id:mujige発言続き

mujige 2010/12/06 09:00 id:noharra 氏、指摘されて「まずい」と思ったからツイートを削除したんでしょうが(名誉毀損が成立しておかしくないレベルですから)、それをわざわざ自分のブログに転載って、やってることが理解不能です。ブログが公的な表現物だということが分からないのでしょうか。

mujigeさんへ。

http://teri.2ch.net/korea/kako/986/986434444.html HANBoardについて考える PART12 投稿日: 2001/04/05(木) ~2001/05/21(月)

には、上記以外にも、米津篤八さん? に対する言及がたくさんあります。

ここのコメント欄あるいはどこかのブログで反論されたら如何でしょうか?

中道右派to野原氏 『

一部修正

>2-3.①2-1事件後の警察の対応

警察は要注意人物として大内に監視の目を光らせ、彼の勧誘を受けた周旋業者に説諭して、慰安婦の募集を断念させたが(山形県の例)、しかし和歌山のように婦女誘拐容疑で検挙することはしなかった。

②についての永井の解釈(以下、『大内事件処理の永井解釈』という。)

②の後に、①を挿入してください。

3月15日付けと3月19日付けの私の該当コメントを、『永井和論文の批判的検討』などといったタイトルで独立のエントリにしていただけると、うれしいです。』(2007/03/28 00:35)

213 今日も混沌未分なり 野原燐 2003/07/26 18:05

日本書紀冒頭にはこうある。

「 古(いにしへ)に天地(あめつち)未(いま)だ剖(わか)れず、陰陽(めを)

分(わか)れざりしとき、

渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)の如(ごと)くして、溟(ほのか)にして

牙(め)を含(ふふ)めり。」

http://www.meijigakuin.ac.jp/~pmjs/resources/bungo/02_nihonshoki.html

林羅山はこう書いている。『神道伝授』という本で。

「混沌は一気のまろきを云うなり。天地開けず陰陽未だ分かれざる時、コントンと

マンマロにして鶏子のごとし。その中に神霊の理 自ずから在りて未だ現れず。

その分かれ開くるに及んで天地の間に万物生ず。」

「また人の心にたとゆれば、まどかなる理の中に、動と静とを合わせて

念りょ未だ芽(きざさ)ざるは、コントンなり。既に動発して種々の思うこと

多く出来るは、天地開け万物生ずるに似たり。神は未分の内より備て、開闢の後に

あらわる故に、始まりもなく終わりもなし。人心も同理なり。

静にして虚なれば、今日も混沌未分なり。」

(p26 『近世神道論・前期国学』日本思想体系)

