北野勇作 ささやかな日常?

北野勇作はわたしが知らなかっただけで有名人のようだ。最近は『人面町四丁目』という新作も出たようでリンクも多い。そのうち下記が丁寧に批評していた。

http://d.hatena.ne.jp/marron555/20040712#p1(風街まろんさん)

いままでのSFは青春小説だった、「状況を動かすことへの主体的な意志や、逆に世界に関わることの不可能性に対する絶望を描く」。それに対し「北野勇作のSFはその正反対にある。大状況がどんなに揺るごうとも、個人の力がどんなに無力であろうとも、ささやかな場所を得てささやかな日常を生きるスタンスは揺るがない。」「いわば中年小説」とのこと。

なるほど。これはSFというより小説一般、いやむしろ現在の青春の不可能性そのものに関わる問題だ。いや「青春の不可能性」をテーマにしてしまえば青春小説になる。不可能性をその主観的形態「絶望」において描こうとするのが従来の小説であったとすれば、そうではない形態(ゲーデル的とでも言っておこうか)で描こうとするのが北野SFかもしれない。

モルデハイ・バヌヌ

オノ・ヨーコがジャーナリストのシーモア・ハーシュとイスラエルの核の内部告発者のモルデハイ・バヌヌに平和助成金を授与した。(ニューヨーク) 

パトリオティスム

吾人の観たる多くの偉人は何物よりも故郷を愛するの念強かりしが如し。*1

故郷(パトリ)も愛せないくせに、「日本国及び国民の誇り」なんて言ってんじゃねえぞ。>プチウヨ

*1:中里介山『中江藤樹言行録』内外出版協会p26

糾弾は関係を切断する?

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041020#p2 はてなダイアリー – +   駝  鳥    + については上に触れたが、スワンさんからコメントがあったのでもう一度考えてみた。

歴史的判決というべき04年10月15日に、水俣病を語るブログや2chの言論が閑散としていた状況は、そうしたジレンマから私たちの意識が完全に自由であったことを意味するだろう。郵貯が何に使われているかなんて猪瀬直樹が日本国の研究を書く以前は誰も関心をもたなかった。最近はずいぶん情報の風通しがよくなったが、それでもチッソの賠償金倒産を食い止めるために国や県が財投を通じて金融支援をしており、その原資が私たちの預金や郵貯であることを知る人は少ない。

そのことは全く知りませんでした。70年代に大きく報道され三里塚とならぶ社会運動の拠点ともなっていた<水俣>がその後どのように継続していたのかについても全く知らず*1、今回の判決もわたしにとって突然だったので受け止めかねました。

ただ、難癖を付けるような読み方をすると、ジレンマから自由であることはむしろ「チッソが悪い」と言う(書く)事につながるはずでネットが閑散としてたことには繋がらないように思う。

チッソは68年まで排水をやめなかったし、国もやめさせなかった。チッソが悪い、国が悪いというのは簡単だ。

「イスラエルの残虐」については日本のテレビでも一定は報道されている。ところが(スワンさんは例外として)「イスラエルが悪い」という素直な感想はhatenaでは(一定はあるが)それほどない。*2

「イスラエルが悪い」と思うのは簡単でも、言うのは簡単ではない、ということのようだ。それと同じように「チッソが悪い」、というのは実は簡単ではないのではないか。

「私たちもまた、加害性を抱えながら果実を手にしてきた。」黙っている人たちは発言すればジレンマに向きあわなければならないことを(どこかで瞬時に)察知したからこそ黙っているのではないか。

 チッソにせよ戦争責任にせよ私たちを困惑させてしまうジレンマと向き合い続けることでそれを乗り越えていくしかないと、スワンさんはおっしゃっているのだと思います。(違いますか?)わたしもそう思います。

 差異は糾弾というスタイルに対する好悪にあります。

ある日本人がステロタイプな殺人鬼だったこと、それは日本人には見たくない、(ともすれば)見ることができない事実である以上、殺人鬼という画像を突きつけるという行為はまず何度でも行わなければならない、とわたしは考える。しかしスワンさんは糾弾することは、世代間の連続性を切断することになると捉える。「加害者とのコミュニケーションが切断されているだけで、殺人鬼のイメージをふくらますことは非常に簡単なことは私たちは日常的に経験していることだ。」

これは難しい問題だが大事なことなので、上手く書くことはできなかったがもう一度書いてみた。

*1:石牟礼道子さんに対する美学的敬意だけはかろうじて継続しつつ

*2:スワンさんは、http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041019#p2 でも書かれています。

たすけがくるまで待っていた

 ヴァジニア・ハミルトンの『マイ ゴースト アンクル』島式子訳原生林 という本を読んだ。(原題は「Sweet whispers,Brother Rush」)大傑作だ。障害を持った弟と二人で暮らしている貧しい黒人の少女が幽霊を見る話。(お母さんは1、2週間に1度くらいしか帰ってこない)ヤングアダルトものだがジャンルを越えた力を持っている。幽霊はブラザー叔父さん。叔父さんのあまりのかっこよさに主人公(ツリー)の少女は引きつけられる。彼女が幽霊を見るのはもちろん、彼女が生きている現実が苛酷すぎて、別の現実(彼女がかろうじて知っているのは彼女の幼児時代とそのとき格好良かった叔父さんだけだ、彼女は父のことを知らず、遠慮して母にそのことを聞くことさえできない)をどうしても必要としたからだ。すべてのファンタジーはそうした世界を裏返さずにはおかない呪詛を隠しているはずだが、この小説のようにそのベクトルを露わにしつつなお小説としてみごとに成功しているものは希だろう。「黒人特有の致死の遺伝病・ポーフィリア」なんて聞いたらそりゃいくらなんでも露骨すぎる道具立て!と思うかもしれにないが、そんなことないんだな。

