向かへゐて千代も八千代も見てしがな空行く月のこととはずとも
(貞信尼)
向かへゐて千代も八千代も見てしがな空行く月のこととはずとも
(貞信尼)
コリン・コバヤシ氏からの転送。
http://www.asiavoice.net/nkorea/ の5月23日より
kazhik氏の論説の一部
周辺諸国が積極的に北朝鮮を支える状況になってきたことで、金正日体制の危機は過去のものになりつつある。その一方で、強制収容所や「出身成分」制度に象徴される北朝鮮の深刻な人権状況はなんら改善されていない。中国にいる脱北難民は放置されたままで、支援団体の活動もままならない状況になっている。そして今回、新たに日本の拉致被害者も切り捨てられることになった。曽我さんのケースは先行き不透明、安否不明の拉致被害者の問題は事実上の棚上げだ。
東北アジアの平和は人権と民主主義に基づくものでなければならない。しかし現在確定されようとしているのは単なる現状維持、人権侵害の現状維持でしかない。このような「平和」をいったい誰が支持できるのか。
高島元洋『山崎闇斎 日本朱子学と垂加神道』isbn:4831505439 からちょっと引用して見よう。
しかし大雑把な言い方をすれば神道の歴史ば、共同体の個々の神々と、この限定を超えて普遍化する方向にある神観念との対立の歴史である。前者の神を共同体の「八百万神、後者の神を普遍的な「一神」と、今は単純に置き換えておくと、神道の流れは、「八百万神」から「一神」へと重点を移して展開すると考えられる。むろん、「八百万神」と「一神」の間題は、記紀の神々の系譜が示すように神道の歴史の最初からあり、そこでの「一神」の意味はさまざまな共同体を一つに結合するところにあった。「一神」は、「八百万神」をそのまま結合して成立していたわけであるが、このような事態がおそらく中世から近世にかけて変化する。すなわち「一神」はさらにこの「八百万神」の個性を吸収すべく機能する。つまりそれぞれの共同体は、外部に対して持っていた独自の殻のようなものを徐々に失い、同時に内部の統合を弱め、そこで自由になる個々の成員は、共同体に代わる新たな秩序を人倫に求めることになる。
共同体の神は「八百万神」で祭祀によって支えられるが、人倫における神は「一神」であり、祭祀というよりはむしろ日常倫理が重要なものとなる。こうして「八百万神」から「一神」へと重点が移ってゆくわけであるが、これはまた「神」観念そのものの変化でもある。つまり共同体の神とは、本来畏怖すべき何ものかであり、その圧倒する力において共同体を加護しこの成員を統合する。ここで個々人は基本的に共同体の成員としてのみ神に関与する。
これを変化せしめるのが、個々人が私的に神を求める私祈祷の現象である。言うまでもなく個々人の願望は、共同体の願望ではない。この二種類の願望のずれたところに「一神」の観念が発達する理由がある。願望は、神の加護を求める。そして共同体の願望からはずれた私的な願望は、神に加護だけを求める。すなわち「神」は、共同体という限定された空間を磁場にして働く畏怖と加護の二重の力であったが、「一神」へと抽象化されることで畏怖の性格が弱くなり、加護するだけの力となる。「八百万神」が個性を失って「一神」に吸収されるということは、かくて「神」観念が変質することであるが、実はこの過程に「神人一体」説が成長する。神は加護するだけの力で、人の願望に応えて人に宿る。神は容易に人の接近し得るものとなり、神は誰にでも宿り、誰でも神になり得ると捉えられる。こうしてここに「神人一体」の考え方が生まれるわけであった。「神人一体」説の背後に共同体からずれた私的な願望の問題がある。つまり、「神人一体」説は日本の古来からの宗教的土壌であるシャーマニズムに成立するものであるが、通常のシャーマニズムと異なる点は共同体の意志に結びつくか否かということであった。*1
ここで語られているのは簡単なことだ。八百万の神の時代とはひとが共同体の成員として自足していた時代であり、ひとは祭祀を通して畏怖すべき神に加護を求めた。近世になって共同体のたがが緩み、個々の共同体を越えた「一神」が求められ「神人一体説」が出る、それは神道の倫理化でもある。ここで面白いのは、わたしの内に神があれば、わたしについてはそれで終わりで社会や祭祀など超越した存在になりうるのではないかという問いが発生するだろうという点である。実際にそれに近いひとはいたらしい。話が一挙にドストエフスキー的になる。実際ドストエフスキーの投げかけた無神論云々の問題は見かけと違って近代的問題ではないのだろう。同書p575から孫引きする。
問曰く、心は神明の舎なれば一心の外に神はなしといへば、祭などと云事も無用の事、迷の者のする事也と云人あり。いかに。
