女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)

 について考えてみよう。

http://www.awf.or.jp/

女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)

アジア女性基金は1995年、政府の決定により設立されました。「慰安婦」とされた方々への道義的な責任を痛感した日本政府が、国民と協力して、償い事業など以下の各事業を行うために発足させたものです。

基金はまた、「慰安婦」問題に関する歴史資料の収集と編集、公刊に力を尽くし、募金活動の中でも「慰安婦」問題についての認識と理解を社会に広める活動を行ってまいりました。募金活動へのみなさまの積極的な参加もあり、「慰安婦」問題についての認識と理解を高めることに寄与することができたと考えております。

「慰安婦」問題についての認識と理解は日本社会に広まったか。この十年間で慰安婦たちも皇軍兵士たちもその多くの部分が亡くなった、残っているのは1割くらいかもしれない。そうした絶対的忘却に加えて、id:noharra:20050205#p1 で引用した星野氏の文章にもあるように、「戦時中に日本が朝鮮や中国に対して行った行為についても、なかったことと見なす人が増えている。」ナルシスティックな歴史歪曲だ。慰安婦のことを自分が知らないという初期条件を無視して、NHK問題を語りうるとする鈍感さが当たり前のものとされている。NHK問題という論争的言説の根拠にはそうした倒錯があるように感じられた。そこで、慰安婦の証言をコピペしてみたわけである。id:noharra:11001201 に再掲してみた。

 慰安婦の請求が法的に認められるべきかどうかという議論にはわたしは興味はそんなにはなかった。その前段階での、慰安婦の声を聞くこと、顔を見ることが大事だと思った。

「慰安婦」問題についての認識と理解を社会に広めることは、国家に準ずる団体である平和国民基金の趣旨である。したがってわたしのコピペもその方向にそったものである。ところが、下記を読むと慰安婦が強制的に送り出されたものなのかをめぐって、2003年まで長い間議論になったなんて書いてある。まあそれでは「慰安婦」制度の根本を押さえずに創った制度として、慰安婦本人たちに忌避されても当然だろう。「責任を痛感した」といくら言っても本人たちに忌避されざるをえないような向き合い方では謝罪にはならない。償いとは何かよく分からない。金をやっときゃあ良いだろうという金持ちの傲慢さと受け取られる。

 id:noharra:20050211#p5 でも書いた戦争責任をどう取るかという根本が確立できず、謝罪を形にしなければならないときに答えを出そうとすると常に右よりのナルシズムによって答えの形成が妨げられてきた長い長い戦後があったわけである。「答えの形成が妨げられてきた長い長い戦後」とは右翼も言いそうなフレーズではあるのだが、でも60年の歴史を省みてみれば妨げていたのは体制派の方だ。反省の代わりに憲法9条=平和主義を全面に押し出す形で、答えの形成を先送りしたまま今まで来た。

「やぐら」運営中

かげm 『ゲストブック欄のかきこみありがとうございました。金時鐘のメモは読みにくいと思いますが(文脈がないと読めない)、そんななか見ていただいてありがとうございます。

「やぐら」ですが、現在も石垣★Cafeとして24時間運営されており、異様な雰囲気をかもしだしています。ちなみに「次世代メディア」とぼくは書いていましたが、実際は「新世代メディア」と書いています。そこはぼくの間違いです。カフェのHPもできているので、ぜひ見てください。』(2005/03/09 09:31)

心だに誠の道にかなひなば

心だに誠の道にかなひなば

     祈らずとても神やまもらん

という歌があります。近世(あるいはそれ以前から)人々の間で広く受け入れられた「道歌」だそうです。北野天神、菅原道真の作と信じられた。

「心」「誠」(これはしばしば「正直」とおきかえられる)「神」の三者の関係を端的に表現した道歌*1 といわれています。

民衆において祈るとは、なんらかの功徳を祈ることであったでしょう。そして寺社へ行ったりましてや僧などに来て貰うことなど望めない庶民は(ちゃんと)祈ることもできないと考えられた。神との外面的繋がりがないところでもなお、「誠」「正直」であることによって、人間の「心」と「神」は通じ合う。神に通じる(わたし一個の)「こころ」を発見していったという点ではキリスト教(プロテスタンティズム)に通じる所さえあると評価できるかもしれない。

 わたしは昨日始めて知ったのですが、なかなか善い歌ではないでしょうか。

「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。・教育基本法1条」とかいってもそれだけではなんだかそらぞらしい。

「誠の道」と仮に名付ける普遍的価値があるとする。そしてわたし一個がそれを受肉することにより、ある「幸せ」の境地に辿り着けるのだ、とする信念。

この信念を肯定するかどうかですが、アナキストでありながら一応はイエスと答えたいと思います。もちろん、「祈らない」こと=君が代を唱わないこと=外面の秩序に恭順することは悪である。 という論理にしたがってのことです。

