基づく。
孟子の思想は、「善く戦う」などより「仁政」を重んじるところにある。「親を親しみ、賢を賢とし、民を愛し士を養うの政」を行なうことである。
「古今兵を論じる者、皆利を本とし、仁義如何を顧みず。今時に至りその弊極まれり。その実は、仁義ほど利なるものはなく、また利ほど不仁不義にして不利なるものはなし。」p273
すなわち、民に対して仁政を施すことが強国化につながるという孟子の論は、孟子が生きていた戦乱の時代のリアリズムにおいてなされたものだというのが、松蔭の「王道論」である。だから、それはすなわち幕末の危機にも直接適用できるとする。
(おそらく松蔭が今生きていれば、新自由主義による労働分配率の減少を鋭く捉えて
渾身で糾弾したに違いない。)

「「天朝を憂ふる」という一語に要約される、皇統への全身的な忠誠心情と決断主義的論理との複合」と、野口は松蔭の思想を要約する。この限りで、戦後において危険思想とされるしかないことになろう。しかし、天皇も国家主義も平和(戦争)も何一つわたしたちは処理しきれていない、そのことの危機が顕在化している以上、わたしたちは松蔭をゴミ箱に入れる権利はないのだ。

六四天安門事件犠牲者への鎮魂歌

劉暁波の詩集『独り大海原に向かって』が劉燕子・田島安江訳編で、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)という福岡の出版社からこの3月に、刊行された。劉霞の詩集『毒薬』と同時出版になる。訳編者二人の愛情と熱意のたまものであろう。なお、書肆侃侃房は先に劉暁波の詩集『牢屋の鼠』も刊行しているので、彼の詩集は2冊目になる。
以下、その書評。

1,1989年6月4日、中国民主化を求める天安門広場を中心とした学生たちに対して戒厳部隊が襲いかかり、多くの死傷者が出た。劉暁波はその弾圧を中心部で体験した。

あんなにうねり逆巻いていた人々の流れが消えていく
ゆっくりと干あがる河のように
両岸の風景が石の塊に変わったとき
一人ひとりの数えきれない喉が恐怖で窒息し
砲煙に震えあがり散り散りになった
殺し屋の鉄かぶとだけがきらきら光る p7

その場に残ったのは、数個の鉄かぶとだけだ。

ぼくはもう旗が見分けられなくなった
旗はいたいけな子どもみたいだ
母親の死体にすがりついて、泣き叫ぶ
「ねえ、おうちに帰ろう よー! p7

散乱する鉄かぶとの近くに、崩れ落ちた旗が小さな膨らみとして見捨てられている。劉暁波はそこに「いたいけな子ども」を幻視してしまう。
子どもは母親にすがりついて泣き叫ぶのだが、応答はない。なぜなら母親はすでに死んでいるのだから。
六四という巨大な群衆運動が死滅したとき、「ぼくはもう旗が見分けられなくなった」「ぼくはもう昼と夜の区別がなくなる」。ぼくは母をなくしたいたいけな子どもに還元されてしまう。「すべてをなくした」。
「いのちは壊れ、深く沈んで/かすかなこだまさえ聞こえない」

「生きている限り、死のことはわからない」
一周年追悼、詩人の自己は「いたいけな子ども」になってしまったのか。そこにはただ「殺し屋の鉄かぶと」があるだけだった。

2,一年後、「ぼくは生きていて/過不足ない悪評もあびせられる」と劉暁波は書く。ぼくは生きているが君は、「十七歳は路で倒れ/その路はそれきり消えてしまった」。

花を一束と詩を一篇ささげるために
十七歳のほほえみの前に行く
ぼくにはわかっている
十七歳は何の怨みも抱いてないと p18

「十七歳は路で倒れ/その路はそれきり消えてしまった/泥土に永眠する十七歳は/書物のように安らかだ/十七歳は生を受けた現世に/何の未練もなかったろう/純白で傷のない年齢の他には」

劉暁波は彼をことさらに「何の怨みも抱いてない」「何の未練もない」と形容する。彼はただ17歳の一人の人間存在であった。そしてそれが中断された。死者に怨みを背負わすことはできない。すべては生者であるわたしたちが引き受けるしかないのだ。
劉暁波ができることが、「花を一束と詩を一篇ささげる」ことだけであったとしても。

3,

夕暮れ、すぐ近くに
血まみれの死体がひとかたまりになって
横たわっていた 撃ち抜かれて
大きな穴の開いた頭は
黒々として血なまぐさい
板の木目に染み込んだ
つぶれた豆腐のような白いもの
あれは何だ p95

十二周年追悼と副題されたこの詩は、奇妙なことに死体のそばにたたまたあった一枚の板の視点から書かれている。

見向きもされない一枚の板だけど
轢き殺そうとする鋼鉄のには歯が立たないけど
君を助けたい
君が気絶して倒れる寸前でも、死体になっても p97

君を助けたいという非望の直接性と不可能性を見事に作品化している。

4,

あの日に起こったことは
一種のいつまでも治らない病だ
祖先が近親相姦をつづけ
代々遺伝して伝わってきたものが
皇帝の精子の中に潜伏し
それが命運となった P58

この詩行は、日本人が読むとちょっと違和感がある。「祖先が近親相姦をつづけ/代々遺伝して伝わってきたものが」と言えば、万世一系の天皇をいただく日本の、アキヒト氏の精子にずっと濃く含まれているはずだ。「この民族の崩れた健康は/五千年かけても治せはしない」とも書く。しかし、中国は日本より大きいし、それが一つの民族であるというのは中国共産党系のデマゴギーでしかない。(中国共産党政権は、「中華民族」を「漢族と55少数民族の総称」と規定している。)

どうして、あの日、腕を
夜半から黎明まで
真紅から青黒くなるまで振り上げたのに
我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか p61