答曰く、心の外に神なしとは、心の理の外に異なる神はなしとの事なり。灯をさして此の火の外に火はなしと云たるに同じ。さりとていづかたにも火なき事あらんや。此火にちがひ又異なる火と云物はなきとなり。あしく心得て宗廟社稷の神はなきものなり、祭祀もいたづら事なりなどいふやからは、一心の量をせばく見て一向偏見のものなり。灯を見て火と云ものは、是ばかりにて国土に火ともしたる所はあらじとおもふにひとし。又外に神ありとのみ心得て本心をわすれたる人は、余所の宝を羨み尊ぶに同じ。何の益なき事なり。其上神明の教にもそむくものなり。よく工夫すべし。*2
(1)
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040905 に対する、
hippieさんのだいぶ前のコメントに返事していませんでした(忘れていたわけではないのだが)。hippieさんは岡野氏の「「家族」は、わたしたちが自分を生き抜くために、「とりあえず」は自分の欲望は自分のものであると、自認できる存在となる「なる」ために、その形を変えながらも、わたしたちが必要としているひととひとの結びつきではないだろうか。」という文章に反論しています。
# hippie 『岡野さんの家族についての「わたしたちが必要としているひととひとの結びつき」という認識は私には乗れないです。甘すぎるよ。(略)』
ここで岡野氏とhippieさんとの差異は、家族に「」がついているかついていないかにあります。
岡野氏の使う「家族」とは、狭義のそれに対し範囲を少し拡大して考えるといった安易なものではない。
(2)「家族」の「 」について
岡野さんの『家族の両義性』という文章から要点だけ抜き書きしてみよう。
「公的領域においてひとは「ことばを理解する動物」で「ポリス的動物」であることが前提とされている。*1」思えばhippieさんとわたしとの間にもひとは憲法の条文を論じ合うことによりそれを改正していくことができるという前提があったはずだ。(RESが遅れたのは申し訳ない。)
「だが、そもそもどうしたらわたしたちは、そうした動物に「なることができるのか」。」
「ことばの選びによって初めて表現される自分を生きていくことができるということは、ひととしての前提というよりも、ひとと「なる」プロセスであると同時に、そうしたプロセスの結果でもある。」
「もちろんことばだけに限定されるわけではないのだが、さまざまな記号を使用することによって、自分の輪郭を描きだし、他者とは異なる存在として自分を生きるように「なる」ことは、わたしたち一人ひとりの経験から考えてみても、自然発生的にひとりの力でなし得るような営みではないはずだ。そして、わたしたちは、いかなる形態をとるのであれ、「家族」というユニットを、そうしたプロセスを通じてひとと「なっていく」場として、尊重してきたのではなかっただろうか。」
「わたしたちが自分を生き抜くために、「とりあえず」は自分の欲望は自分のものであると、自認できる存在となる「なる」ために」も、とりあえず、言葉を獲得していくプロセスは必要である。そのために「そのプロセスを見守ってくれる、すでに自分の欲望を言葉で分節化できる他者」に依存するという関係が必要である。
岡野氏の文章は言葉や情念が未成立な混沌からかろうじてそれらを成立させようとする現場に立とうとしており、まわりくどい文体になっている。
(3)
それに対し、hippieさんは「わたしたちが必要としているひととひとの結びつき」とフレーズの持つ“甘さ”を問題にする。家族イメージを甘やかなイメージで飾り立てることにより「家族制度」というものが延命し存在してきた事実、それをイデオロギー的に糾弾するというスタンスに立っている。
しかし糾弾とは原点に戻って考えてみると、自己身体の分節化出来ない叫びに根拠をおくものではないのか。そのとき、それが私でないとしても、不定形で不安定で泣き叫ぶしかない存在(存在未満)であるところの乳幼児からの声を、目の前に存在しないからといって無視するのはおかしい。
現実というものを、差別の複雑な交錯として考えることは可能だ。だがそれに還元することはできない。誰にも(何にも)支配されない自由な時間をも私たちは持っている。その意識自体が既成のいくつかのイデオロギーに染められているとしても。子供は還元不可能性の喩でもある。