 赤木さんもこういっています。「物語としても文学としても、第一級の逸品です。(赤木かん子)」http://www.hico.jp/sakuhinn/7ma/my02.htm

ボストングローブ・ホーンブック賞1983年など。

ただ現在入手不可かな。わたしは古本屋で百円でゲット。

釜ヶ崎、稲垣さん不当逮捕事件

先日、AJさんから釜ヶ崎炊き出しの会の機関紙「絆通信・号外」の写しを送ってもらった。

その会の代表の稲垣さんという方が、12月20日不当逮捕されたという。

不当な事後逮捕という点では、id:noharra:20040228#p5で触れた「立川市の自衛隊官舎ビラ入れに対する逮捕」に似ている。だがネットではそれに比べると、ほとんど言及されていないと言える。そこでここに(も)ちょっと紹介してみよう。

紹介がないと言ったが全くないわけではなく、下記のアート系掲示板では紹介されている。そこで一部そこからお借りしつつ要約してみる。

1.11月25日西成警察署で二人の労働者が暴行を受けた。

http://www.009net.com/tlo/bbs/apeboard.cgi TLO BBS

まず11/25夜に、西成市民館の前でKさんとその場で知り合ったAさんとのあいだにちょっとした金銭トラブルが起こり、通りがかりのIさんが間に入り解決しようとしたが、らちが明かないため、「それなら警察へ行って話をつけよう」ということになり3人で目の前にある西成警察署の一階受け付けにいきました。

出て来た私服警官がKさんを階段、Iさんをエレベーターでそれぞれ上にあげ、別々の取り調べ室に入れました。そしてKさんは、目にいきなりスプレーを吹き掛けられました。痛くて目が開かない状態のなかで、踏まれ、蹴られ、靴等で頭をたたかれ、逆エビ固めをされ、全身打撲を負い、本人の記憶にないままに調書をとられ、指印を押したということです。

一方、Iさんもやはり取り調べ室に入れられたとたんに倒され、踏んだり蹴ったりされました。私服警官が同乗の救急車で杏林病院に運ばれ治療を受けました。全身打撲、左の眉毛の上と額を合わせて6針も縫う怪我でした。右の頬には私服警官に踏まれた靴のあとが残っていました。

2.この件で相談を受けた稲垣さんを中心に、西成署への抗議行動が行われた。

 西成署への抗議行動は、12月2日から5日まで連続4日間行われました。「暴行をはたらいた警察官は本人に謝罪せよ」というものです。初日から多くの釜ヶ崎の労働者が西成署前に集まり、事実経過をマイクで話す稲垣さんの説明に聞き入りました。時間と共に抗議に参加する労働者は増え、一時騒然となりました。稲垣さんはマイクを握って「手を出したらあかんよ、殴ったり蹴ったりしたら西成署の暴力と一緒になる」と声を張り上げ、混乱の収拾に努めていましたが、その混乱の中で一人の労働者がケガをしたのです。このケガについて、西成署は「稲垣が教唆した傷害事件」だと言うのです。

「絆通信・号外」より

3.

12/20に「稲垣浩が暴行を扇動した」として稲垣さんを逮捕しました。

労働者Aさんも、その労働者にケガをさせた一人だとして逮捕された。

4.

12/28に大阪地方裁判所で稲垣氏の勾留理由開示公判があった。

裁判所は警察の言い分をそのまま採用した。

5.

「2人に対するまったく不当な逮捕ですが、大阪府警と西成署は「メンツ」にかけて起訴に持ち込むものと予想されます。」

「家宅捜査で押収されたものが、西成署で暴行を受けた労働者の診断書やその時聞き取ったメモ類だった」ということからも、この逮捕の第一の目的は「1」に書いた【警察が市民を暴行した】という犯罪をないものにしようとすることだと思われる。

わたしたちが注目しなければ、彼らが敗北するのは間違いない。だいたい彼らはボランティアであり彼らを抑圧することは私たちにとってメリットはなくデメリットだと思われます。

法と正義

id:noharra:20050123 に N・Bさんからコメントいただいた。

1/23は長くなり過ぎなので、こちらに再掲しお返事します。

# N・B

「はじめまして」

『 どうも、ちょっと「法と正義」の問題について思ったのですが、「正義」は論理的根拠としてではなく遂行的に現れるとすると、これは案外おおやさんの立場と近いのではないでしょうか?梶さんの議論は梶さん自身の関心においては彼の「正義」を示していると思います(私はある程度それを認めますし正当だとも感じます)。お二人の言説は「責任のインフレーション」(北田暁大)という事態が思わぬ反動的効果を現すということの現われとしても指摘としてもきちんと検討すべきではないかと思います。

 現在の状況は私は最も近くの権力への服従という結果がもたらされるとい

う意味で、政治的ロマン主義(それにシュミット自身)の帰結が参考になるのではと思います。ただ前提として、かつてドイツでそうっだったように自覚的思想のレベルではともかく、梶さんやおおやさんと「共有してしまっている」何かがあるのではないでしょうか?それが歴史からの反省ではないでしょうか。お二人の言説は政治的立場はある程度違っても「現実主義」という流行の罵倒語でくくれると思います、お二人が「専門家」として語ることはその現われと思います。しかし「現実主義」が勝利してしまう理由のきちんとした解明とそれに対抗する手段を私たち(失礼!)が持たないのも確かだと思います。先に出した北田さんの「責任と正義」はそういう状況に対する打開の試みと思います。ライブラリ相関社会科学の最新号(すいません未見です)などにかかれている思想史家の議論もそういう意味で参考になるのではと思います。どうも釈迦に説法のようですが、すいません。失礼します。』