それにしても日本人は、「どうして、我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか?」と問いを立てたことは一度もない。
天皇制を糾弾する声を上げる人は居るが、自分が天皇を全面肯定した憲法1条の下に戦後の繁栄を享受したことを抑えた上で批判するのでなければ無効であろう。
全共闘運動から50年、彼らの(わたしたちの)「自己否定」が嘘だったのでなければ、「どうして、我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか?」という問いを自ら引き受けた上で、別の答えを出していくことが必要である。

「我が民族は/この宿病ゆえにすべてをコントロールしてしまえる」と劉暁波は言う。わが民族が免れ難い欺瞞性、恥知らずをその本質に持つという発想はもちろん、修辞でなければ錯誤にすぎない。
それが本質であるなら脱却することは不可能なわけであり、指摘しても無駄だということになる。劉暁波は既に獄中で死に、つまりそれは殺されたと同じであり、少なくとも彼の死まではこの本質は貫かれた。死後10年後、20年後になれば、アリバイ的な名誉回復が行われるかもしれない。それがアリバイ的なものでしかなければやはり「本質」は生き延びていることになろう。
現実がどうあれこの本質規定は有害無益なものだと私には思える。しかし実践的解決がどんな形であれもたらされることがないなら、わたしの主張もあまり意味はないのかもしれない。

なお、この詩集は、「天安門事件犠牲者への鎮魂歌」、「獄中から霞へ」、長編詩「独り大海原に向かって」の三部から成る。ここでは鎮魂歌にしか言及できなかった。

幽閉された詩人 劉霞

劉霞の詩集『毒薬』が劉燕子・田島安江訳編で、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)という福岡の小出版社からこの3月に、刊行された。
以下、その書評。

ある朝、眠りから醒めると/暗い影が夢から現れたようにゆっくりと動き/さきほどから私の視線をさえぎる/時はながれ、季節はめぐっても/あの、先がみえぬほど長くて残忍な朝が/ずっとつづき終わることがない

一脚の椅子と一本の煙管(パイプ)/記憶の中であなたを待ち続けても徒労だけ/誰も街角を歩くあなたを見たりしない/ひとみの中を小鳥が飛び/葉の落ちた木からオリーブの実が一粒落ちる [1] 同書 p58

劉霞、劉暁波の妻。
中国は共和国である。その民主主義をもう一歩進めようと劉暁波は2008年「零八憲章」を起草した。暁波はテロリストでもなんでもなく教科書的民主主義を要求しただけだが、中国共産党は許さず、囚われた。欧州の民主主義者たちは、彼の自由を求めて彼にノーベル賞を授与した。獄中の暁波は授賞式に出られないので劉霞が代理出席すべきところ、中国当局はそれも許さず、逆に劉霞の発言一切を徹底的に抑圧した。彼女は劉暁波と違い、どんな罪にも問われていないしたがって、共和国公民として海外渡航の自由を含む自由を持っているはずで、そのことは当局も公式に認めている。しかし実際には彼女は自分の友人にも会えず、近所のマーケットにも自由に行くことができず、徹底的に幽閉されている。暁波は去年7月亡くなったが、彼の死後も劉霞に対する事実上の徹底的な幽閉は続いている。

冒頭に引用した詩は、1997年に書かれた「黒い影 ―暁波へ―」。「1996年10月8日、早朝、二人が寝ているとドアがノックされ、警官が押し入り、劉暁波は妻に別れを告げる間もなく連行された(三度目の投獄)」と訳者注が付いている。20年以上、暁波がずっと囚われていたわけではない。またこの詩を書いた時点でそれに近いことが起こるなど予想もしなかったはずだ。にも関わらず、彼女の二十数年はおよそ「長くて残忍な朝が/ずっとつづき終わることがない」と要約できる。
そこにあるのは「ひとみの中」で飛んでいる小鳥である。人は自由であるとき自由を自覚できない。だからといって自由でなければ自由を自覚できるわけでもない。しかし劉霞は、悲しみのなかで、小鳥=自由を獲得し、小鳥とともに生き続けた。

劉霞は大丈夫なのか?彼女は劉暁波のことしか考えていなかった。また幽閉されすべての友人との関係を断たれ、他の事を考える自由を奪われた。であるのに、去年7月劉暁波は死んだ。劉霞はどうなってしまうのだろう。
詩集を読めばその答えは分かる。彼女は大丈夫だ。生きながら琥珀に閉じ込められた美しい小さな蛾のような劉霞は。

彼女の世界は不在と拒否で特徴づけられている。

あちらにもこちらにも空いている椅子/こんなにたくさんの空いている椅子が/世界のあちこちにあるけれど[2] 同書 p94

空いている椅子があれば人が座っている椅子もあるはずだが、彼女は「空いている椅子」だけに魅せられる。ある椅子に座ると「凍えるほどかじかんでしまい/身動きできなくなってしまう」 劉暁波の不在だけが彼女のテーマである以上、それはしかたがないことだ。

うちのドアをノックしないで/もう決してしないで/いや、するな/ /
うちには人がいない/私たちはただの人形/蒼穹の手に引かれる人形/いまはぐっすり眠っている/ / [3] 同書 p102

この詩は1998年11月とあるが、劉暁波は帰って来ているようだ。しかし詩のトーンはほとんど変わらない。劉暁波もまた六四天安門事件の死者を背負った詩人で、そこから発する言葉は他人に届かない、そうである暁波と二人でいる幸せを沈黙に閉じ込めることを劉霞は選んだ。

カーテンの裏側で/数えきれないローソクが/真っ暗で突き刺すような寒風の中/粘り強く灯っている/わたしたちは亡霊とともに/灯火を手に声を押し殺して哭(な)く/ /
お願い、ノックする見知らぬ人よ/ここから立ち去って/私たちはまだ眠らなければならないの/睡眠によって力を蓄えるために/大きなカーテンを開くとき/わたしたちは何も畏れずに対峙する/あなたちといっしょに/拍手喝采なんてごめんだから [4] 同書 p105