*1:p305『近世神道と国学』前田学 isbn:483151005X

「多数派としての」批判

terutell 『azamikoさんのブログに投稿したのですが、反映されないので、こちらに再投稿します。

azamikoさん、はじめまして。noharraさんのブログから来ました。

まるで2ちゃんねるみたいなコメントがたくさんありますね。

azamikoさんへの批判的コメントのなかで、気になるのは、おまえは少数派だ、ということを言い募るものです。

これまでしばしば、そういう態度を相手への批判非難に使う意見を、Yahooの掲示板でも、ブログでも、見てきました。おまえは少数派だ、サヨクだ、プロ市民だ、わたしは世間の多数派だ、良識派だ、常識がある。

この図式化にのっとって、相手を批判することに疑問を抱かない。

多数派であることにあぐらをかく。

こういう批判非難のしかたは、民主的だと思いません。信用できません。多数派であることが正しいことの証明にはならないのに、数をたよって相手をおとしめ黙らせようとする。そのことに自分で気がついていない。今のブログや掲示板に蔓延するサヨクたたきの大部分は、自分達は論理的で正しくて常識があるというだけならまだいいのですが、たいてい多数派だと主張する、そこに卑怯さ、醜さを感じます。』

(野原燐)

terutellさん コメントありがとうございます。

いつぞやは大変失礼いたしました。(911の直後のことです)

 azamikoさんの方も沈静化しつつあるようでまずは良かった!

今後ともよろしく。

今日は飲んでいるので

http://d.hatena.ne.jp/kamisamasedori/20050415#p1

楚狂接輿。歌而過孔子曰。鳳兮鳳兮。何徳之衰。往者不可諌。來者猶可追。已而已而。今之從政者殆而。孔子下欲與之言。趨而辟之。不得與之言

上記ブログで上のような引用があった。白川静先生の好きな微子第十八 ですね。岩波文庫p366。でまあ彼kamisamasedoriは、左翼が機会に乗じて靖国反対とかいうのがいかがなものか、と言っているようだ。ただ私から見れば、接輿から最も遠いのが靖国であり、儒教の<天>を裏切った非普遍性であるから、靖国はどちらからも馬鹿にされるしかない、のだが。

秩序の真の姿

  〈スト〉に入る契機自体よりも、一ケ月以上にわたるスト持続によって、一切の大学構成員と機構の真の姿がみえはじめ、同時に、自己と、その存在基盤を変革する可能性がうまれていることの方が、はるかに重大なのだ。(松下昇)

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matu1.htm 情況への発言

 百人を超す死者たちを生んだ惨事は、わたしたちに少しの間、<秩序の真の姿>=おぞましいイジメでしかないものを公務と言いつのって恥じない倒錯 をかいま見させた。

引用

卒業したらオトナの世の中に出て行く生徒に対し、教員が(その権力でもって)強要できる知識・認識は、結局は「今の社会の一般常識や教養、批判的に世の中や報道を見る目、自分の暮らしを守る力、明日を信じて暮らす気持」なんだなあ。

教育権は国家にあるとする日本の場合、国家がその「一般常識」として何を国民に求めるかというのが「教科書」なのだろう。

http://d.hatena.ne.jp/sava95/20050613#p2 覚え書き

野原は前半に共感するが、後半はどうだろう。“国家に都合の良い人間を造りたい”というベクトルと、歴史と国際関係を切り開いていくために“愛と正義と自己愛を調和させる強靱な知性が必要である”という二つのベクトルが存在し、後者の方が勿論大事である。国家に取ってさえ。ところが前者が大事と勘違いしている馬鹿が増えているのが問題なんだ。とわたしは思うのだが。

支離滅裂な歴史の偽造

すでに南太平洋戦線では、日本は米軍の圧倒的な物量を前に、真っ向勝負ができる状態ではありませんでした。日本軍は、ゲリラ化して戦っていました。ゲリラとは、要するに非戦闘員のような振りをして実は戦闘員である存在、とここではざっくり定義させて頂きます。そして、米軍もそのゲリラ攻撃に、サイパン以外の各所で苦しんでいました。このことから、米軍に素直に白旗を挙げても、米軍がおいそれと信用してくれるかどうか、となると、これは恐らく米軍は信用しなかったと思います。だから、非戦闘員たるサイパン島の日本人住民は、結局自決する以外に道がなくなってしまったわけですね。

http://d.hatena.ne.jp/sanhao_82/20050701#p1

戦争反対

***基本は戦争反対なんです***

、なるほどあなたは善意な方なのでしょう。

で、皇軍兵士が住民に手榴弾を渡し、自決を強要、もしくは示唆した多くの事例について、それは個々の兵士のやったこと。皇軍に責任はなかったと主張するのですか?