<太極にして無極>を宇宙の根源とする朱子の思想の焼き直しともいえるが、

混沌を直接肯定するのは儒教からは外れている(のではないか)。

今ここに在るわたしでも、<静にして虚なれば>、宇宙を開く混沌未分

という原理がそのうちにあるのだ、というのはちょっと良いと思った。

<静><敬><未発の中>などというのは宋学においていわば士大夫が

聖人になろうとする方法にすぎないともいえる。(そこにおいて、宇宙原理たる

理と一体化していかなければいけないのだが。)それをむりやり、

日本神話の原初の混沌に結びつけたのは大変な力技だと思える。

「マンマロニシテ」なんていう純日本語が出てくるところもおかしい。

「民は神の主なり。民とは人間のことなり。人有りてこそ神をあがむれ、

もし人なくば誰か神をあがむる。然からば民を治むるは神をうやまう本なり。

神徳によれば人も運命を増すべし。」p14

もう一つ引用してみた。儒者にとってはうまく民を治めるのが目標なのは当然

なのだが、神が出てくるのでなかなかおかしい。

というわけで、名前だけは高校教科書にしっかりでてくるが仁斎などと違い

著作は一冊も見たことがない林羅山先生の文章を引用してみました。

                     野原燐

岩波の日本思想体系は註は充実しているが現代語訳がついてないので、

わたしには難しいです。前から探していた『山崎闇斎学派』というのを見つけた

、翌日十冊ほどのこのシリーズを1,200円で店頭セールしていた。

『キリシタン書・排耶書』というのを選び、あともう一冊ぐらい買っとこうか

とこの本を選びました。スピヴァックやアレントであればマイナーとはいっても

興味を持つ人はいるわけですが、日本儒教になど誰も関心を示しさないでしょうね。

わたしも積読だけになってしまっては困る、そこでここで一人でむりやり書いて

みているわけです。

さて、羅山の文には「摩多羅神」なんてのもでてきた。なんだかいやらしそうな

神だなとグーグル検索してみたらいくつか記事が出てきた。

摩多羅堂という専門のサイトがあり正体不明のこの神について丁寧に紹介していた。

http://mataradou.hp.infoseek.co.jp/s1.html

(酔っぱらい)マンガ日記

 職場の新年会で酔っぱらってしまった。というかわたしは弱いのに別に酒嫌いでもないから自制しない限り酔っぱらいます。人と会うのが苦手なので、人がいるところでは。

 会合はすばやく終わり、わたしは一人で「マンガ喫茶」に行きました。マンガ喫茶とかもっと行っても良いのになぜかなかなか行けません。店の過半のマンガをざっと見渡したて、「やっぱり」の大友と(名前がどうしても出てこずにグーグルしてやっと分かった)岡崎京子を一冊づつ読んだ。岡崎は“Take it easy”というの、大友は王、仁、惨、吾、岩、なんていう名前の付いたボスたちが活躍するSFみたいなの。ググールしてもなかなかでてこずやっとわかった「ナンバーファイブ(吾)」という作品。(酔っているから記憶力がないのか。)ある方が「これが文字通りの傑作。」と書いてますがわたしも同意見です。粗筋と登場人物の異様さはワンピースに少し似てるが、でも比べられないほど大友の方が取っつきにくい。一方岡崎のは、(云々と昨日書いたが読み返すと嘘なので削除)やっぱり名作には違いない。

 TUTAYAに寄ってから帰ってテレビを見た。なぜか今頃ブッシュ再選をテーマにした番組で、藤原帰一氏が出てた。ブッシュとアメリカの大衆は、911とフセインが関係あると思っているが、プロから見ればなんだそりゃ、と言うしかないようなもんだ。ブッシュとアメリカの大衆は、世界の一般的感覚からどんどんずれて行ってるのに気付かずにこのまま行きそうだ。でも日本だけはアメリカに付いて行ってるのかも。という話で、ネクラな反米左翼にも受け入れやすい話だったが、視角がまったく違って新鮮だった。あの女性はなんというのだろう。切り込みが鋭く感心した。それでもそれでもブッシュ再選可能性は55%以上あるんだと・・・日本人なら小泉の心配をしろ、という意見が正しいが。

木製知恵の輪“一帆順風”

浪花節のCDを買いにダイソーに行ったら、「魔法のロープ 帆」(一帆順風)という木と紐でできた頭脳パズルを売っていた。パズルとしては割と大きくしっかりしているので、子供のおもちゃ程度のものでもいいやと(百円ですから)買ったみた。結び目に閉じこめられたリングを解放してやるといったパズル。ところがこれが解けない。子供には1日考えて分からなければ明日回答を見ても良いと言ったので回答をみて分かったようだ。わたしは回答を見るのもくやしくかといって全然できないのだった。しまいにはこんがらがって元に戻せなくなってしまった。“古代中国の智将たちが互いの知力を競い合う遊び”として始まったものだというが、なるほど奥が深い。トポロジーの勉強とかすると解けるのだろうか。うーん。なおそこには三種類あったけど、No2がこれ。あとNo3“指点迷津”は買ったがNo1は買わなかった。皆さんもやってみてください。

検索してみると http://www.neodevice.com/hp/puzzle/rope/ に写真があった。

「一帆順風(イィ・ファン・スン・フォン) 難易度:★★ 帆船のパズル。一番簡単かなぁと思われるパズル。」とあった。私にとってのヒントもあった。「「ザ・頭脳パズル」という木製パズルシリーズの中の、NO.1~NO.5がロープパズルです。」