劉霞の拒絶は、「いまだけ」のものだ。「真っ暗で突き刺すような寒風の中粘り強く灯っている数えきれないローソク」とともに、劉霞は生きている。余りにも長く続く「幽閉」状況に合わせて、文体を作ってきた劉霞は、いま挫折してはいない。もう少し幽閉状況が続いても、生き延び、表現し続け、私たちに新しい姿を見せてくれるだろう。

追記:劉霞に自由を!!
劉霞は何の法的根拠もなく一切の自由を奪われている(友人と話したり、手紙を書いたり、作品の感想を聞いたりできない)、零八憲章発表後(特にノーベル賞受賞以後)10年近く。これはまったく不当なことであり、中国当局は至急彼女に自由を与えるべきである。鬱状態に加えて心疾患も危惧されている。ところで、2018年4月2日に亡くなったウィニー・マンデラのことを、先日ある集会で出会った若い南アのアクティヴィストは、(わたしたちの)ママと呼び、深く追悼していた。ネルソン・マンデラが28年間獄中にあった時期、ウィニーがいわば代理として政治的に大きな活躍をしたのは広く知られている。劉霞は政治的志向がなくそうした活動をしたいとは思わないだろうが、一切の自由を奪うとは、中国国家は、アベルトヘイト国家を大きく下回る最低国家ということになる。

References

References
1 同書 p58
2 同書 p94
3 同書 p102
4 同書 p105

九州大学生体解剖事件講演会


熊野いそ 講演会 を下記により行ないます。(直前の告知で申しわけない)
2/4(日)13:30~大阪産業創造館6階で #倫理の境界
九州大学生体解剖事件は捕虜が生きたまま手術&解剖された事件です。

終戦直前の1945年春、九州帝国大学(現:九州大学)医学部で実際に起きた実験手術と解剖。米軍捕虜8名はこの手術によって殺されました。
ウィキペディアでの事件概要はこちら

遠藤周作の小説「海と毒薬」のモデルになった事件と言われています。

このイベントは「九州大学生体解剖事件 70年目の真実(2015年 岩波書店)」の著者である、熊野以素さんにご講演いただいた後、一緒にワークショップを行う試みです。

場所:大阪産業創造館 (堺筋本町駅徒歩5分)
参加費:500円

第二部では、ワークショップも行います。
————————————————

戦後のBC級戦犯裁判で大きく取り上げられたのは、捕虜虐待問題。
そのなかでも、最もスキャンダラスだったのは、この九州大学生体解剖事件
でしょう。

ご著書によると、熊野さんは、鳥巣太郎氏の行動を微細に追うことで、この事件を
追体験されています。

☆住民に対する無差別爆撃は国際法違反であり、その行為者を死刑にすること自体は認められるべきか?
☆なぜ生体解剖を行ったのか?生きた人間の体を切り開いて様々な手術を行うことには、臨床医として研究者として大変な魅力がある」のだろうか?
☆2回めの手術時、鳥巣は石山に「手術に九大が関係しとるということがわかれば、後で大変なことになる」と言うが「これは軍の命令なのだ」と拒否される。鳥巣は一時間遅刻して解剖実習室に行った。
☆1946年罪を問われた石山教授は自殺し、最も消極的だった鳥巣も責任を取らされることになる。48年8月、九大の鳥巣、平尾、森は二人の軍人とともに 絞首刑という判決が出た。
☆宗教の力も借り、罪の自覚を深めた鳥巣は、死刑を受け入れようとする。しかしその妻はあくまでその強制に逆らおうとする。
☆戦争という巨大な力、教授の権力という巨大な力に服従したばあい、服従は言い訳にはならない。しかしそのように冷めていることが本当にできるのか?
戦争中の一つの事件ではありますが、この事件はいまでも過去にすることができていない多くの問題を孕んでいます。
講演会にぜひ足を運んで下さい。
野原燐 
参考 九大生体解剖事件と有限性の責任

ハイデガーの決断論批判について

國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』第7章は、ハイデガーの決断論批判になっている。
「人間は退屈する。その退屈こそは、自由という人間の可能性を証し立てるものなのだ。だから決断によって自らの可能性を実現せよ……。」が、ハイデガーの概要。(P294)

それを國分は批判していくのだが、一部かなり違和感があったので書いてみたい。

退屈しているなら決断せよ、とハイデガーは迫る。しかし、「決断するために、目をつぶり、耳をふさげ、いろいろ見るな、いろいろ聞くな、目をこらすな、耳をそばだてるな」 と述べているも同然だ、と國分は語るが、これはおかしい。(p298)
生きるとは、世人がやっていることに従うことだ、というのが初期状態としてある。(「〈ダス・マン(ひと)〉が日常性の存在の仕方を指定している」『存在と時間』第一篇第4章27節350)
サラリーマンなら朝7時に起き出勤する。ただ大雪であれば目的遂行するために「かなりの困難」が予想される。ここで「9時に会社に着く」という初期状態の目的と「かなりの困難」がはかりに掛けられ、「あるていど自由な判断」(ができるひとは)により今日はその目的遂行はあきらめるという「決断」が下される。「かなりの困難」を努力でクリアーして目的遂行するという選択肢もありうる。一般に困難がない仕事はないので、「あきらめる」ばかりしていれば仕事にならない。プラスの方向の「決断」も当然ありうる。雪道なのに走る、とか。

決断とはこのようにありふれたものにすぎなかろう。ところが國分は、「たしかに決断は人を盲目にする」とやたら話をおおげさにしてしまう。
「周囲に対するあらゆる配慮や注意からみずからを免除し、決断が命令してくる方向へ向かってひたすら行動する。これは、決断という「狂気」の奴隷になることに他ならない。」 p298