『こういうことを言うのならせめて主語を「わたしたち」ではなく「わたし」にして書いて欲しいです。』hippieさんには前提の混同があるようだ。ある人の人生において子供を持つかどうかは彼女/彼の自由だ。しかし現在、家族というものを考えるとき、「子育て」というテーマをは不可欠のものだ。また逆に、「子育て」を「家族」なしに行う試みも成功していない。もちろん施設で育つ子供たちもいるのだが、そっちがメインにはなりそうもない。というか、その場合でも(切実に)「必要としているひととひととの結びつき」がなければ子供は、自立した自由な主体になりえない、と岡野氏は論じているわけである。したがってその断言をくつがえしえなければ、「甘すぎるよ」はただの感情的放言になる。
「子育て」の問題を考察しないで「家族」の本質をぐいっとつかんで、論じることはできない。
関連野原表現:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040706#p1
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040905#p1
*1:p128・『現代思想』
よくわからいのでとりあえずリンクしておこう。
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20041103 はてなダイアリー – 弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」
「n人の囚人に, 赤の帽子 n個と 白の帽子(n-1)個の場合 — 練習問題」
を考える。分かったらすぐに手を挙げるルール。
表記が繁雑になるので 10人の囚人に, 赤の帽子 10個と 白の帽子9個の場合を考える。
1a)Aさんが、白の帽子9個を見る>(白はそれ以上ないので)自分は赤だと分かる。
1b)手が挙がらない場合>>「白=9」ではなかったことが、全員に分かる。
(ここまでで1分掛かるとする)
2a)Aさんが、白の帽子8個を見る>(白はそれ以上ないので)自分は赤だと分かる。
2b)手が挙がらない場合>>「白=8」ではなかったことが、全員に分かる。
(ここまでで2分掛かる)
3a)Aさんが、白の帽子7個を見る>(白はそれ以上ないので)自分は赤だと分かる。
3b)手が挙がらない場合>>「白=7」ではなかったことが、全員に分かる。
(ここまでで3分掛かる)
4a)Aさんが、白の帽子6個を見る>(白はそれ以上ないので)自分は赤だと分かる。
4b)手が挙がらない場合>>「白=6」ではなかったことが、全員に分かる。
(ここまでで4分掛かる)
という風に順に進んでいき、10分間手が挙がらなかったら、「全員が赤だ」と判断できることになります。
ところが、実際には推理し手を挙げるまでの時間は人により異なっているので、上記のように同期をとることができません。
任意の瞬間に手を挙げても良いのではなく、
1分ごとに「分からない/分かった」の旗を同時に挙げる、とルールを改正すれば、この問題点は解決します。
id:noharra:20041113#p3 の(その1)の問題では、
少なくともちょっとの時間、3人が黙って考えていて手を挙げなかったことになっています。「賢者」であることがことさらに強調されているので、その間に、(2b)まで進むことができただろう、と考えることもできます。その場合、「全員赤」になります。
「Aに聞き、次にBに聞き」というストーリーの設定はこの問題には馴染まないということだろうか。
概念集・3からは最初の部分、松下がめずらしくゲーテを引用している部分から引こう。*1
ゲーテの「ファウスト」第一部で、メフィストフェレスが次のようにいう。
「概念が欠けている正にその場所に、言葉が丁度よい時に姿を現わす。論争も体系の構築も信仰も、言葉があるからこそ可能なのだ。…このような役割の言葉からは、表現された形態の微小な部分でさえも変更することはできない。」
この箇所は、前から気になっていた。さまざまの人がこの箇所を論じているが、どの翻訳や解釈にも納得しがたいので、あらためて原文で確認し、試訳してみた。久し振りにこのような作業をする気になった理由は、納得しがたさからというよりは、私たちの情況にとって、生きていくのに不可欠な概念が欠けて久しいのに、概念ないし、その欠如を指し示す言葉はなかなか現われず、いくらか姿を見せても、不安定にゆらめいたり、消滅したりする場合が殆どである事態への関心からであろう。
(『松下昇 概念集・3』p1 より)
わたしは、わたしが生きていくのに不可欠な概念の欠如に苦しんでいるか、といえばそうは言えないようだ。概念であれ言葉であれ、それが不在であることに気付くことがまっず、なかなかできないことだろう。でもそうした事態に興味があるのでとりあえず断片的引用をしておきます。
*1:松下昇は、ハイネやブレヒトを研究するドイツ文学者から出発した。