すでに日本は戦時下にあるのだ。

 Fumiiwaさんへ 問題を「誘拐者の要求に応えるのかどうか?」だととらえるとどうしてもテロリストをつけあがらせるな、というふうに流れてしまうかもしれません。そうではなく、「現在の自衛隊のイラクでの存在に正義があるかどうか?」が問題で、それは「米軍のあり方が正義を最終的にもたらすことができるものなのかどうか?」に依存します。少なくとも数日前のアブサドル一派との戦闘関係の開始以後、後者の答えは残念ながら限りなくゼロに近い。だから国益から判断すると「撤退」が良い。ということになります。わたしの根拠は意外と微温的なもので、左翼では全くない JMMの冷泉彰彦氏の意見とほぼ同じです。彼の意見は「第四の選択肢は撤兵です。今回の派兵はあくまで「戦後の破壊されたインフラを整備する人道支援」という目的のものです。その「戦後」が改めて「内戦」に事態が変わるのなら、そして今日付でイラク国内からの日本人民間人の退避勧告が出たように、人道支援などできる条件が失われたのなら、自衛隊は駐留を続ける理由すら失ったと言えるのです。」というものです。イラク人との血みどろの戦闘を戦い抜く決意も無しにイラクにいても無意味に人が死んでいくだけです。とにかく自己なりの正義の基準において、判断すべきだろう、どちらにしても人は死ぬのだから。そして明日私が死なない保証もない。

 「すでに日本は戦時下にあるのだ。」とマエストロ鏡玉という人が書いていましたが、いまならまだ1割、2割の隙間はあると信じたいものです。「戦時下としての判断」であれば、日本人でも劣化ウラン弾問題を叫びたがる活動家は利敵分子であり、助けてわざわざ英雄として迎えるなどとんでもない、ということになりますが。

 民俗クッ「済州島四・三事件」の紹介ありがとう。面白いかも知れませんね。できれば行ってみたいです。済州島旅行いいですね。わたしはたかだか一冊の本のわずかな頁を読んだだけなのに、金時鐘が語るその当時の海のなかの屍体の群がわりとリアルに感じられています。・・・

日本国は渡辺さんたちを軟禁するな

あるちいさなMLで流れていたので転送します。

最後の「自衛隊イラク派兵撤退へ頑張りましょう。」は削除しようかなとちょっと思った。この問題は、国内の人権問題でありイラク派兵に反対しない方でも、当然共感してもらえるはずのものだと思ったからです。

                • 転送ここから—————–

米兵・自衛官人権ホットライン・事務局からの緊急のお願い

                              小西誠

皆さまへ

渡辺・安田さんが、強制帰国させられようとしているのは、皆さん、ご存じの事と思います。これだけではありません。昨日、渡辺さんの家族と会ってきいたところ、彼らの帰国日時を私たちに伝えないように指導しているばかりか、県・市の対策委の同行の元に、外務省を訪問すること(内容は3人と同じ謝罪要求でしょう!)、「反対勢力が襲撃する可能性」があるから、空港・帰国後、警察の警備をつけること、記者会見をやらないことなども「指導」しているようです。

つまり、かれらの発言を封じ込めることを政府は狙っています。私たちは、この圧力を跳ね返し、帰国後、直ちに記者会見を開こうとしています。

昨日の渡辺君からのホットラインへの電話によると、二人は鍵のかかる部屋に隔離されていること、ホットラインに電話するのも(初めて)、外務省役人の取次で電話をすることを強いられています。(軟禁状態)。もちろん、本人とは、この策動全体を打ち破ることを確認していますが、家族が外務省と右派勢力の凶暴な圧力に曝されています。これは、安田さんの家族もそれ以上のようです。(一方的なバッシング情報だけを言われている)

そこでお願いです。●帰国日時(予定)の20日(火)午前1000前に成田空港へ行ける方はぜひ行って(第二旅客ターミナルビル出国ゲート・アエロフロート機で帰国)彼らを迎え、政府・警察の圧力から彼らを解放し、励まし、記者会見を実現させてほしいのです。ぜひお願いします。