昨日は大雪のニュースとともに西部邁の入水自殺のニュースがあった。入水自殺するために確かに、上記のような決断=狂気が必要になるだろう。しかし故意に求められた狂気であったとしても「実はこんなに楽なことはない」とはまったく言えないだろう。「決断は苦しさから逃避させてくれる。従うことは心地よいのだ。(略)人は従いたがるのだ、と。」國分の思考回路から一歩外れてこれを読むとまったく意味不明である。
先の例として挙げた「会社に遅刻する決断」の場合、苦しさから逃避とはいえる。ところが次にくる形容詞なしの「従うこと」とはなんだろうか?ハイデッガー的にはこれはまず、世人支配への従順であるはずだが國分の場合、そのステップは考察の対象外になっている。

ハイデガーがいう退屈の第三形式「なんとなく退屈だ」がある。それはじつは「わたしは自由だ」ということをわたしに告げているのだ。でまあ自由の実現を「決断」と呼んでいたわけですね。p243
でわたしは、「決断」というものを、『存在と時間』の世人論くらいのとことに戻して自分なりに考えてみた。ところがここに、國分氏とわたしとのあいだにはズレが生じ、うまく説明できなくなってきた。

「「決断」という言葉には英雄的な雰囲気が漂う。」と國分は書くが、決断にファシズムの雰囲気を嗅ぎとりそれをアレルギー的に拒否する戦後民主主義的(?)反応(と同じもの)に、結局のところ國分は陥っているのではないか。

「「なんとなく退屈だ」の声から逃れるにあたり、日々の仕事の奴隷になることを選択すれば、第一形式の退屈が現れる。」世界をどこから考え始めるのかを教えるものが哲学であるとすれば、どこから考えるのか、という出発点において國分は誤っている。
前述のように、サラリーマンなら朝7時に起き出勤する(あるいはもっと早く)。これが仕事に「従う」ことであり初期状態である。「遅刻しないように」とか考えると人為的な(疎外された)規則のように思えるが、そうではなく、農民はドイツでも日本でも千年以上前から毎日早くから勤勉に働いてきた。ひとが生きる文化とはそういうことの身体化としてあるのだろう。「退屈」を先にもってきて説明原理にするのは賢いとは思えない。

世人=仕事として生きることが原則であり、それに対する例外として、自由=決断が存在する。

ある決断をする。「決断をしたのだから、その決断した内容をただただ遂行していかなければならない。p301」ここもおかしい。会社にいけなくなり、2,3日あてどのない旅に出る。しかしあきらめて帰ってくれば、上手くいけばまた会社に復職し以前と同じ日常が戻ってくるだけだ。世人=仕事という巨大な慣習力の下にわたしたちが生きているということを國分は無視しているので、分かりにくい。
デフォルトとしての仕事=服従を見ないで、決断を「決断主義」と大げさにした上で否定してみせているだけだ。

「人間は日常の仕事の奴隷になっていた p302」。それはよい。「その仕事は決断によって選び取った」ものだろう、と國分は言う。そうではない。毎朝起きて働くというのが人間の文化であり、類としての人間はそのように自己形成してきたのだ。

「人間は普段、第二形式がもたらす安定と均衡のなかに生きている。p305」そのとおりであり、野原はそれを世人=従属的生き方、と考えるが、國分は認めない。決断をむりやり奴隷に結びつける國分の発想は、説得力がない。

大学の勉強という「退屈」を逃れ、資格試験勉強の奴隷に成るという対比を國分は掲げており、まあそういうことはあるだろう。それはしかし、大学の勉強が自由であり不安であるからであり、退屈という言葉を選ぶ必然性はないと思われる。それに、ハイデガーを読んで論文を書くことも同様に集中力、自己奴隷化が必要なわけであり、例の挙げ方が恣意的と言える。

さて、コジェーヴ がでてきて、批判される。
「決断し、自ら奴隷になる」のがコジェーヴのいう「本来の人間」だ。そうではなく第二形式の退屈を生きるべきだと國分は言うのだが、どうなのだろう。

ハラキリや特攻など「「歴史的価値」にもとずいて遂行される闘争(P319)」は、自由である人間の誇り高さとは無縁だ、とは必ずしも言えないかもしれない。しかし、わたしたちが常に具体的場面に則して考えるべきである。「先の戦争」では命令に従って、多くの残虐行為がなされた。つまり「世人」という習慣が人間であり、そこまではまあ良いとしてもそれをど外れた強度にまで疎外しようとするのが戦争時における国家であり、悪の究極である。(ファシズムが悪ならそれと戦うのは悪ではないという議論はしばらく置く。)
壮大な勘違いをしているのは、「決断」一般を否定してしまう國分の方である、と思われる。

国民国家の理念にもとづいて大戦を引き起こし、自国民たちを戦場で見殺しにしたヨーロッパの国々の社会体制、について、國分は愚劣だと述べる。
国家というものが、日常を切断する権力への幻想において成立しているというならそうかもしれない。

過激派=奴隷になる、ことへの警戒というものが、國分の基本思想のようだ。だが結局、どうなのか? 平凡な理解だが、世人=服従が、ハイデガーや特攻のように国家と同致したときの方がより大きな災厄をもたらした、と歴史から学べるのではないのか?
したがって、世人(第二形式)ではなく、決断=第三形式の方にだけ奴隷になることを、結びつける國分は恣意的でしかない。

習慣の獲得というものを、近代主義がともすれば、軽視、蔑視してきたという批判は正しいだろう。
習慣によって、目に入っていくるものすべてを受け入れるのではなく、そのほとんどを切り捨てるという説明がある。習慣を獲得することにより「考えて対応するという煩雑な過程から解放される」、という。その正しさは一面的でしかない。農民が農地を見る時、そのすべてを深く見た上で不要なものだけ切り捨てているのだ。そこにあるのは有機的自然との交流であり、近代的主客図式による情報摂取ではない。
稲の穂の膨らみ具合を見て取り、それに応じた作業を行う。それは反射的行動のようにも見えるがそうではない。かなりの要素を組み合わせて瞬時に判断した結果結論を出しているのだ。習慣とは考えないですむことではない。より速く考えることに過ぎない。