●高遠さんら3人に強制されているような、「謝罪論」「自己責任論」を徹底的に打ち破りましょう。自衛隊イラク派兵撤退へ頑張りましょう。

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ちりにまじはる神

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20031129#p3  で、

「晴れやらぬ身の浮雲のたなびきてつきの障りとなるぞ悲しき」という和泉式部の和歌を引用した。彼女が熊野に詣でたのに、月経になり参拝させてもらえなかった時によんだ歌だ。よんで寝た夜の夢で神からのお告げがあった。「もとよりもちりにまじはる神なれば月のさはりも何かくるしき」という歌によるお告げである。この歌は風雅集の神祇の部にある*1

 宣長は「これいたく道の意にかなわず」とおこっている。「塵にまじわる」などというのは、中国の『老子』に和光同塵ということがあるのを取って言い出た「みだりごと」だ。和泉式部も法師の言うことばかりいつも聞いていて仏心が心に染みついているからそんな夢をみるのだ、と。

 しかし考えて見ると月経が罪であるとして、親鸞やイエスが教えたように罪人の傍らにこそ立つのが宗教の立場であろう。<和光同塵>というのはイデオロギー的に拡大すると問題もあるだろう。だがとりあえず「神祇」の部の歌については、宣長に反対し断固支持したい。

*1:本居宣長『玉勝間』p56 日本思想体系40

日本民族の特殊な使命

高山岩男にも良いところはあった。

「従来の世界史における世界の構造は、……中心と周辺との支配隷属関係であった。かかる世界の構造は変えられなければならぬ。真実の世界の構造は一が多を統一し、多が一に帰属する関係ではなく、多がそれぞれ独立しつつ一である如き構造でなければならぬ。……欧羅巴的世界から世界的世界への過渡が現代史の課題であり、(高山)」*1

ここから導かれるのは、徐寅植が言うように、「個体が個体として独立しながらそのまま全体となることができる構造をもった世界である。」つまり、従来の世界史を覆そうとする大波の中心が日本民族でなければならぬ、というたまたま時流とシンクロした高山の信念と切り離して、「一即多、多即一」世界観を評価することもできるのだ。

「高山の擁護する<世界史>の多元性は、つまるところ、西洋中心主義に対してアジア大陸の諸民族を統合しようとする日本中心主義に置き換えられている。日中戦争以来の京都学派の言説は、西洋中心の近代文化をのりこえるべき東洋文化の本質を「絶対無」の世界として論証し、東洋を代表すべき日本民族の特殊な使命を必然化していたのである。(趙寛子)*2

 戦後派としてこの文章を読むと、「絶対無」のところに「絶対平和」を入れ替えて読んでしまうという誘惑を抑えがたい。戦争に完敗し、全面的に西欧の論理(平和の敵である日本)を受け入れたわけであるが、無に立脚する京都学派はこたえない。戦争の論理を棄て、非武装の日本を世界に主張することが、「西洋中心の近代文化をのりこえるべき東洋文化の本質を「絶対無」の世界として論証し、東洋を代表すべき日本民族の特殊な使命を必然化」することにほかならない訳だから。

*1:「徐寅植の歴史哲学」思想2004・1月号p38 べつにここから引く必要もないのだが

*2:同上p39

象徴天皇制の終わり

(1)

 9月号の『現代思想』(特集 家族とは何か)で関曠野氏が、「皇太子が言つたこと  一つの注釈」という文章を書いている。5月にあった皇太子発言については、わたしも http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040511#p1