環境を情報として扱うことが、すでに世界の平板化だ。人間は考えないですむ方向に向かって生きていく、とある。そいういうこともあるかもしれないが、例えば音楽を聴く場合、より深く聴けるようになっていくだろう。またおそらく、例えば農業を続ける場合も、世界と自己はより多次元的に深く交流できるようになり、相互変容していく可能性があるのだろうと思う。

付記:
ハイデガーの決断論批判に関係ある本として、アドルノ『本来性という隠語』がある。難しくて紹介も引用もできないが、ほぼ納得させられた。上記に反映してないけど。

偽装である世界を破壊する

 ハイデガー『存在と時間』にはたくさんの翻訳があり、どれを読めばよいのか迷う人も多いだろう。参考のために、第1篇第4章27節 日常的な自己存在と〈世人(ひと)〉 のごく一部を掲げて、対照してみよう。(傍点およびふりがなは基本的に無視した。)

中山元訳(光文社古典新訳文庫・3 2017年7月刊)。

360 世界の隠蔽と露呈 (この小見出しは中山訳だけにある) の一部
 日常的な現存在の自己は、世人自己(マン・ゼルプスト)であり、わたしたちはこれを本来的な自己、すなわち固有につかみとられた自己と区別しておこう。
世人自己として存在しているそれぞれの現存在は、世人のうちで放心しているので、ことさらにみずからをみつける必要がある。
この〈放心〉は、すでにわたしたちが身近に出会う世界のうちに、配慮的な気遣いをしながら没頭することとして捉えた存在様式のうちにある「主体」の特徴である。

 現存在が世人自己としての自分自身に親しんでいるならば、それは世人によって世界と世界内存在のごく身近な解釈がすでに素描されていることを意味する。
世人自己は、現存在が日常的に〈そのための目的〉として存在しているものであり、有意義性の指示連関の構造を定めているものである。
現存在の世界は、そこで出会う存在者を、世人が親しんでいる適材適所性の全体に向けて、しかも世人の平均性によって確定された限度のうちで、〈開けわたす〉のである。

 さしあたりは、事実的な現存在は平均的に露呈された共同世界のうちに存在している。
さしあたりは、固有の自己(ゼルプスト)としての「わたし」が「存在している」のではなく、世人というありかたをした他者たちが存在しているのである。
この世人のほうから、この世人として、わたしはわたし「自身」にさしあたり「与えられて」いるのである。
さしあたり現存在は世人であり、そしてたいていはそのまま世人でありつづける。

 現存在が世界を固有なかたちで露呈させ、自分に近づけようとするならば、そして自分の本来の存在をみずからに開示しようとするならば、こうした「世界」の露呈と現存在の開示は、つねに現存在が自分を自分自身から遮断するために行っていた隠蔽や暗がりをとりのぞくことによって行われるのであり、偽装を破壊することによって行われるのである。
(中山訳・終わり)

熊野純彦訳。(岩波文庫 2 2013年6月刊)
日常的な現存在の自己は〈ひとである自己〉であり、これを私たちは本来的な自己から、つまり固有につかみとられた自己から区別する。
〈ひとである自己〉として、そのときどきの現存在は、〈ひと〉へと分散しており、じぶんをまず見出さなければならない。
この分散によって特微づけられるのは、或る存在のしかたをそなえた「主体」なのであって、その存在のしかたは、もっとも身近に出会われる世界のうちで配慮的に気づかいながら没入しているものとして知られている。

現存在が〈ひとである自己〉としてじぶん自身に親しいものだとすれば、その件が同時に意味しているのは、〈ひと〉によって、世界と世界内存在についてのもっとも身近な解釈があらかじめ素描されていることである。
〈ひとである自己〉は、現存在が日常的に存在している〈なにのゆえに〉であり、その〈ひとである自己〉によって有意義性の指示連関が分節化されているのである。
現存在の世界は、〈ひと〉が親しんでいる或る適所全体性へと向け、しかも〈ひと〉の平均的なありかたによって確定されている限界のうちで、出会われる存在者を開けわたす。

さしあたり、事実的な現存在は平均的に覆いをとって発見されている共同世界の内で存在している。さしあたり、固有の自己という意味での「私」が「存在している」のではない。
〈ひと〉という様式における他者たちが存在しているのだ。
〈ひと〉の側から、また〈ひと〉として、私は私「自身」にさしあたり「与えられて」いる。
さしあたり現存在は〈ひと〉であって、たいていは〈ひと〉でありつづける。

現存在が世界を固有なしかたで覆いをとって発見し、じぶんに近づけるとき、つまり現存在がじぶん自身にみずからの本来的な存在を開示する場合には、「世界」をそのように覆いをとって発見することと、現存在を開示することが遂行されるのは、つねに、覆いかくし、暗くするさまざまなものを取りさることとしてであり、さまざまな偽装するものを粉々に砕くこととしてである。
現存在は、そうした覆いかくすもの、暗くするもの、偽装するものによって、現存在自身に対してじぶんを遮断しているからである。

原佑訳(中央公論社・世界の名著版 昭和54年)
日常的現存在の自己は世人自己なのであって、この世人自己をわれわれは、本来的自己から、言いかえれば、ことさらつかみとられた自己から区別する。
世人自己としてはそのときどきの現存在は、世人のうちへと分散して気散じしており、おのれをまず見いださなければならない。
こうした気散じが性格づけているのは、最も身近に出会われる世界のうちに配慮的に気遣いつつ没入することとしてわれわれが識別しているような、そうした存在様式の「主体」なのである。

現存在が世人自己としてのおのれ自身にとって親しいものだとすれば、このことが同時に意味しているのは、世人が世界および世界内存在の最も身近な解釈の下図を描いているということ、このことにほかならない。
世人自身は現存在が日常的に存在しているための目的である当のものであるのだが、そうした世人自身が有意義性の指示連関を分節するのである。
現存在の世界は、世人にとって親しいものであるなんらかの適所全体性をめがけて、また、世人の平均性でもって固定されている限界のうちで、出会われる存在者を解放する。