でふれました。関氏の文章の冒頭と結びの部分を引用して考えてみたい。

(冒頭) 徳仁皇太子は去る五月の訪欧を控えた記者会見の場で雅子妃の病状に関連して「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったのも事実です」と、皇室の一員としては異例の発言をした。天皇制という問題がまともに論じられなくなって久しいこの国では、世論はこの発言に戸惑うばかりのように見える。皇太子の発言は、宮内庁という世界にも類のない妖怪的官庁を批判したものと受けとれるが、そのあたりの事情をここで詮索するつもりはない。皇太子が言及した雅子妃の窮境は、これまでにも外部に薄々知られていたことだ。我々を驚かせるのは発言の内容ではなく、いずれは皇位を継承する人物が記者会見という公的な場で妻の自由と幸福に責任をもつ「たんなる夫」として発言したことである。皇室の歴史においてこのようなことはあったろうか。一見会見の場で口にした片言隻句にみえても、私見では皇太子の発言は敗戦直後の昭和天皇の人間宣言に比較して人格宣言と呼ばれてもいいものである。天皇制が今後も形の上では存続するとしても、これで戦後の天皇制は終わった。このことを以下一連の注釈で明らかにしたい。

 本人がどこまで意識していたかは別にして、皇太子の発言は「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により維持されねばならない」という憲法二四条なしには考えられない。そしてこの二四条が日本国憲法に明記されたのは、必ずしもGHQの総意によるのではなく、GHQに勤務するうら若いユダヤ系の女性ベアテ・シロタ・ゴードンの創意と努力の賜物だったことはよく知られている。ピアニストの父と共に少女時代を戦前の日本で過ごし日本の女性の無権利状態をつぶさに見聞きしていたことが、シロタの使命感を燃え立たせた。二四条の文言は、旧ソ連憲法(これは美辞麗句の傑作である)とワイマール憲法を参考にしたという。しかし二四条が表明している思想には、さらに古い来歴がある

(結び)

 しかし人間宣言や民間人との結婚は、皇室の転換点として一度なされてしまえばそれで終わりの出来事である。徳仁皇太子の場合は、本人の意向はどうであれ初めから市民結婚をするしかなかった。そして外交官としてのキャリアの延長線上で皇太子との結婚を選んだとされる雅子妃にも、雲の上に引きあげてもらったという意識は全くないに違いない。そして二人の結婚が否定しがたく市民的なものである以上、二人に究極の国家に統合された家族を演じさせようとする宮内庁という醜怪な振付師との間に当然あつれきが生じてくる。宮内庁に抗して自分の結婚が市民結婚であったことを確認している皇太子は、皇族の身分に制約されたがゆえの一周遅れのトップランナーなのかもしれない。しかしその結果として彼の抗議は、思わぬ形で憲法二四条を改めて喚起し、この条文を骨抜きにしてきた戦後日本の家族の歴史を問いただす効果を生んだ。

 マッカーサー御手製の象徴天皇制は、天皇を唯の人にしながら同時に天皇が引きずる国家神道の残像を利用しようとした矛盾した試みであり、こうした試みには耐用年数がある。かくて徳仁皇太子は公の場でたんなる夫として発言し、たんなる人間なればこそ皇族にも人格があることを確認したのである。このささやかな出来事をもって戦後の象徴天皇制は終わった。そしてへーゲル的、倫理(ジッテ)としては死んだものが、外形的な制度としては今後とも長期的に存続しうるとは考えにくい。してみれば憲法調査会などがだらだらと下らぬ議論を重ねている間に、歴史は意表をつく転回によって我々に共和制の採用を強要するかもしれない。(3行略)

(2)