差しあたって現事実的現存在は、平均的に暴露されている共世界の内で存在しているのである。
差しあたって「私」は、おのれに固有の自己という意味で「存在している」のではなく、世人という在り方における他者なのである。
この世人のほうから、またこの世人として、私は私「自身」に差しあたって「与えられて」いる。
差しあたって現存在は世人であり、たいてい世人であるにとどまる。

現存在が世界をことさらに暴露しておのれに近づけるときには、現存在がおのれ自身におのれの本来的な存在を開示するときには、「世界」のこうした暴露と、現存在のこうした開示とは、現存在がおのれをおのれ自身に対して遮断している隠蔽や不明確化の撤去として、偽装の破砕として、つねに遂行されるのである。

一番特徴的なのは、有名な用語である「世人(ダス・マン)」というのを、熊野が使用していないところ。〈ひと〉とさりげなく、〈 〉だけ付けて翻訳している。「世人」というのはいかにもこなれの悪い言葉なので、避けたのはよく分かるが、〈ひと〉では、意味が弱すぎるような気がする。
詳細な比較は、みなさんにお任せする。

少し前から、読み返してみると、348で言われているのはひとは、他者に対して過剰に気遣いしてしまう。そのせいで、共に生きることはかえって〈隔たり〉を生み出す。
〈隔たり〉が当たり前になるということはつまり、日常的相互存在において、他者たちの支配のもとにある、ことになる。いいかえると、「世人」の支配である。
したがって、日常的な生活のなかでの自己は、世人自己、世人という常識にひたされていわば〈放心している〉状態である。そうではなくて、ことさらにみずからをみつける必要があるのだ。ひとをなんらかの目的のために適材適所に割り当てる、そのような形での存在様式が支配的になっている。それは固有の自己としてのわたしの存在のあり方ではない。つまり世界は、奇妙な形での隠蔽と暗がりによって構成されている。こうした欺瞞を破壊することにより自分の本来の存在をみずからに開示することができる。

わたしなりにパラフレーズしてみた。自分の本来の存在、本来性、そんなものはないのだよ、と賢しらに言いつのるひとが今では圧倒的だ。でもわたしの考えではそれは決定的なことではない。わたしたちの社会は、根本的に、つまらない倒錯によって支配されていると言いうる。だからそれを破壊する、破壊しようとすることは大事だ、とそう思う。

(なお、わたしは中山元訳が一番読みやすくて良いと思う。ただし、これは2017年11月現在「3」までしか、上記で取り上げたあたりまで、全体の三分の一くらいしか、刊行されていない。終わるのは数年後なので、読み終わるためには他の人の訳も必要だ。)

九大生体解剖事件と有限性の責任

九州大学人体解剖事件
1945年5月17日から6月2日に4回、日本軍から米軍捕虜の提供を受け、九州大学医学部第一外科と第二解剖学教室第二講座が死に至る生体実験を行った。被害者は墜落した米軍機に乗っていた兵士8人である。

この事件についてのいままでの著作は、主に公判記録及び公判に関する宣誓供述書に基づいていた。非公開であった再審査関係の膨大な資料を(国立国会図書館から発掘し)精査してまとめたものが、熊野以素『九州大学生体解剖事件』(岩波書店2015年)である。

この事件の主犯格の、石山教授と小森軍医見習士官は裁判当時すでに死亡していた。そこで、事件の大学側関係者は鳥巣太郎助教授、平尾健一助教授、森好良雄講師とされ、3名ともに死刑が宣告される。(後に減刑)
この本は、著者の叔父である鳥巣太郎(鳥巣と記す)を中心に記述される。

裁判の経過のなかで鳥巣は事件を反省する。その核心は次の二つの引用にある。

A)「林先生の証言は、その一言一言が私の肺腑を突き沈痛な思ひに悩みはつきず。げに真理は簡単である。私が参加したことに対する如何なる弁明も、何の訳にも立たぬことを改めて認識した。(略)
又しても「当時何故もっと意志強く迫らなかったか」といふことが今更ながら未練がましくも残念の極みである。」(48年5月林春雄証言を聞いて) p114

B)実際には、鳥巣は石山に次のように言った。
「先生、また、先日のような手術をなさるのですか?(略)
あのような手術は軍病院でするべきではないでしょうか。もし手術に九大が関係しとるということがわかれば、後で大変なことになると思います。(略)」 p34

鳥巣の行為・思想を中途半端だと指摘することはできる。一回目の実験に立ち会う際、彼は事情を知らなかった。しかし二人目の兵士の手術時、彼は理解していたのに手術を助けた。二回目の手術の前、鳥巣はB)発言をし、手術には遅れていく。しかし参加はした。
いずれにしろ、手は汚れていることになる。

戦争は日本の敗戦で終わり、捕虜虐待に厳しい裁判で臨むGHQの支配下、1946年7月鳥巣は石山教授外3人とともに逮捕される。石山は後に自殺。

鳥巣にとっては、生体解剖(殺すこと)への拒否が第一順位であり、同僚も内心では当然そうであったはずだと思っていた。しかし同僚は実際にはB)の行為は取らなかったわけであり、自己保身を第一順位にすることにさほど疑いを持っていなかったかもしれない。仮にそうであったとすると、戦後は逆に、自分がB)に限りなく近かったことが有利になる。したがって、B)に限りなく近かったとみずから思い込むまでに自己を偽り、そのように鳥巣にアピールしたこともあったかもしれない。1949年5月に「我々は石山教授に手術をやめるように頼みに行った」と鳥巣が書いたのも、そうした働きかけの結果だったかもしれない。

B)の立場に立つことは一生、「今更ながら未練がましく悩み続ける」ことである。
言葉で説明することは理を通すことであり、A)のように語らざるをえない。それはしばしば、割り切れないものである現実に厳しすぎる裁断をするものだと感じられる。

鳥巣の場合は、目の前の手術台に横たわった身体に対する犯罪という具体的なもので、戦争犯罪といった大きな主題にかかわるものではない。医師としてその命を殺す実験に関与するという問題は、ある意味で殺人という倫理的問題を、手術台の上に展開し詳細に再体験することを迫る。
そのなかで、鳥巣はA)とB)のあいだでぐるぐる思索し続ける。

しかし、同僚たちは違う。彼らは事件時、ファッショ的専制的な主任教授に逆らうことができず、裁判においても鳥巣のようにB)のような減刑要求する根拠もなかったため、「反抗は許されず仕方なく参加したのだ」と情緒に訴える弁護に頼るしかなかった。
しかし獄外の同僚の家族たちや大学関係者たちは、一致し熱心に弁護士に働きかけた。それは家族としては当然のことであっただろう。しかし、軍とその影響下にある大学という専制的男性リーダーの下にあったホモソーシャルな支配の構図が、問われなければならなかった筈だ。だが、問われるべき主犯である主任教授石山は、卑怯にも自殺してしまう。従犯たちは、自己を「支配の構図の被害者」に位置づけることにより、その構図を結局敗戦後まで生き延びさせてしまう。

閉じ込められた鳥巣はA)とB)のあいだをぐるぐる回るばかりで、自分を救おうとすることに熱心にならない。ただB)という行為をした自分を肯定しており、それをしなかった同僚を助けてあげなければいけないと思い続けていた。

この本は『九州大学生体解剖事件』という題で、題の印象からもいままでの紹介からも重く苦しい主題を扱った難解な本という印象を受けてしまうだろう。
しかしそうではなく、これは(むしろ)苦境におちいった幼子を抱えた若い妻が信じられないようなエネルギーで、横浜裁判当局に挑み、誤審を訂正させるという、日本には珍しい(米国人好みの)正義のヒロインの物語なのである。

ヒロインは鳥巣太郎の妻、蕗子である。鳥巣は最初の事件の後、妻に事件を打ち明け、大学を辞めたいとまで言う。蕗子は思ったことをまっすぐに口にする性格だった。
「石山先生がまた捕虜の手術をされるようなことがあっても、あなただけは決して手術に参加なさってはいけません!もし私が、米国軍人の妻でありましたなら、なぜ夫は手術されたのだろうか、手術されなかったら自分の夫はシナなかったかもしれないと思います。戦争の最中でも、米国軍人の捕虜を医学の研究に使ってはいかんと思います。戦場で軍人が殺されるのは仕方ありませんが、手術で死んだらお気の毒です。」p32

48年8月、判決。鳥巣外2名の医者と2名の軍人は絞首刑と決まる。鳥巣の予想外のことだった。蕗子は独力で嘆願書を作る。またその後では英語が達者な三島夫人の力を借り、二人で総司令部法務局に何度も何度も説明に行く。事実関係の細部についての説明。「初回の手術は参加はしたが執刀はしていない。鉤引き、血を拭うなどの補助を行った」「2回目の手術の前に石山教授に手術の中止を諫言。手術場には遅れて行った。」「三回目の手術は参加を拒否」などなどである。
これらの事実は、ここまではやらなかった、と否定により減刑を獲得しようとするものだが、本人にとっては、ここまではやらなかったがここまではやったのだと、思い出したくない犯行を再確認し反芻する効果がある。
蕗子は、実験遂行へのためらいを一言も口にしなかった同僚と鳥巣の差異であるB)にこだわる。そうしないと鳥巣を救うことができないし、なによりそれは事実だから。

事実関係の細部に焦点を当てて再審を勝ち取るべく書類を積み重なることは、同時に鳥巣にとっては、自身の倫理的反省がただの反復に陥らず、常に痛みとともに反省を深めていく効果を持ったと考えられる。
一人の人間を医療行為をすると言って騙して麻酔をかけ、そのまま材料として生体実験してしまう。これはいかにしても弁護できない絶対悪である。これが、A)の思想であり、無限性の責任論と名付けることができよう。
B)は、それに対しておずおずと違和感を提出したという行為である。きっぱりとした反対の意思表示ではないが、その時点の鳥巣のせいいっぱいの意志表示であった。それは服従と反抗の二つのベクトルの折衷であって。それを有限性の責任論と名付けることができる。

鳥巣たちに対する判決は1948.8.27だが、再審査の嘆願が粘り強く行われ、1950.9.12減刑決定。1954.1.12満期出所となっている。

わたしたちが現在この問題を考える時、戦争中(8.15まで)、占領終了まで(1952.4.28まで)及びそれ以後という3つの時期におけ評価がどう変わるのか、という問題も合わせて考える必要がある。鳥巣たちの裁判は刑法犯罪であり、戦中の日本、GHQ、戦後日本という国家支配者の差異によって、基本的には判断が変わるものではない。また、サンフランシスコ講和条約11条には戦争犯罪法廷の判決を受諾し、刑を執行する旨定められていた。
しかし、占領終了後すぐに強力な戦犯釈放運動が起こった。戦争中の政財界や軍の指導者たちを幹部とする戦争受刑者世話人会が作られ、「戦犯は戦争犠牲者だ」が国民全体に浸透した(三千万人の署名が集められたという)。
戦争指導者も末端の兵士も同じ、戦争の犠牲者であるという思想は、「先の戦争」の遂行責任を明確に追求しなかった。反省が行われるときはかならず「戦争だけはしてはいけない」「すべての戦争は悪である」と戦争を主語にした、(日本人は苦手なはずの)宗教的なまでの大きすぎる思想が語られた。憲法9条に結晶したこのような反戦思想は貴重なものではあるが、軍隊の全廃というテーゼは冷戦のなかで貫かれることはなく自衛隊が誕生し、時代とともに成長していった。

「講和恩赦と1953.8.3の戦犯赦免決議によって、満期を待たず戦犯は次々に釈放されていたのだが、鳥巣は満期まで務めることに強い思いを抱いていた。」p187 とある。 占領軍がいなくなればたちまち消滅してしまう「反省」、そのようなものとともに鳥巣は生きたわけではない。