 関氏は、徳仁氏の発言が憲法24条(両性の合意のみによる婚姻)という思想に立脚していると論じる。この思想は「結婚の双方の当事者は神の前で平等であり、双方の自由な同意に基づく結婚だけが正当とされる」という中世欧羅巴のキリスト教の信条に由来する。そして実は「自由意志による結婚契約」が先にあり、それをモデルとして「自由意志による契約」という思想が広がり社会契約論に繋がっていく。「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立する」とは、国家や共同体の曖昧な意志の外側にでも二人の意志一致さえあれば極小の共同体を成立させえることを告げている。「既存の社会構造から相対的に自由な形で誕生する」結婚契約型の家族に依拠することで、絶対君主制に対するロックのラディカルな批判は可能になった。*1ところで、ヘーゲルのアンティゴネー論においても国家から相対的に独立した領域としての家族が現れる。しかし関氏によれば、ロックにおける家族の自然法的自由という論理は、ヘーゲルにおいては“家族という領域に固有の宗教”に貶められてしまった。*2 即ち国家に統合されるべきものとしての家族がヘーゲルにおいては強調されることになる。そして明治41年の皇室令以来人間宣言を経て現在まで、そうしたヘーゲル的家族を国民のお手本として示す最適なモデルとして近代の皇室は機能してきた。歴史をこのように考えるかぎり、徳仁氏発言は、ヘーゲル的家族から家族の自由(ロック)の思想への回帰(前進)を告げるものである。「このささやかな出来事をもって戦後の象徴天皇制は終わった。」というのは決して大袈裟な修辞ではない。

(3)

しかしである、論旨をはっきりさせるために省いた3行で関氏の文章は閉じられていた。ここで引用すれば次の通り。「しかし共和国の創設には、共和制的家族という習俗上の確固たる基盤が必要である。今の日本にそうした基盤がどこまで広く深く存在しているだろうか。私はきわめて懐疑的である。」

ヘーゲル的家族か(ここでいう)ロック的家族かという差異は具体的にはどのようなことか。いわゆるダンナが*3会社人間で過労死寸前まで働き続けているとする、妻はなぜ止めないのか?それは、働くことは会社という共同体への忠誠であるという共同体主義を拒否できていないというレベルを示していよう。わたしたちの現実はそうしたレベルを越えているとは決して言えない、と関氏は判断している。わたしもそう思う。

 そうした問題に最もシビアな認識を示すのがフェミニストだろう。フェミニストは、家族の自由とか、対幻想とかしゃらくせえことをいうんじゃねえ!と怒る。家族が美化されることによる付けは、すべて女性だけが支払わせられることを知っているからだ。(まあそれはもっともなのだが) というわけでフェミニスト岡野八代はいっぱいの不安を押し殺しながら書く。「「家族」は、わたしたちが自分を生き抜くために、「とりあえず」は自分の欲望は自分のものであると、自認できる存在となる「なる」ために、その形を変えながらも、わたしたちが必要としているひととひとの結びつきではないだろうか。」*4

自分の欲望は自分のものであると自認すること、には二つ(以上の)の意味がある。一つは消費主体としてや国家の構成員としての既成社会から与えられた欲望を自らのものとすること。もう一つは他者の欲望やことばがうずまくなかで、与えられた欲望から微妙にずれていく自らの欲望に言葉を与えていくという希望である。雅子さんの「皇族としてであっても外交官としての仕事を継続する」という希望は、なんだか変だと言えば変なものなのだが、逆に言えば、わたしたちこそ雅子さんたちの企みに学ばなければならないのではないか。少なくとも彼女たちは企みを必要とするほど追いつめられていた。

(追記)「おとなり日記」といっても全然おとなりじゃない場合が多いのだが、お隣で知ったoffer-57さんの文章には(テーマが同じだけじゃなく)とても親近感を感じたので引用させてもらいます。この部分はユーモラスな口調が面白い。

http://d.hatena.ne.jp/offer-57/20040905

 ようよう、浩宮よ、お前さんも男ならここで引き下がってはいけないよ。

 浩宮よ、お前さんこそ嫌がる彼女を無理無理天皇家に引き入れた張本人だし、惚れた大事な嫁さんを守るためここは、自分が天皇家から出るぐらいの覚悟で、あるいはそれをカタに天皇家=宮内庁=内閣を相手に現在の皇室外交のあり方を、自分達が(というより雅子妃が)考える外交に一切口出しをしないという約束、大幅な譲歩引き出すぐらいの大芝居を打つ覚悟がなければ、恋女房に逃げられるよ、逃げないまでもこの先、少なくとも嫁さんに同衾はしてもらえないだろうナァ。

*1:同書p75

*2:同書p78

*3:この表現自体が変だが

*4:同書p130「家族の両義性」岡野八代