わたしたちの70年の経緯を考える時、A)の思想の正しさが、抽象的な「戦争はいけない」という命題になり、時代の移り行きとともに、その背後に裏打ちされていた、殺し−殺された身近な人の体験をまるごと裏返すかのような荒業といったものがほとんど蒸発してしまい、力を失っていったのだと考えることができる。

それに対して、鳥巣の場合は、B)有限性の責任論の立場をたえず参照することを強いられたがゆえに、自己身体から遊離した正義の立場に立ってしまうことはなかった。無限性の責任は有限性の責任論に裏打ちされてこそ、真の反省として持続しうるのではないか

今では忘れられてしまった、生体解剖事件犯人とその妻の話。そこには小さくとも本物の反省があった。
「大東亜戦争(アジア太平洋戦争)」という巨大な悪を巨大な悪として反省しようとすることは、それがいかに真摯に行われようとやはり限界があり、有効期限切れが来たかのような現在である。
そうではなく、ひとつの事件におけるほんの小さな反抗、それを大事に育てることにより、事件全体へのトータルな反省に鳥巣がたどり着いたという実話。
それは、わたしたちの戦争体験の総括の失敗という課題に、光を当てるに足りるエピソードだ。

ソクラテスと民主主義の死

アルキビアデスとクリティアスは1,2をあらそうソクラテスのお気に入りでした。クリティアスは30人僭主の最有力メンバーであり、アルキビアデスはアテネ国民にうまくとりいる軽薄才子でした。かれらは主観的洞察の原理を実践し、その原理にしたがって生きた人物だったのです。
p430『哲学史講義・上』ヘーゲル 河出書房新社

アルキビアデスとクリティアスはアテネ国家の民主主義を崩壊させた主犯といっても過言ではない。で、それにソクラテスが打ち立てた「精神の高度な原理」が関わっていたとヘーゲルは言っている。

ソクラテスとは、「国民の権力にたいして服従の意思を示すのを拒否した人物」である。「自己を確信する精神、ないし、みずから決断する意識の絶対的な正当性」を自覚していた。この高度な原理は絶対的にただしいものでした、とヘーゲルは言い切る。
しかしそれは、「国家が正義とみなしたもの以上の理性や良心や公正はありえない」という本来のアテネ国家の原理とまっこうから対立するものだ。ソクラテスは死刑になったが、それからわずかの時を経て「みずから決断する意識の絶対的な正当性」という原理はアルキビアデスなどの身体を借りて、アテネ「民主主義」を滅ぼしてしまう。

ここでヘーゲルが描き出している図式は、われわれには飲み込み難いものがある。
何人かの個人による、理性の導きによる対等な討論が民主主義の基礎であることは言うまでもない。それを教え、最も見事に実践したのはソクラテスである。
ところが、それは、ソクラテスの死とアネテ民主主義の死に至る道筋をたどる。どうしたことか!? これがヘーゲルが見事につかみ出した〈矛盾〉である。

もうすぐテロ等準備罪(共謀罪)というものが国会というプロセス(二院制)で可決される。森本問題、加計問題という首相による国家の私物化に対する解明を、「理性の導きによる対等な討論」という規範を徹底的に貶めることにより抑圧する、という経過によって、国家に人民抑圧の手段を与えることになる。戦後70年間の議会制民主主義は終わった、と感じられる。

「民主主義」はなぜ終わったのか?啓蒙的進歩的知識人が愚かだったから、いやそうではなくみずからの聡明さに酔い傲慢におちいっていたから、だろう。彼らは、「理性の導きによる対等な討論」をとなえるが、ソクラテスのように裸足で泥をかぶり庶民の一人一人と対等に討論しなかった。彼らの「討論」とは、彼らが欧米から密輸入した民主的な結論にたどり着かなければならないものと決まっており、対等な討論など、実は最初から真剣には企画されていなかった。

支配者と官僚が欧米から輸入した「繁栄のための」結論と、それへの反発である「民主的な結論」の対立。そこには最初から「理性の導きによる対等な討論」はなかった。そこで、
支配者と官僚の側は、「日本のため」「繁栄のため」というレトリックで押すことにより、常に勝利することができた。戦後、真剣な討論が栄えていた時代もあったように見えるが、それは高度成長の果実である国家予算の一部を、大衆にも分配するという争いにすぎなかった。分配の余地がなくなるにつれて、討論はにべのない拒絶に変わった。

絶対的な自由を手に入れた個人は魅力的であり大衆をも魅惑することができる、それにより独裁を手に入れ国家を破滅させることができる(アルキビアデスの場合)。
では人格、見識ともに劣ると公然とみなされている安倍氏は、なぜその独裁を維持し続けられるのだろうか?
誰しも愛国的である自分を感じるのは心地よいものである。韓国にむしろいじめられている日本という図式をむりやり作り出し流布することにより、ある個人は日本の味方をし韓国に対して怒ることにより愛国者になることができる。70年も前の戦争時の犯罪について相手がほかでもないあなたに反省を求めていると、そういう図式をつくれば誰しも反発する。その反発により、安倍氏は彼らを自分の側に動員することができる。
啓蒙的進歩的文化人が安倍を批判すると、自分の無罪(無垢)を信じたい大衆の逆鱗に触れてしまい、左翼はますます嫌われることになる。

かっておろかなアルキビアデスが勝利したように、今日は愚かな大衆が勝利するのか?

メモ:さて、この問題についてキルケゴールは次のように言っている。
「ここでアテナイ国家の頽落について歴史的叙述をおこなうことは私にはかなりよけいなことのようにおもわれる」p83 『イロニーの概念・下』著作集21
「ギリシャ国家における邪悪な原理は、有限な主観性の(すなわち不当な主観性の)原理、多種多様な発現形態における恣意であった。そのうちの一つの形態(略)が、ソフィストの立場」p85